第10部 『藍色の記憶』

プロローグ

第284話 プロローグ

「う~ん……」


 両腕を蒼い空へと上げ、少女は大きく背筋を伸ばした。

 次いで軽く肩を回す。コキンという音が鳴った。


「……はは」


 普段は滅多に聞かない音に、少女は乾いた笑みを見せる。

 ここ一週間ほどは、テスト勉強や訓練などで根を詰めることも多かったので、多少の肩こりも仕方がないか。

 そう考え、彼女はもう一度だけ肩を解すと、そのまま自分の長い髪をかき上げた。


 ――彼女の名はアリシア=エイシス。


 年齢は十七歳。絹糸のような栗色の長い髪と、切れ長の蒼い瞳。美麗な顔立ちは可愛さよりも綺麗さは際立っており、最近街でやたらと男に言い寄られることが多くなって本気で困っているのが悩みの少女だ。

 ドレスがよく似合いそうなスレンダーな肢体には、中央に赤の太いラインを引いた橙色の騎士服――アティス王国騎士学校の制服を纏っており、彼女は農家と田畑ぐらいしか見当たらない牧歌的な街外れを二人で歩いていた。


「あはは」


 その時、アリシアと並んで歩くもう一人の少女が笑った。


「アリシアが肩こりって珍しいね」


 ――彼女の名はサーシャ=フラム。


 年齢はアリシアと同じく十七歳。温和な顔立ちに、優しさを宿す琥珀の瞳を持ち、肩まで伸ばした《星神》のハーフの証である銀の髪が美しい――アリシアと対照的ではあるが勝るとも劣らない美少女だった。


「……ええ。そうね」


 アリシアはジト目でサーシャを睨み付けた。


「どうせ私は肩こりとは無縁よ。かく言うサーシャは万年肩こりでしょうけどね」


 言って、視線をサーシャの胸元に落とす。

 アリシアのクラスメートであり、幼馴染でもあるサーシャは今、アリシアと同じく騎士学校の制服を着ていた。

 ただ、二つほど違う点もある。

 一つ目は、サーシャは制服の上に鎧を纏っていた。

 短い外套のついた女性的なフォルムのブレストプレートを装着し、左手には愛用のヘルムを抱えていた。今時こんな武装をする人間はいないので何度かやめてはどうかと忠告しているのだが、これだけは決して譲らないサーシャのアイデンティティだ。


 そしてもう一つは――。


(……むう)


 アリシアのジト目に嫉妬と羨望と嘆きが入り交じってくる。

 ブレストプレートで堅固に秘匿されているが、この鎧の下には女性ならば誰もが羨むぐらいのたわわな実りがあるのだ。

 アリシアとの、実に大きな相違点であった。


「え、えっと。ア、アリシア……?」


 サーシャが盛大に頬を強張らせた。


「な、何となく言いたいことは分かるけど、その、大きいのも大変なんだよ?」


「あら? そうかしら?」


 アシリアはサーシャの意見を鼻で笑った。


「確かに昔はそうだったかもね。鎧機兵を動かすには邪魔だし、歩くだけで異性からも注目されるし、サーシャがアランおじさまのお古の鎧を着ていたのも胸の大きさを隠すためでもあったしね。けどね。サーシャ」


 アリシアは眼光を鋭くした。


「今のあなたは違うでしょう。クライン工房でアッシュさんの講習を受ける時なんて、いつもそのブレストプレートを外しているじゃない。学校だと滅多に外さないのにね。ねぇサーシャ。アッシュさんが大きいのが好みって聞いた時、あなた、密かにガッツポーズを取ったんじゃない?」


「うッ!」


 完全に見抜かれ、サーシャは言葉を詰まらせた。

 アリシアはその場で足を止めて、深々と嘆息する。


「やっぱりね。嗚呼、あの純粋無垢だった幼馴染がこんな露骨な策略に走るなんて私は悲しいわ。まぁ何度かおっぱいを押しつけようとして、結局躊躇って不発に終わることも多いところはサーシャらしいけど」


「ううゥ……」


 サーシャもまた足を止めると、羞恥で顔を真っ赤に染めた。

 が、すぐにブンブンと頭を振ると、


「い、いいの!」


 赤い顔のまま言い切った。


「わ、私は一番になるって決めたから! だ、だから頑張らないと!」


 それに対し、アリシアもまた頬を朱に染める。


「い、一番って……」


 そして大きく息を吐き出してから、幼馴染に確認する。


「あ、あのねサーシャ。あの時の宣言って本気なの?」


 それはとある遺跡都市で告げられたサーシャの――いや、サーシャも含めた三人の少女達の宣言。彼女達の将来まで見据えた、とんでもない宣言だった。

 アリシアはその宣言を前にして、完全に尻込みしていた。


「サーシャ。冷静に考えてね」アリシアは恐る恐る言葉を続ける。「確かに法律的にはOKなことよ。けど、実際にする人がほとんどいないぐらいとんでもない話なのよ」


「大丈夫だよ」


 対する、サーシャはにこりと笑うのだった。


「それでも皆無じゃないし、私達の方はもう覚悟しているから。あとは先生を――アッシュの方をどうにか説得するだけだよ」


「いや、それが一番とんでもないことでしょう……」


 アリシアは額に指先を当てて呻いた。

 それから「……はあ」と溜息を一つ零し、


「まあ、ともかく。その件はまた別の機会に話し合いましょう。ルカやオトハさんも交えてね。今日のところはユーリィちゃんの話を聞く予定だし」


「うん。そうだね」


 言って、サーシャは視線を前に向けた。

 周辺には農家と田畑。一向に変わらない素朴な風景だ。

 しかし、道筋に一カ所だけこれまでとは趣の違う建屋がある。

 一階にガレージを持つ二階建ての建屋。

 サーシャとアリシアの目的地であるクライン工房だ。

 アリシアはふっと笑う。


「さて。それじゃあ行きましょうか」


「うん。敵を知ることは重要だものね。私が一番になるためにも」


 意気揚々にそう語るサーシャに、アリシアは再び溜息を零すが、


「まあ、とりあえずいいわ」


 そう言って、サーシャと共にクライン工房へと向かうのだった。




 そうして十分後。

 二人はクライン工房の二階。茶の間にいた。

 敷き詰められた畳に、中央には卓袱台。東方大陸アロンにおいて『和』と呼ばれる一風変わった部屋だ。アリシア達は正座して一人の少女と対峙していた。

 年齢はあと二ヶ月ほどで十五歳。

 肩にかからない程度まで伸ばした空色の髪に、翡翠色の瞳。首元から覗く肌は透き通るように白く、顔立ちは人形じみているほど整っている。少々無愛想な雰囲気もあるが、彼女もまた極上の美少女だった。


 ――ユーリィ=エマリア。

 このクライン工房の従業員であり、オーナーである青年の養女でもある少女だ。


「いらっしゃい。二人とも」


 アリシア達と同じように正座するユーリィは、柔らかに笑った。

 が、すぐに小首を傾げると、


「だけど、今日は二人だけなの? ルカは?」


 素朴な疑問を告げる。

 アリシアとサーシャは互いの顔を見合わせた。

 そしてアリシアが答える。


「ルカは、今日は無理なの。ほら。あの子のお師匠さまが近々やって来るって話があったじゃない。どうもそのお師匠さまと他にも来る人って他国の公爵令嬢らしいのよ。迎えるのなら国賓としてってことで忙しいみたいね。多分数日は来れないみたいよ」


「ちなみにハルトとオニキスの二人は居残り補習だよ。こないだの筆記テストで赤点取ったんだって」


 と、この場にいないクラスメートの状況を告げたのはサーシャだ。

 その二人についてはあまり気にもしていないのでユーリィは苦笑した。


「まあ、そんなことよりも」


 同じくクラスメートの苦境に興味のないアリシアが、ばっさりと話を切り替える。


「今日ってアッシュさんはいないんでしょう? 工房ギルドの定例会合で」


「うん。そう」ユーリィはこくんと頷く。「今日いるのは私と――」


 そこで部屋の入り口である襖に目をやった。

 するとタイミング良く襖が開いた。アリシアとサーシャも視線をそちらに向ける。

 そこにいたのは一人の女性だった。


「うむ。お茶が入ったぞ」


 と、その女性が湯呑みを四つ置いたトレイを手に告げた。

 年齢は二十二歳。紫紺色の短い髪と、同色の瞳。凛とした顔立ちにはスカーフ状の白い眼帯を付けている。そして身に纏う服は、否応なしに抜群のスタイルが強調される漆黒の革服レザースーツ。加え、桜の刺繍を施された白いエプロンだ。


 ――オトハ=タチバナ。

 超一流の傭兵団・《黒蛇》の副団長を務める女傑であり、今はアリシア達の教官も担う美女だった。傭兵の界隈で《黒蛇》の美姫と言えば、相当な有名人らしい。


「「「……………」」」


 アリシア達は無言でオトハを見つめた。

 いきなり注目を浴びてオトハは眉根を寄せる。


「ん? どうした? お前達?」


 と問いかけるが、誰も答えない。アリシア達は未だ無言だった。

 ただ沈黙してオトハの姿を観察する。

 最近のオトハはとても落ち着いた雰囲気を出していた。

 アッシュの前では時折、挙動不審にもなっているようだが、どこか表情には余裕があるように見える。それに加え、ますます家事をこなすようになってきていた。元々高かった女子力にさらに磨きをかけ、これまで以上に甲斐甲斐しく客人をもてなしている。もはやエプロン着用が工房内での標準装備になっているぐらいだ。太ももに括り付けている小太刀がなければ、彼女が傭兵だと忘れてしまいそうな新妻ぶりたたずまいだった。

 少女達は互いの顔を見合わせる。


「(ねえ、これって)」


「(うん。やっぱり何かあったよね)」


「(最近のオトハさんは変。もの凄く余裕がある)」


 と、一瞬で意思の疎通を行った。

 どうもこないだの旅行でオトハの心中で何か劇的な変化があったらしい。

 特にアッシュに対する態度が大きく変わってきている。

 ユーリィが抱っこをねだろうが、アリシアが彼の腕にしがみつこうが、サーシャが講習のドサクサに紛れてスキンシップを計ろうが、意外と戦略家であるルカが子供らしい無邪気さを装って抱きつこうが、一向に気にしない。

 いつも優しい眼差しで彼女達の行動を見守っていた。


 ――圧倒的。まさに圧倒的余裕感だ。

 本当に不可解な態度だった。まったく嫉妬を見せないのは何故なのだろうか。アリシア達は小首を傾げるばかりだった。


 とは言え、考えたところで答えが出るはずもない。

 いずれ査問会を開き、詳しく問い質すしかないというのが結論だった。

 と、そうこうしている内に件の女傑は、アリシア達にお茶を配り終え、自分はユーリィの隣に座った。


「さてと。これで王女以外は全員揃ったな」


 と、口火を切る。

 オトハは、アリシアの方へと視線を向けた。


「王女は来れそうにもないのか?」


「あ、はい」考え事に没頭していたアリシアだったがすぐに頷き、「ルカは残念がっていましたけど、今日の話の内容は後で私かサーシャの方で話しておきますから」


「うむ。なら問題はないな」


 オトハは両腕を組んで首肯する。そして今度はユーリィの方に視線を向けた。

 自然と、アリシアとサーシャもユーリィに注目した。

 注目されていることを自覚し、ユーリィはこくんと頷いた。


「分かった。じゃあ話す」


「ああ、頼むぞ」


 オトハがそう返し、アリシアとサーシャも真剣な顔でユーリィを見つめた。

 ユーリィは再びこくんと頷いた。


「これは、まだ私がアッシュのことを『灰色さん』と呼んでいた頃の話」


 そうして少女は語り出す。

 とある王国で起きた一つの事件を。


「今から約五年前。皇国の隣国。森の国、エリーズ国での事件。どこにでもある素朴な村の少年と、戦うメイドさんと、一人の《聖骸主》のお話――」

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