第七章 追憶の彼方より……。

第241話 追憶の彼方より……。①

「か、仮面さん!」


 閉じられた偽りの世界の中で――。

 ようやく青年の存在を受け入れたルカが、驚きと共に歓喜の声を上げた。

 続けてオルタナも勢いよく羽ばたき、「……ウム! ヘンジンダッタ、ノカ!」と、少女の頭上で旋回しながら叫んだ。

 が、ルカはオルタナの声に反応する余裕もなく、アッシュの――《朱天》の元に駆け寄った。続けて救いを求めるように手を伸ばす。

 アッシュはすっと目を細めて――。


「おいで、お嬢ちゃん」


 少女の手を取り、《朱天》の中に引き上げる。

 力強い腕に導かれるように彼女は《朱天》の操縦席に乗り込んだ。

 そして、ルカは間近で青年の顔を食い入るように見つめて。


「ひ、ひっく。か、仮面さん」


 整った顔をくしゃくしゃと崩した。


「す、すごく、こ、怖かった、の」


 続けて水色の瞳からポロポロと涙をあふれさせて肩を震わせる。

 その姿は、まるで怯える小動物のようだった。


「だ、誰もいなくて、ぜ、全然、家も変わらなくて、そ、そしたら、いきなり、ごごごごごって……」


 と支離滅裂な説明をしながら、ルカはアッシュの首に手を伸ばしてくる。

 しかし、そこからどうすればいいのか分からなかったのだろう。彼女の両手は定まらず宙を彷徨っていた。

 アッシュはふっと苦笑を浮かべる。


「……ん。もう大丈夫だ」


 そして怯える少女の背中に、そっと手を回して強く抱きしめた。

 一瞬ルカの手が止まり、鼓動が跳ね上がる。


「……あ、う……」


 零れ落ちる小さな呟きと、頬を伝う涙の筋。

 アッシュはルカを抱きしめながら、ポンポンと彼女の頭を叩いた。


「もう心配はいらねえ。俺が傍にいる」


 その力強い言葉に、ルカはとてもホッとした。

 先程までの不安や恐怖が消し飛び、深い安堵が胸中に訪れる。


(……仮面さん)


 そしてルカは、ギュッとアッシュに抱きついた。

 ああ、この温もりをずっと切望していたのだと、少女ははっきりと感じ取った。

 ずっとずっと、こうして抱きしめて欲しかった。

 この異様な迷宮で、それだけを求めて走っていたのだと今更ながら自覚する。

 だからこそ、ルカは素直に願った。

 真直ぐ自分の想いを語った。


「お、お願い。もう、私を離さないで……」


 青年のつなぎを掴む手が、強くなる。

 まさしく、それは彼女にとって心からの願望だった。

 言葉にしたことで、ルカの心はきゅうと鳴った。

 すると、アッシュは――。


「ああ。傍にいるから大丈夫だ」


 と、何の迷いもなく、はっきりと応える。

 ルカは大きく瞳を見開き、少しだけ青年から離れて「ホ、ホント?」と呟いた。

 心臓が、トクントクンと激しく高鳴る。

 今の今まで自覚もしていなかった想いが、強く――とても強く輝き始める。

 そして消え入りそうな声で「か、仮面さん。ずっと、私の傍にいて、くれるの?」と呟くが、あまりにも小さな声であったため、その呟きは誰にも届かなかった。

 アッシュは優しく口元を崩し、ルカの頭をひと撫でした。


「……ぁ、……」


 微かな声を零し、ルカは瞳を隠して俯く。彼女の首筋は耳まで真っ赤だった。

 ユーリィ達が見れば深々と嘆息しそうな――まさにいつものことである。

 とは言え、このいつもの光景。

 実は、今回に限ってだけは、アッシュの『鈍感』もあまり関係していなかった。

 この時、アッシュの意識の大半は、すでに別の方向へと移っていたからだ。

 なにせここは敵の相界陣の中。言わば巨大な魔獣の腹の中だ。

 ルカを落ち着かせることは重要だが、それだけに注視している訳にもいかない。

 アッシュは面持ちを鋭くすると、ルカの肩に片手を乗せる。

 そして眼下のザインを一瞥した。


「さて、と。マジで待たせちまったか?」


 そう尋ねるアッシュに、ザインはふっと笑い、


「ああ、かなりヤバかったよ。師匠。どうせならもっと早く来てくれよ」


 と、冗談混じりの声で答える。

 対するアッシュは不機嫌そうに眉をしかめて。


「だったらもっと早く《デュランハート》を喚び出せよ。いくら職人と言っても相界陣に関して俺は門外漢なんだぞ。座標もなく割り込めねえよ」


 という仮面の青年の台詞に、


「いや、それはだな……」


 ザインは大破した愛機を一瞥し、苦虫を噛み潰したような表情を見せる。


「……まともに召喚することも出来なかったんだよ」


 アッシュもまた横たわる《デュランハート》に目をやり、


「……そいつは悪りい。マジで切羽詰まった状況だったみたいだな」


 そう言って、若き公爵に謝罪した。続けてシャールズ達に目をやる。ザインの弟は突然の乱入者である《朱天》とアッシュを前にして流石に唖然としていた。

 しかし、灰色のスーツを着た老紳士――ウォルター=ロッセンの方はすでに精神を立て直しており、冷酷な面持ちを《朱天》を向けている。

 老紳士の突き刺すような視線に対し、アッシュは眼光を鋭く細める。

 ――ああ、なるほど。この男が……。


「察するにあんたがロッセンってやつか」


 そう呟いて皮肉気に笑う。


「なんでも、あのギル爺さんの昔の商売敵らしいな」


「……ほう」


 そこで能面のようだったウォルターの表情が初めて動く。


「もしやとは思ったが、やはり貴様はボーガンの手の者か。ならば、そこにいる公爵家の当主殿もボーガンの一味という訳か」


「……いや、そう言われるとなんか悪役みてえだよな」


 アッシュは苦笑を浮かべた。

 ザインもまた肩をすくめて、苦笑いを浮かべている。


「まあ、確かに今回の件はあの爺さんも一枚かんでいるよ。特にあんたの来訪については色々と爺さんから聞いているしな」


 そしてアッシュはあの喰えない老紳士の関与を認めた。

 が、おもむろに、自分の顔を覆う仮面をコツコツと指先で叩くと、


「けどよ、今回の話を最初に持ちだしたのは、そこの筋肉紳士だぞ。だからギル爺さんの一味っていうのは少し違うかもな」


 と、あの日の会話を思い出しながら補足する。

 アッシュいわく筋肉紳士ことザインは「おいおい師匠。筋肉紳士はないだろ」と不満をもらしていたが、不意に真剣な顔つきでアッシュの傍らにいるルカを見やり、


「けど師匠だって、その子を守ることには賛同してくれるだろ?」


「………え?」


 ルカは目を丸くした。

 そして「か、仮面さん?」と呟いてアッシュの顔を見上げた。


「ああ。この子を守ることに関しては異論はねえ。大いに賛同だ」


 と、アッシュもまた真剣な眼差しでルカの顔を見つめた。

 それから、優しい声で少女に語りかける。


「お嬢ちゃん」


「は、はい」


 青年のつなぎの裾を握ったまま、ルカは返事をする。


「随分と怖い目に会わせちまって悪かったな。ホントはもっと早く来るつもりだったんだが……まあ、事情は後で話すよ。今は俺とそこの筋肉紳士を信じてくれ」


 言って、アッシュはルカの頭をゆっくりと撫でた。

 ルカは一瞬だけキョトンとしたが、すぐにザインの方へと目をやった。

 自分の血縁者でもある大柄な貴族の青年は、今は大仰な仕種で一礼していた。


「ザ、ザインさん……」


 正直事態はよく分からないが、彼らが敵ではないことだけは理解する。

 少なくとも平然と親族を殺そうとしたシャールズや、嫌悪感さえ抱く不気味な灰色の老紳士よりも遥かに信頼できる。

 ルカは「は、はい。分かりました」と言って、こくんと頷いた。

 アッシュは満足げに首肯する。


「さて。そんじゃあ、そろそろ仕事に入るか」


 そしてシャールズ達を一瞥し、アッシュはニヤリと笑って告げる。


「夜も遅い。ここは手早くぶちのめさせてもらうぜ」

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