第242話 追憶の彼方より……。②

『チェックメイト。ツメが甘いぞ。まだまだだな』


 ふと耳にかつての言葉が蘇る。

 それは、兄とチェスに興じていた時のことだ。

 シャールズは決着のついたチェス盤を睨みつけて嘆息する。

 これで一体何連敗だろうか。

 ここ数年、兄に勝った記憶などついぞない。


『お前の戦法は真直ぐすぎて分かりやすいんだよ。どうしたいのか、何がしたいのか、それがはっきり分かるぞ』


 と、キングの駒を指でいじって兄が言う。

 思うようにいかず、シャールズはわずかに下唇をかんだ。


『……くそ』


 そして場所は移って広い庭園。

 兄の前では舌打ちせず、無人の庭園を散策しながらシャールズは不満をこぼす。

 綺麗に剪定された木々も美しい花壇も、彼の心を落ち着かせてはくれない。

 不満は、今回のチェスの敗北だけではなかった。

 幼き日より、シャールズは明らかにザインに劣っていた。

 恵まれた体格。優れた運動能力。明晰な頭脳。

 ザインはそのすべてを有していた。

 どれをとってもシャールズが勝るものはない。あえて挙げるのならば知識量だけはシャールズの方が上だが、それはどれだけ書物を読み漁ったかの差にすぎなかった。

 もし兄が同様のことをすれば、知識量でさえも劣っていただろう。


『……どうして』


 庭園を当てもなく進みながら、シャールズは呟く。


『どうしてあの人が私の兄なのだ』


 それは、シャールズの本音だった。

 兄のことは嫌いではない。

 多くの人間が豪胆な兄を慕うように、シャールズも誇りさえ抱いて慕っていた。

 しかし、実の兄弟とは、どうしても比較されるものなのだ。

 特に片方が群を抜いて優れていた場合は。

 幼少期。兄は神童ともてはやされ、シャールズはずっと影のように付き従っていた。彼の内向的な性格はこの時に形成された。

 騎士学校時代。兄は優秀な成績に加え、多くの友人を得ていた。豪胆でありながら繊細な気配りも出来る兄を嫌う者などどこにもいない。

 対し、シャールズの方は事あるごとに「お前、本当にあいつの弟なのか?」と言われ続けていた。兄と並べば当然のように比較されてきた。

 それが嫌で、シャールズはどんどん孤独を好むようになっていた。

 そんな風に、シャールズは常に兄の影を背負って生きてきた。

 だからこそ思うのだ。

 血の繋がりなどなければ、ここまで劣等感に苛まれることもなかっただろうに。

 曇天の空を見上げて、シャールズは静かに独白する。


『まるで閉じられた井戸の中にいるようだ……』


 暗くて深くて、とても狭い井戸の中。

 シャールズのいる場所は、生まれた時からそんな場所だった。

 彼にとって兄とは、井戸に蓋をする巨大な岩だ。

 日の光を一切遮る巨岩。それは決して崩れることはない。

 シャールズは眉間に深いしわを刻んだ。


『……あんたは邪魔なんだよ』


 小刻みに身体を震わせて呻く。


『なあ、もういいだろう? いい加減そこをどいてくれよ。私にも光をくれよ』


 ポツリポツリ、と。

 崩れ始めた空が、シャールズの頬に滴を零し始めた。

 雨は流れて目にも滴が入るが、気にかけない。

 だた静かに曇天を見上げる。


『………私を』


 そして青白い顔の青年は、グッと唇を噛みしめた。

 胸中では嵐が吹きすさぶ。長年に渡って、心の中に溜めこんできた負の感情が一気に噴き出してくる。ぐつぐつと煮えたぎる憤怒が心を灼いた。


 そうして限界を超えたシャールズは、声を張り上げて天に叫んだ!


『誰か、誰か私をこの深い井戸から解放してくれ!』


 ザザザ、ザザザザ……。

 いよいよ雨が強くなり始める。

 しかし、シャールズは屋敷に戻る様子はない。

 沸きだった感情を冷やすように、その場に立ち尽くしていた。

 これもいつものことだった。こうして誰もいない場所で一時的に感情を吐き出し、これまで彼は心を落ち着かせてきた。

 だが、その日だけは違っていた。


『おやおや』


 不意に声がする。

 シャールズは驚愕し、声のした方へと振り返った。


『お若い方。随分と不満げな顔をされてますな』


 そこにいたのは、黒い傘を差す老人。

 灰色のスーツを着た五十代半ばの初老の紳士だ。


『……何者だ。お前は……』


 シャールズは警戒しつつ問い質す。

 ここはガロンワーズ家の庭園。こんな男は見たことがなかった。

 すると老人はふっと笑い、


『いえ。仇敵の息子でも唆してやろうと来訪したのですが……』


 そこで小さく嘆息し、


『どうやら私よりも先客がいたようで。勝手に自滅されていたのは興醒めでしたな』


 と、シャールズには全く意味不明な台詞を吐く。

 しかし、その台詞自体はただの独白だったのだろう。老人は『おや失礼。それよりも私の事ですな』と呟いて苦笑を浮かべると、シャールズの問いに答えた。


『私は……まあ、通りすがりの武器商人ですよ』


『……武器商人、だと』


 シャールズは眉をしかめた。


『ええ。少しばかり人よりも好奇心が強い武器商人です』


 そう言って、老人は傘をくるりと回して雨を弾く。


『いやはや、私のキューブがなかなか心地良い殺意を感知しましてな。失礼だとは思いつつも、この庭園に入り込んでしまった次第です』


 そう告げられ、シャールズは頬を強張らせた。

 ――殺意。思い当たるのは当然、先程の絶叫だ。ならば、この得体の知れない自称武器商人の男は、シャールズの殺意が呼びこんだ人間だということか。

 だが、それにしても……。

 負の感情に引き寄せられる。

 それではまるで――。


『貴様は……悪魔なのか?』


 ポツリとシャールズが呟く。と、


『おお、なんと魅力的な名前なのでしょうか』


 灰色の老紳士は、楽しげに笑った。


『そう呼ばれることは、私にとってこの上ない喜びですよ』



       ◆



「ウォルター=ロッセン」


 そして現在。シャールズは老人の名を呼ぶ。


「あの怪物は任せてもいいか?」


 言って、煉獄の鬼を彷彿させる鎧機兵を睨みつける。

 突然乱入してきた異様な敵。

 只者ではないことはシャールズにも分かる。


「それは構いませんが」


 ウォルターは皮肉な笑みを見せつつ、青年に確認する。


「あの男はギル=ボーガンの手の者。恐らく容易ではありませんぞ。私は彼の相手を専念することになりますが」


「ああ、構わん」


 シャールズははっきりと告げる。


「元より決着は、私がつけるべきだろう」


「それもそうですな」ウォルターはふっと笑った。

 続けて、この相界陣を造るキューブを指先で遊び、


「ではシャールズ殿。宜しいですかな」


「ああ、やってくれ。『悪魔』よ」


 チュックメイトにはまだ早い。

 シャールズは、静かな眼差しで兄を見据えた。

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