第7部 『天翔ける緋色』
プロローグ
第190話 プロローグ
その日、彼女はとても不機嫌だった。
(まったくもう!)
コツコツコツ、と苛立った足取りで、黒い騎士服を纏った彼女は白いサーコートをなびかせながら長い渡り廊下を突き進む。
歳の頃は二十代前半。
少しだけ背の高い身長とスレンダーな肢体を持ち、毛先にきつめのウェーブがかかった燃えるような真紅の髪が魅力的な彼女の名は、ミランシャ=ハウル。
グレイシア皇国の大貴族、ハウル公爵家の長女であり、誉れ高き最強の七戦士――《七星》の第五座を担う女傑である。
(いつもいつもいきなり呼び出すんじゃないわよ!)
ミランシャは柳眉を逆立てて目的の部屋に向かっていた。
彼女は少し険の強そうな面持ちをしているが、本来ならば美女と呼べるほどの美しい容姿の女性だ。性格も社交的で誰からも好かれる人物である。
しかし、今の様子はまるで――。
「あ、あの、ミランシャさま……?」
その時、たまたますれ違ったこの館――ハウル邸のメイドは頬を引きつらせて、鬼女のような気配を放つお嬢さまに頭を垂れた。
しかし、ミランシャは、何も答えずただ歩を進める。
普段の気さくさなどどこにもない。今はそれほどまでに不機嫌なのである。
と、そうこうしている内に、彼女は目的の部屋に着いた。
この館の四階にある執務室。
ハウル家の現当主が私室にしている部屋だ。
ミランシャは一瞬ドアを蹴破ってやろうかと思うが、流石にそれは自重する。
「………ふう」
そして彼女は一旦息を吐きだして怒気を収めると、慎重にドアをノックした。
すると、室内から「入れ」と重厚な声が響いた。
ミランシャはムッとした表情を浮かべるが、この部屋の主人が無駄に偉そうなのはいつものことなので、小さく嘆息し気持ちを落ち着かせた。
「失礼します。お爺さま」
先程までの苛立ちは一切出さず、ミランシャは淑女の笑みを見せて入室する。
その部屋はとても豪華だった。精緻な刺繍が施された絨毯が敷き詰められた床に、周囲の壁の本棚は貴重な本で埋め尽くされているような上質の部屋だ。
(相変わらず無駄に豪勢ね)
ミランシャは、顔色は変えずに内心でそう思う。
他に室内には大きな窓が二つあり、その窓際には大きな執務机が一つある。
そして、今そこに座る人間こそがこの部屋の主人だ。
年齢は今年で七十歳。長く伸ばした赤髭が特徴的な老人である。
ハウル家の現当主・ジルベール=ハウル。
貴族間では赤髭公と恐れられる傑物であり、ミランシャの祖父でもある男だ。
「……ふん。随分と遅かったな」
執務席にて黙々と仕事をこなすジルベールは孫娘を一瞥することもなく、ほとんど感情のない声でそう吐き捨てた。
「相も変わらず愚鈍な娘だ。この儂が呼んだのだぞ。三分以内には来い」
続けて、そんな言葉まで投げかけてくる。
その間も、老人は手に持つ資料から一度も目を離さなかった。
(……このくそジジイ)
ミランシャは額に青筋を浮かべるが、グッと堪える。
この老人はいつもこんな様子だ。孫娘に対し、愛情の欠片も見せようともしない。
しかし、ジルベールは孫のことを疎んでいる訳ではない。
祖父が同じ孫であるアルフレッドに対しては、充分すぎるほどの英才教育と愛情を注いでいることを、ミランシャはよく知っている。傍で見てきたからだ。
対し、ミランシャの方といえば、愛情も特別な教育も受けた記憶がなかった。
結局のところ、この老人は極端なまでの男尊女卑主義者なのだ。
孫『娘』であるミランシャに対し、何の価値も認めていないのである。
だからこそ、ミランシャは祖父が心底嫌いだった。
「……以後、気をつけます。ところでお爺さま。私に何か御用でしょうか」
しかし、それでもミランシャは笑みを崩さずそう尋ねた。
今は弟も他国へ遠征中。祖父との不要な軋轢を避けるための配慮だった。
すると、ジルベールは初めてミランシャの方を一瞥し、フンと鼻を鳴らした。
「用がなければ、お前などを呼ぶはずもなかろう。まあ、喜べ。愚鈍な娘であるお前にも使い道があったぞ」
言って、ジルベールは執務席の引き出しから書類らしきものを取り出した。
続けてミランシャに「見ろ」と告げて、それを机の上に放り投げた。
「……これは?」
ミランシャは訝しみながら執務席に近付き、それを手に取った。
そしてまじまじと確認し、大きく目を見開いた。
「ま、まさか、これって……見合い写真?」
「そうとも言うな」
そう呟くと、ジルベールはマッチを使って葉巻に火を付けた。
そして大きく肺を動かし、ゆっくりと紫煙を吐く。
この用件は、仕事の一服代わりであると言わんばかりの態度だった。
立ち込める慣れない紫煙に、ミランシャは眉をしかめた。
「相手はエリーズ国の侯爵家の次男坊だ。最近はあの国とも友好的な関係を築けているからな。縁故を結ぶ家柄としてはそこそこだな」
と、ジルベールは淡々と告げる。
そこには孫娘の心情を慮る様子はまるでない。
ミランシャは見合い写真に再び目を通し――青ざめた。
「じ、次男坊って……この人の歳って……」
かなり薄い頭髪や、頬に刻まれた深いしわ。
お世辞にも二十代はおろか、三十代にさえ見えない。
少なくともミランシャよりも遥かに年上なのは明らかだ。
「今年で四十八だそうだ。だが、そんなことはお前には関係ない」
ジルベールは葉巻を灰皿にこすりつけて孫娘に告げる。
「これは決定事項だ。式は三ヶ月後。騎士団は今すぐ退団しろ。それと最低限の教養は必要だな。この三ヶ月で覚えられることは――」
と、言葉を続けるが、ミランシャの耳には届いていない。
(……う、そ、でしょう……)
ミランシャはパサリと見合い写真を落として、愕然とした。
確かに、祖父からは一度も愛情を受けた覚えはなかった。
だが、それでも家族だ。
両親を早くに亡くしたため、彼女にとっては育ての親だ。
だというのに、孫娘の了承も得ずに勝手に政略結婚などを決めるとは――。
「嫁いだ後は定期的に儂に報告を入れろ。あの国の内情も知りたい。男子が生まれた時も知らせろ。アルフのように才があるようならばハウル家に迎えよう」
ジルベールの身勝手な台詞は、なお続く。
ミランシャは前髪で瞳を隠すほど深く俯き、ギリと歯を軋ませる。
そして――十数秒後。
「……ふざけんじゃないわよ。このくそジジイ!」
もはや一切の感情を隠そうともせず。
はっきりと、祖父にそう告げる。
意外なことに、それはミランシャの生まれて初めての反抗だった。
積年の不満が一気に噴き出すのを止めることなど出来なかった。
ミランシャは赤い双眸に涙を溜めて、祖父を睨みつける。
「そんなにアタシが嫌いで、アタシが邪魔なの! ならもういいわ! こんな家――出て行ってやる!」
そう言い放ち、彼女は執務室を飛び出した。
バタンッとドアが勢いよく開かれ、ギイギイと音を鳴らす。
「…………ふむ」
ジルベールは少しだけ興味を抱いたように開かれたままのドアに目をやった。
こうして騒動と確執を背景に。
ハウル公爵令嬢の、初めての『家出』が始まったのである。
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