第37話 来訪、そして再会③
――竜虎相うつ。
この世界において竜とは伝説の《悪竜》しかおらず、そんな化け物に匹敵する虎など存在しないのだが、実力が伯仲した者同士が相対した状況をそんな言葉で言い表すそうだ。
そしてクライン工房の二階。普段は和やかなはずの茶の間は、今まさに『竜虎相うつ』と呼ぶに相応しい状況だった。
「……久しぶりオトハさん」
「ああ、久しいな。エマリア」
今、茶の間には六人の人間が座っていた。卓袱台を挟んで片側にユーリィ。その向かい側には、オトハがピンと背筋を伸ばして正座している。
ちなみに騎士候補生達――サーシャ、アリシア、エドワード、ロックの四人はあまりの緊迫感に卓袱台に近付く事もままならず、部屋の片隅に並んで正座していた。
「しかし、この部屋は落ち着くな。東方の大陸アロンの様式か」
「……アロンの様式かは知らない。アッシュは『和』とか言ってた」
「ん? ああ、そうとも言うな。ふふ、クラインの先祖は私と同じくアロンの血を引いているらしいからな。自然とこうなったのだろう」
ピリピリした空気の中、オトハが得意げに口を開く。
自分も知らないアッシュの話を聞かされ、ユーリィは眉間にしわを寄せた。
その様子を、部屋の片隅からアリシアはこそこそと窺い、
「(うわあ、なんかユーリィちゃん、ご機嫌斜めね)」
「(……うん。けど)」
サーシャは居心地悪そうに隣に座るロックに問う。
「(ねえハルト。この状況って何なの? あのオトハっていう人は誰なの?)」
「(い、いや、すまんがフラム。俺も知らんのだ。ただ案内を頼まれただけで)」
ロックの要領の得ない返答に、サーシャは眉をしかめた。そわそわと気分が落ち着かないのに、情報がまるで入らないことに苛立ちを覚える。
すると、そんな親友の心情を慮ってか、不意にアリシアが手を上げた。
「あの、オトハさんでしたっけ。あなたはアッシュさんのお知り合いなんですか?」
不意に声をかけられ、オトハは振り向くと、
「ん? ああ、すまない」
そう告げて、四人の騎士候補生の方を向いて居ずまいを正し、
「自己紹介がまだだったな。私の名はオトハ=タチバナ。セラ大陸で活動している《黒蛇》という傭兵団の副団長を務める者だ。クラインとは古い友人同士といったところだな」
と、オトハは名乗る。
「え? 傭兵なんですか?」
今度はサーシャが声を上げた。
「ああ、まあ、今は修行のため一旦団を離れ、一人で行動しているがな」
そう補足するオトハを見つめ、サーシャは少し驚いていた。
平和の国として有名なアティス国には傭兵はほとんどいない。だから、傭兵を見たのはこれが初めてだった。正直、こんな美人ではなく、もっとゴツくて目に傷を持つような厳つい大男をイメージしていたのだが……。
(あ、いや、もしかして、あの右目の眼帯って……)
ふと、そんなことを思いつくが、それはさておき。
「あ、すいません。私の名前はサーシャ=フラムと言います」
まずはこちらも自己紹介するべきだろう。最初にサーシャが名乗り、それに続いてアリシア。ついでとばかりにロック、エドワードも続いた。
そうして全員が自己紹介を終えた後、
「……ほう。君がサーシャ=フラムなのか?」
何故か、サーシャを見つめて彼女の名を反芻するオトハ。何やら含みのある呟きにサーシャは不思議そうに首を傾げるが、それを尋ねる前に、
「ところでオトハさん。ホントに今日は何しに来たの?」
ユーリィが刺々しい口調で問う。その言葉の端々には「早く帰れ」という意志がありありと込められていた。
「……エマリア。お前は相変わらず分かりやすい態度をとる奴だな」
明らかに攻撃的なユーリィに、オトハは溜息をつく。
「まったく。お前はもうじき十四歳になるのだろう? 皇国であれば成人も近い歳だ。客の前だけではなく、もう少し態度を改めたらどうだ? お前だっていずれ独り立ちする。いつまでもクラインと一緒にいられる訳ではないんだぞ」
その言い草に、ユーリィはカチンときた。
「……無用な心配。だって私はいつまでもアッシュの傍にいるから」
「……ほほう、そうか」
今度はオトハの方がカチンときたのだろう。
紫紺の髪の女性はそう呟き、空色の髪の少女と睨み合う。
再び訪れた一触即発の空気。視線の間には、バチバチと火花まで見えそうだ。
思わず息を呑むサーシャ達。と、その時だった。
この緊迫感に耐えきれなくなったのか、エドワードが唐突にこんなことを言い出した。
「と、ところで、姐さんってずっと眼帯してるっすね。怪我でもしたんすか?」
サーシャ達は絶句した。いきなり直球でなんてことを聞くのかこいつは。
傭兵が眼帯をするということは、その下には何かしらの傷が在る可能性が高い。
ましてやオトハは女性だ。きっと人には見られたくないものが在るのだろう。
急激に気まずくなる空気。しかし、事態は意外と穏やかに進んだ。
「ん? この目か? これは生まれつき見えなくてな。それで隠しているんだ」
もしかしたら、普段からよく問われているのだろうか。
オトハはあっさりとした感じでそう答えたのだ。
対し、エドワードは「へえ~」と呟き、
「けど、姐さんの眼帯って縁取りの銀の刺繍とか随分と凝ってるっすよね。すっげえ似合っててカッコイイっすよ!」
「……そうか? ふふっ、だが、それも当然だな」
と、オトハが上機嫌な口調でそう語る。
そして、再びふふっと笑い、
「この眼帯はな。私の十五の誕生日にクラインの奴がプレゼントしてくれたものなんだ。うふふ、あの時は『よく似合うぞ』と直接私に巻いてくれて……そう! 他にも白いのもあるんだ。私は二つもいらないって言ったんだけど、あいつときたら『こっちも似合う』と言って無理やり……まったく。うふふ、やはり他人が見ても似合うと思うかぁ」
と言って、オトハは赤い眼帯を愛しげに撫でて微笑んだ。それは見た者を蕩けさすような、もしくは本人自身が蕩けているような満面の笑顔だった。
その笑顔の前に、少年達はただ呆然と見惚れ、少女達はすべてを悟った。
なるほど。要するにこの人は――。
「(……納得。ユーリィちゃんが警戒する訳だわ)」
「(……うん。多分、この人が『黒毛女』なんだ……)」
よく見れば、オトハの髪の色は先程ユーリィが語った要警戒人物と一致する。
もはや疑いようもない。
彼女こそが、ユーリィが別格と称した『敵』の一人なのだ。
(……そっか。この人がそうなんだ……)
サーシャの眼差しも自然と険しくなる。これは自分にとっても由々しき事態だ。
この目の前の女性はとんでもない美人だ。
そんな美人が明らかにアッシュに好意を抱いていて、しかも海を越えてまで会いに来たのだ。危機感を抱かない方がおかしい。
(……確かにこれは強敵かも)
と、警戒心を抱く少女が一人増えたことも気付かず、
「うふふ、他にもクラインからもらった物はまだあるんだぞ! そう! あれは初めて二人で仕事をした帰りに――」
と、ますます頬を緩め、軽快に語り出すオトハ。完全にご機嫌モードだ。さっきからユーリィが盛んに「うるさい」「黙れ」と歯に衣も着せない怒号を飛ばしているのだが、歯牙にもかけない。もはやこの惚気話(?)は止められないだろう。
誰もがそう思った――その時だった。
「うおっ! 何だこりゃあ?」
一階から、その声が聞こえてきたのは。
途端、オトハの顔が硬直する。
いや、顔だけではない。彼女の身体全体が石像のように固まっていた。今聞こえてきた声は彼女のよく知る人物のものだったからだ。
――そう。待ち人来たる。
この工房の主人が、ようやく帰宅したのである。
◆
「……何だこのブーツの数は? なんで二倍に増えてんだ?」
クライン工房一階の奥。二階へと続く階段の前で、アッシュは唖然としていた。
ほぼ連絡事項だけだった会合もすぐに終わり、あっさりと帰宅したアッシュだったが、何故か戻ってくると玄関先にはブーツの山。驚くのも無理はない。
「……来客か?」
と呟き、アッシュもブーツを脱ぐ。
そして、トットット、と軽快な足取りで階段を上がり、茶の間を覗き込んだ。
もし来客ならここにいるはず。そう思った通り、そこには大勢の人間がいた。
「おう。こりゃあ、随分と千客万来だな」
部屋の中にはいるのは六人。その内、三人はユーリィ、サーシャ、アリシアだ。
そして残り三人の内、二人は少年。知らない顔……いや、どこかで見たような気もするが、思い出せない。騎士候補生の制服からしてサーシャ達の友人だろうか。
(ああ、なるほど。友達を呼んだのか)
アッシュはそこまで考えてから、最後の一人に目をやった。
最後の一人は女性だ。黒いレザースーツを着た彼女は背中を向けて座っている。艶やかな紫紺色の髪を持つ、多分サーシャよりも少しだけ背の低い女性だ。
(へえ、こりゃあ、きっと美人だな……って、え?)
アッシュは目を瞠った。彼女の後姿があまりにも見知ったものだったからだ。
そしてアッシュは呆然と呟く。
「え? お前……オト、なのか?」
◆
オトハは未だ硬直していた。
真直ぐ前を見たまま動けない。しかし、それでも確信する。
間違いない。今後ろにいるのは彼だ。
オト。自分をそう呼ぶ人間は父と彼しかいない。
(ああ、今、私の後ろにクラインがいる……)
そう考えると、鼓動が跳ね上がった。そわそわとして気分が落ち着かない。
グレイシア皇国から七日間の船旅。その間、オトハは色々考えていた。
例えば、再会の言葉。
『久しぶりだなクライン。息災か』とか。
『まったくお前は。勝手に騎士を辞めるなど何を考えているのだ』とか。
あっさりとした挨拶から愚痴めいたものまで、何パターンも考えていた。
すべては二年半ぶりの再会を演出するため。
そして今こそ、それを実践すべき時……なのだが、
(――え?)
愕然とした。
どうしてか、何も思いつかない。
(な、何故だ!? あれだけ考えたのに何故一つも思い出せない!?)
何か考えようとすると思考が急激に鈍る事態に、オトハはひたすら困惑した。
と、そうこうしている内に、
「おおっ! マジでオトか! 久しぶりだな!」
しびれを切らしたのか、アッシュの方からオトハの前へと移動してきた。
そして嬉しそうに笑うアッシュ。オトハは呆然と彼の顔を見つめていた。
(うわあぁ、本当にクラインだぁ……)
精悍な顔つきも、優しげな黒い瞳もまるで変わらない。
二年半ぶりに会うアッシュに、オトハは涙が出そうになった。
しかし、それでもどうしてか言葉だけは出てこない。
「ん? どうかしたのかオト? さっきから黙り込んで」
いつまで経っても一言も話さない……どころか、ピクリとも動かないオトハを不思議に思ったのだろう。アッシュは片膝をついて顔を近付けてきた。
オトハの鼓動が再び跳ね上がる。途端、あの言葉が脳裏に蘇った。
『久しぶりに、ゆっくりと彼に甘えてくるといい』
何故今あの男の言葉を思い出すのか。
カアアアァと頬が熱くなる。首筋からは湯気が出そうだ。
身体が限界まで硬直する。もはや緊張感が爆発する寸前だった。
「え? オ、オト? お前なんかすっげえ顔が赤いぞ!?」
と、その様子に反応したのはアッシュだった。彼はごく自然な仕種でオトハの額に手を当てる。が、それが引き金となった。
「~~~~ッッ!?」
音にもならない声を上げるオトハ。
思い起こせば二年半。
会いたくても会う機会に恵まれず、積もり積もった強い想い。
それが一気に爆発し、オトハの思考と身体を完全に停止させた。まさに感情の過剰負荷の状態だ。ぷしゅう……という音が出そうなぐらい、オトハは脱力する。
アッシュはそんな彼女の異常には気付かず、自分の額にも手を当て、
「う~ん、えらい熱があるような……って、え? ど、どうした? オト? オト!?」
途中で仰天した。慌てたアッシュはより正確に体温を測るため、オトハの額から柔らかな頬、そして細い首筋へと手を当てる。もはやオトハはされるがままだ。
「うわッ!? なんかすげえ熱出してんぞ!? オト、オトッ! くそッ!」
アッシュは舌打ちすると、オトハの肩と腿を掴んで横に抱き上げた。
それを見て動揺したのは、今までその光景を呆然と見守っていたサーシャだ。
「せ、先生ッ!? なんでオトハさんを抱き上げてるんですか!?」
「はあ? そんなのオトを病院に連れていくため……って、オト!? うわ、顔がやべえぐらい赤くなって!?」
「アッシュ、アッシュ。黒毛女を降ろして。それは逆効果」
動揺するアッシュ達と違い、ユーリィが冷静な声で言い放ち、
「あははっ、オトハさんってすっごい純情」
と、アリシアはケラケラと笑いながら、その様子を見ていた。
「いや、お前ら少しは心配しろよ!? オト、おい、オト――ッ!?」
アッシュの絶叫がクライン工房内に響く。
こうして、たった一言の会話さえすることもなく、アッシュ=クラインとオトハ=タチバナは、およそ二年半ぶりの再会を果たしたのであった。
ちなみに。
「う~ん、やはり凄いな師匠は。あれも掌底一発で倒したことになるのか?」
「……まあ、そうなるんじゃねえの……んなことより、ううぅ」
「ん? どうしたエド?」
「……ううぅ、また俺の恋が終わっちまった……」
「……あれだけの事をして、まだ脈があると思っているお前の思考も大抵凄いな」
と、少年達が語っていたのだが、それはまた別の話。
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