第36話 来訪、そして再会②

「さて、と。それじゃあ行ってくるか」


 クライン工房二階。自室にて鞄の中身をチェックしていたアッシュはそう呟いた。

 そしてポシェットのような鞄を手に、自室を出て廊下を進む。そして一階へと続く階段横の茶の間を覗き込み、


「んじゃあ、そろそろ行ってくるわ。ユーリィ、留守番頼んだぞ。それとメットさんも、アリシア嬢ちゃんもゆっくりしていってくれ」


 と、そこにいる三人の少女に声をかけた。


「……ん。分かった。アッシュ、行ってらっしゃい」


「あっ、はい。先生、行ってらっしゃい」


「は~い。アッシュさん、行ってらっしゃい~」


 卓袱台を囲んで談笑していた少女達――ユーリィ、サーシャ、そしてアリシアの三人が三者三様の返事をしてくる。アッシュはふふっと笑い、


「おう。じゃあ、行ってくるよ」


 そう告げて一階へと下りていった。アッシュはこれから月に一度行われる工房ギルドの定例会合のために街まで出向くところだった。工房ギルドとは、価格統合や特許の申請を管理する国営機関であり、この国の工房と工場のほとんどが所属する元締めのような組織だ。その会合に遅刻する訳にはいかない。


「……ちょっと、急ぐか」


 乗合馬車の時間を気にしながら、アッシュは足早に出かけて行った。

 そして、茶の間に残された三人の少女達。


「工房の職人ってのも大変なのね」


 卓袱台の中央に置かれたカップから、色々な根野菜を乾燥させたお菓子のスティックを一本取って、アリシアがそんなことを呟く。


「うん。私も先生と会って、初めて工房ギルドがあるなんて知ったよ」


 サーシャも手を伸ばして一本取り、言葉を続けた。


「……工房ギルドは大抵の国にある。名称はそれぞれ違うけど」


 ポリポリ、と小動物のように野菜スティックを齧りながら、多くの国を回ったことのあるユーリィが二人にそう答える。


「へえ、そうなんだ。まっ、それはともかく。ねえ、ユーリィちゃん」


「……なに?」


 アリシアに声をかけられ、ユーリィは視線を向けた。

 アリシアはサーシャと違ってアッシュの弟子ではないが、こうしてたまに遊びに来るので比較的仲の良い相手だ。

 

 ユーリィは、アリシアをじっと見つめる。

 すると、アリシアは一度サーシャの方も一瞥してからニマァと笑みを深めて、


「アッシュさんがいなくなったから訊くけど、ユーリィちゃんってアッシュさんと一緒に過ごして長いんでしょ?」


「……うん。長い。もうじき六年になる」


「ふ~ん、六年か。それは長いね。だったらアッシュさんの事には詳しいよね?」


 ユーリィは眉をひそめた。

 何を今更。自分よりアッシュに詳しい人間などいない。


「当然。アッシュの事なら何でも知っている」


 自信ありげに答えるユーリィに、アリシアはさらに笑みを深めた。その様子に隣に座るサーシャが首を傾げる。親友は一体何が言いたいのだろうか?


 が、その答えはあっさりと分かった。


「ふふっ、じゃあ、訊きたいんだけど……」


 アリシアが問う。


「アッシュさんってモテたでしょ。恋人とかいなかったの?」


 瞬間、ユーリィとサーシャが硬直した。

 しばし茶の間に静寂が訪れる。そして一秒、五秒、十秒と経ち、ようやくサーシャが卓袱台にバンッと身を乗り出して静寂を打ち破った。


「アアア、アリシアッ!? あなた何を訊いてるの!?」


 訊きたくても訊けなかった事を、こうもあっさり訊くとは何を考えているのか!

 しかし、サーシャの悲鳴のような怒号もどこ吹く風で、


「え? だって気になるじゃない。良い機会でしょ? アッシュさんもいないし」


 あっけらかんとそう告げる。サーシャは言葉もなかった。

 一方、ユーリィは未だ硬直していた。

 彼女は困惑していた。こんな質問をされたのは初めてだ。どう返せばいいのかよく分からない。そもそも今までアッシュに恋人など……。


(……ううん。違う。一人だけ知っている)


 真っ先に思い浮かぶのは、自分と同じ金色の髪を持っていた少女のこと。

 しかし、《彼女》については安易に語るべきではないだろう。

 そしてユーリィはしばし悩んだ末、


「……私と出会う前はいた。今はいない」


 と、結局そんな当たり障りのないことを告げた。

 その返答にサーシャは安堵の息をもらし、アリシアはつまらなさそうな顔をする。


「へえ、そうなんだ? アッシュさんモテそうなのにね」


「……む。モテるモテないの話なら、アッシュは間違いなくモテた」


「へ? あっそっか。今がフリーなだけ?」


 そう言ってから、アリシアに自分の台詞に苦笑を浮かべた。よく考えれば今のこの場にはアッシュに想いを寄せる少女が二人もいるのだ。彼がモテない訳がない。

 そんなことを思っていると、ユーリィはこくんと頷き、


「アッシュは致命的なまでに鈍い。アプローチしても気付かない場合がほとんど」


「ははは、そうだよね……」


 虚ろな瞳で同意するサーシャ。それに関しては彼女にも心当たりがあった。


「だけど――」


 と、ユーリィはさらに言葉を続ける。


「稀に直球で『愛しています。結婚して下さい』という人達もいた」


「……え? そ、そんな人達がいたのッ!?」


「へえ……で、アッシュさんはそういう人達になんて答えたの?」


 呆然とするサーシャをよそに、アリシアが興味深げに問う。

 すると、何故かユーリィは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 何か言いにくいことなのだろうか? サーシャとアリシアは首を傾げた。

 そしてしばらくしてから、ユーリィは極めて不本意そうに口を開くのだった。


「アッシュはそんな時、決まってこう言う。『ユーリィを嫁に出す日まで俺のことは後回しだ。ましてや身を固めるつもりはない』って」


「「…………」」


 完全に「お父さん」の思考だ。まさか、そんな理由で恋人がいなかったとは。

 絶句するサーシャに、アリシアが小声で話しかける。


「(ま、まあ、良かったじゃないサーシャ)」


「(……何が?)」


「(これって裏を返せば、まだしばらくの間、アッシュさんはフリーってことよ。あなたにだって充分チャンスはあるわ)」


「(……うう、そうかなあ、そうだといいんだけど)」


 アッシュの鉄壁の鈍感さを思い出すと、どうしてもネガティブになってしまうサーシャだった。と、その時。


「……けど、それでもなお厄介な連中がいる」


 ぼそり、とそんな物騒なことをユーリィが語り始めた。

 サーシャ達は眉根を寄せる。それは一体――。


「私が警戒する人間が二人いる。一人は赤毛女。無神経で私の一番嫌いな女。アッシュの大親友を自称する癖に、虎視眈々とアッシュの恋人の座を狙っている」


「「は、はあ……」」


「もう一人は黒毛女。厳密には紫がかった紺に近い黒――要は紫紺色らしいんだけど、めんどくさいからそう呼んでる」


 思い出して警戒度が増したのか、ユーリィの瞳が鋭くなる。


「むかつくことにこの女は、私よりもアッシュとの付き合いが長い。しかも私や赤毛女にはない強力な武器まで持っていて……」


 と、そこでユーリィは歯を軋ませた。その武器が何なのかは分からないが、よほど不満なのだろう。サーシャとアリシアはただ沈黙するだけだ。

 ユーリィの言葉はさらに続く。


「とにかく。この二人だけは別格。多分この二人にプロポーズされたらアッシュはさっきみたいな返答はしない。真剣に考えると思う。それぐらい親しい」


「……そ、そうなの?」


 サーシャが喉を鳴らしながら尋ねる。正直、聞き捨てならない話だ。まさか、アッシュにそこまで親しい女性達がいようとは――。

 しかし、サーシャの緊張をよそに、ユーリィはふっと笑みをこぼして、


「大丈夫メットさん。昔の話。今あの二人は皇国にいる。もう会うことなんて滅多にないだろうし、私達の方がずっと有利」


 と、サーシャに励ましのような言葉を送る。まあ、ユーリィの本音としては遠くにいるあの二人よりも目の前にいる少女の方がよほど難敵なのだが。


 と、その時だった。


「えっと、ここで合ってんだよな?」


「ああ、一応、ここがクライン工房のはずだが……」


 何やら一階から声が聞こえてくる。


「……お客様?」


 そう呟き、首を傾げるユーリィ。サーシャとアリシアは目を見合わせていた。


「……あれ? アリシア、この声って」


「うん。多分、あいつらの声よね」


「知っているの?」


 ユーリィが問うと、サーシャ達はこくんと頷き、


「うん。多分私達の同級生だと思う」


 と、サーシャが告げた時、一階から一際大きな声が響いてきた。


「たのもう! 工房のご主人はおられるか!」


 少し時代がかった呼び掛け。サーシャとアリシアの同級生であるロック=ハルトの声だ。

 三人の少女は立ち上がった。続けて階段に近い者――アリシア、サーシャ、ユーリィの順番で階段を下りていく。


「ちょっと、うるさいわね。何の用よハルト」


 そして階段の先、一階の作業場に着くなり、アリシアはそう宣った。


「は? エ、エイシス? なんでここにいるんだ?」


「遊びに来てたのよ。それより何の用?」


 思いがけない人物の登場に唖然とするロックに対し、アリシアが簡潔に答える。と、そこへ遅れて作業場に着いたサーシャも会話に加わる。


「あ、やっぱりハルトだったんだ。先生に何か用なの?」


「えっ? フラムまで……いや、フラムは弟子だからいてもおかしくないのか」


 と、ロックが呟いた時、この工房の店員であるユーリィがようやく下りてきた。


「アリシアさん、メットさんも下りるの早い……」


 と、そこで押し黙る。ユーリィは唖然としているロックとサーシャ達の様子を見て、すぐさま状況を理解した。そして誰にも気付かれないほど小さく嘆息した後、ロックの前へと進み出て深々と頭を下げる。


「どうやら友人達がご迷惑をお掛けしたようで申し訳ありません。お客様。私は当工房の店員でございます。あいにくただ今、当工房の主人は留守にしており、ご用件でしたら私の方でお伺い致します」


「……え?」「ユ、ユーリィちゃん?」


 いきなりの丁寧な対応に、サーシャとアリシアは目を丸くした。

 が、次の瞬間には二人揃って反省する。来店者は知り合いであってもお客様だ。ユーリィの応対はこの上なく正しい。それに比べて自分達ときたら――。


「(うわあ……、私って、もしかしてもの凄く常識ない行動した?)」


「(ううぅ、私もだよ。先生に合わせる顔がないよぉ)」


 彼女達は店員ではないのだが、何となく落ち込むアリシアとサーシャだった。

 しかし、驚いたのはロックの方もだ。


「て、店員? こんな小さな子が? いや、そう言えば、流れ星師匠には妹がいるとか噂で聞いたような……」


「……厳密に申し上げれば妹ではございません。ですが、私は当工房の主人より留守を預かっております。何なりとお申し付けください」


 ユーリィは淡々とした口調で言葉を続けた。

 ロックはポリポリと頬をかく。


「あ、ああ、そうか。しかし、実は用があるのは俺ではないんだ」


 言って、ロックは工房の外へ視線を向けた。ユーリィ、サーシャ達もロックの視線につられ、陽光が差し込む門扉近くに目をやった。

 と、そこにはブラウンの髪の少年――エドワードが気まずそうに立っていた。


「あちらの方が、当工房にご用件を?」


 問うユーリィに、ロックは首を横に振る。


「いや違う。この工房、というよりも、アッシュ=クラインさんに用があるのはエド……あそこに立っている男の後ろにいる女性の方だ」


「……女性、ですか?」


 言われ、ユーリィは目を凝らした。位置的に、丁度逆光になっていたため見えにくいのだが、確かに女性と思しき姿が確認できる。

 すると、その女性の影は隣の少年を引き連れ、コツコツと工房内へと進みだした。ユーリィは再び深々と頭を下げて歓迎の言葉を口にする。


「いらっしゃいませ。お客様――」


「――ふふ。お前でもそういう言葉遣いはできるんだな。エマリア」


 不意に名前を呼ばれ、ユーリィは硬直した。頭を下げた状態で目を大きく見開く。名前を呼ばれたことにも驚いたが、それ以上に驚いたのは今の声だ。


 聞き覚えのある声。まさか、そんな馬鹿な――。


 ユーリィは愕然とした表情で、ガバッと上体を起こす。

 そして、目にした光景に再び目を剥いた。


「く、黒毛お……オ、オトハ、さん?」


 見知った女性の姿に、ユーリィはわなわなと震えた。


「……お前、今、私のことを『黒毛女』と呼ぼうとしなかったか?」


 ジト目になってユーリィを睨む女性――オトハ=タチバナ。その眼光の前に、ユーリィはいきなり天敵と出くわした小動物のように硬直する。


「……まあ、いいさ。それよりお前と会うのも二年半ぶりか」


 そう呟くと、オトハはあごに手をやり、まじまじとユーリィの姿を見つめた。が、その視線は知り合いの成長ぶりを見ると言うより、何やら観察するような眼差しだ。


 そんな二人の様子に、サーシャ達は困惑するばかりだった。

 そしてしばらくしてからオトハは、ふっと笑い、


「……まあ、元気そうで何よりだ。さて、エマリアよ」


「……な、なに?」


 ようやく声を絞り出すユーリィ。オトハはそこで初めて不敵な笑みを消した。

 そして「その、な」と口ごもりながら、頬には微かな朱が入る。両手の指をもじもじと動かし、視線は忙しく泳ぎ始めた。先程までの凛とした雰囲気はどこにもない。


 その姿は、さながら告白を躊躇う恋する乙女のようだった。

 ユーリィの表情に険しさが浮き出る。


「……だから、なに?」


 動揺のあった先程の声とは違う、敵意に満ちた少女の声。

 だが、それが先へと進む切っ掛けとなった。促され、ようやく覚悟を決めたオトハは、威厳も迫力も全くない、か細い声でこう尋ねるのだった。


「何だ、その、ク、クラインの奴は、その、御在宅なのかな?」

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