第二章 来訪、そして再会

第35話 来訪、そして再会①

 その少年と初めて出会ったのは、彼女が十四歳の時だった。

 年の頃は十五、六。ボロボロの衣服を纏い、何よりその真っ白な髪と、強い意志を秘めた黒い瞳が印象的な少年だった。


 そして少年は、父に対して出会いがしらにこう告げた。


「強くなりたいんだ。俺を傭兵団に入れてくれ」


 父は沈黙する。彼女の父は傭兵団・《黒蛇》を率いる団長だった。

 《黒蛇》とは全団員が耐熱・耐冷に優れるクマンオオトカゲの革から作ったレザースーツを纏っていることで有名な、第一級の実力を持つ傭兵団だ。

 そんな傭兵団にわざわざ訪れて来たのは、恐らく傭兵に憧れる子供なのだろう。

 その場に居合わせた団員達が、苦笑を浮かべる。時々こういう子供が現れる。退屈な村から飛び出し、腕っ節一つで成り上がろうとする夢見がちなガキだ。


「おい。傭兵なめんじゃねえぞガキ。とっとと家に帰んな」


「家族が心配しているぞ。どうしてもなりたいのなら大人になってからにしな」


 親切心からか、または傭兵生活を舐めている少年への怒りからか。

 次々と声をかける団員達を少年は一切無視する。彼の眼差しは団長である父だけを見つめていた。父もまた、少年の視線を真直ぐに受け止める。

 しばしの沈黙。そして、ようやく父が口を開いた。


「……いいだろう。今日からこの団がてめえの家だ」


 父の了承の言葉に周りが騒ぎだす。娘である少女も同様だ。父がこの類の子供に入団を許可したのは初めてのことだった。当然、団員達は困惑し、中には反対する者もいたが、父は頑として言葉を覆すことはなかった。


 こうして、少年は傭兵団・《黒蛇》の団員になったのである。

 とは言え、少年は平穏な村で暮らしてきた普通の子供。戦闘経験もなく、勝手の分からない傭兵暮らしに戸惑っていた。その上、団員達も不快感から手を貸さない。少年は団の中で孤立していた……のだが、


「オト。てめえが面倒みてやんな」


 父の一声で状況は変わった。


「だ、団長!? お嬢にあんなガキの面倒をみさせんで!?」


「そ、そんな、お嬢もそろそろ年頃ですぜ? 万が一のことがあれば……」


 周りは再び騒ぎだすが、「うるせえ。俺の決めたことだ」と、父の言葉に黙り込む事になった。団長の決定は絶対だ。少女も団員である以上、渋々ながら了承した。

 そうして、少女は改めて少年と向かい合うことになった。


「……今日からお前の指導員をすることになった、オトハ=タチバナだ。お前の名前は何と言う?」


 少女――オトハは、彼の名前をまだ知らなかった。

 対して少年は「……そうか」と小さく呟くと、自分の名前を告げた。


 それからオトハは少年に色々なことを教えた。傭兵生活における基本や、各都市にあるギルドの使用方法。いざという時のサバイバル技術などもだ。


 少年は物覚えが良く次々と習得していった。が、その中でも一番目を引いたのは鎧機兵の戦闘方法の習得についてだった。指導していたオトハの背筋が凍るほどの鬼気迫る集中力で、少年はメキメキと腕を上げていった。


 そして一年後。少年は傭兵団でもトップクラスの実力を身につけていた。

 過酷な生活にも逃げ出さなかった少年に他の団員達も一目置き、少年は完全に団員の一人として認められていた。オトハはそれがとても誇らしく、何より嬉しかった。


 その頃になると、少年はオトハの対等な相棒となっていたのだ。

 仕事をする時はいつも二人で。食事の時も、休暇の時も二人でいる事が多かった。


 はしゃぐオトハに、どこか寂しげに笑う少年。そんな光景が日常になっていた。

 あまりの仲睦まじさから、団員である女傭兵に、


「なんか、もうこのまま結婚してしまいそうな勢いね」


 と言われ、耳まで真っ赤になった覚えがある。この時のオトハは、結婚はともかく、彼とはこれからも先、ずっと一緒にいるものだと思っていた。


 しかし、その一年後。

 それは、キャラバンに皆が集まった日のこと。


「……今まで世話になった。俺は明日ここを出ていく」


 少年の唐突な退団宣言。オトハは愕然とし、団員達も騒然とした。

 取り乱したオトハは少年に詰め寄り、彼の肩を揺らして問い質した。涙目になって少年の真意を聞こうとした。緊迫した空気に、団員達は固唾を呑んでその様子を見守った。


 しかし、少年は何も語ろうとしない。オトハは苛立ち、いつしか堪え切れなくなった涙が頬を濡らしていた。このままでは殴りかねないほどに彼女は混乱していた。


「お、お嬢……」「オトハちゃん」


 流石に見かねた団員達が、オトハを止めようとした時、


「……小僧。理由を話せ。俺らは家族だ。知る権利があるだろう」


 ずっと沈黙を守っていた団長が、厳かな口調で告げた。

 少年は一瞬躊躇うような表情を浮かべたが、大恩ある団長の言葉を無視することなどできない。彼はようやく重い口を開いた。


 そして少年は語り始める。二年前自分の村に起こった事件を。その結果、彼の恋人だった少女がどうなったのかを。何故彼が力を求めたのか。その力でこれから何をするつもりなのかも包み隠さず語った。


 オトハを含め、団員達は言葉もなかった。


「……そうか」


 そんな中、父がおもむろに口を開く。


「分かった。退団を認めてやろう。《朱天》は餞別代りにくれてやる」


 その言葉に、再び騒然とする団員達を父は一喝する。


「――馬鹿野郎どもが! 男が腹くくって決めた事だ! 口出しすんじゃねえ!」


 シン――とするキャラバン内。団員達は一様に口をつぐみ、オトハは状況が呑み込めずただ呆然とするだけだった。

 そして静寂の中、父は少年に告げる。


「てめえが決めた生き方を否定するつもりはねえ。だがな、これだけは言っとくぞ。俺達は家族だ。辛くなった時、帰る場所があるってことを忘れんなよ」


「…………」


 少年は出会った頃のように父をじっと見つめると、深々と頭を下げた。

 彼が傭兵団を発ったのは翌日のことだった。

 すべての団員達が彼を見送った中、オトハだけはそこに立ち合わなかった。

 彼に会えば、感情が爆発してしまいそうな気がしたのだ。あの時の感情が一体どんなものだったのかは、正直、今でも分からない。


 自分は一体どうしたかったのか。

 泣いてでも引き留めたかったのか。

 胸に抱く淡い想いを伝えたかったのか。

 死んだ恋人のことなど忘れて欲しいと願いたかったのか。


 それとも――。



「……私はすべてを捨ててでも、あいつについていきたかったのか」


 汽笛の音に耳を傾けながら、オトハはそう呟く。

 海原を軽快に渡る最新の鉄甲船。彼女は今、一人船首に佇んでいた。目の前には端の見えないほど巨大な島が確認できる。確か名前はグラム島といったか。


「予想より随分と早く着いたな」


 恒力を補助にしか使わない通常の帆船で二週間かかる距離を、恒力のみで動くこの鉄甲船は七日で渡り切ってしまった。技術の進歩とは大したものだとしみじみ思う。


 オトハは島の方へと視線を向ける。そこには、大きな港の影が見え始めていた。

 あと数分もすれば、あそこに辿り着くだろう。


「あれが、アティス王国……」


 オトハがぽつりと呟く。何故か港が近付くほどに、トクンと鼓動が大きくなっていくのを感じた。オトハは静かに胸元に手を添えた。


 そして――。


「ここに……クラインがいるのか」


 愛しげにも聞こえる声で友人の名を呟くのだった。



       ◆



 アティス王国・市街区――。

 そこは木造の家屋が多く並び、鎧機兵の工房や多種に渡る店舗、さらには闘技場など娯楽施設もあるアティス王国の中でも最も活気のある地区である。


 しかし、だからと言って、どこもかしこも人だらけという訳ではない。

 中には人通りの少ない路地裏も存在する。

 エドワードとロックの二人は、そんな人通りの少ない路地裏を歩いていた。


「ちくしょう……お前はいいよなあ、エイシスはまだフリーだし」


「いや。彼女は彼女でガードが堅すぎて大変なんだぞ?」


 気落ちするエドワードに、できるだけ明るい口調で声をかけるロック。

 けれど、石畳で舗装された道を進むエドワードの重い足取りは変わらなかった。


「ううぅ、ひでえよ。俺の恋は告白もしない内に終わったのか……」


「……まあ、流石に気にするなとは言えんなあ」


 どん底まで落ち込むエドワードの肩をロックはポンと叩いた。

 しかし、友人は溜息を返すだけ。ロックはやれやれと苦笑をもらす。


(これは重症だな)


 彼らは今「路地裏の隠れた名店」と評判だったパスタ店で昼食をとった後だった。

 今日は週末のため、騎士学校が午前中に終わった。だからこの機会にエドワードを少しでも励まそうと食事に誘ったのだが、大して成果はなかったようだ。


「ううぅ、よりにもよって相手があれかよ……」


 エドワードのテンションはますます下がっていく。

 ロックは再び苦笑した。エドワードがここまで落ち込む理由はよく分かる。

 何故ならアリシアから聞いたエドワードの恋敵とは、あの――。


(……流れ星師匠か)


 正直、あまり思い出したくない名前に、ロックは深々と溜息をつく。流れ星師匠とは最近有名になった、とある人物の二つ名であった。

 かの人物のことを尋ねると、みな口をそろえて言う。


 とにかく強い。とんでもなく強い、と。


 いわく、彼の操る鎧機兵は掌底一発で装甲を砕き、さらには空まで飛べるらしい。流石に胡散臭すぎて鼻で笑う者も多いのだが、ロック、そしてエドワードにとってはとてもじゃないが笑えない話だ。

 なにしろ、その噂を生み出す切っ掛けを作ったのは自分達なのだから。

 ず~ん、と肩を落とすエドワードを横目で捉え、ロックは再び溜息をついた。


(……あの時は本気でビビったもんな。しかも、今やフラムの師匠とはな。しかし、これって間違いなく俺達が出会いを作ったんだろうなあ)


 そう。あれは今から半年ほど前のことだった。

 あの日、たまたま市街区に出向いていたロックとエドワードは花屋の娘をナンパしていた。まあ、エドワードの悪癖のようなもので悪ノリしていたと自分でも思っている。

 ただ、どうやら花屋の娘の方はナンパに慣れていなかったようで、彼女はみるみる涙目になっていた。ロックもエドワードも流石にまずいかなと思っていた矢先、


「……あなた達、何をしているの?」


 不機嫌そうなサーシャが現れたのだ。

 そして、まだ当時は彼女に恋心を抱いてはいなかったエドワードと激しい口論になり、普段ならエドワードを止めるロックまでムキになってしまい、結果、鎧機兵を用いた喧嘩までに発展したのだ。……今更だが、我ながらアホだったと思う。


 が、その私闘こそが、あの流れ星師匠を呼び込むことになってしまったのだ。

 まあ、簡潔に言ってしまえば、サーシャを庇った師匠に二人揃ってぶちのめされたのである。


(……むう、これでもしフラムと師匠が結ばれでもしたら、完全に俺達がキューピッドだな。エドが落ち込むのも仕方がないか)


 それに加え、その時エドワードは師匠から容赦ない「お仕置き」を喰らっており、きついトラウマを抱えていた。根本的に立ち向かう心がへし折れているのだろう。

 闘う意志が湧き上がらない以上、諦めるしか他ない。


「なあ、エド。女は別にフラムだけじゃない。新しい恋でも見つけたらどうだ?」


 と、一応前向きにもとれる提案を友人に持ちかけるが、エドワードの心には届かない。それどころか憤慨した表情を浮かべ、


「はん! 一体どこに新しい恋があんだよ。あのフラムに匹敵する女がそんなゴロゴロいんのか? あのキュッとくびれた細い腰に、しなやかな足のライン。何よりもすべてを包み込むようなあの見事なおっぱいを、他の誰が――」


 と、そこで半ばセクハラじみたエドワードの台詞がピタリと止まる。

 何故かエドワードは前を見据えたまま硬直していた。


「……エド? どうしたんだ?」


 ロックは訝しげにエドワードの顔を覗き込んだ。

 すると、エドワードはポツリと呟く。


「……見つけた」


「見つけた? 何を……」


 ロックが再び尋ねると、エドワードは震える指先を前に向け、


「……新しい恋を見つけた」


「……新しい、恋、だと?」


 ロックはエドワードの言葉を反芻して、友人の指差す方へと視線を向けた。

 すると、そこには一人の女性がいた。

 年の頃は二十歳ほど。いや、もしかしたらまだ十代かもしれない。

 短い紫紺色の髪を持ち、スカーフのような赤い眼帯で右側の顔の半分を覆っている美しい女性だ。が、エドワードの視線を釘付けにしているのはそのスタイルだろう。


(……おお、こいつは凄いな)


 ロックもまた、思わず喉を鳴らす。

 彼女はエドワードが熱く語った、腰も足も胸に至るまでサーシャに匹敵――否、それ以上の見事なプロポーションをしていた。しかも身に纏う黒いレザースーツが、その身体のラインを際立させている。エドワードが見惚れるのも仕方がないだろう。


「お、おおおお、俺は今運命を感じたぞ!」


「エ、エド? お、落ち着け。フラムの事はどうした?」


「え? フラムって?」


「お前、ホントに軽いな!?」


 友人の変わり身の早さに思わずツッコむロックだったが、エドワードには聞こえていないようだ。魚を前にした猫のような身軽さで女性へと走り出す。


「お嬢さん! 何かお困りで!」


「――えっ、な、何だお前は……」


 いきなり声をかけられ困惑する女性。エドワードのまるで迷いのない行動力に、長い付き合いであるロックでさえも呆れてしまった。


「いえ。お見受けしたところ何やらお困りのご様子。お嬢さんのようなお美しい方が眉を寄せるなど、このエドワード=オニキス、到底看過などできませぬ。ささ、お困り事があるのならば、このエドワードに何なりとお申し付け下さいませ」


 変なスイッチでも入っているのか、エドワードが時代錯誤な口上を述べている。女性の方は完全に困惑顔だ。ロックまでもが唖然としてしまった。


「い、いや、そ、そうだな。実は道に迷ったんだが……」


 と、律儀に言葉を返す女性。それを聞き、ロックは改めて女性の姿を見た。


(ああ、なるほど)


 よくよく見れば、彼女は腰に反りの入った短剣を提げ、肩には筒状の大きな布製鞄をかけている。どうやら旅人のようだ。この王都ラズンは広大だ。市街区だけでも端から端まで歩けば丸一日かかる。ましてや裏路地ともなれば似たような建物ばかりで、一度入り込んでしまうと初めての者は大抵迷うものだ。彼女が困っていると一瞬で見抜いたエドワードの眼力は何気に凄いのかもしれない。


「なんと! そうでしたか! ならば、このエドワード=オニキスがお嬢さんを大通りまでエスコート致しましょう!」


 と言うなり、エドワードは女性の肩に手を回した。

 女性の顔が嫌悪で歪む。が、よほど浮かれているのか、エドワードは気付かず「ささ、参りましょう」と女性を促した。


(お、おい待てエド。それは少し馴れ馴れしすぎるぞ!)


 ロックは二人から少し離れた後方で焦りの表情を浮かべていた。行動が拙速すぎる。これは叩かれても仕方がないパターンだ。

 しかし、女性は人通りのない路地裏に迷い込んで本当に困っていたのだろう。不快感を露わにしつつもエドワードのエスコート(?)を受けることにしたようだ。


「……そうか。なら、すまないが大通りまで案内を頼む」


「ええ、もちろんですとも! このラズンは私の庭のようなもの。大通りとは言わずお嬢さんの望む所ならばどこへでも案内致しますぞ!」


 女性の了承を得て調子に乗ったエドワードは、軽快な足取りで進み始めた。

 肩を掴まれた女性も渋々といった感じで歩を進める。後を追うロックとしてはひやひやものだ。


(お、おい、エド)


 エドワードは彼女の美貌に見惚れて気付いてもいないかもしれないが、女性の口調、さらには腰に差した短剣。恐らく彼女は鎧機兵乗り――恐らく傭兵の類だ。

 鎧機兵乗りの女傭兵には、気の強い女性が多いと聞く。


(あまり調子に乗っていると今度こそぶっ叩かれるぞ。自重しろよエド……)


 と、友人の身を案じるロックだったが、残念ながら彼の心配は見事に的中した。

 一体どこまで調子に乗るのか、エドワードは女性とさらに密着するため、「おっと石が」と呟き(ちなみに外壁近くの田園部ならともかく石畳で舗装されている市街区に石が落ちていることはない)、不自然なぐらい強引に彼女を抱きよせたのだ。ロックは青ざめた。後ろから見ると、まるで痴漢が抱きついているようにしか見えない。


(ば、馬鹿ッ! それはやりすぎだ!)


 思わず制止の声を上げかけたが、すべては遅かった。


 ――ギリッ。


「へ? ひ、ひぎゃああああああああ―――ッ!」


 路地裏に響くエドワードの悲鳴。ロックは力なく額を打った。


「……調子に乗りすぎだ。小僧」


「ひぎゃあ! や、やめて、ごめんなさいいイィィい!」


 ギリギリギリ、と。

 女性はエドワードの右手の甲をつねっていた。指の力が桁違いなのか、エドワードが必死に逃げ出そうと身体を動かしているのにも関わらず、右手だけは女性から離れようとしない。エドワードの顔色がどんどん悪くなる。


「……私も本当に困っていたからな。多少の事なら大目に見るが、お前は調子に乗りすぎだ。私はそこまで気安くない。私を抱いていいのは私よりも強い男だけだ」


 言って、女性はエドワードの手を離した。


「ひ、ひいいイィィ……ッ」 


 右手を押さえながら、涙目になって後ずさるエドワード。

 しかし、女性は最後まで容赦がない。トスンと布製鞄を落として身軽になってから、大きく右手を振りかぶる。


(うわっ、これはやはりぶっ叩かれるか)


 その一部始終を後ろから見ていたロックはそう思った。

 が、結果はもっと厳しかった。女性は右手を振りかぶった勢いでエドワードの右腕を掴むと、そのまま流れるような動きで彼の身体を背負い、投げたのだ。


「ッ!? う、うおおおおおおおッ!?」


 驚愕の声を上げ、宙を舞うエドワード。ロックも目を丸くしていた。

 そして頑丈な石畳の上に叩きつけられる少年の身体。受身など知らないエドワードは衝撃を逃がすこともできず、モロにダメージを喰らうことになった。


「ぐ、ぐが、ぐげが……」


「エ、エド! し、しっかりしろエド!」


 何やらヤバげな呻き声を上げるエドワードに、ロックは流石に焦りを覚えた。これはまずいかもしれない。急ぎ駆け寄り、エドワードの上半身を抱き上げる。血の気が失せた友人は呻き声を上げていたが、不意に、最後の力を振り絞るように口元を動かし始めた。どうやら伝えたいことがあるようだ。


「な、何だエド!? 何が言いたいんだ!?」


「ロ、ロック……そこにいるのか?」


「ああ、ここにいる。何だ? 何が言いたい?」


 と、心配げに問うロックに対し、


「す、すっげえ良い匂いだった……」


 エドワードはやり遂げた男の顔で告げる。


「はあ?」


 キョトンとするロック。そして最後に、


「へへ、柔らかかったぜ……」


 と言い残すと、エドワードはそのまま気絶してしまった。


「お、お前、それが最後の台詞か!?」


 まさか、こうなることを覚悟した上であんな暴挙に出たのだろうか? 浮かれているように見せかけ、脈が全くないのを瞬時に悟り、せめて感触だけでも、と?

 だとすると、ある意味凄い男だ。


「エ、エド……お前って奴は……」


 呆れ半分、驚嘆半分でロックが呻いていると、


「……何だ? この程度で気絶したのか?」


 女性の呆れたような声が路地裏に響く。ロックは反射的に身体を強張らせるが、別に彼に話しかけたのではなく、ただの独り言だったようだ。

 彼女は布製鞄を拾い上げるとそのまま立ち去ろうとした。もう案内は不要らしい。当然と言えば当然か。

 ロックとしても引き留める理由もないので見送るつもりだったのだが、


「……まったく。クラインの奴はどこにいるんだ?」


 不意に聞こえてきた女性の嘆息混じりの呟きに眉根を寄せた。

 クライン。聞き覚えのある名前だ。


「クライン? アッシュ=クラインのことか?」


 思わず思考を口に出してしまった。


「……え?」


 女性がキョトンとした表情で振り返る。

 彼女はしばし、じっと立ち尽くしていたが、


「……お前、クラインのことを知っているのか?」


 そう告げて、ロックと横たわるエドワードに近付いてきた。

 そして彼女は、まじまじとロック達を見つめてくる。


「え? い、いや、確かにアッシュ=クラインなら知っているが……」


 ロックは困惑の表情を浮かべた。彼が今口にした「アッシュ=クライン」とは流れ星師匠の本名だ。知らない訳がない。

 ロックの返答に女性はあごに手を当てた。そして「……よし」と呟くなり、両手を腰に当てると前かがみになってロックに視線を近付ける。上半身の勢いにつられて大きな胸がたゆんと揺れる様は、エドワードが起きていれば大喜びしそうな光景だったが、ロックには見惚れる余裕すらなかった。なにせ、女性の眼光が笑えない。まるで黒豹と向かい合っているような圧迫感だ。


 ごくり、とロックが喉を鳴らして委縮していると、


「お前、私をクラインの元まで案内しろ」


 いきなり女性はそんなことを言い出した。


「え? な、なんで俺が――」


「そこに寝てるのはお前の友人なのだろう? なら連帯責任だ。それに今ならお前の方は投げないでいてやるぞ?」


(……むう)


 ロックは内心で呻いた。

 確かにエドワードが痴漢に等しい行為をしたのは事実だ。しかも今の彼女の台詞だと、断った場合、自分まで投げられることが確定している。


 ロックはしばし考えた後、「……分かった。案内するよ」と答えた。


「うむ。よろしい。では頼むぞ少年」


 と、ご満悦な笑みを浮かべる女性に、ロックは深々と溜息をついた。

 ああ、エドワードがナンパをする日はロクな目に合わない。

 しみじみと、そう痛感するロックだった。

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