短編供養

かのえ

第1話

 その森に入ったら、二度と帰ってこられないと言われている。けれど、ぼくにはその森に入る理由があった。それは、ぼくは帰りたくなかったからだ。進路のことで親と喧嘩をした。ぼくはどうしても小説家になりたかったのだが、親は、就職をしろとぼくをきつく叱った。要するに、家出だったのだ。ただ、正直なところ意地を張っているだけなのだ。小説を完成させたことは、ここ数年ない。つまり、処女作をのぞいて完成させたことがないのだ。だから、これ以上家にいたら、もしかしたら、小説を完成させられないことに、心が折れて、就職してしまうかもしれない。なので、二度と戻れない森に入った。

 ぼくが小説家にどうしてもなりたい理由というのが、その処女作にある。ぼくは薄暗い森を、懐中電灯片手に歩きながら考えた。ぼくには姉がいた。今はもういない。姉も同じく小説家志望だった。ぼくと同じく、といえば失礼かもしれない。姉は新人賞に何度も作品を投稿していた。しかし、受賞することは叶わなかった。そこで、姉はぼくに筆を持たせた。なにかひらめきが欲しかったのだろう。

「1ページずつ、交代で書こう」

ぼくは姉のことが好きだった。好き、というのは家族愛でもなんでもなく、恋愛的な…もっと言えば性的な意味合いで好きだった。だから、姉の言うことはなんでも承諾した。そして、1ページずつ交代で書いた小説は…見事新人賞を受賞した。登場人物は2人。主人公の男と、女。よくある恋愛ものである。どこが評価されたのか。それは、主人公の男の視点から描かれる、女に対しての妄執。女は、財閥の令嬢で、主人公の男と大学の同期。ただし、女は将来、政略的な結婚を約束されていた。男と女はお互いにその制約を知っていた。しかし、それを了承したうえで、女は男を誘惑し、男は女を求めた。そして、虚しいそのゲームは大学卒業をもって終了する、というあらすじである。

 決して手に入ることのない女。そうだ。ぼくは、この女を、姉にかさねて、小説を執筆した。新人賞では、女に対する渇望のリアリティが評され、単行本は人気を得た。

 姉は、自殺した。新人としてデビューした後、一向に書くことができなかった。それでも、二度とぼくに共同執筆を頼むことはなかった。

 ぼくは姉が好きだった。……だから、姉をもう一度書こうと思った。しかし、書けなかった。男が女を求める。その過程が書けても、女というものが書けなかった。

 

 ぼくを追う者はいなかった。だから、ゆっくりと歩いた。時間はたっぷりあると思った。この森は、この森で死んでも、自分が死んだと気づかないのではないか、というくらいの静寂が包んでおり、しかも、神秘的であった。だから、なにか音がしたら、すぐ異変に気づく。

「誰だ」

ぼくは後ろを振り向いて言った。懐中電灯に照らされた影は、見覚えのあるかたちをしていた。姉であった。ぼくは動揺して懐中電灯を落とした。再び、それを拾って、影を照らすまでに、その影は消えていた。

「幽霊か」

ぼくは、無我夢中で鞄からノートとボールペンを取り出した。そして、その影を描写する。スケッチをする。特徴をメモする。ありとあらゆる方法で、記録に残そうと試みた。それが、「姉」という作品を書くことにつながると期待した。幽霊でも、怨霊でも、なんでもよかった。姉に再びたどり着く、その手がかりになるのなら…………。


 森の風が、干からびた男の背中を撫でた。まるで、女が男を誘惑するように。男は姉が死んだこの森で、姉と同じように朽ちた。森の中には、「姉」という手記と、「弟」という手記が、未だに眠っている。

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短編供養 かのえ @kanoe_fuyu

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