第10話

私は落下していた。神様から落ちたのだ。何でこうなったのかはよく分からない。ただ、何かが終わったということだけは分かる。あの神様はもう私のものではなくなったのだ。神様が形を変えている。わずかに残った繋がりから今までとはぜんぜん違う流れを感じた。それは長く触れたらきっとどうしようもないことになる類のもだった。今まで感じたことのない恐ろしい感覚だった。とてもとても恐ろしかった。

 ゆっくりと、思い返す。自分の今までの真っ黒な日常、そこに神内さんが現れたこと。そして力を手に入れたこと。

 私の日常は本当に真っ暗だった。何の希望もありはしなかった。死んだほうが恐らく楽だけど、死ぬ勇気もなくて死ねないような、でも死ぬことばっかり考えている日常だった。身の周りにある何もかもが見えない壁の一枚向こうにあるようだった。

 借金取りに負われるのは辛い。借金があるのは辛い。終わりの見えない苦しみは辛い。そして家族が死んでいくのは何より辛い。

 私は世の中が憎かった。全部ぶっ壊してしまいたかった。こんな自分を置いてけぼりにしてのうのと生きている連中が許せなかった。平凡な人からすれば多分ただの一人よがりに聞こえるのだろうが、こっちは大真面目なのだ。

 それほどに辛いものだった。苦しいものだった。絶望だった。倫理とか常識とかどうでも良くなる類のものだった。

 それで力をもらって、とうとう願望を実現できるようになった。

 初めて自分のせいで人が死んだ時すごく清々しかった。願望がかなったのだ。清々しかった、そのはずだった。多分。

 それからどんどん事が大きくなっていって。新聞に載ったり、いろんな人が動いたりして、まさしく事件は私を中心に回っていた。

 いい気分だった。とうとう皆が思い知ったのだ。いい気分だった、はずだ。多分。

 どうだっただろうか。憎い相手が死んだのは気分がいい。皆が自分の思いを知って、自分に注目してくれるのは気分がいい。それは違いない。でも、多分それ以上に。

 私は落下している。神様はどんどん姿を変えていく。恐ろしいものだ。とてもとても。今までの高揚感が忘れ去られる本当の怪物だった。

 私は今までのことを思い返している。首を吊った兄が揺れていたあの日。兄と二人で何の望みもなく過ごした日々。両親が自殺を告げて玄関を出て行ったあの日。借金取りに追われ、世の中から置いてけぼり送らっていた日常。莫大な借金が発覚したあの日。ああ、でも、そのもっと前はどうだっただろうか。もう真っ黒な日常に塗りつぶされた昔。あまり思い出せない記憶。いや、嘘だろう。思い出さないようにしていただけかもしれない。

 私の本当の望みは何だっただろうか。



もはや街と呼べなく鳴ったガレキの山。その一部がはじけ飛ぶ。比馬だった。比馬は梓を抱えていた。ゆっくりと地面に降ろす。梓は震えていた。

「怪我はないか」

 比馬が言うが、梓は答えない。代わりに小さな声でボソリと呟く。

「・・・・あれは・・・何?」

「あれが神性種だ。今までのは所詮神気の化け物といったところか」

 梓の震えは止まらない。両手で肩を抱くが、その腕にも力が入っていない。恐怖に当てられている。

「あれは、何もかも壊すの?」

「ああ。あれなら本当に世界を壊せるだろう」

 梓の呼吸が荒くなる。

「あんな、あんなもの・・・。あんな怖いものを私が作ったの?」

「半分は違うが半分はそうだろうな」

「あんなもの、私の望んでたものじゃない」

「ああ、そうだろうな」

 比馬は立ち上がり神性種を見上げた。なんのつもりか神性種は空中で静止していた。その姿からはやはりなんの感情も浮かばなかった。

 比馬は再び梓を見た。まだ震えていた。

「お前は恐ろしかったのだろう。あの怪物が」

 梓は答えない。

「お前は恐ろしかったのだろう。人を殺したことが」

 梓は答えない。

「お前は苦しかったのだろう。真っ暗な生活が」

 梓の腕に心なしか力が入ったようだった。

「お前は悲しかったのだろう。家族が死んでいったことが」

 梓の震えが小さくなっていった。

「お前はまた欲しかったのだろう。幸せな日常が」

 比馬が言うと梓は体を抱えるように縮こまり嗚咽を漏らして泣いた。

「まったくバカをやったものだ」

 比馬はガレキの中から刀を拾い上げた。ヒビがないかを確かめる。

「何をするつもり」

 少女が顔を上げて聞いた。比馬の動きが信じられないようだった。

「決まっているだろう。あれを倒すんだ」

「できっこないわよ。あれを見たら分かるでしょう。人間がどうにかできるものじゃないわ」

「さぁ、やってみたら案外なんとかなるということもある」

 梓は比馬の大きな背中を仰ぎ見た。コートはボロボロ。所々に血の塊がこびりついている。

「何でそこまで」

「あれを倒さなくては大変なことになる。それに受けた仕事だ。こなさなくては金が入らん」

 比馬は刀を肩に乗せた。見上げた怪物は明らかに人間が敵う相手ではない。倒す手段もなく、攻撃力、防御力ともに絶望的に高い。

「お前はここで待っていろ。今助けが来る」

 比馬の体を黒いもやが覆い始めた。腰をかがめ足に力を込める。

「私はこれからどうなるのかな」

 梓がポツリと言った。別に比馬に言ったわけではないようだった。視線は宙を向いていた。表情は歪んでいた。今までのものより随分に人間味のある顔だった。比馬は梓を振り返る。

「心配するな。俺があれをぶち壊し、お前は牢獄にぶち込まれ、罪を償って出所する。そしてその後幸せな生活を手に入れるんだ」

「馬鹿みたいに現実感のない話ね」

「そうなる。必ず。だからとっとと隠れていろ」

 比馬の体を覆うもやがどんどん濃くなっていった。今までと比べ物にならないくらいのそのもやは、もはや比馬の体を完全に覆い隠していた。コートも髪も全身の全てが真っ黒に塗り替わり、比馬は紫色の目をした真っ黒な魔物に変わった。

「あなたは何なの」

「そんなに大したものじゃない」

 比馬は怪物に向かって吹っ飛んだ。



怪物は飛んで来る比馬を感じ取ったようだった。別に目を体を比馬に向けるということもなかったが巨大な力場でそれに応じた。超音速で飛ぶ比馬に一部のズレもなくそれを当てた。比馬の黒い体がひしゃげ、砕け散る。

「がぁっ!」

 そのまま吹き飛ぶが砕けた体が再び形を取り戻し、完全に人型に戻った。そしてそのまま空中に着地した。今までのように黒いもやを足場にしているわけではない。本当に宙に膝を付いていた。口から血が滴る。

「やぁ。来たんだね。それが魔人の力の完全形態というわけかい」

 怪物の肩の上に乗っていた神内が言った。神内は相変わらず穏やかな笑顔を浮かべていたが、どこか切なげだった。

「物理法則とも、神気の法則とも違う第三法則の力。現代の科学では説明できない異能の力。まったく実際目にすると不可解だね」

「そうか」

 比馬は短く答えただけだった。神内はこれといって表情を変えなかった。今の言葉は大した意味はなかったようだった。そんなことより聞きたいことがあるようだった。

「梓ちゃんに何を言ったんだい」

「バカなことはお終いにしてさっさと目を覚ませと言った」

「バカなことだって? これはバカなことなんかじゃないよ。彼女の本当の望みだよ」

「違うな。あいつの本当の望みはもう一度幸福を手に入れることだ」

「まさか。そんなことを彼女に言ったのかい。それは違う。ぜんぜん違うよ」

「いいや、違わない」

「いいや、違う。望みっていうのはそんな誰もが抱いてる本能みたいなものじゃないよ。自分の置かれた状況から理性を持って発生する感情の事だ。彼女は幸福を奪ったことに対して、奪われた自分を置き去りにした社会に対して、本当の復讐心を抱いていた。それこそが望みだよ。彼女の本当のね」

「違う、その感情は一時の迷いだ。本心ではない」

「違わないよ。人間っていうのは変化していく。変化した最前線こそがその人間の本当の姿だ。過去の望みや、本能的な願望は大した問題じゃない。人間は理性を持って変化し続けるんだ。常に別の存在へとね」

「むぅ」

 比馬は唸る。言い負かされた訳ではなかった。単純に神内の言っていることがよく分からなかったのである。比馬の頭が足りないことが原因というよりは、神内の思考パターンがまったく違うために理解できなかったのだ。しかし、比馬は自分なりに神内の言うことを噛み砕いて思考する。

「貴様が言いたいのはつまるところ、人間は過去も性分も全部理性で塗り替えてまったく別のものに変われるということか」

「安っぽい言い方をするならね」

「それならまったく賛成できんな。人間は産まれたときの自分という延長線上から死ぬまで逃れられん。過去も性分も努力で補えるが、完全に変化し消えるわけではない。人間は自分というものから逃れることはできない」

「・・・・・忌々しい意見だね。君とは分かり合えそうにない」

 神内は眉をしかめた。

「大体、彼女が君の言うとおりにしてどうなるのか解ってるかい。これだけの事を起こしたら何百年という懲役が付く。よしんば奇跡でも起きて出所できたとして、その先に待つのは地獄の日々だ。罪悪感に取り憑かれ、世間に馴染むに馴染めない。今までの生活よりも過酷かもしれない。君は彼女をそういう未来へ導いているんだよ。自分がどれほど残酷か知った方がいい」

「それには返す言葉も無い。俺は恐らく悪魔なんだろう」

「分かっていたのかい。一層不可解だよ」

「それでもあいつは確かに幸福を望んでいた。幸福を望むものは幸福になるべきだ。悪魔だろうがなんだろうが手を貸すべきだと思った」

 比馬は静かに言った。

「君は歪んでいるよ。そんなに他人の幸福を望むのは狂っている。君は他人に干渉しすぎだ。他人に踏み込みすぎている。気持ちが悪いよ。そんな理由でこんな絶望的な敵に挑むのも異常だ。君、さっき体が原型を失うくらいに砕けてたじゃないか。いくら再生するとは言ってもそこまで他人のために自分を犠牲にするのはまともじゃない」

「そうだな。やはりそういう意味では狂っているんだろう。だが、狂っているからどうした。歪んでいるからどうした。俺が行動すればあいつの助けになり、俺も大抵のことでは死なん。上手くいけば皆、丸く収まる。結果が良ければそれでいい。歪んでいようが狂っていようが、他人を不幸にせず、自分が不幸にならなければどうでもいいことだと俺は思う。大体、こいつを放っておいたら大変なことになるだろうが。あいつのためとかどうとか以前にな。だから結局戦うしか無いんだ俺は」

「・・・・不愉快だよ。君の考え方は。何から何まで君には賛同できない。君は僕の目指す世界にとって間違いなく障害になる」

「そうか。別に貴様に嫌われようが俺の生活には何の影響もないからどうでもいいがな」

 比馬はすっくと立ち上がり刀を構えた。体が完全に回復したのだ。

「やる気かい。さっき君は他人と自分が不幸にならなければ、と言ったね。じゃあやっぱり君は間違っている。君はこれから不幸になる。何せ死ぬんだからね。君を殺して梓ちゃんをこっちに呼び戻すよ」

「死なんさ。お前は魔人を舐めている」

 比馬は再び怪物に斬りかかった。

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