桜ん坊と百合の花

畑々 端子

 桜ん坊と百合の花

私は生粋の下戸である。ゆえに酒の席ではトムソンガゼルでしかなく、麦に米に葡萄にと次から次へと胃袋へ流し込む豪者の隣で、必至にひ弱な角を構えているしかない。

 だが、その分、費用の元を取らねばなるまい。と鯨飲はできないながら馬食の限りをつくすのが常であった。

 大学の夏休みはとかく長く、それゆえに多くの大学生にとっては経験することも多いはずなのであるが、私と言えば、文芸部に徹するか部の先輩である真梨子先輩の誘いにて昼夜を問わず飲み会へ参加すると言う、一方からは羨ましがられ、私自身ではなんとも実りのない2回目の夏休みを過ごしていた。

 本日も朝から真梨子先輩に呼び出されて眠た眼を擦りながら、一昨日から置きっぱなしとなっているリュックを手に、あくびをたずさえて家を出た。

 『文芸誌がんばろー会』と名打たれた飲み会。建て前としては、文化祭で出版する文芸誌の原稿なりを精力的に良いモノをつくろうと言う激励会なのだが……一昨日も『文化祭がんばろー会』を催したばかりであるかぎりは、体の良いただの飲み会であることは言うまでもない。

 私は真夏の猛暑の中をわざわざ大学の最寄り駅から学舎とは真逆の方向に進路を取って、とあるスーパーマーケットに向かい。そこでマシュマロとテナントとして入っているたこ焼き店のたこ焼きを購入した。私の好みうんぬんではないが、たこ焼きには所望者である真梨子先輩のこだわりがあり、青のり多めのかつおぶし少なめ、そしてソース多め。それを満たしたたこ焼きでなければならないのである。

 もちろん、これらは私の財布から支出されるのであるが、私は決して真梨子先輩にレシートを渡すことも見せることもしない。金銭にこそは、親しき仲であっても、たとえ小銭であってもきっちりしておくのが私の流儀である。だが、それとこれとはまた別の話なのだ。

 今回のように、催される『会』では、真梨子先輩がほとんどの飲食費を黙って財布から出している、だから私のような貧乏学生であっても大学生による大学生のための飲めや食えやの宴会に連日参加することが叶うのである。

 もしも私が真梨子先輩と出会っていなければ、宴会などと縁遠く休日など全てを一人寂しく自室にてふて腐れていたことだろう。

 口にこそ出さないが、私は真梨子先輩に感謝しつつ、尊敬もしていたのである。



 ◇



 夏場に限って開催される会場と品目は毎度と同じで、付属図書館と体育館の間にあるこじんまりとしたスペースでの焼き肉と相場が決まっていた。


 この場所は現在では使われていない、グランドへの通路であったために白いタイルで舗装されている。背の高い建物に囲まれている隙間であることと、樹齢50年とも言われる槁のお陰で、夏場でも一日日陰であり、加えて時折吹き抜ける微風でもビル風となって団扇なども必要はない。

 そんな最適地にて、正午を前に飲めや食えやの宴会が催されるのである。私が到着した頃には、すでに骨付きのカルビが網一面に並べられてあった。


「遅いぞ、恭君!そして買ってきてくれた?」


 トングを右手に左に缶麦酒のロングを持った真梨子先輩がぴょんぴょんと跳ねるように私の元へやって来た。その際、たわわな胸元も一緒に跳ね踊り「恭君やらしい」と私の目線に文句を言う先輩であった。

 私は言いたい。夏であり本日が最高気温を更新した記念すべき猛暑日であると言えども!体のラインをこれ見よがしにぴったりと、そして、谷間を覗かせた白のTシャツに赤い下着を身に着ける先輩の方が悪なのであると!

 付け加えるのであれば、ミニのキュロットスカートもどうにかしてほしい。

 とにかく、真梨子先輩の方を向けば、自然と胸元へ太股へと視線が向いてしまうのだ、それはもう万有引力がごとく……

 とは言え、万有引力にのみ素直に従うと、常夏を思わせる趣味の良いサンダルと赤いマニキュアで装飾された光沢ある爪に行き当たる。そして私は決まって思うのである。

 いつもながらに靴だけは垢抜けていると……


「頼まれた、たこ焼きとマシュマロです」


 私はそう言うと真梨子先輩の前言を無視して、作り立てほやほやのたこ焼きとマシュマロの入ったスーパーの袋を渡した。


「さぁんきゅっ」


 上目遣いにウインクを残してまた駆けて行った先輩。

 こんなお茶目な先輩に何人の男どもが夢を抱いては項垂れたことだろうか。天から賦与された胸元の果実と白く伸びた羚羊のような足に、ぷっくりとした唇、風に靡くたびに良い匂いが漂う茶色い長髪。


 こんな女性に憧れない男は男ではない……


 自分で言っておいてなんだが、私はそんな先輩に微塵も惹かれるものがなかった。

文芸サークルに入った当時は、男子の浪漫の詰まった胸元とその体つきには、それは脈を早くさせたものだが、真梨子先輩の噂を聞いた途端に冷や水を浴びたように、異性としての魅力を感じなくなってしまったのであった。

 先輩の美貌は私も認めるところであるのだが、しかし艶容たる美貌を間違えたベクトルでひけらかす癖があり、それが身なりに言動に仕草にと、憚りなしに現れているのであるからして、たちどころに『我こそは!』と自信があるも無きも男どもが寄って集ってくるのである。

 不思議なことに、そのくせ先輩に彼氏がいるとは聞いた事がない。そこれはそれとして、私が冷や水に感じたのは、飲み会で意気投合をすると、先輩は酒の勢いですぐに男を自分の部屋へ連れ込んでしまうと言う噂だった。年頃の男女が一夜を共にすると言うことは、つまり……もはや愚問であろう。それが指の数では到底足りないと言うのだから、私はほとほと呆れ返ってしまった。

 一説には男漁りのために、飲み会を催しているとの噂も立っているが、文芸サークル内の飲み会に関しては、私の知る範疇では連れ込みなどの不埒な所行は一度としてなく、無邪気に骨付きカルビを頬張る姿などは、純然にアウトドアを楽しんでいる大学生にしか見えない。

 そして、これだけは言っておきたい。私は確かに先輩に呆れてしまった。だが、それは真梨子先輩と言う人間の人格を否定したわけではない。

 つまりは千差万別なのだ。夜な夜な桃色ホテルへ足繁く通う男女もいれば、別段その行為自体が『悪』であるわけでもない。現代の男女観からすればそのような行為とて容認され、むしろ、抵抗とて感じないのが普通であろう。慎みを以てなどと、貞操観念を強く抱く私こそが、時代遅れであって。詰まるところ私の個人的な偏見でしかないのである。


「そんなとこに立ってないで、恭君も早くおいで。このカルビ美味しいよお」


 貞操観念の根深い私としては、先輩のようなはしたない女性は忌み嫌うはずなのであるが……はずなのだが……私が先輩を忌み嫌うことができないのは真梨子先輩は本質として面倒見も良ければ、優しく、はしたなしを覗けばとても良い先輩であり女性

であったからだ。

 その証拠に、男性から邪に愛されるばかりではなく、出る杭は打たれるはずの同性からも親しみの笑顔を傾けられている。これを人徳と言わずしてなんと言おうか。


「また二日酔いですか」


 ポン酢の入った受け皿に骨付きカルビを取って私に差し出してくれた先輩に私が言った。

 「まあねえ」先輩はそう言って、早々とマシュマロを竹串に刺してあぶっている。


「二日酔いには迎え酒」 


 それでもビールを手放さない気概はさすがと言うに値する。


「それで、昨日はどっちを食べたんですか」


 骨付きカルビにかぶりつく前にマシュマロを口に入れようとしていた先輩にそっと投げ掛けてみた。最低限の隠語であろう。きっと新入生にはわかるまいと思う。


「昨日は2回の女の子」


 そう言いながら先輩はとてもいやらしくマシュマロを口の中に放り込んだのであった。

 早々に前言を撤回しなければならないのは、私の意図したところであると言わざる得ない。事実としてあまり語るべきではないのだろうが、とどのつまり真梨子先輩は両刀使いなのである。


「さすが恭君。あの子は美術部の葉山さん。ほら、今年も美術部に色々と発注するから、お近づきにね」


 先輩はなぜか嬉しそうに、私の視線の先にいる女性を竹串で突くような仕草をしながらそう説明してくれた。

 文化祭の激励会に美術部員が参加するのは毎年恒例であり、なんら珍しいことではない。気になると言えば汗ばんだ真梨子先輩の胸元の方である。

 だが、今回は……いいや今日は違う。先輩が串で突いた彼女は、艶めく黒髪に控えめな前髪、目は凛と肌は白く、小さくもぷっくりとした口元。化粧気こそなかったがだからこそ、唇の色は薄かったし、白いブラウスに涼やかなフレアスカート身に纏った姿はまさに『清楚』を絵に描いたような乙女であった。

 派手な真梨子先輩は私の好みではなかったが、清楚な乙女たる葉山さんこそ、私の好みど真ん中ストライクであったのだ。

 

 このトキメキを心の躍動を人は、一目惚れと言うのだろうか……


 彼女は骨付きカルビを小さな口で勇猛にも囓ると、なかなか噛みきれずに悪戦苦闘の末に、受け皿を落としてしまった。

 慌てた彼女であったが、しっかりとカルビを銜えたままでその収拾を図る様はなんとも言えない可愛らしさがあるではないか。子犬が自分の尻尾を追いかけてくるくると円を描く趣がある。

 私は今日はじめて、真梨子先輩に感謝をした。それはもう深淵から感謝をしていたものだから「真梨子先輩。呼んでくれてありがとうございます」と本人に言ってしまった。


「恭君と私の仲じゃないの。でも、そう言ってくれると嬉しいな」


 そう言って微笑んだ先輩も美人であるのだが……先輩の美を感じ入る前に……男子の嵯峨か、やはり胸元に視線が行ってしまうのは……この状況においてはなんだか申し訳ない。

 私は生粋の下戸であり、宴のはじまり、乾杯と掲げた缶麦酒をお開きまで温めるのが常であり、食べるは食べ、腹が膨れさえすれば酔いにまかせての茶番には参加せずに距離をおいて、これを眺めて余興としていた。

 本日とて肉と言う肉を腹に貯めた後は、炭酸飲料片手に酔っぱらいの言動を静観していることになるだろう。そう思っていたのであったが……番狂わせにも、この場には私の心を爽快に奪ってしまった乙女の姿があるではないか、彼女は人見知りな性分なのか、はたまた私と同じで下戸なのだろうか。食べるに徹した後は缶麦酒を片手に誰と話すでもなく、目だけをきょろきょろと動かして、時折楽しそうに微笑んでいた。

 そんな彼女と視線こそ合うことはなかったが、私は彼女に穴が開いてしまうのではなかろうか。そう思ってしまうほどに凝視していた。


「見てるだけじゃ男らしくないわよ。これ持って行ってあげなよ」


 手の中の缶麦酒が温くなってきた頃合いで、真梨子先輩が今にもとろけてしまいそうなマシュマロの串刺しを私に差し出しながら、肘で私の横腹を二度ほどスキンシップをするのである。先輩に勧められるままに「あの、これどうぞ」と私としたことが温い缶麦酒を持ったまま彼女の元に歩み寄ると、気の利いた台詞の一つも言えず、ただの給仕として、彼女に料理と呼べない食べ物を差し出してしまった。

 だから「ありがとうございます」と彼女は私の顔を上目遣いで見つめながら言うに止まるしかなかったのである。

 硬派を気取るのは良い。いいや、私はきっと硬派であろうと思いたい。けれど、こんな時くらいは軟派な男子を見習いたいと思うのである。どんなに真善美のうち揃った人間であったとしても、第一印象はとても重要で、一度きりの印象の有無によって、今後のあり方も随分と変わってきてしまう。最悪で言うと、これっきりと言うことも往々にしてあり得るのだから恐ろしい……


「あの子、少し人見知りだから、はじめてにしては60点ってところね」 


 項垂れて帰って来た私に、真梨子先輩は優しくそう言うと、「マシュマロ美味しいよ」と私に自分が食べかけた串刺しをくれた。

 そのマシュマロはとても甘かった。きっと真梨子先輩の唇もこんな味がするのだろう。そんな阿呆な妄想に包まれるほどに甘美にして風味は絶佳であった。

私はマシュマロを頬張りながら、私は葉山さんから香ったオレンジをような爽快感と林檎のような後味良い甘い香りを思い出してただ、恍惚としていたのであった。


 

 ○



私が真梨子先輩と知り合ったのは、美術部の『外注に負けないぞ会』の時でした。文化祭への個人出展作品と美術部としての出展作品を昼夜構わずに夏休みの初旬に終わらせ、一息ついたそんな頃合い行われ、言わば慰労と文化祭への景気づけを主にした飲み会にでした。

 その席の下座に座っていたのが、真梨子先輩だったのです。この先輩は名ばかり幽霊部員であると言うのに、毎日せっせと参加している皆勤賞の私よりも有名人のちょっと不思議な先輩でした。

 真梨子先輩と同回生の先輩に偉業の有無を聞いて見ても、帰ってきた返答は「万年幽霊部員よ。でもしいて言うならばキューピットかな」でした。さらに聞けば、美術部作品を何一つとして制作していないとのことでしたので、私は思わず眉を顰めてしまったことを鮮明に覚えています。

 けれど、だからと言って私は排他的に考えることもありませんし、同性の私が言うのも気が引けますけれど、猫のようにほわほわと可愛らしく、年上にもかかわらず、後輩に麦酒を注いで回る殊勝な姿に、私は好印象こそ抱きませんでしたけれど、敬意を抱きました。

 本来ならば好印象の次ぎに敬意がやって来るのだろうかと思います。自分でもそう思っているのですから、きっとそれが順当なのでしょうけれど、真梨子先輩の姿を拝見しますに、とても好印象と言うよりも恥ずかしさが先立ってしまったのです。

 なにせ、先輩ときたら、サイズ間違え買ってしまったかのような、ぴっちりと体のラインに張り付くピンクのキャミソールの上に肩までざっくりと開いたい淡い黄色のシャツを来ているのです。そして、立ち上がるとその下が見えてしまいそうになるミニスカートに黒いニーソックスを履いています。

 右薬指にはめられた銀色の指輪に、アンティークキーを思わせるトップのペンダントは控えめにオシャレだと思いましたけれど……

 白のブラウスにキュロットスカートとオシャレとは言えないながらも、落ち着きのジャンルに部類される私の服装からすれば、それはすでに冒険とうジャンルなのだと思います。


「そのブラウス可愛いわね」


 突然、私の肩まで届かないもみ上げを掠りながら、真梨子先輩は吐息を私の頬に当てながら胸元のギャザーを人差し指で突いてそう私に言いました。


「いいえ、そんな……」


 私はどうしてでしょう……鼓動を早く顔をみるみる間に火照らせながらやっとそう答えることができたのでした。

 不意に真梨子先輩の顔が現れたのにも驚きましたけれど、その吐息のくすぐったいのと、息と一緒に鼻腔をくすぐる優しく甘い香りに思わず心奪われてしまいそうになってしまったことに、私は正直に驚いてしまいました。

 前のテーブルを見ますと私のグラスに金色の飲料がシュワシュワと気泡を讃えています。

 何かが私の後ろ髪を撫でて行きました。その後に香るあの甘い香りから先輩のミニスカートですね。と推測できたのですが「葉山さんは、お酒。いける口?」と隣に腰を降した先輩の胸元の迫力は私には推測することはできませんでした。

 キャミソールとTシャツにぴっちりと、締め付けられていながらその胸元は、これに負けじとしっかりと大山に生地を押し上げ、どっしりと存在感を示しているのです。そして、予てより真梨子先輩の噂を拝聴していた私は、微かに覗く奈落よりも深そうな谷間に、何人くらいの男性達が落ちて行ったのでしょうと、破廉恥なことを考えていたのでした。

 私の頼りない胸元を思うと、羨ましくもありましたけれど……すらっとした自分の体型が気に入っていましたから、さながらジレンマと言うやつですね。


「少しだけです」 


 そう言うと、麦酒の注がれたコップを持つと、部長の長ったらしい妄言を雑音程度に耳に入れながら、横目ではにこにこと笑顔を絶やさない真梨子先輩の顔を見ていました。

 私はお酒が弱いわけではありませんでしたけれど、あまり大勢の人の前で飲むのは趣向ではありませんでしたので、真梨子先輩に注いでもらった麦酒をちびちびと飲んでいました。そんな私の隣では早々と頬をほんのりと赤くした真梨子先輩が割り箸をごっそりと抜いて細いペンで何やら書いていたのですが……

 「ねえ、葉山さんこれ持ってて」真梨子先輩は私に割り箸を一本渡しました。その割り箸には『4』と不吉な数字が書かれてあります。


「王様ゲームしょう!」 


 そして誰もお酒のお代わりをしないうちから真梨子先輩はそう言い出すと、すくっと立ち上がって、手に握った割り箸を机の中心に突きだしたのです。


「待ってました!」


 どこからか、そんな声が聞こえたかと思うと、男性の先輩方は眼を輝かせて我先にと割り箸を引っこ抜き、同性の先輩方は苦笑いを浮かべながら、残った割り箸を引き抜く抜くのでした。

 そして、手に残った最後の一本を握り締めて、真梨子先輩が座布団の上に腰を戻すと「王様だーれだっ」と誰かが言います。


「僕です」


 細波を飲み込んだ鯨が静寂を吐き出すように、私の見たことのない男性が手を上げました。


「よりによって意地悪古平君が王様ですかあ」


 あちゃっ。と続ける真梨子先輩は、肩を私に触れさせました。すると、また仄か甘い香りが漂ってきたので、思わず私はそれを鼻腔一杯に吸ってしまいました。

 それはさておき、その人は古平さんとおっしゃるようですが……少なくとも美術部員ではないと思います。何せ私は皆勤賞なのですから、幽霊部員も含め部員全員の顔と名前は知り置いています。でも、真梨子先輩は知りませんでした……だから、嘘になってしまいますね。

 水を打ったように静かになってしまった場は、飲み会と言うよりは愛の告白を見守る傍観者の集いのようでした。何せ皆が一様に固唾を飲んで古平さんに注目しているのですから……

 男性の先輩方の中にはあからさまに祈っている姿まで見受けられる始末ですから、私はこの『王様ゲーム』と言うのはそれほど夢と希望に溢れたゲームなのだろうと、ルールも今ひとつ理解できないままに、今にも「ハレルヤ!」と叫び出しそうな部長をずっと見つめて、笑いを堪えていたのでした。 


「8番と4番が一夜を明かす。場所はどうぞご自由に」


 古平さんがそう言うと、途端に安堵の溜息と落胆の溜息が飛び交いました。特に部長の落胆の濃厚なことと言ったら……「この世に神も仏もありゃしない!」と叫んだかと思うと、大の字に寝っ転がるべく背を倒したのですけれど、狭い個室内ですから、次の瞬間には思い切り壁に頭をぶつけて、痛みに悶えながら壁に八つ当たりの文句を唱えていました。

 もちろん、私は周りの反応に左右されることなく、部長だけを見ていましたので、その始終をしっかりと見終えてから、ついに笑いを堪えられなくなって、俯いて一人笑っていたのです。

 ですが、「あらら、私と葉山ちゃんだわ」と隣から白く長い腕が私の頭を抱き締めたかと思った瞬間に、耳辺りにとても柔らかくモノが押しつけられていたのです。そして、また、甘い香りが私の鼻腔をくすぐるのでした。


「葉山ちゃん、明日何か予定ある?」


 内緒話をするように、真梨子先輩が私の耳元でそう呟きましたので、「いいえ、特に何もありません」と耳にかかるこそばゆい先輩の息を我慢してそう答えました。


「じゃあ決まり」

 

 真梨子先輩はそう短く言うと取り立てて何の仔細を話すこともなく、部長をはじめ意気消沈した男衆を奮い立たせるためでしょう。悪戯な笑みを浮かべて「野球拳でもしょうか」とコップの麦酒を一気に飲み干したのでした。



 ○



「家は近いの?」


「はい。大学の駐車場から見える、茶色いマンションです」 


「あーあのマンションって、オートロックなんでしょ?」


「そうです。私は別に普通のアパートで良いって言ったんですけど、父がどうしてもオートロックでなきゃ下宿は許さないと言うので……」


「娘思いの良いお父様じゃないの」 


「それは……尊敬はしてますけれど……」


 私がそう言ったところで、真梨子先輩は鍵を鞄に戻して、ドアを開けました。


「さぁどうぞ、入って」


「お邪魔します」


 居酒屋での飲み会はきっとまだ続いていると思います。頃合いからして酔った部長が失恋話で泣きじゃくっていると思います。そんな雰囲気を察知してか、途中で真梨子先輩は私の袖を引っ張るとトイレに行く振りをして、居酒屋を出てしまいました。それも、費用の全てを支払って……

 真梨子先輩のアパートは三条通を下り、JR奈良駅を通り過ぎた先にありました。賑やかな幹線道路と一つ筋違いのところにあるアパートです。

 居酒屋からの帰り、真梨子先輩は何も言わず鼻歌を歌って歩いていました。私はそんな先輩に「先輩。私の分の会費です」と言って、メールに書かれてあった参加費を差し出しました。

 「いいよ別に、会費集めるつもりなかったし」と真梨子先輩は受け取ってはくれませんでしたけれど……「それでは、次回から私が参加したくなくなります」と行く手に仁王立ってそう言うと、真梨子先輩は渋々私の手から参加費を受け取ってくれました。

 先輩には甘え、私が先輩となった時、先輩にしてもらったことを後輩に返す。だから、私も今はまだ甘えても良いのだと思います。今だって真梨子先輩に「ごちそうさまです」と笑顔の一つも浮かべれば良かったのでしょうけれど……でも、でも、お金はしっかりしておかなければならないと思います。甘えるのだって、節度をもって甘えなければならないと思います。けれど、真梨子先輩が困った表情を浮かべたかぎりは……私は可愛くない後輩なのだろうと思いました。

 部屋の中は随分と整理整頓の行き届いていて、とても落ち着いた雰囲気でした。1年年上と言えども、私の部屋とでは雲泥の差があります。風体と噂の数々からてっきり、居間のテーブルの上には手鏡やらマニキュアや化粧品に携帯の充電器などその他諸々が散乱しているだろうと思っていたのです。けれど、蓋を開けてみれば、テーブルの中央に薩摩切り子を思わせる、紅色のグラスに桃色のアロマキャンドルが入って置かれてあるだけでした。

 その整理整頓の具合と言ったら、芸能人のお宅拝見の趣があります。ですが、台所からでしょうか、味噌汁の匂いもすれば取り込んだままの洗濯物が寝かされてあったりと、決して生活感がないわけではありません。

 私はテレビの上に並べられた、ご当地グッズでもある『モッくん』のキーホルダーが気になって仕方がありませんでした。モクモクと枝葉を髪の毛として木の幹に顔のパーツを嵌め込んで、そして、服やら装飾品をその地域地域で彩ってご当地の特色をくっつけるのです。

 たこ焼きは大阪ですね。ウニは……北海道。落花生は千葉。蜜柑は……愛媛でしょうか和歌山でしょうか……もしかしたら広島かしれませんね。


「アイスコーヒーしかなくてごめんね」 


 そう言いながら、先輩はアイスコーヒーの入ったグラスとストローにガムシロップ、ミルクを持って来てくれました。


「ありがとうございます。先輩はお水ですか?」


「ええ、昨日も飲み過ぎちゃってさ。本当はまだ昨日のお酒抜けてないのよね」


 「いかんいかん」と先輩は続けて言いながら自分の頭を二度ほどぺんぺんと叩きました。


「先輩はきれい好きなんですね。私の部屋が恥ずかしくなります」


「まあ、部屋はその人の心を移すって言うから、それによく友達呼ぶしね」

 

 そう言われてしまうと、まるで私の心が汚れてしまっているようではありませんか……そりゃ……ゴミ箱に的を外して床に転がってしまった紙くずをそのままにしたり、使いっぱなしに出しっぱなしで寝そべっている不摂生は私が悪いのですけれど……


「先輩はモッくんが好きなんですか?」


 私の内心がささくれ立ってしまわないうちに話題を変えることにしました。「えっ」と言う先輩に、私がテレビの上のキーホルダーを指さすと、「ああ、ほら、実家に帰った友達とかがお土産に買って来てくれるのよ。お菓子とかでも嬉しいんだけど、一人じゃ食べきれないから」と言うのです。

 「それに太っちゃうし」と無理矢理脇腹のお肉を摘んで見せる先輩は少し太った方が良いと私は思いました。

 私もそんなに肉付きの良い方ではありませんが、先輩に少しならお裾分けできると思います。私はお肉を、先輩は胸を……お互いの利害に一致した素晴らしいトレードだと思ったのは私が少しばかし酔っているからだろうと思うのです。

 先輩はコップの淵を指でなぞりながら何やら物思いに耽っている様子でした。


 お酒が抜けたのですね。そう思ったのですが……


「ねえ、葉山ちゃんは彼氏とかいるの」急にそんなことを真梨子先輩は言い出したのでした… 


「いません。彼氏だなんて」


 私は即答しました。本当に居ないのですから仕方がありません。


「そうなんだ……でも、」


 即答した私に真梨子先輩の優しい眼差しが向きました。私は、次ぎに先輩の口から

飛び出すでしょう言葉を予測するかのように「彼氏なんて、できたことありません。告白されたこともありませんし、したこともありません。だから、真梨子先輩が噂になってることもしたことはありません。これで良いですか」と早口を言うと、わざと底に残った珈琲を大きな音を立てて飲み干そうと懸命になったのでした。


「そうなんだ、でも、」


「ま……」


 まだ言いますか。と再び口を開いた私を今度は真梨子先輩が制しました。私の口には細くて長い先輩の人差し指が当てられ、すっかり出鼻をくじかれてしまったのです。


「でも、恋愛に興味はあるでしょ?」

 

「それは……そんなの……わかりません……」

 

 私の酔いが一度に冷めてしまったのは言うまでもありません。先輩はきっと男の人に不自由などしたことがないのだろうと思います。今日の飲み会でも、部長をはじめ、男子部員は根こそぎ真梨子先輩にぞっこんでしたもの。男同士で野球拳はじめた外野をほったらかして、特視すべきは真梨子先輩。と先輩と同回生の男性先輩方はなんとか真梨子先輩の隣に陣取ろうと、何かにつけては寄って来ていました。その度に私はまるで『邪魔だ』と言われんばかりに、背中を何度も膝で押されるのです。いっそのことどいてあげましょうか。と思うも立ち上がろうとすると、今度は真梨子先輩が私に腕を絡ませて、どこにも行かせてもらえないのです。


 私にどうしろと言うのですか!


 甘ったるいカクテルをちびちびと飲みながら、次からは芋を頼んで酔いに任せて、群がる男子部員に一喝してやろう。そう思ったくらいですもの。


 容姿うんぬんはこの際どこかに埋め置くとして、私は性格が偏屈ですし……話し上手ではありませんから、きっと異性も同性も近寄りたくないのです……

 私はそんな風に誰に何を言われたわけでもないのに、思い込みで落ち込んで憂鬱とすっかり俯いて、しばらくの沈黙をつくってしまいました。そうです、こんな私だから駄目なのですね。もう真梨子先輩も私を家に誘ってくれたりはしないことでしょう。

 こんな可愛くない私なのですから……


「そうだ。葉山ちゃん明日予定無いって言ってたよね」


「はい。特に何もありません」


「明日ね、大学で文芸サークルでBBQするんだけど、葉山ちゃんもおいでよ」良いことを思いついた。と言わんばかりに先輩は私の手を取ってそう言います。


「そう言えばいつも同じ場所でやってますね。でも、私は美術部ですよ」


 文芸部のBBQに部外者の私が行っても仕方が無いと思ったので、そのままを口にしました。


「いいの、いいの。ほら、文芸部って文化祭で美術部に外注するからさ、飲み会もBBQも美術部員ウエルカムなのよ。お世話になるんだしね。だから葉山ちゃんも是非!」


「でも」 


「予定ないんでしょ」


「はい」


「なら決定!交流しないと恋も生まれないもんねえ」


 そう言って意地悪そうに笑う真梨子先輩を見ると、なぜだか私は罠にはまってしまったような、そんな変な気持ちになってしまいました。話しからすれ、明日行われるBBQにお誘いしてもらっただけだと言うのに……


 「葉山ちゃんにぴったりな男の子紹介してあげるからねえ」さらに、面白そうに先輩は続けます。「いえ、紹介とかそう言うのはいいです。いりませんからね」BBQに参加することは吝かではありませんし、真梨子先輩は面白くて優しい先輩ですから仲良くしてもらえたら……そんな風にも思います。ですが、だからと言って、男性を紹介してほしいとは、これっぽっちも思いません。


 私には恋など……お子様の私には恋なんてまだまだ早いのです。


 それに、真梨子先輩の紹介する男性は、きっと派手な人に決まっています。髪の毛は金色で首にも指にもひょっとしたら耳にも、銀色のアクセサリーをこれ見よがしに身に着けて、歩くたびにじゃらじゃらと、熊よけのような音を出すに決まっています。

 そんな人は嫌です。好みや理想と言うのは考えたことがありませんけれど……けれど、別に容姿が格好良くなくても良いですから、身長が私よりも高くて……偏屈な私でも傍にいてくれる優しい人であれば……それだけで良いと思います。



 ○



 時刻がすっかり深夜に変わった頃、長居も先輩に迷惑ですし、明日BBQに参加するのであれば、シャワーを浴びて着替えなければなりません。こう言っては恥ずかしいのですけれど、私は飲み会に遅刻をしそうになったので、走りました。なので汗をかいてしまっていて、今も湿っぽい下着が気持ち悪いのです。

 なので「それでは、私はそろそろ帰ります。着替えもしたいですし」と言ったのですが…… 


 「シャワーここで浴びちゃいなよ」と真梨子先輩がさも当然と言わんばかりに、さらりと言ってしまうので、すっかり、間抜けてしまった私は立ち上がるタイミングを見失ってしまいました。


「でも、それも含めて帰ります」


 半ば自分でも意味不明です。と思ったのですが私はそう口走りました。まさかまさかの先輩の言動に平静を装いつつもしっかりと動揺してしまっていたようです。


「シャワーだけっ。ねっ、シャワー浴びたら帰っていいから」


 困った顔をして食い下がる先輩の顔を見つめていた私でした。ですが、なんとも必死に私を引き留めてくれる先輩に、少し嬉しくなってしまった私は、こともあろうに「シャワーだけいただきます」と玄関へ行くために立ち上がらず先輩に案内されて、脱衣所へ向かうために立ち上がってしまったのでした。


 先輩のアパートのお風呂場も私のマンションのお風呂場も大きさとしては大差ありませんでした。なので、後は個人的な趣味と言いますか、真梨子先輩の性格の世界ですね。私のお風呂場とは違って、真梨子先輩のお風呂場にはシャンプーひとつとってみても、種類は豊富でしたし、トリートメントなどはさらに……先輩は髪の毛を染めているだけに髪のお手入れも大変なのでしょうか。私は髪の毛を染めたことがありませんから、そこのところはよくわかりませんでした。

 とりあえず、香りの良いシャンプーで髪の毛を洗ってから、次ぎに体を……と思ったのですが、何せボディーソープも多いのです。中には英語の表記のものまでありました。とりあえず、英語表記のものは使わないことにして、並んだ缶ジュースほどの大きさの容器を手にとってみます。ラベルに眼を歩かせますと大抵が香水のように香りについての表記がなされてありました。


「ピンクローズの香り……」


 私は思わずそう表記されたボトルを顔の近くまでもっていくと、まじまじと見つめてしまいました。

 別段、バラが好きなわけではありません。ただ、私の実家では母親が庭にバラの花を数種類植えており、その中にピンクローズのあったのです。確かにバラは色合い鮮やかに綺麗な花ですけれど、一度として香りを感じたことはありません。

 あんなに大輪の花を数多く咲かせると言うのに、季節こそ違いますけれど、こじんまりな花をあまたと咲かせる金木犀の方が香りが強いのはどこか理不尽です。私は子供ながらもそう思っていました。なので、『ピンクローズの香り』と読んで、興味をそそられてしまったのです。

 少しだけ小指の先につけて嗅いでみますと、仄かに甘い香りがしました。そうなのです、居酒屋で香った先輩のあの香りなのです。ですが、その香りは儚く一時の夢をみているような……そんな頃には無臭となってしまいます。

 ボトルには『瞬きの夢のごとく甘美な香り』と書かれてありました。

 

 なるほど。と納得した私なのでした。


 その後も、アップルミントやオレンジなど色々なボトルの香りを嗅いで遊んでみたのですが、その内に鼻の中がむずむずしてきましたので、そろそろ体を洗いましょう。と無臭ながら私に馴染み深い固形石鹸を手に取ったのでした。固形石鹸は馴染みが深いのですが、卵の形をした物は、はじめて見ましたし手に取りました。


「タオル、洗濯機の上に置いとくから」


 前代未聞の泡立ちに、まるでホイップクリームのよう!と愉快な気持ちになっていると、磨りガラスの嵌め込まれているガラス戸越しにそんな真梨子先輩の声が聞こえました。


「ありがとうございます。使わせて頂きます」


 真梨子先輩のことですから、ひょっとしたら悪戯な笑みを浮かべながらドアを開けるかもしれません。私は急いで体を洗います。体を洗う音が聞こえたところで、覗かれてしまえば為す術はありませんが……


 先輩はドアを開けることはしませんでした。ですが、私はとても申し訳無い気持ちになってしまったのです。

 それと言うのも「あっ、そうだ、固形石鹸が洗顔だから、卵っぽいやつね。すっべすべになるよお。後は適当に使ってね」脱衣所を出て行きすがら、真梨子先輩は声を弾ませてそう教えてくれました。それはまるで、美味しいお菓子をわざわざ私のために取り置いてくれたお姉さんのように…………


「えっ……あ……はい……」

 誤魔化すようにとりあえず返事をしました私でした。


 真梨子先輩。ごめんなさい。


 申し訳なく思いつつも、再びホイップのような泡で顔を洗って見ますと、真梨子先輩の言うとおり、すっべすべになりました。お餅のように吸い付くくせにすっべすべになるのです。それを言うならば、全身がすっべすべになりました。何せ同じ洗顔石鹸で体を洗ったのですから……

 風呂場を出ると、ドラム式洗濯機が仕事をしており、その上にバスタオルと封を切られていない下着。そして淡い黄色のパジャマが置いてありました。


「先輩!こんなのって!」


 私は取る物もとりあえず、脱衣所から顔だけを出して、居間でテレビを見ているのでしょう先輩に大きな声で言います。


「あれ。下着小さかった?脱いであった下着でサイズ見たんだけど」


 先輩は親戚の家に泊まりに来た従姉妹に言うようになんともあっけらかんと答えるではありませんか。


 私はそう言うことを聞いているのはありません!


「違います。私の服はどうしたんですか」

 

「今頃は、泡だらけだと思うよ」 にかっと笑った先輩でした。


洗濯機の中を覗くと、見覚えのあるキュロットスカートとブラウスが泡だらけになって洗濯機の中をぐるぐると回っています。


「してやられた……」 


 すっかり真梨子先輩の術中にはまってしまった私はどうすることもできません。ですから、やむなく用意された衣類を身に纏って先輩の居る居間へ戻ったのでした。

 てっきりテレビを見ているものと思っていたのですが、居間に戻ってみると、テーブルの上には参考書と専門書が並べられ。それを読みながら先輩はノートに万年筆を走らせていました。


「うん、可愛い、思った通り葉山ちゃんは明るい色もよく似合うね。服、私のと一緒に洗濯したけど、気にしないでしょ?」


 手を止め、先輩の対面に腰を降ろした私に麦茶を振る舞ってくれながら先輩は言います。


「気にしますよ」


 明るい色が似合うだなんて……私自身思ったこともありませんでしたし……言われたこともはじめてでしたから……


「えっ」


「これじゃ帰れないじゃないですか!先輩は何を考えてるんですか」


明るい色が似合うと言われて嬉し恥ずかしの心中を隠すために、私は少々声を荒げてしまいました。


「こっち来て、いちようお布団敷いたけど、ベットが良かったらベット使ってね」


「先輩」 


「一晩だけ。良いでしょ。お願い……誰かが居てくれると、落ち着くの」


 どうしたことでしょう、今までは私のことを弄ぶかのように接していた先輩だったと言うのに、この時ばかりは余裕の色は消え去り……どうにも精一杯の笑みだったように感じたのです。


 先輩は勉強をしていますから、邪魔をするのも悪いでしょうし、それに明日も予定ができてしまいましたから、やはり早く寝てしまった方が懸命です。私はこれ以上自分自身が嫌いになってしまわないうちに、黙って布団の潜り込みました。本当はもう二言三言と会話をしてから……お礼やらも言ってから……眠りにつくのが本来なのでしょうけれど……これが今の私にできる精一杯の甘え方なのだろうと思います。やっぱり……こんな自分が大嫌いです。

 

 布団で眠るのは中学生以来ですから、なんとなくの違和感に、高く感じる天上に、私はなかなか寝付けないで何度も寝返りを打っていました。襖からもれる居間の灯りを見ながら、流れるようにペン先がノートを撫でる音を聞きながら……

 てっきり先輩は遊びほうけてばかりと、服装から勝手な印象と先入観でもって決めつけていました。きっと、心の片隅では真梨子先輩をバカにしていたのですね。

 今日一番の嫌な私、大発見です。


「眠れない?」


 私が一人でごそごそとしていると、襖が開いて顔を覗かせた真梨子先輩が私に声を掛けてくれました。


「いいえ」


 私も大学生ですから、『眠れません』とは言えません。


「言うの忘れちゃってた」


 そう言うと先輩は一度、顔を引っ込めてどこかを開けると、ブラウスとフレアスカートをそれぞれ片手に持って、私の寝ている和室へ入って来ました。


「明日これ着て行ってね。サイズは大丈夫だと思うからさ」


 布団から顔だけを出して薄暗い真梨子先輩の顔を見つめていた私は、言葉を忘れてとても不思議な面持ちとなってしまったのです。襟周りにささやかなレースを施してあるブラウスと涼しげな青地に白い水玉模様のスカートを持つ先輩は三つ編みで一つに束ね。鼈甲を思わせる透き通った薄い黄色のフレームに上品な楕円を描くレンズの眼鏡をかけていました。

 きっと品格正し眼鏡なのでしょう。それが似合ってしまう先輩も品格がそれ相応と言うことなのでしょうか……


「はい」


 無為自然とそう答えてしまっていました。


「よかった。おやすみ」


「先輩」


「何?」


「あの古平さんとおっしゃる方は先輩の彼氏なんですか?」


「えっ?古平君が……またどうして」


「王様ゲームですよ。先輩と古平さんはグルだったんですよね」


 先に私に割り箸を渡しましたし。古平さんはほとんど考えることなく、8番と4番と言いましたから、明瞭に先輩と古平さんはグルだったに違いありません。


「うん。葉山ちゃんとお話したくてさ。でも古平君は彼氏じゃないよ、古平君には小春日さんって言う彼女がいるもん」


「そうなんですか、変なことを聞きました。おやすみなさい」


「おやすみ」


 食い下がることもせず。襖が閉められた後。私は天上を見上げながら、あれは本当に真梨子先輩だったのだろうか……と考えてしまいます。どうやら、私は玉響微睡んでいたようで、先輩はいつの間にか小さい犬のイラストが散りばめられた可愛らしいパジャマに着替えていました。

  顔も化粧をしていないはずなのに、ほとんど居酒屋に居た時の顔と変わりませんでしたし……変わった言えば唇の色くらなものです。

 美術部に入部してからすぐに『魔女っ子真梨子』こと真梨子先輩の噂を同性の先輩から聞いた時は、それはそれは淫猥で淫乱で……だらしがなくて……でも、最後はキューピットだと……教えてもらいました。

 大学構内で何度か真梨子先輩を見かけたことはありましたけれど、いつも露出度の高い派手な服装をしてましたので、噂はキューピットを除いては本当なのでしょうね。そう思って疑いもしてきませんでした。

 ひょんなことから、こうして先輩の家にお泊まりすることになってしまいました。はっきり言って迷惑です。そう思っていたのはシャワーからあがった頃までで、今はなんだか……従姉妹の家に遊びに来た……そんな面持ちです。そして、今は先輩に対する私の気持ちも随分と様変わりしました。噂は所詮噂でしかありませんね。何処の誰が何の目的でそんな誹謗中傷ともとれるような噂を流したのかは知りませんけれど、

少なくとも私は真梨子先輩と言う女性は淫猥でも淫乱でもだらしなくない。整理整頓と自分磨きをしっかりできる立派な女性であると確信しています。私だって見習わなければならないところも沢山見えてきましたし……

 

 しばらくはそんな風に影さえも見えない『誰か』に対して激昂しては頬を膨らませていた私でしたけれど、重くなった瞼を押し上げられなくなって来た時、朦朧とする意識の中、自然と思えたのです。


 私にもこんな優しいお姉さんが居たら良かったのに……と。



 ○



 翌朝。真梨子先輩の部屋で目覚めた私は、上体を起こしてから眼を擦りながら、昨日の回想をしてはようやく、どうして自分が自宅で目覚めていないのかを納得することができました。

 

「おはようございます」


 恐る恐る襖を開けてみますと、テーブルの上には1人分の食事が用意されてあり、私の嫌いな服装の真梨子先輩が忙しなく通り過ぎて行くところでした。

 なんと懐かしくもご無沙汰な料理なのでしょう。私がぼおっと湯気を讃えるそれらを凝視していると「朝ご飯食べてね。私は買い出しとかあるから、一足先に大学にいかなくちゃいけないのよ。お皿のそのままにしててくれて良いから。じゃあ行ってきます」

 寝坊でもしたのでしょうか、とても慌てた真梨子先輩は口早に私にそう伝えると、平静を装いつつも、足早に玄関に駆けて行ってしまいました。

 ドアが閉まる音がしてから、


 「はい」と言った私はまだパジャマ姿でしたし、顔も洗ってさえいませんでした……


 とにもかくにも、顔を洗った私は、まだ指に吸い付くお肌をぺちぺちと叩きながら、朝食の前に腰を降ろすと、湯気を讃える出来たてほやほやのご飯にお味噌汁、焼き立ての油の乗った分厚い銀鮭。鰹節が添えられたほうれん草の御浸し、後は豆腐に卵焼き。これぞ混じりっ気なしの贅沢な和食です。こんな充実した朝食は実家でお母さんが作ってくれていた時以来でして、下宿をはじめてから、食パン2枚が私の朝食の基本ですから。随分とグレードが落ちたものだと今更ながら思ってしまいました。



「いただきます」


 パン食では、時々割愛してしまう、食前食後の挨拶もこのような和食を前にすると、『せぬ者は食べるべからず』と言われているようで、自然と合掌してしまいますね。

 真梨子先輩が出て行ってしまったので、私はいつも通り一人の食卓です。ですが、どうしてでしょう、お味噌汁を飲むたびに、ほうれん草をもにゅもにゅとしていると、実家にいるようで、今にも『夏美。早く食べないと遅刻するわよ』とお母さんの声が台所から聞こえて来そうな気がしてならないのでした。


 もちろん、お味噌汁の味はお母さんの味とは違いましたけれど……けれど……この朝食に込められた私への愛情は、なんら変わりないのだろうと思います。

 お母さんも仕事に行く前に、ちゃんと朝ご飯を作ってくれました。なので、いつも慌てて家を飛び出すのです。トースターでパンをチンと言わせれば、朝の連続テレビ小説もゆっくりと見られたでしょうに……真梨子先輩だって、私のためにこんな立派な朝食を用意しさえしなければ、もっと余裕をもって出掛けられたはずなのですから。


 誰もが忙しない早朝に、起き出せば温かい朝ご飯が用意されていると言うことは、とてもとても幸せなことですね……だから、私はとても幸せ者なのです。

 しっかりと味わってから『ごちそうさま』をした私は、食器を台所へ持って行くと、『お皿のそのままにしててくれて良いから』と言ってくれた真梨子先輩の言葉を無視してお皿を洗うと、まったく同じ食器が並べられてある、乾燥カゴの中に並べました。


 それぐらいしないと、私が恥ずかしいですもの。


 努力家で優しくて、包容力があって料理ができて。すっかり、真梨子先輩を尊敬してしまった私は、窓越しに風に揺られているのが見えるキュロットスカートとブラウスを一瞥してから、せっかくの好意を無駄には出来ません。と和室に戻って布団を畳んで、先輩の用意してくれたブラウスとフレアスカートに着替えをはじめたのでした。


 サイズピッタリの洋服に袖を通すと、途端にオレンジを思わせる爽快感と林檎のような後味のよい甘い香りが私の鼻腔をくすぐります。きっと先輩がブラウスに香水をふってくれたに違いありません。


「良い匂い」


 私は深呼吸をしました。柑橘系であるにもかかわらず刺激的ではなく、まるで毬(いが)のとれた栗のように、ただ、まろやかな香りなのです。私は今まで香水をつけたことがありませんでしたけれど、お気に入りの香りに包まれると言うのも悪くありません。むしろ、大素敵です。そんな風に思ってみると、なぜだかBBQに行くのが楽しみになってきてしまったのでした。


 足取り軽く鏡台の前に立って、昨日のシャンプーのおかげでしょうか珍しく寝癖なく真っ直ぐ伸びた髪の毛をヘヤーブラシでとき、戸締まりを指さし確認をしてから、玄関へ向かいます。

 すると下駄箱の上に目立つハートのマグネットが置かれてあり、その下にはメモと鍵が置いてありました。もちろん鍵についているキーホルダーはモッくんでした、林檎を被っているところからして、青森でしょうか。


 私はサンダルを履いてからメモを取らずに、文字のみを読み取ると。鍵を持って外に出ます。ドアに鍵をかけてから、メモに書いてあったとおりにドアの隣にあるガスメータの納められた、私の膝ぐらいまであるドアを開けると、その中のコンクリートの床の円筒形の缶が置かれてあり、同じ形状の鍵が2本並べてありました。丁度、私の持っている鍵を加えると扇の形になります。

 後の2本の鍵にもそれぞれ、サクランボとカステラのモッくんがつけてありましたので、私は「山形と長崎」と呟きながら鍵を置くと、メーターのドアをしっかりと閉め、そして、大股で大学へ向かって歩き始めたのでした。



 ◇


 

 私は仁王だってその世界を凝視していた。いいや睨み付けていたと言っても過言ではない。

 駅前にある書店の中に入っているレンタルビデオショップで私はすでに半時ほど、精神をすり減らしながら、その是非を問い続け、半ば我が愛しのジョニーにその主導権を渡すまいと不毛なる抗争を繰り広げていたのである。

 汗ばんだ手には洋画作品が2本。いずれも恋愛モノであることを付け加えたならば、私の可愛らしさが少しばかりは理解してもらえようかと思う。

 その私が、人恋しさに誰にも打ち明けられぬ願望と乙女の肌を求め、カモフラージュ作品を2本も借り、その散財を糧に果たして本丸に迫ろうとしているのだが、天王山への扉は容易にくぐれそうでありながら、どうしても私はその一歩を踏み出せずにいた。

 店員を確認するに、今晩に限って全てが男子であることはすでに調査済みであり、今晩を逃すと、また一週間と時を待たねばならない。果たして、このささくれ立った心中でもって後一週間、情緒不安定なジョニーを縛り付けておけるか自信が私にはない。

 図書でもって窘めようかとも思ったが、図書は窘めた後の処分に困る。捨てるに捨てられず、かといっていつまでも部屋に据え置くと言うのもどうかと思う。その点レンタル作品であれば、堪能の後、閉店後の回収BOXに放り込んでおけば万事問題はなく、後顧の憂いも皆無であるとお墨付きをもらっているようなものなのだ。


 だから私は今まさに、桃色天国の扉を、エアコンの冷風に揺らめく蛍光ピンクの暖簾と言う扉をこの手で開き、目眩く官能の境地へ!男子にのみ味わうことを許された桃源郷へ!悦楽の園へ!夢と浪漫のみが詰まった大きくも柔らかいお乳の世界へ!

踏み込もうと試みているのである。


 私はついに咆哮をあげるジョニーに押し負け、従順なる欲情の僕として、生唾を飲み込むと共に、大きなそれは大きな一歩を踏み出したのであった。


 いざ行かん!桃色の世界へ!


「やっほー。恭君何してんの」


 暖簾に手を伸ばしたところで、私の背中に冷や汗が走った。それはもはや悪寒に似ていたかもしれない。


「先輩こそ、こんな夜更けに何をやってるんですか!」


 私が狼狽しながら、必死に平静を保ちつつ、振り返ってそう言うと、「DVD借りに来たんだよ」真梨子先輩はそう言いながらアクションものの新作を1本私に見せてくれた。

 レンタルビデオ店にビデオを借りに来ずして何をしにくるというのだろうか……我ながら阿呆な質問をしたと思った矢先。

 年の頃ならば私と同世代であろう男が、桃色天国の扉をくぐって現実世界へ帰還を果たした。にやついた表情からすれお目当ての女神に出会えたのだろう……だが、真梨子先輩の姿に気が付くや、タイトルを見られまいと、慌てて手にしたDVDを後ろ手に隠した所行はなんとも殊勝な心懸けである。私は同士としてこれには敬意を表した。

 

「そう言うことかあ。恭君も借りるんでしょ?」


「別に……」私は即答した。


 『もちろん借りますよ。借りるに決まってるじゃないですか。その為にだけ来たんですから』と私の心中を代弁してくれるヒューマノイドがいたなならば、今すぐここに召喚したい。

 つまり……自分ではそんなことを口が裂けても言えるわけがないのだ。


「えっと……もしかして、私のせいかな」


 DVDの納められてあるケースを口許にやりながら、真梨子先輩はいらぬ気遣いを披露してくれた。

 たとえ、そうであっても『そうです。先輩が来なきゃ、今頃は桃色天国でうはうはでしたよ』などとも口が裂けても言えないし、さすがにそこまでは思っていない。


 私は泣く泣く桃色の世界に背を向けて、レジカウンターへ向かうことにした。このまま立ち尽くしたところで、何がどうなるわけでもなければ、好転するはずなど微塵も期待できないのである。それならば、さっさと家に帰ってふて寝をするか、布団に飛び込んで涙を瀑布のように流して心中を清らかにした方が良いに決まっている。


「ねえ」 


 すれ違おうとした私の腕を取って、真梨子先輩はそう言うと「一緒に行こうよ」と事もあろうに先陣を切って、女人禁制、男子の園へ堂々と入って行ったのであった。


「私はじめて入ったけど、なんか色々とすごいね」


 先輩は嬉しそうに喜々として手に取るとパッケージ裏などを見ては「へえ」「えぇ」と感想を漏らしていた。

 一方の私は、目のやり場に困った挙げ句、今にも眩暈を催しそうに気分を悪くしていたのであった……本来は逆の立場であるべきが健全であろうと思う。思いたいのであるが、どこに眼をやっても、妙齢たる婦女があられもない姿を露呈しているのであるからして、私の視線は最終的には地面に向かわざるを得ない……


 そして「恭君はどんなの借りるの」とあっけらかんと聞いて来る先輩を見て私は早々と、桃源郷から脱出したのであった……


 暖簾をくぐって、思わず手に取っていたのはパッケージに筋肉隆々のマッチョが輝かしいポージングをしている映画であり、それをまじまじと見て、私はどこかほっとしてしまった。日頃、真梨子先輩の姿を見ているだけに、真梨子先輩が1枚2枚脱いだだけだろう。と安易に先輩に対しては失礼極まりない考えでいたのだが……その1枚2枚の差は歴然としていた。口の中に爆竹を押し込まれたようである。


 どうしたの。と言いながら真梨子先輩が出てきたのだが……


「恭君って大きな胸が好きなんでしょ」と大きなお乳のみをセレクトした作品を2枚私に突きだしたのである。


「古平君が前に言ってた」と小さく続けて……


「私にはそんな趣味はありません。それは古平の趣味です」


 私はきっぱりそう言うと、今度こそ、レジカウンターへ小走りに向かった。これ以上、真梨子先輩に弄ばれてたまるか。大きなお乳の真梨子先輩がそんな卑猥なDVDを手に持っているだけで、私のジョニーはお腹一杯なのだ!


「えっ、先輩……」  


 私が早口にレンタル日数を伝え、精算の後、専用のバッグにDVDが納められるのを待っていると、その隣で真梨子先輩が「2泊3日でお願いします」と小銭入れを手に桃色DVDも含めてレンタルしていたのである……その光景に私も唖然としてしまったが、アルバイトだろう、私よりも年下の男子店員は職務を淡々とこなしながらも、2度「タイトルにお間違いはありませんか」と微笑みを浮かべる真梨子先輩に問いかけ「はい」と2度答えた先輩の顔をちらちらと幾度も見ていた。最後の目線は明確に先輩の胸元に向いていたと私は断言したい。


 先輩は何を考えているのだろうか……

 

「そう言えば先輩。こんな夜更に一人で出歩くなんて危ないじゃないですか」


 書店を先輩と一緒に出た私は、人通りもまばらな夜道を歩調を同じく歩き出してすぐそう言った。

 確かにこの都市とも田舎とも言い難い界隈であれば、人の集いがまばらな分、夜中、1人歩きの婦女を後ろから押し倒すような不埒漢もそうそういないだろう……けれど、万が一と考えたならば……やはり危なっかしいことこの上ない。

 男子と違い年頃の女性は、万が一に、その一度に失うモノが多すぎる。


「参考……えっと雑誌でも買おうかなあって」


 DVDの入った専用バッグを後ろ手に、夜空を見上げながら言う先輩であったが、

私が「小銭入れで雑誌を買いにですか」と言うと「するどいね」と少し舌を出して、戯けた表情をつくったのであった。

 あっさりと白状した先輩は「実はね……」と話し出し、眉間に皺を寄せ、腕に鳥肌を並べながら『G』が台所に出現したのだと語った。

 夜ごと徘徊して家から家へと渡り歩く流浪モノにして、突然思わぬところから出現してはその俊足をこれ見よがしに披露して冷蔵庫の下などに姿をくらます。

 鮮やかな容姿であれば、その身とて虫網で捉えて観賞用にしないでもないが、闇に目立たぬ焦げ茶色の体からしても、丸めた新聞紙かはたまた蠅叩きでこれに応戦して、最後には、文明兵器によってこれを撃退しなければ、おちおち眠れやしない。それがGなのである。


 私はそんなGを現代の忍びである。そう思っている。


 大袈裟に語ってみたが、別段私は気にもせず、出たら出たで迎え撃つだけであると、年中大きく構えている。だが、婦女の中にはこれを気持ち悪しと迎え撃つこともできなければ、姿が見えなくなってなお『この家のどこかに居る』と言う現実的な恐怖に恐々として眠ることもままならないと聞いた事がある。

 きっと真梨子先輩もこのタイプの婦女であるに違いない。しかしながら、真梨子先輩のようなタイプの方が可愛らしいではないか。G一匹に驚いて、助けを求めないながらも、危ない夜中に家を出てしまうのだ。あくまでも個人的な意見である事を明瞭に言っておきたい。もしもこれが、G出現と共に、何を思うでもなく、手頃な得物を携え、逃げまどうGを追い回すアマゾネス的な勇猛さを持っていると言うのも婦女の可愛らしさに欠ける。


「そう言うことだからさ………」

 

 フェミンにかつ品格良い腕時計を見てから真梨子先輩は私に申し訳なさそうにそう言った。


「わかりました。誰あろう先輩の一大事とあっては、仕方がありません」


私は胸を張ってそう言ったのであった。


「ありがと!恭君はやっぱり頼りになる!」


 そう言いながら安堵を顔に浮かべた先輩は黄色い雰囲気を醸しながら両腕を広げたので、私は次に先輩がとる行動を予測して、なんとなくこれに備えることにした。


「なんでファイティングポーズ?」


とりあえず拳を顔の前に並べてみた私に、先輩が心外と言わんばかりのアヒル口でもって言う。


「なんとなくです」

 

 本当に何となくなのであるからして、『なんとなく』としか答えようがなかった。もしかしたら……いいや、きっと備えなければ今頃は先輩の髪の毛の香りを嗅ぎながら、胸の辺りにある果実の感触を文字通り胸一杯に味わいながら、そのまま昇天していたか……はたまた桃源郷が遠くに見えていたかもしれない。

 そう思えば至極残念であったと後悔こそしたいと思う。


 

 ◇

 


 最後に「絶対に来てよ。私あの触角がダメなのよ」と念を押した先輩と別れて、私は一散に部屋に帰ると早速、Gに有効と思われる得物を探した。まずは蠅叩きである。後は……残量わずかな殺虫剤と新聞紙……並べて見ても、なんとも頼りがいのない顔ぶれである。特に新聞紙に至っては、先輩の部屋で現地調達が叶う品であって、わざわざ私が持って行かなくとも良い。そう考え直した私は丸めた新聞を元に戻すことにした。するとその途中で新聞の間から、切った爪がパラパラとふりかけのように畳みの上に四散した。


 私は黙って新聞紙を放り投げると、蠅叩きと殺虫剤のみを携えて部屋を飛び出し、駐輪場に止めてある。我が愛車、ペガサス号に跨ると、備え付けられた前カゴに得物を納め、力強くペダルをこぎ出したのであった。

 白い車体に、ハンドル中央部分に傘を固定するための器具が取り付けられてあるこのペガサス号は私の下宿するアパートの大家さんから借りている自転車である。なんでも、代々この自転車を借りる学生はこの自転車に名前をつけると言うので、私は所々錆びの浮いた自転車にペガサスと優美にも雄大な名を与えた。傘の器具を一角に見立てて名付けたのだが、後にそれではペガサスではなくユニコーンではないか……と気が付いたことには気が付いたのだが、ユニコーンよりもペガサスの方がしっくりくるので結局ペガサスのままにした。

 そのついでにもう一つ間抜けな話しを急遽しなければならなくなった。カゴの中で転がる殺虫剤を信号待ちの時に見やると、その外装には『ハエ・蚊に一撃!!』と大きな赤文字で書かれてあったのである。殺虫剤であるからして、どんな虫にも人間にとっても有害であろうとは思う。だがしかし、生命力が半端ではないGに果たして効果が期待できるのだろうか……缶にここまで、でかでかと『ハエ・蚊に一撃』と歌っているからには、蠅と蚊には絶大なる効力を有しているのだろう……だからと言ってその他の虫にも効果が絶大であると言う汎用性に期待はできない。何せ相手はGなのだ。発見したその刹那に命を絶たねば、次ぎにそのチャンスが訪れるのはいつになるかわからない。私は色々と考えを巡らせた後に、やはり物理的に攻撃するべきであろう。と100円均一で購入した蠅叩きに並々ならぬ期待を寄せたのであった。

「遅いよ恭君!」

 

 蠅叩きを主力に携え、いちよう殺虫剤をポケットに先輩の部屋の前に立つと呼び鈴を鳴らす前にドアが開き、玄関にはサンダルを履いたまま、私の分のDVDが入った専用バッグを持った先輩が私を迎えてくれた。

 「絶対に来てよ。絶対よ。」と何度も念を押す先輩は最後には「じゃあこれ預かっとく」と私のバッグを引ったくったのであった。

 そこまで信用されていないのか、と落胆する一方でなぜだかそんな仕草が可愛らしく思えてしまった私は、きっと、誰かに頼られると言う喜びに歯を浮かせてしまっていたのだろう。これも男子の嵯峨というものである。


「これでも急いだんですよ。台所でしたよね」


 お邪魔します、と先輩の横を通って部屋にあがった私は、地下迷宮にてミノタウロスの襲撃を今か今かと待ち構えるテセウスのように、蠅叩きを振りかざしたまま台所へ向かった。


 「恭君、これ使おうか」と小さな声で言う先輩に振り返ってみると、どこから持ち出したのか先輩の手には、春時、活動を開始した家の中に潜む虫どもを一網打尽にすべく使用する、家中殺虫タイプのブタンガスの入れ物のような……肉まんのような形の缶であった。ちなみに足踏み式であり、一度踏んでしまえば、約3時間は家の中に入ることはできない。

 そんな最終兵器をこの真夜中に使用することはできませんよ先輩……と私は何度か首を横に振ってみせた。

 G相手に声を潜めると言うのもなんだかおかしな気分であるが、小声で話しかけられると、なぜだか小声か無言で返事をしなければならないように思えて思わず声を潜めてしまうのは摩訶不思議な反射行動である。

 

 居間側にある柱には湯沸かしだろう、リモコンのような物が備え付けられてあり、蛍光グリーン色が現在の時刻が深夜であることを再認識させてくれた。

 台所は整理整頓されてあったが、まな板の上にはプラスチック製だろう赤いボールが置いてあり、鶏の唐揚げでも仕込んでいたのだろうか、ニンニクと生姜の匂いのする黒いタレの中に丁度良い大きさに切られた鶏肉と思しき肉の塊が沈められたあった。包丁も出しっぱなしなところを見ると、肉を投入したまさにその瞬間にGが現れたらしい。  

 とは言え、大凡台所のどこにもそれらしい姿が見当たらない。姿がなければどうしようもない。そしてGは鳴き声を上げないのである。私は随分と長丁場を覚悟しなければなるまいと臍を固めて事に当たることにした。

 

「いた?もう終わった?」と廊下からは声はすれども姿は見えず、先輩が相変わらず小声でそう聞いてくるので「もう少しです」と答えておいた。

 私は考えた、そして殺虫剤を使おうと決めた。兎を巣から追い出す時は煙であぶり、巣から飛び出したところを捉える。Gにもこの手しかあるまい、家具や家電の隙間に殺虫剤を吹き込んで驚いて……はたまた苦し紛れに飛び出して来たGを蠅叩きで……常套手段だろうと思ったのである。


 名付けて『飛んで火にいる夏の虫作戦』である。 


 だが、私の部屋ならばいざ知らず、繊細な先輩の部屋で殺虫剤を振り回すはどうかと思う。なので、とりあえず私は得物をシンクの上に置くと、ボールにラップで蓋をし、念のためにその上に鍋の蓋でもって唐揚げの保護処置を施してから、作戦を遂行することにしたのであった。


 事態が動いたのは「ねえ、まだなの?」としびれを切らした先輩の声が平常時の大きさに戻りつつあった頃合い……

 丁度、廊下から台所に繋がる廊下沿いに置かれてあった冷蔵庫と床の隙間に殺虫剤を噴射した時であった。


 小さき忍びがついにお出ましたのである。


 見事な成虫にして、その瞬発力のすさまじいことと言ったら、噴射と同時に重力から脱するスペースシャトルのごとく、音速の勢いで飛び出したかと思うと、左右にフェイントで私の振り下ろす蠅叩きをひらりと身かわしながら、縦横無尽に台所中を駆け回る。私も負けじと左手の殺虫剤を噴射し続けながらこれを追撃し、要所では蠅叩きを振り下ろす。廊下からは先輩の声が聞こえた気がしたが、それに応じている余裕などありはしない。

 こいつだけは、余裕をかましていては私がやられる!そんな気概でもって全力で望まなければなるまい、何せ忍びなのである!

 そんな攻防が数十秒ほど展開されてから、私とGは見交わしながら対峙するかたちとなって、膠着状態となったいた。

 殺虫剤の効力にて、弱ったのかはたまた疲れたのか……もしかして私の出方を窺っているのか……それはあまりにもばかげているにしても、もどかしくは私の持つエクスカリバーこと蠅叩きの間合い外にGが陣取っていることである。加えて、手の平一枚分で届くのだからもどかしいことこの上ない。


 Gは少しの間、触角を上下左右に気持ち悪く動かしていたが、やがて、意気消沈したかのように、それを地面にだらりと垂らしてしまった。

 好機!とばかりに私は妙齢たる婦女を夜中道へ追い出した悪しき忍びに天誅を振り降ろすために半歩踏み込んで蠅叩きを振るった。

 刹那にはその決着はつくだろう。私はGの成れの果てを見下ろしては、この部屋に忍び込んだ根本を彼岸の彼方で後悔しくされ。と薄気味悪い微笑みを浮かべ、先輩から賞賛の弁とともに、熱き抱擁を賜るのである。


 この一撃に私の淡い桃色の夢が詰まっているのである!


「ほぎゃ」


 もちろん、Gの発した声ではない。恥ずかしながら私が人生ではじめて発した声でであった……


 私の夢をのせた一撃は、Gが突如と広げた羽によって床のみを叩き、羽音が鮮明に聞こえるほどに私の顔の近くを飛び過ぎたGを避けるために私は無理矢理な体勢のまま、パスタやら小麦粉やら乾物が並べられた収納に体当たりをし、上から落ちてきたごま油の瓶に横腹を強打されてしまった。


 言葉にならない痛みに腹筋を痙攣させながら、Gの行方をさぐると、スローモーションにてその所在が明かとなる。

 右肩あがりに曲線を描いたGはまず、廊下の壁に頭から突撃し、壁にへばりつくことなく、重力にのみ従って間抜けにも背中から廊下の床に落ちると、大して藻掻くこともせずに、反動にて身を起こすと、玄関へ向かって猛スピードで疾走をはじめたのである。

 事もあろうに廊下にはGを一番忌み嫌う真梨子先輩がいる……脇腹の痛みも忘れて、起きあがった私は、クラウチングスタート風に転びそうになりながら何とか体勢を立て直し、廊下へ向かおうとしたのだが、その前に「キャー」とわかりやすい先輩の悲鳴が聞こえたかと思うと、廊下から肉まん型の缶が床を飛びはねながら、居間の方へ姿を消し行くではないか、そして、居間には白煙が上がり始めるのである。

 

「おい!」


 Gと一緒に薬にまみれるのはごめん被る。仕方がなく手をついて、玄関へ向かおうとしていた下半身を捻りあげて従わせ、テレビの斜め向かいテーブルの横で白煙を激しく噴射する缶を手に取ると、無呼吸のままベランダへ飛び出して、手投げ弾を投げ返す映画の主人公のように力の限り、背高泡立草に蹂躙された空き地へ投擲したのであった。

 眼が染みたし、服も薬品臭かった……喉も心なしか、いがいがする……それでも、最悪は脱したと思いたい。窓を全開にしたまま、換気扇を回しに部屋の中へ戻ると、先輩の悲鳴がもう一度聞こえてから廊下の途中にあるドアが勢いよく閉まった。



 ◇



「先輩、大丈夫ですか」 


 とりあえずトラウマになっていなければ良いのだが……と思いつつ、ドア越しに私がそう言うと「37度にして!早く!」とえらく反響する真梨子先輩の声が聞こえた。


「何をですか」


「台所の湯沸かし!」


 どうやらそこが風呂場へと通じるドアであったらしい。


 私は台所へ向かうと柱の湯沸かしの『運転』と書かれたオレンジ色のボタンを押した。すると、時刻のみを刻んでいた蛍光グリーンが『40』に表示を変えるではないか。後は『ぬるい』と書かれた水色のボタンを何度か押して設定温度を『37』にしてから、再びドアの前に行き「37度にしました」と先輩に声を掛けた。


 すでにシャワーの音が微かに漏れているかぎりは肝心な先輩には聞こえていないだろう。


「そう言うことか……」 


 そして、私は玄関に落ちているDVD入りのバッグを回収に向かい、玄関前でものの見事に煎餅状になっているGの残骸を発見して、先輩がどうして急に風呂場へ駆け込んだのか……現在進行形でシャワーを浴びているのか……その全てを悟った。


 皆まで言うのは酷と言うものであろう……Gにとっても先輩にとっても……


 私はGの残骸をテッシュに拭い取ると、その足でベランダへ行き、未だ若干白煙の漂う空き地へそれを放り投げた。

 Gよ。どうせ叩き潰されるのであれば、力任せに振り下ろされる私の蠅叩きの手に落ちるよりも、真梨子先輩の足の裏で引導を渡された方が結果は同じであっても幾ばくかは救われたはずだ。来世ではもっと可愛がられる猫かハムスターにでも生まれてほしいと思う。いかに忌み嫌われようとも一寸の虫にも五分の魂と言うからには供養の心がなくてはならない。ゴミ箱に投げ入れず、土に還ることのできる空き地へ放ったのは私からの最後の手向けでもあったのだ。

 さて、Gの弔いは終わった。だがしかし、それはそれは深いにも不快な傷を心に負ってしまった先輩になんと言葉を掛けたものだろう……結局のところ、私は何をしに来たのだろうか……まずは項垂れるべきだろうか……何にしてもGを駆除したの先輩であり、私はと言うと殺虫剤からこの部屋を守ったことと、後処理をしたに過ぎないのである……

 そこまで考えて、私は思い出したようにいがいがする喉と涙が止め処なく流れる眼を洗うことにしたのであった。

 換気扇によって窓から引っ張り込まれる微風を涼やかと感じながら、台所に佇んでいた私は、妙な衝動に駆られてしまった。衝動と言うよりは気が付いてしまったと言うべきだろうと思う。


 それは隣の部屋とを仕切る壁に背をぴったりと合わせたクローゼットであった。きっとこの中には、真梨子先輩の妖艶たる衣類が数多と納められていることだろう……本来であるならば、そう思ってこれを開けて中を見てみたいと言う衝動に駆られることは皆無なのである。なのであるが、真梨子先輩についてある種の疑問を抱いていた私は、どうにもこうにもこのクローゼットの中身が気になって仕方がなかった。クローゼットの前に立って、私は思案した。この行為は大凡先輩への裏切り行為にあたるやもしれない。しかし、私の考えが正しければ、私は大手を振って先輩を敬い接することができるようになるのだ。

 真梨子先輩は普段、それは露出度の高い衣服を纏い、これ見よがしに自分のプロポーションを餌に男子どもの視線を一点集めている。だが、私は気になっていたのである。真梨子先輩は一見して、ただ生地の少ないを身だしなみと無駄に衣類を選んでいるように見える。しかしながら真梨子先輩の身に着けている靴はいつみても、垢抜けているのである。色合いは派手な赤や黄色であれども、くすんだそれらの色は安っぽい派手さを微塵も感じさせず、風合いや気品だけを兼ね備えている。ブランドの有無こそ、疎い私には皆目見当もつかなかったが……


 それでも、靴はその人間性がありありと現れると言う。それを信じて疑わない私は、慎み深くもそれでいて存在感をしっかりと残して行く、そんな良い作りの靴を履きこなす先輩の真の姿が、噂に沿うような淫乱婦女であろうとは俄に信じることができないでいたのだ。

 私は溜息の後にクローゼットの扉に手を掛けた。本人の居ぬ間に勝手に家具に触れる心苦しさと罪悪の念は常に私の胸をずきずきと突き刺した。だが、希望をこそ願えばこの中を私は見なければならないのである。先輩を人として尊敬できるようになるためにも!

 己の器量の小さきを言い訳に、または大義名分にして私はついに扉を開いたのである。


 時間にして数秒の後、私は溜息と共に静かにクローゼットの扉を閉めた。マグネットを使用していないクローゼットであるからして、そこそこの代物なのだろう。そう思ったのはどういう心境によるものなのだろうか……安堵の余裕か、逃避のための逃げ道なのか……

 やはり開けるべきではなかった。虚しさと罪悪感だけが私を支配しているようで、なんとも申し訳ない気持ちである。

 信じるために。信じようとして意を決したと言うのに、良きも悪きも、いずれの確信が得られようとも、罪悪の念のみが残されるのは理不尽な話しだと私は私自身にいいたい。


 傘で空を飛べることを試したくて、己の身を持って世紀の実験を行ったと言うのに、飛んだ後すぐに後悔するような……そんなやるせなさである。 


 真梨子先輩は私が勝手にクローゼットの中を見たことは知るよしもない。だから、黙っていれば一生先輩に私の不届きな所行が知れることはあるまい……なのに、先輩に謝らねばなるまい。そう思ってしまうのは私のどうしようもない不器用なところ………自ら火中の栗を拾いに飛び込まんでも良いだろうに………


 私はそんなことを考えながら、玄関に落ちたままになっているDVDが納められてあるバッグを拾いあげると、居間のテーブルの上に置くため、廊下を往復した。

 バッグをテーブルの上に置き終えたまさにそのタイミングで「恭君」と呼ぶ声がしたので「なんですか」とドアの前まで小走りに向かった。


 先輩はその私に、


「下着取って来てくれない?」と軽く言うのである。


「無理です」私が即答したことは言うまでもない。


 トラウマの件では、私もかなりの責任を感じている次第であり、少しばかりの使いっ走りであれば喜んで拝役するつもりであったが、下着を取りに行けと言われても、純然に困る。まだ下着を買ってこいと言われた方が幾分ましである。

 さすがに、先輩の桜花の園をまさぐるわけにもいかなければ、そもそも、私は下着の納められた場所を知らない。


「じゃあ、出るから恭君、眼つむってて」


 案外トラウマなどはないのかも知れない。人間も動物であるからして、いかに恐怖意識を抱いていようとも、順応能力が備わっているかぎり、これを克服することとて有り得ない話しではない。直に踏みつぶしたことによって、むしろ荒療治なれども先輩は、すっかりGを克服したのやも………


「ちゃんと掃除もしておきましたから、私は帰ります」


 考えてみれば、Gの一件が解決を見た時点で私が先輩の部屋に胡座をかいている必要は無い。


「ありがと。お茶でも飲んでいきなよ」


 そう言う先輩の軽い声を聞きつつ、下着が無いと言うことはタオルを捲いて出てくるのだろうか。と想像した私は、鼻の下を伸ばすことなくベランダの戸を閉め、カーテンを引っ張っておいた。これで外から部屋の中を見ることはできないはずである。


「それでは先輩おやすみなさい」


 そっとドアの前を通り過ぎ、玄関で靴に足をねじ込みながら私は言った。


 すると、


「うそ、本当に帰っちゃうの!」大きな声でそう言いながらなんと真梨子先輩が脱衣所から出て来たのである。

 想像通りにバスタオルを一枚捲いた姿であった。結い上げた髪と湯上がりの頬は仄かにピンク色で艶々しくそれはそれは、私の欲情を騒ぎ立てた……


「わっ」


 唖然とそんな姿をしっかりと見てから、おくらばせな声を出した私は、狼狽のあまり先輩のサンダルに踵を取られ、尻餅をつきながら外に転がり出ると、追い剥ぎに終われる旅人のように階段を駆け下りたのだった……

 これでは先輩も追うに終えまい。そう思えたのは階段の前に止めたペガサス号に跨り、がむしゃらに少しの間ペダルを回転させたところでの話しである。もはや、先輩の姿に鼓動を高鳴らせたのか、心肺機能において呼吸が激しくなっているのかさえ定かではなかった。



 ◇



 今夜は後悔ばかりである。

 ようやく冷静になれた私は、坂道の前にペガサス号を押してゆっくりと歩いていた。時刻で言うなればそろそろ日付も変わる頃だろうと思う。

 結局、クローゼットの件を謝ることも、不甲斐なさを詫びることもしなかった……と言うかできなかった。

 そればかりか、真梨子先輩に欲情して一目散に逃げ出してしまった始末である。今度先輩に会った時になんと言えば良いだろうか……

『風呂上がりの先輩は色っぽかったですよ』と一様褒め言葉に聞こえなくもない台詞を言えば………もれなく殴られるだろう……先輩が苦笑でこれを流したとしても、外野がこれを聞き逃すわけもなく、はたして私は誰かに殴られることになる。

 反省をしてるのか、していないのか……またも先輩の妖艶たるバスタオル姿を思い出しては、恍惚とする私がいる……私も男子の端くれであるがゆえに、これも正常且つ当然の反応であるのだが、やはり婦女の体に興味があり、特にお乳が好きな私であれども、それを真っ向から表に出しては人としての品格が問われてしまう。


 猫を被っても犬を被っても、それはひた隠しにしたいのである。 


 先輩には部屋に残してきたDVDと蠅叩きで許してもらうことにしよう。殺虫剤は恐らく空っけつであろうと思う。

 アクション好きな先輩だが、女性であれば恋愛モノとてお口に合うだろう。それに、私があのDVDを部屋に持ち帰ったところで意味がない。


 何せ私の部屋にはDVDプレーヤーがないのだから………





 初秋の頃。法事で帰郷した私は、十五夜が迫る夕暮れ時に下宿へ戻って来た。つまり一人、オーバー夏休みを堪能していたのである。

 とは言え、明日は履修登録の最終日とあって、その日は日付が変わる時分まで履修予定を画策しては、勉学に怠けるか青春を謳歌するかを天秤に……あるいは来年を見据えて、悩んだあげく。どっち付かずの妥協点でめでたく合意に至った。優柔不断と言うか、わざわざ危ない橋も渡らなければ、叩いて橋も渡らない。私らしい決断と言える。

 翌朝、イの一番に混み合うでもない事務局へ赴くと、昨夜、知恵熱むんむんに書き上げた履修登録申請書を提出し、火曜日の欄が1コマずつ枠がずれていることを指摘され、泣く泣く書き直してようやく受理された……昨夜、懇切丁寧に清書したと言うのに……それが破棄され、その場しのぎと言わんばかりに書き殴ったそれが受理されると言うのも素直に腑に落とせない。

 講義は軒並みオリエンテーションであり、すでに履修登録を提出した私にとってしてみれば受講するだけ野暮と言うものである。ゆえに私は事務局から直接、本館からグラウンドを挟んだ先にある部室棟へ向かったのだった。

 文芸部の薄っぺらい木製のドアの前に立つと室内から忙しなくキーボードを叩く音が耳に痛い……端的な私への嫌がらせではなかろうかとも訝しんでみながらも、私はそっとドアを開けて部屋の中に入った。ドアを閉める私に気が付いたのはフィギュアのスカートを弄んではその中身に浪漫を見出す偏執部長だけであり、その他の構成員は軒並み文芸誌に掲載する自分の作品を必死に執筆中のご様子であった。

  私は、空いている席に腰を降ろし、リュックから真梨子先輩に借りているノートPCを出すと電源にコンセントを入れる前にスイッチボタンを押した。

 使用できるようになるまで数十秒の間、両隣を見ればそれぞれに神話辞書やら、武具辞典など、作品に応じて資料集めも抜かりはないらしい……その点、私ときたら…… 


「夏目君。ちょっとちょっと」


 そろそろHDDも落ち着く頃合いだろうとマウスの上に手の平を置くと、急に部長のお気に入り『フランソワーズちゃん』が突然私の顔の横に現れたので驚いた。

 それはいつもの部長の手口であり、安易に予見できて然るべきだと言うのに、2週間のブランクがすっかりその勘を鈍らせてしまったらしい……


「大丈夫ですよ。入稿までには原稿あげますから」

  

 上座に据えられた部長席まで部長の後塵を拝して私は表情だけは真面目にそう言った。

 この時季だけ部長兼編集長になる部長は、作品こそ書かないのだが、顔に似合わず画像編集ソフトをものの見事に使いこなす腕の持ち主で、文芸誌の表紙やカラー刷りのスポンサーページなど、とにかく眼を惹かなければならないページと言うページを担当していたりする。顔に似合わず、インテリなのである。

 編集長のくせに、執筆の進まない者に激励することもなければ尻をひっぱたくこともせず、すると言えば、指の止まっている者をフィギュアのスカートの中を覗く時と同じ視線でなめ回すことくらいだろうか……精神的にはこちらの方が辛いものがある。だから、ごく少数ながら図書館で執筆している女子部員もいたりする。

 表だっては口に出さないながら、部長の存在が気色悪いのだろう……


「君ってその……同性愛者って本当かい?」 


「はい?」


 いきなり何を言い出すのかと思いきや……よりにもよってどうして同性愛者なのだろうか……


「真梨子さんの部屋に真梨子さんの部屋に上がり込んだくせに。上がり込んだくせに!真梨子さんの………真梨子さんの裸を見て逃げ出したそうじゃないか!」


 何と言う妄言を公衆の面前でそれも大声で吐き散らかしてくれているのだろうか。そして、どうして、部長が鼻を啜りながら目頭を押さえているのですか……


「誰がそんなことを言ったのか知りませんが、そんな事があるはずないでしょ!ありえません!天地神明に誓ってありえません!」


 私は涙を拭う部長に背を向け、聞き耳を立ててすっかり静まりかえった部屋中に、いいや。廊下まで届く声量でもってこれを完全否定してみせた。

 

 まあ、確かに似たような出来事はあったが、決して『裸』ではない。その一歩手前であった。


「そうかい。そうだよね。真梨子さんが君なんかをね。そうだよね。そう言えば最近、真梨子さんは?」


 窒息寸前のフナが水に戻されたように、部長は急に鮮やかな口臭と共に、私の肩を何度も叩いた。


「知りませんよ。何で私が知ってるんですか」


 そう言えば、ここのところ真梨子先輩からなんの連絡もない……とは言え、友人でもなければ恋仲でもあるまいし、必要以上に連絡を取り合う必然性は皆無。だから、連絡がなかろうとも不自然なことは微塵もない。 


「だって、いつも夏目君は真梨子さんに磯巾着してるじゃないか。だから知ってると思ってさ」


 夏休み明けてから一度も来て無いんだ……部長はそう言うとキーボードの上に突っ伏して嘘泣きを演じていた。


 ディスプレイに出力される『あああああああああああああああああ』の文字が部長の心情を表しているようで面白かった。


 今更ながらであるが、部長は真梨子先輩のことに好意を寄せている。だから真梨子先輩と私が気さくに会話をしていたり、時には共に昼食や帰宅の途についている様子を随分と妬ましく思っているようで、私への言動にいちいち棘があるのはそのためだ。


 もしも、真梨子先輩へ対して部長が抱く想いが純粋な恋心であったなら、私とて応援することは吝かではない。

 だが、お乳に括れにお尻にと到底、純粋を遥か遠くに置き忘れてしまったのか、初めから持ち合わせていなかったのか……とにかく部長の抱く想いは邪なること最悪のごとし。『真梨子先輩』ではなく明瞭に『真梨子先輩の体』を愛しているのであって、そんな変態の一手を酒の席で語る男を応援する阿呆は世界を探してもどこにも見つかるまい。

 もしも、現れたのならば、片っ端から私が蠅叩きでもって百叩きにしてくれる。自分で言うのもなんだが、正義うんぬんなど知ったことではない。


 私は乙女にのみ味方なのである!


 胸に湧き上がる高揚感と目前に並ぶ情けない『あ』の文字。この温度差に耐えられなくなった私は何を言うでもなく、部長をほったらかして、座席に戻ると真梨子先輩のノートPCをかたかたと打ち始めた。

 部長からすれ、私が真梨子先輩の所有物を使っていることすら気に食わないらしく、私がPCを借用する以前は部屋中に珈琲の芳しい香りが漂っていたと言うのに、私が珈琲を飲んでいて、誤って真梨子先輩のPCにこぼしては取り返しがつかないと、部長による独断と偏見のみで『飲食禁止令』を発令し、なぜか私が白い眼で見られ……これには真梨子先輩も苦笑しているしかなかった。

 私も一様執筆の体を保っているが、実際には伊呂波歌を打っては消しを繰り返しているだけだった。だからこそ、部長の一方的な真梨子先輩への愛情劇を語る余裕があるわけである。

 部長に呼ばれすっかり言い損じてしまった。実のところ、私は作品の何もかもの準備も出来ていなければ、一字一句として筆が進んでいなかった。そのうち何か思いつくだろうとか……最悪、過去の作品を使い回そう……そんな悠長に考えていての結果である……まさに本末転倒。

 しかしまあ、私が同性愛者と指をさされる日が来ようとはお天道様でもこればかりは予見できなかっただろう。婦女を愛してやまずお乳の大好きな私をどこからどう見れば同性愛者に見えるのだろうか。確かに、部長のように『俺の夢は真梨子様のお乳を揉むことだ!』と本人のいる席で叫んだり、露骨に『健全な男子です』と口に出すこともなければ、部長のようにフィギュアのスカートを捲って喜んだりと行動にも表さない。そんな私であるが、だからと言って同性愛者とは些か飛躍しすぎだと思う。

 人の噂も75日。日数にして2ヶ月少々を知らぬ存ぜぬと肯定も否定もせずに涼しい顔をしてさえいれば、噂なんぞと言うものは無為自然と下火になってゆくものだ。下手に騒ぐと古平辺りが面白がって火に火薬を注ぐことにもなりかねない。だから、変に手を加えず自然風化を待つが上策なのだ。流れのまにまに焦ることのない自分を賞賛しつつ、だが、どうして全ての例が部長なのだろうか……私の基本は部長なのか……と軽い吐き気をもよおして、それこそ有り得ない。と部長を見やると、丁度、部長が私をなめ回している最中だったので、さらに気分が悪くなってしまった…………


 

 ○



 夏休みを実家に帰らずに、下宿先で……いいえ、ほとんどの時間を真梨子先輩の部屋で過ごしていた私は、その日も今晩の夕食は何にしようかな。と考えながら大学と真反対にあるスーパーマーケットで野菜やら総菜を物色していました。するとまさにその時に「今から来れる?」と先輩からメールが入ったのです。だから私は「今スーパーにいるので、すぐに行きます」と返信をしました。

 ちょっとしたお菓子と飲料をお土産に買って、真梨子先輩のアパートへ向かいました。

 別に私の方から「行ってもいいですか」と連絡したこともなければ、毎度、真梨子先輩からお誘いがあって、足を向けるのです……と先に言っておきます。先週は毎日のように通っていましたから、さすがに控えなければ……と思ったりしてみたのですが、今週も先週同様に今日で5連続となってしまいました。

 先輩の部屋は居心地も良いですし、先輩の料理は美味しいし……今では一緒に料理をしたりもするまでになりました。真梨子先輩は交友関係に苦労はしていないでしょう。それなのに、私ばかりを可愛がってくれるのでお誘いを無碍にもできません。

 だから5連続なのです。

 

 それに……私は先輩と違って、親密と呼べる友人もいませんし……部屋にいても、ただ怠惰に日々を過ごすだけですから…………その証拠に先輩の家に通いはじめた当初、その帰り道では口の周りの筋肉がすっかり疲れてしまっていました。日頃、よほど私は表情がないのだろうとこれほど思ったことはありません。ですが、今日ではそんなこともすっかりなくなり、美術部の先輩方からも「最近よく笑うようになったね」と言われるまでになりました。それだけ真梨子先輩と一緒に過ごす一時は面白愉快なので、お誘いをされてしまうと、どうしても行かずにはいられないのです!。


「いらっしゃい」


 そう言ってドアを開けてくれた先輩の姿も5回目です。


「この前、先輩が言ってた長靴スナック買って来ましたよ。ついでにデロリンソーダもちゃんと買いました」


 廊下を先に歩きながら私がそう言うと、先輩は「わあ、楽しみ」と音符を飛ばしています。


「その前に夕ご飯食べましょう」 


「頂きます」 


 私は食器が伏せて並べてあるテーブルの下にお菓子の入った袋を、飲料は冷蔵庫へと持って行きます。

 今晩のメニューは素麺ですね。桐の箱に納められた細く無垢色のそれはまるで真珠のようです。そして、一束一束黒い帯で結ばれているのですから、普段私がスーパーで買っているものとは一味もふた味も違うのだろうな。と一目見てそう思える一品なのでした。


「これね、三輪素麺って言ってとっても美味しいのよ。お中元でもらったのを実家から送って来たのよ」

 

「でも、先輩は食べ慣れてるんですよね」 


「毎年送られてくるから、その時だけね」


 ぐらりぐらりとする鍋の中に次々と真珠素麺が流し込まれて行きます。パスタ麺よりもずっと細い素麺はお湯に浸かるなり瞬時に波に揺れる昆布のようにふにゃふにゃになってしまいます。

  

「これなんの映画ですか」


 調理は先輩に任せて私はテーブルの傍らに腰を降ろしてテレビの画面を見ると、そこには傷だらけの男性が、ぼろぼろのドレスを身に纏った女性をお姫様抱っこで抱え仁王だっているシーンでした。停止しているのでしょうね。ずっとそのシーンなのですから。


「なっちゃんはどんな映画が好きかな。テレビの前にまだ見てないのあるから好きなのかけて良いわよ」 


「でもこの映画はどうするんです」 


もうラストだもん。先輩はそう言ってから、鍋を持ち上げると、ザルの上にお湯を流し込みます。途端にもわもわと噴き上がる蒸気とお決まりの………私が楽しみにしていると、蒸気が一段落したその時にベコンッとシンクが鳴きました。この音がしなければいまいち湯切りをした感が物足りません。


 滝のような水道の音を聞きながら、私はテレビの前に置かれたレンタルバッグを開いて、面白そうなタイトルがないか探します。私は別に映画に関して偏った趣味はありません。ただ、できれば派手な爆発や銃撃戦に血みどろは見ていて面白いと感じません。ですがら、ホラーやスプラッター映画は見ようとも思わないのです。

 幸いと言いますか、先輩の趣向はそう言ったものではありませんで、アクションモノだろうタイトルが一本ともう一つのバッグには、恋愛モノでしょうタイトルが2枚収まっていました。


 気になったのが『OOセレクチョン』と可愛さをこれ見よがしにピンク色の丸文字で書かれた2枚のDVDでした。興味こそありませんでしたが、これではタイトルから何のセレクチョンなんのかがわからないではありませんか。そう思ったのでした。

 とりあえず、恋愛モノをプレイヤーに入れた私は迷うことなく再生ボタンを押しました。


「なんだあ、なっちゃんって恋愛モノ好きなんだ。乙女だねぇ」 

 

 小粋なおっちゃん気取りなのでしょうか。先輩は硝子皿に盛りつけられた素麺をテーブルの上に置きながら、低い声で言うのです。


「いいえ。先輩が好きなのかなと思って」

 

 恋愛経験のない私にとっては、恋愛映画もドラマも今ひとつ感情移入しきれず『はてな?』と首を傾げているうちに終幕を向かえてしまうのが常です。それなら、単純なアクション映画にすれば良い。そう言われてしまうとその通りです。ですが……少し……真梨子先輩がどんな恋愛模様を好むのか気になってしまったのだろうと思います。きっとこれが本心なのでしょう。


「桜んぼ、なっちゃん食べて良いからね」 


 映画のCMの間、ちゃっちゃと夕食の準備を済ませて、私の対面に腰を降ろした真梨子先輩は、盛りつけられた素麺の頂上にちょこんと乗せられた薄赤の果実を指さして、にっこりと微笑みます。


「遠慮なく頂きます」私は先輩と声を揃えて『いただきます』をしてから、一番に桜んぼをひょいと摘むとそのまま口の中へ運びました。果肉をかみ砕くと、途端に広がる甘酸っぱさと水っぽい甘さ……美味しい!と言い切れないのが正直に悲しいところでした、けれど白の中に紅一点と夏の趣を醸す果実は、味覚とは違った意味で十二分に味わい深く頂くことができたのでした。

 先輩お勧めの三輪素麺は確かに喉越しもよく、口の中でごわごわとしませんで、私が普段買い求める素麺とはワンランク上ですね。と私は北大路魯山人のように素麺を味わっては何度も頷いては美味を噛み締めていたのでした。


 一方、先輩はと言うと、お行儀悪く、素麺を啜りながら横を向いて映画を見ています。


 私もお行儀が悪いのを覚悟して横を向きます。すると、画面の中では丁度、若い男女が熱い抱擁を交わしているところでした。そして、流れのまにまに、濃厚にも熱烈で激しい口づけを交わすのです。私は俳優も女優さんもよくここまで演技できるものだな。と素麺を啜っていたのですが、先輩はついに啜るのを途中でやめて、その愛のシーンを食い入るように見つめているではありませんか。私としては、とりあえず、口から垂れ下がる素麺を口に入れてからにした方が良いと思いました。けれど、少女漫画の主人公の瞳のようにキラキラと瞳の奥を煌めかせて恍惚とする真梨子先輩には、決してそんな野暮ったいことは言えるはずもなく、まるで、停止ボタンを押されたように固まっている先輩を上目遣いに見ながら、さらに素麺を啜るのでした。


 素麺の半分以上を私の胃袋に納めて、映画一本分の時間を夕食に費やした私と先輩はエンドロールの間に食器類をシンクにへ持って行き、さっさと片付けを終えると、プレーヤーから出したDVDを見つめながら先輩が「恭君こんなの見るんだ」と呟きました。


「それ夏目君が借りたDVDなんですか」


 うん。と短く答えた真梨子先輩はもう一枚のDVDをプレーヤーの中に入れると、台所に居た私に「デロリン飲もうよ、長靴も食べよ」と悪戯に微笑むのでした。


「がってんです」 


 待ってましたと私は冷蔵庫から赤色と青色に分離したデロリンソーダーを取り出すと、先輩の分をテーブルに置き私は手に持ったデロリンを床に置きました。

 そして、テーブルに下に置いた長靴スナックを取り出してテーブルの中央に置きました。

 「開けるよ」先輩は袋を手に取ると、身を乗り出してテーブルの中央で両方から引っ張り封を開ける準備をします。「はい。いつでもどうぞ」そう言った私は身を乗り出して袋の真上に顔を持って行くのです。すると、真梨子先輩と私の額がぴったりとくっついてしまいました。仄かに香る甘い先輩の髪の毛が……これから毒されてしまうようでなんとも複雑な気持ちでしたけれど、楽しみにしていたのですから、どうしようもありません。


「せーのっ」


 先輩はそう言うと幾ばくか腕に力を入れ力みます。そして、その次の時には袋の封は爽快とばかりに大きながま口を開けたのです。


「わあ」「臭っ」


 横一文字ががま口に変わった途端に、吐き出された口臭のごとく何とも言えない匂いが私と真梨子先輩の鼻腔を汚染し、ぴったりとこずき合わせていたおでこは同極の磁石のように瞬時にして互いを退け合い、それぞれに床に転がると鼻を摘んで手足をじたばたとさせました。

 長靴スナックと言うお菓子は正式には『高原のコーンスナック』と言うお菓子で、味自体はとうきびの粉をベースに香辛料を混ぜて揚げたシンプルな味わいのお菓子なのです。味も別段、不味くもなければむしろ美味しいのです。ですが、なぜだか、袋を開けたまさにその瞬間だけ、汗びっしょりの足で長靴を履いて、さらにランニングをし、数日おいた後に電子レンジでチンしたような、とにかくゴムの匂いと醗酵した汗臭ささを思わせる激臭を発するのですから不思議です。


 そして、そんな噂が噂を呼んで、ついたあだ名が『長靴スナック』なのです。


 少しの間「臭い」だの「やだぁ」だのと二人してきゃいきゃいと悪臭の余韻に浸っていたのですが、真梨子先輩よりも先に復活をとげた私は、恐いモノ見たさで今一度、ゆっくりと袋の口に顔を近づけて鼻をひくひくさせてみました。けれど、もうあの眼が冷める悪臭はどこへやら、BBQソースのような香ばしい香りがして、どうにも美味しそうではありません。本当に摩訶不思議です。


「次ぎデロリンデロリン」


 涙を拭きながら起きあがった先輩はテーブルの上に置いてあるペットボトルを両手で持つと「何色になるかなあ……虹色になれ!」と念じながらペットボトルを上下左右に全力で振りはじめます。その際、ボトルと一緒に上下左右に跳ねる髪の毛がなんともお茶目さんです。


 私も先輩に続いて、ボトルを両手に持つと「いきます」と一呼吸おいてから、必死になってペットボトルを振りはじめます、平均的に2分間激しく降り続けると、分離していた色同士が完全に混ざって、一色に完結するのがこのデロリンソーダと言う飲料です。なんでも、ラベルには決まったパターンはなく、振り方によって色合いが変わると書いてありますから、振り方と言うよりは混ざり具合が大きなポイントなのでしょうね。

 そうでした。忘れてはいけません。このデロリンはごく稀に色が上手く混ざりきらず虹色になることがあるとか無いとか……

 真梨子先輩が言うにはそれはそれは狂ったように振れば虹色になるそうなんですが、

一生懸命にこれでもかと髪の毛を踊らせて、デロリンを振る先輩を見ていた私は、どこか中途半端にしか振っていませんでした。

 これで、もし私のデロリンが虹色になったならどうしようと思うくらいです。


「どうだ!」 


 と息を荒くしてデロリンを机の上にどすんと置きます。その衝撃で長靴スナックの粉が少しテーブルの上にこぼれてしまいました。


「残念。緑色。なっちゃんは?」


「私は赤色でした」


 もしかしたら……なんて一瞬でも淡い期待を抱いた私ですから、何だか恥ずかしいです。


「先輩、冷蔵庫に入れますから貸してください」 


 私は立ち上がると、真梨子先輩にそう言いながら手を差し伸べます。「ごめんね、お願い」と先輩は前髪をかき揚げながらデロリンを私の手の上に乗せます。

 そうなのです。デロリンは炭酸飲料ですから、思いっきり振って色を変えてからすぐに蓋を開けてしまうと、内容量の約半分程度が三鞭酒のように吹き出してしまうので、振った後はしばらく寝かしておかなければ落ち着いて飲むことができないのです。


 購入した私が言うのもなんですが、どうしてこんな面倒くさい飲み物を考えたのでしょうか。



 ○



 コーンスナックとデロリンを交互に賞味しながら恋愛映画を鑑賞して、それから、もう一本のアクション映画を見ていました。

 前者は主人公が幼少の頃に海に流した手紙入りの小瓶がテーマとなっており、お隣さんの荷物を預かったことから、ヒロインと出会い……そのラストではそのヒロインが、主人公の流した小瓶を拾っていた。と言うストーリーでした。


 最後のシーンで「小瓶の手紙、何度読もうと思っても、最後の文字が滲んじゃってて……なんて書いてあったの?」とヒロインが聞きます。主人公はもうそのことをととっくの昔に忘れているのですが……「君のことを愛しています。って書いてあったんだよ」と照れながら言うのです。


 ヒロインは、その言葉と主人公の優しい眼差しに瞳を潤ませて「嬉しい」と呟ながら、ヒロインから主人公の胸にすがっての二人の長い抱擁。後にシルエットでのキスが行われて……エンドロールがはじまりました。


 画面の前では真梨子先輩がその様子を食い入るように見つめては、何度も頷きながら同じく瞳を潤ませていました。


 当の私はと言うと……「嘘つき」とそれだけ、ただそれだけを思っただけだったのです。


 もちろん手紙に『君のことを愛しています』と書かれてあった。と言う部分ではありません。それは遡ること序盤も序盤、小学校低学年ほどの主人公が祖母の墨を使って書いた手紙を小瓶に押し込んで浜辺から海に投げ込と言う場面に遡ります。


 何せ、私は主人公と同じ年頃に同じことをしたことがあったのです。その時は、寝る前にトムソーヤの絵本を読んでもらって、翌朝、トムソーヤの冒険に興奮冷めやらぬ私は、その絵本の中で登場する『SOS』と言う文字を新聞に入っていた広告に赤いマジックで大きく書いて……父の空けたブランデーの達磨瓶に押し込み、そして、心をときめかせながら、浜辺まで走って行くと、海に向かって力一杯に投げ込んだのです。 

 なぜだか嬉しくて嬉しくて、スキップをして……いいえ、この時はまだスキップはできませんでしたから、スキップもどきをしながら家に帰ったと思います。

 私は子供ながらに、あの小瓶は果たしてどこに流れて行くのだろう。誰が拾ってくれるのだろう。終わりが見えないほど広い海なのだから、ひょっとしかた外国に流れ着くかもしれない。そしたら、どんなお返事をくれるのだろう。瓶を投げ込んでからと言うもの、心のわくわく上昇気流が私の身体をいつだってふわふわと空へ浮かせてくれるようでした。


 一週間ほど経った休日に私は浜辺へ行きました。もちろんスキップもどきをしながら。だって、その週はずっと投げ込んだ瓶のことしか頭になかったのですから……学校の授業中も、お風呂に入っている時も、食事の時も……浜辺に返事が流れ着いていることを夢にまでみたくらいでした。


 浜辺に行ってみると、丁度引き潮時。私は浜辺を色の濃くなった普段は歩けないところを歩きながら『返事』を探していました。


 すると、浜辺と磯野との境目に、恰幅の良い瓶が転がっているではありませんか。しかも、中には手紙とは言えないながらも、何やら紙が入っているのです。私は鼓動を高鳴らせながら瓶を抱きかかえると、猪のように家に走って帰りました。縁側に座って足をぶらぶらさせながら、瓶の蓋を捻りあけて、中の紙を取り出そうとしました。けれど、この手紙の送り主はおっちょこちょいのようで、取り出す時のことを考えて手紙を入れなかったようなのでした。

 無理矢理押し込んである紙は、瓶を逆さにしようとも振ってみようとも一向に出てこず、困った私は蛇の生殺しとはこれいかにと恨めしく瓶を見つめると、次の瞬間には瓶を頭上に持ち上げ、大きな庭石にこれを投げつけていたのです。


 私の思惑通り……と言うか……とりあえず瓶は木っ端微塵となり、くしゃくしゃになった紙が乾いた土の上に落ちたわけです。私は四散した瓶の破片に気を止めることなく、紙を拾い上げました。その時手の甲に何かが触った気がしたのですが、早く返事を読みたい一心でその時は気になりませんでした。


 その紙は近くのクリーニング店の広告でした。


 広げてみると、


 『SOS』と赤い文字で大きく書かれてあったのです……

 

 『SOS』の意味も知らず、そもそも、ローマ字もわからない私でしたし……その頃には『パパチのクゥちゃん』と言う絵本に心を躍らせていましたから、トムソーヤのこともしっかり忘れてしまっていたのだと思います。ただ、返事の事だけを覚えていたのです。

 顔を顰めていると、今さら、手の甲が痛がゆく、そして熱いことに気が付きました。紙を左手に持って、手の甲を見やると、なんと血が出ていました。それも中指に滴るほどに……血が大嫌いで、クラスの誰かが鼻血を出した時など、一緒になって泣いてしまう私でしたから、私はもれなく大泣きをしました。それはもう喉が焼けるほどに叫びましたとも。


 そもそも、瓶を割った時点で「何してるの、なっちゃん?」と台所から母親の声がしてましたから「あらあら、どうしたのなっちゃんは、そんなに泣いて」と言いながら、すぐに母が来てくれたのですが………


「うぅ」 


 私はそこまで思い出して、頭を抱えました。


 手の傷は深くなく、洗面所で洗っていつもポッケに入れてあったクマちゃんの絆創膏を一枚貼って事足りてしまいました。

 でも、母はその後、帰って来た父に大笑いしながら私の携えていた『SOS』とかかれた広告を見せて、父と一緒にさらに大笑いをしていました。庭で手に怪我をして、泣き叫びながら、もう片方の手には『S0S』が、文字通り『助けて』と書かれた紙を私が持っていたことが、可笑しくて仕方がなったそうなのです。


 私からすればとても嫌な記憶です。未だにお正月など親戚が揃いますと、毎度毎度、母はこの話しをするものですから、その度に私は笑われてしまうのです。

 結局、何が言いたいのかと言うと、浜辺から瓶を投げ込んでも波に打ち返されて浜辺に戻って来てしまうと言うことが言いたかったのです。


 だから「嘘つき」と私は思ったのでした。


「これから、DVD返しに行くけど、どうする?なっちゃん帰る?」


 物語の中盤、ヒロインが息絶えてしまったところで、DVDを取り出して、ケースにしまいながら先輩が言います。


 私は「いいえ、お供します」と言ってからテーブルの上に残されたコーンスナックの袋やらデロリンのボトルをゴミ箱へ、台所へと簡単な片付けをしてから、バッグを携えた先輩と一緒に玄関へと向かったのでした。


 晩夏の頃を思わせる虫の音を聞きながら、静かな夏夜を歩きます。昼間よりはずっと涼しくなったからでしょうか。夜空の大三角形も気持ちよく見上げることができるのです。


「そう言えば、どうして映画途中でやめちゃったんですか?」

 まだ途中だったのに、私が言います。


「だってヒロイン死んじゃったもん」


「え、ヒロインですか……」


「誰にも言っちゃダメだよ」


 レンタルバッグを後ろ手に回した先輩は踵を返し、暫し後ろ向きに歩きながら私の瞳に言います。


 私は「誰にも言いません」と2度頷いて見せました。


「なんかさぁ。頼もしい男の人に守られてるヒロインっていいなあ。って思っちゃうのよねえ」


 お姫様抱っことかされちゃって!照れ隠しでしょうか、真梨子先輩は弾んで見せました。


「だから私が来た時、お姫様抱っこのシーンで止まってたんですね」


 「何度も見返しちゃった」と悪戯な笑みを浮かべる先輩は本当に可愛い女の子だと思いました。

 私はてっきり、派手な爆発や激しい銃撃戦。加えて、多勢に無勢を何のその、やたらと強い主人公が爽快に悪の組織を打ちのめす様に興奮していたのだとばかり思っていました。ですから、先輩のアクション映画の見方には意外と言うか……目から鱗だったのです。


「でも、第2のヒロイン登場の可能性もあったじゃないですか、最愛の人の命を奪われて、荒れる主人公を癒して、やがて正義に導く……みたいな第2のヒロインですよ」


「良くあるパターンです」私は続けて言いました。


「それはそうだけど……」


 第一に、後半はむさ苦しい男だけの熱すぎる汗臭い戦いなんて、見ていて誰も面白いとは思えません。だから、紅一点と第2のヒロインが……死んだヒロインよりも美人でグラマラスな女性の登場がかかせません。


「なんか、浮気してるみたいで嫌じゃない?愛してる。って言ってたくせに、死んだら終わりって言うか……すぐ次ぎに乗りかえたみたいで」


 この時は振り返りもしなかった先輩でした。だから、私が歩調を早めて先輩の横に並ぶと。どこか遠くを見つめて憂鬱な雰囲気を醸す先輩の横顔があったのでした。


「先輩は乙女チックなんですね。死んでしまっても一途にずっと愛し続けられたいなんて」 

  

「私ならそうするよ。だって、そうされたいもん」


 無表情で言った私に、視線だけをくれてそう言った先輩でした。


 レンタルビデオ店の入っている書店の自動ドアをくぐったところで「私が返して来ます」と先輩に申し出た私に先輩は「じゃあ、私はDVD見て回ってるね」と頷きと一緒にバッグを渡します。返却の受付カウンターに持って行くと店名の入った萌葱色のエプロンをした男性が対応をしてくれました。


「確認しますんで、少々お待ちください」

 

 髪の毛を茶色に染めた男性はきっとアルバイトでしょう。エプロンの下に着ている青いTシャツと首周りには肩が凝ってしまいそうな、ネックレスがぶら下がっていましたから。

 そうです。真梨子先輩をよく知らなかった頃の私は、真梨子先輩の友人はこんな格好をした男性ばかりだと思い込んでいました。

 でも、実際には……と言うか、まだ、男性のお友達は一人として見たことがありません。携帯で連絡を取っている姿も見かけませんし……

 先輩も携帯をあまり使わないのでしょうか。かくゆう私は『携帯を携帯しなさい』とゼミの友人に言われてもなお、ポケットにはお財布と家の鍵しか入っていません。私の携帯電話は今頃充電器の上でぬくぬくと寝息を立てていることでしょう。


「あの、歳のわかるもの見せてもらって良いですか。成人DVDが入ってますんで」 

 バーコードリーダーでDVDケースに貼られたバーコードを読ませる作業を黙々と続けていた店員さんが、とあるDVDケースで手を止め、腕を動かすたびにじゃらじゃらとなるネックレスに視線を向けていた私は急に目が合ってしまって、とても驚いてしまいました。


「学生証でいいですか」 


 慌てて視線を白いカウンターに写すと、ズボンの後ろポケットに入れていた財布を取り出して、学生書を店員さんに見せました。


 どうも。と義務的に私が見せる学生証を一瞥してから「ありがとうございました」とそっけなく言うと、店員さんはさっさとDVDをカウンター内のテーブルの上に、置くと、そのまま書籍コーナーへ行ってしまいます。

 私は今更顔をゆでだこのように熱を宿して、学生証をお財布にしまいながら、早歩きで先輩の姿を探したのです。


 DVDコーナーを一通り歩破した私は、蛍光ピンクの暖簾がかかった入り口の前で『まさか』と思いながら、目元をぴくぴくさせていました。

 『OOセレクチョンだ。OOセレクチョンに決まってる!』私は胸の中で、何度も何度も反芻して言います。OOセレクチョン以外の作品は真梨子先輩と一緒にこの眼でしかと鑑賞したのですから……後は未見なのはOOセレクチョンだけではありませんか! 

 そう言えば、真梨子先輩は『夏目君って~』と夏目君が借りたDVDがあることを話していましたから……絶対に夏目君が借りたに違いありません。私はまだ、真梨子先輩の口からしか聞いたことしかない、夏目君を早々と恨みました。

 人生ではじめて成人DVDを返却した私なのです……


 ですから………とっても!とっても恥ずかしかったんです!


「ごめんごめん、今日発売の本が探してたの」


 私はお腹の中で、お腹の虫を煮込んでいると、真梨子先輩が小走りに私の背中に声を掛けたのです。


「先輩!成人DVDが入ってました!学生書で年齢確認までされました!」

 

 私は先輩に詰め寄ると「恥ずかしかったです!」と言うかわりに、そう言いつつ、言い終わった後に周りに誰もいなかった幸いに安堵の息を吐きました。


 「うん」詰め寄る私に先輩はまるで「それがどうかしたの?」と言わんばかりにあっさりとそれだけを言ったのです。

 

「うんじゃありませんよ。夏目君は最低です。先輩にそんなDVDを返させるなんて!」


 夏目君は真梨子先輩に何という恥をかかせるつもりだったのでしょう。そう思っただけでも、腹が立ちます。実際は私が返してしまって、私だけがとてつもない恥ずかしい思いをしただけでしたけど………


 ちがうちがう。先輩は憤る私を窘めるようにそう言うと、


「私が借りたのよ。恭君は恋愛映画だけよ。でも、おかしいなぁなんで返却の時に年齢確認なんてするんだろ?普通は借りるときだけじゃない?」と言うではありませんか。


「へっ」私は本当に『へっ』とだけ言いました。これも生まれてはじめてのことです……今夜はなんだかはじめて尽くしですね。

 先輩は唖然とする私に「帰ろっ」と言うと、何を言うでもなく書店を後にしました。

 

 幾分涼しくなったとは言え、冷房の効いた店内からでると、蒸しタオルの上を歩いているような蒸し暑さに、露出度の高い服を着ている先輩が少し羨ましくなりました。

この暑さでは頭は冷えませんでしたが、確かに言われて見れば返却する時に年齢確認をするのはおかしいです。

 だとしたら……私は掻かなくても良い恥を掻いたことになります……

    

「ちなみにですけど、あのDVDは何のセレクチョンだったんですか」


 どんな色の箱であったとしても、中身が気になってしまうのはパンドラ以来、人間の性だと思います。


「気になる?」 


いやん、なっちゃんたら。と眼を細めて戯けてみせる先輩は、どうしてこんなに楽しそうなんでしょうか。

 

「ちなみにです」


「うーん。おっぱいじゃないかな。それも大きいのばっかり」


 細くて長い人差し指を顎に当てながら、思い出すように話す先輩です。

 

 私は先輩の隣で尽かさず周りに誰も、特に男性がいないかを確認します。隣にいる私がどうして羞恥心に駆られなければならないのかはとても不思議なのですが、その……何というか……胸の辺りに大きな果実を実らせて、容姿端麗な先輩が『そう言うこと』を言うと、どうしてでしょうか、とても卑猥に聞こえるのです。

 いいえ。卑猥とは言葉が少々悪すぎます。なんと言えば良いのでしょうか。筆舌するに困る感覚なのですが、苦し紛れにでも例えるとするならば……私が持つと汚い色でも、真梨子先輩が持つと忽ち桃色に早変わりしてしまう……やはり苦しいですね……


「ほら、夏目君って大きいの好きらしいから」


口元を痙攣させる私の頬を突きながら言う先輩。これはスレンダーな私への当て付けなのでしょうか。と刹那に黒い私が感受したのですが「そんなの知りません。それにしても先輩。よくそんなことを堂々と口に出して言えますね」とますます嬉しそうに口端を釣り上げる先輩に言ったのでした。  


「そんなことって?なになに?」


確信犯なのか、それとも本当にわかっていないのか……こういうところが真梨子先輩の摩訶不思議な……私にもよくわからない性分なのです。


「だから……その……」


 『おっぱい』だなんて私は口が裂けても言えません。今日は色々とはじめてのことがありましたから、これ以上のはじめては結構です。


 私は頬を赤くして、先輩の盛り上がった胸元を恨めしく見つめていると「おっぱいのことね」とすんなりと、また言うのです。

 なので私は、慎みについて先輩にお説教をしてあげなければと思い。「だから!」とまで言ったのですが……先輩のあまりの我関せずっぷりに私は言及するをすっかり諦めてしまいました。


「……先輩、また言っちゃいけないことを堂々と言いましたね………」


 私は溜息混じりに項垂れては、いつまでも首を左右に振っていたのでした。


 

 ◇



 部室のドアの前で白羽の矢を刺すのはやめて欲しい。もっと言うなれば、トイレから帰って来た人間にドア越しで白羽を発射するのもやめて欲しい。これではまるで私が、執筆もろくにしない暇人、もとい邪魔者のようではないか。相変わらず、部室内からはキーボードを乱打する音がのべつまくなしと聞こえていた。

 

 今日こそは円周率を三十桁まで覚えてやろうと意気込んでいたと言うのに!

 

 間違った方向に船首を向けての航行と言えども、出鼻をくじかれてしまった私は「〆切に遅れても知りませんからね」となんともそれらしいことをドアに吐いてから、白羽の矢を携えて多目的ホールへとつま先を向けたのであった。


 文化祭が迫りつつある昨今、何気なく廊下を歩いていても、窓の外を見ていても、または、屋上に出てみても。どこもかしこもがざわざわと、来る祭りの準備に落ち着きなく青春のエナジーを源に躍動しているように感じて仕方がない。もちろん、私とて昨日辺りから焦り出した。厳密には昨日の部活の帰りくらいからである。

 私を省いた部員達が推敲前ではあったものの、作品のページを部長に報告したからである。もちろん一字として書いていない私は「まだわかりません」適当にはぐらかした。だが、作品の総ページ数と、別刷りのページを合わせた統合総ページを部長が流れる電卓裁きで算出したところ「百ページ足りない」との結論に至った。どうやら、各々キーボードをこれでもかと、いじめていたくせに、短編ばかりを提出したらしい。


「夏目君。君の今何ページある?100越えてたら即ボツね。越えてなかったら、うまいこと100で揃えてよ」

   

 安易な口振りで部長は私に言ってくれた。


「えっと、千字詰めで百ですか……」


「うん。そっちの方が印刷屋に大量発注する時、安くなるんだよ。300部で4割引だから」

 

こんな時にだけ暗黙の了解が萌える草木のごとく自然的に発生する。ほかの似非小説家達は何も言わずに、ぞろぞろと席に戻り作業を続行し、残った私だけがゴルゴダの丘に磔にされた罪人のように、いつになく真剣な部長と無言の駆け引きを迫られるのであった。少なくともこの部室に神も仏もありはしないことだけは確かだ。

 100ページと言う未だに私が書き上げたことのない枚数を突き付けられ、すでにこれは夢である。と現実逃避にのみひた走っている私には米粒ほどのアイデアも浮かばなければ執筆の意欲とて缶ジュースの残渣ほどもなかった。


 なのに、部長は私に本日、多目的ホールで学生執行部が主導して開催される『今年度文化祭アピール検討会』に出席の旨を命じたのである。


 理不尽なことこの上ない。


 多目的ホールに入ると備え付けてあるホワイトボードにはまさにそのままの漢字とカタカナが並んでいた。すでに執行部の面々は顔を揃え、私が『文芸部』と記された三角錐の立つ窓際の席に腰を降ろすと、栗毛の女子が「どうぞ」と言って資料プリントが手渡された。彼女はきっと今年選出された書記か会計あたりだろう。

 私がそう予測する中、彼女はなんと『副会長』と書かれた三角錐の置かれた席に座ったのである。童顔で声とて可愛らしい彼女が副会長とは、いいや身体的特徴は私の個人的な偏見でしかない。むしろ、副会長自ら資料プリントの配布と言う雑務を進んでこなすその殊勝さにこそ脱帽するべきだ。


 残念なことはもう一つ。私とは正反対の廊下側。そこに私の美しくも華々しい百合の花であらせられる、葉山さんが咲いていることである。真面目な彼女は、早速、渡された資料プリントに視線を落としていたが、やがて、持って来ていたノートを開くとすぐに何やらプリントと対照するように、顎を左右に動かしては双眸忙しなく、時折、考え込むようにシャーペンの頭を顎に擦る仕草を私に見せてくれた。別段、私に見せているわけではないにしても、いやはやどうして相貌才媛とたおやかに、臈たけた趣が無限に湧き出でているようである。


 やはり葉山さんは可愛らしくも美しい。まさに花も恥じらう乙女と表すに相応しい婦女である。   


 筆記用具すら持ち込んでいない私であったが、何を憂うこともなく、雪のように白いお肌に絶妙な間合いで納められた眼や鼻や口が讃える葉山さんの横顔をずっと見つめていた。彼女が髪の毛を掻き上げ耳に掛けようものなら、このときめきのうちに、このときめきが原因で意識を失ってしまいたいと、高ぶる鼓動を押さえるのに必死となってしまった。


 テニス同好会の遅刻によって23分遅れで会議がはじまり、『執行部部長』と書かれた三角錐には、腕を組んでふんぞり返るでもなく、無意味に存在感の薄い華奢な男。『代議委員委員長』の三角錐に席する眼鏡男の方がよほど無駄な存在感が漂っている。

 ちなみに言うと後者は私の嫌いな似非インテリ風な男である。贅肉を程よく身に纏い、お洒落であると勘違いして着込んでいるボタンダウンは襟周りに窮屈。見ていると、縛られたハムさえも連想してしまう。そして、赤い縁取りの眼鏡とて、筆舌に難しいが雰囲気が似合っていない。

 お洒落ではない私が、このようにファッションチェックをするのはいかがなものかと思う。だがしかし、基本的にシャツの第一ボタンは開けておくべきであるし、お腹のお肉がのっかるほどにベルト絞り上げなくとも良い。これだけは忠告して差し上げたいと思う。


 先程私にプリントを配布してくれた女子は音無 響さんと言うらしく。彼女が今回の文化祭、ひいては『甘美祭』の実行委員長であるらしかった。

 会議が始まって、まず本人が最初にそう自己紹介したのであるからして間違いはないと思う。自己紹介を終えた音無さんは、プリントに沿って今回の会議の目的と注意事項、そして、過去にどのようなアピールを行って来たか。と言うことを口頭で説明してくれた。


 ここから↓


基本的に駅前でのビラ配りが慣例であるらしく、4年前に代議委員会と白熱した論争と目眩しい根回しによって学生執行部が勝ち取った。『文化祭盛り上げタイ』と背中にプリントされた、蛍光グリーンの半被を着てビラ配りをするのだそうだ。

 どうせ、話し合うだけ無駄であろう。私が開始早々から意欲を喪失する背景には、どの部・サークル・同好会も甘美祭に向けての準備に猫の手も借りたい状態であり、わざわざ単発的なピーアール活動に、関わろうと言う気はないと思う。

 ゆえに活発な意見も出なければ、誰一人として発言をすることもなく、前席で立ち上がり、今回の文化祭のテーマやらを力説する音無さんが進行のために発言を繰り返し、ものの30分も経たないうちに、毎年恒例である学生執行部構成員による駅前でのビラ配りの決定をもって幕を閉じることになるのだろう。


 私には直接関係の無いお話しであるが、各倶楽部やサークルに同好会が自らの模擬店やら出展を誇示してアピールできる機会に、どうして消極的であるのかにはもう一点要因がある。この一点が全ての根源と言っても過言ではないと私観では思っている。それは、委員長席の隣に座する代議委員会の存在である。

 代議委員会とは、今回のような場でなされた立案や提案の審議、決定、または予算の有無などを司る、諮問機関である。

 部やサークル・同好会においても、この機関に承認を得なければ、創設することは叶わない。ゆえに最後の関門であり、学生執行部の影に隠れてはいるものの、学生組織における最大の有権組織でもあるわけだ。

 とは言え、代議委員会が学生達の士気を能動性を尽く否定し切り捨てるようになったのは、かれこれ5年前からであると私の担当教諭は話した。と言うか、私の眼前に鎮座する現代議委員長が、委員長に就任してから歯車が狂いはじめたのである。権力に陶酔してか卒業もせず、未だに委員長の座に君臨し後輩学生達の夢を食い荒らす、驕慢にして封豕長蛇な姿と言ったら、文芸部の部費について召喚を受けた際、矢面に立たされた私は痛いほどよく知り置いている。あの男は鋸歯をちらつかせては、相手の言葉尻を捕まえて、鬼の首を取ったように胸を張る。そんな器の小さな男であるのだ。

 ボウフラのように湧いたカストロフィに何人が涙したことだろうか。


 あの時はこれまでの真面目な活動と年一回の文芸誌の発行の実行実績が認められ、なんとか事なきを得たのだが、真梨子先輩が居てくれなければ、私は部長の呑酸を舐めながら、夜ごとごまめの歯軋をして過ごさなければならなくなっていたことだろう。


 そんな厄介な阿呆漢を相手にしてまで意見しようとする英明に優れた人間もいなけ

れば、気魄に溢れた豪奢とて皆無。所詮は皆、無関心かはたまた鞠躬如の羊か、後は

恭謙な狡兎だけなのである。


 志ある乱世の英雄などは、全てが一度腐りきらねば現れもしない。


案の定、音無さんの呼びかけに誰一人として挙手する者などおらず、筆記用具を携えている者とて葉山さんただ一人と言う案配であった。それでも、音無さんの髪の毛を束ねる桃色のシュシュはまだ輝きを失っていなかった。それが一層に健気である……

思い出すと私の激昂の火種はいくらでも燻り始める。随意に何か突拍子のない提案をしでかして、一矢報いてやりたい気持ちになるのは私だけではないはずだ。

 だが、そう思う私であったのだが、凡庸たる日々をただ怠惰に過ごす凡人たる私がエキセントリックな提案を急遽思い浮かばせることなどできようはずもなく。また、一人で苦虫を噛んでいるだけでしかなかった。


 何とも悔しい。


 私が片足にて貧乏揺すりをしていると、後方のドアが閉まる音がした。そして私の数席後ろの席に何ものかが腰を据えた様子であった。どうせやる気のない遅刻人であろう。そんな輩が今一人増えたからと言って事態は好転も暗転もしない。

 まるで退屈である。とでも言いたげであった代議委員長が急に顔を顰めて私の方を睨み付けはじめたのには、刹那だけ物怖じしたものの、余程、私の貧乏揺すりが目障りなのだろう。そう理解した私は至極真面目な表情を作ると貧乏揺すりにもう片足を加えてやった。


 会議中に貧乏揺すりをしてはならないと言う規約はないのだ! 


 多目的ホールに集ってから20分が経過し、必要事項の説明を終えた音無さんは溜息を漏らしていた。幾度ともなく「提案はありませんか」と私たちに訴え掛けていた……だが、その声に答える者はとうとう誰一人としておらず……必然の帰結としてここ数年続く慣習をまた今年も繰り返さなけばならい結末を目前としていた。

 音無さんの落胆の顔色からして、意気軒昂と甘美祭りを盛り上げようと張り切っていたに違いない。それは斟酌してあまりある、去年の文化祭実行委員長も赤いシュシュをトレードマークとしていた。彼女も意気揚々と部長会などで、積極的に提案をしては審判に跳ね返され、その姿には不撓不屈と賞賛して然るべきだと、部長のお供として会議にちょくちょく顔を出していた私は目頭を熱くさせたことを覚えている。


 その年の文化祭が粛々と幕を閉じ、後日行われた打ち上げで、彼女は本懐の半分も遂げることができなかったと、真梨子先輩の胸に縋り、本当の涙を流して悔しがっていた。宴が酒に温まった頃合いにて、その光景は目立つことはなかった。けれど……いつも通り素面であった私は、その情景に項垂れるしかなく……あの時ほど、努力を怠った自分を呪ったことはない……

 実を言うと、飲み会の席では必ずそれを思い出すのである。彼女に罪はない、そして代議委員会にも……残念ながら罪は無い。全ては……全ては、わかっていながら何もできなかった、いいや!しなかった私にこそ罪があるのだ。


 あの時はまだ私も1回生であり、学内の右も左もわからなかった……だから独立不羈と孤高にレジスタンスを起こすこともままならなかったわけであるが……2年目も、今年でさえも、桃色のシュシュに色褪せの涙を流させることになるのかと思うと胸が痛む……私は臆病者でる。胸中に忘れられぬ傷を覚えてなお、何もせずにいる。言い訳や戯言ばかりを並べ、偉そうに憤慨だけしてなんとするのか!

 

「皆さんから何もなければ、これで終わりますが。最後にもう一度だけ……提案はありませんか」 


 力の限り握った拳は震えている。甲の皮が張り裂けてしまうのではないかと思うほど張り詰めている。良案愚案共に思い浮かばない。ただ、もどかしさに腹を煮えたぎらせているだけだ。それでも!それでも、ここで私が挙手すれば、挙手さえすれば!

 私は胸を張ると歯を食いしばって、右手の拳を解いた……


「美術部の葉山です。予算とかそう言うのはいらないので、部長会の有志で宣伝活動したいんですけど」 


 それは私ではなく、芙蓉の眥の持ち主たる葉山さんの声であった。


 私は中途半端にあげた右手を宙に漂わせたまま、挙手をして立ち上がった葉山さんのことを露骨に見ているしかできないでいた。


 正直にこれには驚いたからである。


「ええできますよ……ね。砂山さん」


 どんでん返しの趣で音無さんは希望の花を咲かせ、憎き代議委員長にそう話しを橋渡した。 


「まあ」


 砂山氏は見るからに、小馬鹿にしたようにそう答えてから、ファイルを閉じ葉山さんを嘲笑うように視線を向け、ずれてもいない眼鏡をなおした。

 

「わかりました」


 葉山さんは、一度だけ机の上に開いたノートに視線を落とすと、それだけを確認して、呆気なく座ってしまった。

 葉山さんには悪いが、これでは音無さんも拍子抜けだろうと思う。私とて、これから砂山氏と我ら部長会の面々との激しい論争が繰り広げられるものと心躍らせていたのだが……


 「一つだけ言っておくけど。内容によっては、我々代議委員会で審議する場合もあるから」舐めるように小さな目をぎょろりと葉山さんに向けて砂山氏が付け加える。最後の「くれぐれも忘れないように」と加えられた言葉に私は怒髪天と今にも殴りつけてやろうかと中途半端に彷徨っていた右手に固い拳を拵えた。


「美術部の提案にどうして代議委員会が口出しするんだ。執行部が関わらないかわりに全責任を部長会で分担する決まりだろう。勝手な事を言うな」


 私の拳を乗せて言葉を発したのは私の背中からであり、聞き覚えのある声に、私が慌てて振り返ってみると、そこには不貞不貞しい表情を浮かべた古平の姿があった。

 古平の席には『フットサル同好会』と書かれた三角錐が立っている。


「部長会と言っても、提案者を含めた3つ以上の倶楽部、サークル、同好会が賛同した場合だ。今のところは美術部だけなんだから、代議委員会で審議する必要はある!」


 古平の言葉に目くじらを立てた砂山氏は立ち上がり、激しく古平に向かってそう言い放つ。私の後ろに古平が陣取っている位置的な関係上、砂山氏の鋭い眼光が私に向けられているようで千万不快である。


「そっ!それでは、美術部の提案に賛同の意思を確認します、挙手して下さい!」

 

 これぞ好機と、古平と砂山氏の間に割って入ったのは葉山さんではなく、音無さんだった。砂山氏との間に執行部長を挟んで立ち上がった音無さんは千載一遇のチャンスと言わんばかりに声を張り上げたのである。


「フットサル同好会は賛同」


 まず古平が一番に挙手をし、提案した葉山さんは古平に遅れて挙手をした。葉山さんは何かを恥ずかしがっているのか……膝を摺り合わせ、口許を小さくすぼませ、心なしか頬も赤く……漫ろいでいた……

 葉山さんにかぎってお手洗いを我慢しているなどあり得ようはずなどない。たとえそうであっても有り得ないのだ。


「他に賛同者はいませんか」 


 助けを求める瞳で音無さんが言い。その隣の隣ではシャツを下腹で張り出して座り直した砂山氏がうっすらと笑みを浮かべていた。


 時は爛熟せり、今こそ立つときぞ!と私は一人で勝ち鬨を揚げていた。大食漢ごときに慄然とする者どもよ、今まさにあがらんとする反旗の御旗の神々しきにその濁った瞳を清めるが良い!

 軽慢たる蛮族よ!誇り高き志の前に!誠の前に!その膝を折り慚愧として、因果応報をその身に刻め!

 私は高らかとこの右手を、『一人は皆のために!皆は一人のために!』とサーベルを突き上げる三銃士のように、高らかと掲げ、砂山王国に籠絡されていた学生たちの自由と輝ける文化祭を取り戻すのだ!そして、葉山さんに賛美の言葉を賜り、お茶にお誘いすれば万事うまく行く!そう確信して疑うことを考えもしなかった。


 正義は必ず勝つ!そして私は「はい」と嬉し恥ずかしと頷く葉山さんを前に哄笑することだろう!


 私は自身を高揚させながら、まさに右手をあげようとした。


 あげようとしたのだが……


 「ソーイング同好会も賛同します」と先頭席に座する乙女に先に手を上げられてしまった……


「文芸部……文芸部も賛同します」


 遅れをとっただけでは飽きたらず……その上に舌を噛んでしまった……


 ああ、私はどうしてこうなのだ…………


 最高のタイミングで挙手をして、葉山さんから賛美の視線を賜り……その後に「ありがとう」なんて言われて……「今度お茶なんてどうですか」とお誘いしよう。そう画策していたと言うのに……ソーイング同好会に持って行かれた上に、舌を噛んでしまうなど……どうして私はこうなのだろう……

 

 挙手をしたまま、項垂れた私であった。


「ほかにいませんか?では、部長会として独自に宣伝活動をすると言うことで決定です」


 4本の腕を喜々として見つめ、一人で拍手をする音無さん。それとは対照的なのは言わずもがな砂山氏である。


 砂山氏がどんな不細工な顔をしようとも、言葉尻も捕まえられなければ、規約の上にも合法。まさに非の打ち所がない完璧な決定をここに見たわけである。

 平静を装いつつも冷淡な目元と独り言だろう、口元を動かす砂山氏は相当この決定が気に入らない様子であった。だが、そんなことは知ったことではない。それ以前に、自分がどれほどの学生たちが持ち込んだ提案をバッサリと切り捨て、多くの涙と謳歌すべき青春のページを破ってきたことだろうか……まさに因果応報である。


 悪は栄えずして等しく滅びるのだ。


 私は久方ぶりに胸の中がすっきり爽快であった。まるで胸に大きなトンネルが開通したかのようである。風通りの良いことと言ったらまさに快哉!と言うに相応しい。 

 そうして、一分の曇もなく会議は終了するはずであった。


 この忙しい時期に、厄介ごとを背負い込んだと部長や他の部員からは白い目を向けられそうであるが、一番五月蠅い部長は真梨子先輩の頼みであると、嘘をついておけば、それ以上は何も言わず、真梨子先輩親衛隊として従順な下僕となることだろう。


そうして、一分の曇もなく会議は終了するはずであった……あったのだが…… 


「いっ、今!この瞬間の青春を燃やそう!」 


 音無さんが会議の閉幕を宣言する一歩手前で、葉山さんは突然立ち上がると、何を思ったのか拳を高々と突き上げ、しっかりと顔を上げてそう言ったのである。


 会場には小さな笑い声が席巻し、砂山氏は、ばかにされたと勘違いしたのだろう。机を思いきり叩いてから大股で部屋を出て行ってしまった。

 

 私はと言えば、笑うに笑えず。かと言って、その意図を理解するに及ばす……すっかり小さくなって座席に深く座り込んだ葉山さんをただ見つめているだけであった……


 ○



 今年の夏休みはとても華やいだものになりました。真梨子先輩に浴衣を着せてもらって、花火大会を見に出掛けたり、盆踊りにも行きましたし、はずしてはいけません、夏祭りにも行きました。


 2人して買った林檎飴と綿菓子はとても美味しかったです。


 去年の夏休みはアパートのベランダからビルに邪魔をされながら花火を見ていましたし、祭り囃子は聞こえても、盆踊りにも夏祭りにも出掛けませんでした。そうです、確か、部屋を真っ暗にして、まるでホームシックの子供のように膝を抱えて、楽しかった子供の頃を思い出していたのでした。

 ホームシックではありません。でも、友人の少ない私は誰からも誘って貰えるわけでもなく、大学が終わればずっと1人きりです。お祭りの日も、家に帰ってから用事もありませんので、お祭りを見に行きましょう。そう思っていたのに、即席麺のラーメンを作って、1人きりの静かな部屋で食べているそんな時、ただならぬ虚無感と切ない気持ちが込み上げてきたのです。楽しいはずのお祭りへも、楽しそうだからこそ行くことができず。そして、いつの間にか膝を抱えて楽しいと深淵から笑えた幼少の頃を思い出して、ただあの頃に帰りたい。そう思っていたのでしょう……つもるところ、私は寂しかったのだろうと思います。


 孤独に慣れてしまうのが恐くて嫌で……でも誰も傍にいなくて……


 だから、今年はずっと真梨子先輩が傍に居てくれましたし、先輩の紹介で小春日さんとおっしゃる林檎のように可愛らしい人ともお友達になれたのですから。去年と同じはずがありません。


 それに、たとえ1人であったとしても、もう膝を抱えたりも、幼少の自分に想いを馳せたりもしないと思います。


 私もこの1年で少しは成長できたと思いますから。


 『夏』を連想させる行事を片っ端から制覇していった私と真梨子先輩は、小春日さんをまじえて、8月最後の夜に竜田川のほとりで線香花火をして過ぎ去る夏を惜しみました。

 けれど「秋は美味しいが沢山あるから、楽しみ!実家から今年も薩摩芋送ってくると思うから、先輩にも葉山さんにもお裾分けしますね」と最後まで線香花火を灯し続けた小春日さんが深甚にも清澄に言うものですから、楽しかった夏に後ろ髪を引かれて、秋に待っている素敵で楽しいことに乗り遅れてはいけません!と私も「後は栗に松茸に十五夜もありますね、そうだ、文化祭!」私と小春日さんは同回生と言うこともあり、二人して顔を見合わせて秋への期待をのみ膨らませたのです。


「そっかあ、文化祭だね」


 てっきり真梨子先輩も一緒になって黄色い声を合わせると思っていたのです。けれど先輩は、私と小春日さんの喜色満面を余所に落としてしまった線香花火をてなぐさみながら、どこか憂いた眼元でそうこぼしただけだったのでした。

 小春日さんはソーイング同好会に所属していて、文化祭の最終日にはステージにてファッションショーをされるそうです。ですから、夏休みから11月にかけてはショーに着る洋服製作にてんてこまいなのだと、食堂でお昼をご一緒した時に話してくれました。やはり同回生と言うのは気が合います。履修のことも講義のこともそうですが、何かと話題を共有できてお喋りが止まらないのですから。

 初秋を迎えて、真梨子先輩の部屋に入り浸っていた私も美術部室にひきこもることが多くなりました。美術部は個人の作品とは別に、門に立てられるアーチやその他の張りぼて、演劇部の小道具と何かと外注を受けて毎日大忙しなのです。

 私は絵もかけなければ粘土細工などもできません。ですが、釘をうったり角材の角をヤスリで取ったり、足りない画材があれば自転車に乗って買いに行きます。そんな雑用ばかりで、美術に関われない私です。でも、私はそれで良いのです、できれば、イーゼルにカンバスを置いて、デッサンなどしてみたいと思いますよ。そして、演劇部室へなど赴いて、注文の絵を即興で描いてみたりして打ち合わせもしてみたいです。

 でもそれは私にはできません。だから、私は釘を打ったり、買い出しに行ったり、雑用を一生懸命にこなすのです。地味ですが、私が買い出しに行かなければ、色は塗れませんし、お腹も空きます。そして、男手も少ない美術部では釘打ちが上手な私は思いの外重宝されるのです。



 派手や地味、理想や願望。それにかまけて私のできる事までなまじっかに済ませていてどうしますか!

 『たかだか雑用、されど雑用です』私は胸を張るでしょう。何せ私は一生懸命に頑張っているのですから!


 毎日を一生懸命に作業をして、慣れない作業に手に肉刺を拵えても、帰り道、それを見返してみると、どうしてか、少し嬉しくなってしまうのです。きっとそれは、普段、美術部員として美術室にいると言うのに、どこか美術部員としては蚊帳の外にいるように私自身が思い込んでいるからでしょうね。

 だから、この文化祭の前だけは、正真正銘本物の美術部員になれているように思えて嬉しくて仕方がありません。それに、多くの人が一つの目標に向かって力を合わせている姿を見るのも、自分がその一員であることも、少しこそばゆくって、でも、とっても温かいと思うのです。


 そんな毎日を過ごしていた私は、ふとカレンダーを見てみると、もう10月も下旬に差し掛かっているのですから、まるでタイムスリップしたような不思議な面持ちとなってしまいました。考えてみれば、朝早くに大学へ行くとそのまま夜遅くまで籠もりっきりの毎日でしたもの、昼食も夕食も大学で食べ、時には美術部の先輩たちと飲食禁止の美術部室でカップラーメンを食べたりもしました。大学を出ると言えば買い出しに向かうだけですし、家に帰っても、シャワーを浴びて寝るだけですから、そう考えて見ると光陰矢のごとしも納得できます。

 本日も手の平から指先までほわほわとすっかり握力が抜け出てしまい、新しい肉刺を数えながら下宿先に帰って来ました。


 さっそくシャワーを浴びて、すっきりしたところで、居間でまったりとしながら、潰れた肉刺の消毒をしようと、薬箱を取りに箪笥の上に手を伸ばしてみたのです。ずぼらに座ったまま薬箱を取ろうとしたのがいけなかったのでしょう。

 

「あぁ」


 薬箱に手が届かず、そのかわりに充電器に差し込んであった携帯電話が落ちて来たのです。絨毯の上で一度跳ねた携帯電話は時折、光を放ちながら、テーブルの下に横たわっていました。

 誰からだろうと、着信かまたはメール受信の有無を知らせる、ライティングに私は半月ぶりに携帯電話を開いたのでした……



 ○



 私は激しく後悔をしていました。やはり携帯は携帯するべきでした。携帯しないながらも少しは気にするべきだったのです。携帯が充電器に刺さったまま埃を被っていることも珍しくない私ですから、友人も携帯に期待をせずに家に電話をかけて来る始末なのです。


『本当にごめんなさい。もし許してくれるなら、私の部屋に来て。お願い。お願いします』最後のメールは今日の18時13分に受信していました。


 その他にもここ半月以上、毎日一通だけ真梨子先輩からメールが入っていました。最初の数日は謝罪の言葉が、その後からは『夕ご飯どうかな』とか『デロリン買って待ってます』など、遠回しな言葉で私を呼んでくれていたみたいです。そしてこの最後のメールにだけはっきりと、『私の部屋に来て』と書かれてありました。普段、先輩はメールに絵文字を沢山使って鮮やかにしています。なのに、17通を数えるメールにはそれが一切使われていないのです……

 

 先輩に何があったのかは知りません。ですが、ここ最近。いいえ、ここ2ヶ月程、先輩と会話をした記憶がありません。


 私は先輩に『今メール全部見ました。今から行きます』と返信をしてから、携帯を握り締め、夜の帳が降りきった外に飛び出すと、アパートの階段を降りきったところで、鍵をかけ忘れてしまったことを思い出して、慌てて階段をまた駆け上がり、ようやく残暑の厳しさを名残と保温するアスファルトの上を韋駄天走りで駆け下りていったのでした。


 先輩のアパートに到着すると、私はすぐに何度も呼び鈴を鳴らし、深夜であるにも関わらず「先輩。葉山です」と大きな声を出してドアを何度も叩きました。


 ですが、返事はありません。


 ドアノブを回してみると、鍵は掛かっていないではありませんか。これはいよいよ先輩の身に何かあったに違いない。そんな不吉なことも脳裏に過ぎらせつつ、私は「先輩?お邪魔します」そう言いながらゆっくりと部屋の中へ入ったのでした。


 居間まで一本の廊下にはテレビでしょうか、潮騒の音と蒼と白の光が灯りを灯していない部屋の中を不気味にその輪郭を映し出しています。

 居間に入ると、テレビには海の映像が映っており、その蒼白い光を全身に浴びて、その色にのみ染まった真梨子先輩がクッションを抱き締めて小さくなって居間の隅っこに座っていました。


「先輩。遅くなってすみません……」 


 『どうかしたんですか?』と続けて言いたかったのですが、私は言葉を飲み込みました。その光景は……その光景は、まるで去年の私を見ているようで。どうして真梨子先輩が部屋に灯りも灯さず、小さくなっているのか……その理由が痛いほどわかったからなのです。


 私の勘違いと傲慢な思い込みかもしれませんけれど……


 「先輩」と私が言いながら真梨子先輩の元に近づいて膝を折り、先輩の肩に手を触れると、先輩はやっと顔を上げて、「なっちゃん来てくれたんだ。誰も来てくれないかと思った……」生気のない疲れた目元で私にそう言ったのでした。


「恭君にもなっちゃんにもメールしてたのに来てくれないんだもん……寂しかった」 

 電気つけますよ。私はそう言うと、私は先輩の返事を待たずに居間の灯りともしました。


「私、携帯電話に埃かぶるくらいほったらかしにすることが珍しくないので、気が付かなくてすみません。でも、家を出る前に先輩にメールしましたよ」 


 送信履歴を先輩に見せながら、言った私でしたが、


「見てないもん」と唇を尖らせた先輩が指さす先には和室の端っこに転がっている携帯電話がありました。もしかして先輩が放り投げたのでしょうか……


 気丈に振る舞う先輩を見た私はどことなく居づらくなってしまって、たまたま眼に入った洗濯物を逃げ道にすることにしました。まだ私には正面から受け止めてあげられるだけ、胸の厚みはなかったのです。


「もう、洗濯物も取り込んでないじゃないですか」


 私は平静を装って、まるでお姉さんのように先輩に言いました。先輩は何も言い返すことはしませんでしたが、私がガラス戸に手を掛けたところで、真梨子先輩は突然私の首に腕を絡ませて、そっと抱き締めたのです。

 私の驚きようと言ったら、先輩の吐息が耳の後ろを掠めたのにも、背中にあたる柔らかいものにも、そして甘い香りにも、真梨子先輩を思わせる全てに鼓動を早くしてしまったのでした。


「吃驚するじゃないですか」


 私が振り返ろうとすると、その前に真梨子先輩の腕は私から離れて行きました。


 ごめん。とはにかんで見せる先輩は、

「なっちゃんって温かいね」と笑って見せたのでした。


 その言葉が何を指し示していたのかは窺い知ることはできませんでした。ですが、私は走って来たのですから、汗ばみはしています。


 なので「当たり前です。走って来たんですから」とだけ返事をしておきました。


「そっか。じゃあ……シャワー浴びて行って……シャワーだけ」


 上目遣いに言う先輩の言いたいことは十分に伝わりました。はっきりと伝えないところが先輩の可愛らしい長所でもあり、もどかしい短所でもありますね………私としたことが、すっかりお姉さん目線で語ってしまいました。


「大丈夫です。それよりも先輩。今晩泊めて下さい。今日はベットの方で寝たいと思います」


 私は先輩のためにそう言いました。困った時は弱った時はお互いさまですから。

「本当?やったあ」と生気を宿した先輩は私の手を取ったかと思うと、すぐに私を力一杯抱き締めるのでした。何度もハグをしてから「お腹空いたね」と言い出した先輩はテレビを消してから財布を手に持つと、「お夜食買いに行きましょ、今晩はゆっくりとお話ししたい気分なの」と私の手をひいてと玄関へずんずんと歩いて行きます。


 私は元気を取り戻した先輩を見て、嬉しくなっていたので、抵抗もしなければ何も言うことなく、ただ先輩に引っ張られるままに歩いていたのでした。


 私は先輩に何かと助けてもらってばかりでした。それは後輩である私の特権なのかもしれません。ですが、助けてもらってばかりでは申し訳ないのです。だから、常々何か恩返しができればと考えていました。女子は何かと集団を作りたがります。なので、いつも集団に入りそびれてしまう私は「なっちゃん、お昼食べ行こう」と離れた講堂で講義を受けているにも関わらず、私を誘いに来てくれる先輩に助けられていました。今でこそ、小春日さんと一緒にご飯を食べることが多くなりましたけれど、そもそも小春日さんと知り合わせてくれたのも真梨子先輩なのです。


 だから、だから、私は真梨子先輩のために、少しでも真梨子先輩の力になりたいと思うのです。


 そして、その時は今この時だと確信しています。



 ◇



 砂山氏に一石を全力投球した快哉の日から数日。私は文芸誌の100ページと言うサハラ砂漠とまでは言わないながらも、鳥取砂丘は眼中に無くタクラマカン砂漠級くらいはる不毛な文字数に頭を抱えていた。それでも、随分前に見た夢をヒントに図書館に籠もり遅々としてではあったが執筆をしていたのである。

 奇妙奇天烈と言う料理の上に珍妙と言うソースをかけたような。そんな夢であった。とは言え、夢中に葉山さんが登場したことに関しては無情の喜びであったと言いたい。


 その夢は、何の脈略もなく私が葉山さんと何かしらの縁で出会ったところからはじまった。そして、大学構内で葉山さんを見送った私は、その瞬間に葉山さんに一目惚れしてしまったのである。この点では事実と相違はない。 

 だが、次の日より、私は大学構内を走り回って葉山さんの姿を探すのだが、見つからず『葉山』と言う苗字がわかっているにも関わらず、頑なに偶然の出会い再びと、誰にも居所を尋ねることもしない。不器用なのか浪漫チストなのか、阿呆なのか。いずれにしても私は葉山さんと出会う事が叶わない。


 そこで、私は願を掛けることにした。


 現実には存在しないのだが、竜田川沿い稲荷神社に赴いて「どうかどうか、葉山さんと再び出会えますように。彼女と再び逢えるまでは!私はパンツを履き替えません。それは千年も万年も同じ事です。ですから、どうかどうか私を葉山さんと巡り合わせてください!」と頭を地面に擦りつけて神頼みするのである。


 その日からきっと私はパンツを履き替えなかったのだろう。


 願掛けのシーンから、またしても脈略をほったらかして、私は白無垢姿の女性の隣に立って誰にだろうか、ピースサインをして喜びを表していた。


 だが、不思議なことにその女性は葉山さんではないのだ。我が夢ながら、どうして葉山さんとの逢瀬を望がゆえにパンツを書き替えまい。と願を掛けたと言うに………どこでどうなって、私は別の女性を選んでしまうはめになったのだろう。その辺が全て端折られているところが私らしい夢であると言える。


 結局のところ、女性であれば誰でも良かったのかもしれない……


 とまあ、こんな訳のわからない夢であったのだが、現実的には有り得ないながらも、どうせ描くのはフィクションの世界なのだから問題の一つもありはしない。娯楽小説では大抵のことは許されてしまうのだ。


 私はその夢を題材にタイトルを『千年パンツ』と名付けて執筆をはじめた。序盤は大筋で夢の通りに展開を進め、無駄な表現や描写をふんだんに盛り込んだりして、なんとか26ページほどを書き上げた。だが……願を掛けてからが全く泣かず飛ばすであり、どうしたものかと頭を抱えていた。あまりに困ったので机に頭を打ち付けたりもしたが、地味に痛いだけで何一つとして変化をきたすことはなかった。


 携帯を開くと我が愛しの葉山さんが黄色く可愛らしいパジャマ姿で今にもポップコーンを口許へ運ぼうとしている。

 煮詰まると、こうして麗しの葉山さんを見て自然と発生する貧乏揺すりを沈静化させるのだ


 そう言えば、この写真が真梨子先輩から送られて来たの4日ほど前だったと思う。閉館時間まで付属図書館内にてパソコンの画面と睨めっこをして、2ページほどしか書けなかった……と成果に肩を落としながら下宿先に帰った。すると、たまたま家に置いてけぼりにしていた携帯が光っているので、開いて見ると、真梨子先輩から『今すぐに来て欲しい』とだけメールが入っていたのである。


 普段絵文字や顔文字を使って鮮やかな文章を送ってくれる真梨子先輩だと言うのに、それらが皆無であったことが気になり、私はメールを受信してから4時間経ってようやく「今から行きます」と返信して、ペガサス号に跨ったのであった。


 先輩の下宿先まで時間にして10分。駅前まで坂道が続くがために行きだけは頗る快調であった。


 アパートの階段の前にペガサス号を止めると、私は階段を一段飛ばしで飛び上がり、先輩の部屋の呼び鈴を何度も鳴らした。

 しかし、うんともすんとも言わない。「真梨子先輩!」と何度か呼んでみたが、反応がない。頭を掻いてからドアノブを回してみると、ドアにはしっかり鍵がかけられてあった。

 緊急事態にて解錠する手段はあるのだができれば不本意にてこれを使いたくはない……私は恨めしく合い鍵が隠されてあるドア横にあるメータスペースの蓋を苦々しく見つめた。

 とりあえず、私は先輩の携帯に電話を掛けてみた。すると、私の耳に聞こえる呼び出し音と同期して、ドアの向こうから微かに着信のと思しきメロディが聞こえるのである。携帯電話を持ち出していないことを知った私は、どうしようもなく帰ることにした。3度着信履歴を残しておけば、先輩から電話がかかって来るだろうと期待をして……

 ペガサス号を押して家路を歩いていた。下宿の駐輪場にペガサス号を止めている丁度その時、ポケットに押し込んでいた携帯が音を鳴らし、真梨子先輩からメールが届いた。

 そのメールには『ごめんね。出掛けてた、今から来る?なっちゃんもいるよ』と書かれてあり、なっちゃんとは誰ぞやと思いながら、添付ファイルを受信すると……例の葉山さんの写真が表示された……私は是が非でも真梨子先輩の部屋にお邪魔したかった。何せ我が意中の葉山さんが……葉山さんがパジャマ姿いらっしゃるのである。普段着もそれは可愛い。だが、パジャマ姿など、どうすれば拝見することが叶うだろうか!犯罪すれすれ低空飛行をすれば私でも拝めなくもない。しかし、それでは確実に葉山さんに嫌われてしまう。


『行けるわけないでしょ。でも、何かあったのなら、何でも言って下さいよ。私の出来ることならなんでもしますから。おやすみなさい』と強がりのメールを送信しながら、私はその場に這い蹲ってしまった。


 真梨子先輩……あなたは残酷な天使だ……と心中で叫びながら……

 

 あの日の夜は、葉山さんの写真を見つめながら眠った。そして起きがけにまず眼にしたのも葉山さんの写真であった。これまさに寝ても覚めてもと言うに相応しい!


 以来、私の携帯電話にはいつでも葉山さんが神々しく祭られてあるのだ。


 

 ○



 近くのコンビニでお菓子やら冷凍食品を買った私と真梨子先輩は先輩のアパートに戻るなり、レジ袋をテーブルの上に置き去りにして、さっさとパジャマに着替えることになりました。


 それと言うのも、先輩が「帰ったらパジャマパーティーしようよ」と言い出したからなのです。

 先輩は以前私が見たのと同じ小さな犬が全体に散りばめてプリントされたパジャマに着替えて、私も以前に借りた黄色のパジャマに着替えました。

 こんなことを言うのもどうでしょうと思うのですが、先輩の下着はとてもオシャレでした。見えないところにまで気を使う乙女らしさは、やはり私も見習わなければなりません。一番私に欠けているところだと思いますから………


 着替えてから、先輩は買い込んだお菓子を片っ端から開けてテーブルの上に並べ、同じく買って来た冷凍食品のカルボナーラをお皿に写してレンジで温めを開始します。


「そんなに食べられませんよ」


 と言ってみたのですが、「大丈夫よ」と先輩は余裕綽々に軽くそう言うだけなのです。

 なので、私はテレビドラマを見ながらモッくん印の北海道ポップコーンを摘むとぽりぽりと食べていたのでした。ほんのりと効いた塩味とバターの風味が後をひく、私お気に入りのポップコーンなのです。


 口を小さく開けて、今まさにポップコーンを食べようとした時でした。携帯カメラのシャッター音がしたので、ポップコーンを口に含んでから台所に立っている先輩の方を見ると、悪戯な笑みを浮かべてメールを打つ真梨子先輩の姿がありました。

 レンジが温め終了のチャイムを鳴らす前に、真梨子先輩の携帯が鳴り、メールでしょう。画面に視線を落とした先輩は「残念」ととだけ小さく呟きながらも、とても優しくて、美しい微笑みを浮かべていたのでした……それは私や小春日さんに向けられたことのない特別の微笑みなのだろうと私は直感しました。理由はありません、ただ直感したのです。


「先輩隠し撮りはやめてください」 

 

 私がそう言うと「にひぃ」といやらしい声を出すので嫌な予感がしました。


「ひょっとして誰かに送ったんじゃないでしょうね!」


 私は立ち上がりました。パジャマ姿を、それもポップコーンをまさに食べようとしている写真なんて、誰にも送られたくはありません。もとい見られたくはありません!今すぐにでも削除してほしいくらいなんですから!


「夏目君になっちゃんもいるよおって」


 送っちゃった。と舌を出す先輩でした。


「ちょっと!やめてくださいよ!」


 私は恥ずかしくなって真梨子先輩の携帯を奪い取ろうと先輩に詰め寄りました。本当に送信をしてしまったの否かを知りたかったからにほかなりません。


 もしも、もしも、本当に送信されていたのであれば、それだけで憂鬱ですから……


 先輩は意地悪な姉みたいに、私に携帯を渡すまいと高く掲げ、時にはジャンプをしながらそれでも食い下がる私をもう片方の手で頭を抱き締めて、とても嬉しそうにあしらうのです。私はちっともふざけてません!大まじめだと言うのに!


 しばらくの悶着の結果、「嘘よ。誰にも送ってないから」と涙を拭きながらそう言った真梨子先輩の言葉を疲れた私は妥協して信じることにしました。

 

 そして、カルボナーラを二人で半分こして食べた後、お菓子をほとんどそのまま残して布団に入ったのでした。

 「勿体ないですよ」と私が言うと、「明日にでも文芸部にでも差し入れるわ」と真梨子先輩が言ったので、それなら無駄にならないでしょうと私も和室へ移動したのです。 


 ベットの枕元にある照明のみを灯すと、なんともようやくパジャマパーティーの実感が湧いてきました。


 台所では悶着を起こしただけでしたから…… 


 ごめんね。先輩は肩肘を立ててその上に頭をのせ、そう言ってから、

「心配させちゃって……だから、今晩泊まってくれたんだもんね」そう言ったのです。


「わかってたんですか」


 私から言うつもりはなかったのです。だから、先輩から言われてしまうとなんだか、こそばゆい思いでした。


「そりゃ、私だって、なっちゃんが部屋中の灯り消して、うずくまってたら、心配しちゃうもん」


「そうじゃありません。私は、先輩が泣いてたから、心配したんです」


 確かに蒼白い光にのみ照らされた先輩の頬には違う色がありました。それは透明に近かったのですが、私にはとても強烈な色に見えました。


 私が静かにそれだけを言うと、先輩も「私、一人には慣れたくないの。寂しかったんだ。とってもとっても……」とだけ話しましたけれど、それ以上は私も聞きませんでしたし、先輩も話し続けることはしませんでした。

 きっとそれだけだったのです。寂しかった、それだけだったのです。


「でもどうして海なんですか」 


「ああ、あのDVDね。悲しくなると、泣きたくなると私いつも海に行ってたのよ。実家の近くに海があってさ。なんだかね、海見てると落ち着くのよね。悩んで泣きたいのに、辛いのに、水平線を見ると、海の大きさを見せつけられると。自分がとってもちっぽけに見えて、そんなちっぽけな私の悩みなんて、涙を流す価値があるかなって前向きになれたから。でも結局、家に帰ると、泣いちゃうから一緒なんけどね……寂しいよ……一人はやだよって」


 私、泣き虫だから。と困った表情をする先輩でした。その後、付け足すように「ここは海なし県だからDVD」と話してくれました。


「だったら先輩はどうして、彼氏をつくらないんですか?」


「えっ」


 意外にも真梨子先輩はとても驚いた声を出したかと思うと、上体を起こして「えっ」と、もう一度言ったのです。


 私からすれば、真梨子先輩のような女の子なら彼女にしたいと思う男性は星の数ほど居るかと思いますし、これは別に大袈裟でもなんでもないだろうと自信を持って断言できます。

ここから↓



「私にだって好きな人くらい居るもん。寂しいからって誰でも良いってわけじゃないもんね」


 心外よ。と腕を組んで憤慨して見せる先輩でしたが、


「その好きな人って、夏目君なんでしょ」


 と私が悪戯な笑みを浮かべて言うと。即座に否定するどころか、「はい?えっ、なっ、なんで、なんで恭君なわけ」と組んでいた腕を右往左往させながら、わかりやすく狼狽したのでした。


 やはり私の直感は正しかったようです。


「夏目君から返信が来た時、先輩ったらとても嬉しそうでしたし、寂しくて誰でも良かったのなら、私はわかりますけど、どうして夏目君なんですか?私の他に小春日さんもいれば、男性でも先輩には他に知り合いがいるはずですからね」


 私はそう言いながら、夏目君からの返信メールを朗らかな表情で見つめていた先輩の姿を思い出しました。やはり、あの表情は恋する乙女の表情に違いありません。


「恭君はダメ。だって恭君には好きな人がいるから、それは私じゃないもん」


 そう言うと真梨子先輩は真心を込めた視線を私に投げ掛けたのでした。



 ○



 夏休みも終わり、日を追う事に文化祭は迫ってきます。美術室のカレンダーには、実行委員会も含め各部からの外注の納期が記入され、先輩たちがてんやわんな毎日です。

 そんな、名実共に慌ただしい美術室にいると、何もしていない私も気持ちだけが急き立てられて、なんだかかんだか何かをしていなければ!と言う思いに駆られるのです。 けれど、思うだけで私は結局何もできませんから、やはり汚れたパレットを洗いに行ったり、画材を買いに走ることをしているのでした。

 ですが、今日では私一人ではありません。私の隣にはにこにこ笑顔の真梨子先輩がいるのです。

 「今、文芸は推敲とか入稿で忙しいし、みんなぴりぴりしてるから、私がいると邪魔になるから……」と言う先輩に私は「なら、是非美術室に来て下さい」と誘ったのです。「でも、私がいると邪魔じゃないかしら」そんな風に先輩は遠慮して見せましたけれど。「いいえ。私は美術部員ですけど、美術部らしいことは何でもできませんから、先輩が居てくれると助かります」私はさらにそう言うと、「じゃあ、なっちゃんと美術室に行くわ」寂しがりやさんの先輩はこうして美術室に来ることになったのでした。


 先輩も私も釘打ちは得意でしたから、張りぼて組みの際には大いに活躍をしました。先輩は口に釘をくわえて、タオルをねじって頭に巻いてみせるなど、とてもお茶目な格好で釘を打つもので、私はたまに先輩の愉快な格好に見とれて、親指を金槌で叩いてしまいます。そんな時は……そんな時は、なんと先輩が私の親指を口に入れて「大丈夫」と言ってくれるのです。

 もちろん、私も木っ端恥ずかしいやら照れくさいやらで、大好きな人に告白されたような、そんなどきどきした胸中で何事もなかったかのように作業を続ける先輩を見つめていました。


 その瞬間をたまたま見かけていた美術部の先輩たちも「やっぱり真梨子先輩には敵わないわ」と男子も女子も虜にしてしまう、真梨子先輩の優しい魅力に呻っているばかり。なので、ちょっぴりですけれど自分が褒められているような錯覚ながらも、私は嬉しくなってしまいました。

 そんなある日、真梨子先輩の姿が見当たらないまま、私が一人で大工作業をしていると、「葉山さん、甘美祭の会議があるんだけど、葉山さん行ってくれないかな」色とりどりのポスターカラーで汚したエプロンを着ながら、部長が直々に私に言います。

 座ってるだけでいいから。と付け加えたのですが……


「はい!行ってきます」

 

 私は嬉しくて、大きな声を出してそう言うと、脇目も振らずに、廊下に飛び出しました。例え座っているだけでよかろうとも、私は美術部代表で会議に出席するのです。

美術部代表!なんと格好の良い響きなのでしょう!


 私は意気揚々と筆記用具を抱え、多目的ホールへ向かいました。


 歩幅を大きく威風堂々と歩いていますと、渡り廊下を渡り終えたところに、二つに影があり、その一方は真梨子先輩です。もうひと方は背丈は真梨子先輩よりも頭一つ小さく、私と同じくらいでしょうか。髪の毛を栗色に染め、その髪の毛を桃色のシュシュで一つ括りにしていて、大きな目元と小さな口許がアンバランスな印象もありますが、とても明るくて、向日葵を連想させるそんな女の人でした。

 美術室にいないと思ったら、こんなところでお喋りにお花を咲かせていたのですね。

 

「来たね、なっちゃん!」


 私は「こんにちは」と真梨子先輩に声を掛けると、先輩はにかっと笑顔をつくって、私の肩を抱くと、その女性の前に連れて行きます。


「音無です。今日は宜しく。全部葉山さんにかかってるからね」 


 口早に自己紹介を済ませた音無さんはそう言い終わると、私をまるでお地蔵様のように手を合わせてみせ、「じゃあ、私、資料取りに行ってくるから。後、真梨ちゃんお願い」と言い残して、渡り廊下を全力疾走して行ってしまいました。


「先輩。どういうことですか?展開が早すぎて全然わかりません」


 こんなのを支離滅裂と言うのだな。そんな風に思った私でした……



 ○



「はーちゃんの活躍に乾杯!」


 真梨子先輩の家に集まった私たちがテーブルの四方を埋めて、音無先輩がそう言いながら麦酒缶を高らかと掲げたのは、あの恥ずかしい思いをした『今年度 文化祭アピール検討会』から2日後のことでした。


『なっちゃん。部屋に入ったら、このノートの中しっかり読んでおいて、絶対にお願いね』


 真梨子先輩も音無先輩と同様に私に詳しい説明など一切くれず、私は真梨子先輩から渡された一冊の大学ノートを携え、多目的ホールへ入ると廊下側の席に『美術室』と書かれた三角錐を見つけましたので、さっさと腰を落ち着け、さっそくノートを開いてみました。


 すると、まず最初のページに『甘美祭アピール検討会 進行表』と書かれたプリントが挟み込んであり、見開きの2ページ目には進行表に沿い、矢印にて『ここまでは無言で良し、むしろ何も言わない』『ここで勝負!』とか『今!この瞬間の青春を燃やそう!(拳を突き上げて言う)』などと、事細かくまるで台本のように言葉が書き込まれてありました。


 私はノートに視線を釘付けにすると、次の瞬間には眉を寄せて。まるで意味と意図がわかりません……と体重を背もたれに預けて、両腕をぶららんとさせていたのでした。

 

 部長は「座っているだけで良いから」とおっしゃってました。活発に発言を……とまでは考えていませんでしたけれど、だからと言ってこんなデキレースのような八百長に荷担したいとは思いません。

 はじめから、仕組まれているのであれば会議を開く意味はありませんし、そこに公平性はありません。私はズルは大嫌いなのです。

 でも、これに真梨子先輩が関わっているともなると、心苦しくとも無碍に出来ない気持ちもあり、私は悩みました。きっと、今日の議題はそんなに重要な案件ではないと思います。ですから、私が少しだけ私に妥協すれば全ては丸く収まって、今まで通り真梨子先輩と仲良くしていられます。

 音無さんでしたか……私に希望を託したような口振りでしたけれど、別段私は、私の心情を貫くためであれば、音無さんの希望を振り払うことさえも吝かではありません。

 でも……真梨子先輩に嫌われてしまうのは困ります……少々の自信はありました。真梨子先輩のことだから、私がこのノート通りに発言をしなかったからと言って、手の平を裏返したように私を拒絶したり避けたりはしないと思います。


 そんなことが心配なら……素直に妥協すれば良いのに……


「葉山さん、お願いね」


 私が頭を抱えていると、耳元にそんな声とともに「配布資料です」と音無さんが私の席の上にプリントを配布してくれました。


 私は何も言い返せないまま、音無さんは離れた席へプリントを配布に行ってしまいます。


 念を押されたようで、悪意のない悪意と言いましょうか。私はますます何かの瀬戸際で煩悶としなければならなくなってしまったのでした。

 視線を上げて見ると実行委員会の席の並びには学生会の顔ぶれが、そして『代議員委員長』の席には学生会の会長よりも存在感のある恰幅良い男性がどっしりと構えていました。

 ノートに書かれてある、『天敵 砂O』と言う方でしょう。誰にとってそしてどこが『天敵』なのだろう。私はやはり大義名分の無い戦いはできない。と溜息をついてしまいました。賊軍であろうと官軍であろうとも、大義名分がなければ戦いには決して勝ことはできないのですから…………

 音無さんには後で真梨子先輩から謝ってもらうとして、真梨子先輩にはなんて言って謝ろう。そんなことを考えながら、先輩に渡されたノートを弄んでいると、思わぬものを発見してしまったのです。

 それは進行表のある反対側。つまり裏表紙側からなるページからでした。赤いペン文字にて、ぎっしりと言葉が綴られてあったのです。


 それは4ページに至る『想い』の塊でした。最後に音無 響と署名がされてありました。これは血判状ではありませんか!私は今一度、音無さんの昔年の想いと、幾星霜と苦汁を舐め続けてきた学生たちの苦しみ、そして、音無さんにとって最後となる文化祭にかける意気込みと想いを読み返しました。

 

「むう」


 私は二通り読み終えてから、眉の間に3本皺をよせ、唇を尖らせて『むう』と言いました。

 私は知ったのです。砂Oと言う人物が如何に『天敵』であり、どんな『天敵』たるか、そして、誰にとっての『天敵』であるかを!


そうなのです。自分自身も学生の立場でありながら、学生の敵となり、挙げ句の果てには一年に一度の大祭である、文化祭をも己がちっぽけな権力誇示のために協力をしないはもとより、障害となるとは何事ですか!


 私だって、甘美祭を楽しみにしています。今だって美術室では先輩方が一生懸命に外注の品に作品に忙しなくしていることでしょう。これに限っては他の部もサークルも同好会も同じことです。ソーイング同好会の小春日さんも、ファッションショーの準備に余念無くと毎日夜遅くまで大学に残っていますもの。

 私は紛う事なき大義名分を手に入れました。この上は、全学生の天敵たる砂Oと一戦交えてやろうではありませんか!!


 ここで退いては女が廃ります!!


 私は水滸伝の女傑 扈三娘[こさんじょ] のごとく海棠の花と私も、音無先輩のために一肌も二肌をも脱ぐ決意を固めたのでした。

 『『フットサル同好会』『ソーイング同好会』が同意するから大丈夫』とハートマークで書かれてあるので、そこのところは心配は要りません。ですが……最後の『今!この瞬間の青春を燃やそう!』と言うのはどういう意味があるのでしょうか?


 これは明白に、関係がないと思うのです。なので私は首を左右に振ってみたり、恥ずかしがってみたり……一人で二十面相をしていたのでした。


「格好良かったですよ。『今!この瞬間の青春を燃やそう!』」

 

 缶酎ハイを一缶空けた小春日さんは上機嫌で立ち上がると拳を突き上げて、私の真似をしてみせます。

 ぬいぐるみを着た。と言う表現が似合う、そんな寝間着を着た小春日さんは、丸っこい耳のついたフードを被ってそれはそれは上機嫌でした。そんな小春日さんを見て、頬にほんのり朱を乗せた真梨子先輩と音無先輩はゲラゲラと笑っています。

 桜花の園。これが本当にパジャマパーティーと言うものなのでしょうか……それに私は小春日さんのように高らかに言い切ってません。恐る恐る、遠慮がちに言いましたもの。

 それはもちろん恥ずかしさが先立ったからと言うことは言うまでもありません。


 なんだか、私が酒の肴されているようで不愉快です。


「なっちゃん、そんなにむくれないでよ。本当に感謝してるんだから、私も響ちゃんも実質今年が最後の文化祭だから、思いっきりやりたいことをやり尽くしたいの」


 一人でむくれる私をそっと後ろから抱き締めて、真梨子先輩が言います。熱っぽい頬は良いとしてもアルコール臭の混じった吐息は頂けません。


「まさか、砂山さんが卒業しないなんて、想定の範囲外。大番狂わせだったもん」

 

 黄色いシュシュでポニーテールの音無先輩は、頬を赤くしてますます林檎のように可愛らしくなっています。


 『砂O』とは正しくは『砂山』だったのですね。今更ながらどうでも良いことを知った私でした。


 頸木である代議員会から合法的にかつ円滑に自由を勝ち取ると言う先輩方の思惑は一様私の奮闘と言う体でもって、完遂されました。予定外と言えば『文芸部』が賛同してくれたことでしょうか。会議に出席していたのは夏目君でしたから、きっと、真梨子先輩が直前にでも根回しをしていたのでしょうね。


 今晩のパジャマパーティーは、その祝賀とどんな宣伝活動をするのか。を話し合うために真梨子先輩が提案したものなのです。 夕ご飯を一緒につくって、みんなで食べて、お酒やらお菓子やらを買いに出掛けて、現在に至ります。

 こんなに酔っぱらって、話し合いなどできるのでしょうか……と言うのは私の素朴な疑問です。


「真梨子先輩。それで先輩はどんな宣伝活動をしようと考えてるんですか」


「ええぇ、なっちゃん気が早いなあ。夜はまだまだこれからなのよ」


 真梨子先輩は音無先輩と連れだって、台所へ向かい『赤霧島』と『八咫烏』と和紙のラベルが貼られたお酒を持って来ると、音無先輩と二人して、喉を鳴らしながら飲み始めるのです。

 お湯で割って、烏龍茶で割って……さすがに小春日さんはこれには手を出しませんでした。

 なんだかお母さんの面持ちです。何と言うか……あんな悲しくて苦しそうな真梨子先輩はもう見たくありません。どうせなら、目の前にいる無邪気で飾らない。子供のような先輩が良いのです…………


「音無先輩は知ってるんですか?」


 今度は小春日さんが八咫烏をやっつけている音無先輩に聞きます。


「もちろん知らない!」


 首を左右にぶんぶん振りながら音無先輩はけろりと答えて見せました。シュシュから伸びた尻尾が真梨子先輩の髪の毛を叩いて、まるで真梨子先輩が後ろから扇風機で煽られているように見えたのは少し面白かったです。


「真梨ちゃん。私も知りたい。と言うか教えなさい!」


「ええぇ、まだ……」「真梨子先輩、この前のことこの場でバラしますよ」


 いやいやをする真梨子先輩に私は、問答無用と止めの一言を言いました。本当は何をバラすのかさえも決めていませんでしたけれど……もしも、必要に駆られたならば……DVDのことでも話しておきたいと思います。


「ぶー。なっちゃんの意地悪っ。わかりましたーわかりましたよーっだ。話せばいいんでしょ話せば!」


 すっかり開き直った先輩は、赤霧島のお湯割りを一気に飲み干し、胸元を弾ませながら勢いよく立ち上がると、


「発表します!」と『真梨子式宣伝大作戦』の全容をここに発表したのでした。



  ◇



「お前はこれからバカですって名乗れ。いいや、名札を首からさげろ」

 

 会議での決定を部長に伝えた結果、私に帰って来た冷ややか極まりないお言葉であった。

 ペンタブレットを私の鼻っ面に向けて、偉そうなことこの上ない物言いである。

 私は「バカと言うお前がバカだ」と声に出さない返事を返してから。このままでは面倒くさい問答をもう少しせねばなるまいか、と早くもげんなりしてしまった。


「やるならお前一人でやれよな。俺は入稿まで猫の手も犬の手も借りたいんだ!部長会なんかに付き合ってられるか。それから、100ページも期日までにあげろよな、あがらなかったらサークルから追放だ!」 


 本当に五臓六腑に染み渡って、憤慨を煽る部長である。そう思いつつも私が涼しげな表情と眉間に皺を催さないのは、一言必中の殺し文句を手札に持っていたからであり、遠回しに「いまさら、仲間に入れてって言っても無理ですからね」と言いたいわけである。


ここから↓


「さっさと書けよ!お前だけだぞ、原稿1回も持ってきてないの」


 すでに軽蔑の眼差しまで含有させるとは、さすがにそれは酷くなかろうか……これには私も少々心中を荒立ててしまった。

 元より、部長に私の『千年パンツ』を読ませるつもりはない。はなっから入稿直前に提出する心づもりでいるのだ。

 物語には必ず男女のロマンスが必須。と自信まんまんに持論を吐き散らかす部長は、ロマンスのない作品、または、見るからに無理矢理嵌め込んだロマンスも容赦なく、切り捨て、結局ところ、部長好みの作品だけが残って行くか製作されるのである。


 そんな統制された物語の何が面白いのか!


 そんなもんを読んで心ときめかせるのは、部長と同じくフィギュアのスカートを捲って喜ぶようなソフト変態だけではあるまいか!


 だから、私は部長に一行一句とて読ませるつもりはない。

 だからと言って『千年パンツ』がロマンス皆無の作品と言うわけではない。むしろ壮大なロマンスであると言いたい。だが、阿呆漢たる主人公の一人称にて、ページの半分以上は、妄想やら阿呆漢たる無駄な努力に勘違い、挙げ句の果てには寂しい様など、大凡、部長の趣向にそぐわない作品構成なのであるからして、やはり見せることはできまい。


 何度でも言う。私は部長に作品を読ませるつもりはない!

 

「わかりました。いちよう俺は参加します。部長は参加しないんですよね?」


「さっきそう言っただろ!俺は猫の手も犬の……」


「真梨子先輩にそう伝えておきます」


 私は部長の声を遮ってそれだけを言うと、爽快な面持ちで悠々と部室を出てやった。

 もちろん、慌てて部長の大声が私の背に投げ掛けられたことは言うまでもない。私はドアを閉めたところで、大きな物音がサークル室の中に木霊したかと思うとその次々に硝子の割れるような音や、部員の悲鳴やらが聞こえて来た。

 

 助言しておきたいと思う。蛸足配線はやめた方が良い。


 実のところ、真梨子先輩の関与は知らなかった。だから、往々にして真梨子先輩が参加していないと言うこともあり得るわけだ。

 だがしかし、私にとっては真梨子先輩の有無など関係ない。最重要であるは葉山さんが参加していると言うことなのだから。けれど、私には自然と確実にこの部長会の一件には真梨子先輩が一枚噛んでいると信じることができたのである。そもそも、葉山さんが独断であんな提案をするわけもなければ、古平がその提案に賛同することなど、沈まぬ太陽のごとくありえないお話であるからだ。

 しかしながら、ここに真梨子先輩が裏から糸を引いている。と言うエッセンスを加えてやると。あら不思議。古平がすんなりと賛同してしまう理由も明白となってしまう。真梨子先輩に大恩のある一人である古平は真梨子先輩にのみ従順な下僕。本人は否定しているが、真梨子先輩に頼られれば断った試しがない。ものの一度としてないのである。

 たったそれだけかと言われてしまえば、そこまでであるが、古平と言う男をよくしる私であればこそ、たったこれだけでも確信の領域へ盲信できるのである。


 部長との訣別とも言える別れ方をして、私は部室に顔を出すこともなく、図書館に閉じ籠もって『千年パンツ』の完成だけをただひたすらに打ち込むことにしたのであった。一片の後悔はない!そう言い切りたかった……しかしながら、携帯を開く度にポップコーンを今にも頬張りそうな葉山さんが灯ると、なんとも悲しい面持ちとならざるえない。

 この屈託のない乙女の姿こそ私の意欲と執筆の源であると言うのに……携帯の電源を落とすようにと促すは、部長からのひっきりなしの電話であった。この期に及んで、私を苦しめようとはなんとも忌々しい部長である。 

 

 私は愛くるしい葉山さんのおわす画面を暗黒にするなど選択に最初からなく、部長の電話番号を着信拒否設定にして事の沈静化を図ると、ようやく、真梨子先輩のノートパソコンのキーボードに手をつけたのであった。

 




「葉山さん知ってる?」


「一度だけ見たことがあるけど……」


 真梨子先輩が自信を持って、胸を張って発表したのは、昨今では随分と聞き慣れない言葉でした。それを証拠に、小春日さんは頭上にクエスチョンマークを並べ、知ってか知らずかの音無先輩は三点リーダーを並べていましたから。

 かくゆう私だって、それを見たのは幼少の頃、家の近くにサーカスが来た時にたまたま、見かけたことがあっただけでしたもの……


「あれれ、みんな反応鈍いなぁ。私は自信があったんだけど」


 やれやれと。腰を降ろした真梨子先輩はどこまでも不満げでした。


「他には無いの?」


 音無先輩は反対なのでしょうか。真梨子先輩にすぐさまそう聞くのです。


「後は、みんなで水着になってチラシ配るとか?」


「水着って……」


 額に指をやって、呆れてみせる音無先輩です。確かに水着というのは荒唐無稽だと私も思いました。


「水着って言っても、スクールタイプとか競泳のじゃなくて、ワンピタイプとかふりふりのついたうんと可愛いやつだから大丈夫!」


 とりあえず、何が大丈夫なのかを説明して欲しい私でした。酔っているとはいえ、無茶苦茶です。

 自分で言っておいてげらげらと笑う真梨子先輩は「浴衣いいなあ」と呉服店の娘である音無先輩の着ている随所に桜が満開の浴衣をなで回しています。真梨子先輩だって、今日のためにわざわざ新調した萌葱色のネグリジェはとてもよく似合っていると私は思っていました。あまりに嬉しかったのか、先輩は何度も携帯で写真を撮っていました。それも私や小春日さん、音無先輩ももれなく……

 無い物ねだりと言うか、他人の持ち物の方が良く見えてしまう摩訶不思議マジックですね。


「そりゃ、真梨子先輩や音無先輩は良いかもしれませんけど、私や葉山さんは……その……色々と足りませんし、だからそれは却下です。即却下です。ねっ葉山さん」


 お酒に酔っているのか、はたまた羞恥心からか、頬を少々赤らめた小春日さんが力強く私の腕を掴むものですから「そうです却下です先輩」と私も断固反対の意思を伝えました。

 悲しいことですけれど。小春日さんの言う通り、私も小春日さんも真梨子先輩や音無先輩のように強調するものが物足りませんから、水着は却下なのです。

 精々、みんなして市民プールにでも行った折、存分に水着になりたいと思います。


「いや、後輩ちゃんたち、そう言う問題じゃないと思う……」

 

 捕まると思う。と音無先輩は猫のようにまとわりつく真梨子先輩の頭を撫でながら、私と小春日さんに呆れ顔でそう言うのでした。


 赤霧島をやっつけたところで、真梨子先輩はリバースをすることなく、酔い痴れた面持ちで「もにゃもにゃ」と寝言を言いながら音無先輩の膝枕で眠ってしまいました。

 それは丁度日付がかわった頃のお話で、半分程度残った八咫烏を手酌でコップへ注ぎながら、音無先輩はしみじみと言ったのでした、


「ちんどん屋だなんて、真梨ちゃんらしいわ」と。



  ○



 音無先輩が真梨子先輩を寝かしにベットへ連れて行き、それからそのまま二人ともベットで寝息を立てているのを発見して「風邪をひきますよ」と言いながら毛布を掛けていると、なんだか本当にお母さんにでもなった面持ちの私でした。


 小春日さんと二人きりとなった私は、その後も色々とお話をしました。私は一番に、ノートに書かれてあった、学生の天敵について話します。真梨子先輩の発案に賛同した小春日さんでしたら、一緒になって憤慨してくれるだろうと思ったからでした。

 けれど「そうだったんだ。そんなこと全然知らなかった」と小春日さんに言われてしまいました。

 小春日さんは古平さんに声を掛けられたのだそうでした。


「古平君とは仲が良いんですね」と私が言いますと、


「だって、私の彼氏だから……」


 口をすぼめてそう言った小春日さんは今にも抱き締めたくなるくらいに可愛らしかったと思います。

 現に、私は「わぁ」と顔を赤面させ、照れ隠しとばかりに小春日さんを抱き締めてしまっていました。真梨子先輩の抱きつき癖がうつってしまったのかもしれません。


 それから、暫し、小春日さんの恋路を拝聴しました。小春日さんは、古平君と基礎ゼミで同じクラスになったのでしたが、はじめから古平君に良い印象を抱いていなかったと言うのです。むしろ、近寄りがたく、できるなら会話もしたくない。そんな最悪な印象だったそうです。

 ですが、基礎ゼミが始まってからすぐ、気が付いたら隣には真梨子先輩がいて、そして、事ある事に古平君と小春日さんを呼び出しては二人きりにしたり、時には古平君を小春日さんに押しつけて帰ってしまったり……とてもシャイであった古平君でしたけれど、小春日さんと会う時には必ず赤いガーベラを一輪くれるなど、決して表立っては際立たないながらも、繊細微妙な優しさをくれたのだとか。


 そんな優しさに気が付かせてくれたのも、真梨子先輩だったそうです。直接的には決して言わず、遠回しに、その愛情や優しさに気が付かせてくれたのだと小春日さんは薄暗い和室で寝息を立てて眠っている真梨子先輩に視線を向けながら、話してくれたのでした。


「真梨子先輩は私たちの愛のキューピットさんなの。私も古平君も感謝してる。どれだけ感謝してもしたり無いくらいだもん」


 小春日さんは自身の恋路をそう締めくくります。


「キューピットですか」 


 私はずっと前に、美術部の先輩に真梨子先輩は「キューピット」と聞いたことがありました。聞いた当時は意味がまったくわかりませんでしたけれど、そう言う意味だったのですね。


 悪く言えばお節介。良く言えば天使の行いです。


 でも、私は少し悲しくなってしまいました。真梨子先輩だって恋はしたいでしょうに。内心は甘えん坊のくせに、強がっているだけなのですから。


「キューピットは………悲しいですね」  


「どうして?真梨子先輩に感謝している人は私達も含めて沢山いるよ。今では、縁結びの神様とまことしやかに噂されるくらいだし」


 嬉しそうに話す小春日さんです。ですが、それは違うのです。とても大切なことを忘れてしまっています。


 だから……だから、私は少しだけ今少しだけ幸せそうな小春日さんが憎く思えました。


「キューピットに恋を成就してもらった人は良いですよ。幸せですから。でも……キューピット本人はどうなるんですか。ずっと他人の恋路ばかりお節介して、キューピットの恋はどうなるんです!キューピットだって恋がしたいはずです」


 私が急にそんなことを言い出すので小春日さんはきょとんとしていました。当然です。私だって、急にそんなことを言い出されたら、惚けてしまうと思いますから。


 だって悔しいじゃありませんか。沢山の人を幸せにしてきた真梨子先輩が、その張本人たる真梨子先輩自身が幸せになれないなんて……別に恋人ができればそれで良い。そんな短絡的なことを言うつもりはありません。人の幸せの形はそれぞれです。だから、どんな形でも良い。とにかく真梨子先輩がもう海のDVDを見なくて済むように……そうなってくれさえすれば良いのです……


「うん。葉山さん今とっても良いこと言った!うん!。ほんとに言いこと言ったよ!」

 

 真梨子先輩を思うが為とは言えど、場の空気を悪くしてしまいました。そう思って反省していた私でした。でも、小春日さんは瞳を輝かせ今度は私を追い被さるようにして抱き締めるのです。これには私の方が何が何やらさっぱりわかりません。


「今度は私がキューピットになる番。真梨子先輩に恋のすばらしさをプレゼントする番!」

 

 素面のはずの小春日さんはますます抑揚を激しくさせて私の耳元で言います。


「あっ」

 

 次の一言はきっと鼓膜が破れてしまうほど大きな声でしょう。そう身構えていた私を離して、小春日さんは一人だけで身を起こします。


「キューピットは良いけど、真梨子先輩って好きな人いるのかな」


 今にも泣き出しそうな視線を私に送りながら、小春日さんは言います。やっと良案が浮かんだと言うのに決定的な材料が手に入らなかった……そんな面持ちでしょうか。


「大丈夫。その点はグッジョブだから」


 私はここぞとばかりに親指を立てると、和室の二人を気にしながら、小春日さんにこしょこしょっと、真梨子先輩の意中に居る『想ヒ人』の名前を教えたのでした。



 ◇


 

 ススキの見頃を向かえ、大学の垣根ではちらほら手入れの皆無を象徴するようにススキが秋の香りをそこら中に振りまいていた。


 私はと言うと、寝ても覚めて『千年パンツ』一色であった。お陰で昨夜など夢の中でもいそいそと執筆をしているのだからしてこれには驚いた。密室にて取り立てて誰が訪問することなく、空調の音だけがやけに五月蠅いこの図書館でも、ビー玉くらいのときめきは何度かあった。その全てに起因するは真梨子先輩であり、愛しの葉山さんもそこにいたのである。

 まずは、『ちんどん屋やるべ!』と言う件名にて、真梨子先輩のネグリジェ写真が送られて来たかと思うと、次ぎには愛おしい葉山さんのきょとんとした写真が、最後には人間くらいはあるだろう、ぬいぐるみの写真と続いた。

 最後の写真は削除するとして、またしても葉山さんの写真を送ってよこすとは、さすがは真梨子先輩である。

 なんと言おうか、真梨子先輩の送ってくれる葉山さんの写真だけで十分な話題となる。

 葉山さんの写真が貼付されてあったメールには「恭君もおいでよ。楽しいにょ」と書かれてあった。私はその場で携帯を全握力を持って締め付けると「行きたいに決まってるでしょ」と声を殺して変顔にて呟いた。


 もはや乙女の園、桜花の園、そしてハーレムと言えば随分といやらしく聞こえるだろうか……

 とにもかくにも紅一点ならぬ黒一点と私一人が、ただ一人が妙齢たる婦女の輪の中に入って、面白可笑しい時間を過ごせるのであるからして、これを断る理由などどこにもありはしない。それよりも、私は真梨子先輩宅へ向かう道中「さあ私を羨めしがるがいい!」とすれ違う男と言う男に胸を張って堂々と吹聴して回らなければ気がすむまい!

 真梨子先輩からメールを受け取るたびに、一喜一憂して溜息と一緒に「おやすみなさい」と返信するのも、なんだか慣習になってきた気がする。

 先輩は私をどうしたいのだろうか。まあ、葉山さんに好意を寄せていることを知っている先輩のお節介と言えばそれまでであるが……そう言えば、葉山さんの写真を送ってくれる際、どうして先輩は自分の写真も同封するのだろうか。今回のように、別口で送ってくるものもあれば、一緒に映っているものもある。


 ポップコーンの写真には葉山さん唯一、一人だけが映っていたが、後に送られてきたデロリンソーダの写真にはしっかり真梨子先輩が写り込んでいた。


 浮気心を起こすつもりはない。


 だが、そんな写真を見ていると純然と真梨子先輩とて素敵な女性……そう思えてきて仕方がない。化粧を落とすと、大人びた雰囲気こそ薄まっていたが、あどけなさを感じさせる可愛らしい顔であり、そんな先輩が可愛らしいパジャマを着込んでいれば、つい守ってあげたい衝動に駆られてしまう。

 日頃の大人びた先輩の姿は仮の姿なのだろう。どうして先輩はそうまでして自分を誤魔化すのだろうか。


 私は私個人的には真梨子先輩らしい真梨子先輩が好きなのであった。


 そんなことを考えてしまった私は、その後一字一句として書き進めることは叶わず、閉館時間ぎりぎりまで真梨子先輩との出会いから今までを回想しては天上に並べていたのであった。

 翌朝、図書館のお馴染みの席に腰を降ろしてパソコンの電源を入れ、あくびの一つもしている間に、これまでどれくらいの男どもが真梨子先輩のお節介に勘違いを起こし、先輩との甘い時間を過ごせることを切望しては夢やぶれていったのだろうか、とそんな事を考えた。

 精神鍛錬に抜かりのない私であるからして、変な感情を芽生えさせず真梨子先輩の後塵を拝しているわけだが……それとて、先輩がお淑やかな服装に着替えた刹那には虜になっていた。と言うことだって往々にしてあり得る話しである。

 私は『世界で一番乙女に飢えた男』と言う不名誉な称号も甘んじて受け取る。そんな男なのである。

 

 図書館に一日中引き籠もっていると、誰と接触することもなく、とかく身だしなみが無法地帯になりがちになっていけない。他者からの視線を気にしなくなると、赤信号と聞いたことがある。

 現在の私からすれば、シグナルはすでに猛赤信号と言えるだろう。3日ものの無精髭を蓄え、服とて3日間着た切り雀である。さすがに汗臭くなってきたので、本日帰宅の折には着替えようと今朝起き掛けに思った。

 

 身だしなみなど衣食足りてからで良いではないか。思い出してみれば、ここ数日、ろくな物を口に入れていない。大体をインスタントラーメンの麺を乾麺のまま丸かじりして、お茶で流し込むと言った荒技で空腹のみをしのいで来た。

 自炊をする意欲が減退しているからであることは言うまでもない。ただ、それにともなって椎茸のように舌の上に生えてきた口内炎には困ったものである。乾麺を貪るたびに声にならない叫びをあげなければならないからだ。

 それもこれも『千年パンツ』を完成させるまでの辛抱である。盗作は容易い。いつもニコニコ挙動不審である。だが、創作ほど精神力と体力を奪ってゆくものはありはしない。自身の辞典からアイディアを搾って踏んで叩いて、残りの一滴を抽出してもなお、捻りつづけなければならないからだ。

 ゆえに、この作品が完成を見た暁には、私は創作者にしか絶対に理解不可能な無限の達成感に包まれ、その心地よさに陶酔するのである。何をどれだけ書こうとも原稿料が発生しない我々文芸部員にのみ味わうことを許された、悦楽の一時と言うわけだ。


 そして!完成したその時には、葉山さんに想いを伝える!

 

 いつしか、そんなオプションもひっつけながら、私は今日も一人孤独な戦いを開始したのであった。


 昼頃を過ぎ、窓ガラス越しに見える中庭に屯する学生たちの姿が少なくなってきた頃。知恵熱で前頭葉がオーバーヒートを訴えるのでそろそろ昼寝でもしてやろう。そう思った私は携帯の目覚ましを30分後にセットしてから机に突っ伏した。昨夜よりも1時間がんばった前頭葉であった。


「へー千年パンツかあ」


「本当ですね。千年パンツです」


 微睡みをはじめて、ものの10分も経たないうちに、私の背中が何やら騒がしい。

普段は足音一つしない図書館において、人の声を聞く事は滅多にない。これは、もしや、図書館に出ると言うワンピース令嬢ではないだろうか。私はそんなことを考えながらも、その声が空耳でない確証をひたすら探していた。何せ、ワンピース令嬢は地下室の六法全書置き場に出ると言うのがもっぱらの噂であったし、せっかく心地よく微睡んでいると言うのに、空耳ごときで首をもたげようものなら、覚醒につき、二度と心地よく居眠るなどできるはずもない。


 だが、


「恭君、気持ちよさそうに寝てるね。可愛いっ。ちゃんと食べてるのかな、ちょっと痩せたかも」


「先輩。それじゃまるで先輩が夏目君のお母さんみたいですよ」


 とはっきり麗しの笑い声が聞こえたので、喜んで目覚めることにしたのであった。



 ◇



 それは真梨子先輩と麗しの葉山さんだった。

 二人は私が寝ていることを確認してから、話題を二転三転させ、最後に美術部の展示スペースが余っている。と言う話しをしてから、ようやく口を止めた。

 すでに狸寝入りを敢行していた私としては、話しの腰を折ることも、はたまた会話を途絶えさせてしまうことも心苦しく……簡単に言えば頭をもたげるタイミングを伺っていたのである。


 ようやく訪れた束の間の沈黙に私は苦痛をもよおし始めていた首を半回転させると共に、ようやっと眠た眼を装って頭をあげられたのであった。


「起こしちゃった?」


 わざとらしく言う真梨子先輩はいつもの真梨子スマイルを浮かべて、私の隣に腰を降ろすと、葉山さんはその後ろに立ち据えた。


「確信犯ですよね」


 背伸びをしてみせる私であったが、どうにもそう言う気分と言おうか、葉山さんを前にした照れ隠しの意図も十二分に含まれてあったと言いたい。この瞬間に関しては目脂の有無とて至極気になる。

 それに拍車をかけて私の膝元を震えさせたのは久方ぶりに『誰か』と会話をしようとしているからでもあった。スーパーのレジでインスタントラーメンを買う時に、「袋はどうされますか」「ください」のやりとりをして以来の会話であったと思う。


 会話をしないと、声も出なければ舌も回らない。舌も声帯も筋肉を使わなければなまってしまうようだ。


 それでも、久々の会話は楽しかった。真梨子先輩との会話は楽しいことばかりが凝縮されているので、面白可笑しい。そこに時折、葉山さんが言葉を挟むのだ。会話リハビリ中の私には少々難易度が高い顛末となってしまった。

 日々をディスプレイに向かうことばかりを良しとせず、誰かと話しさえしていれば、真梨子先輩や葉山さんと面白可笑しく談話に花を咲かせられたと言うのに。

 誠に無念である。


「そうだ、部長会の宣伝なんだけど、ちんどん屋することに決まったから」 


 パジャマパーティの折、音無さんの着ていた浴衣がいかに可愛かったか、と言うところを話し終えたところで、真梨子先輩が思い出したようにそう言った。


「ちんどん屋ですか。また珍しいですね」


「夏目君知ってるんだ、私も一度見たことがあるだけなんだけど」


 私が幼少の頃、休日の朝に商店街に行くと商店主有志のちんどん屋が、セール品の書かれたチラシを配って練り歩いていたのを祖母と一緒に良く見に行った覚えがある。

 そう言えば最近はめっきり見かけなくなったな………


「詳しいことはまた私の部屋でお酒呑みながら決めましょう。今度は恭君もおいでよね」


「葉山さんも音無先輩も来るんでしょ。なら行けませんよ」


「じゃあ、二人きりならOK?」


 身を乗り出す真梨子先輩である。そんな緩んだ表情で言われても全然真に受けられませんし、その、何というか……自然と目が行ってしまうから谷間もどうにかしてほしいです。


「昼間なら良いでしょ?」


「えっ」


 私はてっきり夜中また、パジャマパーティーよろしく、ハーレムもとい、桜花の園が展開されるのであろう。そう勘ぐったがゆえに、参加を渋ったのだが……その手があったか……


「そうだよ。恭君。昼間なら良いでしょ?良いよね。決まり!」


 後でメールするねえ。真梨子先輩はきっと私がそれでも断ると思ったに違いない。だから、私が返事をする前に葉山さんの手を持って駆けて行ってしまったのだろう。

 しかし、真梨子先輩に手を引かれながら、後ろ髪を引かれる乙女のように私を見てくれた葉山さん……ありがとう。


 これで私は昼食を食べずして夜まで戦う事ができる。


 そう決意を新たにしたそばから胃酸過多の地獄の苦しみに私は溢れ出る唾液を飲み込み、これを薄めることに専念せざる得なかった。こんな状況下では執筆などかなうものか、やはり学食に行こうか……

 流星のごとく方針転換を画策した私であったが、ふと机の上をみれば、そこにはゼリー状の簡易食糧が一袋置いてあったの。


 『惚れ直したぞ(^_^)v』と書かれたメモと共に……


 真梨子先輩は何をしに来たのかと思ったら……きっと何でもないお喋りをして、気の向くままに帰って行くのだろう。そんな風に思っていた自分が情けない。

 わざわざ、これを届けに来てくれたのだろう。本当に真梨子先輩と言う人は、感謝の言葉も言わせないなんて……


「惚れ直すのなら、私の方ですよ」


 メモ紙に書かれた文字を指でなぞりながら、私はそう呟いた。そして、誰もいないことを確認してから、飲食御法度の図書館内にて真梨子先輩の愛情を一気に飲み干したのであった。

 誰かに応援されている。そう思えるだけで随分と筆の進みようも違ってくる。それと言うのも、時折、我に返ったように虚しく思える瞬間があるからだ。

 私はプロの作家でもなければ、将来物書きを目指しているわけでもない。だから、このように多くの時間を図書館に籠もりパソコンのキーボードを打つことに、青春の貴重たる時間を浪費していて良いのだろうか……そんな空虚な面持ちとなるのである。


 そこに意味をどう見出すか……私に必要なのはそれだろうと思う。文字をただ書き並べて、物語りを紡いだとしても。誰の目にも止まることなく、ただのゴミくずとして消滅するしかその他を知らないのであるなら、今この時に執筆をやめてしまったところで、誰がなんとも思うこともありはしない。ただ、私が一人。私が一人だけ、ついに主人公を幸せな終幕を見せてやることができなかった悔しさに涙するだけである。そこには当然、意味などありはしない。


 だから、誰かに応援してもらえることは無情の喜びなのだ。誰かが私の励んでいる行為を認めてくれているようで、それだけで、至宝たる『意味』を手に入れた面持ちとなれるからである。それに、加えて誰がわざわざ、私などの為に差し入れを持って来てくれるだろうか。

 双方相俟って私はあらためて涙が出るほどに嬉しさを噛み締めていたのであった。


 そのお陰か、その日は携帯の中に居る葉山さんに助けを求めることもなく、比較的順調に筆を進めることができた。


 図書館から帰り道、真梨子先輩が差し入れてくれた、ゼリー飲料を握りながら、再び先輩に感謝をしながら、私は暫時立ち止まって南の空に蒼く輝くシリウスを見上げた。

 あの蒼い光は私の父や母が生まれる前からそこにあったはずだ。誰に見上げられているかも知れず、はたまた、その存在自体が認識されていることすらも当のシリウスにはわかるまい。

 人間原理という誠に申し訳ない尺度で言えば、我々人間が『シリウス』と言う存在と意味を与えたがゆえに、シリウスはシリウスたりえるのだ。だが、そんな論はやはりシリウスに申し訳がない。

 所詮、光年と言う尺度は人間の想像と……いいや、全てを凌駕してあまりある。今、私の瞳に届いている光とて、光速にて何十光年、遥か昔にここを目指して旅だった光なのだから。

 海を見ても思う。しかし、星を見上げてもやはり思ってしまう。意味などとそんな小さなことを手に入れなければ、何を成すことも出来ないなど……やはり自分は小さい。なんとちっぽけな存在なのだろうかと。

 シリウスはきっと、誰に見つけられなくても、その蒼き輝きに魅了される者がいなかったとしても、広大な宇宙の中で孤高にも己の体を燃やして輝き続けていたことだろう。そう、そしてその鼓動が尽き終焉の大爆発でその生涯に幕を降ろすその時まで。


 そんな孤高たる強さが私にあったならば…………


 そこまで考えて私は歩き出した。そんな強さがあったならば、もっと違った人生を歩んでいたに違いない。

 確実にそうだろうと思う。今頃、この帰路を歩いていることもなければ、夏の暑さの中をペガサス号に跨って額に汗をすることもなかっただろうと思う。無いモノ強請りも人の性、あんなに大きくも雄麗たる月があると言うのに、どうして私はシリウスなどに惹かれたのだろうか……私は自分が可笑しくて吹き出してしまった。誰もいない帰り道であるからして、大いに醜態を曝したところで後悔する日はきやすまい。

 そして、先月読み終えたばかりの恋愛小説『月が兎に恋をして』を思い出すと、今一度読み返したくなってしまった。

 偶然と勘違いを繰り返して男女が出会う。そんなのは、ありきたりな物語りにも思えるのだが、男女双方の心情が刻銘に書かれた構成はなんとも技巧が凝らされていると言える。私の『千年パンツ』にもこの構成を取り入れていることは言うまでもなく……


「そうだ」


 ここで私にアイデアが閃いた。千年パンツの複線に『月が兎に恋をして』を織り込んでやろうと思ったのである。

 もちろん盗作などではない。劇中で主人公とヒロインに『月が兎に恋をして』を読ませるのだ。

 複線にはもってこいではないか。それに、読み手がもしも『月が兎に恋をして』を読んでいたとしたならば、なかなかどうして、自分が知り置いているモノが登場していると言うのは嬉しいものなのであるから、そう言った点でも喜んでもらえるかと思う。

 私だって最近読んだ小説の中に、中学生の頃に夢中になった海底二万里が登場していた時には不思議となんだか嬉しかったものである。

 下宿に帰ったならば、忘れてしまう前にまずはこのアイデアをメモしておかなければならない。そう考えながら、私は再び夜空を見上げた。私の視線の先には蒼い輝きはない。その代わり、少し楕円に傾いた月の姿があった。

 


 ○



 真梨子先輩の提案で、めでたくも部長会での宣伝活動は『ちんどん屋』に決定しました。

 お昼過ぎから開催された部長会有志が集まっての説明会には、真梨子先輩をはじめとして小春日さんに古平君。夏目君に音無先輩。そして、文芸部の部長さんと、よく飲み会で顔を合わせる気の知れたメンバーが揃いました。

 小春日さんなどは、ちんどん屋を見たことがないと話していましたので、映画研究会からちんどん屋の登場する映画を借りてきて、まずはちんどん屋とはなんぞや?と言うところから話しが始まりました。

 映像には派手なメイクに風変わりな衣装を身に纏い、鉦【かね】や太鼓を叩いたり、三味線にクラリネットを演奏したりする男女の姿が映っており、その様の人目をひくことと言ったら!とにかく『宣伝』と言うにはもってこいだろうと思いました。

 ただ、楽器を演奏できる人が誰一人いませんでしたから、その後の打ち合わせでは、楽器は用いずに拍子木を使うことに決まり、真梨子先輩たっての希望で宣伝をする日はわざわざ、砂山さんも参加する甘美祭実行委員会が駅前で宣伝チラシを配る日に被せることになったのです。

 ですから、真梨子先輩の意気込みは天を突くばかりでした。残念ながら、甘美祭実行委員会と日を同じくするので、音無先輩は部長会の方に参加することができなくなってしまいます。その代わりと言うわけではありませんけれど、音無先輩は「私の実家、貸衣装もやってるから」と、衣装をなんとか都合をつけてくれると胸を叩いて宣言してくれたのでした。


 物事とは一度動き出すと、後は何もしなくても勝手に動いて行くものですね。『真梨子式宣伝大作戦』の骨組みが決まってしまうと、後は事細かな事柄について各々にアイデアや意見が積極的に出ていきます。

 これぞ会議。そう思ったのは私だけではないと思います。先日多目的ホールで行われた会議……あんなものは会議ではありません。司会進行がまるで誰もいないホール内に一人で喋っているような……あんなのは会議ではないのです。


 楽しそうな表情を浮かべ『良いモノをより良く』持てる知恵を出し合い、一つの目標を完璧に磨き上げることこそ、会議のあるべき姿なのですから。

 1時間を予定していた会議は2時間を超え、真梨子先輩が次回会議の話しを始めなければ、それこそ夕方まで続いていたかもしれません。

 私も久方ぶりに、口の周りの筋肉がごわごわとしていました。


 第1回会議より数日の後、『真梨子式宣伝大作戦』第2回会議をより有意義にするため、発起人である真梨子先輩は私と小春日さんに声を掛けて、一緒に音無先輩の実家に向かいました。

 第2回会議と言っても、迫る甘美祭を見据えると大凡その会議が最後となるだろう。そんな認識を誰もが言わずとも暗黙の了解としているはずなのです。だから、3人連れだって肝心な衣装を持ち込んで士気向上と現実性をテコ入れしようと言う企みだったわけです。

 行きの電車の中で、私は小春日さんとどんな衣装が良いでしょうか。と色々と話しをしてました。真梨子先輩はもう決めている様子でして、私と小春日さん話しを聞きながら終始微笑んでいるだけでした。

 小春日さんは「ウエディングドレスとかもいいかも」とか「パーティドレスもいいなあ」とドレスアップした花嫁さんを恍惚と見上げる女の子のような眼差しで、空調にはためいている中吊りの五色饅頭の広告を見上げていました。

 まるで、「あの五色饅頭美味しそう」傍目から見ればそのようにも見えなくもないだけに私は夢見る少女である小春日さんを可愛いと思う傍らで、一人笑いを堪えていたのです。

 

「なっちゃんはどんなのが良いの?」 


 さすがに、音無先輩のご実家に伺うとあって真梨子先輩も普段の派手な装いは控え。白いブラウスに水色のスカートと、とても落ち着いた装いでした。首元の赤い林檎を象ったペンダントトップがブラウスの白を引き立てていました。

 やはり先輩こちらの落ち着いた装いの方が似合っています。憧れのお姉さんのような先輩を見ていると、ノーブルと言う言葉がとても似つかわしく、たまに無邪気に笑ってみせると、これもまたエレガントの趣があるのです。

 小春日さんが、高校の先生みたい。と言い表したのにもちょっぴり納得でした。


「そうですね。私は……浴衣で良いです」


 第1回会議で上映された映画では、昭和の香りを匂わす。浴衣に着物、燕尾服でしたから、やはり、それに習って私は浴衣で良いと思います。


「浴衣なんて駄目。そんなんじゃ目立たないじゃない。目立ってなんぼなんだから」


 「浴衣なら水着の方が目立つわね」そんな事を本気で言う先輩でした。


 音無先輩のご実家は、烏丸と言うところにあり、真梨子先輩が『とりまる』と読み間違えてしまい、女性の駅員さんに笑われてしまいました。私も『からすま』と読むとは思いもしませんでしたから、真梨子先輩のことは笑えません。地名は難しいのです。

 電車を降りて、音無先輩に書いてもらった地図通りに幹線道路を渡って、路地に入って行くと、鉄筋コンクリートのビル群の中にぽつりと、京都を思わせる風情のある木造建築が異風を漂わせていました。

 軒先には『音無呉服』と萌葱色地に群青色にて染め抜かれた暖簾が堂々と微風に揺れています。

 そして、私はもとより真梨子先輩ですら「入ってもいいよね?」と言わせてしまう、殺し文句が暖簾の先にあるガラス戸に貼られていたのです。

 これは、これこそ、格式の京都を思わせる一言ではないでしょうか。いいえ。それ以外に言い表しようがありません。

 私と小春日さんは今すぐにでも回れ右をしたい気持ちを押さえて真梨子先輩の背中に隠れました。


 『一見さんお断り』の札には思いのほか緊張してしまうものなのです。



 ○



 私たちが『一見さんお断り』にたじろいだことをお話すると、響先輩のお姉さんである音無 鳴海さんが、宇治茶と生八つ橋を眼下に「あはは」と明眸皓歯を覗かせて笑顔になりました。


「ほら、うちは舞妓さん相手の貸衣装やから、たまに舞妓さんの格好させて、言うて観光のお客さんが来はるさかい、だからあの札はったんよ」

 

 さすが、お茶の本場は違いますね。私がスーパーで買っている緑茶とは香りも渋みも別次元です。そろそろ、我慢できません。と思ったところでお茶と相対する甘味の八つ橋を囓ると、生き返ったようにとても幸せな面持ちとなるのです。渋く苦いがゆに甘さが必要以上に引き立つのかもしれません。


 真梨子先輩は私と小春日さんがお茶に八つ橋にと舌鼓を打ち放しにしている最中でも、鳴海さんとしっかり打ち合わせをしている様子でした。

 さすがは真梨子先輩ですね。これが私と小春日さんだけだったならば、きっと「帰りに生八つ橋を買って帰りましょう!」とお互いに頷きあってはしゃいでしまったことでしょう。

 蛇足ですけれど、帰りに生八つ橋を帰って帰るつもりでいますよ。もちろん!

 

 しっかり京菓子に舌鼓を打った後、さらに暖簾をくぐった奥の部屋に通された私たちでした。


「ちょっと、待ってて」


 鳴海さんはそう言うと近くの襖を開けて、どこかへ行ってしまいました。

 その部屋からは、日本庭園を思わせる情緒ある庭を見ることができ、苔の生えた石灯籠や動いてはいませんでしたけれど、獅子脅しなどは、時代劇でしか見たことのない『和風』だったのです。日本人でありながら、このような純和風をはじめて目にしたと言うのもなんだかおかしな話しですけれど……


 私の部屋の4倍はあるでしょう縦長の部屋で私はお庭を、真梨子先輩と小春日さんは襖に描かれた味わい深い猫の絵を……それぞれに見入っていました。


 やはり、和風とは地味ですね。シャンデリアもなければ大きな鏡もなく、絵画もなければ甲冑も石像もありません。けれど、私にはわかるのです、柱一本、襖の一枚。立たずにそこにあって然るべき物たちが全て一流品であることが。畳みなどは踏みと微かに沈むのです。ふわっと沈むのですよ!わら詰めを藺草で編んだ表をつけたこれを本畳みと言うのでしょう。見た目こそ変わりませんけれど。私の部屋の畳みなどまるで板が入っているかのように硬く、どれだけ踏みつけてもふんわりと沈む事などありません。

 鳴海さんに言わせれば「こんなん、町屋やったらみんな同じよ。うちは特に商いしてるから」なのだそうです。 

 慎ましくも地味ですけれど、見えないところに贅を尽くすところがやはり『和風』なのでしょう。これは日本人気質に通ずるところがあると思うのです。


「お待ちどうさん」 


 鳴海さんは奥の襖から幾つか浅広い桐の箱を抱えて戻って来ました。


「私なりに色々考えてみてんけど、どうやろうか?振り袖がええと思ってんけど」


 並べられた桐の箱を空けると、そこには可愛らしくも鮮やかな桜柄、面白い市松模様、梅の枝に鶯が止まった絵柄。一目みただけでも、格が違う振り袖が収められてありました。


「どう?」


「どうと言われる前に、こんな上等な振り袖を借りてしまっても良いんですか……」


 私は不安になってついそんな、貧乏くさいことを聞いてしまいました。洋服ならば少々どれくらいの価値があるのか知り置いているつもりですが、着物となると全く未知の世界でして……


 いややわあ。と手を口許に当てて言う鳴海さん。


「そんな、こんなん三重で家も立たへんから」と笑うのですが……家と言われても……微笑む鳴海さんを尻目に私と小春日さんは顔を向かい合わせていただけだったのです。


 「他にも出してくるから、もうちょっこっと待ってて」私と小春日さんの反応に気を良くして下さったのでしょうか。鳴海さんは気前良くも次から次から次へと桐の箱を出して来ては、蓋を開けて、着物の説明をしてくれました。

 どんな時にどんな人たちが借りて行ったのか……基本的に江戸時代からある一品であるところから話しが始まるものですから、その時点で私と小春日さんは物怖じしてしまって、触ることすらままなりません。

 別段買いに来ているわけではないのですが、「もう少し安い着物はありませんか?」と聞いてしまいたくなるのが人情と言うものですよね。


「真梨子先輩はどんなのにするんですか?」


 これなっちゃんに似合うと思うよ。など私と小春日さんに柄を合わせてばかりいる先輩に私が聞きました。


「私のは特別なのよねえ、なっちゃんたちのが決まったら見せてもらうつもり!」


 ここに並んだ絢爛豪華な振り袖よりも、特別な品とはどんな物なのでしょう。もしかして、白無垢を着るつもりでは……口に出さないながらも、真梨子先輩のきらきらが瞳からこぼれ落ちてしまっていて、少し恐いくらいでした。


 その後、「こんなのもあるよ」と鳴海さんが出して来てくれたのは、桜色の上と紅色の袴と洋風のドレスです。

 私は大正浪漫漂う袴が一目見て気に入ってしまいましたので「これにします」と鳴海さんに言いたかったのです……ですが、「鳴海さん、私これにします!これしかありません!!」と小春日さんがそれはもう、思わず私が振り返ってしまうほどの勢いで身を乗り出しながら大きな声で言うものですから、すっかり私は何も言うことができませんでした。

 小春日さんの選んだドレスは鹿鳴館スタイルドレスと言うそうです。

 『鹿鳴館』とは明治時代に建設された社交場の名称なのだそうで、舞踏会なども開かれ、その際、実際に婦女たちが着飾ったドレスの一着なのだそうです。


 確かに、若草物語や近代イギリスを思わせる仕立てではありました。けれど、手触り良さそうな光沢のある生地に見かけよりもずっと軽いようで、肩幅を合わせるのに小春日さんがドレス持ち上げますと、素直にふんわりと持ち上がるのです。


「見た目よりも軽そうですね」


「葉山さん。これ、全部絹よ!シルク仕立てなのよ!」


 絹とシルクは何か違うのですか?と内心思っていた私でしたけれど、シルクとは高級生地であることくらいは知ってますから、それをふんだんに用いたドレスとは一体お幾らくらいするのでしょう……すぐにそんな野暮ったいことを考えてしまうのは貧乏人の性ですね。

 その他にも、小春日さんはドレスの作り自体にも興味があるようで、縫い目を見てみたり、胸元の刺繍を撫でてみてはその滑らかさに感嘆の声を上げていました。「そのドレス全部手縫いなんよ」と鳴海さんが言うと。「参りました」とドレス向かって溜息をついていました。洋裁を嗜むソーイング同好会の血が騒いだのだろうと思います。

 鳴海さんと盛り上がる小春日さんを余所に私は、自分の気に入った袴を穴が開くほどに見つめてはその良さを探ってみました。けれど、作りが頑丈で繊細。そんな誰でもわかるような漠然とした良さしか見当たりません。私は小春日さんのように縫い物をするわけでも和裁も洋服も詳しいわけでもありません。まして、袴など大学の卒業式の時に着ることになるのだろう。そんな認識でいたのですから、付け焼き刃にもなりません。


「まりちゃん、袖だけでも通していって、袖あわへんかったら出さなあかんし」

 

「はい。待ってました!」 


 膝をぺしりと叩いて立ち上がった真梨子先輩は鳴海さんの後に続いて近くの襖からどこかへ行ってしまいました。衣装部屋へ繋がっているのでしょうね。

 

「わあ。こんなドレス着られるなんて思ってもみなかったあ」


 恍惚となってみたり、携帯カメラで写真を撮ったり。小春日さんの眼中には真梨子先輩の姿はまったくないようでした。

 そんな小春日さんに私は少しばかし呆れ気味だったのですが、夢中になって喜ぶ小春日さんの姿には幾ばくか妬ましくも思ったり……なんだか羨ましく思ってみたり、なんだか悔しいです。

 目の前に並べられた風光明媚に花鳥風月な振り袖を一重一重見ていると、なんだか不思議な面持ちとなってしまいました。

 これらの着物たちは江戸時代に拵えられ、何度も修繕されて悠久の時を越えて、私の眼の前にあるのです。きっと、代々これらの振り袖を袖に通してきた女性たちは、この着物を大切に大切に愛情を持って接していたのだろうと思います。だから、今もこうして美しいままの姿で残っているのでしょう。

 この着物たちを身に宿してきた人たちは一体どのような方々だったのでしょうか。どれだけ大切にしていても、人の一生は限られています。持ち主がいなくなっても、存在し続けるモノ……そう考えてしまうと、なぜか切ないです。


 私が大切にしていた、クマのぬいぐるみは従姉妹の女の子にお母さんが勝手にあげてしまいました。「代わりのぬいぐるみを買ってあげるから」泣きじゃくる私にお母さんはそう言いましたけれど、結局、新しいぬいぐるみは買ってもらえませんでした。

いいえ。私が断ったのです……私は従姉妹にあげられてしまったクマのぬいぐるみが良かったのです。おばあちゃんからお誕生日プレゼントでもらったあのぬいぐるみが……


 誰にだって特別なモノはあると思います。笑われてしまうかと思います。けれど、私はモノには想いが宿ると信じて疑いません。大切にしてきた想いで、小さな傷に落ちない汚れの一つ一つに大切な思い出が詰まっているのです。お母さんから見ればボロボロのぬいぐるみでも、私にとっては特別で大切なぬいぐるみ………なんだか泣きたくなってしまいました。


「そっか……」


 視界がぼやけてきた頃合いで私は気が付いてしまったのです。この着物たちが悠久の時を越えられた理由が!

 きっと、この着物たちを受け継いだ人が先代の持ち主が大切にしていた、その気持ちまでも一緒に受け継いだのですよ。だから、先代と変わらぬ愛情をもってこの着物たちを大切に大切に、紡がれた思い出と途絶えてしまった歴史を人が代わってもなお綴り続けていけたのでしょう。

 この袴だって同じです。もしかしたら、私の同年代の女性が身に纏って大学へお散歩へ、色々なところに出掛けて行ったのかもしれません。もしかしたら、意中の男性とのデートに着ていたかもしれませんね。

 こんな可愛らしい色合いですから、最高に可愛く輝かせてくれたことでしょう!

 

 不意に微風が私の前髪を揺らしました。庭の方を見てみると、微風にはらはらと桜の花弁が流れているではありませんか……そして、縁側には桜色と紅色の袴を着た長髪の女性が佇んでいるのです。背丈は私と同じくらいですが、私よりも華奢な肩幅と腰まである髪の毛は烏の濡れ羽のように艶めいています。


「小春日さん!」 


 私は隣でドレスを抱き締めていた小春日さんをの肩をゆらしながら「庭を見て下さい」と急いで言います。


 「急にどうしたの、そんなに慌てて」小春日さんはなんら変わりない庭を一瞥してから「あれ……」と呟いた私の顔をまじまじと見つめて「鳥?」と首を傾げていました。

 狐につままれた面持ち……と言うやつですね。私にははっきりと桜吹雪と袴姿の女性の姿が見えたのです……見えたはずなんです……白昼夢のように時間が経つにつれて自信がなくなってきてしまいましたけれど………


 

 ○



「それでは当日よろしくお願いします」


 三人で鳴海さんにお礼とお願いをしてから、三者三様、興奮気味に音無呉服を出た私たちは途中で大判焼きを買いました。抹茶を練り込んだ生地にごろごろ小豆の美味しいあんこに口の中をお祭り騒ぎにさせながら、駅まで歩いて、駅構内のお土産屋さんで予てから購入予定でした生八つ橋をお土産に買いました。

 私は普通の漉し餡でした。先輩はカスタードやチョコクリームなどが入ったバラエティセットを2箱も買っていましたので「そんなに食べるんですか?」と私が聞きますと「1個は恭君にあげようと思って」と舌を出して、真梨子先輩と同じくバラエティセットを2箱買った小春日さんにも同じことを聞いたところ、「古平君にお土産」と恥ずかしそうにもじもじしながら答えるのでした。

 

「そうですか」 


 素っ気なく答えて見た私でしたが……これでは、なんだか私だけがお土産を買う相手も居ないようで………


 それはさておき、帰りの電車の中で真梨子先輩は鳴海さんのことを随分と鼻高々と話していました。なんと言えば正しいのでしょうか。そうですね……そうです、尊敬。です。真梨子先輩は鳴海さんのことを一目置いているようなのです。先輩の話しによれば、鳴海さんは先輩と一つ歳が違うだけなのですが、若くして日本舞踊音無流の講師を務め、着物の着付けはもちろん和裁の腕前もぴかいちなのだとか。加えて、和声学も嗜み高校生の時には弓道のインターハイで全国3位にまでなった腕前なのだそうです。

 

「私と一つしか違わないのにすごいわよねえ。私には何にもないもんなあ」


 そう言って五色饅頭の広告の方を見上げた真梨子先輩の横顔は忘れることができません。

 どこか寂しそうな。まるで『自分は無能だ』と言わんばかりの哀愁漂い横顔だったのですから……


「羨ましがるなんて先輩らしくないですよ。先輩には私も小春日さんも夏目君もいるじゃないですか。それに大学には先輩の親衛隊もあります。そんな先輩を私は尊敬しているのですから、真梨子先輩がそんな風に誰かを羨んでしまったりしたら、先輩を尊敬している私はどうしたらいいんですか」


 奥歯が痒くなるような台詞でした。けれど、私は言いました。決しておべっかを言ったつもりはありません。私の本心の中の本心なのです。


「わっ、私も真梨子先輩のこと尊敬してますよ。先輩は面倒見もいいし、先輩のお陰で私は葉山さんと友達にもなれたし、古平君のことも……とにかく先輩にはとっても感謝もしてますし、尊敬もしてますから」


 私に続いて小春日さんも、言葉が軽くなってしまわないように、胸の中にある具体的な言葉を出来るだけ口に出して言いました。


「ありがと」


 少し口を開けて、目を見開いた状態で私と小春日さんの述懐を聞いていた真梨子先輩でしたが、真っ直ぐ見つめる4つの瞳に、感極まれりとゆっくりと瞼を閉じたかと思うと、その次の瞬間には頬に一筋の涙が伝わせていました。

 そして言ったのです、


「もう、二人してそんな嬉しいこと言わないでよ」と。


 その後はいつものにこにこと微笑みを浮かべた真梨子先輩でした。なので私も嬉しくなって、大人げなくも電車の中でお喋りに花を咲かせてしまったのでした。

 そうです、私が真梨子先輩を待っている間に見た白昼夢なのですが、玄関まで送って頂いた折に鳴海さんにそれとなく話して見ると「葉山さんも見たんやね。ここにある着物にはみんな、代々受け継いで来た人たちの『想い』が込められてるから、その想いに気が付いてくれた人には、持ち主やった人たちが姿を現して、その着物よろしゅうて、言いとうて出て来はるんよ」と、私だけにこそっと教えてくれました。

 

 俄に信じられない話しですが、現実に見てしまった私は信じないわけにはいきません。

 あの縁側に佇んでいた女性が持ち主だった方だったのでしょうね。後ろ姿だけで顔まではわかりませんでしたけれど、きっと綺麗な人だったのだろうと思います。何がそう思わせるのかと言われれば雰囲気。としか答えられませんけれど、それでも良いではありませんか。

 あんな素敵な袴を着こなす人なのですから、相場は佳麗と決まっているのです。



 ◇



 休日の昼下がり、私は台所の方から何やら良い香りがする真梨子先輩宅の、玄関に並んだパンプスとサンダルを見て、やはり少しは身だしなみに配慮してから来れば良かったと後悔していた。


 備え付けの下駄箱の上に置かれた小さな鏡を覗き込んでは、はねた前髪をなんとかできないだろうかと、この期に及んであくせくしていたのである。あの日図書館で真梨子先輩に宣言されてしまったお昼間の会議に参上したことは、言うまでもあるまい。元より、打ち合わせをすることもそれに参加することも吝かではないのである。

 だが、どうして毎度と真梨子先輩の部屋を開催場所に選ぶのだろう。年頃の乙女の部屋に入り浸るのは私の趣味でもなければ、男子として気が引けて然るべきである。

 とは言え、真梨子先輩が大学施設内、またはファミリーレストランなどでこういった集会を催さないの意図を知り置いている私としては、毎度をのど元まであがってくる不平を飲み込みざる得ない。

 

 何せ一度、ぶっきらぼうに聞いて見たことがあったのだ。


 大学施設内で打ち合わせをしてしまうと、真梨子先輩のフェロモンにむさ苦しい男どもが寄ってくるばかりか、真梨子先輩が誘わなかった同性の友人から嫉妬されてしまうそうで、聞きようによっては、自慢話か法螺吹きに聞こえてしまうかもしれない。かく言う私とて、そんな話しを人づてに聞いた時は『そんなものはただの自意識過剰と自己陶酔が激しいだけだ』と真梨子先輩を罵ることはしても、決して信じることはなかった。

 しかし、昨年の文化祭明け、憔悴しきった文芸部の面々に対して『クリスマスに恋愛エピソードを』と真梨子先輩が突拍子もない提案して、一部の賛同者と無理矢理賛同させられた私、真梨子先輩を合わせて5名が図書館の視聴覚室にてその打ち合わせとをしていると、時間が経つにつれて、一人二人と人数が増えて行く。何を言うわけでもない部外者どもは、まるで背後霊のように視線だけを真梨子先輩に向けていたのである。

 そんな視線を無視してか、受け流してか何とか打ち合わせの体を貫き通した先輩だったが、視聴覚室を出るなり「どうして声かけてくれないのよ」と真梨子先輩に泣きつく乙女がこれまた数名。背後霊には我が文芸部の真梨子先輩親衛隊長を豪語する部長がなんとか出口まで押し合いへし合いをしていった。だが、乙女たちには男である私たちがどうこうする事も出来ず……もとい、背後霊で嫌気がさしていた私は、薄情にも困惑した表情を浮かべる真梨子先輩をほったらかして、そうそうに図書館を後にしたのであった。

 

 まことしやかは、実であり誠であったわけである。


 ゆえに、私は大学施設内で打ち合わせをすることを推奨したりはしない。もしも、必要に駆られて会議をもよおすのであれば、唯一の聖域は文芸部室だろうと思う。真梨子先輩親衛隊の根城でもあり、部外者が入ってこようものなら部長がお気に入りのフィギュアを振り上げてこれを撃退するだろうし、加えて真梨子先輩がいるだけで部長の機嫌が良いと言う付加も私にとっては有り難い。無論、部長が恐ろしいと言うわけではない。だが、『三次元の乙女』と望むとも交流叶わずの部長は禁断症状が出ると、活動中一人でぶつぶつと何かを呟くのである。これがなんとも薄気味悪くも気持ちが悪い。だから、真梨子先輩がいてさえくれれば禁断症状の抑制剤となるばかりか、何かと愉快な先輩のおかげで陰湿な空気に包まれていることの多い文芸部室が明るく春めいてくるのである。


「恭君、何してんの、早くおいでよ」 


 無用な回想をしている間、やはり言うことを聞かない前髪と格闘していた私であった。気になり始めるとどうしても、増して気になってきてしまう……さらには我が意中の乙女たる葉山さんがいることを考慮すれば、これまた気になってついえることがない。


「こんにちは、お邪魔します」


 私をわざわざ呼びに来てくれた真梨子先輩に、私は素直に前髪を諦めると先輩と連れだって居間へ顔を出した。これではまるで、お誕生日会に呼ばれたにも関わらず恥ずかしさのあまり、なかなか顔を出せない人見知りっ子のようでなおも赤面である。

 

「夏目君は何飲む?お茶とポンジュースとあるけど」


 腰をクローゼット側に腰を降ろした私に、意外や意外、葉山さんが気さくにコップを手にそう声をかけてくれたのである。


「じゃあ、お茶で」


 私は是非とも『葉山さん貴女の御手で注がれるものであれば、例え水であろうとも私にとっては最高級のヴィンテージとなります』と言いたかった。


 並々と注がれた烏龍茶を前に私が一人で花を飛ばしていると、


「冷凍のだけどだけど、ピザ焼けたよ」と先輩がオーブン皿ごとチーズが煮立つマルガリータをテーブルの中央に置かれたファッション誌の上に置いた。

 

 ちなみにであるが、真梨子先輩がファミリーレストランを会議場所に選ばないのは、端的に『お店に迷惑だから』と言う理由であった。私としては時折見かける、ドリンクバーのみを注文して、長々と居座る同胞や勉学に勤しむ高校生の姿は、品格にかけると言おうか、『お客だから』『注文してるじゃん』と高慢にも思えてしまう。本人たちはそんな気持ちは皆無であることは、名誉のためにも付け加えておかなければならないが……

 やはり食事や喫茶を楽しむ空間において、参考書を広げたり、資料を配付の上で打ち合わせをするのはどうにも不一致と言いたいのだ。ファミリーレストランのウエートレスとして働いていた真梨子先輩だからわかる、店側の心情と言うのも往々にしてあるのだろうと思う。私にはそこのところが未経験なので、ただ、想像をするだけしかできないのだが。

 真梨子先輩が私の前方と斜め前に座る乙女2人に対して私のことをどのように話したのか、はたまたどのような印象を植え付けたのかは知るよしもなかったが、2人共に気さくに且つなんの隔たりもなく接してくれるところを見ると、有ること無いこと、私の善の部分のみを話して聞かせてくれた様子である。


 先輩。ありがとうございます!


 ピザをつつきながら、始まったの雑談であり、何というか、本日は何の目的でここに集ったのだろうか。原点回帰を訴えたいほどにその雑談のみが随分と愉快であった。

人見知りしているのが黒一点と私であったのが、またなんとも恥ずかしいかぎりでる。

 時折、真梨子式宣伝大作戦の話題もあがるのだが、どこまでは真でどこが冗談なのかは私にはわからなかった。嘘か誠かを省けば、葉山さんは袴を小春日さんはなんちゃらスタイルのドレスを身に纏うらしい。

 真梨子先輩はどうやら、すごい着物を着るらしい。何がどのようにすごいのかは先輩だけに全く持って不明である。うさ耳バニーでなければなんでも良いと私は思った。

 火中の真梨子先輩はと言うと、『花いちもんめ』を鼻歌にて奏でながら、オーブンと睨めっこをしている真っ最中である。そんな先輩を蚊帳の外にしたまま、黒一点の宴はまさに酣(たけなわ)となってしまい、葉山さんと小春日さんはついにそれぞれの携帯電話を触りはじめてしまったのであった。

 これには何とも言い難いのだか、私は眉を顰めたかった。葉山さんは私の意中の乙女であるが、ゆえに痘痕(あばた)も靨(えくぼ)と海容の面持ちでこれを容認しても私の胸の内は一向に痛むまい。けれど、誠に申し訳ないことではあるが、意中の人である葉山さんには……葉山さんだからこそ、そのような行いはして欲しくなかった。


 それが本心である。


 複数人居合わせる場に置いて携帯電話を触る行為と言うのは見ていて気分の良いものではない。まるで「つまらない」と物言わぬ携帯で叫んでいるよう思えて仕方がないからだ。

 その点、真梨子先輩と言えば、決して宴の折は携帯を一度として触った試しなどはありはしない。携帯は持って来ていても電源は落とす。これが先輩の流儀なのである。本人が語っていたのであるからして間違いはあるまい。そして、誰かが携帯を触り出すと、その誰かを巻き込んだ絶妙な話題で、引き続き携帯を触らせないのも先輩の流儀であると私は言いたい。これは私の他薦であって真梨子先輩自身の弁ではないのが残念であるが……


「なっちゃん、お皿持って来て」


 携帯の画面を見せ合いながら、何度か頷いていた二人であったが、真梨子先輩がすっかり綺麗に片づいたオーブン皿を所望すると「夏目君、お願いしてもいい?」葉山さんが私に向かって、そう言ったのである。

 だから、私は何を言うでもなく、頷くと黒塗りのオーブン皿を持って台所へと向かったのであった。

 台所ではオーブンを開けて真梨子先輩が待っていた。芳しくもスパイシーなバジルの香りはなんとも言い難い。すでに2切れほど胃袋にしまい込んだ私であったが、再び食欲が促進されたことは言うまでもない。このピザが焼き上がれば、真梨子先輩も居間にて談笑をするであろう。それはもう下火になった宴を鞴(ふいご)で再び天高く炎を焚きあげることだろう。

 そんな風に思っていた私である。

 だから、「真梨子先輩。私と葉山さんこれで失礼します。大学に行かなくちゃならなくなりました」と小春日さんと葉山さんが、連れだって玄関へ足早に去って行ってしまった時には、驚きを通り越して、さすがに憤慨の色さえも宿してしまった。

 私が激昂しても仕方がない。激昂するべきは真梨子先輩であって私が怒ったところで、どうしようもない。だが、真梨子先輩は「それじゃあ、このピザ、差し入れに持っていきなよ」とドアを開けた二人にそう声を掛けたのであった。


 この人はどうしようもないお人好しなのか、そうでなければ観音菩薩の生まれ変わりなのかもしれない。



 ◇



 そして、その後が本当に困った。


「それでは私も」と部屋を出ても良かったのだが、それでは折角ピザを焼いてくれた

真梨子先輩の行為を寄って集って踏みにじるばかりか、それはそれは真梨子先輩に不快な思いをさせてしまうことになる。

 もちろん、私が真梨子先輩の立場であったならば、そんな無礼な輩とは一生口など聞いてやらないし、着信も拒否してやる。我ながら度量の狭い男である。

 そんな自虐は置いといて、先輩と二人きりとなってしまった、こんの現状からすれ、私は本当に逃げ出したい面持ちであった。これは私にとっての緊急事態であると言える。


「恭君、冷めるよ」 


 真梨子先輩そう言いながらピザを一切れ取ってくれた。


 私は冷静になってみることにした。


 そもそも、どうして私がこのようにどきまぎとしなければならないのだろうか。今までにも、先輩と二人きりとなったことは幾度とあった。その時はいつだって何を思うこともなく、淡々と会話をしては別れていた。

 されど、今回は何かが違う。私は「市販品でも結構美味しいんだ」と口をもごもごさせながらピザを食べる先輩をそれとなく、ちらちらと見ながら考えた。考えて考えて考えて居るうちに、こんな可憐な人が彼女であったならば……とあらぬ事を考えついて、慌てて考えるのをやめた。


何をしているのやら……


 これまで婦女と関わって来なかった私であるからこそ、部長のような不埒な妄想を抱いてしまうのだろう。これは男に生まれてしまった性でもあるのだが……誠に厄介である。

 答えは至極簡単にして明快。

 本日、真梨子先輩はいつもの派手な服装ではなく、落ち着いた淑女の出で立ちであった。ただそれだけ。危うく、清楚たる出で立ちに欲情しかけた私であったが、起因となるべき自身の感情の深淵をまさぐると、真梨子先輩と言う乙女を前にして、やはり平静を取り戻すことができた私であった。


「何よ、変な恭君」


 事の心理に到達した私が凝視していた先には真梨子先輩の大きな瞳が二つあり、目線を逸らしながら、真梨子先輩が私にそのように問い掛けたので、私は若干その様に鼓動を早くしてしまった。


「今日は本当に打ち合わせだったんですか?」


 結局、雑談をして流れ解散となってしまった現状では、私の疑念とて正当なものと言えよう。


「本当のところは、なっちゃんと小春日ちゃんと3人で大方決めちゃってるのよ。だ

から、二人からすれば、夏目君とお話したかっただけなのかもね」 


 真面目な顔をして嘘をつく真梨子先輩は私は好きだ。決して解りづらくなく、それでいてすぐに冗談とわかる嘘であるからして、勘違いなどと言う副産物も生まれない。無理矢理勘違いするのは精々部長くらいだろう。


「衣装はね。音無さんが用意してくれて、そうだ、恭君は燕尾服だからね。当日は付

け髭して、シルクハットでステッキも持つの!」 


「本当ですか……なんでまた」


 どうして、そんな似非ルパンのような格好なのだろうか……私の想像では、一昔前の大学生……大學と表されていた頃の袴にマント。このスタイルが関の山だろう。そう思っていたから、まさかオーケストラの指揮者よろしく一生着ることはあるまいと思っていた燕尾服を着ると聞かされた時には正直に驚いた。

 加えて付けひげにシルクハット、そしてステッキ……先輩は私をどうしたいのだろうか……

 しかし、私が燕尾服を断ろうかと算段していると「部長と古平君には悪いんだけど、黒衣(くろこ)してもらわないといけないのよね」と真梨子先輩が呟いたので、


「黒衣って、歌舞伎やなんかで出てくるあの黒衣ですか?」尽かさず聞き返した。


 そうよ。と真梨子先輩は言い。


「引き受けてくれれば良いんだけど」そう言いつつ先輩は、口元に笑みを絶やさない。


 言ってる事と、口元が一致してませんよ……


 真梨子先輩の計画では駅前を練り歩きながら、まずはチラシを大々的にばらまくところからはじまり、人の眼を惹き付けておいてから、その後でチラシを個々に配るのだそうだ。

 黒衣は地面に散らばったチラシを回収する役回りらしい。「もちろん、衣装は完璧よ。顔を覆う直垂みたいなのもあるんだから」と胸を張って言う真梨子先輩であったが、果たしてそこが断らないポイントになりうるのだろうか……


「別に俺が代わっても良いですよ」


 完全に裏方で地味な役回りであるが、私はそんな縁の下の力持ちにやりがいを感じることのできる性分であったのだ。


「駄目よ。恭君用に衣装も頼んであるんだから」


 アヒルのように唇を尖らせて言った先輩は、手に持っていたピザのミミを乱暴に口の中に放り込んではむはむとこれをやっつけていた。

 それから、しばらくの沈黙が続いた。動作を切っ掛けにしたくてもピザはもうなく、台所へオーブン皿を持って行こうにも、きっとそれを真梨子先輩が許してくれないだろう。かと言って、真梨子先輩も立ち上がる気配はなく、自分の部屋であると言うのに、天上に床にと視線を弄んでは、何かの切っ掛けを探っている様子であった。

 私がこの先、もしも彼女と言う存在ができたと仮定して、そのお宅へはじめて訪問した際などは、このような雰囲気になるのだろう。今、目の前にいるのは真梨子先輩であるが、未来では葉山さんであって欲しい……そう思うのは必然的な帰結であろうと思ったのだが、あいにく、不自然にもそのように思わなかった。

 動物と言うやつは、往々にして居心地の良い場所を求めたがる。猫は自分が一番安心できる場所で最後を向かえるし、象とて同じであると言いたい。かくいう私も一見して『動物』と言う部類から一歩上を行く存在と過信しがちな人間である。人間も歴とした動物であるのだから、私が居心地の良い場所を求めるのもこれまた自然の摂理と言える。現段階では情けないことに、その場所が我が根城でも無ければ、まだ見ぬ葉山さんの部屋でもない。もちろん文芸部室でもなければ図書館でもない。この場所、つまりは真梨子先輩の部屋だったのである。

 無論、いやらしい意味は皆無であると声を大にしたい。この部屋自体が落ち着くのか、この匂いが落ち着くのか……もしかしたら、真梨子先輩がいるから落ち着くのか……


 今一度言っておく、下心は一切ない。絶対にない。きっとない……ないと思う……


 そんな風に考えると、再び私は真梨子先輩を真正面から見られなくなってしまい、

私も先輩に習って部屋の中を見回しているのであった。

 その内、沈黙に耐えられなくなったのか、真梨子先輩が徐にテレビのスイッチを入れた。丁度、画面には乳児用の紙おむつのコマーシャルが始まったところであった。

紛う事なき無垢な乳児が母親と戯れる姿や、なんと微笑ましいのだろうか。そう言えば親戚の姉さんが一歳になる子供を連れて来たことがあった。まだ言葉も話せなければ、歩くことさえもできない。そんな瞳が私の茄子のような顔を不思議そうな表情で見つめていた。

 私は何と可愛らしいのだろうと、姉さんが帰るまでずっと膝の上に乗せてはそのお餅のような肌触りに恍惚としていたものである。

 けれど、「育てると大変なんだから」と言った姉さんの言葉も忘れはしない。一片だけを可愛いとしていても、それの世話やらとなると話しは別なのであろう。

 姉さんにもその子供にも誠に失礼な話しで恐縮なのであるが、これは道行く犬を可愛い可愛いと言って頭を撫でることと大凡相異ないと思う。見ている分には可愛らしくて愛らしくとも、実際に飼ってみるとなると、ただ可愛いだけでは済まされない。

 命と言う観点からすれば、重みも存在もなんら代わらない両者であろうとも、やはり犬と人の子を一緒くたにするのは申し訳がない。明確に差別しておくべきだろうか。


「そう言えば恭君の小説進んでるの?」 


 思い出したように真梨子先輩が言った。


「まあまあです。期日までには間に合うと思います」  


 そっかあ。と言う真梨子先輩……そんな先輩を尻目に、嘘をついた私は背筋に冷たいものを感じていた。

 本当のことを言えば、まだ半分にも至っていないのだ。


「よーし!決めた!!」


 テレビを消したかと思うと先輩をそう言って座ったまま伸びをして見せた。一層強調される胸元に、私はささやかながら下心を咲かせたものの「何をですか」と当然の言葉を被せて、これを沈静化したのであった。


「美術部の展示スペースが余ってるのよ。だから、私となっちゃんで千年パンツの実物を作るの。良いでしょ?」


 何を言い出すのかと思えば……


「別に良いですけど、パンツですよ」


「わかってるよ。それくらい」


 パンツが下着を指し示すことは言うまでもない。だが、私の言うパンツとは男ものなのである。例え新品であろうともそんな物を真梨子先輩や葉山さんに触らせるのは私の良心が痛む。それはもう痛いことこの上ない!


「裸だって芸術だ!って言い張れば合法なんだし、パンツくらいどってことないわよ」


 言わんとすることは理解できます。でも先輩……その理屈、無茶苦茶です。


「よしっ。善は急げ!今からなっちゃんに連絡して製作に取り掛かりましょう」


 ついに立ち上がってしまった真梨子先輩であった。


著者でありながら、どうなっても私は一切の責任を負うつもりはない。それだけを伝えておきたかった………


 

 ○



 愛のキューピット。真梨子先輩が密かにそのように呼ばれている理由を小春日さんから教えてもらった私は、小春日さんさんと結託をして、一計を案じたのでした。

 それはそれは単純なもので、ようするに夏目君と真梨子先輩を二人きりにすると言うベターでありながら、即効性のある策略だったのです。

 ちんどん屋の話しをしてしまっては台所で作業をする真梨子先輩がこちらに来てしまうので、わざと雑談でごまかし、雑談が過ぎれば逆に『打ち合わせ』と聞いてやって来た夏目君に疑われてしまいます。だから、時折ちんどん屋の話題も織り交ぜながら、私と小春日さんで必死に雑談をしていたのでした。

 私は元々饒舌な方ではありません。だから、とても疲れました。

 そろそろ二枚目にピザが焼き上がる頃でしょう。そう思って、私は携帯の画面に『そろそろ出ようか?』と打って、小春日さんに見せました。すると、『夏目君に先輩の手伝いを頼んでからにしよう』と小春日さんも画面を見せて返事をくれたので、『賛成』と打ったのです。すると、美味い具合に「なっちゃん、お皿持って来て」と真梨子先輩の声がしましたから、尽かさず「夏目君、お願いしてもいい?」と私は言いました。

 そして、夏目君が台所へ行ったのを見計らって、小春日さんと二人して、真梨子先輩の部屋からおいとましたのでした。

 折角、私達の為にピザを温めてくれていたにも関わらず、勝手に二人して部屋を出てしまうことには胸が痛みました。けれど、これは真梨子先輩の為なのです。

 ドアを開けたところで、「それじゃあ、このピザ差し入れに持っていきなよ」と後ろ髪に先輩らしい優しさに胸は張り裂けんばかりになりましたけれど……ここは心を鬼にしなければならないのです。全ては真梨子先輩の為なのですから。


「こんなに人の好意を無碍にしたのは、はじめて」 


 大学へ向かう道すがら、小春日さんは大きな溜息をついてそう言いました。

 やはり、真梨子先輩の為とは言えど、小春日さんも心苦しい心中は同じです。


「今度は真梨子先輩が幸せになる番なんですから」


 俯く小春日さんに私は言います。


「うん。そうなんだよね」


 小春日さんは俯くのをやめて力強く頷きました。

 そうして、二人して差し迫った甘美際の話しやちんどん屋の話しなどをして大学の校門を跨いだ私たちは、「それじゃあ」「また後で」とそれぞれの場所へと向かったのでした。

 私は小春日さんのように、決まった作業がありませんでしたから、美術室に入るなり、何をしよう。そんな風に考えながら、とりあえず美術室内を見回してみました。

すると、作りかけの馬車の張りぼてがありましたので、色塗り等々は先輩方に任せるとして、木枠を釘打ちしまようと腕まくりをしたのです。

 美術部なのに何をしているのだろう。そんなことを考えそうになる時もあります。でも、それを考えてみたところで何もなりません。何度も言いますが、私は絵も描けなければ、立体も作ることが出来ないのです。そんな私なのです。でも、幸いなことに文化祭の外注では私でも戦力なれる作業があるのですから、それに虚無感を抱いていてどうしますか。自分のできることを精一杯やり通す。ただそれだけです。

 先輩には「展示スペースが余ってるから葉山さんも何か作ってみない?」と声を掛けてもらいました。「文化祭用に買った銀粘土もあるし、溶剤とか使い方教えるから」

親切にそんな言葉も頂戴しました。けれど、やはり私には何も作れないのです。食わず嫌いのように、何もしないでそんな駄々っ子のような事を言っているのではありません。

 私だって……私だって、小学生の頃、図画工作で描いた『闇夜の電信柱』では先生に褒められたことだってあったのですから。

 なので、こっそり誰もいない美術室で『闇夜の電信柱』を再び描いてみたのです。

描いてみました。

 でも、なかったことにしている限りは………私の口から皆まで言わさず、どうか察して欲しいと思います……

 私は思い出して溜息をつきました。まさかあんなにも自分自身に絵心がなかったなんて……先輩から言わせれば、「うまく描こうとすると駄目よ」と言うやつだろうと思います。


 でも、でも……うまく描きたいじゃないですか………


「いたっ」


 溜息をついてから次の一打は釘の頭を逸れて、ものの見事に私の親指に命中してしまいました。釘まで満足に打てないなんて……私はなんだか、勝手に自信喪失です。

 自信と共に床に置いた金槌。虚しい心境に陥ったそんな時でした。


 「やっほー」と真梨子先輩がひょっこり美術室に顔を出したのは……

 


 ◇ 



 本日は困ってばかりだ。いいや、真梨子先輩の聖域にいた頃の方がずっと清らかであったとここに高言したい。

 右横には相変わらず、ぶつぶつと呪文を唱えつつフィギュアのスカートを弄ぶ部長が居て、その他はどこを見回してもそんな部長のオーラに耐えうる強者たちが己が作品の推敲作業に精魂を込めている。

 本来であるならば、私は今頃図書館で一人細々と、なんのストレスもなく気の赴くままに、執筆をしたり備え付けのパソコンにてネットサーフィンをしたり……また蔵書を閲覧したり。目的を逸脱しつつも充実した図書館ライフをおくっているはずであった。

 しかし、『千年パンツ』の『千年パンツ』を作ると言い出した真梨子先輩は、高らかに立ち上がるとその足で私の腕を持って、強引に部屋の外へと連れ出すとそのまま大学へ舵をきったのである。

 私としては、嫌な予感が巡り巡っており今すぐにでも羅針盤を狂わせてしまいたい面持ちであった。けれど、そもそも羅針盤など搭載していないかぎりは狂わせようなく、真梨子先輩の後塵を拝して私はついに大学の門を跨いでしまった。


「ねえ、千年パンツのイメージ欲しいから、小説読ませてよ」 


 甘いような柑橘のような、とにかく良い匂いと共に髪の毛を振った真梨子先輩は唐突にそう言う。

 どこか予感していただけに私はたじろぎこそしなかったものの……答えはすでに決まっていた。


「無理ですよ。まだ完成してませんから」である。


「良いじゃん。半分でも十分だよ」


 食い下がるだろうとは思った。


「駄目です。それにまだ推敲だって全然してませんから。小説を見せるのは自分の尻

の穴を見せるのと同等に恥ずかしいことなんです。だから、どうせ見せるならきちんと洗ってから見せたいんです」


 尻の穴云々は否定するつもりはない。小説と言うものには、やはり私と言う人物の紛うことなく心髄が往々にして滲み出てしまう。それに、誤字脱字も恥ずかしい。少々下品な表現にしたのは後悔しなければならない。だが、そうでもしなければ真梨子先輩は諦めてはくれないだろうと思ったのだ。

 とにかく、半分も書けていない現状ではどうあっても、どんな御託を並べてもこれを阻止しなければならなかった。


「何それ、部長の受け売りでしょ」


 案の定、真梨子先輩は眉を寄せ、整った顔を少々歪ませてまるで汚いモノでも見るような眼差しでそう呟いた。


「もちろんです」


 即答する私。


 この時ばかりは、残渣程度に部長に申し訳ないと思った。

 それはさておき、そんなわけで、ネットサーフィンも蔵書を読み耽ることもできない、ある種の異空間、閉鎖空間、クローズドサークル的文芸部室内にて脇目を振れない状況に自らを追い込み、執筆にのみ集中させることにしたのであった。

 苦肉の策ではあったが、このまま図書館で執筆を続けていても、入稿期日にようやく半分出来上がると言う始末だろう。

 だから、どうしても通らねばならぬ道であるらしい……


「ねえ夏目君」


 魔女っ子マリーちゃんの着せ替えを終えた部長が珍しく私に声を掛けた。声を掛けることは別段珍しいことではなかったのだが、今回はその声色が珍しく穏やか……と言うよりも猫撫で声に似ていた気がする。


「ソーイング同好会に知り合いとかいない?」


「居ませんよ。どうしてですか」


 葉山さん繋がりで首皮一枚ほどソーイング同好会に所属する小春日さんと知り合いなのだが、揚々と知り合いです!と言おうものなら色々とややこしい事になりかねないので嘘をついた。


「マリーちゃんの衣装を自分で作ってみようと思ってね」


 市販品は可愛くないんだ。と続ける部長。


「そうなんですか……」


 私からすればそんなことは知ったことではない。と言うか、昨今ではフィギュアにも着せ替え用の衣装が売っているのか。

 上座に戻った部長を横目に私はさっさと執筆活動に戻った。私には一生、その浪漫は理解できないだろう。

 


 ○



「ええっ、パンツですか!」 


 私は真梨子先輩の提案を聞いた時、思わずそんな大きな声を出してしまいました。周りの先輩たちの視線を一身に受けながら、せめて『千年』とつければ良かったと畑違いに間違った、後悔をしたのでした。


「面白いと思うのよね。どうせ展示スペースも余ってるんだしさ。物にならなかったら、去年の作品で誤魔化せばいいでしょ?」


 仰ることはごもっともです。けれど………… 


「その、その……千年ぱ……ぱんつってどんな物なんですか」


 千年と言えばどこか、伝説的な香りさえ漂ってきます。それに、千年も耐えうるパンツがあるのでしょうか。


「それがさ。恭君にイメージ欲しいから小説読ませてって言ってるんだけど、見せてくれないのよね。だから、とりあえず『ぼろぼろで汚いパンツ』をコンセプトに作り始めましょう」


 真面目に受け取った私がばかでした。千年も存在するパンツがあるはずがありません。当然フィクションの中でのお話なのです。


「市販品ですか?」 


 フィクションなら、なんとかなりそうです。遊び心さえ忘れなければなんとかなりそうですから。

 次ぎに気になったのは、普通に売られているパンツなのかどうかです。特別なモノでしたら、自分達で作らなければなりません。

 うーん。先輩は細く長い指を顎に当てて、そう言いました。きっと、そこまでは考えていなかったのだろうと、私は推察します。


「小春日ちゃんに教えてもらって、作ってみようか」


 悪戯な笑顔を浮かべてそう言った先輩です。やっぱり、そこまで考えていなかったのですね。

 思いつきでいきなり、小春日さんの元へ押しかけるのも迷惑なので、本日は大人しく張りぼてに釘を打つ作業をして、次の日にソーイング同好会の部屋へ押しかけることにしました。



 ◇



 私には毎朝の日課があった。それは、散歩と称して愛し合う二人をこっそり、リサイクルショップの幟の影に覗くことであった。

 毎朝そこに居る2人は去年の秋頃から恋人であり、弱腰の男の方に女性からアプローチを繰り返すと言うなんとも羨ましくも大胆な展開を毎朝見せていた。それに気が付いたのはほんの数日前のこと、リサイクルショップの前を通りかかった時、熱烈なキスを交わす二人の姿を見た時であった。季節を跨いでついに傾けられる愛情が成就したのだと私はつい嬉しくなってしまった。

 もちろん、心の片隅では「羨ましいぞ!このやろう」と叫びたい衝動をひた隠しにしていることは言うまでもない。ただ、叫んでみたところ、周囲からは白い眼で突き刺され、当の本人たちは大空高く飛翔してしまうだけだろうが……

 詰まるところ、私一人変に思われるだけの結末しか待っていないわけで、そこまで熟慮してまで、無謀に叫ぶだけの度胸も愚かさも、私は持ち合わせてない。

 とは言え、日課を果たすべくリサイクルショップへ向かう私の心中は黎明よりも明るかった。それはもう神々しいばかりに輝いていただろうと思う!すれ違う方々には眩しすぎて申し訳ないと思うばかりです。

 そんな妄言を吐き散らかしてなお、自分自身が浮かれていることに気が付けないでいるのは、今日の午前中、我が意中の乙女と二人きりにて打ち合わせををすることになったからであった。

 喫茶であったならば……と欲を出せば限りがない。


 明日と言う日を見事橋頭堡としてみせん!


 私が寂しく一人、部屋の中で拳を突き上げたのは、真梨子先輩から「明日行けなくなったから、なっちゃんと二人でお願い」と言うメールが私の携帯を振るわせたからである。

 『千年パンツ』の千年パンツを甘美際の展示品にするために製作する。そんな真梨子先輩の申し出に困惑しつつも申し訳ないと思っていた私であったが、その後、千年パンツのイメージやら仕様を打ち合わせる席に著者として私が招かれる運びとなったことに関しては棚からぼた餅の趣があったと言いたい。まさか、先輩が葉山さんを巻き込むとは予想していなかった。

 可憐たる葉山さんが居るのであるからして、私にとっては、目眩くときめきの時間であると共に、至福の時間であるのだ。そして、2度目本日は、真梨子先輩が欠席し、葉山さんと二人きりでの開催とあいなった。この機会を橋頭堡とせずして、いつを橋頭堡とするのだ!!

 単純な私はそんな性分のお陰で、興奮に次ぐ興奮の後すっかり寝不足となってしまった。

 そのくせ、いつもより、1時間ほど早く目覚めるのであるからして、不可思議にもまして寝不足である。

 だから、きっと至らず脳を引きずる私は、妙に覚醒した眼にてそんな二人を見て、「朝から何をチチクリあっているのだ!羨ましいぞ!」と石を投げてしまいそうで自分が怖い。真剣にそんな阿呆なことを考えていたわけであるが……

 いつも通りリサイクルショップに到着すると、私のお気に入りポジションである幟の影に先客がいた。加えるならばそれは、艶めく黒髪を宿し、ブラウスにスカートと飾らない地味な出で立ちながらも、背中に回されたオレンジ色のポーチがなんとも可愛らしい。そんな女性であったのである。

 私はその後ろ姿を確認してから、脳髄を誠に覚醒させると、恐る恐る携帯電話を開いた。

 暗黒のディスプレーには間髪入れず、我が愛し恋しの葉山さんがポップコーンを食べようとしているお茶目な姿が表示されている。

 横顔であるがため、断定には至らなかったが……私の直感は告げていたのである『あれは葉山さんではあるまいか』と……

 訝しげんでいた私はそう思ってしまった次の瞬間には、一挙手一投足挙動不審男となって、二人に熱い視線を送る乙女の後ろで横顔を覗いてみようとしたり、はたまた頭を掻いたりと今すぐに逃げ出さなければ、悪しき漢として国家権力に身柄を確保されてしまいそうなほど私は怪しい様であったと自信があった。


「葉山……さん?」


 このままでは、私の身が危ない。そんな自分勝手な妄想はさておいて、本当のところは私も二人の熱愛ぶりを見たかったのだ。


「あれ、夏目君」


 二人を脅かさないように私がそっと声を掛けると、葉山さんは驚いた……と言うよりは、恥ずかしそうに私の顔をみると、誤魔化すように幟の端っこを指で弄びながらそう言った。


「葉山さんも、あの二人を見に来たんですか」


 私は穏やかに日向ぼっこをしながら羽繕いをする二人を見ながら、そう言った。


「何せちゅうをしていたので、つい」


 葉山さんも視線を二人に戻すと、口元を綻ばせて嬉し恥ずかしと言ったのであった。



 ○



 本日の『千年パンツ』の打ち合わせは私と夏目君の二人きりとなってしまいそうです。

 いいえ。真梨子先輩からメールで『ごめんね。明日お稽古になっちゃった』と連絡がありましたので、それはすでに決定事項なのでした。発起人である先輩が欠席だなんて!と責めたい気持も無きにしもあらずでしたが、理由が理由だけに致し方ありません。

 真梨子先輩は来たる甘美祭宣伝大作戦に備えて、鳴海さんのところへ日本舞踊を習いに行っているのです。ちんどん屋と日本舞踊と何が関係あるのでしょうか?と首を捻っていた私でしたけれど、「着物着るんだから、より女性らしく優雅に歩きたいじゃない」と言う先輩の一言に、妙に頷けてしまったのでした。

 着物を着て優雅に歩く。そのために日本舞踊を習いに行くのはいささか大袈裟のようにも思いますけれど……これも一重に真梨子先輩がどれだけの想いを持って甘美祭に向け望んでいるか言う気概のお話しなのだろうと思います。

 そうですとも!!私も一生懸命な真梨子先輩を見習わなければなりません。

 それに……それに……私だってもう大学生なのですから、打ち合わせくらい先輩がいなくても出来ます。ただ……憂鬱と言うなれば、夏目君と……男の人と二人きりと言うことなのだろうと……思うのです。もう笑っても構いませんよ。どうせ私はまだ男の人と付き合ったこともなければ、手も繋いだこともない寂しい女なのです。でも良いのです。私自身が寂しいとも恋しいとも微塵も思っていないのだから! 

 夏目君とは駅前で待ち合わせをして、私は家を待ち合わせよりも早く出て、リサイクルショップに行きます。

 ここには毎朝、リサイクルショップが開店するまでの間クルッポのカップルが、いちゃいちゃと仲良く一時を過ごしているのです。はじめてそんな姿を見かけた時は、思わず立ち止まってしまいました。けれど、私が佇んで見つめると、クルッポはまるで恥ずかしがるかのように互いに距離を置いてしまうのです。なので、私は次からリサイクルショップの幟に姿を隠してその様子を見つめることにしました。

 端から見れば怪しいことこの上ないでしょうけれど、こんな微笑ましい情景を見逃すわけにも行かず……本当のところを言うと、興味本意にチュウをするクルッポが気になっていたのです。人間のチュウが愛情表現の一種ですけれど、クルッポのチュウにはどのような意味があるのでしょうか?

 そんな、ふとした疑問から、私は毎朝幟に身を隠してクルッポを観察しているのです。


「葉山……さん」


 そんな折、私は急に後ろから声を掛けられて、驚いてしまいました。

 幟に姿を隠して明らかに怪しい姿の私です。だから、よもや大学の知り合いに見られてしまったのでは……そう思ったので、幟の端っこをもじもじと指で弄びながら振り返って見ました。明瞭に恥ずかしかったのです。だって、なんと言い訳をしてよい

のやら、私は思いつかなかったのですから……


「あれ、夏目君」


 そんなことを考えていた私ですから、声の主が夏目君であるとわかった時はどこか安堵と言いますか、とにかくほっとしました。


「葉山さんも、あの二人を見に来たんですか」夏目君は声を潜めてそう言います。きっとクルッポを脅かさないように配慮したのだろうと思います。

 それにしても『葉山さんも』と言うからには、もしかして夏目君も……クルッポを見に来たのでしょうか?

 まさか……クルッポを見るために、わざわざ足を運ぶ変わり者は私だけだと思います……本当にそう思ってみたのですけれど、夏目君は確かにまたチュウをしているクルッポを見つめて微笑んでいたのです。

「何せ、ちゅうをしていたので、つい」


 半信半疑でしたが、私はそっとそう言うと再びクルッポに視線を戻したのでした。




 

 長く遠く思えば想うほどに待ち遠しくも苦々しい日々であろうとも、その時はやがて必ずやってくる。『真梨子式宣伝』決行に際して私を除く各々が水面下にてこそこそと準備を滞りなく進め、来るその日に備えた。


 かくしてその時はやってきたのである。


 甘美祭一週間前である晩秋の日曜日の昼下がり、史上最大の作戦を決行するため、私たちは砂山氏が確実に居ないであろうソーイング同好会室に集合した。慣例となりつつある代議員と部長会との合同ビラ配りの準備等々は部長会と学生執行部が行い、似非風紀員たる砂山氏はビラ配りが行われる近鉄奈良駅前に直接向かっては別段ビラ配りを手伝うわけでもなく、一般人に紛れてこれを監視する。もっと言えば、昇降階段の入り口付近の手すりに巨体を持たせて監視するのである。

 代議員議長兼似非風紀委員長たる砂山氏が毎年のように、気怠くも義務的にビラを配る代議員+各クラブ部長の面々を仏頂面で監視監督していた頃。私達は、ソーイング同好会室にて秘密裏に虎視眈々と機会を窺い準備を周到に、まるでレジスタンスのように事を進め、やがてはその堂々たる出で立ちでもって、その眼前に錦を飾ったのであった。


「「「県大でござーい!県大でござーい」」」


 ある者はチークなドレスに、またある者は袴姿に、そして真梨子先輩は花魁の装いで。『奈良県立大学』と赤地に白で抜いた幟を持って、ビラを配りながら、我ら反砂山レジスタンスはそれは艶やかで賑やかな『ちんどん屋』をやってのけたのである。

 燕尾服に袖を通し、幟を持って古平と先頭を歩く役を拝命した私は、それはそれは恥ずかしかった。羞恥心が先立ったことは言うまでもないが、風変わりと言う点では、真梨子先輩や葉山さんに小春日さんと言った女性陣の方が抜き身出ていたし、特に真梨子先輩は目立ってなんぼの世界の住人であった。ゆえに私は、自分の身なりをショーウィンドーで見かけた時、少しばかし安心したし、彼女達を見ていればなんとか開き直ることができた。そんなことはさておいて、近鉄奈良駅前の広場に突如として現れたちんどん屋の一行は瞬く間にその場にいた全ての視線を釘付けにし、路上ライブをしていた無名のシンガーの演奏を諦めさせてしまった。私としては、ここまで注目されるとは思ってもみなかったわけだが、駅舎へ向かう昇降口付近で偉そうに腕を組んでいた砂山氏が眼鏡の奥にある、か細い目玉をひんむいて凝視している姿をこの眼に納めることができたことをまずは最上の喜びであると言いたい。

 さて、砂山氏はどう動くであろうか。事前にレジスタンスのことを知っていたクラブ部長会の面々は早々にレジスタンスの一行に加わって、ビラ配りをはじめており、その溶け込みようと言ったら、バターがホットケーキに染みこんで行くゆくようであった。定番と言おうか、女子諸君は一時、ビラ配りと言う本分を忘れキャイキャイとそれぞれの衣装に黄色い声を咲かせていたが、やがては水を得た魚のようにビラを配りはじめ、瞬く間に用意した400枚程度のビラを配り終えてしまった。

 次に昇降口を見たとき、すでにそこには砂山氏の姿はなく、いつもは必ず苦言を残す彼らしくなかったが、砂山氏を除く老若男女と問わぬ大衆は青春をここに燃やす若者の熱き魂をいたく気にいったらしく、これに砂山氏は敗北をきしたに違いない。


 かくして、ここに我らレジスタンスは輝かしき栄光を手に入れたのであった。




 物事とは起因の因果を別として一度動きだせば、思わぬ幸いにぶちあたるものなのである。あまりに、近くに居ることを日々としていた私は、文芸誌に掲載する千年パンツを執筆のため、我が根城たる流々荘に籠もりきりとなって3日。ようやっと、葉山さんに恋をしていたことを思い出した。

 夏休みに行われた『文芸誌がんばろー会』の場にて知り合ってより、ここここ5ヶ月間という期間、言葉は交わさずとも何かしら彼女と場を同じくしており、彼女の記憶が薄れる暇がなかった、だから私はいつでもどこか満ち足りた面持ちでいた。

 そう言えば聞こえは良いが、真梨子先輩が居て葉山さんが居た。が正しいく、今までをもやもやとした夢であると言うのであれば、現在はすっかり夢から覚めてしまった面持ちの私はどうにもやりきれない心中で、気が付けば「むぅ」とため息のような唸り声のような、よくわからない声を出していたりした。

 そんな心中にて、千年パンツなどと言うそもそも、私自身ですら得たいを知らない物の筆が進む訳もなく、私は仕方がなく葉山さんに会うために、大学へ向かい、校門を通ってすぐに、真梨子先輩を探したのであった。


「おー恭君、えっと3日ぶりっ」


 見つけたのは真梨子先輩が先であった。


「いよいよって感じですね」


 私は講義そっちのけで文化祭へ向けて滾る青春のエネルギーを単純に燃やす同士の姿を見ては、駆け寄ってくる真梨子先輩にそう言った。


「夏目君、こんにちは」


 もちろん、その後ろには葉山さんがいて、私は「奇遇ですね」と引きつった笑顔を浮かべてみた。人は3日笑わなければ笑顔も引きつるのである。

 

「恭君お昼食べた?」


「まだですけど」


「丁度よかった、今ね、なっちゃんとお昼どうしよっか。って話してたところなの」


 声を弾ませつつ、何やらにやにやしていた先輩は、行きつけと称する洋食店へ私と葉山さんを先導すると、注文の段となって「あちゃー私バイトへ行かなきゃだったんだ」とわざとらしく棒読みすると、困った顔の葉山さんを残して「また明日ね」と店を出て行ってしまった。

 私は無論、先輩に感謝をしていたが、こうも露骨であると無用な気を回してしまう。葉山さんも、私と同じ心中であるらしく、窓の外、通りすがりに手を振る真梨子先輩の姿をさらに困った眼で見送っていた。せめてもの助けは、葉山さんが私の気持ちに気が付いていないと言う事実ただそれだけ……

 結論から言えば、その時も、その後も何もありはしなかった。食事の時は葉山さんがクルッポと呼ぶ鳩のカップルの話や、ここ3日間の真梨子先輩の武勇伝を拝聴したり、それはそれは穏やかな時間であった。けれど、私はどこか興奮していたのだろうと思う。意中の女性を前にして二人きりと言うこの貴重な状況に、私はきっと一掬の緊張と一反の興奮をしていたのだろう。

 私の注文をしたデミグラオムライスはまるで味がしなかったし、面白可笑しい話しも気の利いた話しも、何一つとしてすることはできなかった。

 失意に思うことはない。けれど、私は洋食店の前で別れた彼女の背中を見ながら、もうこのような機会はないのかもしれない。これが最後なのかもしれない。そんな風に思うと、一層、この1時間にも満たない時間が貴重に思えて仕方がなく、どうして、葉山さんとの距離を縮めなかったのか!と切ない気持ちに吹かれてしまってしょうがなかった……別れ際に大きなため息をついた彼女に対してどうやって距離を縮めれば良いと言うのだ……


 終わりが悪ければ全て悪い。


 切な風に吹きさらされた私は、流々荘へ帰って愛すべき四畳半の寝転がると天上の染みのようなモノを見上げては「はぁ」と深く重たいため息をついたのであった。


 

◇ 



 文化祭を目前に、千年パンツを巡る主人公と愉快な仲間達がおりなす南走北飛の活劇は未だクライマックスにも居たらず、ヒロインときたら引き籠もりを決め込んだまま、台詞とて一つもなく。ゆえに限りなく男のみが喋り行動をし、のたうち回ると言う、青春活劇にあるまじき男臭の濃い作品へとひた走っていた。それもこれも、私の実生活から乙女臭が消えてしまったことが大きな原因だと私は声を大にして言いたい。作品の序盤を書き始めた頃、私の毎日は乙女臭に色めき立っていた。真梨子先輩の甘い香水の香りに、葉山さんのシャンプーの匂い。私の嗅覚は毎日香りのフルコースを頂いていたわけだ。だから、その影響を色濃く受けた作品の序盤では、まさに真梨子先輩のような葉山さんのような女性が複数登場しては、キーボードをポチポチと打つ私の手も踊りに踊り、原稿とて水の流れるがごとく進んでいた。しかし、文化祭が近づくにつれ……いや、ちんどん屋が成功に終わった頃から、それぞれの役割が忙しくなり、私は一介の文芸部員にその地位を納めたし、真梨子先輩は相変わらず、文芸部と美術部とのパイプ役をこなしつつ、文化祭で入れない分、今の内にと増してバイトに勤しんでいるらしかった。

 夕方、陣中見舞いと称して冷やかしにきた古平がそう教えてくれたのだから、きっと間違いはあるまい。


 その時、私は「葉山さんはどうしている」と聞いてみたのだが。


「葉山? あ、いつも先輩の金魚の糞してるあの子のことか?そんなもの知るわけがない」古平は、へちゃむくれのようなユニークな表情をして、我が愛しき女性に対して金魚の糞などと言う無礼千万な物言いをぶちまけた。私はもれなく憤怒するとその辺に転がっていたペットボトルを投げつけ、「何をするんだいきなり」と言う古平にゴミ箱を投げつけた。

 すると、

「あひぃ」と古平は妖怪のような声を出し、下駄箱の辺りに、ソースの良い香りのする何かを置いて部屋から退散した。

 その影を確認してから、ようやく私は自分が今、一番に大切にしなければならない相棒ことノートパソコンを振り上げていることに気が付き、しばらくその体勢のまま、次にまずどうするべきかを慎重に熟慮を重ねたあげく、ようやっとノートパソコンを机の上に戻したのであった。


 まずは冷静になる必要がある。


 私はそっと立ち上がると、パソコンの電源を切って、窓を静かに開けてみた。途端に舞い込む夜風はやけに冷たく、どんよりと温い部屋の温度に慣れていた私は思わず身震いをしてしまった。しかしながら、冷たい風と言うのはどことなく清潔で清らかな感じがして、私の私による男臭にのみ汚染された四畳半が浄化されて行くようで、肌寒くはあったが、清々しい気分にだけはなれた。

 とりあえず、私は空腹であることを思い出して、そう近くでもないコンビニへ腹を満たしに出掛けることにした。思えば随分と陽が暮れるのが早くなったものである。夕暮れと夜との境が随分と夜側に味方するようになって来たように思う。私は時計と

言うものあまり利用しないから、時刻はかなりあやふやであったが、とにかく夕闇せまる夕方頃、ペガサス号にまたがると、コンビニへと両足に鞭を振るったのであった。





 楽しくもエキセントリックな時間は稲妻のように過ぎてしまいます。思い返せば思い返すほどに、とても楽しく充実した毎日であったように思います。

 ちんどん屋は準備に費やした時間と手間の分だけ大成功でした。ビラを配り終えた後も、観光で訪れていた外国の旅行者からの写真撮影の依頼が多く、もう何枚撮られたのかさえ覚え切れないほどでした。自分の袴姿が海を渡って行くのかと思うととても恥ずかしくて仕方がありませんが、そんな羞恥心よりも今は達成感の方が勝っていて、程よく温いお風呂と相まって私は一層惚けては燃え尽き症候群の真っ直中にいたのでした。


「県大でござーい」私は、湯気のさめやらぬ天井に向かってそう言いました。気持ちの上ではこれからこそが本番なのだとわかっているのですが、どうしても奮い立たせることができませんでしたので、気合いのつもりで言ってみたのです。


 けれど、


「あぁー」気合いは入りませんでした。


 やはり私は絶賛燃え尽き症候群中なのでした。




 はっきりと燃え尽き症候群が癒えたとも言い切れないまま、私は真梨子先輩と千年パンツの製作を続けていました。小春日さんにパンツの作り方を相談に行くと。小春日さんはとにかく真剣にパンツについて考えてくれました。数ある男性用パンツの特徴と形状をホワイトボードに書いて説明してくれた後、とても顔を赤くしながら「古平君は……」と彼氏である古平さんの好みまで教えてくれました。

 テーマは『卑猥でなくまた汚くない千年パンツ』でしたので、これぞパンツ!と言うパンツを作るわけにもいかず、加えて原作を読んでいないのでどんなパンツかも検討もつきません。なので、すぐさま暗礁に乗り上げてしまいました。

 暫時、3人で腕組みをして唸っていると、「そうだっ!」と真梨子先輩がとても良い笑顔で立ち上がったのでした。


「ふんどしにしょ!」

 

「「ふんどしですか?」」私と小春日さんは思わず同じ台詞を同じタイミングでキラキラした先輩の笑顔に投げかけます。内容は知らないながらも確か、小説の舞台は現代だったと思うのですが……


「うん。ふんどしだったら、いざという時は一反木綿って誤魔化せるし。プランBも兼ねて」


「一反木綿って妖怪のですよね」


「プランBですか……」


 私と小春日さんは口々にそう言いながら顔を見合わせたのでした。


 それでも代案が思いつきませんでしたので、千年パンツはふんどしで作ることにな

りました。


「作り方を調べておきますね。多分、ミシンを使えばすぐにできると思うけど……」


 作り方に関しては翌日までに小春日さんに調べておいてもらうことにしました。小春日さんも自分の製作で忙しいと言うのに、申し訳ない限りです。

 即日で取りかかっても良かったのですが、真梨子先輩がお昼からアルバイトがあると言うので、明日から作業に取りかかることにしました。


 部室棟を出て、事務所前のピロティを通り抜け、正門へと続く道すがら、夏目君と会いました。


「おー恭君、えっと3日ぶりっ」 


 真梨子先輩が尽かさず、そう言いながら夏目君の元へ小走ります。やはり夏目君の顔を見ると先輩は嬉しいみたいです。


「いよいよって感じですね」


私は歩いて行きましたので、そんな夏目君の声も随分と小さく聞こえました。


「夏目君、こんにちは」真梨子先輩の隣よりも少し後ろに立った私は、会釈混じりにそう言いました。すると、夏目君は今まで疲れたようなじとっとした目元を引きつった笑顔に変えて「奇遇ですね」と言うのでした。そんなに私が居たことに驚いたのでしょうか?


「恭君お昼食べた?」


「まだですけど」


「丁度よかった、今ね、なっちゃんとお昼どうしよっか。って話してたところなの」


 先輩は声を弾ませて、私と夏目君を交互にみてはにやにやとしながら、そう提案をすると、私と夏目君の返事を待たずに大学かと隣接する舟橋商店街にあるオムライス屋さんへ向かいました。先輩や小春日さんと良く行くお店です。

 一番奥の窓側席に腰を降ろすと。いつものパートのおばさんがオーダーを取りに来てくれました。私はデミグラオムライスを注文すると夏目君も同じものを注文します。

先輩はと言うと……「あちゃー私、バイトあるの忘れてた」とわざとらしく腕時計をみやってそう言うと、「しまった……」と項垂れる私に「また明日ね」と言い残し、さっさとお店を出て行ってしまいました。

 私は後悔の念を込めて、手を振りながら窓の外を通り過ぎる先輩の姿に目配せをし続けました。


 本来ならば私が二人に気を配って退出しなければならないと言うのに……


 その後、夏目君とは山も無ければ谷もなくクルッポ夫婦の話や、ここ3日間の真梨子先輩の活躍をお話しましたし、夏目君はここのところ下宿に引きこもって執筆に専念している旨を聞きました。

 心持ちこそ真梨子先輩に馳せられていても、相変わらずこのお店のデミグラオムレツはとても美味しいのです。ふわとろ卵にかけられた特製デミグラスソースは濃厚でありながら、むつこくなく喉の奥に至ってなお余韻を残すとても不思議なソースなのです。

 店員さんに聞いたことはありませんけれど、お店の佇まいからもきっと、何十年も継ぎ足し継ぎ足しされ熟成されたソースに間違ないと思うのです。そんな私とは対照的に夏目君は同じデミグラオムライスを食べていると言うのに、どこにも感情が見あたらないままにスプーンを進めていました。〆切が迫っていて神経質にでもなっているのでしょうか?こんなに美味しい物を美味しそうに食べられないほど急を迫られているなんて……雑用専任の私は少し羨ましいような悔しいような、やるせない面持ちとなってしまいました。

 だから、夏目君とお店の前で別れた直後、ため息が自然と出てしまいました。特大のため息がです……甘美祭を作る一員え有りながら、どうしてもその一員になりきれていないような虚無感の再来でため息を一つ。もう一つは今更ながらですが、真梨子先輩のキューピットになるべくチャンスをすっかり逃してしまったことにです。会わせて二つ分ですから特大になってしまうのも無理もありません。

 大学へ帰る道すがらはずっと真梨子先輩のことを考えていました。ちんどん屋をする一週間程前から文化祭でバイトを休む関係で、先輩は普段に増して働いて居る様子で私ですらここの所、先輩とまとまった時間を過ごした記憶はありません。夏目君も〆切で家に引き籠もっていると話していましたから、先輩とまともに会っていない事でしょう。

 だから先輩にとって今日は、夏目君と過ごす貴重な時間だったはずです。なのに、それを私に譲ると言うか押し付けると言うか……好意を抱いている相手を異性に……加えて親しくしてくれている私なんかに任せて……手を振りながら窓の端に見えなくなって行った先輩はどんな気持ちだったのでしょうか。顔で笑って心で泣いていたのでしょうか。


 それとも、私だから心配もせずに二人きりにできたのでしょうか……


 考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。まるで沼の中で必死にもがいているようです。

 考えてわからないことを考え続けていたので、今日の釘打ちはそれは悲惨なものとなってしまいました。打ち損じは数知れず、釘も大層曲げてしまいましたし指も打ちました。とうとう親指の爪の中に血豆のようなものができてしまう始末です。

 私は夕方過ぎた頃に作業を切り上げて、ソーイング同好会へ向かいました。ふんどしの件もありましたけれど、小春日さんに相談してみようと思ったからなのです。もちろん、小春日さんの都合が悪ければ邪魔をするつもりはありません。

 

「葉山さん」


 私が同好会室へ続く廊下を歩いていると後ろから小春日さんに声を掛けられました。 

 どうやらお手洗いへ行っていたようです。


「今日は終わりなんですか?」いつも通学に使っているトートバッグを肩から提げていたので、私は期待を込めてそう聞きました。


「ええ、後は家に帰ってやろうと思って」と小春日さんは言い、続けて「部屋にはみんな作品が置いてあって気を遣うし、狭くって」と困った顔をして言うのでした。


「そうなんですか。今丁度小春日さんに会いに行こうとしていたところなんです」

 自分勝手にも私はこれで相談ができる。と少し嬉しくなってしまいました。


「その……ふんどしの件ですよね。簡単だけど作り方を書いておいたから、これで作れると思うの」とトートバッグからふんどしの分解図のような物が書かれたコピー用紙を一枚取り出すと、私に見せながら懇切丁寧に教えてくれました。


「忙しいのに本当に助かります。これだったら、私と先輩でも簡単に作ることができそうです」

 

 小春日さんの説明を受けてから、『ふんどし』に決めた真梨子先輩の判断は正しかったとしみじみ思いました。先輩の部屋にならミシンもありそうですから、難なく作り上げることができるでしょう。


「あっ、そうそう。生地も余ったのがあるから。取ってくるね」


 少し歩き出してから思い出したようにそう言うと小春日さんは踵を返して部屋へと駆けて行きました。

 作り方を教えてくれた上に、生地まで用意してもらえるなんて!これぞ至れり尽くせりと言うにふさわしいと思うのです。

 持つべき物はやはり親しい友人ですね。そう思わずには居られない私なのでした。

 




 ふんどしの件に関しては後で真梨子先輩にメールをしておくとして、私は私の懸案事項を小春日さんに相談しなければなりません。ですから、「少し相談したいことがあるのですけど」と学食の二階席へ場所を移したのでした。


「んと、それって……つまり、夏目君は葉山さんの事が好きってことなんじゃないかな?」


「へっ!」閑散とした二階席の窓側で私は開口一番にそんな事を言う小春日さんに目を見開いて言葉にならない抗議をしました。

 真梨子先輩の恋愛成就について一通り話した後の話しです。少し考え込んだ風に腕を組んでみせたかと思うと、多少の躊躇を伴って、小春日さんは言ったのです。


「そんな、夏目君が私の事をだなんて……ありえない」


 「そうだよね」と言ってほしくて、私は小春日さんに懇願するように言います。まさか……まさか、真梨子先輩の意中の人がよりにもよって私のことをだなんて。私は今まで誰かに告白されたことなどありませんし、誰かと噂になったこともない婦女としてとてもスマートな人生を歩んできました。恋とは愛とはどんなものでしょう。と想いを巡らせてときめいてみたり、クルッポの恋模様をみて癒されたりしてはいました。いましたけれど、そんな……私だなんて!


「葉山さん……大丈夫?あくまでも可能性だからそんなに動揺しなくても……」


 頭の中はすでに洗濯槽のようにぐるぐると大変なことになっていましたけれど、表面上は何事もなく平静を装っているつもりでした。けれど、小春日さんにそう言われてしまう限りは装いきれていなかったようです。


「あ、え、大丈夫です。でもどうして、そう思うのですか?」


「先輩の葉山さんへの接し方が私の時とそっくりだから」


 と小春日さんははにかみながらそう言い「ほら、古平君との仲を取り持ってもらった時」と続けました。


「……」私は考えてしまいました。もちろん、先輩が小春日さんと古平さんとの仲をどのようにして取り持ったか。と言うことに関してです。


「私と古平君って全然接点とかってなくて、でも私の気持ちを知った真梨子先輩が、頻繁に古平君と会う切っ掛けを作ってくれたり、二人きりにしてくれたりしたんだよね。さっきの話しを聞いてると私と同じだなぁって。だって、葉山さんも先輩と一緒にいると良く夏目君と会うでしょ?」


「あぁ……確かに……」


 全然意識をしていませんでした。盲点です。けれど小春日さんの言う通り、先輩と行動を共にしていると今ままで面識が全くなかった夏目君と良く会います。主に先輩が会いたいのだと思っていたのですよ。だって、先輩は夏目君のことが好きなのですから……でも、夏目君は私に好意を寄せていて……寄せられている私は先輩と夏目君の仲を取り持とうとしていて……


 見事にこんがらがってしまいました……


「でも、すごくややこしいよね。夏目君は葉山さんのことが好きで、先輩は夏目君の事が好きで、葉山さんは先輩と夏目君のキューピットでって」

 苦笑しながら小春日さんが言います。


「あぁ」


 万策を考える前に万策尽きた。と私は机に突っ伏して「どうしてこうなってしまったのでしょうか」と泣き言を吐くことしかできなかったのでした。





「そう言えばご飯まだだったよね。忘れてた」パジャマ姿の先輩が冷蔵庫を開けて思い出したように言います。


 例によって私は、真梨子先輩の家にお邪魔をしていて、小春日さんからもらった作り方のメモと生地を広げて、鋭意ふんどしの制作中です。

 小春日さんに相談を聞いてもらったあと、もやもやとしたまま正門を出た所で、先輩から「7時くらいから家に来て!」と連絡がありました。小春日さんが私よりも先に先輩に連絡をしておいてくれたみたいです。なので7時よりも10分早く先輩の下宿先へ到着したのですが、先輩は不在で、5分ほど待ったところで額に汗を浮かべた先輩が「ごめーん」と言いながら駆けて来たのでした。


「私何か買って来ましょうか」


「んー今日作業できるって知ってたら、買い物いってたんだけどなぁ」と冷蔵庫のドアを力無く閉めると、「私買いに行ってくるよ」と台所に置いてある財布を掴んで先輩は言います。


「パジャマで買い物に行くつもりですか」


 私はそう言いながら、お財布をポケットに入れて真梨子先輩の丁度胸元に指をさして言いました。


「あちゃ」


 自分の格好に気が付いた先輩はいたずらっ子のように舌を少しだしてそう言うと「ごめんお願い」と両手を合わせて私に言いました。


「行ってきます」出がけにそう言うと「気をつけてね」と黄色い声が背中に返ってきました。


 さて、どこに買い物に行きましょうか。近くのスーパーが一番良いのですが、私の頭の中にはその前にいつか見たコンビニの幟が思い出されてしまって仕方がありません。それは『絶品パスタ全種30%OFFフェア』と大々的にプリントされている幟です。

 「そうしましょう」私は分かれ道を三条通り方面へ進みました。確かにスーパーの方が豊富なお総菜がありますし、お値段もお手頃です。けれど、けれど!絶品なパスタなのですよ。しかも全種類が30%もOFFだなんて!これでは足が自然と向いてしまうのは仕方がないことなのです。

 私はどんなパスタがあるのでしょう。と心持ち明るくわくわくとさせながらコンビニへ向かったのでした。





 私行きつけのスーパーが近所にあるにも関わらず、私は、三条通りを遡っているのには理由があった。目指すコンビニがその場所にあると言うこともさることながら、最も重要視すべきは、『絶品パスタ全種30%OFFフェア』を開催していると言う事実である。

 絶品とうたった所でコンビニのパスタにそこまでの期待は抱くまい。しかしながら、とろとろソースのカルボナーラが食べたい。温めてもらったならその芳醇な香りに果たして家まで我慢できるかどうかさえ自信が無いほど、空腹を抱えた私であるのだ。加えてそれが30%もOFFともなれば多少の労力は惜しまない私なのだ。

 週の真ん中である今日はさすがに三条通りとて賑わいに欠けていて、いつもより殺風景に見えてならない。加えてこの寒風であるからして余計に脱色感が否めない。

 そのコンビニは三条通りを自転車で登ること、背中に汗を感じる頃に左折をして、さらにやすらぎの道沿いに狭い歩道を登った所、丁度、高天交差点の角地にあった。


 ちなみに言うと古平のバイト先である。


 私は古平が居れば、面白いと思ったのだが生憎、古平は勤務の日ではなかったらしく。店内を隈無くトイレに至るまで見て回ったがついにその姿を見つけることはできなかった。決して、知り合いのよしみで何かおまけしてもらおうなどと邪な気持ちを抱いていたわけではない。純粋に冷やかしてやろうと思っただけである。

 パスタの幟はすでに撤去されていたが、店内に入ってすぐの正面の棚に『絶品パスタフェア無くなり次第終了』と手書かれた黄色いPOPが掲げてあったので、私は迷わずその棚へ向かった。向かったのだが。私はその棚の前に着くなり「むう」と唸らざるえなかった。いや、店内に入った時点で嫌な予感はしていたのだが……「まさか、そんなバカなことがあるわけない」と捨て置いた予感が大当たりしようとは……思わずレジ業務をこなす男性店員に確認の為の視線を送ってしまったほどである。


 私の眼前にあるのは、いずれも『絶品パスタ!』と蓋に大きく書かれた、即席カップパスタだった。


 確かに『絶品パスタ』だけれども!そんな名前を付けられたら、普通はすでに調理済みで後はレンジで2分!な商品だと思うではないか……期待をするではないか……一昔前ならばいざ知らず、最近のコンビニの惣菜の質とレベルは外食産業を脅かすほどの進歩があると聞いていたら、余計に期待を膨らませここまでペガサス号を走らせてきたというのに……


「詐欺だ……」


 私はどうにも諦めきれない無念と期待を打ち砕かれた失望感とに苛まれながら、それでも、棚の右端に積まれているカルボナーラを手にとると、肩を落として代金を払うと、ペガサス号の前で128円と印字されたレシートを見て、128円では夢も希望も買えやしない。もはや泣く気さえも失せてペガサス号にまたがった。


「あれ?」


 ペガサス号のペダルに足を掛けた所で、我が愛しき葉山さんがコンビニへ入って行くのが見えた、ほんの一瞬であったが、私が葉山さんを見間違うはずがない。はずがなかったが、何せ競歩のような早足で突然角から現れたものだからと自信がなかった。もしかしたらと私はそれとなくコンビニのガラス越しに店内を覗いてみると、そこには間違いなく麗しの葉山さんが絶品パスタの棚の前に佇んでいた。

 もしかしたら彼女も絶品パスタを目当てに来たのだろうか?棚の前に着くなり何度かレジの店員や品出しをする店員の方へ困った顔を向けてみたり、こう垂れてみたりを繰り返し、最後にPOPを顔を近づけ穴が開くほど見てから、ため息混じりに右端に積まれているカルボナーラとあともう一つ何味かを手に取ると、肩を落としてレジに向かったのであった。





「こんばんは、奇遇ですね」


 本当は葉山さんを待っていた訳だが、私はコンビニから出てきた葉山さんにそう言って声をかけた。


「あぁ、夏面君。こんばんは」


 レシートを見ていた彼女だったが、私の声に驚くこともなく極々自然にそう返事をくれた。


「先輩のお使いですか?」


「お使いというわけではないですけど、晩ご飯を買いに」


「実は私も」と私は買ったばかりのカルボナーラを彼女に見せた。


「同じですね」


 彼女がそう言ってからどちらともなく歩き出した私と葉山さんは、信号待ちの間だけ黙っていたのだが、沈黙に耐えかねた私が意を決して「実は、料理済みのパスタだと思っていたんですけど、カップパスタでがっかりしたんです」と話したところで信号が青にかわった。


空気の読めない信号である。


タイミング悪くも私の意を決した言葉は虚しく雑踏に踏みつぶされてしまったと思ったのだが、「実は私もそう思っていたので、とてもがっかりしましたよ。書き方がややこしいと思います」と彼女との会話が成り立ったので一安心した後、同じ気持ちを共有できている奇跡に鼻血が出そうになった。生まれてはじめて、自身の変態性に気が付いた瞬間でもあったと思う。

 だが、奇跡はそう続かず交わした言葉はそれだけに止まり、沈黙を保ったまま舟橋商店街の入り口前まで来てしまった。何か話題を!と色々とまさぐってみても、気の利いた話題もなければ、面白可笑しい話題もない。ずっと執筆のために引き籠もっていたことが難して全てにおいて私は枯渇していたのである。だから、一様に考え込むかのように地面を見つめている彼女の顔を上向かせる話題などありはしなかったのだ。

 ただ、彼女が舟橋商店街の方へ歩みを進めたことには少し驚いたと言うよりも、動揺した。彼女もすでにこの周辺に住んで1年以上を数える訳だから、商店街を抜けた方が先輩のアパートへは遠回りになることを知っているはずなのだ。ひょっとしたら大学に行くのかも知れないが、そんな可能性よりも、もっと下心に満ちた私の思慮からすれば、これは私が居ることを前提とした遠回りだと考えたかった。


 そして、不意に顔を上げたかと思うと、その芙蓉の眦をこちらに向けて「私の知り合いの話なんですけど」と前置いてから、


「ある人の事を好きな人がいるんですけど、その人が好きな人はその人のことをなんとも思っていなくて、でも、その人の恋路を応援しようとお節介を焼く人が実はその人のことを好きなんです。それを知ったその人が好きな人は、お節介さんとの仲を取り持とうと思っているんです」最後に至るにつれ自分でも何を言おうとしていたのか曖昧になった。と言う表情になりながら葉山さんは私にそれだけを告げた。

 私は彼女の曖昧な表情を見ながら、とりあえず、彼女の知恵の輪のような話しを反芻して咀嚼して考えた。

 まず、登場人物はABCの3人。AはBに好意を寄せていて、でも、BはAに興味がない。が、CはAとBをくっつけようとキューピット役を演じるのだが、実はCはAに好意がある。ある日それを知ったBがAとCをくっつけようと奔走する。

 ありがちな三角関係ではないにせよ、天下三分の計、もとい三竦みと言ったところだろうか。

 正直、そんなややこしい人間模様に興味はなかったし、自ら火中の栗を拾うことはおよしなさい。彼女にそう進言して差し上げたかったが、それでは愛情にかける。ゆえに私は、


「三竦みですね。円満解決は難しい方の」とかなりオブラートに包んでそれだけを口にした。


「円満解決は難しいですか……」


 彼女は露骨にため息をついてそう言った。もしかして、私の返答にそこまで期待をしていたと言うのだろうか……であるならば、私は千載一遇のチャンスを逃したことになる。


「えっ、えっと、誰かが嫌な役を引き受けるか、誰かが泣かないと解決はしないと思う。それか、今の状況を維持して自然消滅を待つか……」


 もちろんフォローのつもりで言った。そのつもりが……自然消滅って……私は一体何を口走っているのだろうか。


「んーやっぱり、ドラマみたいに円満解決は無理ですよね」彼女は苦笑しながらそう言うと「そんな都合良くいかないです」と夜空を見上げたのだった。


 どんなに頭を捻ったところで、きっと言えた台詞に大差はない。言葉の違い、表現の違いだけであって根本的な解決法などありはしないからだ。

 大学の前を通り過ぎた辺りから再び沈黙が続いた。けれど、それは私から作った沈黙であったと思う。この話しはきっと葉山さん自身の話だろう。それなら、尚更希望的観測的憶測論を唱えてどうなる。この三竦みは一見して絡まりあった糸に見えて、実際には至極単純なあやとりのようなものなのだ。誰かが告白をすれば、身を引けば、涙を飲めば忽ち解消されることだろう。それが叶わないのは三者三様に願望がありながら現在の関係を維持したいと心の片隅で思っている。それこそが全ての結論だ。  冷静な自分がそこにいた。ABC何れかが葉山さん自身が当てはまるはず。Bであって欲しい……欲しいのだが、私自身が色々な理由を並べて自身を説得してもなお、私の気持ちはどんよりと沈んだままであった。

 葉山さんほどの乙女である。想いを寄せるのは私1人だけであるはずがないし、彼女が一握りの勇気を出せば、それは忽ち成就することだろう。

 その事実を知れば、まったくの部外者である私が泣くことになるだろう。


 まったくもって皮肉な話しだ……


 私は、小さく口を開けたまま私を見上げる葉山さんを視界の端に捉えつつ、満月に近い月を見上げるのであった。 



 


 三条通りは京都で言う所の祇園のような所ですから、平日でも混み合っているかもしれません。なので、私は三条通りから一本筋を違った道を使ってコンビニ向かいました。 

 秋深まれりと言えども、まだまだ体を動かせば汗ばむ気温ですから、早足で歩く私の背中はすっかり汗ばんでしまっていました。やはり、近所のスーパーに行けば良かったでしょうか。そんな後悔の念が頭の中をよぎる中、私を支えていたのはのど越しの良いパスタにそれに絡まる濃厚なカルボナーラソース。想像しただけでも唾液が溢れてしまって仕方がありません。

 もちろん、カルボナーラがあるとはかぎりませんけれど、カルボナーラと言えば定番中の定番ですから、売り切れはあるとしても。商品がない、と言うことはないと思います。


「そんなね」


 私は呟きながらさらに足を速めました。何せ売り切れはあるのです。30%OFFならば、尚の事あり得るのです!

 競歩さながらに歩き続けること7分ほどで、目的のコンビニへ到着しました。私は休むことなくドアを開けると、店内になだれ込みます。そして、探すのです「(絶品パスタはどこぞにおわす!)」っと。

 フェアをするだけあって絶品パスタはすぐに見つけられました。レジ前の棚に山と積まれてありましたので、売り切れの心配は皆無でした。

 私は棚からはみ出るように設置されていた黄色いPOPを読み返して確認をしました。間違いはないはずです……いいえ。間違いありません。


 けれど……けれど……そこに積まれていたのは、パスタはパスタでも即席麺のパスタだったのです。


 私は明瞭に困惑しました。てっきり、レンジでチンと言わせるだけで、蓋をあけると芳醇なソースの香りが鼻腔一杯に広がる調理済みのパスタだと思っていたからです。

困惑していた私は、目の前の事実を暫時受け入れることが叶わず、店員さんに確認をしようと視線を右に左にと泳がせました。けれど、店員さんはどなたも業務に勤しんでいる様子でついに、声を掛けることができませんでした。 

 私は何度かため息をついてから、もう一度POPを熟読してから、仕方がなく右端に積まれたあったカルボナーラ味とマヨ明太味を手に取りました。蓋には『絶品パスタ!』と大きく書かれてありますから、もう疑う余地はありません。私は泣く泣く絶品パスタをレジへと持って行き、支払いをしたのでした。 


 確かに私の早合点でしたし、過度に期待もしていました。けれど……けれども!

『絶品パスタ』なんて名前をうたわれたら誰だってカップパスタだなんて思いません!

 私はパスタの入ったレジ袋を手にぶら下げると、だらりだらりとコンビニのドアを開けました。128円。そうです、悪いことだけではありません。私の期待と予定を打ち砕いた点では極悪ですが、お財布に優しいことと言ったら。近所のスーパーに引けをとりませんもの。

 そうやって無理矢理にでも納得しないと、この気持ちは到底やりきれません。私はレシートを見ながらそんな事を考えていました。


「こんばんは、奇遇ですね」


 私がどうしてこの気持ちを晴らしてやりましょうか、とプリプリしていると、自転車のハンドルに手を掛けた夏目君が立っていました。ハンドルに掛けられたレジ袋の中には『絶品パスタ』のカップが袋から透けて見えました。


「あぁ、夏目君。こんばんは」

 

 夏目君も買ったのですね。とレジ袋にばかり気を取られていた私は、夏目君に返事をしてないことを思い出して慌ててそう言いました。


「先輩のお使いですか?」


「お使いというわけではないですけど、晩ご飯を買いに」


女子としてはカップパスタを「晩ご飯」だなんて恥ずかしい思いでした。けれど、惣菜を買っていてもそれは大してかわりませんね。手抜きにはかわりありませんから。

 

「実は私も」


 そう言いながら夏目君は買ったばかりでしょう、カルボナーラ味のカップを袋から出して見せてくれました。


「同じですね」


 はい。知ってます。と胸の内では思いつつ、それを口に出してはあまりにも無愛想

だと思うのです。


 どちらともなく歩き出した私と夏目君は信号待ちの間だ、言葉を交わすことはありませんでした。夏目君は何かそわそわしている様子でしたけれど、私はずっとこのチャンスを生かす方法はないでしょうか?と思案していたのです。頭をフル回転させているのですから会話をしている余裕などありません。

 なのに、「実は、料理済みのパスタだと思っていたんで、カップパスタだとわかってすごくがっかりしましたよ」と意を決したように言うので返事に困りました。ですが、丁度そのの時に信号が青に変わりましたので、動き出した帰宅ラッシュの雑踏に聞こえない振りをしました。

 

 とても空気を読んでくれる信号ですね。


「実は私もそう思っていたので、とてもがっかりしましたよ。書き方がややこしいと思います」


 信号を渡り終え、舟橋商店街の方へ足を向けると雑踏の流れから離れ一気に静かになりましたので、そのタイミングで私はそう言いました。やはり、聞こえているのに聞こえていない振りをするのは気が咎めます。

 夏目君は私が話し終えると、とても安堵した表情をしたかと思うと次の瞬間には鼻を抓んでいました。まるで鼻血が出てきてしまったかのように……

 夏目君が鼻を気にしている間に私は視線を足下に落とすと、思案に続きに取りかかります。真梨子先輩のように男女の仲を取り持つことに慣れていませんので、どうしたらいいのか正直に言って考えが及びません。けれど、こうして偶然、夏目君と出会い二人きりになる機会もそうそう巡ってくるとも思えませんからそんな泣き言を言っているわけにもいきません。

 そうこうしている内に舟橋商店街の入り口前まで来てしまいました。本来ならこのまま直進した方がずっと先輩のアパートへは近いのですが、今は時間が必要ですからわざと舟橋商店街の方へ曲がりました。普段であれば訝しまれるでしょうけれど、今は文化祭と言う口実がありますから、舟橋商店街を通っても怪しまれないはずです。

 

 時間稼ぎの遠回りをしてもせいぜい10分程度です。私はまだまとまりきっていないながらも「私の知り合いの話なんですけど」と夏目君を見上げて言葉を発したのでした。

「ある人の事を好きな人がいるんですけど、その人が好きな人はその人のことをなんとも思っていなくて、でも、その人の恋路を応援しようとお節介を焼く人が実はその人のことを好きなんです。それを知ったその人が好きな人は、お節介さんとの仲を取り持とうと思っているんです」


 我ながら話せば話すほどにややこしくなる知恵の輪のような言い方でした。最後の方に至っては自分でも何を話しているのか曖昧にしか理解できていませんでしたから……


「三竦みですね。円満解決は難しい方の」


「円満解決は難しいですか……」


 私なりに考えてみました。『ある人』と『その人』の話しは、夏目君と先輩と私の3人による現在の関係を意味していて、火中の夏目君であれば私の意図を慮って、真梨子先輩の気持ちに気が付いてくれる。そう期待したのですが……小説を書くほどの空想力があればもしかしたら……と思ったのですが、夏目君の返答は私の期待を大きく裏切るものでした。さらに言うならば、興味がなさそうに言った辺りが絶望的です。

だから私は思わずため息をついてしまいました。


「えっ、えっと、誰かが嫌な役を引き受けるか、誰かが泣かないと解決はしないと思う。それか、今の状況を維持して自然消滅を待つか……」


 慌てて夏目君が付け加えますが、またしてもそれは私の期待する言葉ではありませんでした。


 自然消滅って……


 そうなると私は「んーやっぱり、ドラマみたいに円満解決は無理ですよね」と言うしかなく、続けて「そんな都合良くいかないです」と思っている事を口に出したのでした。

 そんな会話が大学の正門前で行われた後は、再び沈黙の中を歩きました。こういうのは生兵法というのでしょうね。これ以上は得策も浮かぶはずもなく、すでに万策尽きてしまった私には夏目君に真梨子先輩のキモチを直接口にするしか方法を持ち合わせていません。でも、それは……それをしてしまっては……


 してはいけないと私の何かが強く訴えるのです。





 結局、真梨子先輩のアパートまで夏目君とは一言も交わしませんでした。夏目君はぼんやりと小さく口を開けたまま夜空を見上げ続けるばかりで、どこか話し掛け辛い雰囲気だったので、私は話し掛けませんでした。取り立てて話題もありませんでしたから、私としては助かりましたけれど……


「お帰りー、遅いから心配しちゃったよ」


 アパートのまえにの道路まで出てきていた先輩はそう言いながら私の元へ駆けて来ました。


「あらあら恭君も一緒なんてどうしちゃったの?待ち合わせとか?」


 とても嬉しそうに先輩はちゃかすように言いながら夏目君の腕に肘を当てて囃し立てます。夏目君は「そんなんじゃ無いですよ」と迷惑そうにそう言っていましたけれど……私には先輩が無理をしているように思えてならなずつい「交差点のコンビニ前で偶然会ったんです」少し大きめの声で言ってしまいました。


「そうなんだ。スーパーに行けば良いのに」


「このパスタが食べたかったんです」


 私はそう言うと袋からカップを出して先輩に見せました。勘違いをしてわざわざ買いに行ったことはもちろん秘密です。


「それって、がっかりパスタじゃない。音無さんがね、昨日だったかな?調理済みパスタだと思って買いに行ってすごくがっかりしたって、わざわざメールしてきたのよ」


 先輩はにこにこしながらポケットから携帯を取り出して素早く操作すると、音無さんのメールを見せてくれました。画面には『絶品パスタ!』カルボナーラ味が映っていました。その下に一言「がっかりパスタよこれ……」と書かれていました。


「(確かに……)」私も音無さんにしっかり同感しました。あの夢を打ち砕かれたがっかり感といったら!


「あれ。なっちゃん飲み物買わなかったんだ」  


「あ、デロリン買うの忘れました」


 先輩と一緒の時は買い物に行った時は必ずデロリンソーダーを買うのが慣習となっていましたけれど、今回はすっかり忘れてしまっていました。


「ひとっ走り買いに行ってきましょうか?自転車で行けばスーパーすぐだから」と夏目君が言いましたが「どうせなら、みんなで行きましょ」子供みたいに笑いながら先輩は1人で先に歩いて行ってしまいました。

 どうせまた私と夏目君をどうにかしようと言う先輩の作戦なのでしょうね。そう思った私の安易な勘は易々と当たってしまいました。

 近所のスーパーにデロリンを買いに行った帰り、先輩は急に「恭君も私の部屋においでよ」と言い出したのです。いつもならため息の私でしたけれど、今度ばかりはチャンス!と思えたのでした。何せ、夏目君と先輩が部屋に入った途端に、何んとか言って私だけ自宅へ帰れば良いのですから。

 ここぞとばかりに私は真梨子先輩に加勢しようと口を開いたのですが、先に「〆切がやばいので、これで帰ります」と夏目君が私との帰り道で見せた空虚な雰囲気を伴って言いましたので、私は何も言えませんでした……


「事務所の輪転機でしょ?だったらまだ……」真梨子先輩はそう食い下がりましたけれど、


「おやすみなさい」一言を残して夏目君は自転車で行ってしまいました。

  

「素直じゃないんだから……」と夏目君の背中に呟いた先輩の横顔は私がはじめて見る顔でした。街灯の加減も手伝ったと思いますが、どこか寂しげで……憤っているような……   

 先輩は大きく手を振り珍しく私の横を少し早足で歩き、何一つ言葉を発しませんでした。携えたレジ袋も腕の動きと一緒に大きく振られています。


 とにかく、とても気まずい空気が漂っていました。


 夏目君とは別段何とも思わなかったのですが、先輩の場合はとても困ってしまいます。どうしてしまったのでしょう……


「なっちゃんさ、夏目君に何か言った?」


 不意に足を止めた先輩に習い私も足を止めると、真っ直ぐに私の瞳を瞳に宿して先輩は静かに言いました。作り優しさが伝わって来て、私の背筋には冷たいものがつたいました。


「いいえ」私はそれ以外にも、信じてもらいたくて色々と付け加えて言いたかったのですが、気が動転してしまって鯉のように口をぱくぱくさせるだけで、結局はその一言しかいえませんでした。


「本当に?」

 

「はい。パスタでがっかりした話をしただけで、後は何も話しませんでした」私は生唾を飲み込んで何とかそう言いました。何せ嘘をついてしまいましたから……


「んーだよね。振られたら一緒に歩いてなんてられないよ恭君のガラスのハートじゃ」何度も頷いてからそんな独り言を呟くと。途端にニンマリする先輩なのでした。


「何を言ってるんですか?そんなことより、そんなに袋を振ったらデロリンの色がでちゃうじゃないですか」


 先輩が何を考えているのかは、先ほどの独り言でわかりました。だから私は急いで話題をすり替えました。できれば、今はその話題は避けたい気分なのです。


「あーごめん。緑色でした……」


 私に言われて、「やば」とつぶやきながら、急いで袋の中を確認した先輩は緑色に変色したデロリンを見せながら、頭を下げました。

 

「まったく、先輩ったら!」


 私は頬を膨らませてみましたが。デロリンのことはどうでも良かったのです。先輩が私が危惧していた事柄について気が付いていないことがわかっただけで、私は満足ですし、とてもほっ、として胸をなで下ろした面持ちだったのです。 

 




 先輩の部屋では絶品パスタを一緒に食べて、順番にお風呂に入って、後は0時近くまで先輩が取り貯めていたドラマを一緒に見て過ごしました。普段私はあまりテレビを見ませんので、ドラマもそれほど面白いと思わないのですが、なぜでしょう。先輩と一緒だととても楽しい時間になってしまうのですから摩訶不思議です。 

 

 結局、ふんどし製作は少しも進みませんでしたけれど……


 3時間と半時間ずっとドラマを見続けた私はさすがに、目が疲れてしまって、それが為かはわかりませんが眠気が強まってしまいました。パジャマにも着替えていますし、お布団も布いてありますから、後は潜り込むだけなのです。だから余計に眠くて眠くて……私は「ふあぁ」と欠伸をしてしまいました。


「さすがに、私も眠くなってきちゃったわ」と先輩も欠伸をしながら言います。

 

「2話くらいでやめとこうと思ったんだけどね、つい続きが気になっちゃった」


 もう一度、欠伸をしながら先輩が言いました。


 時刻ははまだ0時を回った所でしたけれど、私と先輩はもう寝ることにしました。明日はふんどしを完成させなければなりませんし、大学にも行かなければいけませんからとても忙しくなると思います。

 明日に備えて早く寝るにこしたことはないのです。


 私はお布団に、先輩はベットにそれぞれ潜り込むと、先輩は「消すよ」と言って電気を消してしまいました。けれど、窓から入る街灯の明かりが何がどこにあるのか程度に部屋をぼんやりと照らすので、電気を消しても大して困ることはありません。

 眠りに落ちる束の間、私は先輩と明日のふんどし作りについて段取りの確認やお昼前には一緒に大学に向かう旨の話しをしていましたが、私はその途中で瞼が重くて仕方がなくなってしまいましたので「もう無理です、お休みなさい」と言いました。


「おやすみ」欠伸の先輩の声を聞いてから私は薄い眠りに落ちました。


 



 どれくらい微睡んだのかはわかりませんが私は先輩が何かを話している声で目を覚ましました。独り言のようでしたけれど、寝返りを打ってみると、それが私に対して話し掛けていることに気が付きました。


「なっちゃんまだ起きてる?」


 半分眠っている私は、返事をしたと思いますが、覚えていません。それでも先輩が話しを続けた限りは何かしらの返事をしたのでしょうね。


「あのね……恭君はね。なっちゃんの事が好きなんだよ」


 優しく滑らかに語りかけるように先輩が話します。余計なものを濾したような感情の籠もった重い声でした。


 私は声にこそ出しませんでしたけれど、寝ぼけ眼にも「(それは知っています)」と答えました。実際には可能性が事実へと決定的に確定した瞬間でもありましたけれど、正直にもうそんなことはどうでも良かったのです、何せ私は先輩のキューピットになると決めたのですから。


「恭君ね、無愛想に見えるけど、本当はすごく優しいし頼りになるんだ。不器用なやり方だけど、なりふり構わず一生懸命になってくれるの……だから、恭君とのことちゃんと考えてほしいの」


 言葉が増すにつれ先輩の声色には優しさが増して行きます。それは私の耳に心地よくも滑らかに先輩の気持ちを届ける為にそうしていたのでしょうか……いいえ。答えは否です。最初はそのように感じたのですが、それは違うのです。好きな人の事を考えながら好きな人を想って話すからこそ、どんどんと声色が優しく滑らかになっていくのでしょう。

 私には……私には、夏目君の事が大好きな先輩の気持ちしか伝わって来ませんでした。


「……おやすみ……」先輩はもう一度そう言い、


 そして、カーテンを滑らせる音と共に部屋は暗黙に包まれたのでした。





 人生とは長編小説のようなものである。そんな風に年老いたるを達観したかのように顧みることをするには少々早すぎるのかもしれない。だが、大学へ入学を果たし、まだ2年も経たないと言うのに、私の私による私だけの歴史書には多くの些細が書き込まれて仕方がない。

 愛おしい人に告白する前にやんわりと可能性を否定された。そこで、潔しと諦めるか、なおも食い下がるか。いずれが男らしいのかと自問してみても自答することはできず、「あれはそう言う意味の話ではない」と現実逃避の一手ばかりが金魚鉢のブクブクのように湧き続ける。

 会話などどうでもよく、訪れた沈黙も気にもならなくなって、気が付けば真梨子先輩のアパート前にして、真梨子先輩が居て……先輩は例によって私を誘ってくれた。先輩の心づもりを鑑みれば感謝してこそ耐え得ないのだが、私は到底そのような気分ではなかったから「〆切がやばいので、これで帰ります」と好意を無碍にしてその場から走り去った。

 私は自宅に戻ると、玄関に座り込み大きく呼吸をした。後悔はなく寧ろ安堵の方が大きかった。

 一呼吸置いてから開いたままにしてあったパソコンを起動させると書き換えの画面がたちまち出力さる。


『始まる前から終わった恋』

 

 白い画面にただ一言だけタイプしてみると、妙に文学的に思えてしまって、途端に哀愁が立ちこめ泣きたくなってしまった。

 「(これでは駄目だ)」そう思った私は、これ以後そのラベルを見ればその邂逅に涙するであろう絶品パスタをゴミ箱に殴り捨て、不退転の決意を天井に刻んでから、

パソコンの前に座すと、忌々しい言葉を消して、猛烈な勢いでタイプを開始したのであった。

 有頂天でも幸福感でも楽天的でもタイプは進まなかった。けれど、絶望感に苛まれる今、タイプが進みに進むのはとても皮肉な話しだと自分でも笑いたくなる。

 いっそ、何もかも燃やして終わらせてやろうか。などと、作中に八つ当たりを織り交ぜようかと考えたその刹那に携帯が震え、手に取ると少し前まで愛おしく想っていた葉山さんの姿があって、その後に真梨子先輩の文面が出力された。


『葉山さんと何かあった?何かあっても気にしなくていいよ。小説書きあがったらお疲れ様会しょうね』


 今頃、先輩が葉山さんの気持ちを軌道修正してくれているのだろうか……文面を見やるに私の絶望に一筋の光が差し、それが期待やら妄想やらで瞬く間に広がって行くのを感じた。


「アホらしい」私はそれを自身で一蹴した。


 もし、ここで期待を抱いたなら!可能性を見いだしたなら! 次ぎに絶望に陥った時、私は蒙昧な心中にて先輩に八つ当たりの感情を抱くことだろう。それは不条理だし不本意だ。だから私は、一切の希望を一蹴して光が差し込んだ大地を再び絶望で満たした。

 その十字架を携帯に背負わせることにした私は、力の限り携帯電話を襖に投げつけた。襖であれば携帯が大破することはないだろう。そんな手前味噌な考えのもとに行った一種の八つ当たりであったが、その結末はあまりにもイレギュラーであったと私は後悔したい。


「あっ!」 


 手裏剣のように猛回転をしながら襖に向かった携帯は、当たった途端に太鼓のような音をさせたかと想うと、襖に深々と突き刺さった状態で止まった。てっきり、襖に弾かれて畳の上に横たわると思っていただけに、私は唖然としてしまった。


 多分……壊れてはいないと思う……


 空腹を忘れ、夜を忘れ朝を忘れ昼を忘れ。心頭を滅却し、加えてゾンビのようになった私は、恐いものがまるで無いような領域に到達してしまったようだった。

 ふわふわした頭の中でひたすらタイプを続けた私は、日を跨いだ夕暮れ。あっけなく物語は大団円を迎えたのであった。満足感などはない。こんなに早くできるのに、どうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろうか……ただ、それだけ……

 画面上で遊ぶ遊標の点滅を見つめながら、その責任は私を虜にした葉山さんにある。と断言をし、現世に現れた女狐め!などと憤ったあと、私はどうにかしてしまっていると確認をした。

 倒れるように横になると見上げる天井がぐるぐると回る。瞼を閉じてもまだ回る回る……


 恋仲になれないからと言って一度でも恋いこがれた人を悪く言うのは男子の名折だ。





 三時間ほど経って意識を取り戻した私は、推敲作業をそこそこにパソコンをリュックに入れると大学へ向かった。時刻はすでに深夜を回っていたが、大学では甘美祭の準備に勤しむ学生で大いに賑わっていた。


「やあ、原稿持ってきたんだろ」


 原稿の印刷にと文芸部室に行くと部長がいたので「いいえ、忘れ物です」と入らずに部室を後にした。甘美祭の二日前に完成したと言っても、この期に及んで似非編集長気取に書き直しを命じられるのも腹立たしい。それに、もう業者への入稿は終わっている。だから余計に部長からやいのと言われる筋合いはない。

 私は、クリエイティブ部室へ行って原稿の印刷を済ませると、その足で事務所の中にある輪転機室向かった。先客の執行部がパンフレットの増刷をしていたので10分ほど雑談をして過ごしたあと、原稿を両面印刷にかけた。

 印刷は5分とかからずに終わったのだが、私はそれ以上の時間を窓から覗く満月を見上げることに費やしていて、部屋のドアが開いた音で我に返り、さっさと輪転機を譲って家に帰ることにした。この分だと部長は明日の朝は部室に居ないだろうから、製本作業は明日することにした。

 今夜の満月は本当に綺麗だった。個人的な懸案事項が解消された事も手伝ってより優美に見せてくれているのかもしれない。私はぼんやりとペガサス号を押しながら満月に魅了されていたのである。

 部屋に帰り万年床に転がり込もうと思っていたのだが、部屋に帰ってみると襖に刺さっていた携帯が畳の上に落ちていることに気が付いた。手に取ってみると真梨子先輩から着信がほぼ3秒おきに入っていた。


「もしもし、どうかしたんですか?」


 私は冷蔵庫を開けながら電話を掛けた。どうせ、葉山さんとのことだろう、すでに私の中では踏ん切りもついていたし今後に何を期待することもなかったので、素っ気なく切るつもりだったのだが……


「……やっと出てくれた……すぐ来て……お願いします……」それは紛れもなく真梨子先輩であったが、様子が明瞭におかしかった……多分……泣いている……


「すぐ行きます!」


 私は、電話を切ると、とるものもとりあえず部屋を飛び出し、ペガサス号に飛び乗った。今度もGであって欲しいと願いつつ、あの震えた声からすれよほどの事があったに違いない。先輩のアパートへと続く坂道をトップスピードで駆け下りながら私は最悪な事象ばかりを巡らせた。ストーカーが蛮行に及んだのかもしれない……と…… 状況くらいは聞いておくべきだった。そうすれば、得物の一つでもカゴに押し込んで来たと言うのに。

 アパートの入り口にペガサス号を乗り捨て、階段を駆け上がる。先輩の部屋に近づけば近づくほどに呼吸と歩調がちぐはぐになってゆく。迫るドアの前には誰もいない、私は静かに呼び鈴を鳴らした。

「いらっしゃーい」と何事もなく、いつものように私の通り越し苦労であって欲しいと願いながら。もし、先輩のいたずらであったなら私は歓喜しながらも先輩には怒ることだろう。こんなにも心配させて!と大層怒ることだろう。

 その後、呼び鈴を何度か鳴らしたが先輩は出てこなかった。ドアノブを捻ると鍵がかかっていた。私は迷うことなくドア横のメーターカバーを開け、メーターの下にあるお菓子の缶を手に取った。いつもならここに合い鍵が入っているはず……


 缶の中は空だった……


 「先輩!俺です夏目です!居るんですよね!返事して下さい!」私は全身に冷や汗をかきながらドアに備え付けられてある郵便受けの蓋を開けて室内に向かって叫んだ。

 鼓膜がじんじんするのを感じながら、耳を澄ませると玄関に向かってくる足音が聞こえた。私は呼吸を荒くしてドアの前でその瞬間に備えて身構える。不届き者であれば一矢報いるまで、先輩だったなら……先輩だったならば……先輩であってほしい……

 玄関に灯りが灯されることなく、少し開いたドアからは先輩の顔を半分ほど覗き、


「すみません遅くなりました」と私が言うと。

 

 その刹那、ドアが勢いよく開いたかと思うと、私の胸なもとに先輩の顔が迫って来た。その間は不思議と世界がスローモーションのようにゆっくりと時間が過ぎ視界の端に躍り上がった髪の毛の端が消えた頃、ようやく、先輩の匂いが私の鼻腔をくすぐった。


「恐かったの……すごく不安で不安で……」先輩は胸に顔を押し当てて弱々しい声で

そう言った切り、しばらく動くこともしなければ何を言うこともしなかった。

 私も一度だけ「大丈夫。今は私が居ますから」と声を掛けたきり何も言えなかった。現状把握に相当な時間をかけて、どうして先輩が私の胸に縋って泣いているのかはわからなかったが、無頼漢はどうやら近くにはいないと言うことはわかった。

 

「ごめんね、吃驚したよね」と泣き腫らした顔を上げて言う先輩に私はうまく言葉を掛けることができず「入りましょう」と何とか先輩を部屋に入るように促す事しかできなかった。


 できるだけ部屋中を明るくしてから先輩はリビングに膝を抱えて座り込んだ。私は、マグカップに水を入れて、先輩に差し出す一方でようやく「何があったのか教えてください」と言えたのだった。

 先輩は膝に顔を埋めたまま動こうとしない。狼狽した時にぶつけたのかプリーツスカートから覗く足には青あざができていた。

 私は斜向かいに腰を降ろすと、絨毯の上に落ちていた大学ノートの切れ端を拾い上げ、そこに書かれてある文面をみて戦慄した。


 切れ端には【合い鍵の取り扱いにはご用心】とだけ書かれてあった。


「先輩これ……マジですか……話してください」思わず私は先輩の肩に手を当てて先輩に迫っていた。場合によっては警察に届けなければならないからだ。


 それでも先輩は顔を上げようとしない。


「葉山さんにも来てもらいます」

 

 女同士の方が話しやすいこともあるだろうと思い、そう言ったのだが、


「どうして葉山さんなのよ。私は恭君を呼んだのに!」と急に先輩は顔を上げた。

 

ここから↓




 先輩の顔が急に近くに現れたので私は息を飲んだ。


「いや、女同士の方が話しやすいかと思って……」反射的に仰け反ってしまったところが情けない……


「少しだけ……いいでしょ」そう言いながら先輩は再び私の胸に顔を埋めた。


 言いも悪いもなかったのだが……私はまた両手のやり場に困った、情状を汲み取るには十分であったが……だからと言って、先輩の背に手を回すことはしたくない。未だに震えている先輩の身を案じればこそ、なおもってそれをしてはいけないと思えてならなかった。

 けれど、正直に私は安堵した。現状からさっするに、先輩は怯えていた。だから、こうして誰かの胸に縋りたかったのだろうと……そして、同性ではなく異性である私を……クローゼットを勝手に開けると言う無礼を犯した私を選び、縋ってくれたことに無情の感謝をするとともに、今この時、あの気色の悪いメモを持ち込んだ不逞の輩が闖入しようものなら、相手の得物の有無など関係あるまい。私は先輩の盾となりこの一身をかけて排除に努めることだろう。

 

 この心臓の高鳴りを聞かれてはいないだろうか。そんな心配をはじめた頃合いで先輩はそっと顔を話すと「顔洗ってくるね」と言い残し、私に顔を見られまいと俯いたまま、洗面所に歩いて行った。





 落ち着きを取り戻した先輩は、事の子細を話してくれた。


 深夜よりも少し前に帰宅してみると、リビングのテーブルの上に見覚えの無い大学

ノートの切れ端が置かれてあったそうだ。先輩は慌てて、合い鍵の隠し場所へ行くと合い鍵は盗まれてはいなかった。そして合い鍵を回収するとドアの鍵を閉め、とにかく私に電話を掛けたと言うのだ。もちろん、犯人に心当たりはない。先輩はそう言い切った。

 私は警察に届けることを進めたが先輩は大事にはしたくないと首を縦には振らず、どうしても首を縦に振らない先輩がようやく妥協したのは「大家さんに事情を話して鍵を換えてもらいましょう」と言う私の提案だった。


 その夜に限っては『帰ります』と軽々しく言えなかった。かといって『家に来ますか?』とも言えるはずもなく、私は困り果ててしまった。先輩が風呂に入っている間に考えを巡らしてみたものの良案は浮かばず、頭の中が一巡した頃、私は結論を諦めて、白亜の園こと、目の前にそびえるクローゼットに視点を会わせてぼんやりと眺めていた。

 あの日、クローゼットを開けた私は、違った意味で驚いた。てっきり、派手で露出度の高い服やホットパンツやなどが収められていると思って居た私は、悪く言えば地味、良く言えば清楚。そんな落ち着いた衣服の並びに文字通り目を丸めたのである。

 あの夜からどれが本当の真梨子先輩なのかがわからなくなってしまった。私が先輩のことをどのように理解していたのか……それもあやふやではあったが、皮肉にも今回の一件で本当の姿を垣間見た気がする。先輩は私の嫌う派手な婦女ではなく、葉山さんや小春日さんと並びを同じくする純然たる女の子なのだ。

 派手嫌いの私は、先輩の仮初めの姿に惑わされ外見にて嫌っているところがあったのだが、それは私の目が節穴だったからだ。それだけは自分で断言できる。

 先輩が風呂から上がってきて、事態は私が一番危惧していた方向へ舵を切った。


「今夜は……居てくれるんでしょう……」


石鹸の香り芳しく、少し大きめで水色はのネグリジェを着ていた。胸元の青いリボンがワンポイントに添えられてあった……


 私は……私は「今夜だけです」と端的に答えるしかできなかった……


 先輩は卑怯であると私は言いたい。

 

 風呂上がりに頬をほんのり朱色に染めて、上目遣いにどこか自信なさげに小さく口元を動かした先輩は、世界の誰もを恋に落としてしまいそうなほど可愛かったのだから。


 




 その夜、先輩はなかなか寝室へ行こうとせず、炬燵に入ってずっと私の斜向かいに座っていた。

 その頃には、すっかり沈静化した頭の中で、私はひたすらこういう事態も考慮した上で、やはり葉山さんを呼べば良かったと後悔し続けていた。

 

「私は炬燵で寝ますけど、先輩はベットで寝ないと風邪ひきますよ」


 テレビ番組が深夜番組に突入した頃、私はテレビを見ている振りをする先輩に言った。


「平気。結構、炬燵で寝ちゃってることあるし」


 そう言う意味で言ったわけではなくて……いや、そう言う意味で言ったのだけれども……


 深夜帯の番組の多くは趣向が大きく男子の為に傾いていると思う。家族向けに設けられてあってリミッターが解除されるのであるから、男女で見るには気まずい内容もふんだんに盛り込まれてあるわけだ。


「もう私も寝ますから、先輩も寝てください」


 CMで次の番組が桃色に傾いている内容であることを知った私は、強引にテレビの電源を切って、先輩に寝室へ向かうように促した。


「どうし…………恭君はそんなに私を寝かせたいの?」半ば必死な私に、先輩は視線を外して聞いて来る。


 わざとやってますよね。 


「逆に、どうして先輩は寝たくないんですか」


 場数は少ないながらも妄想で鍛えて来た百戦錬磨の私は真顔でそう聞き返した。


「寂しいから……じゃ駄目かな」今度は俯き加減で言う先輩。


 絶対にわざとやってますよね。


 ものすごく反応に困りつつ、私は、至って冷静にと努め。どうしたものかと思案していた。


「そうだ、恭君。お風呂まだでしょ?」


「入りません」


「お腹空かない?」


「空いてません」


「駄目?」


「駄目です」


 今夜の先輩はやけに子供っぽいと思う。変な駄々をこねてみたり、妙に私と一緒の空間に居たがる。後者は私の錯覚と願望が混在した結果かもしれないが。


「こんな事言うと変に思われるかもしれないけど、時々、どうしようもなく寂しくなる時があるの。後の祭りって言うか……なんだろうね、みんなで居る楽しい時間が過ぎて、帰って来てとっても静かな空間に居ると、急に不安になるの。どっちが本当の現実なんだろうって……今がそれ」炬燵布団の模様を数えるように俯いたまま、先輩は言い「そんな自分は嫌いなんだけど、どうしようもなくて」と続けた。


 心中を吐露した先輩の言葉には嘘は無かった。独り暮らしをしている人間であれば誰でも先輩と同じ気持ちを抱いたことはあるはずだろう。かくゆう私も、無性に人肌恋しく思う時がある……


「誰だって、寂しくなることも、人恋しくなることもあります。全然駄目じゃありませんよ。それに……それに先輩が嫌いな先輩の方が俺は好きですから」


 幸いにして合い鍵が盗まれて居なかった。だが、あんなことが後であるから、心が弱る気持ちは私にも理解できる。さすがの私でも、誰とも知れない他人が自分の部屋に入っていたと考えると気色が悪いことこの上ない。


「ありがと。優しいから恭君。好きだよ」


「そんな事を言って、私が勘違いをして、今ここで先輩を抱き締めにかかったらどうするつもりですか」


 あり得ないことだが、あり得ないと言い切れない事でもある。


「ほう。そんなことを言いますか。じゃあ、どうぞやってもらおうじゃないの」そう言うと先輩は両手を広げ、胸元を強調してみせつつ「エロビデオも一人で借りられないくせに」と大きな声で笑ったのだった。


「DVDです」意気地なしも何も、私は、はなっからそんなことをするつもりはない。


 先輩の笑顔を見て安心する一方、私は最後まで潤んだ先輩の瞳を直視することができなかった。





 肌寒いはずのベランダに佇み、オリオン座を見上げてはシリウスを探す私は、不思議と少しも寒さを感じなかった。

 炬燵で寝付いたものの丑三つ時を二刻ほど過ぎた頃、全身の痛みで目が覚めてから寝付くに寝付けずにいる。夢うつつと頭だけはこの世の中で一番柔らかい物に乗っかった様な感触が残っているが、背中の痛みに比べれば儚い夢であったと言いたい。

 夜明けに幾ばくかの時間を残して、見下ろす町並みはとても静かで、清澄さえ感じさせる。

 そんな静寂の中に身をおいていると、真梨子先輩を苦しめる悪夢など何もなかったように思えてきてしまう。

 襖を開けっ放しの寝室では真梨子先輩が寝息を立てて眠っている。その無防備な寝顔を見ていると、果たして私はどこまで信用してもらえているのだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。

 私とて明確な男子であるからして、男子たる欲情も持ち合わせていれば、それを夢みることだってある。だから今一度私は先輩にどこまで信用してもらえているのだろうかと考える。

 そして、将来、あの寝顔をすぐ隣で堂々と見ることができる男が羨ましく思えて仕方がなくなった。あの100万ドルの寝顔をすぐ隣で見ることができる男のことが……

 そんな事を考えながら二度寝をして、目が覚めると炬燵の上には焼鮭と味噌汁、卵焼きに湯気を讃えるご飯、白菜の漬け物が並べられてあった。


「ごめん、起こしちゃったね」寝間着のまま台所から顔を覗かせながら先輩が言った。 

「おはようございます」 


私はぼおっとしながら、ぼおっと挨拶をして、豆腐と若布がくるくると揺れている木製椀の中を覗き込んでいた。


「顔洗っておいでよ」


 私の寝起きのふやけた顔を覗き込みながら先輩はお姉ちゃんのように悪戯に微笑んだ。調理の手間が1人分だけ増えたにもかかわらず先輩はとても嬉しそうだった。

 私はお言葉に甘えて洗面所で顔を洗い、鏡を見やるに水が滴ってもやはりいい男ではないことを再確認して朝食を頂くことになった。

 こんなちゃんとした朝食はいつぐらいぶりだろうか……少なくとも実家に帰らなければありつくことは難しい。


「お味噌汁辛くない?」


「とても美味しいです」鰹出汁がしっかりと効いた味わい深いお味ですとも。


 味噌汁一つとっても、日頃から作り慣れていたし先輩の女子力の高さを見せつけられたように思う。私は男であるわけだが……


 将来、このご飯を毎日食べられる男のことも羨ましくなった。


 同じような事をつい先ほど思ったような……既視感に苛まれつつ、つい癖でご飯を味噌汁の中に入れてしまった。

 朝食を終えて、少ししてから私と先輩は連れだってアパートを出て、その隣に住んでいる大家さんの元へ行った。大家さんに会う為だろうか、今日の先輩の出で立ちは、とてもフェミニンだった。桃色とも赤色とも言えない柔らかくて優しい色合いのワンピースをきている。

 出てきた大家さんに事情を説明すると驚愕の色を浮かべた大家さんは「今日中に換えておくわね」と二つ返事で交換してくれることを約束してくれたのだった。 


「大家さんいい人で良かったですね」 


「うん。とっても良い人だよ。あのアパート学生が多いからかな。男の子のとこへなんか作りすぎた料理持ってあげてたりしてるもん」


「羨ましい限りですよ」安さに負けてアパート選びを間違えたと今更後悔した私だった。


「恭君さ。ご飯作ってあげようか?」


 流し目で言う先輩。


「そんな暇無いでしょ。卒論もあれば就活だってあるのに」


 『是非お願いします』と喉まで出かかって慌ててこれを飲み込んだ私は、冷めた声色で切り捨てるように言った。


「こう見えて私、結構、料理できるんだけどなぁ」と唇をとがらせて言う先輩を見て、私はもしかして本気で言っていたのだろうか?と思ってしまったが、それとて真梨子先輩お得意の思わせぶりであるからして冗談だと認識しておいた方が後々傷が浅くて済む。


 文化祭を前日に控え、大学構内では二極化がその色を強めていた。私のように準備に余念なく当日を待つ者と未だ準備成るに至らずと必死に作業を続ける者。


 私は言いたい。何事も余裕と余念をもって望まなければならないと!


 二日前まで同じ穴の狢であった私がそんな傲岸不遜な弁を垂れ流しても、賛同する者どころか四方から金槌が飛んで来そうだ。


 だから、「それじゃ用事があるので」と先輩を正門の前に残し私はペガサス号にまたがり「えっ、恭君も講義あるんじゃないの」と言う先輩の言葉を振り切ってスーパーに併設されてあるホームセンターへ向かったのだった。

 開店時間丁度の店内では未だ品だし作業に勤しむ店員の姿が目立っている。私は特売トイレットぺーパーに後ろ髪を引かれつつもこれを振り切って『鍵コーナ』へ向かうと、多種多様と並んだ南京錠を手当たり次第にカゴの中に放り込んだのだが、レジに行く前に財布の中身を確認して落胆した私はその多くを返却した。南京錠のくせにどうしてこんなに値が張るのか。


 我ながら特売トイレットペーパーを買わなくて良かったと自身の決断を賞賛した。


「しまった……」

 

 当面の生活費を南京錠に換えて帰宅した私は、部屋に入った途端に漂う悪臭と開きっぱなしになっている冷蔵庫の扉を見て唖然として頭を掻いた。そう言えば、真梨子先輩から緊急連絡があってから取る物も取り敢えず駆けつけたとはいえ、冷蔵庫の扉さえも閉めずに行くとは……この匂いは牛乳だろうか……

 私は重いレジ袋を畳の上に放り出すと、まずは悪臭と冷蔵庫の中身を整理する作業に没頭せざる得なかった。結果、食べかけの食品はほぼ全滅し、残ったのは缶ビールと危険匂の漂う生卵だけ。

 生活費の全てを今し方使い切った私にとってはまさに絶望と言うに久しい事態であるが、人間、水だけあればなんとか生きて行ける。その上明日からは甘美祭が始まるのであるからして、各部の差し入れを拝借すればなんとか空腹は満たされるだろう。

 押入の中にしまってあった焼き菓子の缶を取り出すと、ひと思いに畳の上にひっくり返した。途端にアルミのコインが畳の上に山積みとなり、一時金持ち気分を味わった後、片付けが面倒な事に気が付いて頭垂れた。

 とりあえずは一円玉の山は置いておくとして、私は早速買ってきたばかりの南京錠の鍵をばらすと空になった缶の中へこれを全て落とし入れた。

「むう」残った錠と空になった財布を交互に見ながら私は缶の大きさに対して鍵の絶対数が少なすぎると唸った。

 これでは、鍵を隠すなら鍵の中。と言う単純且つ即効性のある私の作戦が成り立たない。私としては缶の中に溢れんばかりの鍵の中にただ一つだけ先輩の家の鍵が混じっている。と言うのが理想であって、こんな疎らな中に先輩の鍵を潜ませるのは私の理想からかけ離れている。

 財布の中を確認すると、理想と現実の狭間で頭を抱えるか煩悶としたあげくに妥協をするか、いずれかの選択肢しか存在しない。けれど、男子には妥協してはならない時が必ずある。加えて、ここで妥協をしてしまっては自身の生活を顧みず理想を求めた美しき自己犠牲の精神が無駄になってしまうではないか!理想的な結果に至らずとも許容範囲に収まる程度までは足掻きたい。いやなんとしても足掻かなければ。先輩の為と言うよりはすでに自分自身の意地のために後詰め策を練りはじめた。

 実を言えば、まだ現金は残っていた。仕送りとは別に部長の私用や執行部のお使いなど、汗と鼻水も積もればなんとやら。しかしながら、これを投入してもなお、焼け石に水であるから安易に使うことはできない。購入するは購入しなければならないのだが、できれば残った金銭を最大限行かした買い物をしなければならない。

 しばらく、寝ころんで考えを巡らせてから、鼻面くらいまである一円玉の山を見て「これを両替するか」と良案に思えて愚策に結論を得ようとしていた瞬間に私はひらめいた。そして、途方もなく後悔をした。往々にして思い込みとは人を間違った方向へ導く。私は机の引き出しから汗と鼻水の結晶を財布の中に入れると、再びペガサス号に跨ったのだった。

 三条通りを遡ること5分程度でペガサス号を止めた私は迷わずに自動ドアをくぐった。そして見つけた南京錠は種類に関してはホームセンターには到底及ばないながら、錠前自体の性能や安全性を求めていない私にとっては質よりも安価であることが第一条件なのだった。今日ほど100円均一店が頼もしいと思ったことはない。私の興味は錠前よりも付属している鍵に向いた。なんのことはない、見た目にはホームセンターのそれと瓜二つではないか。

 私はつい嬉しくなって、通りかかったパートとおぼしき女性に「この鍵をひと箱下さい」と言った。


「ひと箱ですか?」と露骨に訝しむ表情で見られてしまったが「文化祭で使うんです」と口から出任せを追加すると「在庫を見てきます」とすんなりレジ後ろにあるドアに姿を消してしまった。

 なかなか帰ってこない。勢いで箱で頼んだが、この手の商品はひと箱、何個入りなのだろうか……頼んでおいて代金が足りないともなれば、それなりに羞恥心である。


「お待たせしました」

 

 台車と共にドアから出てきた女性は。小包ほどの大きさのダンボールを私の目の前で開けると「こちらでよろしいでしょうか?」と確認を求めた。素っ気ないダンボールには個数は書いてなかったし、中身はぎっしりと詰め込まれていたので、瞬時に数えることもできず、財布を握る手に力を入れながら「はい」とだけ答えた。

 何事もまず覚悟を決めることが大切である。覚悟を決めてさえいれば、例えどんな結末であろうとも受け止めた上に内外の傷も比較的軽傷で済むし、何より狼狽しなくて済む。恥の上塗りと醜態を晒した上に狼狽えては醜さ百倍と言うものだ。


『えっと40個くらいだけもらえませんか?』万が一に備えて台詞も用意周到に私はレジへむかったのだが……原価は100円よりも安いらしく。一個百円にしては安価な支払い金額だった。

 やはり頼りとするべきはホームセンターではなく100円均一である。支払いを済ませてダンボールをペガサス号のカゴに入れると、JR奈良駅まで続く緩やかな坂をかんがみて、サドルに跨ることはせずにハンドルに手をかけて徒歩で帰路を急いだのだった。

 クリアパッケージの山と比例して増える錠前、1円玉のそれを順にみやると何かの儀式のように思えてきてしまう。ゴミも増えたが鍵も増えた、結局のところ缶の半分ほどしか埋めることしかできなかったが、錠前一つに付いてくる鍵が4本であるから、総数にして200本くらいにはあるはずだ。

 この中に似たような鍵を一本混ぜてしまえば、持ち主でも見つけ出すのは至難の技だろう。

 缶の中を埋め尽くす銀色の鍵の中に手を入れて見れば痛いほど冷たく、握っり上げては放してみれば、まるで小銭のようにじゃらじゃらと缶の中へ落ちていく。大した作業をしたわけでもないと言うのに、全身に鉛が流れ込んだように急激な疲労感が全身を広がって行く。これが俗に言う燃え尽き症候群と言うやつだろうか……などと思いながら、私は畳の上に寝転がった。


 気が付けば正午を回っていた。





 微睡む暇もくれやしない。 

 寝転がってすぐに携帯が震え、見やると先輩から大学に迎えに来て欲しい旨が記されてあった。無視をしてもよかったのだが、どうせ、この鍵満載の缶を先輩の元へ届けなければならないと言うことを思い出して私は返信をせずに缶を携えてペガサス号に跨ったのだった。

 大学までの登り道をえっちらおっちら登って行くと、すでに正門の所に先輩が待っていて。


「いつも返事頂戴っていってるのに」と可愛らしく頬を膨らませた。


 先輩……わざとやってますよね。


「お待たせしました。今日2コマだけでしたっけ?」


「一つ休講になったんだよ。だから一緒にお昼食べようと思って」そう言いながら先輩は購買で買ったであろうビニール袋を私に見せた。


「ご馳走になるとして、それなら食堂で待っててくれれば良かったのに」


「ほら、今日は気持ち良いから外で食べようかなって思って」


 そう言えば、今日ははっきりと晴れるでもなくかといって風があるわけでもなく。過ごしやすい気候だった。


「もう鍵替わってますかね」 


「わかんない。でも夕方くらいになると思うよ。まだお願いしてから4時間と経ってないし」


「愚問でした」


 そう言われればそうであった。珍しく朝早くからあちこち走り回ったうえに寝不足が加わって、時間の感覚が麻痺してしまっているようだ。


「2人乗りとか久しぶりだわ」


 そう言いながらペガサス号の荷台に横向きに腰を据えると、思わず振り返る私の肩に手を乗せてから、「行き先はお任せ」と片目を瞑って見せたのであった……真梨子先輩であれば、やりそうなことではあったが……

 私は「落ちても知りませんよ」と言いつつ、高揚した気持ちを押し殺して、はいよっぺガサス!と坂道を転がり始めたペガサスの手綱をしっかり握りながら、まさか生涯の内に女子を荷台に載せて走る日が来ようとは……内心ときめいて仕方がなかった。それはそれとして、私が真に驚いていたのは、先輩が荷台を跨がずに。横乗りをしたことであったのだ。ワンピースと言う出で立ちのためかもしれないが、個人的に荷台に跨いで座る女子を見ると、げんなりとしてしまう。品性の欠片もありもしない。

 勢いだけで見切り発進したものの、思い切りブレーキを握るたびに、断末魔の金切り声を上げるペガサス号には一抹の不安が拭いきれず、適当な所で止まらなければと思わざる得ない私であった。

 使うたびに効きが悪くなるブレーキが遂に効かなくなってしまった。舟橋商店街を通り抜け、川沿いの道にハンドルを切ったところで私はペガサス号を止め、先輩に歩くことを促した。

 幾ばくか葉の残る桜並木を見上げながら、歩き出した先輩は珍しく無口で、これからペガサス号との付き合い方について考えていた私もさすがにそちらの方が気になってしまった。

 麗らかな昼下がり、この道ですれ違うのは老夫婦か気まぐれなジョガーか。広い道もないからとにかく雑音が少なく、ある意味特有の雰囲気のある世界がここにはあった。桜並木を少し進むと、凸凹したアスファルトの道から桜の花びらを象ったレンガが敷き詰められた道との堺があり、その脇には川縁へ降りる階段が設けてあって、ただ降りるだけで桜の大樹の麓へ行くことができた。

 この道を通る度にこんな汚い川を眺めながら一時を過ごす者がどこにいるのだろう。と眉を顰めていたものだが。まさか自分がその『者』になろうとは思いもしなかった。

 増水すればたちまち姿を水面下に消してしまうだろう、タイルが敷き詰められたスペースにはコンクリート製の見た目にも頑丈、インテリの欠片もない長いすが設けられてあり、真梨子先輩は先にその椅子に向かって階段を降りて行ってしまった。

 私が椅子の所にやってくると、先輩は袋の中をまさぐって「どっちが良い?」と昼ご飯に買い求めていた菓子パンを取り出した見せてくれた。


「先輩が先に選んでください」 


「じゃあ、私メロンパンにするから、恭君はコロネね」 


「頂きます」


 私は頭を掻きながらそう言って、チョココロネを受け取った。

 さてどうしたものだろうか……この時、私はどうでも良いことを思慮していたのである。すでにズボンのポケットには片手を忍ばせてある。早く答えを導き出さなければ、次の瞬間には手遅れになってしまう。それでは思慮とて本末転倒であろう。

 このような事は、いつか、彼女と呼べる乙女とのデートの時にこそ。そう考えていたのだが……

 私は何も言わずにズボンのポケットの中で握っていたハンカチを取り出すと、真梨子先輩の鞄の隣に広げて敷きやっと「どうぞ」と呟いたのであった。

 きょとんとしていた真梨子先輩の表情からすれ、私はとてつもなく恥ずかしくなってしまった。てっきり。「ありがとう」の一言が先行すると思っていた……乙女とのいいや、葉山さんとのデートの事前練習として、行動してみたのだが……この結果は家に帰ってから冷静な頭でもって次はどうしたものか論争する必要がありそうだ。


「何が面白いんですか」


 私は頭を掻いた。真梨子先輩は何が面白いのか、くすくすと笑いながら、ハンカチの上に腰を降ろすと、やはり何が可笑しいのかそのまま笑い続けていた。


 これでは私の立つ瀬がない。


「今時、こんなことする人いないよ。恭君って紳士だねえ」


 紳士と言われることは嬉しくある。だが、笑い声と共に言われると、からかっているのか篤実と評されているのか判断に困る。


「そのワンピースを汚すのは勿体ないと思ったんですよ。これから家庭教師のバイトもあるんでしょ」


 これも真実である。全てが婦女への愛情と言いたいところである。だが、半分はワンピースに一片でも土色がついてしまうのが勿体ないと思ったからなのだ。


「春また来たいね」


 目尻の涙を拭ってから水面を愛でるように見つめながら真梨子先輩はそう言ったのであった。





 先輩よりも早くコロネを食べ終えた私は、会話の機会を窺うことなくただ、浅い流れの水面を見つめては佇んでいた。やはり季節は確実に冬へ向かっているようで、何もせずにじっとしていればそれなりに冷えてくる。


「なっちゃんも一緒だったら良かったのにね」


 先輩はスカートの上に零れたパンクズを払いながら呟いた。


「それなら、小春日さんや音無さんも……」古平も……と言いかけて言うのをやめた。黒一点は私だけで十分だ。


「なっちゃんと何かあった?」


「どうしてですか」


「ついこの前まで良い雰囲気だったのに、今はぎくしゃくしてるって言うか、さ」


「それは先輩の勘違いです。良い雰囲気になんてなった試しがないし、どうやら私は葉山さんに嫌われてしまったようですから」


 「もう葉山さんのことはいいんです」先輩が口を開きかけたの制するように続けて私はそう言った。


「女の子って、男の子からすれば面倒くさいんだよ。だからさ、少し我慢してあげてよ。今はそうでも時間が解決してくれると思うから」


 そんな優しい顔でこちらを向かないでください。私は先輩のお節介加減に腹が立った。恋愛請負人と名を馳せ、知る人の居ない真梨子先輩であるから葉山さんをさりげなく紹介してくれたあの日は……あの日ほど先輩に感謝した日はなかった。そう思って疑わなかった。

 思い起こせば私はこれまで、恋をするほど好きでもない異性に対して幾度か告白をしてきた『友達でいたい』とか『ごめんなさい』とか『そう言う告白はいや』とか『無視』とか……大凡、これ以上ないくらい振られ続けた経験をのみ培ってきた私なのだ。自身でもこれ以上の振られ方はあるまいと、次こそは成功するに違いない。と胸をときめかせ加えて真梨子先輩が後ろ盾てくれる現状から失敗することなど……微塵も感じていなかった。けれど、世間は広い、私1人が経験する事象の多さからすれ世間は広すぎた。

 まだ外堀を埋めている最中に『告白する前に振られる』を新たに経験した。そんな経験値ばかりを高めてなんとする。ファンファーレと共にやさぐれ捻くれレベルがアップするばかりではないか。

 縁は異なもの味なものと言うが、私は古平や部長を筆頭に阿呆漢との縁には恵まれても乙女とのご縁には遠く恵まれない星の下に生まれてしまったのだと生まれの不幸を呪うしかないのだ。

 諭すように語りかける先輩の声を聞き流しながら私はやさぐれていた。そして、畳の上に残してきたゴミの山の後始末と1円玉の山の事が心配になり頭を垂れたのだった。

 夕方を前に「冷えてきたね」と先輩が呟いて、頃合いだろうと「そろそろ交換も終わってると思いますよ」私はそう言うと静かに立ち上がった。

 言葉少なく歩く道すがら私はやっと理解した。確かに私としては葉山さんが居ない方が気を遣わなくていい分、助かったのだが。内心ではどうして先輩が葉山さんを伴っていなかったのが疑問だったのだ。感づいたのか葉山さんから何か聞いたのか、先輩は私に『諦めるな』と言いたくて二人きりで話す機会をつくったのだろう。けれど、どうしようもない。仲直りもなにも喧嘩をしていないのだから直しようがない。それに、そもそも自分の恋路を先輩頼みにした私も情けがない。先ほどはつい先輩に腹を立ててしまったが、それこそ愚考だった。他力本願の丸投げでは成就するものも成就するはずがないのだから……

 大家さんの家に行くと「もう鍵の交換は終わってるからね。恋人に頼るのも良いけどストーカーだったら警察に連絡してよ」と大家さんは心の底から真梨子先輩の事を心配してくれていた。本当に人の良い大家さんであるが、一つだけ訂正しておきたいと思う。


 私は真梨子先輩の恋人ではない。 

 

「恋人だってさ。これからも頼らなくっちゃね」


 新しい鍵をキーホルダーにつけながら、嬉しそうに話す先輩。この人は究極の楽天家なのか事の重大さをすっかり忘れてしまっているのか。

 

「あんまり代わり映えしないね」 


 自宅へは先輩が先行することになった。缶をペガサス号のカゴに忘れて来てしまったことに気が付いて私が引き返したからである。

 ドアの前で私を待っていた先輩に私が言った。確かに、据え付けられたドアの風合い違いに新しい鍵穴を見るに交換されていることは見た目にも確かではあったが、どうやら錠自体は以前と同じシリンダー型の物らしかった。


「前の鍵じゃ開かないから大丈夫だと思うけど」先輩は、以前使っていた鍵を入れて見たが錠は開くことはなかった。

 そして、視線はメータケースのドアへ行くのだ。


「駄目だって言っても聞きませんよね。合い鍵の隠し場所を用意しましたから」


 どれだけ言っても先輩はまた同じことを繰り返すだろう。ならば、やめさせるよりも、受容の後にそれに沿った対抗策を考える方が論理的である。それが事件のあった夜、炬燵の中で熟慮の末に出した私の結論だった。


「これ、全部鍵……」私が差し出した缶の蓋を開けて先輩はそう呟くと、何度か鍵の群れに指を差し込んでかき回すようにしていた。

 

「木を隠すなら森の中って言うでしょ。鍵を隠すなら鍵の中です」


 私は少しばかり得意になって言った。諺のようなことをすらっと言えるとどうにも自分が偉くなったような気になって心地が良い。

 

「ありがとう。こんなにしてもらって……恭君は私の王子様だね」目尻に浮かんだ涙を拭いながら先輩が言うので「そこ泣くとろろじゃないですよ」とすっかり自己陶酔していた私は思わぬ涙に、舌を噛んでしまった……臨機応変に立ち回れない辺りは自己嫌悪である。 


「でもこれじゃ、どれが合い鍵なのかわかんないね」完爾として口元に笑顔を作る先輩だったが、遂に涙を拭いきれず何よりも透明な雫が頬をつたい、やがて顎の先から足下へ落ちて行く。

「ごめん。嬉しくって……でも変なスイッチ入っちゃったみたい」と震えた声で続ける先輩。


「喜んでもらえたなら私も嬉しいです」私は頭を掻きながらやっとそう答えることができたのだった。

  

 その後しばらく先輩は泣き続けた。そんな先輩の姿に昨夜の事を思いだしていると「上がっていってよ」と先輩は充血した目で言うのだ。私は困った顔をしてから作品を部長に提出しなくてはならない旨を伝え、これを断った。

 お邪魔しても良かったのだが、話すことは川縁で全部話した気がするし部長への提出の件は本当だった。


 珍しく食い下がらなかった先輩は「昨日から本当にありがと、やっと安心できた。後……ハンカチ嬉しかったよ。まさか映画のヒロインみたいなこと、してもらえるなんて思ってもみなかったから」と真梨子先輩は申し訳なさそうにはにかんで見せた。


「当然のことをしたまでです」と私は胸を張って答えた。


 別れ際、


「ハンカチ洗って返すからね」と先輩は私の背中にそう言った。ポケットの中にずっと入れっぱなしにしていて、もしかしたらあの椅子よりも汚いかもしれないハンカチであるからして、今更ながら逆に私が申し訳ない気持ちになってしまった。


 私はスキップをしたい気持ちを抑え、ドアの閉まる音を待った。そして、階段に差し掛かったところで、その音が聞こえるや否や、本当にスキップをしながら階段をおりた。階段をスキップで降りるなどと、高度なスキップテクニックが自分に備わっていたことに驚きつつ、私はどこまでも上機嫌だったのである。

 感謝の言葉の後に『当然のことをしたまでです』この一言がただ言いたかっただけかもしれない。それでも良い。この広い世の中で『当然のことをしたまでです』と実際に言うことができた男子が幾らほどいようものか!私の悦喜は最高潮達し、ペガサス号への数歩の合間を拳を突き上げ、私は今なんと格好の良い男なのだろう!と疑いもしなかったのである。 

 その刹那「格好悪いぞ。スキップ恭君!」真梨子先輩の声が聞こえた。ペガサス号に跨った私が見上げる先には、悪戯に微笑む真梨子先輩の姿があった。


 私の栄光は5分と保たなかった……



 


 今日を1日がんばりましょう。と目まぐるしい日々を越えて、ようやく私は最後の釘を打ち合えたのでした。

 教室の端で居眠りをしている人、床に散らばる木材片やダンボール、絵の具が何重にも練られたまま固まってしまっているパレット。改めて見回してみると如何に作業が壮絶を極めていたかを窺い知ることができます。

 「ふぅ」私は一息ついてから、軍手を外して資材置き場の上におくと、外注リストが所狭しと書かれた黒板に向かい、最後の外注品のところに赤いチョークで横線を引いたのでした。

 後は、外注元である各部、同好会が品を取りにくるだけですので、やはり私達の仕事は終わったのでした。


「お疲れ葉山さん。ごめんね、外注ばっかりお願いしちゃって」実行委員の音無さんがペットボトルのお茶を差し入れてくれました。


「いいえ。楽しかったですから」


「明日は本番だから、今日はゆっくりしてよね」


「はい」


 そう返事をしてみたものの、個人作品があるわけでもなければ小春日さんのように最終日にファッションショーを控えているわけでもありませんから、どちらかと言えば参加者と言った方が正しいのかもしれません。

 心地よい疲労感に包まれ、半ば燃え尽きたようにぼおっとしていました。教室に差し込む夕焼けのオレンジが一層疲れを助長しているように思えてしまいます。

 このままここで玉響のうたた寝をしてしまっても誰に何を言われることもないのでしょうね。そんな事を考えながら差し入れのお茶を一口飲みました、喉の渇きさえも忘れていましたので、含んだお茶は私の体の中を巡って乾いた体を潤してくれているようでした。


「終わり」


 寂しいような嬉しいような。いずれにしても私の役目はこれにて終わりとありなりまして候。なのです。

 ジャージの上着についた木くずを払いながら帰っている途中に真梨子先輩から電話がありました。


「はい」


「よかったぁ、なっちゃんまた携帯家かと思ってた」


 そう言う先輩に私は少し口をすぼめました。資材の調達や作業の進行具合など、その連絡手段として携帯電話必須アイテムで、ここ3日間、私は生涯で一番携帯電話を使ったと胸を張って言えるのです。何せ、充電器を大学へ持ち込んだくらいですから。

 先輩が「前夜祭しようよ」と言うので私は一度家に帰るか否か考えてから、直接先輩にアパートへ行くことにしました。



「何か買って行く物ありますか?」とメールを打っている最中に「何も買ってこなくっていいからね」と先輩からメールが入りました。何もかもお見通しなのですね。私は携帯をポケットに片付けると、少し歩みを早めました。

 何を作るのかは知りませんでしたが、お手伝いくらいはしなくてはいけませんあから。


「お邪魔します」


 先輩のアパートに到着すると、丁度先輩は誰かに電話をしている所でした。小春日さんでしょうか?と思っていたのですが、電話を切ってから「いらっしゃい。小春ちゃんも呼んだんだけど、まだ準備残ってるって」と言うのです。では一体誰に電話をかけていたのでしょうか。


「今夜はお鍋をします!」


 エプロンを私に差し出しながら先輩は高らかに宣言をしました。


「朝夕冷えますもんね。がってんです」


 私は頼りない腕を曲げて力こぶをつくる仕草をしてこれに答えました。


 お鍋の材料を切ったりと準備をしている最中、今日中に千年パンツの仕上げをすることや、


「ねぇ、どうして上下ジャージーなの?」 


「家にあった汚れても良い服がこれだったんです」


「ふーん。それ、高校のジャージーでしょ」


「はい。母が送ってくれた荷物の中になぜか入っていたんです。送り返すのがめんどうだったので箪笥の奥にしまってたんですけど、思わぬところで大活躍です」


「うーん。ジャージーかぁ」


「ジャージーにエプロンが不似合いな事ぐらいわかってますよ。スカートでは釘打ちはできないんです」


「うーん。そう言う意味じゃなくってね。んーそこまでマニアックじゃないと思うわけよ。私は」


「ジャージーはマニアックですか?みんな着る時は着ますよ。体育の時とか」


「さすがにロリコンじゃないと思うし……」


「私はロリコンじゃありません!」そんな噛み合わない会話をしていました。

 

 やはり一度家に帰って着替えてから来た方が良かったですね。お手伝いを優先させたことに関しては後悔はありませんが………そんなにジャージー姿がおかしいのでしょうか?


 コンロと土鍋を炬燵の上にセットしていると、呼び鈴がなりました。


「ごめん。なっちゃん出て」


 私は音無さんでしょうか。と思いながら「はーい」と玄関へかけて行き、ドアを開けるとそこには両手に重そうな袋をぶら下げた夏目君が立っていました。


「あ、こんばんは」私は思わず夏目君の顔から視線を逸らしてしまいました。それ自体に意味はないのですが、てっきり音無さんだと思っていたので驚いてしまって……つい……


「これ先輩に頼まれたものです。とりあえず、ここに置いときますね」

 

 夏目君は小さく会釈をして、そう言いながら携えていた袋を玄関に置きました。


「それじゃ、私はこれで」今度は夏目君が私から視線を逸らしてそう言います。


 ドアが静かに閉まってから、夏目君が置いて行った袋の中身を見るとそこには南京錠が売るほど入っていたので違う意味で驚きました。


「あれ、恭君じゃなかった?」


 お玉を持ったまま先輩が玄関に来たので「夏目君でしたけど、これを置いてすぐに帰りました」 

 

「えぇー嘘ぉ。前夜祭一緒にしようと思ったのに」あからさまに肩を落として残念がる先輩です。

 さっきの電話の相手は夏目君だったのですね。私は得心がいきました。そして同時に、しくじってしまった事に気が付いたのです。これは夏目君と先輩の親密度を上げるチャンスではありませんか!っと。


「追いかけましょうか?まだ間に合うかもしれませんから」私はそう言いきらない内にドアノブに手を掛けました。


けれど「追いかけなくてもいいよ」っと先輩の手が私の腕を掴んだのでした。


「え……でも……」私は宙を泳ぐ右手を引っ込めました。


「今夜は2人だけでお鍋しよ。ちょっと寂しいけど」

 

 そう言う真梨子先輩は何かを諦めたような……そんな風でした。





「そう言えば、この大量の南京錠。どうしたんですか?」これは夏目君に聞いた方が良いように思ったのですが、とりあえず先輩に聞いてみました。

 

「んーとねぇ」


 先輩は土鍋に昆布を入れてから少し考えていましたけれど、「こっち来て」と玄関の方へ行ったかと思うと、さっさと外へ出て行ってしまいました。

 私も急いで後を追って外に出ると、先輩がガスメーターの防火硝子張りの蓋を開けていました。


「これ見て」


 私が出てきたことを確認してから、先輩は以前に見た物よりも2倍以上は大きいお菓子の缶を持ち上げて私に見せてくれました。


「合い鍵の置き場所ですよね?」


 缶の中をのぞき込みと、同じ様な形をした鍵が缶の中程までぎっしりと入っているではありませんか「これ、先輩がしたんですか?」思わず眉を顰めて先輩に聞きました。すると、

「違うよ。恭君がね、わざわざ用意してくれたの、私のこと心配して」と缶をまるで自分の子供のように愛おしそうに見つめる真梨子先輩です。


「なるほど。ブラウン神父ですね」


「誰それ?」きょとんとする先輩でした。


「木を隠すなら森の中。と言う言葉の原型を作った人です」ブラウン神父は物語の登場人物なので、厳密にはその著者が作った人なのです。


「そうなんだ、知らなかったわ。なっちゃん物知りだね」


 先輩は普通に驚いているようでした。中学の時にたまたま小説を読んで知っていただけなんですけど。


「でも、これだけあったら本物を見つけるのも大変ですよね……」


 私は先輩の抱える缶の中に手を入れて、ひんやりと冷たい鍵を掴んでは離しを繰り返しました。なぜかお金持ちになった気分になるのは気のせいでしょうか。


「だよね。だから、目印どうしようか考えてる途中なの」ガスメーターの下に缶を戻しながらそう言う先輩は「だからまだ合い鍵入れてないの」と苦笑をしながら続けてそう言いました。


 確かに、これだけの鍵の中からたった一本の鍵を見つけ出すことはとても難しい事だと思います……けれど、これではどれが本物なのかさえわからないじゃないですか。合い鍵とはもしもの時に重宝する鍵ですから、もしもの時、すぐに見つけ出せなければ意味がありませんし、それが急ぎの時であれば「こんな余計なことをして!」と憤る事請け合いです。

 夏目君は感謝と迷惑が絶妙に織り交ぜられたややこしいことをしますね。と私は思ったのですが、当の先輩は「頼んだわけでもないのに……恭君らしい優しさ」とまんざらでもない様子だったのでそれを口に出すことはしませんでした。


 お鍋の中身が煮える間、私は足先から沸き上がる羞恥心に顔が熱くなるのを感じていました。


「夏目君を呼ぶなら言っておいてくださいよ」 


「言ったらなっちゃん帰っちゃったでしょ?」


「どうしてそうなるんですか。せめて、先輩が出て下さい」


 今になって考えてみれば、きっと夏目君は吹き出すのを我慢していたのだと思います。目の前にいきなりジャージーにエプロンをした女の子が現れたなら、そのちぐはぐさに笑ってしまうことでしょう。人は驚きすぎると言葉が出てきませんけれど、爆笑を堪えている時だってやはり言葉を発することができないのです。

 

「そんなに恭君のこと嫌わないでよ。悪気はないんだから」


「だから嫌いとかそう言うのではなくって、こんな格好でその……恥ずかしいじゃないですか!」


 帰るとか嫌いとか、先輩はいちいち話しを変な方向へちゃかすので私はつい語気を強めて言ってしまいました。言い終わった後に、先輩が惚けていたので、しまった。と思ったのですが、次の瞬間には「なんだ恥ずかしかったんだ。よかったぁ」と言いながら真梨子スマイルを炸裂させたので、私は内心ほっとしたのでした。





 先輩と別れ、大学へ寄った後、家に帰って来た私は突きつけられた現実に思わずため息をついた。文芸部展示室に並べられた他部員の作品の中に『千年パンツ』紛れ込ませた後、執拗に電話を掛けてくる部長の電話を尽く無視をしてさっさと帰宅したのだが、畳の上にはゴミの山と鍵の無い南京錠の山、そして私の命綱となるかもしれない1円玉の山がそのまま残っていた。

 どうやら妖精さんは私の留守中に現れなかったようである。かといって、帰って来てこれらの山がどうにかなっていたらそれはそれで恐ろしい。妖精さんなど押入にも引き出しにもいやしないのだ。

 とりあえず、それぞれをレジ袋に詰めて部屋の片隅へ固めておいておいた。腹が減ったと冷蔵庫を開けてみればものの見事に何もなく、卵だけがあったからとりあえず卵を焼こうと殻を割ってみれば、途端に得も言われぬ悪臭が私を襲った。生命の危険を感じた私はたちまち台所から退避してみたが、悪臭は私をホーミングするかのようにどこに逃げても追いかけて来た。咽せながら最終的にベランダへ逃げ込んだ私は、心なしか黄ばんで見える部屋の中を見ながら、生でも焼いても茹でても良し、美味必然の生卵がいつの間に化学兵器に成り代わってしまったのだろうか、と真面目に熟慮をし、もしかしたら侵入者があったのかもしれないと結論づけた。

 私はベランダから望むマンションに灯る明かりの一つ一つを見ながら、あの一つ一つに家庭があって今頃、美味悦楽の真っ直中にいるのだろうな。などと、マッチ売りの少女に同情の念を馳せる一方で、やっと窓をあけて悪臭に支配される部屋にはいったのだった。


 空きっ腹に寒さは答えるのである。


 喚起と言う喚起を施して後、ベランダほど冷えはじめた室内にいて私は携帯が震えていることに気が付いた。また部長だろうと無視をするつもりでいたがもしかしたら、と携帯を手に取ると案の定、真梨子先輩だった。

 昨日の今日であるから、私はまた何かあったのだろうかと臍を固めて電話に出ると

「あっ、恭君。今大丈夫?」と普段の声が聞こえて来たので胸をなで下ろした。


「大丈夫です。なんですか?」  


「あのね、恭君がくれた鍵の鍵ってどうしたかなって思って」鍵の鍵って……先輩のことだからてっきり、『前夜祭しよっ!」などと突拍子の無い提案をしてくるのかと思った。現在の私にとってはとても有り難い提案なので、電話口一番に甘美祭の話題に私は落胆の色を隠せなかった。


「錠の方なら、まだ持ってますよ」捨てようにも南京錠は何ゴミになるのだろう。やはり燃えないゴミだろうか。


「よかった!今テレビ見てて良いこと思いついたの。悪いんだけど家に鍵持って来てもらえないかな」


「全部ですか?」


「うん、全部!」余程、良案が閃いたのだろう。先輩の声は私と逆ベクトルで明るく弾んでいた。

 私と言えば「わかりました。もう少ししたら持って行きます」と素っ気なく返事をして期待はずれと一方的に切ってしまった。


 空腹は時として人格さえも変えてしまうのである。


 期待はずれだっただけに、余計にタイミングが悪いと思ってしまうのはもはや仕方がないことだと思う。昼間無理矢理2人乗りをしてペガサス号のブレーキがお亡くなりになってしまっていたことを忘れていたのだ。仕方が無く、すでに食い込むビニール袋を両手に下げて私は真梨子先輩のアパートへと向かったのである。

 両腕が疲労を通り越して痺れはじめた頃、やっと先輩のアパートに到着した。呼び鈴を鳴らすとドアの向こうから、「はーい」と言う声が聞こえた。声からして先輩ではないことがわかったからもしや、と思うも時すでに遅く開いたドアの先には葉山さんの黒い瞳があった。

 目があってしまったので不器用な間があってから「あ、こんばんは」と言った。すると葉山さんは返事をすることなく視線を逸らしたではないか。目は口ほどにモノを言うのだから、どうしても嫌われてしまったものだ。と私も葉山さんから視線をはず

して「これ先輩に頼まれたものです。とりあえず、ここに置いときますね」できるだけ葉山さんが視界に入らないように気をつけながら運んで来た荷を玄関のところに置いた。


「それじゃ、私はこれで」


 瞬間だけ葉山さんの姿を眼に焼き付けると足早にその場から退散した。


 帰りの道すがらも部屋に帰ってからも、私の頭の中はジャージー姿の葉山さん一色であった。普段着の葉山さんも可愛らしい。だが赤に近い紺色のジャージー姿の葉山さんとてやはり愛らしい。ドアから顔を覗かせた葉山さんを思い出しながら今更ながら、共学の高校へ行っておけばよかったと猛烈に後悔したし、目視撮影にて脳内現像された葉山さんに思いを馳せてはどうしてエプロンをしていたのだろうとか、やっぱり可愛いなぁ。と私自身がすでに【振られた(仮)】現実を踏まえた上でもまだ葉山さんに恋いこがれている事実を認めざるを得なくなった。この感情だけは決定的な結論を彼女自身から告げられない限り、私本位に都合良く割り切れるものではない。


 私は葉山さんのことが好きだ……彼女の事を考えると夜も眠れず空腹さえも忘れてしまう。

 だからこそ、今のままではいけない。このままでは、自分の気持ちすら伝える勇気がない言い訳に煩悶と歪曲を繰り返しあげくにフランソワーズちゃんしか愛せなくなった部長の様に堕落してしまう。


 私はアレを男子の成れの果てと呼んでる。


 明日から数日続く甘美祭はそれにうってつけの機会であり、日頃では絶望的でもこの誰しもが浮かれる数日間に関しては勝率がかなり上がる……らしい……古平情報なだけに信用しきれない部分もある。だが、この機会に成功を収めることができたなら、

後に続く、クリスマスや大晦日を最大限充実させることができる。

 理詰めにて十分に自身を鼓舞した私は、闘志をみなぎらせ来る一世一代の天王山はこの機にあり!勝負はいつでも一か八か石橋叩きくそ食らえ! 


 と、ノープランで勢いづいていたのであった。





 無駄に興奮をしてうまく寝付けなかった翌日、私は部長からの着信で最悪な朝を迎えた。

 全然把握していなかったのだ、どうやら、甘美祭初日、展示室の案内係が私であるらしく、「シフト表を作らない部長が悪い」と抗議してみるも、聞きとれないほどあれやこれやとがなり立てるので、仕方がなく着の身着のままで大学へ向かうことにした。

 徒歩で大学へ向かうと、えらく文化祭らしく様変わりしていたので正直に驚いた。昨日訪れた時にはその毛すら感じられなかったと言うのに、一晩でよくここまでやってのけたものだ。


 秀吉の一夜城も吃驚である。


 『甘美祭』とかかれたアーチをくぐって、講堂まで所狭しと露天がならび、ピロティでは演芸部が客引きに奔走していて、一部の学生が執行部に追いかけられていて。賑やかなること祭りの如し。「文化祭はこうでなければいけない」私は納得するように頷いた。『祭りは雰囲気を楽しむものだ』祖父の口癖であったが、それまさに、「同じ阿呆なら踊りゃなそんそん」講堂棟からメイン会場であるグランドを挟んだ向こうに見える部室棟の屋上から上がっている広告気球を見上げながら私はもう一度呟いた。

 間に合わなかったのだろうか。講堂棟の中庭内にある緑地帯ではクリエイティブらしい面々が何やら急ピッチで建設中であった。ご苦労なことである。

 ビンゴゲームに白熱するグランドを横切って部室棟内にある文芸部の展示へと向かうと受付と書かれた紙コップを置いた長テーブルに部長がいて、電話口と替わらない音量で何やかんやと文句を言われた後に真梨子先輩の近況を聞かれた。


「そんな事、知るわけないでしょ」面倒くさいので適当に返事をして展示室内に入ると思っていたとおり文芸部員の面々が出展した作品を身内同士で褒め合っていた。

 

 そんな微笑ましい情景に唾棄したい気持ちを抑えつつ、狭い室内に並べられた文芸紙や個人作品、部長のフィギュアコレクションを一通り見て回った私は、受付席に腰を降ろして、大きな欠伸をしつつ大袈裟に伸びをした。

 去年もそうだったが、いくらスペースが余ったからと言って、フィギュアを並べるのはいかがなものだろうか。過去の作品を並べるなり、やりようはあるはずだろうに。

 身内論評を十二分にし終えて、満足感を漂わせて部屋を出てきた面々を見送りつつ、「夏目君のも面白かったよ、もう少し推敲したらもっと良くなったのに」と感想をくれた愛すべき隣人を「〆切に間に合わなかったんだ」ともっともらしい言い訳をしてやり過ごし、静寂を取り戻した廊下で私はさっそく机に突っ伏したのであった。

 

 



 三十分ほど意識を失って、足先の寒さで寝られなくなった私は、エアコンの入った展示室内に入ると、受付から携えてきた油性ペンでフィギュアに落書きに興じたのである。

 瞳を塗りはじめた所で、ポケットが震えるので取り出してみると、真梨子先輩からのメールだった。


[中庭で面白いことするから、なっちゃん誘って一緒においでね]


 ほう。また悪巧みですか先輩……大好物です。


 私と葉山さんとの仲を取り持ってくれる先輩の気持ちは、とても嬉しかったのだが、私の気持ちの中ではすでに他力本願では成せるを成せず成るを成らせず。もう覚悟を決めていた。


[葉山さんとは行けません]


[どうして?]


[葉山産にはすっかり振られていたんです。先輩も私と葉山さんの事は気にしないでいいですから] 


 回りくどいやりとりを続けて、電話を掛けてこられても困る。少々仰々しく葉山さんとの結論ではなく私自身の結論を託して、最後のメールを送信した。

 送信した後になってあんな文を送った方がよっぽど電話がかかってくると思い直し、急いで携帯の電源を切った。

 何の接点もなかった葉山さんとの切っ掛けを作ってもらえたこと。ただそれだけで良かったはずなのだ。これ以上のお膳立てはいらない。


必要なのは不退転の覚悟ただそれのみ。





 お鍋を食べ終わった後、先輩と千年パンツの仕上げをして、明けた甘美祭当日。先輩は準備があるからと朝早くに大学へ向かい、先輩と一緒に部屋を出た私は、一度家に帰ってから美術部の展示コーナーにそれを展示しに行きました。

 一端木綿のように長くてでも汚くて。急ごしらえにしては風合いや汚れの具合など、うまく表現できていると思います。

 お祭り日和の本日は、お日様ぽかぽかで温かく、かといってそよ風は冷たくて心地よく。お昼寝日和でもありますね。そう思ってしまう私はすっかり寝不足のようでした。

 気持ちよさそうにふわふわと青空を泳ぐアドバルーン。会場随所に見あたる大道具のほとんどは美術部とクリエイティブ部とで製作したものです。ですから私が手がけた物も見あたりますし、携わらずとも製作最中を見知っている物も数多く。自分の作ったものが誰かの役に、また、この甘美祭と言うお祭りを構成する一部になっていることを実感すると、昨日、最後の釘を打ち終えた感慨が蘇るようでした。


「葉山さん。お疲れ様」


 学食前で小春日さんと出会いました。服装からからすれ小春日さんはまだ作業を続けているようで「お疲れ様です。まだ作業ですか?」と私が小春日さんの肩越しに中庭を覗くと、クリエイティブ部の方でしょうか数名が中庭の緑地に何やら建設をしていました。


小春日さんは「急遽作ることになったんだってさ。私はもう作業終わったんだけど……」軍手をジーンズのポケットに押し込みながら「着替えに変えるのが面倒になっちゃって」と苦笑しました。


「でも、よく引き受けましたよね。クリエイティ部も今朝ギリギリでなんとか外注を消化できたって聞きましたけど」


「だよねぇ。私だったら絶対断る。学食のチケットちらつかされても断るわよ!」小春日さんは腕を組むと何度も頷いてそう言うのでした。

 文化祭を経験するたび学生は逞しくなる。なんて噂がまことしやかに噂されていましたけれど、どうやら事実だったようです。  

 

 私と小春日さんは連れだって、カフェに様変わりした学食に入ると、二階の席へ移動しました。

 まだ甘美祭が開催されて間もない事もあってか大凡は県大の学生が占めていました。


「そう言えばさ」


 入り口とは逆方向の窓側の席に腰を降ろすと同時に小春日さんが身を乗り出して言いました。


「何ですか?」


「先輩には秘密って言われてるんだけど」周りを気にしながら声を潜めて続けます。


「もちろん、お墓まで持って行きますとも」私も『秘密』と言う言葉に惹かれて、身を乗り出して小春日さんに顔を近づけました。


「真梨子先輩、クリエイティブ部の人達と一緒に何か作ってるみたいなのよ」


「何か?ですか……もしかして、それって中庭で作っていたのと関係があるのかもしれませんね」


「んーどうだろ。ちらっとしか見えなかったんだけど、私が思うにあれは鳥居だと思うのよ」


「鳥居ってあの神社にある鳥居ですよね?」


「そう、その鳥居。朱色じゃなかったけど形は鳥居だった」


「と言うことは真梨子先輩がクリエイティブ部の人に手伝ってもらってるってこと……かな?」  


「真梨子先輩が鳥居を作る理由はわかんないけど、仮に真梨子先輩が頼んだんだとしたら、クリエイティブ部が手伝っててもおかしくないかも」


 細くて形の良い人差し指を顎のところにやって「クリエイティブ部の部員の何人かは真梨子先輩の事好きだし、部長は去年仲人してもらったしね」と続けて言いました。


「そうだったんですか!初耳です………」


「そうだよ。他にも美術部と弓道部とソーイング同好会とサッカー部と……映画研だったかな。みんな仲を取り持ってもらったの」


「そんなに……ソーイング同好会とサッカー部は小春日さんと古平君ですよね」


 私は思いついたままを口にしてみました。 


「あぁ。うん」


 すると、小春日さんは急に口元をすぼめて視線を机に落としてはもじもじとするのでした。

 その可愛らしいことと言ったら!


「いたっ!」


 私が小春日さんの微笑ましい姿を見てにこにこしていると、俄に入り口の方が騒がしくなり、突然の落雷のようにそんな声が響いたかと思えば、ぺったんぺったんがこちらに迫って来るではありませんか。


「ぇえ、先輩」小春日さんが眉を痙攣させてそう呟きます。


 声で何となく落雷の主が誰なのかはわかっていましたけれど……まさか、明るい茶色だった髪の毛の色を黒に戻して且つ巫女装束で現れるとは思っても見なかったので、私の横手に胸を張るように仁王だった先輩に私は言葉を失ってしまいました。


 そして先輩は大きな声で言うのです「恭君振ったって本当!」っと……私は寝耳に水と思わずカフェラテをこぼしそうになってしまいました。


「そんなっ!振るも何も告白さえもされてません!」 


 私はみるみる自分の顔が熱くなるのを感じました。 


「それに声が大きいです。メールか電話にして下さいよ」先輩が、大きな声で言うものだから、周りの視線が一点に集中してしまっているではないですか……ただでさえ突然闖入してきた巫女装束に視線は釘付けとなってしまっていると言うのに。


「何度も電話もしたしメールも入れたもん。でも出ないし返事もないから、直談判!」


「えっ、最近はちゃんと携帯を持って来てます」私は急いでポケットの携帯を取り出しました。


「あ……電池が……」使用頻度が増えるとバッテリーの消費も増えるのですね……


「バッテリー切れじゃ葉山さんに罪はないよ」携帯の画面を見たまま固まっている私に小春日さんが助け船を出してくれました。 


「なっちゃんさ。本当に振ってないの?」


「誰が言ったのか知りませんけど、私は振っていませんし、告白もされてないんです」


 私は語気を強めていいました。身に覚えが無いのだから否定し続けるしかありません。


「なんだぁ。もう恭君はいつもそうなんだから」


 先輩は私の瞳を見つめて事の真意を確かめたのでしょうか。少しの間、考えてから大きく息を吐きながら、脱力したように両手を机の上についてそう言いました。


「夏目君が、振られたって言ったんですか?」


「多分、私の勘違い。本っ当にお騒がせしました」手のひらを会わせて深々と頭を下げる先輩なのでした。


 「中庭で面白いことしてるから、きっと来てねぇ」そう言い残して先輩はぺたぺたと草履を鳴らしながら足早に入り口付近の雑踏の中へと消えて行ってしまいます。まるで嵐のようですね。私がそんな風に思っていると「嵐みたいだったね」と小春日さんも言うので「私も今そう思っていました」と笑いあったのでした。


 



「はじまっちゃうと、なんかもう終わっちゃったみたいだね」伸びをしながら言う小春日さんはどこか眠そうです。


「そうですね。急にやることがなくなると、気が抜けてしまって」


 昨日までの忙殺の日々がまるで嘘のみたいです。はじまりと同時に終わりが始まる。そんな風に言いますが、本当にその通りです。本来は本番こそ楽しまなければいけないのですが、どうしても準備に明け暮れた日々を思い出しては寂しくなってしまいます。

 きっと、大変だったけれど、とても充実した毎日だったのでしょうね。


「んーどうせやるなら徹底的にやった方がいいよね。お互いのためにも」


 私が賑わう学食内を見て感傷に浸っていると、小春日さんが突然そんなことを言うので私は「甘美祭をですか?」と聞きました。


「違う違う。キューピット。真梨子先輩と夏目君のキューピットするって決めたのに、ちんどん屋とか文化祭の準備とかで何もできてないから……」


「あぁ……そうでした……」


 実を言うと私もすっかり忘れてしまっていました。


「この甘美祭でなんとかできないかなぁ」


「良い機会だとは思いますけど……どうしたらいいか……」


 何もしないまま暗礁に乗り上げた気分です。確かにこの文化祭と言う機会を逃す手はありませんけれど、私には何をどのようにすればいいのか皆目検討が付かないのです。


「夏目君にとっては忘れられない文化祭になっちゃうけど……まずそれからはじめないと……」


 悩むに悩めず、小春日さんの提案を待っていた私は深刻そうな小春日さんの表情を斟酌して思わず息を飲みました。

  

 そして「あのね……」と小春日さんが重々しく口を開いたのでした。


 



 文化祭での買い物は2日目に行うに限る。そもそも素人屋台であるからして、初日のクオリティたるや味見程度のもので、とても財布を開いてまで購入する価値などありはしないのである。

 だから翌日の昼前に再び大学へと足を運んだ私は、早速、作り置きをしすぎて売り物にならなくなった、たこ焼きと焼きそばを手に入れると、文芸部の展示スペースへと向かった。甘美祭期間中、構内での飲食は禁止されていたが、そんなことを気にする私ではなかったし、この小さな背徳感が味を良くしている感さえあった。


「夏目君。君どんな奇術を使ったんだい」


 無人の受付の机の上に食べ終わったゴミを置いたタイミングで、部長が展示室から出てきたので驚いた。


「何の話しですか」

 

「これだよ」そう言いつつ携えたノートを開いて見せた。


 『訪問帳』と表紙に大きく書かれた新品同様のノートには、珍しく作品の感想やらが何ページにもわたって記されてあった。

 

「今年は盛況ですね」この訪問帳が去年の使い回しだと思えば尚更だ。


「いや。それにも驚いたんだけどね。これ全部君の作品への感想なんだよね」


 確かに、感想の一番上にの所には『千年パンツの感想』と書かれている。全ての感想の上にそう書かれているのである。著者である私が一番奇妙奇天烈と顔を顰めたくらいだ。

 

「天変地異の前触れだよ」

 

 嫌味を残して受付席につくなり部長は「僕は何を間違えたんだ」と頭を抱えてしまった。編集長を気取ってみたものの、編集監督できなかった作品が世に受けたのが余程堪えたらしい。


「似非なんだから、気にしないでも良いじゃないですか」と慰めた積もりが、「なんだと、うるさいうるさいうるさい!」逆に火に油だったので、噛みつかれる前にノートを机の上に置いてその場を離れた。



「ゴミ置いてくな!」と声だけが廊下を追いかけてきたが、聞こえない振りをしたから万事問題はない。

 

 二階へと続く階段を上った私は多目的室へ向かった。確か美術部とクリエイティブ部が作品の展示をしているはずだからである。

 芸術に興味すらない私であったが、先ほど拝読した感想の中に『美術展示で実物を見て気になりました』と言う記述があり、それを読んだ私が今度は気になったわけである。

 多目的室は賑わいを見せていて、クリエイティブ部と美術部の部員の何名かが熱心に来場者に作品の説明をしていた。

 

 それは会場の窓側に展示されたあった。


 衣紋掛けに掛けられたそれは、パンツと言うには長く、下に行くほど尻つぼみ。両脇から伸びる細い物はまるで手のようで……まるで一端木綿のようだった……と言うか、千歩譲ってもパンツではく、ふんどしではなかろうか……

 まさかとは思ってみたものの、作品の下の所にはマジックペンで『千年パンツ』と書かれてあった。


「ふむ」何とも言えない汚れ具合とくたびれ加減に千年経てばこうなるのか。となぜか著者である私が納得してしまった。実に無責任な話しであるが、私は千年パンツに関して実体像を想像していなかった。

 そして、作品タイトルの下に制作者欄に先輩と葉山さんの名前があったことに関しても納得できてしまった。そう言えば、制作するようなことを言っていた気がする。

 

「千年パンツってどんな小説なんだろうね」


「文芸部の展示で読めるらしいよ」 


「ちょっと行ってみない?」 


 私の隣で特大ふんどしを見ていた高校生くらいの女の子達がそんな会話をしながら、多目的室の出口へと向かって歩いて行く。

 なんと至福の時だろうか! 私は嬉しい悲鳴を上げそうになって、もっとちゃんと推敲をしておけばよかったと猛烈に反省したのだった。


 後悔をしても今更どうなるわけでもない。だから私は逃げるように部室棟から退散して本館の方へ向かうことにした。グラウンドでは相変わらずビンゴ大会をしている。よくもまぁそんなに景品があるもんだな。などと思いつつ、更に歩いていると、突如、緑色の短パンに同色のランニングシャツ、顔には黒に目の周りを赤く塗った覆面マスクをした変なモノが現れ。無駄のないランニングフォームで私の横を駆け抜けて行った。


 その後から遅れて「それ捕まえてぇ!」と箒を両手に持った音無先輩が駆けて来たので、

「どうかしたんですか」と声を掛けた。


「あの覆面。昨日から甘美祭を荒らして回ってるのよ」


 どれくらい走ったのだろう、音無先輩は『執行部』と書かれた腕章を直しながらその手で額の汗を拭った。


「食い逃げですか?」


 暢気に言ってしまった私に、


「それならまだ可愛いわよ」と鼻筋の通った音無先輩の顔がこちらを向いた。私としてはもう少し背が高ければ好みであると思った。


 手配ネーム『ラン覆面』と執行部が名付けたそれは、先ほどすれ違った上下ランニング姿で覆面マスクを被った男で、主な犯行は手を繋いでいるカップルの間を「爆発!」と言いながら裂いて駆けたり、1人でいる女の子に小玉林檎飴を配ったりするらしい。最新の犯行手口としては、楽しそうなカップルの男の方にだけ水風船をぶつける凶行も確認されているとのことだった。


「暇な奴も居たもんですね」私は率直な感想を述べてみた。


「暢気に言わないでよぉ。昨日から苦情がひっきりなしで困ってるんだから。ただでさえ会場運営に人手が足りないって言うのに」音無先輩はとても窶れた表情を作って私に陳情する。


 そんなこと私に言われても困るのだが……


 話しの流れとして「と言うわけだから、夏目君逮捕に協力して。うまく言ったら、執行部で発行してる模擬店の無料券あげるから」となり当然の帰結を持って「わかりました。是非協力させて下さい」私は執行部に手を貸すことになった。もちろん、これは健全なる甘美祭の運営の為であって、決して無料券に身の籠絡を許したわけではないと言っておきたい。


 音無先輩から箒を受け取った私は、先輩の所持している無線から「奴は再び本館方面に逃走中です」と言う無線を聞いて、先輩よりも早くに韋駄天走りで駆け出した。

 私は一刻も早く奴を捕縛して晩ご飯を手に入れなければならないのだ。何せ、金がない私には転じて食う物がない。


 冷蔵庫にあるのは腐った卵だけなのだ!


 

「私は学食の方から行ってみるから、本館よろしくね」


 中庭のグラウンド側の端にある図書館横の通路で音無先輩と別れた私は、緑地帯にできた黒山の人だかりを苦々しく思いつつ、事務所へ通じるドアを開けると二階へと上がった。

 本館2階は各研究室が並んでいて、甘美祭とは一線を引いた静寂が漂っていた。治外法権と各教員が割り振られた研究室に入りきらない荷物を廊下に置いているので、さながら旧館の物置のようである。

 手に持った箒をそれとなく左右に振ったりしながら、歩いていると、柄が何かに当たったらしく、瞬く間に床一面に小さい何かが広がった。拾い上げてみると、それはどうやら金平糖らしく、食べて確認をとまで気は起きなかったがその形からそうだろうと私は思った。

 どうしてこんなところに金平糖が。当然のようにそう思ってみたものの、瓶詰めされた素麺にボートのオール。何が入っているのか不明な大きなダンボール箱と、置きっぱなしになっている荷物のバリエーションの自由さに金平糖くらいあっても何の不思議もないと思い直した。

 丁度、箒を持って居るのだから後でか片づけるとして、私は窓を明けて中庭を見下ろした。


 鬼ごっこの鉄則はまず高いところに登ることなのである。


 格好からしても、あの有り余る体力と脚力からすれ、陸上部であることは明白であったが、それはきっと甘美祭の後に執行部が陸上部を断罪するであろうから、今はあまり重要ではない。

 今大切なのは一刻も早く無料券を……ではなくて不埒漢による凶行を阻止することなのだ。

 緑地帯を中心に中庭は人でごった返しているので、覆面男は中庭を通ることはしないだろうと私は考えた。そして、ビンゴ大会よりも人気を博している緑地帯には白い鳥居が立っており、そのすぐ前には巫女装束に身を包んだ真梨子先輩の姿があった。髪の色を黒に戻していたので、一瞬誰だか判別できなかったが、はじめて声を掛けられた時に見た黒髪姿を思い出して真梨子先輩だとわかった。

 あの人は常に人々の中心にいるな。と感心しつつ、鳥居に『県大大明神』と黒文字で書かれていることに気が付いて、なんじゃらほいと頭を掻いた。

 お客の合間から見え隠れするのがこそばゆいようでもどかしいが、制服の3割増しと、巫女装束の先輩が動く様は見ていて一向に飽きなかった。

 今更ながら、どうして髪を茶色に染めたのだろうか。などとどうでも良いことを考えてしまった。


「あぁ」


 私はしばらく先輩の巫女姿に見とれてから、無線を片手に部室棟の方へ駆けて行く音無先輩の姿を見て任務を思い出した。

 とは言え、追えば逃げるし逃げたら追う。を繰り返したところで不毛な消耗戦になるだけではなかろうか。私は体力がないことは自負しているし、とてもではないが覆面男を真面目に追いかけたところで追いつけるはずもない。


「罠でも張ろうか」


 再び真梨子先輩を見ながら、呟いていると、下界の事務所辺りが騒がしくなった。そう思った次には階段を激しく駆け上がる音が私の視線をまだ誰もいない登り口へと向かわせる。


 足音のカウントダウンで飛び出して来たのは果たして、緑色の上下に大凡を黒で覆われた覆面マスクをした男だったのである。

 男は箒を構えた私に怯むことなく猛然向かってくると「ちぇすとーっ!」と叫びながら水風船を投げた。一つは窓の外へと消えもう一つが私の顔に命中をした。

 私は「ふんぎゃっ」と声を出してその場に尻餅を付くと、急いで濡れた顔を袖で拭っていると、なぜか色々な崩壊音と「はんぎゃやわあ」と言う断末魔の叫び声が廊下に木霊した。

 

「うぅ……」急いで立ち上がろうとすると、金平糖に足を滑らせもう一度派手に尻持ちをついてしまった。その際、尾骨をしこたま打ったので、私はあまりの痛みに翻筋斗打ってから、脂汗を滴らせた。

 追跡を、となんとか立ち上がってみると、眼前には大きなダンボール箱に頭から突っ込んで大人しくなった覆面男の姿があった。


「うむ」棚から牡丹餅と言うのはこういうことを言うのだろうか。


 因果応報とはこれしかり。私は、彼の体に倒れかかる花瓶やら土器やなんかをどけてやると、彼が落としたであろう水風船を広い上げダンボールを開けて、至近距離から思い切り後頭部に投げつけた。

 彼が意識を取り戻して、藻掻く姿を見て。どうせならマスクを取ってから投げれば良かったと思った。


「たっ頼む!逃してくれ!」開口一番、彼はとても犯罪者らしいことを口走った。


「断る」


 賞金首をむざむざ逃がすほど私の心は広くはないのだ。


「そう言うなよ。タダとは言わない。使いさしだがポケットの中に模擬店のチケットが入ってる。それをやるから。なっ」


 私は彼の言うことが真実であるか否かを確かめるべく、短パンのポケットと言うポケットをまさぐった。結果、全模擬店で使えるチケットが6枚とあめ玉が2つ、後は膨らます前の水風船がたっぷり。が出てきた。

 とりあえず、チケットと水風船をポケットにしまってから、どうしたものか。と束の間考えた。このチケットも欲しいが報酬のチケットも捨てがたい……


「お前は彼女がいるのか?日頃勉学に励み心身ともに鍛える私には彼女がいない!できないんだっ!だと言うのに、日頃からへらへらしてる奴に限って彼女がいやがる。こんな不公平が許される世界は悪意に満ちて居る。俺はその悪意を堂々と見せつける奴らに鉄槌を下している。俺のように嫌な思いをしている同士は大勢いる。それでも誰も声を、行動をできずにいる……だから私は行動に打って出たまでだ。これは革命なんだ。次の学生会長選挙で俺は学内恋愛禁止を訴えるつもりだ。俺の覚悟は生半可なものではないんだ!」


 私が一挙両得、旨みだけをなんとか独り占めできないだろうかと思案している間中、男は荒唐無稽なことを叫き散らしていた。


「静かにしろ。他の執行部に気づかれる」他の執行部員が現れてはややこしいことになる。だからそういったのだが……「お前……じゃあ」彼はとても自分に都合の良い方向へ勘違いしたようだった。心なしか涙声であるのは感動の涙か、頭の打ち所が悪かったのか。男の涙ほど見ていられないものはない。


「執行部は私のような執行部員以外の人間も動員して、お前を捜している。今外に出るのは自殺行為だ。そうだ、この先にある教員専用トイレに隠れていろ。ほとぼりが冷めた頃にまた革命活動をすると良い」その勘違いは私にとっても好都合だったので、やっとダンボールから頭の抜けた男に、熱くそう話すと彼は「ありがとう。本当にありがとう。こんな所でこんな形で、同士と出会えるとは思っても見なかった」と涙声で握手を求めてきたので、私はそれに応えた。

  

「それじゃあ。本当にありがとな」彼はさわやかにそう言うと、2階の一番奥。窓も無ければ非難扉もない、完全な袋小路たる教員専用トイレへと向かって走って行ってしまった。


 そこが、己が墓場となるともしれずに……


 汗ばんだ手でしこたま握手をさせられたので、男臭がうつってやすまいかと、ズボンで手の平を拭ってから嗅いでみたが、ソースの匂いしかしなかったので、手を洗わずに携帯を操作して。メールで音無先輩に覆面男の潜伏先を知らせた。


程なくして、音無先輩を筆頭に集結した執行部7名は手に手に得物を持って教員トイレへと突撃を敢行した。私は3階への登り口でその様子を見守っていた。これぞ、真の棚から牡丹餅であろう。

 しかし、窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、覆面男は半分覆面を脱がされそうになりながらも執行部の包囲を突破し、階段の方へ全速力で迫って来るではないか、私は想定外の事態に狼狽して階段を数段駆け上がった。駆け上がってみたのだが、結局彼は階段を使うことなく、派手に転びながら反対側の廊下へと消えて行ってしまった。

 廊下には再び大きな崩壊音が木霊し、その後に追いついた音無先輩を含まない執行部6人にタコ殴りにされたあげく。甘美際執行部室へと連行されていってしまった。


「この裏切り者め!」


 私に向かって言ったのだろうが、そんな譫言など誰が聞くものか。そもそも、私は逃がしてくれとは頼まれても見逃してくれとは頼まれていないのだから、裏切りではないし、金平糖が滑ること学習しない彼がやっぱり悪い。

 彼は大義名分たる雄弁を長々と述べたが、要約すれば『羨ましい』の4字で済んでしまう。恋人の有無において他人を羨む気持ちはわかるし同情もする。だが覆面男よ

、世の独り身男子はお前のように妬みや羨む気持ちに支配されないように日頃心身の鍛練を怠らず、ついにこれを克服した。だから、お前のような凶行に走ることもないのだ。


 覆面男よ。若気の至りと改心した後は心身の鍛練怠りなきよう…… 


 ただ、一つだけ褒められると言えば、ビリビリに破かれほとんど素顔が露呈してもなお、覆面を被り通そうとした一本気にだけは哀悼の意を捧げたいと思う。

 音無先輩から報酬である無料チケット10枚綴りを受け取った私の懐は覆面男を唾棄すべき阿呆と糾弾をせず、寧ろ愛すべき阿呆と同情と賞賛を与えていたのである。





 『県大大明神』それは突如として中庭の緑地帯に現れました。


 甘美祭二日目の朝、遅めに大学へ出掛けた私は「恋守りいかがですかぁ」と声を張る真梨子先輩の姿を見かけました。先輩は白い鳥居のすぐ横に立っていて、格好が昨日と同じ巫女装束でしたので、昨日の巫女さん姿は今日のこの日の為だったのですね。と納得したのでした。


「先輩、お早うございます」まだ、来祭者も少なかったので、私は先輩に声を掛けました。


「お早うなっちゃん。どうよ、これ」


 「鳴海さんとこで借りたんだぁ」と嬉しそうに一回りして衣装を披露する先輩なのです。


「とても似合ってますよ。可愛らしいです」巫女姿はとても似合っていましたけれど、見慣れていた明るい茶色だった髪の毛がカラスの濡れ羽のような黒髪に様変わりしているの正直なところ、まだ慣れない部分はありました。


「お守りとは、この南京錠のことですか?」


 先輩の立つ前に置かれた机の上には『恋守り 一個500円』と書かれた小さい看板と大小それぞれの南京錠が並べられてありました。

 

「そう。恋人岬って知ってる?あれの真似なんだけど」


「知ってます。確か、錠に二人の名前を書いて鍵を閉ると永遠に結ばれるって言うのですよね。テレビで見たことがあります」


「そうそれ。この前の前夜祭の時、夕方のニュースでやってて、閃いたのよね。使い道に困ってた南京錠も有効利用できるし、南京錠代も回収できるし、一石二鳥!」鳥居を何度か叩きながら、先輩はピースサインをして見せます。


「そうですね、先輩は賢いです」前夜祭の日、夏目君がアパートに持って来た南京錠がこんな形で使われるとは思って見ませんでしたけれど、先輩らしい素敵なアイデアだと私は感心しました。


「なっちゃんも後でおいでよね」と言う先輩に私は「小春日さんを誘ってみます」と返事をして、部室棟へ向かいました。


 何を隠しましょう。今日は展示の担当日なのです。


 途中、メイン会場のステージ上で人間黒髭危機一髪。のリハーサルをしていましたので、少しの間これを見ていました。玩具動揺に飛び出すのなら危ないですね。と思う反面、どんな仕掛けがされているのかが気になる私なのです。

 海賊役の担当員が樽を模したダンボールの中に不器用にもなかなか入れない姿を見ていると『頼んだわけでもないのに……恭君らしい優しさ』そう言った真梨子先輩の姿が不意に蘇りました。普通は頼まれてもあれだけの量の南京錠を買い集めることなんてしません。それを頼まれもしないのに買い集めに走ったのは一重に真梨子先輩への愛情が成せる技ではないでしょうか。ひょっとしたら夏目君も真梨子先輩の事を……と勘ぐったところで、今度は小春日さんの提案が蘇りました。

 私は浅いため息をつくと、真梨子先輩の為と思えばこそできることですが、できることならやりたくはないですし、今日と言う日の夕暮れが来なければいいのに……と今度は深くため息をついたのでした。


「やあ、そんなに悲観することはないよ」


 再び歩き出した所で後ろからそんな風に声をかけられました。振り向いてみると、そこには緑色の短パンとランニングシャツ、目の部分をのみ周りを赤く縁取った黒い覆面を被った男性が小さい林檎飴を持って立っていました。 


「?」私が首を傾げていると、


「1人は決して孤独と言うことはないのだから。1人と言うことは自由であると言うことさ、二人でいることなど束縛の何者でもないのだからね。さぁこれをあげよう」


 何を言いたいのかは不明ですが、男性は手に持った林檎飴を私に差し出しました。 

「ありがとう……ございます」私は不気味に思ったのですが、甘美祭のイベントかなにかでしょう。と思い林檎飴を受け取りました。


「また会おう!」


 私が林檎飴を受け取ると、男性は短くそれだけを言い残し颯爽と部室棟の方へ走って行ってしまいました。無駄のない綺麗なフォームで走るって行くので、陸上部の方でしょう。私は遠くなる緑色の背中を見送りながらそう思ったのでした。


 展示室へ向かうと、文芸部の人達が千年パンツの前で何やら相談をしている様子でした。一様に怪訝な表情をしていたので、どうかしたのでしょうか?と不安になってこっそりと近づいて見ました。すると「夏目君はうまく考えたよね。美術部とコラボするんなんて」「僕の世紀末ベアーも立体化してもらってたら、今頃、感想と評価の嵐だったに違いないのに……」「部長に言って来年は美術部と合作しようよ」そんな事を話をしていましたので内心ほっとしましたし、少し来年が楽しみになりました。


「あっ、葉山さん。覆面男がここに来なかった?」


 作品の説明用の用紙をバインダーに挟んでいると、音無さんが駆けて来たかと思うと早口でそう聞きました。なので、「ここには来ていませんけれど、部室棟に来る前に会いました」と答えた後、受付の机の中に入れておいた林檎飴を見せては「これをもらいました。何かのイベントなのですか?」と聞きました。


「違う。執行部はあんなのを容認も黙認もしない、あれはテロよ私たちへの挑戦なのよ!」

 

 鬼気迫る表情でそう言うと、トランシーバーで誰かに指示を出しながら、踵を返して再び駆けて行ってしまいました。


「(イベントじゃないんだ)」てっきり、何かのイベントだと思って遠慮無く受け取った林檎飴でしたが、音無さんの話しを聞くと急に薄気味悪くなってきてしまい、とても食べる気にはなりません。赤くて甘くて丸くって可愛らしい林檎飴には何の罪もないと言うのに…… 

 あの覆面の人は何がために、あんな格好で林檎飴を配って回っているのでしょうか。

閑散とする展示室から外を覗くと、メインステージ裏がよく見えます。ピンク色の上着を着た係の人達が小道具を運んだり何かの打ち合わせをしていたりしています。模擬店を出している人達もそれぞれに甘美祭に参加してそれぞれに楽しんでいるでしょう。


 今この時に青春を燃やそう    


 音無さんに言われて恥ずかしくも私が発表したこの言葉は、そのまま今回の甘美祭のメインフレーズとして使われ、正門の看板にも書かれていますし、本館の屋上から下げられた垂れ幕にも記されてあります。青春とは一体なんなのでしょうね。

 私は青春を燃やせているでしょうのか。甘美祭2日目の昼下がり、そんなメランコリップに黄昏れていた私なのでした。

 ステージから、がなり立てるだけの騒がしい演奏が終わり、舞台裏が一層忙しなって来た頃、小春日さんから夏目君のアドレス記したメールが届きました。

 私は昨晩予め作成しておいた文章をコピーすると夏目君宛のメールに貼り付けまし

た。いきなりのメールですので、アドレスを聞いた人も記しましたし、夏目君も文芸部の展示担当などの都合もあるかと思いましたので1日前に送信することにしました。


 こんにちは、突然のメールで驚かせてしまったと思います。アドレスは古平君から小春日さん伝いに聞きました。大切なお話がありますので、明日の夕方5時に体育館裏の駐輪場に来てください

                         葉山 夏美


 大学構内で一番人気の少ない場所は、部室棟裏の焼却炉がある場所なのですが、そこはフェンス一枚を隔てて、一般の人が通る道と接していますので、待ち合わせは体育館裏の駐輪場にしました。

 甘美祭開催期間中は駐輪場は使用禁止になっていますし、誰でも体育館裏に呼び出されたなら、話しの内容は往々にして想像できるものです。お風呂場などで私なりに練習をしてみましたけれど、どれだけやってうまく話せる自信が私にはありませんでした。なので、できれば結論だけを伝えて済むようにしたかったのです。

 そして、私は送信ボタンを押しました。どんな返事が返って来るのでしょう。不安な気持ちを抑え、黄昏時の空を見上げながらしばらくその場で携帯を握っていましたけれど、遂に返信が届くことはなかったのです。



◇ 

 

 

景品が底を尽きたのか、遂に終わってしまったビンゴ大会の後のステージ周辺は実に閑散としていた。お陰で並べられたパイプ椅子を荷物置きとして使えたから私としては助かった。夕方にはお笑い芸人のステージがはじまるらしく今はその前の休憩時間と言ったところだろう。

 ステージ上では奇抜なファッションでただがなるだけの軽音部のライブが行われていた。観客も少なく、今パイプ椅子に腰をおろしている大凡半分以上は私と同じ、休憩をしているに違いない。その証拠に一番静かであろう後列の席だけが賑わっているのである。前座にさえなりもしない。

 かくゆう私とて、模擬店で買ったカラアゲとフランクフルトを食べ、さらに隣の椅子には焼きそばとたこ焼きが置いてある。これを平らげたら千年パンツのお礼も兼ねて林檎飴でも葉山さんに差し入れに行こう。そんなことを考えていた。

 焼きそばに手を伸ばした時、携帯が震えた。けれど、鰹節が踊っている間に一口は食べておきたかったからポケットの携帯はほおって置いて、焼きそばを食べることにした。食べている途中で、演目が落研の落語に変わり、ステージ袖から出てきた女子部員が可愛かったので、口だけを動かしながら彼女をしばらく鑑賞することにした。可愛らしい彼女の次はむさ苦しいのが出てきたので、携帯を取り出そうとポケットに手を入れた所で、フライドポテトとおでんの出張販売がやって来たので、入れた手で携帯ではなくチケットを取り出して買いに向かった。おでんは素人作りにしては味が滲みて美味しかった。久方ぶりに食事らしい食事に幸福な満腹感に浸っていると、心地よい眠気がふよふよしてきたので、そのまま椅子の上に横になって少し眠ることにした。

 食べたい時にたらふく食べ、眠たくなれば寝る。これすなわち幸せと言う。





 宵の口前に流々荘に帰った私は、風呂に入った後ようやく携帯を見た。それはメールで。差出人が知らないアドレスだったために、ゴミ箱へ捨てようかと思ったが、件名のところに『葉山です』と書かれてあったので、ゴミ箱へ捨てなくて良かったと思った。


 こんにちは、突然のメールで驚かせてしまったと思います。アドレスは古平君に小春日さん伝いに聞きました。大切なお話がありますので、明日の夕方5時に体育館裏の駐輪場に来てください

                         葉山 夏美


 腹が減る前に寝てしまおうと万年床に寝転がって文面を確認したので、思わず足をじたばたとさせてしまった。これは思わぬ朗報ではあるまいか!脈無しと完全に諦めてしまって早、1ヶ月と少し。外堀を埋めることをやめて早1ヶ月と少し……押して駄目なら引いてみなっ!と言う言葉があるがこれいかに……恋愛は鹿猟に似ていると聞いたことがある。追いかけては警戒心の強い鹿に気づかれて逃げられてしまう、故に、わざと追わずじっと待ちかまえると警戒心を緩めて鹿は再び戻ってくる。知らず知らずの内に私はこの駆け引きを心得、無為自然と実践していようとは、自分の策士加減が恐くなるほどだった。


「まてよ」


 仰向けになって天井を見上げて見れば、舞い上がった埃が蛍光灯に照らされて雪虫のように見えた。そんなのを見ていると、妄想モードに移行する前に古平の顔が浮かんできたのだから不愉快だ。

 アドレスは確かに古平のものとは異なるアドレスだった。けれど、葉山さんがわざわざ古平からアドレスを教えてくれるように小春日さんに頼むのは不自然ではなかろうか?真梨子先輩の家に頻繁に出入りしている葉山さんなら真梨子先輩に直接聞いた方が手っ取り早いはずだ。それに、よくよく考えてみれば、明日の事を今日メールする必要もない。もっと言えば、大学構内で一番人気の無い場所は部室棟の裏であって、駐輪場がある関係上体育館裏には人通りがある、そんな場所に呼び出して公衆の面前での公開告白をする阿呆が果たしているのだろうか?

 部長ならばやりかねないながらも、葉山さんに限ってそんなことをするとは思えない。考えれば考えるだけ葉山さんの顔は遠のき、古平の顔が色濃くなって行く。


 私は携帯を畳の上に放り投げると今夜の夢見に期待することなく寝ることにしたのであった。





 煩悶として目覚めを迎え、空腹を満たす手段もなく少し早いが腹を満たすために大学へ行こうかと考えていると、呼び鈴がなった。


 来客があるとすれば真梨子先輩か古平くらいなものだから、水風船を一つ携えてドアを開けた。


「朝の早くからごめんなさい。隣に越してくる事になった神原と申します。騒がしくしますけど堪忍して下さい」


 大和撫子だった……


 長くて真っ直ぐな黒髪を背中でまとめたその人は、顔立ち整い鼻筋の通ったとても素敵な女性だった。小股の切れ上がった背格好や目鼻立ちはどこか真梨子先輩に似ている気がしないでもなかったが、純白のシャツに水色のスカートは色合い控えめで、薄化粧な為か、全体的に地味で昭和の雰囲気すら感じられる。飾りっ気がないにも関わらず、清楚可憐なその人は私が出会った2人目の大和撫子であることには間違いはなかった。


「どうかされましたか?」つい彼女の顔を見つめてしまっていた。


「いえ、夏目と言います。どうぞよろしく」


 お隣にこんな素敵な人が越して来ようとは、この古くてカビ臭い流々荘も捨てたものではなくなる。


「皐月さん。大家さんの言ったとおり冷蔵庫は部屋についてました」


 名前は皐月さんと言うらしい。


 私が気の利いた話しの一つでもして差し上げようとした、その時、隣の部屋から、幼い顔つきながら年の頃なら私と同じくらいの青年が出てきた。


「あら、それは良かったわ。冷蔵庫買わへんかったから。大助かり」


 手のひらを会わせて喜ぶ皐月さんは、「勝さん、こちらお隣さんの夏目さん」

皐月さんが私を紹介すると、「はじめまして、隣に引っ越してきました神原 勝です」と青年は礼儀正しく姿勢を正して深々と頭を下げた。


 神原と言う青年は来年の四月から県立大学に入学することが決まっていて、少し早いながらも早い目に慣れておいた方が良いと、この季節に引っ越してきたらしい。そんな事よりも、神原青年と皐月さんの間柄が気になって仕方がなかったが、諭すように話してみたり、色々と注意をしているところからすると、従姉妹か姉か……母親と言うことはないにしても彼女と言うこともなさそうだ。

 てっきり、引っ越し業者を頼んでいるものと思っていたのだが、見やるに、下に止めてある軽トラックからせっせと二人で荷物を運び込んでいるので「手伝いましょうか」と声を掛けた。


「いえ、そんなの悪いです」と皐月さんは笑って見せたが、額に浮かぶ汗を見れば嫌でも手伝いたくなってしまうと言うのが男心なのだ。


 古今東西美人は得だ。


 私は皐月さんの為に進んで、軍手を借りて荷物運びを手伝うことにした。荷物を運んでいて気が付いたことがある。2人分にしては荷物が少なく、皐月さんの分とおぼしき荷物も見あたらない。どうやら、皐月さんと神原青年は同居するわけではなく、隣には神原青年1人が生活をするようだ。

 落胆を隠せないで居た私であったが「御夕飯くらいは作りに来るからね」と言う皐月さんと神原青年の会話を聞いていて、定期的に皐月さんに会うことができると内心喜んだ。

 お昼前に、皐月さんに近所のスーパーの場所を教えると、皐月さんはがま口財布を片手に買い物に出掛け、軽トラックに残っていた小物類を地面におろしてから「駐車場に入れてきます」と神原青年も行ってしまった。

 2人は田舎の人間なのだろうか。初対面の人間にこんな無防備を晒すなんて……もし私が悪人であったなら、神原青年の荷物の中から小銭貯金が根こそぎなくなっていても不思議ではない。

 私は善人ではない。だが、悪人でもない。悪いことを目論んでもそれを実行しない限りは悪人ではない。つまり、私は目論んでも実行できない小心者だったのである。

 手伝ってくれた御礼も兼ねてと、お昼ご飯は皐月さんの手料理をご馳走になることになり、荷解きをしていない神原青年の部屋には調理器具がなかったので、昼食は私の部屋で食べることになった。来客用の小さい丸テーブルを出してきた以外は座布団もなく、申し訳無く思ったが、当の二人は全く気にならない様子だった。

 皐月さんは鼻歌交じりにフライパンで手際よく、親子丼を作ってくれた。丼がなかったのでカレー皿に盛りつけられた親子丼。北陸の方で使われると言う甘い醤油が隠し味と皐月さんが教えてくれた。半熟でふわふわ加減の卵を箸で割ると中から鶏肉やかまぼこが顔を出す、長ネギの緑も色鮮やかでこれらを白飯と一緒に口の中に入れたなら、絶妙な半熟加減が白飯と混ざったかと思えば出汁の旨みが喉に至るまで広がって行く。鼻で呼吸をするたびに鼻腔をくすぐる出汁の残り香が一口で二度までも美味しいと演出をする。

 私は今までこんなに美味い親子丼を食べたことがない。私は感動のあまり思わず箸を止めてしまった。


「お口に合いませんでしたか?」と不安げに私を見て皐月さんが言う。


「いえ、こんなに美味しい親子丼は、はじめて食べました」本当の事を言った。


「そんな大げさなぁ。でもとっても嬉しいです」


「照れます」と続けて言って私の肩を小突いた皐月さん。どこかその仕草がオバサン臭かった……


 食事中、皐月さんは神原青年について良く喋った。生まれた所からどうして奈良の地へやって来たのか「皐月さん、そんなことまで言わなくていいですよ!」と何度か神原青年が皐月さんの口を塞ごうと試みる一幕もあったりと、この二人は恋仲以外の縁で持って結ばれているのだろう。私はそう思った。


「一昨日から県大で文化祭やってるから、後で見に行くと良いですよ。最終日だから売り切れの模擬店もあると思うけど」


 来春から後輩となる青年に私は先輩風を吹かせて言った。私が県大生と言うことは話していなかったが、それはまた来年の春また話せば良い。

   

「皐月さん。荷解きしたら行ってみようよ」そう神原青年が提案するも。


「荷解きしていたら模擬店が全部売り切れになってしまうわ!お昼を片したらすぐに行くわよ」皐月さんは、今すぐにでも文化祭に出掛けたい様子だった。


 神原青年は私と違って良く働く。食器の洗い方も丁寧で、洗い終わった後、布巾でシンク周りに飛び散った水滴さえも拭き取る繊細さである。ひょっとしたら皐月さんの手解きなのかもしれない。


「それでは失礼します。本日は本当にありがとうございました」「ありがとうございました」


 部屋を出て行く間際に、2人は謝意を伝えながら揃って姿勢を正すとゆっくりと頭を下げた。ここ2年間で出会った誰よりも礼儀正しいその様に、思わず私も何かを思い出したように「こちらこそ、美味しいお昼をご馳走さまでした」と頭をさげたのだった。


 礼には礼をもって対する。無理矢理下げる頭もある。けれど、心から礼を尽くされたとき、心から感謝をしたいとき、自然と頭は下がるものなのである。


 頭を上げたとき、清々しくも背中に一本筋が通ったような、そんな面持ちだった。

 




 午後3時を過ぎた辺りで私はメールフォルダを開くと、葉山さんからのメールを選択し、2回ほど文面を確認した。このメールが葉山さん本人からの純粋なメールであってほしいと願う半面、どうしてもそれを信じ切れない自分がいる。


 水風船は用意した。私はどちらに転んでも良いように、


 わかりました。午後5時に体育館裏の駐輪場へ参上します 

                            」

 

 と簡素な文章を作成すると、少し考えてから送信した。 


 甘美祭最終日を迎えて、構内では各模擬店がわかりやすい二極化を向かえていた。余裕を持って片付けをはじめる店と、頻繁に歩き売りを行う店である。

 チケットがまだ数枚残っていたので、これを大好物の唐揚げに全てつぎ込もうと思っていた私は唐揚げを売る店だけ売れ行きを確認して、体育館横にある梯子を使って、屋上へ登った。

 気持ち程度に角度がつけられた屋根を伝って、駐輪所が見渡せる場所についた私は、執行部に見つからないように目立たないように寝そべってその時がくるのを待ったのであった。



○ 



 結局、昨日中に夏目君からの返信はありませんでした……私はてっきり、すぐに返信があると思っていたので、どうして返信をもらえないのでしょうか?と不安になっ

てみたり、もしかしたら、届いていないのでは……もう一度送った方が……でも同じ文章を2度も送るなんて……と気が気でない1日となってしまいました。


 昨日ほど、携帯電話に注意を払った日はありません。


 すぐに返信があっても、罪悪感は否めないのです。けれど、それは夏目君が私が告白をすると言う大前提で心を躍らせて即座に返信をしてきたと言う心情を慮っての罪悪感なのです。ですから、このように『返信がない』と言う場合は想定をしていませんでしたから、予想外の事に事実として私が困惑をしてしまっている状態です。

 真梨子先輩には内密に計画してことですから、私はとりあえず小春日さんに連絡をしてみました。


「夏目君が葉山さんの事を好きなのは間違いないと思うから……返事が無い理由はなんでかわからないけど、ギリギリまで待って来なかったら、電話するしかないかも」

 

 と言うのが小春日さんの考えでした。


「そうですね。まだ時間はありますから、待ってみます」


 携帯を充電器に繋いでから、私は別の心配をしていました。小春日さんが言った『電話するしかないかも』が頭から離れなかったのです。メールをするだけでも騙しているようで罪悪感に苛まれると言うのに、直接電話を掛けるだなんて到底私には無理だと思ったからです。


「ああ……なんでこんな事になってしまったんだろう」


 親愛なる真梨子先輩の為とは言え、楽しいはずの甘美祭真っ直中でこんなに沈んだ気持ちになるだなんて……本当なら、模擬店で買った林檎飴を冷蔵庫に入れて、同じく模擬店で買った食べ物を食べ過ぎてしまいましたね。とお腹をさすっていてもおかしくないと言うのに……


 軽めに夕食を食べ、お風呂に入った後、ふっと「真梨子先輩は何をしているんだろう」そんな事を考えました。甘美祭の準備や夏目君と先輩との事が重なって先輩の家には遊びに行っていません。敏感な先輩の事ですから、きっと、雰囲気で私が水面下で動いていることに気が付いているはずです。だからこそ、あの夜以降、先輩は私に夏目君の話をしなくなりましたし、夏目君と無理矢理二人きりにする切っ掛けも作らなくなりました。

 私は人として真梨子先輩の事を尊敬していますし、同じ女子としても敬愛しています。だからこそ、私は先輩と距離をおくことにしたのです。秘密を隠したまま、先輩と普段通りに接することなんて私にはできません……


 こんな夜に限って面白いテレビも無ければ読みかけの本もありません。


 まだ深夜には早い時刻でした。私は何をするわけでもなく炬燵の中に入って、掛け時計の秒針を眺めていましたけれど、気後れしても言えるようにと、明日、夏目君に告げる台詞の暗唱をすることにしたのでした。


 炬燵で朝を迎えた私は、伸びをして欠伸をしました。そして、蓑虫のように這い出してから、携帯を見に行きます。


「!」期待をしていなかっただけに、メールの着信を示すライトの点滅を見た瞬間に私は目を完全に覚ましたのです。


「あぁ」覚醒をしてメールを確認すると、それは小春日さんからのメールでした。


 こんな事を言うと小春日さんに怒られそうですけれど、期待をしてしまっただけ、とてもがっかりしてしまいました。

 がっかりしていても仕方がないので、顔を洗って髪を梳かしてから朝ご飯を食べることにしました。

 納豆をかき混ぜていると時も携帯が気になって仕方がありません。ご飯を食べている時でもさえも……それでも夏目君からの返信はありません。


「なんで私がこんなに気にしなくちゃいけないの」


 私は洗い物をしている最中、ついにそんな風に思うと、その後は怒濤の如く洗い物を終えてしまって、大股で携帯電話まで歩くとあっという間に電源を切ってしまったったのでした。

 暗闇を恐れるのは目を開けているのに見えないから恐いのです。ならばいっそ閉じてしまえば見えなくて当たり前なので落ち着くと言うものです。電源が入っているから携帯が気になってしまうのです、電源が切れていればメールが届いてもわからないので気にする必要もありません。

 私は怒っていました。なのでそのまま携帯をベットの上に放り投げると、洗濯に掃除とここのところ疎かになっていた家事にとりかかったのでした。

 洗濯物を干しながらつけっぱなしにしているテレビからは、冬のコスメ特集をしているようでした。母が普段お化粧をしないせいか、私もお化粧をほとんどしたことがありません。ですから、普段でしたらコスメ特集にはあまり興味がないのですが、今日に限ってそのかぎりではありませんでした……

 思えば小春日さんや真梨子先輩はちゃんとお化粧をしています。いいえ、同じゼミの女の子も美術部の先輩も後輩もしています。どうして?と聞いたことはありませんけれど、きっとお化粧は下着を履くことと同じようなものなのでしょう。今年のトレンドは明るめのチークと目を大きく見せるお化粧なのだそうです。もちろん、チークやグロス、アイシャドーなどの言葉は知っていますよ。ただし、使ったことはありませんけれど……もっと言えば、持ってさえもいません。

 私だって……お化粧の一つもできなければ!と思い立って百貨店の化粧品売り場に行ってみたこともありました。けれど、どの化粧品もそれなりのお値段がする上に種類が豊富過ぎて何を揃えればいいのかさえもわからず、這々の体で家に帰ったことを思い出します。

 そのことを母に話すと「若い内は化粧なんてしなくっていいの」の一点張りで、以降それが母の口癖になってしまいました。私はそんな母に言いたいのです、「お母さんは年を取っても化粧をしてないじゃないですか」と。

 普通、好意を抱く異性に告白をする時、人は一番の自分でその場所へ向かうと思うのです。男性はお化粧はしないと思いますが身だしなみには特に気を遣うかと思います。ならば、私も着る物はもとより、やはりお化粧をした方がいいのでしょうか……

面倒くささが先立って『いつもの自分で』と思い込みたいのですが……私の方から一方的に断る場合でも、やはりそれ相応の格好をしていかなければならないと思うのです。

 私は恐る恐る携帯の電源を入れました。もうお昼前だと言うのにメールは入っていません。念の為に、センターに問い合わせて見ましたけれど結果は同じでした。頭垂れる暇もなく、私は小春日さんに電話を掛けました。


 甘美祭へ出掛けていないと良いのですが……


「はい、返信来た?」3回ほどのコールの後に小春日さんが出ました。


「いいえ。もう甘美祭に出掛けてますか?」


「うん。夕方からファッションショーあるから、それの準備してる」

 

「そうでしたね、ファッションショーでしたよね」本当はすっかり失念してしまっていました。

 甘美祭最終日、夕方からフィナーレまではソーイング同好会のファッションショーが行われるのです。今日のステージの為に小春日さん達はずっと製作に取り組んで来たのですから……それを私の思いつきで邪魔するわけには行きません。


「ん?何?用事があったんじゃないの?」

 

「小春日さんは古平さんに告白をするとき、お化粧をしていきましたか?」


「そりゃ、していったわよ。前日にヘアサロンも行ってネイル行ってすっごい気合い入れたよ」

 

「え……ヘアサロンとネイルにもですか……」


「うん。折角、真梨子先輩がお膳立てしてくれたチャンスだったから自分でできる事は全部しておきたかったのよ。納得した自分で告白して振られても納得できるけど、手を抜いて振られたら、髪の毛ちゃんとしてたらとか『もしも』って絶対後悔すると思ったから」


「……」私は返す言葉がありませんでした。そうなのです、小春日さんの場合は背水の陣で望んだ告白なのです。それに比べて私の場合は半ば演技の告白ですから、今ひとつ実感がありません。そうですよね、恋人ができるか振られるか、二つに一つの大勝負。それなら事前にできる備えは全てしておくものです。散ってなお後悔をしない為にも。


「小春日さん、お願いがあります」

 

 私は生半可だった自分自身に決意を持たせる為に、あえて忙しい小春日さんにお願いをしました。断られることも覚悟していましたし、とても迷惑を掛けることも承知の上です。

 

「いいよ。2時間くらい前に同好会室に来て」


 もしも、断られたなら今から化粧品を買って自分でなんとかするつもりでした。けれど、あっさりと小春日さんが承諾をしてくれたので、電話越しに胸を撫でおろしたのでした。


 気合いだけではお化粧が上手く出来るとは思えませんから……


 



 自分に出来ることは後悔無きように。


 私は夏目君に告白をする心持ちで、髪を梳いて洋服を選びました、お気に入りのベレー帽とポーチを下げて、早い目に大学へと向かいました。

  甘美祭最終日の今日はすでに片付けをはじめている模擬店もあれば、値引きをしてでも売り切る模擬店と二分化の様相がとても極端です。

 

 中庭を過ぎた辺りで、両手に持ちきれないほどに食べ物を携えた女性と出くわしました。


「あの、失礼ですけど、貴女はここの学生さんですか?」上着を羽織らず季節的には肌寒い服装のその人は大きくて丸い瞳で私を捉えてそう言いました。


「はい。私はここの学生です」


 率直にそう答えると、「皐月さん待ってくださいよ」とこれまた大量の食べ物を持った男の子が長に早歩きで現れます。


「勝さん!この方ここの大学生ですって、雰囲気も顔つきも勝さんの好みやんか。さい先がいいわぁ。あ、この子、来年からここの大学に通うんです。どうぞよろしくお願いしますね」

  

 無手勝流に言いたいことを言ってから、皐月さんとおっしゃる女性はお手本の様な姿勢で頭をさげます。   


「ちょ、皐月さん何言ってるんですか!急にすみません」顔を赤くした男の子はそう言うと、皐月さんとおっしゃる女性のお尻を膝で押します。


「もう、勝さんったら女性のお尻を触るのいけないことですよ」


「触ってません、押したんです!」


 不機嫌な表情を作る皐月さんでしたけれど、2人はとても仲が良いのですね。そう思えてしまうから不思議でした。

 皐月さんはまだ何か言い足りない様子でしたけれど、勝さんに押され、ついに図書館の角に消えて行ってしまいました。


「姉弟?親子?」多分、前者だろうと私は思います。


 部室棟に入ると、すぐさま衣装を運ぶソーイング同好会の方を何名も見かけました。手の甲に針山をつけて、腰にはまるで美容師のように断ち切り鋏や安全ピンを収納したホルダーを下げていたり、仕上げか修正にてんてこ舞いと行った感じです。2階にある同好会室へ近づく度に、私がいかに無理なお願いをしたのかを思い知るようで後ろめたいようで……とりあえず小春日さんに会ったなら、一番に謝っておこうと思わずにはいられませんでした。


「お邪魔します」私は、磨りガラス越しに室内に誰か居ることを確認してからドアをあけました。


「やっほー。葉山さん気合い入ってるね」ドアを開けて一番に目に入ったのも口を開いたのも小春日さんでした。


「わぁ、すごい。まるでメイク室みたいですね」


 長椅子を壁づたいに並べ、配置されたパイプ椅子の数だけヘアーブラシや大きめの置き鏡と化粧品のセットが並べてあります。


「まるでじゃなくて、今日だけこの部屋はメイク室なのよ。ちなみに、メイクさんは私」


「そうなんですか!」 


 小春日さんにそんな隠れた才能があったなんて。私は同じ女子として、自分のみならずメイクを施せる小春日さんをすごいと思いました。


 


 

 小1時間ほどをかけて、私は小春日さんにメイクをしてもらいました。

 爪の赤色、唇の淡い桃色。どんどん色づいて行く私はまるで女の子のようでした。もちろん、私は女の子なのですが、どんどん違う自分になって行くようで、鏡に映る自分の顔を見つめていると、不安がちないつもの自分がどこかに行ってしまうようでした。

 

「もし……葉山さんが夏目君の事を少しでも好きな気持ちがあるんだったら、葉山さんが幸せになっても良いんだからね」


 誰もいない部室で小春日さんはヘアピンやタオルを片付けながら言いました。


「どうしたんですか、急にそんなことを言うなんて」 


「ほら、私ってば先輩の為、先輩の為って葉山さんの気持ち考えないで巻き込んじゃってたから、今朝メイクの事で電話もらって、もしかしたらって思っちゃって」


 「てっきり、夏目君もがっかりするようないつもの服装かと思ってたら、意外と気合い入れて来るからますますね」メイクアップが終わった私の顔を鏡越しに見ながら、小春日さんは私に優しい視線でそう言います。


「それは考えすぎです。私は夏目君のことをなんとも思っていません。ただ、はじめから断るにしても、ちゃんとしていないと、不誠実だと思っただけです」


 これは本当です。例え結末がわかっていても投げやりにしてはいけません。ちゃんとするべきはちゃんとしないといけないのです。後腐れなきように……それに、先に好きになった女の子を知っているのに、後出しじゃんけんで勝ちに行くようなことを私はできません。

 いずれにしても、本当に気持ちがないからそんなことも言えてしまうのかもしれません。 


「そっか、ごめんね。へんな事言った」


「はい。小春日さんは変なことを言いました。私の普段着は夏目君をがっかりさせませんよ」真梨子先輩のように露出度の高い服などは着ていませんけれど、エキセントリックな服装でもありませんから、私の普段着を見て誰もがっかりなどしないのです。 

「あっ、ごめん!そんなつもりで言ったんじゃないって、その、つまり、物の例えで、あの……ごめんさない」 


「冗談ですよ」私は笑いながら言いました。そんなことで目くじらを立てるほど私はプリプリしていません。


「嫌な役だけど、お願いね」


「はい。メイクありがとうございました。行ってきます」


 嫌な役です。大嫌いな役回りですが、もう私の覚悟は決まっているのです。決めているのです!それにメイクを施した私はどこか私ではないような不思議な感じがして、今であればどんな嫌な事もでもちゃんと顔をみて言えそうな気がします。

 もう一度、小春日さんにお礼を言ってから、私は部室棟を後にして待ち合わせ場所である体育館裏の駐輪所へ向かったのでした。


 



 県大大明神は最終日の夕暮れ近くになってもまだ訪れる人が途切れる様子はなかった。鳥居から連なる行列が全てカップルであるところが謎なのだが、一体先輩は何をしているのだろうか?いずれにしても、盛況であるのだから良しとすべきなのだろうが……

 そんな事よりも、私は雑踏に見え隠れする巫女さんの姿をじっと見つめていた。双眼鏡を持ってくれば良かったと後悔するほどに……はじめて真梨子先輩と会った時、先輩の髪は黒かった艶めく深い黒色だった。服装も葉山さんよろしく落ち着いていてどちらかと地味目。白いヘアバンドがよく似合って居たし、気が利いてよく笑う先輩の人柄に私はとても惹かれていた。入学したてで、情緒不安定だった私が想わずも特別な感情を抱かずには居られなかったのは仕方が無いことだと思う。

 だが、その感情に希望や妄想はあっても決して現実的でないことはわかっていた。文芸部の部長を筆頭に真梨子先輩に好意を抱く男子の数は星の数よりも多い。俗に言う高嶺の花と言うやつである。もしかしたら……なんて妄想を毎晩と描いては諦める毎日を過ごし、気が付いた時に先輩はまるで別人のようになってしまっていた。髪を明るい茶色に染め、露出度の高い服を着るようになった。真梨子先輩と言う人間は何一つ変わっていなかったが、私にはその風体が理性に合わず、いつの間にか特別めいた感情も雲散霧消した。

 どうして今になって髪の色を戻したのだろうか……聞いた所で「巫女さんに似合うと思って」と言われるだけだろうけれど……

 先輩に葉山さんを紹介してもらった時、先輩のキューピットぶりの噂も聞いていたかた、近いうちに葉山さんが私の恋人になるかもしれないと思えて、それはそれはときめいた。舞い上がりもしたし、毎日念入りに体を洗うようにもなった。だが、興奮が冷めてくると何か違う気がしてどうにも本腰が入らなくなった。葉山さんは飛び切りの美人と言うわけではないが、控えめで笑顔が素敵で飾らない所は私の好みなのだ。いつかの感情のように一日中葉山さんの事を考えることもないし、不謹慎にも葉山さんに夢中にならなければならないのに、昨日、ステージ上に居た落研の女子を可愛いと心揺れてしまった。男子の嵯峨と言えばそれまでなのだが、そう言い切れないとても不可解な心中は私自身ですらようとして知れなかったのだ。

 穴が開くほど先輩を見続けた。本当に穴が開いてしまったら困るので、私は駐輪場へ視線を戻し、手持ちぶさたと水風船を弄んでいた。柔らかくて手に吸い付くような感触がいたく気に入って揉みしだいていると簡単に割れてしまった。何度か同じ事を繰り返していたらものすごく虚しくなった。

 約束の時間よりもかなり早かったが、ふと駐輪所を見下ろすと、白いベレー帽を被った女の子の姿が目に止まった。角度的に顔が見えないのがもどかしい……だが、どうやら姿から女の子であり、古平ではない。私は確信を持つと、念の為に水風船を一つだけ携え屋根から地上に降りた。

体育館の角からそっと覗いてみると、絵に書いたヒロインのような格好をした葉山さんが佇んでいたのである。私は高鳴る気持ちを抑えて、深呼吸をした。


ここから↓


「おい、お前……」


 どのタイミングで後ろか前から、どちらから葉山さんに会いに行こうか。などと考えていると、不意に後ろから声を掛けられた。


「?」どこかで見たような顔と、はっきりと覚えている顔が並んでいた。 


「やっぱりっ、同士じゃないかっ!」


「あっ」


 私はその刹那に逃げ出そうとしたが、陸上部の反射神経を侮るなかれ、駆け出す前に後ろ襟を捕まれてしまった。


「あの時は裏切り者なんて言って悪かったな。そうでも言わないと、お前まで捕まると思ったんだ」と彼は言う。


「解放されて何よりだな」


「ああ、これも茂月さんのおかげだ」


 そう言いながら彼は隣に佇んでいるトレンチコートの女の子に視線を移した。どうやら彼女は茂月さんと言うらしい。


「はじめまして。茂月です」 


「どうも、落研のステージ見ましたよ」


「ほっ本当ですか!ありがとうございます。私、はじめてでとても緊張しちゃって、自分でも何話していたか覚えてすらいなくって、ちゃんと話せてましたか?私……」


 茂月さんは懇願するように私に感想を求める。私は「はい。物怖じしない語り口でとても面白かったです」と答えた。実のところは彼女を脳裏に焼き付けることに必死で何を話していたかなど、一片も覚えてはいなかった。


 けれど「そんなぁ」とまんざらでもないと彼女は嬉しそうだった。来年のステージに期待したいと思う。


「そうだ、同士たる君にこれを託そうと思って、探してたんだ」


 彼は、そう言うと、上着のポケットから継ぎ接ぎだらけの覆面を取り出して私に差し出すではないか。


「俺は……その、茂月さんがいるから、もう必要ないんだ。そう言うことだから、学内恋愛禁止令の件も……本当にすまない。私は今年の学生大会に出馬はできそうにない」


 目の前の2人は時折視線を合わせては話しを繰り返し、彼は照れくさそうに頬を指で掻きながらそんな事を話すのである。


「どうしてまた……?」


「林檎飴を彼からもらって、そのお礼に話し掛けて……」茂月さんは小さい林檎飴を私に見せてくれながらそう教えてくれた。


「じゃあなっ!元同士よ。生きていれば良いこともあるさっ」


 溌剌とした語気でもって、彼は私の手に無理矢理覆面を握らせると、後ろ手に手を振りながらピロティの方へと歩いて行く。ちゃっかり茂月さんと繋いだ手を見せつけながら……私は激怒した。言うまでもなく怒髪天の如く怒り心頭である。私は覆面を被ると水風船を掲げ「天誅!」そう叫びながら彼の背中を追いかけた。私に気が付いた彼は彼女の手を放さずにピロティの中に逃げ込む。彼女に被害が及ぶのは忍びないが、この恨み晴らさずしておくべきか……

 ピロティは未だ緑地から続く行列で混雑しており、瞬く間に逃げ道を失った彼は、私に向き直ると何かを言おうとしたが、私は問答無用で水風船を力の限り彼に投げつけたのである。


「やめ、ぶはっ」


 至近距離にて水風船は果たして彼の顔面に命中し、彼の目の辺りを爆心地にして辺りに水を飛び散らし、一時ピロティは騒然となった。もちろん、結末を見届けると覆面を脱ぎ捨てその場から立ち去った私である。落ち着きを取り戻した雑踏が犯人捜しをはじめた頃には、すでに林檎飴を売る模擬店の前に立って「この小さい方の林檎飴を一つ」林檎飴を買っていたのである。 





小春日さんとの打ち合わせでは、私に好きな人がいる旨を夏目君に話すことになっていて、夏目君が食い下がってた時は「ごめんなさい」と繰り返して、その場から逃げることになっています。私としては追いかけて来られたらと心配なのですが、小春日さん曰く決定的に振られたら追いかけて来られない。そうです。男子心とはそんなものなのでしょうか……私は不安を払拭できないまま、緑地帯の近くを歩いていました。

 恋愛成就を願う男女の列が未だに途切れることのない県大大明神を横目に、私は体育館裏の駐輪場へ足を進めます。まだ時間が早いですから夏目君は来ていないと思います。けれど、私はすでに手に汗をびっしょりと掻いていましたし、口を閉じて居なければ口元が震えてしまって仕方がありません。どうしてこんなにも口の中が乾くのかもわかりませんでした。

 駐輪場に夏目君の姿はまだありませんでした。ほっとした半面。永遠に時間が止まってしまえば良いのにと腕時計をみやって私は思いました。

 世界が違って見えます。周りはとても明るい色彩に溢れていると言うのに、私だけは灰色の世界に覆われているのです。どうして私だけがこんな想いを……とつい逃げ出したくなります。真梨子先輩のためと割り切っているのにどうしてこんなにも沈んだ気持ちになるのでしょうか……

 絡まった糸玉から出た三本の糸。解くにはどれか1本を切ることが1番早いと思います。本来糸には始まりと終わりの2つしかありえません。だから3本目は切ってしまう方が良いのです。

 真梨子先輩は夏目君の事が好きで、夏目君だって真梨子先輩が相手なら文句の一つも言えないと思います。だから私が切られ役なのです。


 なのですが……頭ではわかっているのに……どうして……


「お待たせしました」

 

 私は思わず腕時計を見ました。約束の時間にはまだ半時以上もあります。こんなに早く夏目君が現れるなんて……すでに予想外です……


「こんにちは」


「こんにちは」夏目君はどこか嬉しそうな表情をしていました。その表情を見やるに私の胸はとても痛みました。


 けれど、これは真梨子先輩の為なのです。私は目をぎゅと瞑ると「私には好きな人がいます。真梨子………えっと、だから絶対に無理ですごめんなさい」何度も練習をした台詞だけを思い出して一呼吸で全てを言い切ったのでした。

 昨晩からあれだけ練習をしたと言うのに、ちゃんと言えませんでした。どうして真梨子先輩の名前が出てきてしまったのかは私にもわかりません。


「え……」夏目君は困惑の色を隠せないでいる様子でした。 


 これでいいんだ。これで……中庭に見え隠れする赤と白の装束。これから訪る幸福を未だに知らず、後輩の恋路のために奔走する愛すべき人。

 こんなやり方をしたら、夏目君の近くには居られなくなる。だから先輩のそばに居ることだってできなくなる。それが代償だと言うのであれば、喜んで差しだそう。平凡で退屈な毎日に彩りをくれた人。自分では見ることができなかった世界を見せてくれた人の幸せのためならば……一世一代の恩返しです。

 全ては夢のまにまに、それは次の瞬間に崩れてしまう積み木のようで……目覚めて

しまえば最初から何もなかったように惚けて佇む私がいるだけ。


「えっと……はい。わかりました……」


 とても気持ちが悪い時間が永遠と続くかのように思えました。もしも夏目君が食い下がったなら、私は泣いてしまったことでしょう。けれど、夏目君は頭を掻きながらそう呟いただけだったのです。

 私は俯いたままでした。やがて夏目君は「それでは」と短く言って私に背を向けて歩き出します。

 これで良い。小春日さんとの打ち合わせ通り。胸を突き破るほど大きく早い鼓動が頭の中に響く中、私は一生懸命に自分自身にそう言い聞かせました。堪えなければならないのです。夏目君の背中を見ながら、鼓動が私を急かしました。この機会を失ったなら次はない……と……


 困惑と動揺を隠せないはじめて見る夏目君の表情。夏目君は私の事を本当に想ってくれていたのでしょうか。例えそうであっても私は夏目君の事を好きではありません。

でも、夏目君には貴方のことを想っている人がすぐ側にいる。それを教えてあげなければ私はただの卑怯者です。 

 言いたいことを言うのは、伝えたい事を伝えるのは子供のやることで、大人に等しい私は知るを知らせず我慢をすることも美徳としなければ……いけません。


 違う! 私はやっと気が付きました。色々な理由を並べ、真梨子先輩の為と思い込み、全部全部目を逸らして、自分を欺いて……伝えるべきを伝えず、それを美徳として気取ることが大人であるはずがありません。


 誰の何のせいにするのではなく、自分の行いに責任を持つことこそ大人の行いなのです!


「夏目君、待って!」

 

 私は力強く目を見開くと、大股で遠ざかる夏目君の元へ歩み寄りました。 


「え」振り向いた矢先に私が近くにいたので、夏目君は思わず仰け反ってしまいます。

 

「さっき私が話したことは嘘です。その、嘘ではなくて……私は夏目君の事は好きではありません……」


「……」


 私は勢いのままに言葉を継ぎ接ぎました。事実として私は夏目君のことが好きではありません。それが大前提です。

 夏目君は何も言いませんでした。その代わり、今までにないほどの冷めた視線を私に向けています。無理もありません、現状では私がわざわざ呼び止めたあげく、今一度とどめの一言を言ったにすぎませんから……これ以後に私が発する言葉は決定的且つどうやっても、誤魔化しが聞かない現実です。やはり、本能的に話してしまうことをためらっているのでしょう。口が急に動かなくなってしまいました。体が急に震えだして止まらなくなりました……。


 私は一度大きく深呼吸をしました。そして多くを諦めたのです。


 この一言で真梨子先輩に絶交をされても小春日さんに軽蔑をされても仕方がない。その時は謝って謝っていっぱい後悔をしよう。そんな風に……


「私は夏目君の事を好きではありません。だけど、真梨子先輩は夏目君のことを愛しています」


「はぃ?」夏目君の反応は見るからにわかりやすいものでした。


「意味わかんないですよ。なんでそうなるんですか」


「真梨子先輩は夏目君のことが好きです。でも、夏目君が私に気があると思って、色々とお節介をしてくれていたと思っています。けれど、お節介を焼くために夏目君と一緒にいる時間を先輩はとても楽しんでいました」


 それはもう束の間の夢に陶酔するように。


「それは考え過ぎです。先輩は私以外の誰にでも同じですよ。底抜けに明るくて気さくで……」


「そんな風に思っていませんよね。そんなわけがないんです。先輩は大学では派手な服装をしてみたり、髪の毛を染めてみたり、夏目君から嫌われようとしていたんです」


「仮に、私の事が好きだと言うのなら、そんな事をする必要ないじゃないですか」


「いいえ。ありますよ。真梨子先輩だって女の子なんです。好きな人に告白をして、楽しい今を失うくらいなら、気の無い振りをして、少し嫌われて距離をおいておけば、関係が壊れることもないですから……」


「違いますよ……」夏目君が急に語気を弱めて俯きます。きっと思い当たる節があるのです。


「違いません!」私は強く言いました。


「夏目君は言いましたよね。円満解決が難しい方の三竦みって」


「確かに……言いましたけど」


「最初は、私1人が泥を被るつもりでいました。けれど、それだけでは何も変わらないと思ったんです。先輩の居ないところでこんなことを話してしまって、先輩に軽蔑されるかもしれませんし恨まれるかもしれません。でも、今話したことは事実なんです」


「まだ。わけわかんないままですけど……少なくとも、葉山さんが先輩から軽蔑されたり恨まれたりすることはないと思います。俺は喋りませんから」


「でも……」

 

 例え夏目君が話さなくても真実を知ってしまった夏目君の挙動から真梨子先輩は感じ取ってしまうことでしょう。仮にそうならなかったとしても、真梨子先輩の気持ちを夏目君が知ってしまった以上、その原因が私にあることは遠からずわかってしまうことです。

 中庭に見え隠れする先輩の姿が目にはいると、私はとんでも無いことをしでかしてしまったように思えて来て、冷や水を浴びせられたように体が鉛のように重く、軽くめまいさえ感じます。


「約束します。それじゃ」


 霞む視界の先に居た夏目君の表情は明らかに変わっていました。去り行くその背中に覚悟のようなものさえも感じるほどです。

 私はその場にしゃがみ込むとしばらく動くことも、何も考えることすら出来なくなってしまったのでした。



○ 



 春日山に日が落ちて、花火が上がって……甘美祭は終わりました。

 

 私は罪悪感と達成感が入り交じったとても複雑な心境のまま本館の正面玄関の階段に座ったまま、膝に顔を埋めてただそこに居ました。

 自分で自分がわからりません。どうして、土壇場になってあんなことを……そしてそれが正しいと決めつけてしまったのでしょうか……小春日さんと計画した通りにしていれば、それで全てが上手くいくはずだったのに……私は最低です。冷静になればなるほど『伝えない優しさ』もあるはずといかに自分が愚かで短絡的あったかと言うことを思い知るのです。

 結局、私は1人で泥を被ることが恐ろしくなったのです。今を取り巻く楽しい関係が全て崩れてしまうことが怖くなったのです。だから、真実を伝えると自分を欺いて最後の最後に自分自身をかばって必死に弁護をしたのです。

 真梨子先輩に嫌われたくなかったのです……すでに先輩のためではなく、私は私の為に計画を利用してしまいました。最低な人間です……小春日さんに軽蔑されて叱責してもらいましょう。


 そうでなければ、私が私を許すことができません。



「探したよ。電話してもでないし……家に行っても居ないし」


 顔を上げると息を荒げた小春日さんの姿がありました。今にも小春日さんに懺悔の弁があふれ出しそうになります。だから私はそれを堪えるために口元に力を入れました。すると、今度は涙が溢れてきたので、再び膝に顔を埋めるしかありませんでした。


「甘美祭終わっちゃったね。強者どもが夢の後、一生懸命だったよ私は、葉山さんは?」


「……」


「変な事聞いてごめん。それからもう一つごめんなさい。嫌な役を押し付けて、今夜を限りに私は最低で卑怯な人間になったよ」


「そんなこと!ないですよ」


 きっと私は泣いてしまっていたと思います。滲んだ先に見える小春日さんの顔は穏やかでとても優しい表情をしていましたもの。


「大事な友達に全部泥被らせて。自分は後からおめおめと慰めて同情しようとしてるんだもん。そう言うのを卑怯って言うんだよ」


「なら私も卑怯で最低です。土壇場で恐くなって、夏目君に本当の事を話してしまいました」


「お芝居だって、話したの?」


「違います。真梨子先輩が夏目君の事を好きだって言いました。先輩は今を失いたくないから、告白しないで夏目君の嫌う派手な服を着たりしてわざと嫌われてたって、幾つか嘘もつきました」

 

 先輩が夏目君の事を好きだと言う事以外は私の推測なのです。理路整然として聞こえますけれど、それが実だとは限りません。


「嘘じゃないよ。多分それは全部本当のことだと思う。先輩が急に髪の色変えたり服の趣味が変わったりしたのって、夏目君と知り合った頃からだから……」


「そんなの……」私はついに我慢でき無くって、声を上げて泣き出してしまいました。


「泣かないでよ。ごめん。本当にごめん」


 小春日さんはそう言いながら、私の頭を優しく抱きしめてくれました。早く泣き止まないとと思えば思うほど涙は止まらず、寧ろ感情の起伏は激しくなるばかりです。しばらく私は感情にまかせて泣きじゃくるしかできませんでした。

 「いっぱい泣いていいんだよ」嗚咽が収まった頃、耳元で小春日さんがささやきかけてくれました。

 突如として沸き上がった無数の拍手に私がようやく顔をあげると、私と小春日さんに向けて模擬店の片付けをしている人達が拍手をしてくれていたのです。見れば、私と同じく泣いてしまって人もいるのです。


「みんな甘美祭をやり遂げた感動で泣いてるんだと勘違いしてくれてるみたい。今夜だけは堂々と泣いても許されるよ」 


「そうですね。でももう大丈夫です」私は鼻をすすって涙を拭いてから「私が余計なことをしなければ、先輩と夏目君は結ばれたのかもしれません。でも私が余計なことしたから……」


「それなら私も同罪だから。葉山さん1人のせいじゃない。それにね、私思うんだ。真梨子先輩が髪の色を戻したのにも絶対意味があるって」


「先輩は巫女だから黒にしたって」


「多分それは嘘。ちんどん屋の時だって戻さなかったのに、今更戻すなんて変だよ。

私の勘が正しければ、髪の色だけじゃなくて服装にも変化があるはず……自分の気持ちに気が付いてるんだよ先輩だって」


「私達に出来ることはあるのかな……」


「うんある。私達にとっての天王山は甘美祭の打ち上げだよ」


 泣き腫らした顔で小春日さんの顔を見上げる私に小春日さんはそう言い切りました。


 それから小春日さんと明日、先輩にも夏目君の事を話す旨を二人で確認しあい、小春日さんが撮影した甘美祭の写真を見せてもらいながら二人して大学を後にしたのでした。 

 明日を含め今後どう転んでも、小春日さんは私の味方で居てくれる。そう確信がもてただけでも気持ちがとても軽くなりました。

 だから、私は湯舟に使って何度も顔を洗ってから拳を高く突き上げ決意を新たにしたのです。ここまで来たらもう引き返すことはできない。やると決めたら最後まで。ここで臆病風に吹かれたなら女が廃る


 と。



 


 覆面の彼を見習うわけではないが、私は葉山さんに贈る林檎飴を買ってから、体育館裏に駐輪場へ向かった。 


「お待たせしました」

 

 俯き加減で佇んでいた葉山さんは私が声を掛けると、とても驚いた様子で急いで腕時計を確認していた。そう言えばまだ待ち合わせには30分ほど時間があっただろうか。


「こんにちは」


「こんにちは」


 依然として葉山さんは顔を上げなかったが、覆面の彼の奇跡とも言うべき奇跡を目の当たりにしたばかりなので、どこか気持ちが高揚していたのだろう。私はこれから待ち受ける幸福の瞬間を想像して、きっとにやにやしていたに違いない。


「私には好きな人がいます。真梨子………えっと、だから絶対に無理ですごめんなさい」


 だが、彼女の口から出た言葉は、私を天国から地獄に突き落とすものだった。正しくは煉獄にいた私を地獄に突き落としたわけだが、いずれにしても私は酷く混乱をして困惑をした。だから、「え……」としか返事をすることができなかった。

 葉山さんは目を強く瞑ったまま、口元も固く一文字に結び、私の前に立っていた。

『好きな人って誰なんですか』『最初から振るつもりだったんですか』『だったらどうしてそんなに着飾ってるんですか!』即座に目の前にいる女の子に対して投げかける言葉が浮かび上がってきた。そしてそれに追随するように、罵詈雑言が酷く尾をひいた。

 夢のまにまに、ついに積み木は崩れてしまった……葉山さんが私の事を好いてはいないことは薄々気が付いていたし、理解もしていた。けれど、もしかしたら……と決定的な告白が無い以上は……と諦めつつも心の片隅に常に『もしかしたら』と言う希望がついて回っていた。それが私の生きる糧であったことは言うまでもない。

 今、私の胸の隅っこに輝いていた希望は無情にも打ち砕かれ、完全なる闇のみが私を支配しようとしていた。もう、脈がないのであれば、相手が誰であれ恨み辛みを重ねて吐きかけてやったところで何を後悔する必要もない。気持ちの悪い無言の間を費やして、そんな事を考えた私は沈黙を破り、


「えっと……はい。わかりました……」とだけ答えた。


 なぜか、葉山さんの姿がいつもよりもずっと小さく見えて、心なしか震えている気がした。ここで、彼女に悲し紛れに怨恨を吐き散らかしたらなら……彼女が泣いてしまうほど罵詈雑言を浴びせられたなら……彼女の心を傷つける事が出来たなら、今は満足できるかもしれない。だがしかし、後々私は後悔の念に苦しみ暮れることになると思うし、一生の悔いを残すことになると思った。


 私にはそれだけの後悔を背負ったまま生きる自信がない。


 俯いたまま何も言わない葉山さんに私は「それでは」と呟くように残して、彼女に背を向けたのだった。

 万事はこれで良いのだ。腑では依然として恨み節を吐き出せと胎動を繰り返して止まないが、一朝の怒りに我を忘れる事無かれ。怨嗟を口にしたところで葉山さんの心は何一つ変わりはしない。

 それに……悲しいと思う気持ちのどこかほっと安堵した気持ちが確かにあった。どういうわけか私自身にもわからなかったが、きっと、前もって葉山さんに振られたと思い込んでいた予行演習がそう感じさせたのだと無理矢理に思うしか心の持って行きようがなかった。


「夏目君、待って!」

 

「え」突然の声に振り返ると目の前に彼女の顔があったので、思わず私は体を仰け反らせてしまった。

 

「さっき私が話したことは嘘です。その、嘘ではなくて……私は夏目君の事は好きではありません……」


「……」


 私は不意を突かれた上に、今一度念を押されて振られたのでさすがに彼女に対して怒りを露わにした。わざわざ呼び止めてとどめを刺さなくてもいいだろう。

 だが、それは言葉の一端でしかなく、何かを躊躇していたのだろうか、彼女は大きく深呼吸をしてから続けて言ったのである、



「私は夏目君の事を好きではありません。だけど、真梨子先輩は夏目君のことを愛しています」と。


「はぃ?」私は、あまりの藪から棒さにそう声を出すしかなかった。


「意味わかんないですよ。なんでそうなるんですか」


 まったくその通りである。


「真梨子先輩は夏目君のことが好きです。でも、夏目君が私に気があると思って、色々とお節介をしてくれていたと思っています。けれど、お節介を焼くために夏目君と一緒にいる時間を先輩はとても楽しんでいました」


 私を振ったかと思えば、次は真梨子先輩が私の事を好きだと言う。すでに脈略以前の問題だろう。どう解釈すればそんな帰結にたどり着くのだろうか。


「それは考え過ぎです。先輩は私以外の誰にでも同じですよ。底抜けに明るくて気さくで……」


 阿呆らしい。私はこれ以上話しを続けるつもりは無かったが、一方の彼女は先ほどとはうってかわって瞳に覇気が感じられる。それに気が付くとつい言葉が止まってしまった。


「そんな風に思っていませんよね。そんなわけがないんです。先輩は大学では派手な服装をしてみたり、髪の毛を染めてみたり、夏目君から嫌われようとしていたんです」


「仮に、私の事が好きだと言うのなら、そんな事をする必要ないじゃないですか」


「いいえ。ありますよ。真梨子先輩だって女の子なんです。好きな人に告白をして、楽しい今を失うくらいなら、気の無い振りをして少し嫌われて距離をおいておけば、関係が壊れることもないですから」


「違いますよ……」言い切れなかった。

 

 言われてみれば、真梨子先輩が髪の色や服装を変えたのは私と知り合ってからだと古平も話していたし、虫騒動の夜も合い鍵事件の夜も、どうして先輩は私だけを呼んだのだろうか……


「違いません!」完全に葉山さんの覇気が私を飲み込んでいた。


「夏目君は言いましたよね。円満解決が難しい方の三竦みって」


「確かに……言いましたけど」


「最初は、私1人が泥を被るつもりでいました。けれど、それだけでは何も変わらなないと思ったんです。先輩の居ないところでこんなことを話してしまって、先輩に軽蔑されるかもしれませんし恨まれるかもしれません。でも、今話したことは事実なんです」


「まだ。わけわかんないままですけど……少なくとも、葉山さんが先輩から軽蔑されたり恨まれたりすることはないと思います。俺は喋りませんから」


 喋るはずがないし、喋りようがないではないか。先輩にどう喋れと言うのだ『先輩は俺のことが好きなんですか?』とでも聞けと言うのか。そんな間抜けな質問など死んでもごめんだ。


「でも……」

 

ここに来て突然、彼女は語気を弱め、本当に全身を振るわせはじめた。どうしたのだろうか、あれだけ断言していたのに私を言い負かす勢いはどこに行ってしまったのだろうか。

 それは不可解ではあったが、私だって大混乱の心中にて彼女を気遣う余裕はなかった。


「約束します。それじゃ」


 その後は一度も振り返らず図書館横の階段からグランドに降りるとメインステージではソーイング同好会によるファッションショーが行われていた。とりあえず、開いている席に腰を落ち着けると、ようやく、手に林檎飴を持って居たことに気が付いた。

 厭世の際、私はさながら精神が死んだしまった抜け殻でありゾンビであると言いたい。葉山さんに振られたかと思えば、その彼女は真梨子先輩が私の事を好きだと言う。よりにもよってどうして真梨子先輩なのだろうか……先輩に想いを馳せる男子は私の知る限りで6人はいる。部長を省いた後の5人に関してはサッカー部のキャプテンであったり、バスケ部のエースだったり、野球部の背番号1番だったりするのだ。私のような取り柄もなければぱっとしない男が入り込む余地などどこにあると言うのだろうか。


「今日は真梨子先輩のお供はしてないんですか」

 

 串焼きをしゃぶりながら、古平が私の隣に腰を降ろした。いつ見ても気色の悪い顔である。


「帰宅部のお前がどうして文化祭に居るんだ」


「何言ってるんですか、帰宅部でも金さえもってれば来ても良いんですよ」


 「こうしてお金を落としてますからね」と串焼きを見せた。


「真梨子先輩も考えましたね。あんな商売があるなんて。さすがは狡兎と名高いだけはある。いいや女狐と言った方がいいかもしれない」 


 古平は自分で言っておきながら、キシシッと汚らしい笑い声をこぼした。


「狡兎はお前だ。そして先輩は女狐ではない」


 もっと言うなればお前こそ悪名高きぬらりひょんだ。


 祭りの楽しみ方は人それぞれだ。その証拠に、私のすぐ後ろに座っているカップルなど、鍵に仲良く名前書き並べて楽しそうな声を出しているではないか。なんと憎たらしい楽しみ方だろうか。


「狡兎は酷い言い方ですね。これでも私は真梨子先輩の身を案じて身を呈してまで忠告をした男なんですよ」


「嘘つけ」


「嘘じゃありませんよ。あなたも真梨子先輩に信用されてませんね。あんにいつも飲み会に呼ばれてるくせに。聞いてませんか?家に帰ったら、テーブルの上に覚えのないメモが置いてあっ……」


 私は古平が言い終わる前にその胸ぐらを搾りあげた、その衝撃で古代は持っていた、串焼きが地面に落ち、地面で一度跳ねて転がった。


「いきなり何をするんですか。せっかくの串焼きが台無しだ」


 さらに締め上げたが古平は物怖じせずに落ちた串焼きを惜しそうに見ていた。


「正しくは、侵入したんだろ。どうして家の中に入ったりした。忠告なら口で言えばいいだろ!先輩に何の恨みがある言ってみろ!」


 ファッションショーのBGMのお陰でさほど目立たずにすんだが、それでも私と古平の周りの席から人の姿が消えた。


「生憎、真梨子先輩には大恩はあっても、恨みなんてありはしませんよ」


 小春日さんとの仲を取り持ってもらった大恩もあれば、私同様に偏屈者な古平を先輩は嫌うことなく、みんなの輪の中に溶け込ませてくれた。その恩を仇で返しておいてその物言いはなんだ。


 「離して下さい」古代も声を荒げずとも冷淡な視線で私をにらみつけた。


 私が手を離すと「あなたは知らないだろうけど、先輩を抱きたい男なんて幾らでもいるんですよ。あんな服装でしかも、いつもヘラヘラしてるもんだから、尻軽女で二言返事で部屋にあげてもらえるってね。そんな阿呆なやつらならまだ良い。本当に恐いのは、自分の口でそれを言えない奴らですよ。陰険で意気地のない奴らもいましてね。つい先日、真梨子先輩が相談室に入って行ったんで、本意ではなかったんですが、聞き耳を立てたんです。そしたら、なんでも男が大学の帰り、家までついてくるらしくてね。それだけでも耳を疑ったんですけど、相談員の一言にももっと耳を疑いましたよ。なんて言ったと思います?」


「知るか、もったいぶるな」


「助けを求めに来たって言うのに、一言めに『そんな服装をしてるあなたも悪い』ですよ。僕も思わず笑っちゃいましたね。こんな阿呆に相談するだけ無駄だと思ったんですよ。僕だって先輩の服装が悪いなんて微塵も思わない。そんな湾曲した妄想を抱く奴が悪なんだ」


 私は目を大きく見開いて髪の毛を逆立てた。悔しいが古平の言うとおりである。そんなバカ者に相談をしたところで何も解決などするはずがない。きっとそれは真梨子先輩も感じたに違いない。


「だから、先輩の家に入った理由にはならないぞ」 


 古平が冗談半分にあんな犯罪行為に及んだのではないことはわかった。だが免罪符にはならない。やり方なら他にいくらであったはずだ。

 私がそう言うと、古平は砂まみれになった串焼きを広いあげると、静かに立ち上がり、不機嫌と言いたげな表情で「あなたも、真梨子先輩と冗談半分で付き合ってるなら、そろそろ潮時にした方がいい。怪我をしてからじゃ遅い」と捨て台詞のように言った。


「どういう意味だ」


 私も立ち上がり古平に歩み寄り、そして古平の肩を掴もうとした頃合いで、

「先輩のアパートの合い鍵、1本3万円で売れると知って、悠長に構えてられますか」と横目で私を制したのであった……


 私は少しの間、戦慄して動けなくなっていた。


 古平が座っていた椅子に静かに腰掛けると、事態は私の知らない所でそんな深刻なところまで進んでいたのか……真梨子先輩のことは古平よりも ずっと知り置いていると思っていたのだが……それがどうした……それはただの井の中の蛙。胸に縋られていい気になって居ただけではないか……

 悔しいが合い鍵の一件は、先手を打つことができたから古平の功績であると言える。今にして思えば先輩は合い鍵の一件をしでかした犯人に見当をつけていたのかもしれない。だから、恐怖に怯えながらも通報するという手段には手を出さなかった。

 乱れた呼吸が浅くなる頃、握っていた林檎飴がなくなっていることに気が付いた。

顔を上げるとソーイング同好会の面々が壇上に勢揃いをしてカウントダウンをしている。メンバー全員と会場の観客が声を揃えて「ゼロ」とカウントしたと同時に、部室棟から数発の打ち上げ花火が夜空を焦がした。

 一斉にわき起こる拍手喝采。壇上では感極まった同好会面々が涙をもってそれぞれの健闘をたたえ合っている。


【これを持ちまして、甘美祭を終了いたします。各部・同好会は速やかに後片付けを開始して下さい。尚、ゴミの分別や粗大ゴミは甘美祭執行部の指示に従ってください】


 学内にアナウンスが何度か流れ、その後はスピーカーと言うスピーカーから蛍の光が流れはじめた。


 神無月を締めくくる宴が終わった。同時に私の灯火も完全に消えた。





 私は早々に観客席を片付けに現れた、運動部員にパイプ椅子と居場所を奪われ、泣くに泣かれず中庭へと移動した。

 

「あっ、恭君!探したんだよ」


 さすがに最終日ともなれば見慣れたものでる。朱と白色の巫女服を纏った真梨子先輩が簡易金庫を持って草履をぺたぺたと鳴らしながらやってきた。


「見て見て、鍵全部売れたんだよ。と言うか売った!」と嬉しそうに胸を張って言う。

 はいっ。と言いながら先輩はその金庫を私に差し出した。 


「初めは500円で売ってたんだけど、食い付きが悪いから400円に値下げしちゃった。もし足りなかったらごめんね」


 金庫を受け取り蓋を開けてみると、小銭と紙幣が何枚か納められてあった。大きな紙幣が一枚見当たるかぎり、私の支払額よりも多い事は歴然としている。

 私は大きな溜息を吐いた。こんなことのために、真梨子先輩は美術室にこもって小道具を作り、全日を通して巫女姿で中庭に立っていたのか……そう思うと、ただ静観していた自分がどこまでも情けない。加えて古平の話しを思い出すと胸に迫るものがあった。

 感謝こそしたくない。それでは、鍵の代金を先輩への善意に見返りを求めていたことを認めてしまうようで……感謝の言葉も思うことすら憚った。けれど、その愛情に深きにどうにかしてその行いに思いに、私の気持ちを伝えたい。そう強く思うのである。

「どうして来なかったの?」


 脳天気な声色で先輩は私に聞いた。この人はこの数時間の間に私が経験した絶望と戦慄と感謝の出来事を全然知らないのだから責めようがない。


「振られました」


「誰に?」


「葉山さんにです」


「それって恭君が思い込んでるだけでしょ?なっちゃんに確認したら、振ってもない

し告白もされてないって言ってたよ」やはり、葉山さんに何度も確認をしていたらしい。先輩らしいと言えば先輩らしい……


「そんな後ろ向きじゃ駄目だよ」私の方を小突きながら言う先輩に私は、


「いえ、さっき、体育感裏で公式に振られました」と先輩をまっぐに見つめて告げた。


「えっ…うそ……」


「本当です。振られた気でいただけ傷は浅いですよ」


「そんなのって……」


 真梨子先輩は見る見る間に表情を曇らせると、急いで携帯を取り出して操作をはじめたが「先輩」と私がそれを制した。


「真梨子先輩には折り入ってお願いがあります」


 携帯を触る手を止めて先輩は私に向き直った。どこか不安げな表情をしたまま……


「なに」


「明日から、派手な服装はやめてもらえませんか」


「えっ、どうして……急にどうしたの?」


 困惑の色を隠せない先輩だった。悔しいが私も古代と同意見である。真梨子先輩がどのような格好をしようとも、それは先輩の自由であり、それにとやかく言う権利は誰にもありはしない。単純に邪な思いを抱く悪辣漢がこそ悪なのである。


「お願いします。明日から、派手な服装をやめてください!」


 私は、頭を下げた。


 そして、「お願いしますこのとおりです」私は膝を折り、手をついてお願いした。恥も外分も打ち捨てた私はさらにアスファルトに額を擦りつけて先輩に懇願したのである。



 ◇



 思えば場所を考えれば良かった。

 いきなり土下座をした私に片付けに奔走していた学生全ての視線が集まり、その後に続いて、どうしていいのか困った表情の真梨子先輩に視線は移る。視線に耐えかねてか、先輩は何も言わずに走り去ってしまった……


「今時、土下座で交際を迫るやり方はどうかと思うよ」1人取り残された私に、通りかかった部長がくれたお言葉である。先輩の反応からすれライバルが1人減ったと思ったのだろう。とてもにこやかな顔だった。

 再び喧騒に包まれる中庭にあって真梨子先輩にはとても悪いことをしてしまったと反省した。


 流々荘に帰ってから、とりあえずメールでもう一度先輩に謝っておこうと思ってみたものの。葉山さんの言葉が蘇り古平の言葉が蘇ると、どうやっても指が動かなくなった。

 先輩からメールが来ない現状を鑑みれば、先輩だって怒っているだろうし、中途半端な謝罪を繰り返したところで火に油である。事情を説明することができない以上は時薬にて関係の回復を試みた方が無難であると言いたい。

 そう言うことなので明日の夕方から開催される『合同甘美祭お疲れ様会』には欠席することにした。


 私が行かなかったからと言って誰も気にする人間などいやしないのだから。 





「頼まれた通り、先輩にも夏目にも仕込んだ。こんな胸くそ悪いことはもうごめんだ」

 

 次の日の夕暮れ時、私は甘美祭お疲れ様会が催される近鉄新大宮駅前にあります一条と言うお店の近くで古平さんと会って話しをしていました。もちろん、呼び出したのは私です。


「はい。感謝しています。でも、もう一度だけお願いしたい事があるんです」


「真梨子先輩か?それとも夏目か?協力するとは言ったけどな……」


「小春日さんにです」私は、嫌気がさしたと言わんばかりに話す古平君の言葉を遮って言いました。


「どうしてそうなる」


「小春日さんの彼氏である古平君にしか出来ないと思うからです」


 目を細めてあからさまに猜疑心をむき出す古平君に私は、あるお願いをしました。それは恋人である古平君であれば難しいことではありません。ただ極々自然にお疲れ様会を楽しんだ延長線上にあるのですから。


「これきりだ。どんな幼稚なことであって今後僕は一切協力しないからな」


「はい」


 踵を返す古平君を見ながら私はほっと胸をなで下ろしました。今まで古平君には小春日さんからお願いしてもらってばかりでしたから、私からお願いして引き受けてもらえなかったらどうしましょう。そんな一抹の不安があったのです。


 私が引き受けた役回りはこれで盤石です。


 思った通り夏目君は会場に姿を現しませんでした。私は終始先輩の隣にいて代わる代わる先輩に話し掛けてくる男子学生の多さに驚きつつ、これだけの男子学生に愛されていながら、その誰ともお付き合いをしない先輩はとても一途なのだと思うばかりです。

 先輩はいつも通りでしたけれど、携帯を一度も触りませんでしたし夏目君の事を一度として話題に上げることもしませんでした。

 小春日さんは古平君がしっかりと抱え込んで放さず、しきりに乾杯を繰り返して居る様子で、私として事は万事滞りなく……でした。中でも先輩がとても落ち着いた装いで現れたのでこれは小春日さんの勘が当ったのかも。逸る気持ちを押し殺して「今日は家庭教師のバイトから直接きたんですね」と聞いてみると「明日までバイトは全部お休みいれてるよ。だから、今夜はなっちゃん家においでよね」と言うので、ますます風は今私に吹いている。と追い風を感じいずにはいられない私だったのでした。

 午後8時を過ぎた辺りで、合同お疲れ様会はお開きになりました。まだまだ宵の口

あたりでお開きにするのは、この後各部同士、気の合う者同士で引き続き『打ち上げ』を行えるようにとの執行部の心遣いなのだそうです。音無さんからそのように聞きましたので間違いはありません。


「彼女は酔ったみたいだから。僕が連れて帰る。後は頼んだ」


 真梨子先輩が各方面からの2次会への誘いを断っている間に、古平君が眠ってしまっている小春日さんを背負って私の所までやってくると小声でそう言い、周りからからかわれながら踏切の先へと消えて行きました。

 程なくして、先輩が「ごめん、お待たせ」と言私の隣に現れました。そして、2人して先輩のアパートへと歩き出したのでした。途中、コンビニへ寄ってお菓子とデロリンを買いました。先輩が小春日さんも呼ぼう!と言うので、事情を説明すると「小春ちゃんはいいよねぇ。頼りになる彼氏がいてさぁ」と唇をとがらせるのでした。

 風に靡く薄水色のスカートに黒いニーソックス、気まぐれな風に見え隠れする肌色の太腿。夜空と同じ色の髪にはシリウスのように際だつ白いヘアバンド。冬を前にした季節にしては少し薄着に見える白いシャツにスカートと同じ色のベスト。今夜の先輩はとても清楚可憐で素敵な女の子です。一体誰に見せるためにこんなお洒落をしてきたのでしょうね……「今日は飲んだー」とスナック菓子の入った袋を大きく振りながら少し前を歩く先輩。ふくらはぎの所に刺繍の黒猫がいることに気が付いて嬉しくなりました。

 アパートの階段を上りながら、私は今一度、臍を固めていました。小春日さんには申し訳ないですが、ここは私が1人で嫌われます。もしも、私と小春日さんを同時に嫌いに成らざる得なくなったなら、寂しがり屋の先輩の事ですから、きっと困ってしまうはずです。今日を限りに小春日さんに先輩をお願いするつもりです。今夜、夏目君は先輩のアパートには来ないでしょう。小春日さんも明日の朝まで眠り続けるでしょうし、古平君はもう私の前にすら現れないかもしれません。先輩は私と対峙せざる得ないのです。


 役者は揃いました、ここからが総仕上げです。


「たっだいまー」先輩は上機嫌で部屋に入って行きました。


 私は、何があっても何を言われても怯まず泣かず妥協せず。先輩を想う真心のままにとオリオン座の端で輝くシリウスに誓ってから、


「咲く時を 知りてこそ先輩の 恋も恋なれ 藍も愛なれ」そう呟いたのでした。

 

 



「さぁて、まず何から聞こうかしらね」


 私がデロリンを炬燵の上に置くと、ニーソックスとベストを脱いだ先輩が徐にそう言いました。 


「甘美祭のことですか?」私は先輩に向かい合うように腰を降ろしました。


「恭君から聞いた。正式に振られたって。本当なの?」


「はい。私にはその気持ちがありませんでしたからはっきりとさせました……」

 

 先輩がそのように話す限り、夏目君は先輩に余計なことを一切話していないようです。こればっかりは夏目君に感謝しなければいけません。


「まだ結論を出すのは早いと思うんだよね。もっと、時間をかけてから結論を出しても遅くないと思うの。恭君って不器用なだけで、見かけによらず優しいし、一生懸命になってくれるんだよ。だからね」


 夏目君の良いところを思い起こすでもなくすらすらと並べる真梨子先輩……それは、それだけ先輩が夏目君のことを見ている証拠。聞けば聞くほどに、先輩は夏目君の事が好きなのだと伝わってきます。

 なのに、まだ無理をして私の為と言い訳をして……必死に考え直すように諭す先輩を見ていると私はやるせない気持ちと同様にお腹の辺りが熱くなるのを感じました。

 

「だからね?」先輩は、それでも私を説得し続けました。とっくに私の腹は決まっていると言うのに……

 夏目君でさえもその真実を知っていて、全てを知らないままでいるのは先輩ただ1人だけなのです。言い方は悪いですが、裸の王様です。


「私のことはいいんです。先輩はどうなんですか」


 私はついに口火を切りました。もう、何度も決意を固めましたし、この期に及んで怖じ気づいていては女が廃ります。


「へ?私……?なっちゃん、何言って……」


「先輩こそ、夏目君の事が好きなくせにどうして、無理をしてるんですか。私には時間はあります。けれど、先輩には時間がないじゃないですか、もうすぐ就職活動で忙しくなって今までみたいに、夏目君と会う機会もなくなります。先輩は今のままで本当に良いのですか。絶対に後悔をしないんですか」私は先輩の言葉を遮って強く言いました。冗談ではないことを示すために、眼孔を鋭くして先輩を見据えます。


「私が夏目君を、なっちゃんわけわかんないよ……」


 目に見えて狼狽する真梨子先輩は、私から視線を合わすことができないまま、天井を見たり、台所を見たりしていましたが、最後は自分の手元に視線を落ち着かせました。


「先輩を見てればそれくらいわかりますよ。それに、私が夏目君を振ったのは先輩の為です」


「そんなっ」先輩は声を細めながらも咄嗟に身を乗り出しました。


「もう、何真剣になってるの。私が夏目君の事を好きなわけないじゃない」


「先輩。好きでもない相手にノートPCを貸しっぱなしになんてしませんよ……パソコンだって夏目君との接点の一つなんですよね」


「違うよ。それは違う」


「服装だって、夏目君が派手なのが嫌いだって知ってわざとですよね。古平君も小春日さんも言ってました。先輩が急に髪の色や服装を変えたのは夏目君と親しくなってからだと」


「違う……私の趣味だから……夏目君は関係ないよ」


「趣味なのにどうしてクロゼットの中には一着もなかったんですか」


「それは、それは……とにかく違うのっ!」先輩は声を荒げると、急いで立ち上がると玄関の方へ体を向けます「違いません!」私も炬燵に手を突いて立ち上がると先輩を上回る声量でこれを制し、行く手を阻みました。二人の間に衝撃で炬燵から落ちたデロリンが転がり、やがて、キッチンへと続くフローリングの端で止まりました。


ここから↓


「私も小春日さんも古平君も先輩に幸せになって欲しいんです。今度は先輩が幸せになる番なんです。お願いします。私達に先輩の恋愛を応援させてください」


 私は言いました。


 先輩は無言のまま、小刻みに首を左右にさせているだけで、何も言いません。


 私は考えました。このまま先輩が私を押しのけてでも部屋を飛び出して行ったなら、どうすればいいでしょうかと。きっと、この場から先輩を逃がしてしまったなら、次の機会は絶望的でしょう。これ以上の会話を全身で拒絶している先輩は二度と私の前に姿を見せることすら避けるかもしれないからです。

 1分1秒がとても長く感じられました。足の指先から凍り付くように冷たくなって来る初めての感覚が私の不安を一層かき立てます。

 

 どれくらい時間が経ったでしょうか。お互いに黙したまま、、膠着したまま微動だにできず、呼吸の一つが唾を飲む喉の動きさえも鮮明に目立つ張りつめた時間が……


 次の瞬間。


 突然、容赦ない呼び鈴の連呼が始まりました。その次はドアを何度も叩く音が部屋の中に響きます。先輩は、はっとして視線を玄関の方へ移すと早歩きで玄関へと行ってしまいました。駆けて行かなかったのは、私に逃げる意志がないことを示していたのでしょうか。一方の私はと言うと、先輩を避けようとしてはじめて足が動かないことを知り、無様にも尻餅をついてしまっていたのでした。


 なんて情けない私なのでしょうか……


「なっちゃん来て」先輩の声に、途中まで四つん這いになりながらも玄関まで行くと、顔色の悪い小春日さんが先輩に寄り掛かっていました。

  

「もう卑怯者は嫌なのに 何でよぉ」私の姿を見つけると小春日さんはそう良いながら泣き出してしまいます。

 私と先輩は小春日さんを両方から支えて、なんとか炬燵の前まで運んできました。


「小春ちゃん、どうしたの?古平君は?」


 水の入ったコップを差し出しながら先輩が小春日さんに言うと、小春日さんはコップを両手で持ったまま「先輩、私が悪いんです。私を夏目君に話してって……」嗚咽混じりにそんな意味不明なことを言うのです。ますます混迷を極める先輩でしたけれど、小春日さんが持っていたコップを炬燵布団の上に落とすと同時にその手を口へやったのを見て、即座に小春日さんを台所へ連れて行きました。


「なっちゃんごめん。窓開けてくれる」


 小春日さんの落としたコップの処理にあたっていた私は、水が半分残ったコップを炬燵の上に置くと、窓と言う窓を開け広げ、最後に換気扇を回しました。

 小春日さんもとても辛そうでしたけれど、シンクの惨状を見るに後片づけも相当辛いものになりそうです。


「こんなに飲むなんて小春ちゃんらしくない……」


 その後、譫言のように「こうちゃんのばかぁ」と繰り返す小春日さんを2人でベットまで運び、それから、諸々の後片づけをしました。

 シンクを洗い終えた後も臭いはなかなか消えませんでしたので、しばらく窓は開けておきました。冬の足音が聞こえる昨今ではやはり、日が落ちれば足下から冷えて来ます。

 私は何度か鼻を啜ってから、そろそろ窓を、と思い部屋の窓を閉めてから最後にベランダの窓を閉めに行きました。部屋の灯かりを背に受け、幾らから明るく感じられる夜空にはくっきりとオリオン座が見て取れます。不意に吹き込むそよ風が耳をくすぐると、私の頭の中はまるで透明になっていくようで、ようやく私は私を客観的に見ることができました。使命感からか思い詰め過ぎていたのでしょうね。先輩の気持ちを踏みにじって私の考えを驕慢にも押し付けようとしていました。戸惑う気持ちも困惑も驚嘆も……あったでしょうに……人の心とはそんな簡単に整理できるものではないのですよね……そんな単純なものではありませんから……


 洗面所から帰って来た先輩は換気扇を止めに台所へ寄ってから、先ほどと同じ位置に腰を降ろしました。

 私もそれに続いて、同じ場所に腰を落ち着けました。今度は先輩の行く手を阻むことはしません。もし、先輩が飛び出して行ったなら、帰ってくるまで待つつもりです。 


「私が古平君に頼んだんです。本当は今夜、小春日さんと2人で先輩に話すはずだったんです……」


 確かにお願いはしましたけれど……ここまで泥酔させるまで飲ませるなんて思いもしませんでした。

 

「なるほど。なっちゃんは友達想いね」寝室の方へ視線をやってから先輩は呟くように言いました。

 

 寝室からはまだ小春日さんの譫言が微かに聞こえてきます。きっと「こうちゃんのばか」をまだ繰り返しているのだと思います。


「先輩……さっきは言い過ぎました……ごめんなさい」


「謝らないで。私も悪いの……胸の中を見透かされたみたいで、つい頭に血が上っちゃって……笑えないよね。自分ではうまく隠してたつもりが、実はバレバレの図星で慌てて誤魔化そうとして大きな声出して……」


「それじゃあ、やっぱり……」


「うん。私は恭一君の事が好き。第一印象は何考えてるのわからなくて不思議な子。だったけどね。だって、「女の子の1人も助けられないなんて男子の名折れです」なんて平気で言ってたくらいだもん」


 先輩は観念したように表情を緩めると、苦笑をしながら話してくれました。


「だけど、真面目で不器用だから損ばっかしして、貧乏クジばっかしひいて……でも、誰かの為に一生懸命で……私のパソコン直すのに夢中になって講義遅刻して単位落としたこともあるくらい……最初はほっとけない弟みたいに接してたんだけど、段々、男らしい一面を見ることが多くなってきて……」


 口元をすぼめて、炬燵の上のコップを持て遊ぶ先輩は、やっぱりどこにでもいる恋する女の子でした。


「気が付いたら好きになってた。でも、その時私は、恭君のお姉さんみたいな立場が居心地が良くて、想いを伝えてその関係が壊れるのが恐かったの。だから、恭君の嫌いな派手な格好もしたし髪の染めた。外見だけでも別人になりたかった」


「そこにどうして私だったんですか」


「理由はなっちゃんが恭君好みの女の子だったから……恭君がなっちゃんとうまく行けば、私の中の恭君への想いを断ち切れると思った。本当に自分勝手で酷い話しよね。謝ったって駄目だと思うけど、ごめんね」


 私はつまり……当て馬だったと言うことですか……


「いいえ。謝らないでください。そのお陰で私は真梨子先輩とも仲良くなれましたし、小春日さんとも友達になれました。それに、先輩と知り合ってから毎日が忙しなくって、とても充実していたと思えるんです」


 それは事実です。当て馬の事実には多少なりとも落ち込みましたけれど、それが切っ掛けで今年は毎日が充実していて、朝が来るのが楽しみで仕方がありませんでした。


「忙しないって、何それぇ」


「本当のことですよ。先輩と知り合っていなければ、ちんどん屋をすることもなく、ふんどしを作ることもありませんでしたから。とても楽しかったです」


「ありがとう」


「お礼を言うのはこちらの方ですから」私はビニール袋に入れたまま、転がり落ちたままになっていたデロリンを拾うとビニール袋から出したのですが……


「先輩!」私は興奮して大きな声を出しました。これは出さずにはいられません。


「それ虹色!」ゆっくりと振り向いて先輩に見せると先輩も即座に興奮の大きな声を出すと、急いで携帯電話を取りに走りました。


 私は慎重の上に慎重を重ねて、そっと七つに色が分離したデロリンを炬燵の上に置きました。キャップ辺りの赤をはじめに、オレンジ、黄、緑、水、青、の順にそれぞれが独立した層をなし、底の方にうっすらとした紫色で終わっていました。


「こんなことってあるんですね」


「うん。デロリンの7色分離って都市伝説だと思ってた……」


「ここに実在するんですから、伝説じゃなくなっちゃいました」


「うん!」


 しばらく2人して伝説の7色を見つめていました。2人して呼吸にすら気を使って、物音一つ立てずにそれはそれは穴が開くほどその神秘に酔っていたのです

 ひとしきり堪能した後「あっ、写真、写真!」と真梨子先輩が写真を撮り始めたので、私も慌てて携帯で写真を何枚も撮りました。先輩はデジカメを持ち出して、色々な角度から撮影をしていて、あまりの必死な姿に私は思わず笑ってしまいました。

 そして、2人して満足がいくほど写真を撮り終わってから数分後に、7色はそれぞれの色が浸食しあうかのように混ざりあい、1分も経たないうち気色の悪い駁色になってしまったのでした。


「あぁ、無茶苦茶な色になってしまいましたね」


「そうだね。でも、こうして振れば」そう言うと先輩は混沌色のデロリンを振りました。すると、不思議なことに真っ白に変わって行くので「わぁ」と思わず私は声を出してしまったのです。


「光ってさ全色混ぜたら白色になるんだって。まるで今の私みたい……色々な気持ちが混ざり合ってぐちゃぐちゃになって、でも最後はなっちゃんが混ぜてくれてスッキリ真っ白」


「そんな……もっとやり方があったはずだと反省しています」


「もう一度言わせて。ありがとう」


 先輩のはにかんだ顔を見ていると、ここ数日の間に起こった目まぐるしい出来事がまるで夢のように思えます。




 夏目君。


 夏目君は言いましたよね。円満解決は難しい方の三竦みだと。後は夏目君次第です。夏目君がどんな答えを出すにしてもきっと、丸く収まると私は思いますよ。


 だって、友情とはどんな時でも衰えず、順境と逆境を経験して、いよいよ堅固なものになっていくものなのですから。 

 





 物事には最初があって終わりがある。甘美祭実行員会に出席をして、クリエイターとして昼夜と製作に励み、甘美祭当日を迎え、それが一定の評価を受け、そして、思いもよらない告白で幕を閉じた。締めくくりの打ち上げにだけ参加しないと言うのは、まるでエンディングのない映画のようなものである。


 けれど、悪いことばかりではなかった。


「作りすぎたので、良かったどうぞ」


 時計を見ながら「今頃は……」と畳の上に寝転がっていると皐月さんが、肉じゃがを持って来てくれた。大きく切ったジャガイモがゴロゴロと入っていて、それでいて芯まで良く味が染みこんでいたし、少し甘い味付けが実家の肉じゃがを思い出させてくれた。


 今年は実家に帰ろうか……


 昨夜は割と早く寝たにも関わらず、眠りすぎて迎えた翌昼、顔を洗ってから1日を損したような面持ちでいると、携帯が光っていることに気が付いた。

 先輩からだろうかと携帯を手に取るとメールは2通。1通目は葉山さんからだった。


 昨日の夜、先輩にも話しをしました。今日の正午。先輩が文芸部室で待ってますから、必ず行ってあげてください。このメールを最後に私のキューピット役は終わりです

                                      」


 もう一通も開いてみると、またしても葉山さんからだった。


「夏目君は円満解決が難しいと言いました。けど、丸く収まると私は信じています」 

 「私は信じています……か……」これは脅し文句ではない脅迫ではないだろうか。

恋のキューピットは聖純天使の印象だが、本当は、天使半分悪魔半分、堕天使こそ似つかわしいのではないだろうか。

 畳の上に寝転がって、掛け時計を見やるともう午後の1時を回っている。大学はすでに平常稼働していて中期・後期に向けたレポート提出や試験で文化祭とは違った忙しない時期を迎える。けれど、甘美祭を締めくくれなかった私はどこかまだ、祭りの余韻が消化しきれていないのだ。


「って!」


 私は時計をもう一度確認すると半笑いで、今一度葉山さんからのメールを読んで冷や汗をたらふく流した。その後、嵐の如く着替えをしてペガサス号に跨って部室棟へ駆けたのである。

 昼まで寝ていた私が言うのもなんだが、葉山さんを恨みたいと思う。なんで今日の今日なんですかっ!


「あっ、何してるのよ!早く、まだ先輩待ってるから!」部室棟の入り口には小春日さんが携帯を持って立っていた。


「ちょっ、寝癖つけてくるとか意味わかんないよ!」


「えっ」


 しっかりスタンドが立たず横倒しになったペガサス号を無視して私が入り口への入り際、小春日さんはそう私の背中に叫んだ。廊下の窓に映る私は小春日さんの言う通り寝癖もそこそこに未だ目の充血さえも抜けきっていない。文芸部室を目と鼻の先に見ていながら、私は踵を返すとトイレへと廊下を駆け抜けた。

 待ち合わせに遅れていくならまだ可愛い。だが、1時間以上はすでに遅刻とは言えず、明確な意思表示とも取られかねない……私なら……泣きたい気持ちを我慢して家路を歩いている頃だ……すでに先輩が部室に居る確率さえ奇跡の領域だ……その奇跡を可能にしてくれたのは、私が堕天使と呼んだ彼女たちだ。


 彼女達は紛れもなく私にとっての聖純天使であった。


 完全に寝癖を網羅することはできなかったが、事は1分1秒を争う!私はダッフルコートの袖で髪の毛の水気を拭いながら今度こそ部室の前まで駆けた。

 

 部室前の廊下には葉山さんが居て、小春日さんとは違い彼女は憤怒の色ではなく安堵だけを頬のところに浮かべていた。


「すみません。遅れてしまって」私は荒い呼吸を気にしないで膝に手をやりながら葉山さんにそう言った。


「よかったあ……もう来ないのかと思ってました」胸のところに手をやって安堵の表情でそう言ってから、


 「先輩は、必ず来るって信じてましたよ」すれ違い様に笑顔を向けて言ったのであった。

 

 私とすれ違うように廊下を歩いて行く葉山さんの背中を一度だけ見て。私は大きな深呼吸を2度ほどした。

 違う意味で鼓動は早かったが、これから目の当たりにするであろう事柄については別段心臓が高鳴ることはなかった。事前に葉山さんから話しを聞いた効果だろう。これなら、冷静に真梨子先輩と会話をすることが出来るはずだ。


 私はドアをゆっくりと開けた。


 舞い上がる埃、それが差し込んだ西日に照らされ、まるで雪のような錯覚を見せる。いつもと同じ長テーブルの並びに、並べられたパイプ椅子……いつも通りの文芸部室なのに、今日だけは全く別の空間に思えた。


 陽の差し込む窓辺に先輩は静かに佇んでいた。  

 

「遅れてすみません」私は入室者に気が付いてこちらを向いた先輩に深々と頭を下げて謝った。


「いいの。おかげで考える時間もできたし」


 真梨子先輩は朗らかに笑顔を作ると、目元だけ少し困った様な表情になって私の方へ歩み寄った。

 陽の光に艶めく長髪の黒髪に、紅いカーディガン、その下のワンピースは純白で丈が短め、露わとなるはずの素足には髪の色と同じニーソックスがしっかりと露出を防いでいる。そして、忘れられるはずがない……私がプレゼントをした白いヘアバンド。


私が異性に対してはじめてのプレゼントだった……


 顔にかかる髪の毛を耳元へ掻き上げながら、ゆっくりと歩いて来る先輩の姿を見るにつけ、入学してまもない頃、文芸部屋を見学しに訪れたあの瞬間へ忽ち遡ってしまったような感覚に囚われてしまった。

 見学に訪れた時も部室には真梨子先輩1人しかおらず、部室に入ってすぐ立ち尽くしていた私に優しく声を掛けてくれた、


「ちょっと外歩こうか」っと。


「はい」私もあの時と同じように短く返事をすると、先輩の後塵を拝して部室棟を出たのだった。


 私が文芸部に入部を決めたのは、真梨子先輩が文芸部員であると部長であると勘違いしたところが決め手だった。こんな素敵な先輩と一緒に大好きな創作が出来るのであれば、それは私にとっては至福の時間と言って他ならなかったからだ。

 現文芸部部長がそうであったように、他部の部員がそうであるように、私も一目で真梨子先輩の虜になってしまっていたわけである。

 そして、何かと世話を焼いてくれる先輩に、バレンタインのお返しと言う建前でヘアバンドをプレゼントした。その後の絶望が当時の記憶を片隅へ追いやって居たのか、今の今まで忘却の彼方にあった記憶だ……ヘアバンドのプレゼントを受け取った次の日から、先輩は別人になってしまった……


 あの時、先輩は私を学食へ連れて行き、当時の文芸部部長を紹介してくれた。だが、今日の先輩の足は食堂の方角ではなく、部室棟と平行して設けられてある裏門のその先へ向けられていたのである。

 裏門を出て左に2度曲がって、いつか先輩と歩いた佐保川沿いの道へ入った。小春日和にも関わらず、往来する人影はない。散歩するには遅すぎるし、犬の散歩には早すぎる……そんな時間帯なのだろう。


「あの、先輩」


 桜並木を後塵を拝しながら歩きはじめてすぐに私から先輩に声を掛けた。いつもよりずっと歩調が早い先輩を呼び止める意味も込めて。


「……」ぎこちなく振り返る先輩。油ぎれのロボットみたいで可笑しかった。


「先輩も葉山さんから聞いたんですよね……その……色々と」


 私が葉山さんから先輩の事を告げられたように、先輩も葉山さんから何かしら告げられているはず。否定したい気持ちもあったが、現実に連絡が葉山さんから来ている限りはきっと、何らかの接触があったと考えるのが普通だろう


「うん。実は昨日の夜聞いたばっかし。と言うか、言い合いになっちゃった」


「言い合いですか……」私の隣に落ち着いた先輩は無邪気を装った笑みを浮かべながらそう話した。

 どうして言い合いになったのか?葉山さんが何をどう話したのかについて、とても気になったが、それを今聞くのはどうかと思ったのであえて聞かずにおいた。私が先輩の事を好きだ。と伝えたのではないのだろうか?てっきりそう思っていたのだが……


「ねえ。葉山さんのどこが好きになったの?」


 桜の大樹が近くに見えてくる頃合いで先輩は急に私の少し前に駆けると、振り向き様にそんな質問をするのである。

 もちろん私は即答出来なかった。それは優しい所とか笑顔が……とか、無難且つ適当で薄っぺらい理由を並べるつもりがないからで……


「わかりません」


 事実だった。葉山さんに振られる少し前から、私は葉山さんのどこに惚れているのだろうと悩んだ。こういうものは考える前に感じるものだから、どこがどうのと言う問題ではない!と結論づけたのだが……現実的にも先輩にはじめて紹介された時、葉山さんの雰囲気に一瞬見とれただけで……その後は暗示のように葉山さんの事を好きだ好きだと繰り返し思い続け振られる日に至ったのだ。いずれにしても、回答としては最低極まりない。


「それ多分、すごい最低なこと言ってる。さすがの葉山さんも怒ると思うよ」


「ですよね……」きっと、葉山さんでも怒ると思うし、自分でも最低なことを言っていると自覚もある。けれど、先輩に『最低』と言われた刹那、私の胸の中に気泡が浮きあがるみたいに怒りの感情が生まれた。

 

いつだってそうだった……


特に先輩と2人きりで居るときは特にそうだ。どうしてこんなに息苦しく思うのだろう。私よりも背が低い先輩が私よりもずっと大きく感じられて、気が付いたら背伸びをしている自分がいる。本当の感情を殺して、素知らぬ顔をしてみたり平気を装ってみたり。1年前は、何でも相談できて素直に言いたいことが言えていたのに……

  先輩は怒ったのか、それから無言で私の前を歩き続け、桜の大樹に到着するや、あの日と同じく大樹の横から続く川原への道を1人で降りて行ってしまった。


 階段の下。風が吹いて、洋服が揺ると、思った以上に華奢なその人は私が見下ろしてやっと、肩を並べられたようなそんな気がした。


 枯れ枝のような桜越しに、悪戯な風に眉を顰めながら髪を耳に掻き上げるその人が居る風景は、えも言われぬ文学的な純景だった。

 先輩に遅れて、川原に降りた私は、すでに腰を降ろしている先輩の隣に控えめに腰を落ち着けた。 


「さっきの質問ですけど」


「葉山さんの事?」


「はい。きっと、雰囲気が1年前の先輩に似ていたからだと思います」


 ぶり返す話題でもなかったが、何も言えなかった事も悔しかったし、先輩に対しても腹が立ったので、今更、無意味な事を口走ってしまった。


「そん……やっぱり、最低だよ……」


 1年前の先輩の事を持ち出したのは、ささやかな嫌味であり事実であった。火に油とわかっていたのに、再び先輩に『最低』と言われ、加えて、それを呟くように言われた私は……ついに我を忘れてしまった。


「最低なのはどっちだよ……俺が最低なら先輩は最悪だよ!」


「え……っ」


 こんなに驚いた先輩の顔を見たのはいつくらいぶりだろう……そうだ、私がバレンタインのお返しと格好つけてプレゼントを贈った時以来だ。


「1年前、俺がプレゼントを渡した次の日に髪も服装も変えて別人みたいになって、やっと諦めがつきはじめたのに、なんで今頃そんな格好してるんだよ!」


 そう。はじめて葉山さんを見た時、雰囲気が先輩に似ていると感じた。私は最低だ。葉山さんに頬を叩かれても文句は言えまい。

 先輩以外の誰かを好きになれば、忘れられると思った。拒絶されたと思いたくなくて、でも現実は残酷で、苦しくて……本能的にそうあるようにと求めていた。そして、あの日、先輩に葉山さんを紹介されて、完全に希望と期待を打ち砕かれた私は控えめな服装に垢抜けない顔付きの葉山さんに過去に見た初恋の人を思い出して、この人に心を奪われようと努めた。無理矢理美化して好きになった。


「そうしてってお願いしてきたのそっちじゃない!みんなの前で土下座までした!」


「それは!っだからって、そのヘアバンドしてこなくても良いだろ!大体なんでまだ持ってるんだよ……」


「そんなの私の勝手でしょ!」潤んだ瞳は真っ直ぐ私を見つめていた。


 なんて幼稚なんだ。まるで子供じゃないか。節度もなければ遠慮もない……これじゃ嫌われても仕方がない。私は、我に返ると先輩の顔を直視できず、視線を水面に逃がしてしまった。


「恭君は最低よ。私の前だといつも大人ぶって言いたいことも遠慮するし、声を掛けても避けるし」


「最初にそれをしたのは先輩です」


「それは悪いと思ってる。だから……」


「だから、罪滅ぼしに葉山さんを紹介したんですよね。そんな事、望んでもないに勝手なことして葉山さんまで巻き込んで。最悪だよ」


「罪滅ぼしのつもりなんてない。私は恭一君に変わって欲しかった……一歩手前で臆病になる性格を……」


「なんだよそれ。変われるわけない!好きな人に拒絶されたと思ったら、それ以上嫌われないようにするしかないだろ……臆病にだってなるさ……あの時っ、あの時、俺には先輩しか居なかったんだ!」


 思わず立ち上がってしまったことも、口から出した言葉にも後悔をした。


「拒絶なんてしてない!髪の色も服装も変えたのは……距離を保ちたかっただけ。気持ちに気が付くのが怖くて……別人になれたら……失望されたら、恭一君の気持ちが自然消滅すると思ったの……」

 勢いよく立ち上がった先輩の顔は、それでも先輩の顔は私の目元よりも低くあって……先輩の頬から伝い落ちた透明な滴はその足元で跳ねて…それを見つめるにつけ、私の視線だけは先輩よりもずっと低くなってしまった。


「ずるいよ。そんなのずるい!俺の気持ちに気が付いてたくせに、告白もさせてくれないなんて……そんなのって……」


「違う。恭君の気持ちには何となく気が付いてた……気が付きたくなかったのは私自身の気持ちよ……本当に好きな人には本当の私を見られたくなかったの。大学での私を好きになってくれた人に……本当の私を知られたら、嫌われてしまうから……それが怖かったの」


 先輩も俺と同じ臆病者なんだ。私はその言葉を飲み込んで、1年前を思い出すように考えた。映画のフィルムが送られるように、色々な先輩が蘇ってくる。


「見栄っ張りで、言い出したらきかなくて、いつも大人ぶってて平気な顔して、でも本当は寂しがりやで恐がりで、虫が大嫌いで人見知り。その癖に面倒見が良くて、優しくて、料理が上手くて、良い匂いがして、真面目で、笑顔が良くて、お酒が弱くて、恥ずかしがりや……」


 この1年で、色々な先輩の素顔を目の当たりにしてきた。俺は最低だ……葉山さんに心を奪われていたはずなのに……思えば、いつも先輩のことばかり見ていたのだから……

 先輩は驚いた顔をしていた。


「俺は先輩の言う通り、最低な男です」 


「違う、恭一君は最低なんかじゃ……」


「違わない。俺は葉山さんに気があるように見せかけて、ずっと真梨子先輩を見てました。誰かに向けたかったんです、去年からくすぶり続ける気持ちを」


「それは……どんな気持ちなの……」

先輩は涙を拭うことをせず、真っ直ぐに私の瞳を見つめて言う。

 その充血した二つの眼は、誤魔化しも脱兎も……どうしても私をこの場から見逃してくれはしないらしい……

 もしかしたら、と期待と絶望を繰り返しながら、それでもずっと胸の奥に燻り続けたこの気持ちに嘘はない。ひょっとしたら、こんな気持ちのことを真心と言うのかも知れない


 私は一度、観念したように頭を垂れた……そして、臍を固めて大きく息を吸い込むと


 「俺は……俺が真梨子先輩の事を好きだって気持ちです!」


と春風のよう柔らかくも凛として、そう告白したのである。


  やっとまた全てが動き出した気がした。たった一言。この一言が言えないまま、この言葉を胸の奥に縛り付けたまま1年と言う時間を過ごして来た。1年越しに解き放たれたそれは、とてもとても重くて想たい言の葉だった。

 告白してしまえば、あれだけ迷って躊躇をし、恐れて苦悩した日々がまるで嘘のように思えてくるから不思議だった。俯いてしまった先輩の姿をみれば、返答を待つ必要もない。

 例えこの後に絶望が待ち受けてようとも、きっと私は、とても清々しい気持ちで涙を流すことだろう。


快哉!と泣きじゃくることだろう!


「すみま……」


「駄目!謝らないで……」


 先輩をこれ以上困らせまいと、口を開くと。先輩は即座にそう言って私に喋らせなかった。


「私も恭一君の事が好きです」


 先輩の小さな唇が動きを止めた一瞬、その瞬間だけ満開の桜が彩る風景が私には確かに見えた。肩を振るわす先輩の後ろに桜吹雪が……


「私は怖かったの。恭一君がもっと私の事を知って、嫌われてしまうのが……だから逃げたの。今のままの方が良いって自分に言い聞かせて……私も苦しかったんだよ」


 先輩はそう言ってから、拭っても拭っても止めどなくあふれ出ては止まる気配のない透明な滴をそれでも拭いながら「嬉しい気持ちで一杯なのに、なんで止まらないんだろう」と声を震わせながら続けて言った。


私は、そんな先輩を前にしてどうしていいかわからず「やっぱり、すみませんでした」とつい先ほどの事を謝罪することにした……我ながら、正真正銘本物の気遣いのできない男であると思った。


「どうして謝るの……謝らないでって言ったのに……」


「そうじゃなくって……その、さっきは言い過ぎました……色々と」


「いいの……久しぶりに胸の所に響いたよ。1年前の恭君はさっき以上にズケズケ言ってたよ。それも含めて好きになったんだから」


「え、そんなにズケズケ言ってましたっけ……俺……」


「うん。スカートの丈が短いとか、白は太って見えるとか。好きじゃないならはっきり言わないと男は勘違いする生き物だ!とか他にも……」


「いいです言わなくて。お願いしますから言わないで」


 そんな事を言っただろうか……そんなお母さんみたいな事を俺は先輩に言ったのか……


「嘘」目尻のところを拭いながら先輩は無邪気に微笑むのである。


「えっ!」反省をして損した。


「あ、でも最後のは本当。あの時、丁度、野球部とサッカー部の人に告白された事を恭君に話したばっかりだったから」


「男って生き物は勘違いと下心で出来てるんです」


 今更ながら大人げなかった昔の自分を思い出して恥ずかしくなってしまった私は、視線を明後日の方向へ投げてからそう言ってお茶を濁したのだった。





「遅刻とか意味わかんないよ。葉山さんから先輩の気持ち聞いといて遅刻だよ。やっぱり、意味わかんない」 


 近鉄奈良駅地下にあるスターバックスに移動した私達は、先輩と夏目君が今頃どうしているだろう。そんな事を考えながら、迫り来るレポートの山と後期試験の対策を話していました。けれど、小春日さんは夏目君が遅刻して来たことがよほど気に入らないらしく、5分に1回は夏目君を悪く言うのでした。


「今日の今日で呼び出したのも悪かったんだと思うし…」


「でも、レポの提出期限とか試験のこととか甘美祭の反省会とか諸々考えたら、今日しかないんだもん」


 それは小春日さんの言う通りです。なので、無理は承知で夏目君に急遽メールをしたのです。

 本当は、あのメールをもってキューピット役は終わるはずでした。けれど、先輩から、「どうしよう。恭君来ない……」と言うメールをもらって、小春日さんと急いで文芸部室へ向かいました。文芸部室で先輩はとても不安な表情で窓の外を見ていました。

 

「もう一度、連絡してみたら」と小春日さんは何度か言いましたけれど、私は考えるところがあって連絡できず、加えて先輩も「連絡しないで良いよ。恭君、不器用なんだよ。こんな日にかぎって寝坊してるのかも……大丈夫。きっと来てくれるよ」

  

 その強がりな笑顔は……とても悲しく私の目に映りました。


 3人で半時ほど文芸部室で待ちました。でも、夏目君は一向に現れず……連絡の一つもありません。やがて、しびれを切らせた小春日さんが「外見てくる」と文芸部室を出て行ってしまい、それに煽動されるように私も文芸部室前の廊下に出ました。

 確かに、もう一度メールをした方が良かったのかもしれません。けれど、この局面では『来ない』と言うのも明確な意思表示だと私は思ったのです。夏目君はすでに私の出しゃばりで先輩の気持ちを知っているのですから……どんなに鈍感な人であっても、この呼び出しがどのようなものであるかなんて事は、わかりきってしまっていることでしょう。

 部室を出るなり弾丸のように駆けて行った小春日さんがそのまま夏目君の家まで押しかけないでしょうか。と玉響心配になりました。けれど、小春日さんは部室棟の入り口辺りを行ったり来たりを繰り返しているだけでしたので、私は胸をなで下ろしました。

 皮肉な事に、2階に居る私には飛び出して行った小春日さんよりも遠く、本館までも見渡せてしまいます。けれどどこにも夏目君の姿はありません。

 

 そして1時間が過ぎ。先輩の悲しむ姿を見たくなくて部室にも入ることができず、かといって立ち去るわけにもいかず。私はいつの間にか祈るように本館を駆け抜けてやってくる人影をさがしていました。

「約束します」夏目君は確かにそう言いました。私は、その言葉をこの三竦みを円満解決すると言う意味で受け取りました。だから私の中には今日のこの日に夏目君が必ず来ると言う自信がありました。でも、それが今揺るぎつつあります。


 夏目君。あなたが約束してくれた円満な解決方法はこんな結末なのですか。先輩1人を泣かせてしまう。こんな結末が……。だとしたら私は夏目君のことを絶対に許しません。


 目を閉じて携帯電話を握って握りしめて私は祈り続けました。


 それから、どれくらいの時間が経ったでしょうか。体感では数分程度だと思います、俄に外が騒がしくなったかと思うと、息せき切った夏目君が階段を駆け上がってきたのです。

 私は「遅い!」と憤る前に、心からの安堵と先輩に対する使命の達成を感じ得ずに

はいられません。紆余曲折はありましたけれど、これで揃うべく所に揃うべき登場人物の全てが揃ったのですから。


「すみません。遅れてしまって」


 手を膝にやって、息も切れ切れに夏目君は言います。


「よかったあ……もう来ないのかと思ってました」


 本心です。本当にもう来ないのかと思いはじめていましたから……


 これを持ちまして本当に私のキューピット役は役目を終えます。もう一言二言余計な助言を言ってしまいそうになりましたけれど、それは蛇足と言うものですから、すれ違い様に、


「先輩は、必ず来るって信じてましたよ」とだけ伝えたのでした。

 

 その後、私は一度も振り返らずに部室棟を出ました。夏目君はきっと、私に視線を向けたことでしょう。私が夏目君だったら、そうしたと思いますから。

 

「あの葉山さん?聞いてる?」


「あぁ、えっと何だっけ……?」


 実は小春日さんが夏目君の事を悪く言う度に、私も何度も今日の出来事を思い出しては、何度でも「良かった」と安堵していたのです。ついそちらに気を向けすぎてしまっていました。


「消費者行動論のレポートよ。あれノート見ても資料読んでも、書ける気しないのよね」


「それなら、図書館に参考書があって、それを読んだら結構楽に書けたよ」


「えっ!もう書いたの」


「えっと、うん……まだ読み返して推敲しないとだけど」


「あぁ。憎っくき二日酔いぃ」


 小春日さんはそう言いながらテーブルに突っ伏すと額で広告の印刷されたテーブルクロスをぐりぐりとしました。


「ごめんね。でも、あそこまで飲ませてってお願いしたわけじゃなかったんだけど……」


「いいの。珍しく古平君が2人きりで2次会しようって言うから、はしゃいで飲み過ぎたのは私だから……だってさぁ。付き合ってるのに付き合い悪いんだもんこうちゃん」


「あぁ……」私は返す言葉思いつきませんでした。


 付き合ってるのに付き合いが悪い彼氏……相思相愛の形は色々あるものですね……


「はい。幸せな時間でした。酔っぱらって押しかけて……そして、ほとんど何も覚えてなくてごめんなさい。だから色々ごめんなさい」


 さらに額でぐりぐりしながら小春日さんが言います。


「もう済んだことだから。それに先輩だって逆に心配してたし……」私は苦笑しながら言いました。一番迷惑を被った先輩が怒っていないのに、私が目くじらを立てるのも変な話しです。

 それに、先輩にせよ私にせよ。小春日さんのあのタイミングでの登場には救われた感も否めませんから。


「今日だって、顔出すって言ってたのに来ないし……約束ねってメールに書いたのに……来ないし……そう言えば、夏目君、寝癖のまんまで来てたよ。目充血してたし、絶対寝てたよあれ」


 どうやら夏目君を悪く言うのは、古平君に約束をすっぽかされた八つ当たりだったようです。

 痘痕も靨。一度好きになったら、どんなに嫌な所も愛らしく見えるてしまう。恋の魔法ですね。私は自分で思って恥ずかしくなってついにやにやしてしまいました。


「ぶーっ。人の不幸を笑うなんて性格悪いなぁ」ひとしきりにやにやした後、視線を戻すと頬を膨らませた小春日さんの顔がありました。


「小春日さんのことじゃなくて、その、思い出し笑いと言うか、なんと言うか……」


「いいですよーっだ。葉山さんなんてクリスマスには独りの寂しさをとことん味わってしまえばいいのよ」


「はい。しっかりと味わいたいと思います」


 私はすっかり困ってしまって居たので、そう言いつつ困った顔をするしかありませんでした。


 結局その日、先輩からは何の連絡もありませんでした。





 大学の付属図書館に缶詰になってレポートや試験勉強をしていると、甘美祭の準備にキューピット役にと奔走していたことがまるで幻だったように思えて仕方がありません。最初は自室で勉強をしていたのですが、自宅だとつい、テレビを見てしまったり、読みかけの小説を引っ張り出してみたり、掃除がしたくなってみたりと誘惑が多くて、勉強に集中できませんでしたので、こうして付属図書館で勉強をしています。と書けば、雑念を振り払って集中できている様に思えますが、実際には参考書の隣に図書館にある文庫が数冊置いてあるのですっかり本末転倒状態です。


 誘惑には抗いがたし……です。


 あの日以来、先輩とは連絡も取っていませんし、姿も見かけていません。私も図書館に家にと籠もりっきりですから姿を見かけないのは当たり前ですし、勉強の邪魔になると思って、先輩も連絡を取ることを遠慮しているのだと思います。

 小春日さんとは履修している講義が大体同じなので、試験についてやレポートについて連絡を取り合っていますけれど。

 つい最近まで毎日のように一緒に居たのが嘘のように1人でいる時間が増えました。クリスマスもそれぞれに恋人と過ごすでしょうから、二人と顔を合わせるのは忘年会

くらいでしょうか。そんなことを考えてはその前に立ちはだかる試験に頭を悩ませる私だったのでした。



◇    



 流々荘に籠もるのも後数日の我慢だ。にっくき試験が明ければクリスマスである。私にとって今年のクリスマスは人生初の特別なクリスマスになる。もちろん、真梨子先輩と一緒に過ごす特別な一日であることは言うまでもない。

 部屋に先輩がいつ来ても言いように掃除をしようか先輩の差し入れで空腹を満たそうか、真梨子先輩とどこに出掛けようか……勉強を差し置いて私は先輩の事ばかりを考えていた。

 携帯を見れば先輩からのメールが入って居たし、早速作った先輩専用受信フォルダもすでにメールで一杯だ。


 文字通り、私の周りは真梨子先輩だらけとなってしまっていたのである。


 しかしながら、我ながら中学生のような告白であったと反省してもしきれない。化けの皮が剥がれるとはこれまさに……大人ぶっていただけで、精神年齢は中学生のままであったようだ。

 いつか誰かに告白はすると思っていた。だから色々妄想もしたし想像で訓練もした。恋愛映画を見て勉強もしてみた。だから完璧なはずだったのだ。

 景色の素敵な場所か高級レストランか……手に花束や、贈り物を携えて、正装をした上で愛おしい人と相対して浪漫をふんだんに織り交ぜた紳士的な告白を……現実はかくも私の想像と想定からかけ離れ過ぎていた。

 素敵な告白どころか、あれでは中学生の喧嘩のようではないか。先に我慢できなくなった私が悪いのだろうか……

 終わりよければ全て良しと、先輩はまんざらでもない様子であったが、やっぱり私は釈然としない。


……


 「嬉しい」と私の告白を受けて涙を流した先輩は、ずっと押さえていた感情を抑え切れず私の胸に飛び込むと、私の顔を見上げ、そのまま有無を言わせず……唇を重ねる……


 ……

 

 私の入念な予行演習の状況は多岐にわたったが、結末はこの一点に行き着いていたはずなのだが……


 うむ。おかしい。


 とはいえ、脳内にて長年に渡り私の予行演習に付き合ってくれた、黒髪の長髪美女にはお別れを言わなければならない。名残惜しいとはいえ、恋人ができてなお彼女とお付き合いし続けるのは気が咎める。


 天井を見上げながら理性の呵責に喘いでいると、先輩からまたメールが来た。


  ちゃんと勉強してる? 単位落としたらクリスマス予定いれるからね

                                    」


 私のビーナスはなんでもお見通しらしい。私は名もなければ顔もおぼつかない脳内の彼女にお別れを告げると、先輩が差し入れてくれた、竹の子の炊き込みご飯おにぎりと皐月さんが持ってきてくれた、おでんとを食べながら机に向かい直したのであった。 





 自分の身に起こって欲しくないことは思っても口に出してはいけない。亡くなった祖母の口癖でした。クリスマスにそれを深く思い出すことになるとは思ってもみませんでした。

 クリスマスの昼下がり、私と小春日さんは三条通りを近鉄奈良駅方面に登って行く途中にある洋菓子店を目指し、木枯らしの吹く中を歩いていました。町並みも街路樹もすっかり冬の装いですが、今日と言う一日だけは師走の終わりにあって、心だけほっこりと暖かいのです。


「クリスマスを恋人同士で過ごすとか信じられないわよね。家族と過ごしなさい家族と。爆発しちゃえ」


 向かいの道を歩く男女を睨みながら小春日さんはずっと毒を吐き続けています。


 試験前に「葉山さんなんてクリスマスには独りの寂しさをとことん味わってしまえばいいのよ」と私に言った小春日さんの顔をよく覚えています。もちろん、私には恋人はいませんし、実家にも帰りませんから1人で普通の日常としてクリスマスを過ごすつもりでいたのですが、なぜか、先輩と小春日さんと女子3人で過ごすことになってしまいました。

 先輩は、家庭教師をしている女の子の家のパーティーに招待されてしまって、断れなかったそうです。


「先輩も先輩よね。彼氏が出来て初めてのクリスマスだって言うのに、バイト優先しちゃうとかって」言葉の節々に棘のある小春日さんです。


 昨日から機嫌の悪い小春日さんには……理由を聞くことなんてできません……


「なんでも、お父さんがアメリカ人らしくって、クリスマスはアメリカ風に盛大にパーティーをするらしいよ」


「おっきなツリー飾ったり、サンタの格好したりするのかな」


「そこまではわからないけど……」


 確かに、アメリカのクリスマスと言えば、家の中に大きなツリーを飾って、お父さんやなんかがサンタの格好をしてと言うイメージしかありません。このイメージだって子供の頃にみたホームアローンと言う映画で見たそのままのイメージですから。


「公衆の面前で手を繋いだり、腕組んだりとか信じられない!恥を知りなさい!」会話が途切れるとすぐさま、噛みつきはじめる小春日さんなのです。


「まぁ、ほら、試験の打ち上げと言うことで、女子会です女子会」


「だね。試験の打ち上げ!そうよ打ち上げよ!」


 妬みが一周りした空回りな感は否めませんでしたけれど、通りすがるカップルに噛みつくよりは余程ましだと思う私でした。





 先輩が予約をしておいてくれたケーキを受け取ってから、その洋菓子店でもう一つホールのケーキを買いました。


 それと言うのも、


「先輩さ、このケーキ完全に夏目君と2人で食べるために予約したよね」な大きさ

だったので、急遽、後2人分を買い足したのです。


「そう言えば、昨日、夏目君を見かけたよ」


 帰り道、JR奈良駅前の交差点で信号待ちをしていると、ふっと斜向かいにあるケンタッキーのお店が目に入り、そのことを思い出しました。


「どこで?」

 

「そこのケンタッキーに駆け込んで行って……」


「今日のために予約してたチキンでもキャンセルに行ったのかな」


「それはわからないけど、脱げた靴もお構いなしに駆け込んでて」


 その日私は、丁度今立っている場所に立って信号待ちをしていました。そうしたら、三条通りから疾走してきた夏目君が信号無視をして交差点を駆け抜け、歩道との段差で躓いてその時に靴が宙を舞ったのです。でも夏目君は気にもせずに店内に入って行ってしまいました。


「えぇっ。そんな必死にキャンセルに行ったって、一日前じゃ無理でしょ……そう言えば、葉山さんはその……イブに出掛けてたんだ、誰かと一緒とか……?」 


「一人で実家に送る三笠を買いに行ったの。三条通りにある桃佳堂に」


「はぁ?」露骨に小春日さんは私の顔を見てそう言いました。


 小春日さんが聞いたので、話したと言うのに、『はぁ?』だなんてなんとも酷い小春日さんです。


「三笠って、あのどら焼きみたいなやつでしょ?」


「うん。普通のどら焼きよりも一回りくらい大きいかなぁ」


 三笠とはどら焼きの別名です。外見が奈良にある三笠山に似ていることにちなんで、奈良や京都ではどら焼きの事を三笠と言います。私もつい先日、お歳暮に贈りたい和菓子の特集番組を見ていて知りました。


「なんで、三笠なの?他にも………」小春日さんはそこで目を閉じて考えに考えて「奈良ってそう言えば観光地の割りに名物とかってないよね」と言いました。


「えっと、奈良漬けとか柿の葉寿司とか鮒寿司とか名物がないなんて言うと奈良の人に怒られるよ」


 正直、小春日さんが大きな声で『名物がない』と言うので、私は思わず周りを気にしてしましました。確かに、古都奈良と言えば歴史的には京都よりも古い観光地です。けれど、住んでみて知ったのですが、決め手になるような名物や特産の美味しい物が見あたらないのです。


「あー確かにそうだけど、奈良漬けとか柿の葉寿司、お土産に持って帰ってもねぇ」


「よっ、喜ばれるに決まってるよ!」私は声を少し大きくして言いました。隣の人がこちらを見ている気がしてたものですから。


「そうかなぁ」 


「一昨日、母から電話があって、帰郷の話しをした時に、和菓子が食べたいから、帰って来る前に実家に送るように言われて。実家は山間にあって近くに和菓子店とかないから」


「へぇ。私も今年はお土産買ってかえろうかなぁ。鮒寿司とか」


 青信号を渡りながら小春日さんが悪戯な笑顔を浮かべてそう言うので、私は冗談だと思い「それはお土産じゃなくて罰ゲームになるね」と言うと「うわっ。名物を罰ゲーム扱いとか、葉山さん今奈良県民をみんな敵に回した!」と言われてしまいました。慌てて周りを見回して見ると、隣を歩いていたお爺さんが私を睨んで居ることに気が付いて、さらに慌てて「そんなっ、冗談に決まってるじゃない。私は好きだよ鮒寿司」と言い繕いましたけれど、罰ゲームだなんて我ながら小春日さんよりも酷い言いようです。


 好きと言いましたけれど、私は鮒寿司を食べたことがありません。奈良県民の皆様そして鮒寿司さんごめんなさい。





 イブの昼下がり私は逃げていた。


 先輩と過ごす生クリームよりも甘ったるいクリスマスの1日前のイブの昼下がり、実家に送る三笠を手配しに三条通りにある老舗和菓子店の桃佳堂に出掛けた帰り道、丁度、古本屋から出て来た部長とその取り巻きに出くわしてしまった。

 彼らは私の行く手を遮って「クリスマスは部長の部屋で闇鍋やるから空けておけよ。って予定なんてないか」と私を罵った。


「無理ですごめんなさい。本当にごめんなさい。行きたくありません」つい最後に本音が出てしまった。


 去年ならば、同じ穴の狢と愛のある罵り合いをしただろうが、今年に関しては彼らに比べて私には万里の長城よりも遙かに長い心神的優位性がある。だから素直に謝った。

 もちろん、従順なる真梨子先輩の崇拝者である部長に先輩と私のことは話すわけにはいかない。部長に知れるや、クリスマスに犯罪に手を染めかねない。


「予定もない君に救済の手を差し伸べているって言うのに、素直になれよ夏目君」


 クリスマスと救済をかけたらしい。笑えないし笑う気もない。


「新作のゲームも持って行くし、クリスマスに相応しい神アニメも持って行くからさ」部長と愉快な仲間達の1人がそう言って、親指を立てた。


 グッジョブ。と……


 どこがグッジョブなんだ。大体、ゲームとアニメに釣られてほいほいと行く阿呆がどこに居るのか。

 ただでさえ部室で毎日のようにむさ苦しい面々と顔を合わせていると言うのに、どうして神聖なる恋人達の恋人達による恋人達の為の愛に満ちた聖日を、よりにもよってむさ苦しい連中と鍋を囲まねばならんのか。


 今年のクリスマスは忙しいのである。まず、朝から真梨子先輩と出掛けて、プレゼントを買い合いっこをして、先輩の予約したケーキを二人で取りに行って、先輩の部屋で先輩の手料理でもってシャンパンを片手に乾杯をするのだ。だから私は忙しいのである!


「君、何をにやにやして居るんだい。気色の悪い奴だなぁ。そのうち逮捕されてもしらないよ」


 毛虫でも見るような目で私を見ながら部長はそう言って笑った。愉快な仲間達も続いて笑った。つい、先輩との甘いクリスマスを想像してしまってそれが顔に出てしまったことについては何も言うまい。ただこれだけは言いたい、


「2次元の女子にしか興味のない阿呆どもと一緒になんて過ごせるか!」


 私は言ってやった。すると、ショックか図星か、動揺した愉快な仲間達の1人が古本屋の袋を落とし、中身が半分ほど露出すると、それは二次元キャラが印刷された同人誌であった。


「なっ!フランソワーズちゃんは3次元だぞ!こいつらと同じにするな!」間違った所で激高する部長である。


 思わぬ部長の裏切り発言に愉快な仲間達が俄にざわついた隙を見逃さなかった私は、更に何かをがなり立てる部長の言葉に聞く耳を持たずに踵を返すと猛然と逃げたのである。

 もちろん追っ手が掛かるのに時間はかからず、後ろを見ればすでに数名の愉快な仲間達が私を捕まえんと足に鞭を打っている。クリスマス色に染まる三条通りを善男善

女の群れをかき分け、時にはその間に割って入りながら私は必死に逃げ続けた。

 韋駄天走りで三条通りを駆け抜けた私は、運悪くJR奈良駅前の交差点で信号に捕まってしまった。奈良市街では大動脈であるこの道路が私に対する要害として立ち塞がるのであれば、逆にこれを乗り越えてしまえばこの要害は私に与し、彼らにとっての要害として有り続けるだろう。

 私はもう一度後ろを振り返り、着実に迫り来る追っ手を視認すると、虎穴に入る覚悟で横断歩道の上に躍り出たのである。盛大にクラクションの雨を受け、解れた足下は歩道へ上がるステップを上がりきれず、思い切りけつまずいた拍子に右足の靴が脱げて歩道に転がったがそれをも気にとめず、そのまま眼前のケンタッキーに転がり込んだのだった。

 トイレに籠城することに決めた私は便座に腰掛け額の汗を拭うと、彼らが本物の阿呆であることを神に願った。今日はイブである、クリスマスではないがその前夜祭にも奇跡は起こるはずだ。


「夏目、出てこいよ。靴がどうなっても知らないぞ」


 奇跡は果たして起こらなかった……


 即座に万策尽きて雪隠責め一辺倒なわけだが……そもそも私には策もなければ、右の靴もない。体力の限界から流々壮まで走行は不可能と判断しての横断とトイレへの籠城だったのだが……

 

「お店にも迷惑だろう。早く出てこいよ」


「この同人誌みせてやっても良いからさ」図太い声が消えた。例のオタクの彼は腹回りの脂肪からして走るに向いていない。その彼が居るということは……


「もう観念したまえ。出入り口は一つしかなく窓もないだろう」部長も到着していると言うことだ。


「別に何もしないし、何なら、他にも同人誌見せてあげるか出ておいでよ」

 

 なんで、基本的に同人誌を餌に使うのだろうか。ここで出て行けばまるで私が同人誌を見たさに出てきたみたいではないか。尚のこと出にくいわ!

 それはさておき、部長の言う事は確信をついていた。出入り口は一つだけ、加えて窓はなく、唯一外に通じているのは天井にある小さな換気口だけ。


 私は今更ながらに戦慄した……これは……これこそ、世に言う絶対絶命であると。

 

 



「あなたもバカですねぇ。部長達とケンタッキーで騒いだらしいじゃないですか」


「どうしてお前が知っているんだ」確かに、騒いだ。厳密に言えば騒いだのは部長と愉快な仲間達であって、私はトイレに入っていただけだが。


「大学に苦情が来たらしいですよ。お宅の学生がトイレ前で騒いで迷惑したって」妙に似合うエプロンをしながら、野菜を切る古平はいつにも増して不気味である。

 確かに『オタク』がトイレ前で騒いだのは事実であるが、それとてほんの10分程度の事で、大学に苦情を訴える程ではないと私は思う。過剰防衛だ。

 

「もうすぐ、ケーキも到着するから、準備いそいでくれよ」


 フランソワーズちゃんを片手に現れた部長は、すでにサンタ棒を被ってクリスマスを謳歌している様子だった。


「もう終わりますよ」


「そうかい、今年のケーキは期待しておいてくれて結構だからね」


 そう言うと部長は愉快な仲間の1人が持ち込んだ、魔女っ子モノのアニメを昼前から鑑賞している。全24話を網羅する気でいるらしい。

 どこを見てもフィギュアとアニメのポスターが目に入る、部長らしい部屋だと言えば聞こえは良いが、そこに、むさ苦しい男だらけ計6名が入り浸っているのだから、混沌空間と言って然るべきだろう。男臭いったらありゃしない。

 本来なら、今頃、真梨子先輩と先輩が予約してくれたケーキを取りに行っている頃合いだったろうに……私は玉葱を切りながら、思わず溢れて来た涙を拭った。


「玉葱で泣くとか、そんなベターやめて下さいよ」


「うるさい。玉葱とはそう言うものなんだ」そう反論しつつ、目頭を押さえる私である。

 先輩との甘い時間を考えれば考えるほどに、男子の肥溜めたる部長の部屋に居る現状を嘆かずにはいられようかっ!


 ケンタッキーで繰り広げられた攻防は、予想外の形で呆気ない幕切れを迎えた。


 絶対絶命の中、私は虎視眈々と強行突破の機会を窺っていた。そんな時、真梨子先輩から電話がかかって来た。取ってみると、先輩の口から、まず謝罪の言葉があり次ぎに、明日のクリスマスは家庭教師先のパーティーに出席しなくてはならない旨と、クリスマスは振り替えで行う提案、そして最後に何度も何度も謝罪の言葉があってから「あぁ。丁度、明日はこっちも都合が悪くなったから、また日を改めて」と私は嘘をついた。感情を込めて言えたかどうかは覚えていない。

 

「どうせ、こんなことになると思ったさ」その瞬間、私の何もかもが燃え尽きた。


 夢も希望もクリスマスの予定も何もかもが燃え尽きた私は、意気消沈したてほやほやで解錠すると、自らドアを開けて部長ので力無く座り込むと「明日、闇鍋参加します」と無条件降伏したのであった。

 

 そして、今まさに闇鍋の材料を古平と一緒に切っている最中と言うわけだ。


「闇鍋と言う割りに、普通の具材だな」 


 すでに切り終えた具材とこれから切る予定の野菜。中でも部長の実家から送ってきたと言う、ズワイガニはとても立派で目を引く。

 

「まあ、さすがに消しゴム入れたり絵の具いれたりなんてしませんよ。」と手際よく蟹をさばいて行く古平は「去年、懲りましたから」と続けた。


「やったのか……絵の具を……」


 やっぱり阿呆だ。


 いつの間にか、魔女っ子アニメ全24話を見終わり号泣をしながら、早々に格闘ゲームをはじめた愛すべきクソ野郎どもを見ながら私は届いたばかりのピザの箱を注視しながら呟いた。


「ピザを入れるなよ」と……





 宵の口を過ぎて、ケーキを取りに行って帰って来た部長は大凡ケーキの箱には似つかわしくない大きさの荷物を持ち帰り、鍋の準備の終わったテーブルの上でわざわざ設置した鍋とコンロをどかしてケーキを披露した。

 部長がケーキを慎重に取り出すと、浪漫を共有できる愉快な仲間達から悲鳴にも似た完成が沸き上がった。


「これ、咲良オト子ちゃんじゃないっすか!神クオリティぱねぇっ!」


「テンションあがりまくりですよ。立体とか反則ですって部長!」


「そうだろう。ネットでイメージ画像を送って、3Dプリンターで立体化!そして、それを洋菓子店に持ち込んで、特注のケーキを作ってもらってからの、さらに表面プリント加工を施した世界に一つしかない特注10号の愛の形なのだよ!DVDBOX並みの出費だったがねっ」


「マジですか!部長の愛半端ないです」 


「レジェンドっす部長、ついにその高みへ!」


 鼻高々と説明する部長と、携帯で写真を撮りまくる仲間達。同じ場所、同じ時を共有しているはずなのに、場に生まれたこの温度はなんだろうか……


 部長達が騒いでいるのは今絶大なる人気を誇っている、擬人音声ソフト『咲良オト子』が満面の笑顔でもって胸元に大きなハートのオブジェを抱きしめているフィギュアが乗った大きなホールのケーキである。ケーキの表面一面に同キャラの顔が大きくプリントされてある懲りようで、こんなふざけた仕様であるにもかかわらず、目の細かいホイップで装飾が施されてあり、ケーキ自体はプロの仕事がうかがい知れた。

 人の価値観はそれぞれと言うが、こんなところに情熱と財産を惜しげもなく全力を注ぐ部長の執着心には呆れてしまったが、オタクの底力を見たようで……オタクって怖い。私は素直にそう思ってしまった。 


「10号って、食べきれるのか」


 私の見たことのあるホールケーキの3倍の大きさはある。


「あれ食べる気ですか?殺されますよ」


「はぁ?」


 食べるために買ったケーキを食べたら殺されるってそれは理不尽と言うものだ。


「あれはしばらく観賞用で置いておくんですよ。食用はもう冷蔵庫に入ってますから」


 エプロン姿の古平があまりにもしれっとして言うものだから、私は冷蔵庫を確認してみた。すると、通常サイズである6号程度のホールケーキが出てくるのだから笑えない。やっぱり、オタクは阿呆だ、いや部長が阿呆だ。

 古平の言う通り、ひとしきり撮影と感想を言い合った面々は、予め用意されていたかのようにフィギュアの避けてあるスペースにケーキを運ぶと何事もなかったかのように、闇鍋パーティを開始したのである。

 

「アイマスクしたかぁー。電気消してから持ち寄った一品入れろよ」


 部長が音頭をとって、アイマスクが配られそれを全員が装着したところで部屋の電気が消された……らしい……何せアイマスクをしているからわからない。それどころか、手元も見えず、どこに鍋があるのかさえもわからない。

 そもそも、一品を持って来ていない私は、ズボンのポケットの中にあった10円玉を握ると、なんとか鍋の中に放り込んだ。


 私と違い闇鍋の楽しみ方を知っている周りの面々は、 


「気をつけろ!爆発するぞ、危険が危ないんだぞ」とか、


「煎じてから入れれば良かったかなぁ」とか、


「わぁ臭っ!ちょっ、噛むな噛むな」とか、


「3秒ルール、3秒ルール」とか、


 意味深なワードを大きな声で言いながら、各々『何か』を鍋の中に投入している。無駄に場を楽しませるコツを心得ている奴らである。

 蓋が閉じられてから、部長が明かりのスイッチを押した。コンロに火をつけてから、冷凍庫に入れてあったビール缶を出してきては手際良く、全員に行き渡らせ、それを確認してから立ち上がった部長はビールを高々と掲げると、


「諸君!今年も同士が誰1人欠けること無く!この聖戦の夜に集えたことを私は誇りに思う。さあ、祝杯をあげよう、我ら文芸騎士団の栄光に!そして、聖夜に列する愛すべきクソ野郎どもに!」

  

「「「「愛すべきクソ野郎どもに!」」」」多分、乾杯の代わりだと思うのだが……見事にハモるところが意味不明である。


「今夜の0時に恋愛シュミレーションのPSβ版ソフトの特装限定版が販売するらしいです」


「聖夜に並んでる、オタクの同士にってところか」


「ええ。今夜の特装限定版には大手サークルの人気同人作家の同人誌がついてくるって言うんで、昨日辺りからネットでは偉いことになってますよ」


「その情熱は理解も同情もできんな。古平、さっきからしれっと話しているが、お前やけに詳しいな」


 大手サークルのあたりから、部長と話しているみたいだったぞ。


「僕はもう並んでもらってるんで、0時過ぎてから取りに行けばいいだけですから」


 そんなことは聞いていない。


「いや……ってお前買うのかよ!古平お前……」


 古平にそんな趣味があったなんて知らなかった。3次元に彼女まで居るくせに2次元の女の子に思いを馳せるなんて……


「別に今夜買わなくてもネットでも予約すれば手に入るんですけどね。ネットだと、明日の朝発送だから手元に届くのは聖夜販売の2日後になるんですよ。2日のラグとか中古買ってプレイしてるのと変わりませんからね。聖夜販売は聖夜に買って朝までプレイするのが製作サイドへの礼儀ってものです」


 いやだから、そんなことは聞いてないってば。


「うん。その通りだよ!よく言った古平君!君は我々の鏡だな」鍋が煮える以前にできあがりつつある部長である。


「夏目君も飲んでおかないと、食べられないよぉ」


 その忠告の意味とは……   


 そう言えば、普段あまり酒を飲まない古平も缶ビール2本を飲み干し、すでに3本目に突入している。なんだこの罰ゲームのような飲酒の早さは……と周りの酒気に疑念を抱いていると、鍋の煮え立つ音と共にその理由が判明した。


「これは……」


 鍋蓋の孔から吹き出す蒸気によって拡散される、異臭が私の鼻腔を襲撃したのである。強い芳香剤と干物を発酵させたようなとにかく、悪臭を超越した異臭であった。

 私は急いで残りのビールを胃袋に流し込むと、飲みきらないうちから携えておいた缶び蓋をあけて、続けざまに飲み込んだ。

 するとどうだろう。瞬く間に鼓動が激しくなり耳の芯まで熱く火照りはじめ、目の前の空間が揺れはじめたかと思うと、あれほどの異臭を一切感じなくなってしまった。そして私は誘われるままに、漆黒の世界へと沈んだのである。

 

「下戸のくせに、一気に飲んだりするから。鍋はじまる前に潰れるとかウケる」


 刺すような寒さと背中の痛み、そして古平のそんな皮肉を聞きながら立ち上がろうとすると、目の前の世界が酷く回転するので、仕方がなくその場に座り込んだ。


「ここはどこだ」

 

「部長の部屋のベランダですよ」  


「そうか、にしても寒いな」


「外だし、それに雪も降って来ましたからね」


 私は手すりにもたれかかり黄昏れる古平を尻目に、部屋の中に入ろうと硝子戸を開けた。すると、精神を病みそうな臭いと温い空気が漏れ出てきたので、即座に戸を閉めて古平に向き直った。


「今回の犯人は僕ですかね。練り芥子を入れた巾着と練りワサビの巾着を入れてみたんですけど。まさか溶け出すなんてね」と古平はケタケタと乾いた笑い声をあげ、そして咽せた。


「生産者と製造者に謝れ。このクソ野郎」


「あなたにクソ野郎呼ばわりされる筋合いなんてないですね。一口も食べないで失神してただけなんだから」


「うるさい。中で何してるんだ」


「ちょっと前に全員が白旗あげたので、今はアニメ見ながら酒盛りです」


「お前は行かなくて良いのか、隠れオタクの古平君が」


「やめて下さいよ。僕はオタクであってオタクではない。アニメには興味はありません。ギャルゲー専のオタですよ」またケタケタと笑う古平……どうやら酔っているらしい。


「そう言えば、小春日さんはどうした」


 認めるのも悔しい気もするが、古平には小春日さんと言う彼女が居る。そもそもクリスマスの夜にこいつがここに居るのかと言う疑問はあった。だが、聞いてどうなるものでも、興味も無かったので聞かなかったのだが……


「そりゃ、こっちの方が楽しいからに決まってるでしょ。3次元の女なんて面倒くさいだけですよ。誕生日だのクリスマスだの口実を作っては1日拘束したがるし。約束に1時遅れたら怒るし、泣くし。俺のセルビアさんなんて寝落ちして一晩放置してても笑顔のままだし、束縛しないし。それに言ったでしょ。今夜は朝までプレイするのが礼儀だって」


 私は目を細めて、さも当然と意味不明なことを喋る古平を見ていた。私が言えた口ではないが、1時間も待たされれば怒るし、記念日は一緒に過ごそうと思うのが普通だ。


「お前、まさかそんな理由の為に彼女を蹴ったのか」


 私は唖然として聞いた。酔った上での言葉であることを加味すれば、それが本音で

ない可能性だってふんだんに残されているはずなのだ。


 だが、


「クリスマス嘗めんな!今夜限定配信される特別ストーリーがどんだけあると思ってるんだ。ミニスカサンタコスのセルビアさんは今日一日だけなんだよ。新作ゲー持ち帰ってからハードディスクパンク寸前までDLするのは大変なんだよ、今すぐ帰ってやりたいんだよ!時間との勝負なんだよ」血走った目で私の胸ぐらを絞り上げて古平は吠えたのである。

  

 私の言葉のどの辺りが逆鱗に触れたのかは定かではないが、地雷を踏んだことだけは間違い無いらしい。

 前言を撤回する。古平は本気だ。そしてセルビアさんって誰なんだよ!


「そう言えば、そう言うあなたこそ、真梨子先輩とどうなってんです。クリスマスだってのに、こんな所に居てさ」


 十分に楽しんで居るくせに、こんな所呼ばわりとは酷い奴である。


「先輩は家庭教師先のパーティーに出ないといけないらしい。でなければ降伏なんてするもんか」

 

「付き合って間もない最初の記念日に蹴られるあなたの方が蹴った僕よりも、悲しいですよね」


 またケタケタと笑おうとしたので、その前に私は唾を吐きかけてやった。「ぶわっ、汚ったね」と慌てて飛び退く仕草はなかなか面白かったのだが「夏目。その件について、詳しく聞かせてもらおうか」顔だけを戸から覗かせてそう言う部長の顔は面白くなかった。

 障気の渦巻く室内に引きずり込まれた私は混沌とした鍋の中を覗いて、唖然としてから、部長に無理矢理、公開裁判に出廷させられてしまった。「付き合って間もないって、誰と誰のことかな」腕を組んで見下ろす部長。ズボンのチャックが全開なのが気になって仕方がなかった。

 私は考えた。ここで下手に嘘をつけば、それが忽ち命取りになりかねない。意味不明な執着心はすでに知りおいている。

だから私は「セルビアさんとに決まってるじゃないですか!セルビアさんのミニスカサンタコス万歳!」と言って万歳をしたみた。


 毒には毒をもって制する。オタクにはアニメネタを持って誤魔化す!


「それだけでは許されないぞ!」


「えっマジですか」酔っているから誤魔化せると思っていたのだが……


「今夜のセルビアさんはなっ!サンタビキニ仕様なんだ!有料アイテムだが、愛あるお布施と喜んで課金すべきだ」


「そんなの当たり前じゃないですか。そのほかサブヒロインのアイテムもフルコンプは基本でしょ」 


「古平君。君の愛は我々共通の愛だ!」


 古平が私に助け船を出したとは考えにくく、ただのオタク魂の共鳴だと私は分析する。けれど、結果的に私は解放されたわけだからこれで良しとしよう。

 その後は、アニメを見ている者にメインヒロインを熱く語る2人。そしてそれを見ている私と、三者三様に無駄な時間を過ごし、22時を回った所でいつにない統制のとれた機敏な動きで、大方の片づけが行われ。23時前には部長の部屋を出発していた。


 その頃には雪は止んでいた……


 いよいよ本格的な愛すべきクソ野郎どもへと化して行くわけである。今夜発売されると言うゲームの販売に並ぶ為に三条通りへと向かう集団から後れて歩いていた私は、頃合いを見て離脱すると流々荘へ舵を切ったのである。

 

「こんばんは、夏目さん」


「こんばんは、皐月さんと神原君」


 流々壮に帰って来ると、丁度、皐月さんと神原青年が階段を降りて来た所に出くわした。


「クリスマスのお料理作りすぎたので、お持ちしたんですよ」


 お酒でも飲んだのだろうか、皐月さんの頬がほんのり紅い。


「ありがとうございます。今夜は部活のメンバーで飲んでたんですよ」


「そうだったのね。そう言えば、綺麗な女の子が夏目さんの所に来ていましたよ。お酒を買いに行って帰って来たときに丁度、いてらしてね。お留守みたいですよって教えて差し上げたんですけど」


 思い出すように言った皐月さんは続けて、「夏目さんの彼女さんはとっても綺麗な人なんやね」と口元に手をやって少し笑った。


「もう、皐月さん!ごめんなさい、皐月さん久しぶりにお酒飲んじゃって」慌てて神原青年が皐月さんの着物を引っ張りながら言った。


「だって、お友達ですか?って聞いたら「いえ、彼女です」って。うふふ」確かに、皐月さんは少し酔っているようで、すっかり目元が緩んでしまっている。


「そうですか……」


 皐月さんを送る神原青年と別れて、階段を上がりそのまま右手の端のドアまで歩く。みすぼらしいドアノブに触れながら、先輩も触れたのかな。などと考えながら鍵を差し込んで捻って見ると、簡単に鍵が開いてしまった。

 温度も音もない室内は、とても簡素で広く見えて、そして灰色をしていた。明かりをつけてみても、心ここにあらずと、無性に部長達と一緒に家電量販店に並んで居れば良かった。そんな幻聴のような心の叫びも聞こえて来るようで……12月25日、何気ない一日であるにも関わらず、人一倍独りで居ることが精神的に答える日。

 先輩を恨んではいない。愛すべきクソ野郎を自負する部長と愉快な仲間達との闇鍋もそれなりに楽しかった。

 それに、クリスマと言えど、労働に勤しんでいる学生も居れば1人でぼんやりと過ごしている学生だって山ほど居るわけで、その辺りを加味すれば、例え愛すべきクソ野郎どもであっても、バカ騒ぎをして過ごせる相手がいた私はそれなりに幸せだったのかもしれない。

 私はエアコンのスイッチを入れてから、押入を静かにあけた。

 中にはがらくたの中に混じって明らかに場違いなリボンが掛けられた箱が一つ入っている。試験一週間前の友引の日、偶然見つけて買った先輩へのクリスマスプレゼント。本当なら、今頃先輩の手の中にあるはずのプレゼントだった。


 吐く息が白く天井へ向かって伸びては薄引として消えて行く。先輩の事を恨んではいない。恨んではいないけれど、やっぱり少し寂しい。


「真梨子先輩……来てくれたのか……」寂しさも小さじ一杯の幸福で……


 その事実だけでなんだかお腹が一杯、幸せな気持ちになった。





「彼氏が居るのに、なんでどうして、羨ましく思わないといけないだろうね」準備もそこそこにベランダで黄昏れる小春日さんです。


 先輩から予め預かっておいた合い鍵を使いって部屋にお邪魔しました。御呼ばれに行っている先輩も帰って来てからそんなに食べられないと思いましたので、「ビーフストロガノフ買おうよ!」と言う小春日さんをなだめて、サンドイッチやフライドポテトなど、軽食を帰り道にある惣菜屋さんで買ってきました。ですから準備と言っても、惣菜をお皿に移すだけで、準備と言う程の作業もありません。なので、一度それぞれ家に帰ってから19時頃に先輩の家に再集合することしました。


「小春日さん、寒いです」私はマフラー巻き直しながら言いました。


 先輩の部屋ですから気を遣ってエアコンは掛けていません。なのに、小春日さんは硝子戸を開けたまま、ベランダで眼下を行き交うカップルを見つけては、恨み節を呟くのです。


「だってさ。だってさぁ!何で今日がクリスマスなのよぉ」


「寒いです」私は硝子戸を閉めました。


「ちょっと、葉山さんの薄情者っ」


 炬燵のスイッチを入れて独りで入っていると、やがて小春日さんが寒さに耐えかねて入って来ました。


「今日はテレビ禁止ね」小春日さんはそう言いながら、炬燵の上に置いてあったテレビのリモコンをテレビ台の上に置きに行きます。


「別に良いよ。あまりテレビは見ないから」


 そう言うと、私はポーチの中から文庫本を出して読み始めました。試験勉強の最中に見つけた読みかけの小説です。

 電車の中で暇だろうと、見送りに来てくれた幼なじみがくれた本です。

 舞台は京都にある大学で、その大学の学生である主人公とヒロイン、その友人達がが巻き起こす恋愛模様がコミカルに描かれてある作品で、ひょいっと現れて一言だけ残して消えて行く脇役がとても重要な役回りだったり、台詞がとても深かったり。伏線がふんだんに織り込まれていて、しかも、それをちゃんと物語の中で拾って行くので、何度もページを戻って読み返してしまいます。お陰で今日も寝不足です。 


「今日のテレビは一年で一番悪意に満ちていると思うのよ。どの番組もクリスマス、クリスマスばっかし」


「そうだねー」


「大体、キリスト教徒でも無いのにクリスマスを祝うなんておかしいわよね」


「うんー」


「明日、世界が滅ぶとしたら、最後に何食べたい?」


「そうなんだー」


「……」 


「……」


「私が悪かったです。ごめんなさい。だから無視しないで」


「えっ?」 


 いつの間にか向かいに座っていた小春日さんが、身を乗り出して言います。顔を上げた時、思いの外小春日さんの顔が近くにあったので驚きました。


「あぁ、つい夢中になってて」


「その本、そんなに面白いの?」


「うん。本当は荷物の中に埋もれてしまってて、試験勉強中に見つけて、また読み始めたんだけどね」


「ふーん。葉山さんは本を選ぶときって、カバーで選ぶ?それとも少し読んでから買うの?」


「うーん。自分で本を選ぶ事は少なくって、友達に進められた本とかが多いかな。この本も見送りに来てくれた幼なじみにもらった本だし」


「へぇ。そうなんだ。幼なじみが居るんだ、なんかそう言うのいいね」


「小さい時は、お互いの家に泊まりに行ったりしてたんだけど、高校で彼が部活に入ってから、あまり口も聞かなくなっちゃったけどね」


 高校生になって、弓道部に入った彼は去年はインターハイに出場を果たし、それなりの成績を残したそうです。確か、スポーツ推薦で弓道の強い大学へ通っていると母から聞きました。


「ふんぎゅ」


 私がまた文字に視線を移そうとすると、小春日さんは炬燵に突っ伏すと、額でぐりぐりをはじめてしまいました。


「えっと……」


「葉山さんの裏切り者ぉ。うぅぅぅ、イケメンの幼なじみとか、幼なじみ羨ましいぃ」


「携帯の連絡先とかも、全然知らないし……」それにイケメンだなんて一言も言っていませんし……


「わざわざ見送りにくるとか、絶対脈ありじゃんか。その本の最後のページとかに『好です』って書いてあるんだよ。その為の本なんだよ」


「あーっと」


 好きも嫌いも……従兄弟なんですけど……


 小春日さんの痛い視線に促され、渋々、最後のページを見た私は思わず「おぉ」と小さく驚いてしまいました。


「嘘!」慌てて小春日さんが私の所に駆けてきました。


「見てください、発行が21年1月11日第二版の発行日が11月11日です!」


 これはもう編集さんがお茶目さんとしか言いようがありませんね。私が『1』の並びに喜んでいると、「なーんだ。ラブレターとかかと思ったのにぃ」と小春日さんは大層落胆をした様子で炬燵の向かいまで帰って行きました。


「先輩遅いね」


「そうだね」掛け時計はすでに20時を過ぎてしまっています。


 私はまた額で炬燵ぐりぐりをはじめた小春日さんを見ながら、小説をポーチの中にしまって、「連絡してみようか」と言いました。


「うん。葉山さんお願い。今日私は携帯を見たくないの、持ってきてるけど」


「それはまたどうして……」いつもなら、私が読書をするように、小春日さんは携帯に夢中になって私の話も上の空だと言うのに、珍しくも今夜に限っては携帯を取り出しさえもしていません。 


「昨日ね……寂しくってさ……待ち受けをね。去年クリスマスにこうちゃんと撮った写真にかえたの。そしたら、余計に寂しくなっちゃって……だから、今日は一日私の携帯は呪われているの。彼女をほったらかしにするこうちゃんが悪いの……」とさらにぐりぐりを加速させる小春日さんでした。


「どうしたの?メールくらいなら良いと思うけど」


 携帯を持ったまま、指を動かせないでいる私に、小春日さんは首を捻りながら言いました。


「もしかしたら……先輩、夏目君の所にいってるのかも……」


 先輩にとって、今年は夏目君との記念すべき最初のクリスマスです。バイトの延長ですから、仕方がないですよね。と比較的軽く考えていた私なのですが、小春日さんの恨み節を聞いている内に、もしかしたら、先輩も小春日さんに近しい気持ちなのではないでしょうか。そう思えてきてしまったのです。夏目君の心境まではわかりません。でも、夏目君だって先輩と……いいえ、恋人と過ごすクリスマスを楽しみにしていたはずですから、きっと先輩は罪悪感を抱えていることでしょう……なら、帰りに夏目君の所へ向かっても不思議はありません。

 今、先輩が夏目君と会って居るかもしれない。なら、メールを送ることさえも憚らねばなりません。


「あぁ、かもしれないね。バイトだから仕方が無いって言っても、男の子って根に持つからなぁ。事あるごとに持ち出すのよ」


 それは小春日さんでは……と思いましたけれど、私は決して口に出して言うことはしませんでした。





「知恵熱で魘されそう……」


 20時を半時過ぎた頃、先輩はとても疲れた顔をして帰ってきました。リボンで装飾された大きなテディベアのぬいぐるみを傍らに置いて、ハイヒールを玄関に力無く脱ぐと、「一生分の英語喋った気分」と玄関で膝を抱えてしまいました。

 米国のクリスマスパーティーには米国人のお客さんも多く、ほとんどが英語で会話をしなければならず、聞き取るのにも話すのにもとても苦労をしてあげくに、語学力への自信を無くして精神をすり減らして帰って来た先輩なのでした。


「お疲れ様です。先輩、大丈夫ですか?」


 小春日さんは台所にある、お湯張りボタンを押してから、玄関に駆けて来ました。


「うん。ごめんね待たせちゃって。代わる代わる、財布の中からクリスマスイブに撮った家族とか恋人の写真を見せてくれるもんだから、抜けられなくって」


 むくんだ脹ら脛を揉みほぐしながら、先輩はそう言うと、ようやく立ち上がり台所で水を一杯飲みます。「ふう」先輩らしからぬ煙草の臭いが先輩の疲労を色濃く思わせているようでした。

 私は小春日さんが浴室に居ることを確認してから「夏目君の所へは行かなかったのですか」と小声で聞きました。どうしても気になってしまって、我慢ができませんでした。


「うん。帰りに直接行ったみたんだけど……留守だった」虚空を見つめるように天井を仰ぐ先輩。きっと、玄関で膝を抱えたのはパーティのことではなくて、それが原因だったのでしょうね。


「夏目君もわかってくれますよ。連絡もしたんですから。先輩の夏目君は優しい男です」


「ありがとう。多分、怒ってないと思うけど……自信ない……」力無く、コップをコンロの手前に置くと作り笑顔で「早くお風呂入らなきゃ」と言い残して寝室へ着替えを取りに行ってしまいました。


 私は、先輩が残したコップを洗いながら、とてもクリスマスを祝う気分にはなれないと思っていました。先輩の心中を察すればこそ、楽しく祝うことにさえ罪悪の念がつきまとうからです。


「お湯張り終わりましたー」腕まくりをした小春日さんが台所まで跳ねるようにして帰って来たかと思うと、弾んだ声でそう言うのです。


「ありがと。まずはスッキリしてくるね」小春日さんの声に寝室から現れた先輩は、

そう言い残して、着替えとともに浴室に入って行きました。


 急に元気になった小春日さんを、吹っ切れたのでしょうか?と見ていると、小春日さんは私にだけ聞こえる声で言ったのです、


「楽しく騒ぐ気分じゃ無いけど、先輩、独りにできないもんね」と。


「うん。そう、今日の先輩には私達が必要!」私は奮起をして小春日さんに返事をしました。


 小春日さんの言葉に、我に返った私は濡れた手をタオルで拭いてから、お皿に移しておいた料理をレンジに入れました。


「やっぱし、ビーフストロガノフ買えば良かったのにぃ」頬を膨らまして小春日さんが言いました。


「残ったら、困ると思うよ」


「葉山さん、お母さんみたいー」子供なのは小春日さんだと思いますけど……


 独りじゃない。それを確かめることが今日に限っては大切なことなのです。もしかしたら、クリスマスとはそれを再確認するための日なのかもしれません。いいえ、きっとそうなのです。 


 出遅れてしまったものの、惣菜の量もそんなにありませんから、浴室からドライヤーの音が聞こえはじめた頃には準備が整いました。


「葉山さん。これ」悪戯な笑みを浮かべながら、小春日さんがクラッカーを差し出しました。


「わぁ、懐かしい、私これ久しぶり」


 私は子供の頃は、このクラッカーの音が苦手で、誕生日やクリスマスの時は、クラッカーが終わるまで両手で耳を塞いでいました。


「私も子供の頃以来!スーパーで見つけて買っちゃった」

 

「なんだかワクワクするね」


 私はそう小声で言いながら、先輩に見えないように台所に角に隠れて、先輩が来るのを今か今かと待ちました。


 そして「うーん。良い匂いねぇ」とティディベアを抱き抱えてリビングへ入って来た先輩目掛けて、一斉にクラッカーを鳴らしたのです。


 パンッと乾いた破裂音が二つ重なったかと思うと、飛び出した紙吹雪やカラーテープが尾を引いて、先輩に向かって飛んで行きました。


「もう!吃驚するじゃない!」髪に被さったカラーテープや顔についた紙吹雪をそのままに、尻餅をついた先輩は眉を顰めて言います。

 先輩を怒らせてしまったように、ドキリとした私でしたけれど「クリスマスっぽいねぇ」とすぐにケラケラ笑いはじめた先輩を見て私も小春日さんも一緒になって笑いました。

 もちろん内心ではすごくほっとしていた事は秘密です。





「これねぇ、プレゼント交換で当たったのよ」ティディベアの縫いぐるみに顔を埋めたりしながら先輩が言います。


「アメリカのクリスマスって派手なんですか?」


「そんなイメージあるけど実は違うの。ほら、クリスマスって向こうじゃ宗教行事の一貫だから、イブは特に家族とかと過ごして、今日は教会に行ったり親しい人達とパーティーしたりするみたい。もう、お開きになってるんじゃないかな?」

 

 掛け時計をみると、もう22時を回っていました。


「あっ、でもプレゼントのスケールはアメリカ大陸って感じだったわよ。これよりももっと大きなスノーマンの縫いぐるみもあったもん。後はね、ジェイソンの仮面と玩具の斧のセットとか、誰が喜ぶの?っていうのもあったわね」


「それって、すでにネタに走っちゃってますよね」

 

「だよね。それ当たった人、早速、仮面つけて絵真ちゃん追い掛けてたもん」冷えてしまったフライドポテトを抓みながら先輩はそう言うと続けて「絵真ちゃんって私が家庭教師してるお宅の娘さんね」と捕捉をしました。


「先輩、ワインって結構おいしいんですね。私はいままで苦手意識でした」


 コップにつがれたシャンパンを飲みながら小春日さんが言います。まだ数杯なのですが、すでに目が据わってしまっていて……それで私をずっと見るので、正直、不気味です。


「小春ちゃん、これシャンパンだから」


 クラッカーを鳴らしてから、すぐに先輩は冷蔵庫の野菜室から、シャンパンを二本出して来ては「あんまり良いお酒じゃないけどね」と言いながら金属製のキャップを

開けて、私達に注いでくれました。

 シャンパングラスが無かったので、みんな硝子のコップに注いでの乾杯でした。


「シャンパンとワインなんて親戚みたいなものですよ。そう言えば、先輩聞いてください」


 言葉尻が怪しくなって来た小春日さんは、また炬燵に額をぐりぐりし始めます。


「小春ちゃんは飲み過ぎ禁止だからね。前科あるし」


 と言う先輩の言葉を無視して「葉山さん実は裏切り者だったんですよお。だってね、涼しい顔して地元に彼氏が居るんです。しかも幼なじみでイケメンなんですよ。反則よお」ふやけたような口調でそんなことを言うのです。


 となれば「えぇ、そうだったの!」と耳の先まで紅くなってしまっている先輩も食いつき「なんでよ。どうして言ってくれないのぉ!」と私の所へ詰め寄って来ます。


 まぁ、そうなりますよね……


「いえ、小春日さんに話した幼なじみは彼氏ではなくて、従兄弟なんです」イケメンかどうかは私の判断に余ります…… 

 

「従兄弟なの?幼なじみなのに?イケメンなのに?従兄弟なの?」


「はい。母の妹の息子さんです」


 先輩も小春日さんもイケメンイケメン言い過ぎだと思います……


「なんだぁ。だってさ、小春ちゃん」 


 アヒルのように尖らせた唇を、向けた先には炬燵に突っ伏したまま動かなくなった小春日さんの姿がありました。

 どうやら、眠ってしまったようでした……それにしても器用な寝相です。


「ねぇ、なっちゃん」


 小春日さんが眠ってしまった事を確認してから、先輩がまるで素面のように深刻な表をして私に言います。


「なんですか先輩」


 乾杯の時に注いだ分さえもまだ飲み干していない私は、もちろん酔っていませんから、次ぎに先輩の口から何がとびだすのでしょうと内心ではしっかりと身構えることができました。


「本当に恭君のこと良かったのかな」


「良いも何も、私は夏目君に自分の気持ちをちゃんと伝えましたよ」


 『好き』と言うのも気持ちであれば、『嫌い』と言うのもちゃんとした気持ちです。ただ、私の場合は『好きではない』と言うのが実のところでしたけれど。


「ありがとう。これで、何もかもがんばれそうな気がする。やっぱり、気になっちゃってたから」


「それにしても、夏目君も鈍感ですよね。パソコンを貸してくれた時点で気が付くと思いますけど」


「うーん。パソコンを貸した時はね。実はまだ好きじゃなかったのよ」


「えっ、そうだったんですか?私の早合点でした」てっきり私は、夏目君の気を引くためにパソコンを貸したのだと思っていました。


「でもどうなんだろ。好きだったのかなぁ。どう思う?」先輩のとろけそうな目元で言います。


「先輩。ベットに行って下さいね」


「大丈夫……な気がするの……でもね。黒ビールが悪いの、ドイツのビールがパーティーでね。みんなすっごい飲むのよ。麦茶飲むみたいに……」


 小春日さんと同じように、気持ちだけは起きているつもりなのでしょうね。先輩もついに横になるとテディベアを抱いたまま寝息を立ててしまいます。

 私は、泳ぐように気泡漂うコップの中を見ては、それを一息に飲み干しました。炭酸の刺激がのど越し良く、それでいてフルーティーな味わいです。鼻の奥から抜けて行く甘い香りを余韻に、思わずもう一杯飲みたくなる。そんなお酒でした。2杯目を頂くことはしませんでしたけれど、直に私も眠くなってしまってどうしようもなくなるのですね。そんな風に思って、玉響眠くなるまでの間、先輩の部屋を見回してみたりしていました。小春日さんがいて先輩がいて、食べかけのお菓子と惣菜があって。ゴミ箱の場所を知っていて、冷蔵庫にはケーキが入っていて……今年の上旬、はじめてこの部屋にお邪魔したとき、私は借りてきた猫のように小さくなっていました。今ではそれがとても懐かしく感じられます。


「ケーキどうしよう……」私は手を後ろに投げ出して大きく息を吐きました。


 円満解決が難しい方の三竦み。私も同じように考えていましたから、一時はとても落ち込みました。

 一歩違えていたら……と思うと今でも悪寒が走ります。この空間に自分が居られなくなってしまった未来があったのですよ。こんなに楽しくって愛おしい場所に私だけ居られないのはとても不幸なことですよね。

 去年の私であれば、何のこともなく、何気ない一日としてクリスマスを過ごすことが出来たと思います。けれど、一度この暖かい場所を知ってしまったなら、孤独にクリスマスを過ごすなんて、私には自信がありません。


 最初から居なければ寂しくはない。けれど、居たのに居なくなると狂おしい程寂しくて仕方がない。


 しみじみと感じています。私は今幸せなのだと。


 そんな風に私が1人で悦に浸っていると、


「私、寝てないから」と言いながら小春日さんが急に顔を上げたので、私は驚きました。


「おはよう」


「私寝てないから、ちゃんと起きてたから」体を乗り出して強く主張します。


「えっと、うん。そうだよね」


 私は、真っ赤になっている小春日さんのおでこを見ながら、苦笑をして言います。けれど、どうして、そんなに寝ていた事実を認めたがらないのでしょうか?


「うぅ」


「気持ち悪いなら、早い目に言ってよね」あの惨状はあまり思い出したくありません。


「気持ち悪くはないの。ワインとかは結構平気なの私。焼酎と泡盛は駄目なんだけど」


「そうなんだ」


 相変わらず目元が据わっているのがとても気になるのですが……


「そう言えば、葉山さんは実家にいつ帰るの?」


「私は28日に帰省する予定。小春日さんは?」


「私は古平君次第かなぁ。その、一緒に過ごすっていうのもありだと思うのよ、2年目だし……そろそろ、色々あっても良いと思うのよ!」お酒が入ると饒舌になる小春日さんです。


「葉山さんは大晦日って紅白派?それとも格闘技派?」


「私はどちらでもないけど、祖母と祖父が紅白を見るから毎年、紅白を見て行く年来る年を見てから、友達と初詣に行くかなぁ」


「へぇ、家はお父さんが格闘技大好きだから。でも私はテレビ自体あんまし見ないで、お節作るのお手伝いしたりしてるかな」小春日さんはコップに残っているシャンパンを飲みながら、ますます饒舌になって「あんな殴り合い何が面白いのか理解に苦しむわ」と続けて言いました。


「お節のお手伝いするんだ」今時こういう事を思うのもどうかとも思いますけれど、同じ女の子として恥ずかしい気持ちになりました。何せ、私と言ったら炬燵に入って寝ころびながら本を読んだりうたた寝をしたりしているだけで、台所に行くと言えば、お手洗いのついでにつまみ食いに寄るだけなのですから……なんだかとっても恥ずかしいです。


「すごくなんてないよ、だって私つまみ食い専門だもん」してやったりと小春日さんはとても楽しそうに笑っていました。


「それなら私も専門」私も一緒になって笑いました。どうしてもとても楽しい時間です。


「そろそろ、お開きにしないとだね。肝心の先輩は寝てしまってるけど」


 柱時計を見ると、もう日付変更の時刻を過ぎてしまっていました。楽しい時間は過ぎるのはとても早いですね。


「何言ってるのよ。今日はお泊まりする気まんまんです。私。」


「えぇ、でも先輩に迷惑じゃ……」


「想像して見てよ。『ただいま』を言う相手も居ない冷え切った部屋。誰かに電話したくなって携帯をみたら、恋人と幸せに写ってる去年の私がいてさ……泣いちゃうよ私?それでも良いって言うの……葉山さんは鬼だよ……」


「えっと……」明日、予定があるかもしれない先輩に迷惑だと思っただけなのですけれど……

 

「先輩だって、こんな真夜中に可愛い後輩を帰すようなことはしないわよ」


「そうだと思うけど……」


 先輩のことだから『泊まっていって』と言うと思います。けれど、親しき仲であれば余計に礼儀を重んじなければなりませんから、先輩に甘えっぱなしになるのもどうかと思うのですよ。


「泊まるのは泊まるにしても、せめて、片付けくらいはしておきましょうよ」


 そう言いながら、私は、炬燵の上に散らばっているお菓子の小袋や開いているお皿などを持って台所へ向かいます。


「お酒は私にまかせといて!」小春さんは瓶に半分ほど残ったお酒をコップに注ぎながら、勇ましく親指を立てています。


「よろしくお願いします」


 お酒は別にやっつける必要はありません。ですが、酔っている小春日さんに手伝ってもらった方が余計に手間が増えそうな気がしたので……私は1人で片付けることにしました。

 先輩を起こさないように、洗い物をしていると、カウンター越しに突っ伏してしまっている小春日さんの姿が見えます。今度は片手にコップを握り、もう片方は瓶に手を掛けたまま……とても器用な小春日さんなのです。

 

「また、寝てないって言うのかな」


 起きたなら、また「寝てないから」と言い張るのでしょうか、と起きがけの小春日さんを思い出しながら私は1人で笑っていました。どうせ、私しか起きていないのですから、笑うくらい恥ずかしいこともありません。


 小春日さんを見ていて思いました、「それにしても、ビーフストロガノフ買わなくてよかった」っと。


 洗い物を終え、残った惣菜にラップを掛けていざ、冷蔵庫へ入れようとして「あぁ」

スペースの大半を占拠しているホールケーキの箱を2つ見つめながら私はそんな声を出しました。小春日さんが起きている間に先輩が予約した小さい方の1箱分だけでも食べておけば良かったと後悔するも後の祭りです……


 私は両手に、惣菜をまとめたお皿を持ちながら、


「ケーキどうしよう……」途方に暮れてしまったのでした。





 楽しくも切ない聖夜を過ごした翌昼、実家から帰省の有無を問うメールがあったので、年が明けてから帰る旨を返信しておいた。すると、お土産は三笠が良い。と続いてメールが届いた。土産を持って帰るという前から土産の催促ならぬ、土産の指定をしてくるとは……さすがは我が両親。それを見越してすでに三笠を郵送し終えている私は、三笠については触れず「帰省する交通費がない」とだけ書いて返信しておいた。

 すると、その日の夕方にはに「交通費振り込んでおいたから」とメールが届き、専業主婦のフットワークの軽さと軍資金の供与に感謝した。三笠がもう届いているだろうから、それも良い方向へ作用したと私は確信している。

 実を言えば、帰りの交通費くらいは残っていた。けれど、31日までに色々と物入りとなってしまった私は嘘をついて臨時の仕送りをお願いしたのだ。


 今朝方、私は男を見せた。


 毎年先輩は年末までバイトをしていて実家には年明けに帰郷する。今年も例年通りであると聞いた私は、思い切って「一緒に初詣に行きませんか」とメールを送ってみたのだ。

 返信までに2時間ほどあったから、至極ドキドキとしたが、後輩から恋人へ昇華した私と先輩の関係上。そんな臆病に構える必要もなかったのだろうと思う。


 何せ慣れていないもので……


 やがて先輩から「うん。行く!東大寺に行こう!」と凝った絵文字をふんだんに用いた返事が帰って来たのでほっとした。続けて待ち合わせなど細かい内容のメールのやりとりを何通かした。

 作戦決行日時が決定した私は、首周りが伸びきったTシャツやら穴の開いたジーンズを正すため、奈良に来てはじめて衣類の買い物へ出掛けたのである。懐はいつになく暖かかったのでつい、日用品の買いだめを……などと即行で目的を見失いかけたが、すぐさま今進むべきレールを思い出した。

 三条通りを歩きながら、あれやこれやと見て回って疲労が溜まってくると、ペガサス号の修理にくらいは必要経費にしても良かったのかも知れないと後悔した。何せ、すっかり慣れた三条通りとは言えど、目的が違えば歩き方も大きく異なるもので、遊びに来ることに終始していた私は、古本屋やゲームセンターに映画館など娯楽施設は網羅していても、衣料品を取り扱う店舗に関してはまるで素人であったのだ。古平にメールをしても電話をしても梨の礫で、頼りになんぞとなりもしない。

 聖夜から徹夜でゲームをすると言っていたし、限定DLエピソードがどうのと話していたから、未だに引き籠もってゲームに興じているのかもしれない。

 その後、何日かに分けて奈良町の方面へ行ってみたりして、なんとか、可もなく不可もなく無難な服装を購入することが出来た。よく考えれば、この寒空の下、活躍すべきは上着なのだから、まず上着を買うべきだったと後悔をした。


 何せ、上着と言えば、着古したダッフルコートしか持っていない私なのである。


 その翌日、まだ日が昇りきらない時間帯に、古平から返信が来た。眠た眼でメールを見た私は、あまりのショックに現実逃避の二度寝を敢行した。昼前に起き出した私は、もう一度メールを読んで怒りに我を忘れ「もっと早く教えろ!」と書き殴った文面を返信した。諸々後悔しようとしていた矢先、携帯の画面に送信に失敗した旨を伝えるメッセージが出力されたので、ほっとした。


 古平曰く


「 

 三条通りに服なんて買いに行きませんよ。僕なら、イトーヨーカドーに行きますね

                                     」

 

 だそうだ。


 イトーヨーカドーは近鉄大和西大寺駅と近鉄新大宮駅の間にある大型ショッピング施設で『そごう百貨店』が撤退した後に建物をのままに営業をはじめた、メガストアである。

 立地的には新大宮駅寄りにあるものの、流々荘からはそこそこ距離があるため、あまり行った事がなく、ましてペガサス号が使えない今となっては、完全に買い物圏外であり、私の中ではその存在さえも忘却してしまっていた……

 普段であれば、諦めてしまうところなのだが、今回の作戦は初戦にして天王山であるのだから手加減は出来ない。だから私は久しぶりにイトーヨーカドーに行くことしたのである。

 なるほど、古平の言うとおり、ブランド品は少ないながら、手頃な価格でそれなりの物が手に入り且つ、種類が豊富だった。だが、すでに内着は買ってあるので、後ろ髪を引かれながら、ジャケット売り場に出掛けた。


「むぅ」


 並んだジャケットにジャンパーにコート、品定めをしていて、私は顔を顰めるしかかなかった。何せ、どれもこれも予算オーバーだったのだ。三条通り行った事を、激しく悔やんだが後の祭りである……結局、私は昼飯代わりのあんパンを買って家路についたのだった。  

 悔やんでいても仕方がないので、なんとか今ある装備で当日に備えるべく、先輩と初詣に着て行く服に着替えてみた。値段のわりに……と思ってみても、最終的に、ダッフルコートで覆ってしまうからまるで意味がない。

 鏡に写る冴えない自分を見ていると、結局の所、何を着ても代わり映えなど期待もできないだろう。そう思うと、せめて残った軍資金を真梨子先輩の為に使おう。私は見掛け磨きを諦めて、中身で勝負をすることに決めたのであった。





 師走は特に忙しいと言うが、ここ数日間は本当に早く過ぎて行ってしまったように思う。どうせ怠けて過ごすのだろうと思っていたのだが、隣で大掃除に勤しむ皐月さんと神原青年に触発されて大掃除をしてみたり、そのゴミを出しに行って大家さんと出くわして、流々荘の大掃除も手伝う事になったり、そのお礼に美味しい天丼をご馳走になったり、町内会の鏡餅つきを手伝ったり、何かと予定が横は入りをしてきて、気が付けば大晦日になっていた。体は疲労していたが、精神的にはなぜか清々しかったしとても充実していたから摩訶不思議である。

 「10時に行基前ね」とハートの動く絵文字が添えられたメールを読み返して、約束まで5時間以上あることを確認して畳の上に寝そべる。いやはや、こんなに大晦日が待ち遠しいのはいつくらいぶりだろうか……お年玉がほしさにもういくつ寝ると、を歌っていた小学生くらいまで遡らなければいけないだろうか。

 

 待ち遠しい5時間。

    何かしようと思えばできる5時間。

       けれど何もせずにじっと早く経って欲しい5時間。


 この時間をとりあえず私は初詣のシュミレートに費やすことにした。まず、三十分程前に近鉄奈良駅前にある行基像前に到着しておく。10分前くらいに先輩が来て……


「何を話そうか」挨拶はするとして……


 困った。待ち合わせた直後に躓くとは……

 

「夏目恭一!お前はすでに包囲されている。大人しく我が文芸部主催の年越し鍋パーティーに参加しろ!」 


 私が難問に取りかかろうとした矢先。ドアの外からそんな声が聞こえて来た。


「ったく……」流々荘まで押しかけて来るとは思いもしなかった。


 阿呆に盆暮れ正月は関係ないのだろうな……


「何のつもりですか。今夜は予定がもう入ってるんです」


 私は本当の事を言った。


「うそつけ!うそをつけ!君はっ君は今夜真梨子さんと初詣に行くんだろ!そうなんだろ!誤魔化したって駄目だからな、もうネタは上がってるんだ」


「そうですが何か」


 私はまた本当のことを言った。


「嘘だとは……言ってくれないんだよね……」


「はい」


「なんでだよ……なんで君なんかが!僕じゃなくて君なんだよぉ」


 まさか泣いてるんじゃないだろうな……大声で叫ばれても迷惑だが、ドアの前で泣かれるのも迷惑だ。

 幸いにして、お隣さんは数日前に帰省しているから良いとしても。ご近所迷惑なことにはかわりない。


「君には何が何でも、今夜はパーティーに来てもらうからな」


「嫌です。クリスマスの惨劇を繰り返すだけですよ」


「大晦日まで真梨子さんを追いかけて回すつもりかい」


「部長にはフランソワーズちゃんがいるじゃないですか」


「フランソワーズちゃんを今夜だけ君に譲るから、僕に真梨子さんを譲ってはもらえないだろうか」さも、当然のように意味不明な提案をして来たかと思えば、聞いたこともない真面目そうな声で部長は「最大の譲歩だ」と付け加えた。



「アホですか。そんな人形いりません」


「にっ!人形とは何だよ!人形とは!フランソワーズちゃんに謝れ!この野郎!」


 フランソワーズちゃんを人形呼ばわりされた部長はついにドアを何度か蹴りつけた。

古いベニア板のドアは本当に壊れそうな勢いで軋んでいたが、何とか持ちこたえてくれた様子だった。薄くて頼りないドア一枚が今の私にとっては頼みの綱なのだから……

 

 私は面倒くさいことになった。と思いつつ窓の外を覗いてみると、愉快な仲間達の何人かが見あたった。てっきり部長は単独で来ていると思っていたから、大晦日の夕暮れに時に本気の包囲戦をしかけてきた親愛なる暇人どもに感嘆した。


「立て籠もるつもりなら、新年まで包囲し続けるからな。夏目恭一!君に逃げ道はない!」 


 いちいちフルネームで呼ぶのをやめてほしい。


包囲すると言っても、ただ外で待っているだけなのだから、私が何をせずとも、冬将軍がひ弱な部長の体温を奪ったあげく、風邪のプレゼントにてもれなく寝正月のフルコースを味わってもらえればと思う。だから、私は大きく構えて、その後2時間ほどを万年床で微睡んで過ごし、まだ3時間もある。と頭を掻きながら、ドアの覗き穴から外を覗くと、震えながら読書をしている部長の姿があった。


 窓の外にはポータブルゲームに勤しむ愉快な仲間達の姿が見える。


 もう少しくらいは……と万年床に入って微睡む準備をしたところで、私は上体を起こし胴震いをしたのである。

 駅前までの移動時間も加味して厳密には後、2時間と15分後には部屋を出なければならない。この時間の間に部長一味が霧散すれば問題はない。しかし、もしもそうしなければ……

 親愛なる阿呆どもは、包囲を突破してみたところで、必ず追いかけて来ることだろう。残念ながら私に彼らを置いてけぼりにするだけの脚力はない。ましてや一味を率いて駅前には絶対に行くことは絶対にできない。ならば、


 私がするべきは包囲の突破&追っ手を撒くことだ。


 手段は選ばないとしても、どのタイミングで突破するかだ。一味の混乱に乗じて姿をくらまさなければならない。地の利は同等程度。ならば多勢に無勢で私が不利だし、援軍は帰省の煽りを受けて期待できない。ペガサス号は使えないし、走るにしても体力的に限界がある。

 思案に暮れていると、携帯電話が震るえていることに気が付き、手に取ると、未知の番号だった。部長の嫌がらせかと思ったのだが、とりあえず出てみると、電話口に意外な人物が立っていたので束の間返事をすることができなかった。


 着替えを済ませ、冷蔵庫から弾薬を手に一つ。残りはダッフルコートのポケットに忍ばせた。約束の時間まで1時間……


 やるかやられか、今年最後の一番勝負ここが私の天王山。

 

 腕時計の長針が午後9時を回った直後、私はドアを勢いよく開け放つと、座り込んで震えていた部長の顔に変色した生卵を投げつけた。部長は間一髪読んでいた本でこれを防いだが、本で防ぎきれず飛び散った破片に「ふへぇ」と飛び上がった部長は本を投げ捨て、慌ててズボンに垂れた青銅色の黄身を手で払っていた。見た目よりも強烈な悪臭が最悪だった。

 私は次弾をコートのポケットから装填しながら階段を駆け下りて一階に躍り出た。

「逃げたぞ!」部長の怒鳴り声に、手にゲーム機を携えたままの一味が私の前に立ちはだかる。

 

 私は足を止めることなく、卵爆弾を一味に足下に投げつけるた。すると、一味は「あげぇ」と忽ち立ち上る悪臭に、体を仰け反らせる。私は続けざまに爆弾を一味の胸と太腿に炸裂させてから、大学とは反対方向にある近鉄新大宮へ向けて全速力で見通しの良い坂道を走りはじめたのであった。


『小春日さんから連絡があって、古平君が文芸部の部長さんに今夜の事を話してしまったみたいなんです』


 電話の主はなんと葉山さんだった。生涯ではじめて、振られた女の子からの突然の電話に困惑したことは言うまでもなかった。


『音無さんが車で行基前まで送ってくれるそうなので、9時30分くらいに新大宮駅のタクシー乗り場に向かってください。夏目君。先輩を、真梨子先輩をよろしくお願いします』


 そして、私を振った女の子は私にとっての救世主の手配までしてくれたのである。


「わかった。ありがとう」


『真梨子先輩をよろしくお願いします』と言うフレーズが電話を切った後もやけに耳に残ったいたのだが、あの台詞には一体どういう意味が込められていたのだろうか。

 近鉄線に対して横切るように引かれたJRの踏切を渡った私は、何度か後ろを振り返えざるえなかった。何せ住宅街に入るまでは見通しの良い緩やか坂道が続いている。後ろを見れば、打ち漏らした一人を荷台に載せ、今にも部長がペガサス号を漕ぎ出そうとしているところが見えた。


 自殺行為だ。私はすでに噎ぶ呼吸に焼けそうな心肺に鞭打って走り続けた。


「逃がすかぁあ!」


 案の定、坂道を降るペガサス号はすぐに私の背中へと迫った。坂道に加えて、荷台の過重に部長渾身の立ち漕ぎであるから、その速度は安易に想像できる。想像できるからこそ自殺行為なのだ。

 ゴミ同然にアパートの駐輪所に放置されてあったペガサス号を大家さんから借りた当時からブレーキが壊れていて、騙し騙し使って来たのだが、いつか先輩を荷台に載せて走った時に完全にブレーキが壊れてしまった。私ですら使用を控えているレベルでブレーキは大破しているのだ。


「マジかぁあ!」


 止まりたいタイミングでその事実に気が付いた部長は、声色を涙色に染め、私の尻に前輪を突き刺したまま一緒に柊の垣根に突っ込んだのだった。

 ペガサス号に追突された私は垣根に突っ込み、さらに激しく垣根に突入した部長は側溝に体半分が嵌まっていたし荷台のもう一人は、前輪が変形してしまったペガサス号の下敷きになって倒れていた。

 垣根から脱出した私は、強打した臀部をさすりながら損傷は軽微、と自己診断をしてから歩き出したのだが、動かしてみるとあちことがじんじんとして脈打つように痛んだ。

 ふと足下を見やると、一味が携えていたゲーム機が見あたったので、ペガサス号の下から私を見上げている一味に視線をやってから、最後の爆弾を取り出すと、「頼むやめてくれ!部長に脅されて仕方なくやったんだ!」と安い命乞いをする一味を尻目に、目の前でゲーム機を青銅色の黄身で染めてやった。


「あぁぁぁ!」


 その直後、断末魔の叫び声が新年を待つ静まりかえった住宅街に響き渡ったことは言うまでもない。しかし、私からすれば当然の報いだ。人の恋路を邪魔する者は犬にでも噛まれてしまえばいいのだ。


 走るに走れず、額に脂汗を浮かべて新大宮駅前に到着すると、タクシー乗り場から少し外れた路肩に車外に出て待っていてくれた音無さんを見つけることができた。


「大晦日にすみません。お世話になります」私は呼吸を整えながら頭を下げて言った。


「気にしないでよ。夏目君には甘美祭で協力してもらったし、親友の真理ちゃんの為でもあるしね」そう言うと、音無さんは屈強なボディとデザインを併せ持つSUVの運転席に乗り込んだのである


「なんか、イメージないですね。こんな大きい車って」


 音無さんと言う女性はどちらかと言えば華奢な体躯とおっとりした雰囲気を漂わせる人であったので、こんな厳つい車に乗ってしまうと、どうしてもそのギャップを口に出さずには居られない……イメージでは、可愛らしいピンク色の軽自動車に乗っていそうなのに……


「家の車だからね」とカーナビを操作する音無さんはナビに表示された真っ赤に染まった地図を見て「うわぁ、初詣に狙いの車かな。大晦日なのになんでこんなに混んでるのよ」と独り言のように呟いた。


 ナビの情報通り、近鉄奈良駅方面に続く幹線道路は大渋滞しており、それに脇道からの横入りが多発するので、一向に進む気配がなかった。


「なんか臭くない?」


 ラジオを聞きながら、音無さんは渋滞に苛立つこともせず、小さい鼻を私の方に向けてひくひくさせて言うので、


「気のせいですよ」と私は誤魔化し、内心では約束の時間まで15分を切っていることに苛立ち、焦っていた。

 約束の時間まで10分を切った頃、ようやく高天交差点にさしかかった。絶品パスタが懐かしいコンビニを横目に見ながら、タイミング良く信号が赤になったので「音無さんここで降ります。本当にありがとうございました」言いながら、車のドアを開けた。


「ん、そだね。走った方が早いかも」


「先輩。良いお年をお迎え下さい」


「夏目君も。グットラック!」


 もう一度、音無さんに頭を下げてから車のドアを閉めると、点滅しはじめた歩行者用信号を間一髪で交わして、コンビニ前まで走り、次の信号は無視をしてさらに駆けた。臀部にズボンが擦れるたびに何とも言えない痛みが走る中、真冬の風も何のその、私は額に汗しながら、力の限り走り続けた。行基像の見える場所で、息をついた私は、腕時計を見て、後1分残っている奇跡を八百万の神々に感謝した。

 そして、行基像の前に真梨子先輩の姿を見つけた時は倒れ込んでしまいそうなくらいに脱力してしまった。


「すみません。遅刻しました」


「後1分あるからセーフだよ」


 少しカールさせた黒髪には白いヘアバンドがあり、首もとにはバーバーリーチェックのマフラー、品のある薄桃色のフレアトレンチコートに足下は黒いストッキングと明るい皮色のロングブーツ。控えめな化粧に、いつものふんわり甘い香り。

 どこからどう見ても……香りに至るまで、いつかの私が初恋に心が揺れた、その人が私の前に立っていた。 


「間に合った……」だと言うのに、その感慨に浸りきれない現状はどうしたものだろうか……


 なんとか約束時間に遅刻せずに到着することができた私は、しばらく、放心して気遣ってくれる先輩の言葉にあやふやな言葉で返事をしていた。

 東大寺の方面に流れる人の数はまだ疎らで、時刻的には少し早かったこともあり、近くの喫茶店に私達は入った。待ち合わせたそばから満身創痍の私への労り以外の何者でもないと理解していたから、長居はするつもりはなかった。

 

「なんで、そんなに汗かいてるの?」ダッフルコートを脱いだ私に先輩がハンカチを渡してくれた。


「すみません」ハンカチを受け取りながら、こんなに早くコートを脱ぐことになろうとは予想してなかったと思いながらも、コートの下の装いにこそ自信はあるのだから、その点での備えは盤石だった。


「なっちゃんから恭君の電話番号教えてくれって電話あったんだけど?」カフェオレを注文してから先輩が言った。


「電話ありましたよ。葉山さんのお陰で今ここに居るってわけです」私はアイスコーヒーを注文した。


「どうゆうことなの?」


 私としては、葉山さんからの電話があればこそ、部長とその一派の魔の手から逃れることができた。だから彼女の功績を先輩に話して聞かせたかったのだが、その、先輩と彼女と私の間には、つい最近まで複雑な人間構図があった。だから、ここで彼女を賛辞してしまっては先輩は不安に思ってしまうことだろう……すでに、先輩の表情には不安の色が見え隠れしているし……


 私は、私がこの行基前に到着するまでを部長が部屋に押しかけた所から子細丁寧に事実だけを話した。ペガサス号の最後、葉山さんが音無さんに連絡をしてくれたこと、音無さんの家の車が厳つかったこと、そして、走って走って首皮一枚間に合った事を全部。


「そんなことがあったんだ。みんなに迷惑かけちゃったね」


 運ばれてきたカフェオレにシロップを入れながら先輩が言った。


「はい。でもだからこそ、待ち合わせの時間に間に合って良かったです」私はもちろんブラックである。


 結局の所、先輩と合流できたならそれで万事問題はない。しかし、多方面の人達の尽力を得た限りは、より最高な形で報告が出来た方が良いに決まっている。もちろん、葉山さんや音無さんには先輩から今日の話しが行くのだろうけれど……


 それにしても、諸悪の根元である古平にはどんな鉄槌を下してやろうか。


 

  


 喫茶店の外を行き交う人の数が目に見えた頃、私達は喫茶店を出て、東大寺を目指して歩きはじめた。目指すは、年跨ぎの0時に開門する大仏殿の中門である。普段は閉門しており、新年に合わせてのみ開門される。

 すでに混雑を見せる参道を歩いていると人の群れを割いて歩いてくるモノがあった、それは大きな雄鹿だった。

「鹿って夜行性だっけ」と言いながら真梨子先輩は鹿の写真を撮っていた。途中地下道を通るのだが、今夜に限っては出口が見えない程の混み合いだ。まさか中門からここまで並んでるんじゃないだろうな。そう思ったくらいだった。

 春日野町の交差点はもはや歩行者天国となっており、交通整理の警官がいなければ、年が明けてもこの交差点は車で通ることは至難の技だろう。そもそも、この年の瀬が迫った時刻に車でこの交差点を通ろうと思うこと自体が荒唐無稽であると私は言いたい。

 いつもは午後8時を過ぎれば露店も土産物店も閉まり、閑散とする参道も今夜ばかりは道を狭しと出店が軒を連ね。土産物店も木刀やら背中に『奈良』とプリントされた、だんだら羽織を仕舞って、甘酒やおでんを振る舞うスペースにしているようだった。

 春日大社へ向かう流れと袂を分かつからか、交差点を渡った辺りから混雑の中にも普通に歩く程度には支障をきたなさい。

 奈良で迎える大晦日と初詣は、はじめてで、もちろん、東大寺にはゼミと個人的にを含め何度も足を運んでいたが、それは何の事もない平日の昼間の話し。夜の、まして大晦日の東大寺ははじめてだった。そもそも私は大晦日の夜から初詣に行ったことがなかった。だから余計に新鮮に感じたのかもしれない。混雑は嫌いだし並ぶのはもっと嫌いだったのだが……

 けれど、今夜は嫌な気がしない。隣に先輩がいるからだろうか。無論、それこそが明瞭な理由たり得る。もう一つ理由らしい理由を挙げるとしたらなら……幻にも似たこの独特で不思議な雰囲気だろう。見慣れているはずの風景がまるでそれとは異なっているように思えてならない。


「大晦日の0時を過ぎると、町も人も新しく生まれ変わるんだよ」私が幼少の頃、祖母がよく言っていた言葉を思い出した。 


「出店はお参りしてからね」これも祖母によく言われた言葉だ。


 私が狐に抓まれているようにただ歩いていると南大門をくぐった辺りで、先輩が立ち止まり「もし迷子になったらここで待ち合わせね」と言った。

「迷子にならないから大丈夫」私はそう言うと先輩の手を握って再び歩き出したのであった。正直、自分でも藪から棒に何をしているのかわけがわからなかった。先輩も最初はとても驚いた顔をしていたが「こっちの方が温ったかいね」と言ってわざわざ私と繋いでいる方の手袋を外して再び手を繋ぎ直した。

 先輩の手はもっと柔らかくてつるつるしていると思っていた。私の中に居た真梨子先輩はもっと餅のように弾力があって蒟蒻のようにつるつるとした手をしていた。けれど、今繋いでいる手は所々がざがざとしていて、指先にはペンだこがあって……

 手はその人を顕著に且つ正直に表す。私はやっぱり、ずっと先輩のことを誤解していたのだと改めて確信した。

 先輩の手を労るように強弱をつけて握ると、先輩も同じように握り返えしてくる。まるでモールス信号のようだ。

「なんか楽しいよね」私の顔を見上げて言う先輩に「はい。悪くないです」と私は返事をした。我ながら素っ気ないと思った……何せ、私自身とても楽しかったのだから。   

 大仏殿の中門が見えはじめると、ゆっくりと進んでいた人の波が滞るようになったので、私と先輩は詰まる所まで歩き、ようやく初詣の列に並んだ、もう少し端に陣取った方が良かったかと思ったが、中門の近く、鏡池で行われているとんどの炎が見える限りは、そんなに後ろの方と言うわけでもない。開門と同時に列が乱れるだろうがそれさえ乗り切ればスムーズに初詣を済ませることができるだろう。

 私の頭の中は至って冷静であった。例え周りが仲睦まじく新年の詣でを待ちわびるカップルの中に居たとしてもだ。


「恐い顔してどうしたの?」


「えっ、いえ、もう少し端の方がよかったかなって」 


「大丈夫だよ。はぐれないし、もっと大丈夫」先輩はどこまでも愉快そうである。そんな姿を見ているだけで、私までも幸せな気分になってくるから不思議だった。


 独り身たるはなんとする!と現実が充実している男女を禍々しく見つめて続けて来た観察者にして哀れな阿呆どものメシアであると自覚していた私は、すっかり独りでいることに慣れてしまっていた。だが今夜は違う。いいや、これ以後私は観察者でもなければメシアでもない。むしろ、観察され禍々しく思われる側に回ることになるだろう。

 写真を撮りまくっている先輩の姿をさりげなく見てみる。すると一層、頭の中に冷たいものが吹き抜けて静謐と冴えわたって行くような感覚が強くなった。

 冴えわたっても、この感覚の原因はようとして知れなかった。けれど、一つ気が付いたと言えば、何があっても先輩を守らなければと言う気持ちである。はじめて手に入れた大切にするべきモノを、私は何を犠牲にしても守り抜かなければ。と……


「(そうか)」


 私は理解した。これは紛うことのない自己犠牲の正義なのだ。やっと気が付いた。今まで私は手にしたことがなかったから、はじめて手にして芽生えたモノの正体がわからないでいたのだ。

 愛の力とは誠に恐ろしい。狡兎のように生きようと決めていた堕落した私を、瞬く間に騎士道に則り死へすら勇ましく身を躍らせる正義漢へと生まれ変わらせたのだから。


「あ、そうだ」思い出したようにそう言った先輩は携帯をコートのポケットに仕舞まうと、たすき掛けにしている大きめのポーチから、リボンで包装された包みを取り出した。


「はいこれ、クリスマスプレゼント。遅くなってごめんね」


「え、あぁ。ありがとうございます。嬉しいです」受け取ると、とても柔らかい。「開けてみて」と言う先輩の言葉に「わかりました」と丁寧に包装をとくと、キルトチェック柄のマフラーが入っていた。


「これ、マフラー……」


「恭君マフラーとかしないから、いつも首元寒そうだなぁ。って思って」先輩は「かして」と感動に耽る私からマフラーを取ると、すぐさま私の首に巻いてくれた。先輩が巻いてくれたマフラーはとても軽くて肌触りが優しく、そして暖かかった。


「これ、全然チクチクしませんね。実はマフラー苦手なんですよ、敏感肌っていうか、チクチクするあの感じが嫌いで……」事実だ。だから私は真冬でもマフラーを巻いた事がなく、毛糸のセーターも着たりはしない。


「よっかったぁ。ウールかカシミヤか悩んだんだけど、カシミヤにしといたんだぁ」


 どうして先輩はこんなに嬉しそうなのだろうか……ウールもカシミヤもどこがどう違うのかわからなかったけれど、少なくとも毛糸よりは上等な品であることは私の肌が証明してくれている。


 この暖かさこそ、先輩からの贈り物だ。


「あぁ、しまった」マフラーの感触を確かめていると、先輩へのプレゼントを持って来るのを忘れてしまった事を思い出した。


「どうかしたの?」


「先輩へのプレゼント忘れてきてしまって……何せ、切羽詰まってたもので……言い訳ですごめんなさい」


 先輩には申し訳ないと思った。けれど、あの状況を考えれば、今夜持ち出さなくて正解だったのかもしれない。仮に壊れなかったとしても包装は台無しになっていただろうから……


「謝るのは私の方。クリスマスごめんね。付き合いはじめて初めてのクリスマスだったのに……」


 そんな顔しないでくださいよ先輩。


「それについて、喧嘩をしてもいいですけど、それはまたに機会にしませんか」


「どういう……こと?」


「えっと……つまり、怒って無いってことです。だから、喧嘩するのは次の機会にってことで」


 自分で何が言いたいのかわからなくなってきてしまった……つまり、私が気にしていないと言うことを伝えたかっただけなのだが……


「変な恭君」伝わったのか伝わっていないのか、とにかく先輩はそう言うと俯いてしまった。


 想定と予想を巡らせていても、実際にその場に立ってみると、それは想定と予想を軽快に裏切ってくれる。私にはそんなイレギュラーを矯正することも出来なければ、順応することもできない……情けないかぎりである。

 それから、しばらく二人の間には会話が生まれることはなかった……私は話し掛けなかったが、その代わりに先輩の手を握る手を強めた。すると、先輩もそれに呼応するように強く握るのである。本来であればもっと愉快な話をしながら過ごすものなのだろう……でも、私にはそれだけで十分だった。


 先輩の手の温もりが感じられるだけで……

 

 周りの雑音が一層大きくなるにつれ、開門の時が近づいているのだと気が付いた。腕時計も携帯も、先輩と手を繋いでいたので、見ることも取り出すこともできなかったが、それくらいの事は窺い知ることくらいはできる。


「もう今年も終わるね」白い息を吐きながら空を見上げて言う先輩。


「そうですね。色々ありすぎて、わけのわからない1年でしたよ」


 本当に色々あった、色々あり過ぎて、年の締め括りにこうして先輩と一緒に居るのが不思議で仕方がない。どこをどうねじ曲げればこんな結末にたどり着けるのだろうと。

 澄んだ空には相変わらず、こぼれんばかりの星々がその身を燃やして輝いている。オリオン座を象る一角に青白く輝いているシリウスを見上げて私は「シリウスって知ってますか」と先輩に聞いた。


 先輩は「聞いた事あるけど……オリオン座の近くで一番光ってる星だっけ」と夜空を指さしながら自信なさげに言った。


「恭君、天体とか好きなの?」


「オリオン座とか有名なのしかわかりませんけど、シリウスだけは名前が格好良いから昔から好きなんですよ」


 星座早見表と言うのを小学校の時にもらった当時はよく天体観測に出掛けた。早見表だけを持って行っての天体観測だったが……クラスでの一番人気は北極星で、次いで北斗七星とカシオペアだった。けれど、捻くれていた私は、名前の格好よさからシリウスだけを見上げ続けてきたのである。


「格好良いって、恭君らしいね。私はやっぱり、北斗七星かなぁ、小学生の頃ね、あの柄杓の形がとっても不思議だったんだよね。こんなに星が一杯あるのに、ちゃんと柄杓の形に見えるのって不思議だと思わない?」


「そう言われれば……」 


 そう言われればそうだ。こうして何千何万とある星々の中にあって、柄杓の形をちゃんと認識出来るのは、とても不思議で面白い。明度の違いだと言ってしまえばそれまでだが、それを言い切ってしまわない所にこそ浪漫があるのではないだろうか。

 

 そんなことを考えていると「今、変なこと言ってるって思ったでしょ」と先輩が体を寄せて顔を見上げて来るので「いえ、それは浪漫ってやつなのかなって」とつい言ってしまった……


 もちろん「変な恭君っ」と先輩に言われてしまったことは言うまでもない。




 やがて、その時はやって来た。

 誰がはじめたとも知れないカウントダウンの合唱がいつしか始まり、それがゼロを迎えた時、場の盛り上がりは最高潮に達し、場を埋め尽くす新年の歓喜に染まった。

 実際、私と先輩も合唱に混じってカウントダウンをして「開けましておめでとうございます」と言い合った。


中門の開門がアナウンスされ、大きな門が開かれると、堰を切ったように人混みが列を乱して進み始める。不規則にうねる人の波に私と先輩は終始翻弄され、何度か手が離れそうになったが、その度に私が先輩を引き寄せてこれを凌いだ。そんなことも踏まえて、いつの間にか先輩は私の腕を抱きしめ体を寄せるようにして進むようになっていた。

 

「あのカメラ、行く年来る年かな?」


 先輩が指さす先には、中門の端に組んだ足場の上に大きなテレビカメラが据えられてあった。


「行く年来る年って、今年の干支にちなんだところが映されるんじゃなかったでしたっけ?」


「そうなの?じゃあ、奈良テレビかなぁ」と少しがっかりしたように言う先輩。全国放送と地域ローカルとでは仕方がない。


 思った通り、中門を過ぎた辺りから数名のガードマンが誘導を行っていたので、無軌道な混雑は解消され、スムーズにお参りを済ませることができた。後が支えているからと、願い事もそこそこに帰りの順路を進みかけて、先輩がやけに長く手を合わせていることに気が付いたので、私もそれに付き合って手を合わせなおしたりした。

 中門から離れた出口から出て、中門を見やると、嫌になるほどの人混みだった。自分達もあの中に居たかと思うと吐き気すら催すほどである。

 

「ねぇ、2人で写真撮ろう」


 帰りには林檎飴を先輩に買う事を決めていた私は、早々に林檎飴の出店を探していた。すると、先輩がそう言って私の袖を引っ張った。


「撮りますよ」


「2人でないと意味無いの」


 そう言うことか……無神経なことをした。と頭を掻いていると、先輩が通りすがった老夫婦を呼び止めて、写真をお願いしていた。

 旦那さんだろう、白髪の男性は難しい顔をしていたが、奥さんの方がのり気で、先輩が「初めてのデートなんです」と付け加えると、気前よく3枚も写真を撮ってくれた。

 ふと思った、あんなに難しい顔をしている男と私が女であったから絶対に一緒になるようなことはしない。けれど、もしかしたら、家では奥さんに甘えっぱなしなのかもしれない。甘えないにしてもそれに準ずるものがあるはずだ、でなければ結婚などしないし、こうして幾星霜と連れ添うわけもない。そんな風に考えてみると、難しい顔を無理矢理作っているように思えてきて、つい私は口元を緩めてしまった。

 

「何が可笑しいの?」老夫婦にお礼を言ってから、携帯を操作していた先輩は1人でにやにやしていた私の顔を見上げながら不思議そうな表情でそう言うので、


「いえ、林檎飴を買いにいきましょう」と私は言う事にした。


「いいね林檎飴。おっきいの買おうよ!」


 新年を迎え、厳かだった雰囲気が一変して明るく軽く、そして賑やかになった参詣道を私達は歩きはじめた。


「そうだ、恭君の携帯貸して」 


 林檎飴を買ってからすぐに先輩がそう言ってきたので、素直に携帯を渡した。「んー使い方が違うからなぁ」と何やら悪戦苦闘をしているようだったの「鯛焼き買ってきます」と先輩を残して鯛焼きを買いに行った。

「もう、置いていくのなし!吃驚したじゃない。急に居なくなるんだから」と口をとがらせて追い掛けて来た先輩に私は間髪入れず「はい、これ先輩のカスタード。ちゃんと行くときに言いましたよ。鯛焼き買って来ますって」と言うと「うそおぉ」と目を細める先輩だった。


「あっこれこれ、携帯返すね」


焼きたての鯛焼きを思い切り頭から囓って、口の中で頭を弄んでいる先輩を尻目に、私は何をしたのだろうかと携帯を見てみると待ち受け画面が先ほど撮った二人の写真に設定されたあった。


「もしかして、先輩の待ち受けもこの写真にしてるとか?」私は待ち受け画面を見せながら先輩に聞いた。


「初ペアルックってことで」としてやったりの先輩であった。


「年明け、春日大社にも行きませんか」


「いいけどどうして?」


「先輩の就職成就のお守りも買わないといけないし、まだおみくじ引いてないから」


「あぁ、就活がんばんないと。考えただけで鬱になる。おみくじで大凶とか引いたらどうしよう」


 露骨に落ち込む先輩…… 


「俺に出来ること限定ですけど応援しますから。おみくじは大吉が出るまで引けばいいだけです」


 神様なのであるからして、正月くらい、おみくじ運勢の上書きをこそっとしておいてくれるに違いない。


「うん。私がんばるよ。頑張って内定もらえたら、お祝いしてくれる?」


「もちろん、それは盛大にお祝いしましょう!」


「自信ないけど必死に頑張る。内定とってみせる!」


 林檎飴を持った手を突き上げ、そう宣言する先輩を傍らに、私は今年も1年慌ただしい1年になることを予感して胸を高鳴らせた。

 やはり、私はシリウスにはなれまい。誰かが傍に居てくれないと、すぐにダメになってしまう。誰かに光を当ててもらわなければ、一片も光ることができない。


 そうだ。私は月で良い。いいや。月が良い。


 つかず離れず美しい地球を見守ろうではないか。そして、地球を脅かす隕石が近づこうものなら、私が身を呈してこれを守りたいと思う。

 私と言う男は臆病な上に無駄な肉もついていなければ筋肉もまた同じ。けれど、一生に一度くらいは、愛おしい人の為にこそ、花と散りたいと思うわけだ。もちろん、むざむざと散るつもりはない。


 何度だってビックバンを起こして不死鳥の如く復活を遂げて見せようではないか!







 光陰矢の如しと1年は瞬く間に過ぎてしまいました。特に、真梨子先輩と知り合ってからは過ぎゆく毎日がとても早く感じられました。とても楽しくて愉快で、きっと日々が輝いていたのでしょうね。明日が待ち遠しくて仕方がありませんでしたもの。

 実家に帰省してからは独り暮らしの緊張感も緩み、家事の一切を母に甘えてしまっています。地元の友人と忘年会にも出かけたり、純然と遊びに行ったりもしました。けれど、それ以外は、寒さにかまけて炬燵の番をしているのが常でした。

 洗濯に買い物、掃除も料理もしなくて良いと言うのはなんて幸せなことなのでしょうか!

 特に何もせずに大晦日を迎え、友人と初詣に出掛ける約束の返信を書いていると、突然小春日さんから電話がかかって来たので出てみると、


「大変なの、私、古平君に先輩と夏目君が付き合いだしたって話したの。古平君も協力してくれたからいいよねって思って。そしたら、古平君、気に入らないってふて腐れちゃって、文芸部の部長さんにも教えちゃって……」


 電話口の息づかいからも、ものすごく慌てて居ることはわかりました。わかりましたけれど……


「教えただけなら、大変じゃないと思いますけど?」その通りだと思います。


「古平君が言うには、今頃、夏目君のアパートを襲撃してるだろうって……」


「えっ!」私は思わず、炬燵から出て大きな声を出してしまいました。


「真梨子先輩に連絡したら、今夜、夏目君と初詣に行くって」


「そんなっ、もう7時を回ってますよ」


「約束は22時らしいんだけど……私、帰省しちゃってるのよ……」


「私も今実家です……」


「あっ!音無先輩ならまだ奈良にいるかも!年末年始は実家が忙しいから年明けゆっくり帰るって言ってたし」


「でも、音無先輩に頼んでもどうにもならないんじゃ……」


 例え音無先輩にお願いをしたとしても、事態が好転するとは思えません。私は家族の目を気にして冷え込む廊下に出て小春日さんに呼びかけました。けれど、電話はすでに切れてしまっていたのです……

 私はどうしたら……と考えました。考えに考え、とにかく夏目君に襲撃計画の旨を伝えることを考え至りました。

 夏目君に電話をしようと思いましたが私は夏目君のメールアドレスしか知りません。確実に夏目君の電話番号を知っているのは……と玉響考えてから、台所へペンを取りに戻ってから、着信履歴から電話を掛けました。


「はい。どうかしたの?さっき小春ちゃんからも電話あったんだけど?」


 先輩は外に居るのでしょうか、車の走行音が聞こえています。


「すみませんが、夏目君の電話番号を至急教えて欲しいんです」


 事は急を告げています。ですから、不躾にも私の要件だけを押し通しました。


「うん。わかった、言うよ」少しの沈黙があってから先輩はさも当然と夏目君の電話番号を暗唱します。


 私はそれを、手の甲に書き、さすがですねと感心しながら「ありがとうございます。必ずこの訳はお話しますから」と言葉少なく先輩に伝えると、先輩の返事を待たずに電話を切りました。事は急を告げているのです。私は先輩には後から謝ることにして、早速電話を掛けようとしたその時、知らない電話番号から着信がありました。


「はい」この忙しい時に!と思いながら出てみると、


「えっと葉山さんの携帯で良いのかな? 私、音無なんだけど」なんと音無先輩からだったのでとても驚きました。


「小春日さんから、全部聞いた。実はもう実家に帰ってるんだけど、車出せるからどこに行けばいいかな?」


「本当に良いんですか……そんな、大晦日なのに……」


「いいの、いいの、家に居たって手伝いさせられるだけだし。それに、夏目君や葉山さん達には甘美祭でお世話になったしね。夏目君をお姫様の所へ届けたげるよ」


「ありがとうございます本当に。先輩はどの辺を待ち合わせ場所にしたら都合が良いですか?」


 私は免許をまだ持っていませんので、大学に入ってから一度も車で移動をしたことがありませんから、その辺りの感覚はまったくわかりません。


「うんとね、大宮駅のタクシー乗り場近くでどうかな?あそこで拾えれば奈良まで一本で行けるし」


「わかりました。場所は新大宮のタクシー乗り場で伝えます。時間的なものはどうですか」


「うーん。道路混んでなかったら9時くらいにはつけるけど……大晦日ってどうなんだろう」


「私にもわかりません……それなら、9時30分で夏目君に伝えておきます」


「あっうん。それなら確実に間に合うと思う!」


「すぐに夏目君に連絡します。すみませんが、よろしくお願いします」


「私が好きでするんだから、気にしないでね。私一度こういうのやって見たかったんだ、恋のキューピットみたいなの」


「じゃあねっ」


 音無先輩ははしゃいだ声を残して電話を切りました。一方の私は依然としてドギマギの真っ直中です。クリスマスも2人で過ごせなかったのに、初詣まで邪魔をされてしまったとあっては真梨子先輩と夏目君があまりにも浮かばれないではないですか!

 もうとっくの昔にキューピット役は終わったと思っていたと言うのに……私は、そんな事を考えながら夏目君に電話をしました。


「夏目君?葉山です」


 確かに『通話』状態になっているのに、返事がなかなかなく。私は間違えてしまったのでしょうか?と手の甲に書かれた番号と画面に表示されている番号を確認しました。


「え、どうしたんですか」番号は間違っていませんでした。


「小春日さんから連絡があって、古平君が文芸部の部長さんに先輩との初詣を話してしまったみたいなんです。手遅れかもしれませんが、部長さん達は今夜夏目君の所へ襲撃に行くみたいなんです」


「え、あ、なんで、古平が」


 夏目君は要領を得ないばかりか、酷く困惑している様子でした。無理もありません。自分の知らない所で話しが筒抜けて、思わぬ邪魔者に今夜を台無しにされようとしているのですから。


「音無さんが車で行基前まで送ってくれるそうなので、9時30分くらいに新大宮駅のタクシー乗り場に向かってください。夏目君。先輩を、真梨子先輩をよろしくお願いします」


 捲し立てるように私は言いました。とても早口になってしまっていたと思います。

けれど、最初は大切なのです。最初のクリスマスを逃してしまった先輩の為にも、夏目君には何が何でも部長さん達の魔の手を掻い潜って音無さんの車に、真梨子先輩の元へたどり着いてほしい……出来ることなら、奇跡が起こって……願わくば、約束の時間までに辿り着いて欲しい……私は祈るように言いました。


「わかった。ありがとう」


 私の願う気持ちがそう聞こえさせたのでしょうか、夏目君はとても精悍とした返事を返してくれました。全てを言わなくても『任せておけ』と語気にそう聞こえて来てしまうくらいに……


 



 紅白に去年一昨年と出場していなかった、演歌の大御所が今年は出場しているらしく、祖母と祖父はその話題でとても盛り上がっていましたけれど、私は夏目君が約束の場所に到着できたのかどうかが気になってしまってそれどころではありません……それ以前に私はその大御所を知りません。


「夏美もすっかり携帯っ子になったね。そんなに見なくても、鳴るんでしょう?」


 私が携帯をしきりに気にしているのを見ていた母が、お節料理の下準備を終え、炬燵に入りながら言いました。


「別に携帯っ子ってほどじゃないもん」母が言うのは正しいです。連絡があれば着信音が鳴ります。だから、いちいち画面を確認しなくてもいいのです……でも、気になるものは気になるのです!


 母に携帯っ子と言われて、へそを曲げた私は携帯を炬燵の上に置くと、携帯を気にしながら紅白を見ていました。

 液晶画面の中では男性ばかり6人のグループが歌っていました。


「夏美、これなんて言うアイドルグループか知ってる?」


「知らない。これアイドルなんだ」私はそう言う話題にまったく興味がありません。小春日さんにつっこまれて、ジャニーズがジャニーズと言うグループでないことを知った私ですから……


「6doorって言うのよ、知らないの?」信じられと言った風に母は言います。


「興味ないもん」興味がないのだから仕方がありません。


「6人とも名前に『戸』って入ってるんだって、それくらい知っときなさいよね」そんなどうでもいい情報を鼻高々と言われて反論出来ないのも、なぜか悔しい気持ちになります……当然、


「ワイドショーばっかり見てるから太るんじゃないのー」と嫌味の一つも言いたくなります。

 炬燵の上にあった、三笠を取ろうとした手を止めて「何その言い方」と言った母は、伸ばした手をばつが悪いように引っ込めて炬燵の中に入れると「連絡待ってるの、男の子?」とあからさまに興味本位で聞いてきます。


「お節の準備はいいの?」その手の話題に捕まると、母はいつだって言うのです、


「私が夏美くらいの年にはもうボーイフレンドがいたけどねぇ」と……


「はいはい」アイドルグループの名前と同じくらいにどうでもいい情報です。


「大体、夏美は……」 


 母が続きを言おうとした時、携帯が鳴りました。私は母の話しを無視して、携帯をひったくると急いで廊下へ出たのです。


「ありゃ、奈良ん残してきた恋人やろ」お婆ちゃんがお母さんに言う声が聞こえました。ですが、それを否定しているだけの余裕がありません。


「葉山です。小春日さん、どうなったの……」


 電話の相手はもちろん小春日さんです。音無さんから連絡あるかもと思っていたのですが、やはり小春日さんからでした。


「音無先輩に連絡したんだけど、夏目君間に合ったっぽいって」


「ぽいっ……?奈良駅まで送ってもらったんじゃないの?」


「それがね。道が大渋滞してて、間に合いそうにないからって、コンビニがある交差点あるじゃない?あそこで夏目君降りたんだって」


「あの交差点なら、奈良駅まで走れば5分もかからないよね……」


「うん。だから、大丈夫だと思うんだけど……もしも、逢えてなかったらどうしよう。私のせいだよ……先輩になんて言って謝ろう……」


「大丈夫。夏目君は真梨子先輩の為なら光の速さで歩ける人だから」我ながら意味不明なフォローだと思います……

 ですが、私には底知れない自信がありました、電話口で聞いた夏目君の最後の言葉。根拠はありませんが、なぜか私には自信があったのです。


「確かに、夏目君は真梨子先輩の為なら何でも出来そうだけど、さすがに光の速さは……」


「えっと、とにかく、もう私達に出来ることは全部やったと思うから」


「うん、そうだよね。でももし……」


「もし、逢えなかったのなら、私も一緒に謝る。同じキューピットじゃない」


「ありがと。あぁ、逢えてる思うんだけどなぁ」


 最後まで小春日さんは不安を拭いきれない様子でした。その気持ちは痛いほどわかります。自分の行いのせいで誰かの幸せを台無しにしてしまったとしたならば……考えるだけで胃がキリキリと痛みます……人事尽くして天命を待つ。意味合いとしては少々違いますが、遠地に住まう私にはもうどうすることもできないのです。

 私は少し薄情なのかもしれないと後ろ髪を引かれつつも、初詣の準備しに自室へ戻り、上着とポーチを持って再び居間に戻って来ると、ポーチから試験勉強の時に見つけた読みかけの小説を取り出して炬燵に入って読み始めたのでした。

 今年は紅組が勝利したようです。読み終えた小説を炬燵の上に置いた私は、コートに袖を通し、マフラーを巻いて出掛ける準備をしました。『行く年来る年』を少し見てから初詣に出発しようと思っていたからです。

 炬燵の上に置いた小説……物語の結末から言うと破局的な展開で幕が降りました。私としては、大団円が好みでしたので、どうもお腹のところがスッキリしません。大団円でも終わる物語は読み終えた後に残る快哉の心地がほこほことして好きなのです。だから、破局的であったり、中途半端な終わり方は好みではありません……

 そう言えば、私の恋のキューピット物語も、中途半端に年を跨いでしまいそうです。

 新年まで後3分。こんな気持ちで新年を迎えるのは嫌だなぁ。と私は極力楽しいことを考えるように努力をして、初詣の帰りに、おっきな林檎飴を買って帰ろうと心に決めたのでした。

 

「あ、東大寺……」


 『行く年来る年』に今年は東大寺が映し出されていました。丁度、中門が開門されようとしている所で、アングルから言えば中門の斜め上くらいから撮影しているのでしょうか?中門を通って参詣する様子が写るようになっているようです。


「あら、東大寺じゃない。あそこって干支関係あるの?」


「知らない。鹿年なんてないし……」行く年来る年は毎年、次の年の干支にちなんだ寺社仏閣から放送します。けれど、今年はなぜか東大寺からなのでした……


 新年まであと1分。


『今年は耐震補強などを含めた大規模修繕作業が終わり、美しく生まれ変わった東大寺大仏殿から新年をお届け致します……』


「へぇ」奈良市内に住んで居ましたけれど、大規模改修をしていたのは知りませんでした。

「へぇって、あんた奈良に住んでるんでしょ」


「奈良に住んでたって、いつでも行けるから奈良公園とか東大寺とかあんまり行かないもん」その通りです。行こうと思えばいつでも行けてしまうので、つい足が遠きがちになってしまいます……


 テレビではNHKのアナウンサーが東大寺の歴史を説明していました。けれど、参詣を待つ人達が一斉にカウントダウンをはじめると、忽ち画面が中門に切り替わりました。

 

 やがてカウントがゼロを刻み『新年明けましておめでとうございます』アナウンサーがそう言う声に混じって、今夜一番の盛り上がりの声がカメラのマイクを通して盛大に聞こえていました。

 

「それじゃ、初詣行って来るね」


 台所でお節料理を作っている母にそう行って私は部屋を出ようとしました。そして、携帯を炬燵の上に忘れていることに気が付いて取りに言った時に、私は見つけてしまったのです……参詣客の中に……中門を進む牛歩の人波の中に!


「あ……あぁっ!」私はあからさまに大きな声を出しました。そうです、出さずにはいられなかったのです。


「夏美どうしたんね、そげな大きな声出して」

 

 立ち上がろうとしていた祖母が驚いて固まったまま私に言います。


「気にせんで!」私は、そう答えると、急いで廊下に飛び出しました。 


 逸る気持ちを抑えて携帯を操作します。こんな時に限って変な場所を触ってしまったりして、使ったこともないアプリが起動してみたりするのです。それでも、私の心は弾んでいました。大晦日を曇天気分で過ごし、そのまま新年を迎えました。けれど、けれど!明けて新年5分と立たずに、こんなに嬉々として友人に電話をかけられるのですから!今年の一年は良いことがあるに違いありません。たとえ、この後、おみくじで大凶を引いたとしても、忽ち大吉に変えてしまう自信さえもありましたもの。


「あっ、小春日さん。行く年来る年見た?」電話を掛けると、ワンコールで小春日さんが出ました。


「今電話かけようと思ってたとこ。見たよ見たよぉ~。ばっちり2人写ってた。間に合ったんだぁ。良かったぁ」今にも腰が抜けてしまいそうに小春日さんの声はふやけてしまっていました。あれだけ心配していましたから、喜びも一入でしょう。


「先輩ってば、腕にすがりついちゃって、もう。見てられなかったよ」


「それくらい良いじゃない。クリスマスの分もあるんだし」


 行く年来る年の中継に果たして、夏目君と真梨子先輩が映し出された時は、本当に驚き過ぎて瞬間だけ呼吸を忘れてしまいました。仲睦まじく、夏目君の腕にしがみつく真梨子先輩は私の知る、真梨子先輩ではありませんでした。寂しがり屋でやっと好きな男の子とデートをすることが叶った女の子。もしかしたら、それこそが本当の真梨子先輩の姿なのかもしれませんね。


「キューピット成功だね」


「うん。キューピットって本当大変……もう懲り懲り」

 

 本当にキューピットが終わった……小春日さんと頷きあってはじめてそう実感することができました。


「ねぇ、私、緊張し過ぎてお蕎麦吐きそうになったもん。あーでも私はまだキューピットしなきゃだから」


「えっ?誰の?」


 私は、玄関でブーツに足をねじ込みながらそう聞きました。他に誰が居たでしょう?知り合いの顔を思い浮かべていました。思い当たるとしたら……音無先輩でしょうか?


小春日さんは少しの間、笑いをこらえるように、声を押し殺してから言いました……


「葉山 夏美ちゃんのっ」っと。


「えぇっ!」

 私はわかりやすく狼狽してしまいます。何せ、思わずスマホを落としてしまいそうになったのですから! 

 上ずった私の声を聞いて小春日さんは今度こそ声を出して笑いました。

「もうっ!」

 電話口で頬を膨らませる私でしたけれど、テレビで見た先輩と夏目君の姿を思い出すと、心の奥底から「よかったぁ」と思えたのでした。



 果たして、私の物語は……いいえ、夏目君と真梨子先輩の物語は大団円にて、ひとまず終幕を終えることができました。

 2人の物語はこれから先もまだまだ続きます。けれど、それは私が読むことを許された物語ではないと思うのです。


 それはまた、他の誰かが綴る別の物語なのですから。



             おしまい

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桜ん坊と百合の花 畑々 端子 @hasiko

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