#3 顔を記す人

それは突然の出来事だった。

僕が誰も居ない繁華街を歩いている時、「すみません」と背後から女性に声をかけられたのだ。僕はゆっくりと振り向いて、女性の顔を見る。


女性は20代前半ぐらいで、僕とそれ程変わらない年齢の人のように思う。

黒く長い髪の毛で地味だが整った顔立ちをしており、女性は小さなベレー帽をちょこんと頭の上に乗せていた。


「どうしました?」


そう僕が女性に言うと、女性は「顔を描かせてください」と頭を下げて来た。

ベレー帽が落ちないか心配になるほどの頭の下げっぷりだ。


「顔……ですか?顔って、この顔?」


僕は自分の顔を指さして女性に尋ねる。顔と言えば、この顔しかないだろう。何の特徴も無い僕の顔だ。こんな顔を描きたいというのか?


「そうです。その顔です」


「はぁ」と息を吐いた僕は「まぁ、別に良いですけど……」と言葉にする。


すると、女性は「よっしゃ!」と顔に似合わないセリフを口にした。手はガッツポーズをしている。僕はその姿を見てキョトンとした。それに気付いた女性は顔を赤らめて、「あ……ご、ごめんなさい」と苦笑いを浮かべる。


別に謝る必要は無いだろうにと思いながら、「どこで描くんですか?」と女性に尋ねた。


すると女性は、「家で描きます」と当たり前の返事をする。「スケッチブックに、鉛筆で」


じゃあ僕は女性の家に行けばいいのかな?

そんな事を考えていると、女性は「では、描かせてもらいますね。さようなら」と僕に別れを告げた。


「え?僕の顔を描くんじゃないの?」


僕が当り前の疑問を口にすると、「あぁ」と女性は声を出す。


「もう、貴方の顔は覚えたので、一人で描けるんです。私、一度見た物や光景はずっと覚えていられるんです」


瞬間記憶能力とかいうものだろうか?


まぁそれは良いとして、僕はそんな彼女に少し興味を抱いた。

だからだろうか?


「名前は何て言うんですか?」


と僕は女性に訊いていた。


「え?」と突然の質問に驚いた女性は、「名前ですか?」と聞き返す。


「はい、名前です」


「名前って、あの名前?」


他にどんな名前があるというのか。


「はい、あの名前です。一人一人持っている固有の」


「うーん……」と小一時間悩んだ女性が口にした言葉は「名前なんて、有っても無意味だから忘れちゃいました」だった。


それは本気で言っているのか、単にはぐらかそうとしているだけなのか……

どっちかわからないけれど、その表情を見る限りでは本気だ。


「景色は一瞬で覚えれるのに、名前は忘れたんだ」


僕が何となくそう言うと、女性はムっとした表情をして「煩いなぁ」と僕を睨みつける。「覚えてばかりもいられないの!忘れる事も大事なの!忘れる時は綺麗さっぱり忘れるの!」


「わ……わかったよ」


僕は女性を落ち着かせるために、一先ず納得しておく。


「そんなに名前が大事なら、貴方が勝手に私に名前をつけてくれてもいいよ」


そんな無茶なと思いつつも、僕は女性の名前を考えた。

何がいいだろう?黒い髪。ロングヘアー。ベレー帽。絵描き。スケッチブック。鉛筆描き。


鉛筆……白黒……モノクロ……モノ……


「モノちゃん」


これで決定!と思って口にしたわけじゃないが、女性はクスクスと笑い、「じゃあ、モノちゃんで」と言った。


まぁモノちゃんでいいかと思い「よろしくね、モノちゃん。それで、僕の名前は……」と言いかけた所で、モノちゃんは手の平を僕の方に向けて言った。


「言わなくてもいいです。名前なんて、無意味ですから。貴方は貴方でいいじゃないですか」


何だか腑に落ちない部分はあるものの、「モノちゃんがそう言うなら……」と納得しておく。何となく逆らったら怒られそうだし。


まぁ名前の件はさておき、僕はモノちゃんに興味が湧いていた事を思い出した。


「そうそうモノちゃん。僕も、モノちゃんの家に行ってもいい?絵を描くところを見たいんだ」


何となく断られるかと思ったが、「いいですよ」と、モノちゃんはあっさりと言った。


*****


「散らかってますけど……」


繁華街の外れにモノちゃんの住むアパートは有り、今僕はその散らかっている部屋に上がっている。


確かに散らかっている。床一面に切り離したスケッチブックの紙が置かれているのだ。そして、その紙には人の似顔絵が描かれていた。


どれもリアルな顔で、様々な人間が対象となっている。


「凄いね」


僕は思った事を口にした。


「全部モノちゃんが描いたの?」


「うん」と言ったモノちゃんは、床に散らばるスケッチに目をやり語り出す。


「もうずいぶんと昔から描いてる。今まで出会って来た人の顔。実在する人物」


僕は適当にスケッチを手に取って、「この人はどんな人だったの?」と訊ねた。


僕が取ったのは、40代ぐらいの男性の顔だ。丸顔で髭を生やしているのが印象的だ。


「どんな人?」とモノちゃんは首をかしげて、「どんな人だったんだろう……」と呟いた。


「覚えてないんだ」


「はい。ただ、顔を覚えたから描いてみただけです」


当然名前なんかもわからないのだろう。


「どうして、顔を描き始めたの?」


その質問に、モノちゃんは「わかりません」と即答した。


「幼い頃からずっと顔を描いてきました。それはきっと、顔を描くのが楽しかったからだと思います。どうして楽しかったのかわかりません。でも、それが惰性で今も続いている。それだけだと思います。だって、退屈じゃないですか。この世界……」


誰だってそうだけれど、皆何かに依存して生きている。何かをしていないと、生きているという実感が湧かないのだろう。それは僕も同じだ。


「それよりも……」とモノちゃんはスケッチブックを開いて鉛筆を握った。そして、僕の顔を見る事無く僕の顔を描きだす。


スラスラスラスラ


シャッシャッシャッシャ


鉛筆と紙の擦れる音が心地よい。僕は一心不乱に絵を描くモノちゃんを静かに眺めていた。真剣な表情で僕の顔を描いて行く。


モノちゃんは、鉛筆を走らせながら僕に会話を持ちかけて来た。もしかしたら、静かに眺めている僕に気を使ってくれたのかもしれない。


「パパとママの顔、覚えてますか?」


僕は家で首を吊っている両親の顔を思い浮かべた。


「覚えてるよ。家に帰れば居るし」


「良いなぁ」と言ったモノちゃんは、寂しげな表情をして「私は覚えてないんですよ」と口にした。


「そうなんだ。でも、どうして?」


「どうしてって……」とモノちゃんは言葉に詰まり、「あっ!間違えた!」と声にする。「貴方のせいだ」


会話を持ちかけて来たのはモノちゃんじゃないかと思いつつも口には出さない。


「ごめんなさい」


「まぁいいですけど」


モノちゃんは消しゴムを取り出してミスした個所を修正する。

そして、どうしての続きを語った。


「パパとママがこの世界から出て行った時に、忘れちゃったんです。二人は今……土の中で仲良く眠っているはずです」


「そっか……退屈だったんだね」


「仕方ないですよ。別にどうも思いません。珍しい事じゃ無いですし」


「でも、どうして忘れたの?」


「辛いだけですから……楽しかった記憶なんて」


辛いか……。確かに辛い。楽しかった時を思い出す度に、もう一度あの頃に戻れたらなと思ってしまう。永遠という時間を使っても戻れるわけがないのに思ってしまう。


僕にも、両親との楽しかった記憶がある。勿論嫌な記憶もあるけれど、あの頃を思い出すと辛くなる。戻りたい。でも、戻れない。だからと言って、忘れても良いものなのだろうか?


「後悔はしてませんよ」


モノちゃんはそう言い、鉛筆の動きを止めて完成前の絵をチェックする。


「うーん……バランスがおかしい……」


後悔はしていないか……本人がそう言うのだから、それで良しとしよう。僕がとやかく言う筋合いは無い。


それからもモノちゃんは僕の顔を描き続けて、被写体のはずの僕は床に散らばるスケッチを色々と見てまわった。


その時だ。今の絵と比べて拙い絵の集まる場所を見つけた。拙いと言ってもほんの僅かだけれど、子供の頃に描かれたものだというのがよくわかる。


僕はその絵を数枚手に取り、気になるスケッチを見つけた。


通常は一枚のスケッチに一人の顔だが、そこにあったのは一枚のスケッチに二人の顔だ。一人は男性で、もう一人は女性。どちらも笑っている。


拙いけれどリアルな絵で、二人の動く姿、表情が想像出来た。

そして、その二人はどことなくモノちゃんに似ている。


もしかしたら……と僕は思った。この二人はモノちゃんのパパとママではないだろうか?いや、きっとそうに違いない。


「モノちゃん」


僕はスケッチ中のモノちゃんを呼んで、こちらに顔を向けさせた。そして、手に持っているスケッチをモノちゃんに見せる。


「モノちゃん、これ……」


モノちゃんはそれを見て、「あっ」と言葉を発した。「もう……大事なところ、またミスしちゃった」


「いや……え?この顔に見覚えない?」


「え?」


再びモノちゃんの顔をこちらに向けさせる。

しかしモノちゃんは、「誰ですかその二人?」と感情を込めずに言った。


思い出してくれるかと思ったが、僕の見当違いだったのだろうか?

まぁいいやと僕はそのスケッチを床に置いた。そして、モノちゃんを再び見る。すると、モノちゃんは涙を流しながら僕の顔を描いているではないか。


「どうしたの?」


僕が心配して声をかけると、モノちゃんは、「いえ、幸せそうな顔の二人だなって」と言った。


「そうだね……」僕は微笑みながらモノちゃんに言う。


「きっと、この絵を描いてた時は、幸せだったんだよ」


*****


完成した絵の出来栄えはかなり良く、僕はモノちゃんの才能に感心するしかなかった。


何はともあれモノちゃんの絵を描く姿を見る事も出来たので、僕はこのアパートを去ろうと、「じゃあね」とモノちゃんに手を振る。


すると、モノちゃんは手を振り返す事なく僕に言う。


「昔は色んな人が居ましたよね。数え切れないほどの人間が居ました。それぞれ違う形の顔で……その顔を背負って一生を終えるんだなって幼い頃に思ったのがキッカケだったように思います」


顔を描くようになったキッカケだろうか?それがいつしか描くのが楽しくなっていって、今も続いていると?


「ほら、名前は同じものがあるじゃないですか。でも、顔だけは似たようなものがあっても同じものはない。それは双子にしたって同じ事だと思います」


確かに、寸分の違いの無い顔など存在しない。


「貴方はその顔で、この退屈な人生をどう歩んでいくのですか?」


その質問に考えを巡らせたが、僕はハッキリと答える事が出来なかった。


「では、またどこかで会えるといいですね」


モノちゃんは僕の答えを待たずに手を振る。そして僕は玄関の扉を開けて外に出た。


日は落ちて、すっかり辺りは暗くなっている。


僕は次の観測対象を捜して再び足を進めた。

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