#1 紐を解く人
僕の住んでいる場所は田舎で、家の周りには田園風景が広がっている。
そのだだっ広い田んぼの中心に、作業着を着て座り込む男性が居た。
藤井さんだ。年齢は確か、20代後半だったように思う。
詳しくはわからないけれど、妻と子供が居たはずだ。
今はどうなっているのかわからない。
僕は田んぼの堅い土の上を歩き、藤井さんに近付く。
田植えのされていない田んぼは、以前なら子供達の格好の遊び場だった。しかし、今は遊ぶ子供を見る事もなくなった。
「何をしてるんですか?」
僕が藤井さんにそう尋ねると、藤井さんは「絡まってね」と返して来た。それだけでは何の事かさっぱりわからない。
だから、僕は藤井さんの手元に目をやった。すると、藤井さんは毛糸玉ほどまでに絡まった紐を弄っていた。その毛糸玉は、野球ボールぐらいの大きさだ。
「あぁ、紐が」
と僕が言うと、「子供が悪戯好きでね」と藤井さんは感情を込めずに呟く。子供が紐を絡ませて野球ボールほどまでに大きくしたのだろうか?
「ずっと、紐を解いているんですか?」
僕の質問に藤井さんは、「あぁ」と言葉にする。「特に、やる事もないし。退屈なんだよ」
「ふーん」
僕は特に返す言葉もなく、ただそれだけ声に出した。そして、藤井さんの横に座り、その姿を眺める。
*****
それから何時間経っただろうか?
藤井さんは、もくもくと紐を解いていた。
紐の先っぽをあっちに潜らせたり、こっちに潜らせたり。時には引っ張り、紐がシュルシュルと出て来たと思うと、内部で引っ掛かり結局はあっちに潜らせたり、こっちに潜らせたりの繰り返し。
気の遠くなるような作業だけれど、毛糸玉は確実に小さくなっていっている。
僕が藤井さんの作業をただ観察していると、「退屈でしょ」と藤井さんが話しかけて来た。
「そうですね。毎日、変わらない日々で退屈です」
「いや、そうじゃなくて」
「―――というと?」
「俺のこれ見てるの。退屈でしょ?」
そっちか、と思った僕は「そんなことないですよ」と本心を口にする。藤井さんの紐を解く慣れた手つきは何だか安心感があり、見ていてそれほど退屈ではなかった。
「最初は……バスケットボールぐらいの大きさだったんだ」
「えぇ?!」驚いた僕は言葉を続ける「それをこの大きさまで?」
「うん。かなり時間がかかったよ」
「でも、お子さんはどうしてそこまで紐を……」
藤井さんは空を見上げて雲の流れを見ながら、「あいつも、退屈だったんだよ」と口を動かした。
それから藤井さんは紐を地面に置いて立ち上がり、伸びをした。
「ふぅ、少し休憩するかな」
そう言葉にしてから藤井さんは僕の方を見る。
「家に入る?何か御馳走するよ」
御馳走か。
「食べても消化できないでしょ?満腹になったら吐いちゃいます」
死体は死体のまま。それは人間以外の動植物も同じだった。だから、胃に入れたとしても、消化する事が出来ない。
そもそも、肉を焼く事も出来ないのだ。火は点くけれど、焼けないのである。植物に関しても同じだ。
だから僕達は食べる事もやめた。食べる必要がないのだ。
空腹感は無いが、幸福な満腹感も得る事はできない。
藤井さんは、僕の返事を聞いて、「ふふ、まぁね。ただのお決まりのセリフだよ。気にしないで」と笑った。
そして、家に向かって歩く。僕はそのあとについていった。
藤井さんは玄関の扉を開けて中へ入り、僕もそれに続く。
「お邪魔します」
決まり文句を口にして靴を脱ぎ家に上がると、藤井さんはダイニングテーブルの椅子に座り、空いている椅子の背もたれをポンポンと叩き、僕をそこに導く。
僕はペコリと頭を下げて椅子に座った。
「悪いね。何も出す物がなくて。出せるとしたら……水ぐらいかな」
水は物だから飲む事が出来る。しかし、全て無意味に排泄されてしまう。
「いえ、お構いなく」
僕は両掌を藤井さんに向けて遠慮する。実際問題、水を飲んだところで何も満たされない。それよりも、聞きたい事がある。
「あの……奥さんと子供は?」
「ん?」と声に出した藤井さんは、しばらく間を置き「あぁ」と口を開いた。
「二人とも、出て行ったよ」
「え?家をですか?」
「家?家……」
藤井さんは言葉を繰り返し、「うん」と頭を数回、軽く縦に揺らす。
「そう、家だね。家だ。家を出て行った」
「どうして、出て行ったんですか?」
「どうして?そりゃあ……ここに居ても退屈だからだよ」
「藤井さんは、一緒に出て行こうと思わなかったんですか?」
その質問を聞いて、藤井さんは暫く黙りこむ。
「子供がね。出て行く前にあれを俺に渡して来たんだ」
「あれ?」
藤井さんは紐を解くジェスチャーをする。
「あぁ、あの紐の塊ですか」
「うん。あの紐の塊。あの塊の中心には、何があるのかな」
塊の中心?
「君は、何があると思う?」
僕は左下に視線を移して考えた。しかし、何も思いつかない。いや、それよりも……
「子供は……何かを紐の塊で覆っていたんですか?」
「そうだと思う。あの塊をくれた時はちょうど……俺の誕生日だったから。プレゼントがそこにあるんじゃないかなって」
それは事実を口にするというより、願望を口にしているようだった。
「あいつは悪戯好きだから。素直にプレゼントを渡してくれれば良かったのに」
「でも、そのおかげで退屈せずに済んでるんですね」
「そうだね。少なくとも……何があるのか楽しみではある」
でも逆に、その楽しみが終わったら、藤井さんはどうなるのだろうか?退屈しのぎが無くなったら?
それからは他愛もない会話をして、僕は藤井さんの家を出た。
次の日も、その次の日も、藤井さんは田んぼの中心で紐を解き続けていた。僕は近くに座り、その姿を眺め続ける。特に会話をする事も無く坦々と時間は過ぎて行き、一ヶ月が経過した。
その日も僕は藤井さんの姿を見ようと田んぼの近くまで来たが、藤井さんの姿は無く、その代わりにいつも藤井さんがいる位置には長い紐が絡まないように纏められていた。
どうやら藤井さんは、紐を解き終えたようだ。
プレゼントか……紐の中心には何があったのだろうか?
藤井さんに聞いてみようと思い、僕は家へ向かった。そして、玄関を開けて「すいません!」と声をかける。「藤井さん?!」
だが、返事はない。
家に上がって探そうかと思ったが、やめた。
もしかしたら、藤井さんも家を出て行ったのかもしれない。だとしたら、探すだけ無駄だ。
藤井さんはきっと、奥さんと子供の跡を追ったのだろう。この世界は退屈だから、その選択しか残されていなかったのかもしれない。
だけどそれも悪くない。その選択を誰も否定する事は出来ない。
僕は「お邪魔しました」とだけ言って、玄関の扉を閉めた。
そして、次の観測対象を捜して歩きだす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます