第二話・マンションの隣人。
犬居誠人はその日も双眼鏡を覗いていた。
双眼鏡に映るのは一人の女性。向かいのマンションで一人暮らしを続けていて、人を招くことはほとんどないようだ。
女性がゴミ捨て場に袋を持って移動する。犬居はそれを見ていた。
そして、その足で仕事へ出かけていくのを見届けると、犬居は向かいのマンションへ移動する。敷地内に堂々と入り、ゴミ捨て場となっている物置の鍵を取り出した。
ゴミには住人の苗字が書いてある。ゴミ袋にもかかわらず丁寧な字で、油性ペンを使って書かれた女性の字を見つけ、犬居はそれを拾い上げた。そして、そのゴミ袋を抱えてそのままマンションへ入っていく。
オートロックのマンションのドアに、ゴミ捨て場の鍵とリングで繋がれている別の鍵をかざす……と、ドアはこともなげに開いた。
「あれ、犬居さんゴミ持って帰るんですか」
管理人が訝しげに聞くが、犬居はへらりと笑って答えた。
「ぶ、分別がね、間違ってて。もう一回出し直しますよ」
犬居は抱えたゴミ袋の名前の部分を自分の身体に押し付け見えないようにしている。
「そうですか」
管理人はゴミ袋を抱きしめるようにして持っているこの変な奴に関わるまいと思ったのか、小さく頭を下げてそれきり何も言わなかった。
自分の部屋に入り、犬居は一息ついた。そう、犬居はこのマンションの住人なのだ。
本来ここに住んでいた犬居の元に、隣に越してきた女性が挨拶に来た。それが恋のはじまりだった。だが、犬居は自分に自信が持てず、会話もろくにできなかった。そもそもマンションの隣人など、ほとんど話す機会もない。
やがて、犬居は向かいのマンションの同じ階が空き家になっていることを知り、そこを借りた。双眼鏡で毎日隣人の女性を眺め、ときには同じマンションの住人としての立場を利用してゴミを回収していた。
「いいなあ、綺麗だなあ」
今では彼女のあらゆる情報を調べ上げているので、だいたいのことは知っている。勤務地、出身大学、交友関係、……恋人の有る無し。
現在は恋人のいない様子の彼女だが、いつ悪い虫がつくかわからない。こんなに真面目で几帳面、そしてなにより綺麗な女性だ。調べた情報によると、男性からの人気もそれなりにあるらしい。
そういったことを考えると、たまらなく胸が苦しくなる。自分は見守るしかできない、そう割り切りたいのに、彼女を一番知っているのは自分だという思いが邪魔をしていた。
彼女は僕のことなんか何とも思っていない、顔と名前が一致する程度に覚えてくれているかすら怪しいんだ。
油性ペンで書かれた彼女の苗字。それを指でなぞり、小さく息をつく。
袋を開けるとゴミを取り出し、手際よく分類を始めた。それらのゴミは、それぞれの分類にしたがって別の箱に分けられていく。
生ゴミ類以外はお菓子の袋からメモ用紙に至るまで、すべてが保管されているのだ。
「あ」
不透明な袋を見つけた犬居が、楽しげな表情をさらに明るくする。開けてみると案の定、着古した下着が入っていた。
躊躇いなくそれを手に取り、頬ずりする犬居。はあ、と息を吐き、恍惚の表情だ。そしてゆっくりと、下着を鍵のかかる、特別なコレクションを入れるための箱に入れた。
この部屋は既に、犬居が意中の女性のゴミを集めて鑑賞する部屋と化しているのだった。
ある夜のこと、女性の部屋に男が入っていくのを見た犬居は双眼鏡を取り落としそうになった。
慌てて女性のいるマンション、自分が女性の隣の部屋でゴミを集めているそのマンションに駆け込み、壁に耳を当てて声を聞き取ろうとする。すると、微かに談笑のような声が聞こえてきた。
胸がひどく痛み、犬居は壁の前にうずくまって爪を噛む。その目にはうっすら涙が浮かんでいた。
数分のち、犬居は隣の部屋の前に立っていた。インターフォンを押すと、若干不機嫌そうな女性の声。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「あの、あの、お願いします、開けてください、たっ、大変なんです」
ただごとではない様子の犬居に、女性が「わかりました」とドアを開ける。
ドアの前には、出刃包丁を持った犬居が微笑みながら立っていた。
「こ、こんばんは」
女性は悲鳴を上げ、それを聞いた男性が奥から出てきて目を丸くした。
「どうしたんですか、怪我をしてるんですか」
男が犬居に声をかける。犬居の白いシャツは胸のあたりが裂けて真っ赤に染まっていた。誰かを刺したか刺されたか、もしくはその両方に見える。
だが犬居は男性の言葉など聞こえていないような様子だ。特にこうなったいきさつを語るでもなく、意中の女性にこう語りかける。
「ヒ、ヒヒッ……僕ね、僕、あなたが好きです。あなたのことなら何だって知ってるんだ」
奥へ逃げようとするも、足がすくんで動けない様子の女性。犬居は一歩踏み出し、女性に顔を近づけた。
「ああ、あっ、あなたの顔、こんな間近で見たの初めてです、嬉しいな」
「おい、何だお前、変なことするなら警察を」
流石に様子がおかしいと気づいた男が、女性をかばうように立ち塞がる。
「ヒヒヒ、僕は何も、何もしません。しませんって。ただね、ただ」
あんまりにも胸が、痛いんです。
犬居は包丁を振り上げ、自分の胸に刺した。
本能的に、人は自分を深く傷つけることができない。きっと刃は心臓までは到達していないだろう。
それでも、何度も何度も、犬居は自分の胸を突き刺した。
「やめてください!」
女性の声が響く。今にも泣き出しそうなその顔を見た犬居は笑みを少し深くしたが、それでも自分を傷つけることをやめなかった。
ああ、僕を心配しているのですか、やさしい人だ。
ごめんなさい、あなたには幸せになってほしいのに、こうして押しかけてしまったのはわがままです。
男が携帯電話を取り出し、警察に通報している声が聞こえる。
「やめて、おねがい、やめて」
女性はというと、口元に手をやり、ふるふると首を横に振っていた。犬居はぐりぐりと胸の傷口を抉りながら、そんな女性の顔を見ている。
そんな顔しないでください、せっかくの美人が台無しですよ。
歪んだ笑みは醜悪とも言えるものだったが、本人はやさしく微笑んでいるつもりだろうか。
やがて立っていられなくなったのか、犬居はふらついた末に、血だまりの中に崩れ落ちた。その際、刺さっていた包丁をぐっと握り、位置を固定する。うつ伏せに倒れた犬居の心臓のあるあたりに、地面に押された刃が突き刺さった。
女性の悲鳴。男が女性に見せまいと身体を壁にする。
犬居は仰向けになるよう身体を転がすと、刺さった包丁をもう一度握り直し、勢いよく引き抜いた。
警察と救急車が到着したときには、犬居は既に息絶えていた。
泣きじゃくる女性の頭を撫でて抱きしめていた男は、最後に犬居の顔を見て顔をしかめ、こう言った。
「なんで笑顔なんだ……気持ち悪い」
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