痴情のもつれで。

涙墨りぜ

第一話・買い物帰りに。

 閉店前のスーパーで、犬居誠人いぬいまことは買い物カゴを片手に惣菜コーナーへ向かった。

 黒いスーツに黒いネクタイを締めた陰気な表情のその男は、惣菜コーナーで今夜の夕食のおかずを買うつもりらしい。

 半額のシールが貼られた惣菜に手を伸ばしたそのとき、隣にいた女性の手も、偶然同じものに伸ばされ……


 女性の手が、病的に白い犬居の手に重なった。


「あっ、すみません」

 慌てたようにその手を引っ込めた女性の顔を見て、犬居は伏し目がちだったその垂れ目を見開いた。

 そして、つられて自分も、手を惣菜のパックから放す。

 一目惚れだった。


「ヒッ、あ、あの僕これ、これいいんで」

 最後のひとつだった惣菜のパックを残し、隣にあった適当な別のものをカゴに入れる犬居。

「ど、どうぞ」

「あ、はい……。ありがとうございます」

 若干戸惑った様子の女性が、譲られた惣菜に再び手を伸ばす。それを尻目に、犬居は逃げ出すように売り場を離れていった。



 帰り道、犬居は先ほどの女性が自分の後ろを歩いていることに気づいた。わざと歩みの速度を落とし、彼女が自分を追い抜くのを待つ。

「……きれいだ」

 犬居が声に出さずそう呟いたことに、彼女は気づかない。

 女性は三十代くらいに見え、犬居より年上かもしれない。しかし肌には張りがあり、控えめな化粧は整った顔立ちによく似合っていた。

 自分を追い抜いた女性の後ろを、ある程度の距離を置きながらつけていく犬居。


 近くに住んでるのかな、最近新しくできたあのマンションかな。


 犬居の予想とは違い、女性はマンションを通りすぎて信号を渡ろうとする。一緒に渡りたいのか、犬居は歩みを速める。しかし怪しまれたくない思いもあるからだろう、女性をなるべく見ないように下を向いている様子だった。

 やがて少し前を歩く女性が横断歩道の中ほどまで来たとき、俯いていた犬居がはっと顔を上げる。


 あれ、おかしいよ。


 信号は青で、今は横断歩道を渡っていいはずなのだ。だが、犬居の耳は車の音、それも相当なスピードで走る車の音を間近でとらえていた。

 顔を上げればすぐ目の前、ちょうど女性のいる方に、一台の白い乗用車が突っ込もうとしているところだった。


 あのひとが危ない……!


 反射的に犬居は跳んだ。

 黒いスーツの腕が女性を突き飛ばす。もうその次の瞬間には、犬居の全身に衝撃が走っていた。

 耳をつんざくような悲鳴は女性のものだろうか、それすら犬居にはわからない。


 犬居の身体は一度車のボンネットに乗り上げ、車が止まったと同時にどさりと落ちた。

 音と悲鳴を聞きつけ、通行人が次第に集まりだす。そのうちの幾人かは犬居に声をかけたり、通報しようと携帯電話を取り出していた。

 犬居に突き飛ばされた女性は、倒れてはいるが大きな怪我はないように見える。だが、目の前で起きた惨状を受け入れきれないのか、ただ座り込んだまま震えていた。車からは飲酒運転と思われる男性が、茫然とした様子で降りてきた。

 やがてパトカーと救急車のサイレンが、徐々に事故現場へと近づいてくる。だが、頭を強打した犬居の耳には、そんな音は聞こえない。

 しっかりしろと言葉をかける人の声も、かばった女性の安否すらも、犬居が認識することはないのだった。

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