第三話・年下の彼女と。
ホテルの一室、そのベッドの上で、犬居誠人は年若い女性を抱きしめた。
犬居は黒いスーツ、女性はブランド物の洋服に身を包んだままで、お互いを確かめ合うように抱き合っていた。
「す、好きだよ。君が好きだ。……愛してる」
少し身体を離して、犬居がそうささやけば、女性は嬉しそうにその胸に頭をもたせ掛ける。
「ありがとイヌちゃん。あたしもよ」
よしよし、と頭を撫でられれば、決して目つきが良いとは言えない犬居がその眦を下げた。
とろん、と幸福に溺れた表情。しまりのない笑み。
「今夜は、その。一緒に……泊まれるんだろ」
犬居の問いに、女性は枕元のスマートフォンを確認、にっと笑みを向けて手で丸のマークを作った。
「うん、今夜はあの人帰らないみたいだし」
それを聞いた犬居が、女性とは裏腹に寂しげにうなだれる。
「どうしたの」
「い、いや……その。一緒に住んでるって人、だけど」
「うん」
犬居は俯いたまま、女性の服の裾をつまんで言った。
「別れる、わけにはいかないのかな、やっぱり」
「またその話?」
呆れたように、相手の女性が犬居に向き直る。スマートフォンを高そうなバッグにしまうと、再びあやすように犬居の頭に手を置いた。
「とっても怖い人なんだよ。……それに、別れたらあたし、生活困っちゃう」
そう言ってしかめてみせた顔は、まだ二十代に足を踏み入れたか否かくらいの、幼いとも言える娘のものだ。
「ううん……」
「だから、ね。イヌちゃんのこともバレたら困るしね」
頭をぽんぽんと叩いた娘の手が、犬居の手に重なる。いつもならそこで話は終わりだった。だが。
「ぼ、僕さ、僕、本当に、本当に君が好きなんだよ」
「うん」
犬居は泣き出しそうに顔を歪ませて、相手の顔を見る。娘も困った顔をしながら、それでも犬居を見つめ返した。
「稼ぎとか、ホント少ないし……不自由させないとか、そんなこと、とても、とても言えないんだけど」
お世辞にも整っているとは言い難い、血色の悪い顔。犬居はその眉間にしわを寄せ、口元をひくつかせながらも言葉を紡ぐ。
「…………」
「逃げようよ。ぼ、僕と、僕と暮らそうよ。ね」
どもりながらも何とか言い切ると、犬居は自分の手の上に重ねられた娘の細い手に、さらにその青白い手を置いた。
「だ、ダメかな」
少しの沈黙が流れ、娘がやっと口を開いた。
「いいの?」
その瞳は潤んでいた。犬居は頷いて、小さく頭を下げる。
「僕からの、お願いだよ」
たった今、少女から一歩踏み出したばかりのような、まだあどけなさの残る顔。そんな表情で、娘は犬居にキスをねだった。
犬居の、病的に白いその顔が紅潮する。壊れ物を扱うように、相手の頬に手を添えて、くちづけをした。
一拍。
突然、ドアが乱暴に開けられる音がした。
一瞬遅れて目を開けた二人の視界いっぱいに、強面の男たちが映る。隣にいる娘がはっと息を呑むのを犬居は見た。
「よぉチカ」
男たちの後ろから道を開けさせるようにして部屋に入ってきたのは、白いスーツにサングラスの男だった。
服や、金時計などのアクセサリー類の趣味、なにより醸し出す空気が、あきらかにカタギではない。
「『お友達』と遊ぶのは自由だって言ったが、俺を裏切ったら殺すとも、言ったはずだな?」
チカと呼ばれた、犬居の隣の娘は青ざめていた。気圧されたのか、犬居も黙って男を見ている。
「そいつは何だ? 『お友達』か?」
男が犬居を指さし問うも、娘はがたがたと震えるだけで何も言葉が出ない様子だった。
そのまま沈黙の数秒間が過ぎ、男がふん、鼻を鳴らしたそのとき。
「と、『友達』なんかじゃないです」
言葉を発したのは犬居だった。
「あ?」
サングラス越しに、男の目がぎょろりと犬居を見据える。
「イヌちゃんやめて」
娘が慌てて犬居をたしなめようとするが、犬居は震える手に重ねた自分の白い手に、ぐ、と力を込めただけで、こう続けた。
「ぼ、僕は彼女と交際してます。彼女はあなたと別れて、僕と、くっ、暮らすんです」
「イヌちゃん!」
悲鳴に近い娘の声。目の前の男は、笑みと同時に青筋を浮かべていた。
「上等だ」
数時間後。
人気のない倉庫の一角には、数人の男に殴る蹴るの暴行を加えられ、既に意識のない犬居がいた。
そのすぐ傍、すべてを見ることが出来る位置にはパイプ椅子が置かれ、先ほどの若い娘が縛り付けられていた。
「どうだチカ、分かっただろ? ……俺を裏切るようなことをしたら」
サングラスの男が、背後から娘に声をかける。娘に目立った傷などはないが、猿轡を噛まされたその顔は涙と鼻水で汚れていた。男は娘の方へ歩み寄り、彼女の顔の横で囁く。
「俺はお前の目の前で、『その相手を殺す』ぞ」
ゆっくりと、念を押すような男の言葉。娘はこくこくと何度も頷いた。分かったから、どうか彼を助けてと言いたげに。
「反省したか」
頷き。
「そいつは何だ? 『お友達』か?」
男が、手足を縛られ床に転がる犬居を顎でしゃくった。娘は目をぎゅっと瞑り、一際大きく頷く。
「そうかい」
次の瞬間、静まりかえっていた倉庫内に銃声が響いた。
猿轡の娘が、声にならない悲鳴を上げる。
「『お友達』なら、俺以上に大事な相手でもねぇだろ」
サングラスの男は悪びれもせず、右手に持った拳銃に息を吹きかけてそう言った。
娘の悲鳴はやがて嗚咽に変わる。
こめかみを撃ち抜かれた犬居は、ぴくりとも動かない。
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