飛行機で
「ご搭乗の皆様にお知らせいたします」
機内アナウンスの事務的な女声が、マーロンの目を覚ました。
「当機は只今、地上より三万フィートの高さを飛行しております」
スピーカーを通す過程で、どこかざらついて温度の下がった声が続く。
いつの間にか、寝入っちまってたか。
マーロンは寝違えて微妙に痛くなった首筋に手を当てる。
昨日の晩は一睡もしてなかったから、当然といえば当然だが。
伸び上がるついでに、歩いてきたブロンドの女性アテンダントに手を上げる。
「お冷(ひや)ください」
本当は一杯やりたいのだがと思いつつ、注文を付け加える。
「炭酸入りで」
明日の昼前と夕方にも面接があるから、どうしても飲むわけにはいかないのだ。
再来月の誕生日には、バービーの家を買ってやるとあの子たち二人に約束したし、来月の半ばには失業手当が切れる。
それまでには何としても仕事を見つけないと、俺たちがアパートを追い出されちまう。
「どうぞ」
泡立つ水と型通りのスマイルを置き土産に、女性アテンダントは立ち去っていく。
確か娘たちが持ってるバービーの衣装にも、あんなアテンダント風のがあったな、とマーロンは思い出す。
口角だけキュッと上げた他人行儀な笑い方も、何だかアテンダントとバービーで似ている。
というより、人形の方がその種の取り澄ました顔つきを真似たんだろうな。
マーロンは座席に凭れたまま一口含むと、胸ポケットから写真を取り出した。
折り目や指跡で微妙に歪み、端の磨り減った写真の中で笑う、幼い黒人の双子。
これは、確か二年生の時のクリスマス休暇でサム伯父さんの家に行ったときに撮ったやつだ。
二人とも同じよそ行きの蝶ネクタイをして写ってるけど、よく見ると鼻がちょっと赤い方が俺だ。
写真を撮る前に、台所のパイを盗み食いしたと疑われて親父に拳骨をもらった。
本当は伯父さんとこの猫が食べたのに、俺ら二人の仕業と決め付けられたのだ。
俺はベソをかいたが、その頃のマイケルは叩かれても決して泣かなくなっていたので、綺麗な笑顔で写ってる。
白い歯を覗かせて、大きな目を楽しげに細めた、笑顔そのものの表情だ。
マーロンはカップを置くと、指先で、そっとその写真の笑顔を撫でた。
新築したばかりのオフィスで倒れた時も、あいつのスーツの胸ポケットにはこの写真が入っていたらしい。
「マイケル……」
マーロンは車窓に向かって低く呟いた。
何で、死んじまったんだよ。
どうして、そんなことまで俺より先じゃなきゃいけなかったんだよ。
俺よりずっと成功していたのに。
ずっと世間から必要とされていたのに。
ずっと、他人からも愛されていたのに。
曇り空を隔てた窓ガラスには、古びた写真を手にした虚ろな目の男が映っている。
面接に行く前に、まずこの無精ヒゲを剃らなくちゃいけないな。
昨日は大勢の人が一目でもあいつに別れを告げようと集まったのに、俺ときたら酷い顔で出たもんだ。
マーロンはふっと息を吐くと、飲みかけのカップを再び取り上げ、グイと飲み干した。
たとえ俺が今くたばったところで、きっと葬式には、昨日の一割も人は集まらないだろう。
舌の上でちょっと痛いほど弾けた炭酸水は、飲み干すとしょっぱい味が残った。
手に持った写真の中で、瓜二つの蝶ネクタイを締めた二人の笑顔が揺れる。
最初は小刻みに、次第に二つの輪郭がぶれて、幾重にも見えるほど激しく。
「おい、大丈夫かよ?」
「やばいんじゃないか?」
四方から哀れみというより危惧の声が次々上がった。
俺のことなんか、ほっといてくれよ。
「ご搭乗の皆様に……お知らせいたします!」
抑えている風で、その実かなり上擦ったアナウンスが響き渡った。
ありゃ、どうも、おかしいぞ?
マーロンは思わず顔を上げて辺りを見回す。
何だって、みんな、さっきのアテンダントの女まで、ジェットコースターに初めて乗ったガキみたいな顔してやがるんだ?
「当機はただ今より、緊急着陸態勢に入ります」
周囲のざわめきと機体の揺れが連動する様に大きくなる。
マーロンは思わず写真ごと胸に両手を当てた。
一体、どうなってんだよ?
「係員が誘導いたしますので、緊急脱出口のスライドから、速やかに避難して下さい」
マーロンは寝入る前に座席のモニターで夢うつつに目にした映像を急速に思い出した。
それは、飛行機からだだっ広い滑り台が出てきて、そこから顔のないたくさんの人影が滑り降りていくものだった。
「ちょっ……」
この飛行機専用の滑り台から降りろっての?
三万フィートの高さから?
一体、どこに向かって滑るんだ?
それで、今まで助かった奴って本当にいるの?
頭の中を疑問符が駆け巡り、体の芯から力が抜け、全身から血が引いていく。
「非常口はこちらです!」
「皆様、落ち着いて行動してください!」
人の波の中から、アテンダントの叫びが切れ切れに聞こえてくる。
「お子様連れの方は手を離さないで下さい!」
幼い子供特有の甲高い泣き声がどこからか飛んできて、マーロンの耳を突き刺した。
――パパ、早く帰ってきてね。
――マイク叔父さんにさよならだけしたら、すぐ戻ってきて。
出掛けに纏わりついてきた双子の娘たちの、チョコレート色の、小さな掌。
――あたしたち、二人ともいい子にして待ってるから。
無心に自分を見上げていた、黒ダイヤの様に輝く、四個の瞳。
いつだって、グズで、臆病で、失敗ばかりしてきた俺。
それでも、ここで意気地をなくして死ぬわけにはいかないんだ。
マーロンはゆっくり深呼吸すると、思い切り握り締めたためにますます形の崩れた写真を
胸ポケットに収めた。
大丈夫だよ、マイケル。
今度の滑り台は、俺一人でもちゃんと滑るから。(了)
スライド、スリップ、スロープ。 吾妻栄子 @gaoqiao412
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