第3話

 タバコの灰が手に触れたところで大輔は我に返った。――そうだ。家に帰る途中だった。大輔はそう思うと、ブロック塀から背中を離し、軽く伸びをした。


 ふと気づくと、夜空にはいつのまにか満月が輝いていた。さっきまでは隠れていたのか、厚い雲がすぐそばを流れている。


 なんだ、今日は満月だったのか。道理であの夜の事を思い出すわけだ。大輔はあの夜から六回目の満月を見つめながら、怒りなのか、後悔なのか、諦めなのか、自分でもよくわからない心境に至っていた。


 くそっ、くだらない時間を過ごした。全部あの看板を見つけたせいだ。大輔はそう思うと、湧き上がってくる怒りを抑えきれずに、まだ火種の残るタバコを、例の看板に押し付けようとした。


 んっ、なんだ。大輔は途中で違和感を覚え手を止めた。看板をよく見ると、違和感の正体が何なのかすぐに分かった。


『夢屋』と書いてあった下の空白部分に、進行方向を表す矢印と、五十メートル先左折という文字が新しく現れていた。


 どんな手品だ。大輔は最初、自分の頭を疑った。酒は飲んでないし、多少は疲れているが意識もはっきりしている。それなのに、こんな看板の文字を見落とすなんて事があるか? それはさすがに無いだろうと自らの考えを否定した。


 じゃあ、一体どうして。大輔はその疑問を払拭しようと、看板をまじまじと見つめた。


 しばらく見つめていると、ある変化が起きた。先程現れた文字がじんわりと消えかかっている。大輔は驚いて、その消えかかっている文字を擦ってみた。看板の無機質な感触が指に残るだけで、他になにも感じられなかった。


 大輔は他にどうする事も出来ず、ただ看板の文字を見つめていた。すると、完全に消えかかっていた文字が、今度は逆にじんわりと浮き出てきた。


 何が起きているんだ? 大輔が考えを巡らせている間も、その文字はじんわりと消えたり現れたりを繰り返していた。


 しばらく観察していた大輔はあることに気づいた。それは、雲の動きに合わせるように、看板の文字も変化している事だった。


 なるほど。やっと分かった。この看板の文字は満月の光の具合に反応していたのか。


 大輔は自分の考えが正しいのか、すぐに確認してみた。案の定、雲が満月を隠すと看板の文字は消え、雲が無くなると看板の文字は現れていた。


 思った通りだ。大輔は昔見た映画のシーンを思い出していた。そのシーンは、犯人グループがブラックライトに反応する特殊なペンを使って犯行を密かに計画していたが、逆に主役の刑事にもブラックライトを使われてあっさり計画が露見するという内容だった。


 この看板もそういった特殊なものを使っているのか。看板の文字の謎を解いた大輔は、まるで自分が映画の主役になったみたいで、得意げな気分に浸っていた。


「よし、行ってみるか」すっかり気分の良くなった大輔はそう呟くと、さっきまでの怒りを忘れ、看板の指示通りに足を進めた。


 左折した道はかなり狭く、人が二人並んで歩けないほどだった。それに街灯も無く、とても暗い。月明りのおかげでなんとか進む事が出来ていた。


 いつまでこの一本道が続くのか? 大輔は段々と不安になってきた。

 

 もう結構歩いたけど、どうする、引き返すか? でもせっかくここまで来たんだし、店を見るまでは。いや、そもそも何の店なのかも分からない。変な宗教施設や、クスリ関係の場所かも。やっぱり戻るか? でも気になるし……


 大輔の思考とはよそに、大輔の足はどんどん闇を切り裂いていった。


 少し開けた場所に出た。どうやら道はここまでらしい。そこに一軒だけポツンと建物があった。近づいてみる。外見は欧州にあるレトロ調の喫茶店みたいな作りだった。入口から少し明かりが漏れているが、窓は無く、中の様子はまったく分からなかった。入口の前に立つと、『夢屋』と書いてあるネオンの看板がぼんやりと光っていた。


 ここか。大輔はしばらく悩んだが、意を決して入口のドアを開けた。


 








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