第2話
「あなた、いい加減にして」波江の怒声がリビングに響いた。大輔は隣の部屋で寝ている娘の加奈が起きてこないか心配になった。
「だから何回も言ってるじゃないか。急に仕事が入ったんだって」大輔は目の前で興奮している妻の波江に向かってそう言った。
「そんな事聞いているんじゃないわよ。なんで断らなかったのよ」
「簡単に断れる訳ないだろ。大事な仕事なんだから」
「なによそれ、こっちは大事じゃないっていうの?」
「それは……違うけど」大輔はそう言うと口ごもった。
波江は続けた。「それに今日が何の日かぐらい、あなたにも分かってるでしょ?」波江の視線が、テーブルに置いてあるバースデーケーキの残りに向けられた。「加奈の誕生日なのよ」
そうだ。今日は加奈の十才の誕生日だった。正確にはもう昨日のことだが。大輔はつられていた視線をバースデーケーキの残りから妻の顔へと戻した。
「それは悪かったって。今度埋め合わせするから。なっ」大輔は波江の気持ちを落ち着かせようと頭を下げた。だが、波江の怒りは収まる様子は無かった。
「またそれじゃない。この前も、この前も。この間だって三人で出かけるはずだったのに、あなたに仕事が入って行けなくなったし。それに毎日、毎日、残業や飲みの付き合いで帰るのが遅いし。ここ最近、加奈ともまともにしゃべってないじゃない。家族の事ちゃんと考えてるの?」波江の目には涙が溜まっている。
「ちゃんと考えているって。俺はお前たちの為を思って、古いアパートからこの一軒家に越して来たんだし。俺がたくさん仕事を頑張っているのもお前たちを楽させたいからであって」大輔の本心だった。
「じゃあ、あなた、加奈が学校でいじめられているのは知ってる?」
「それはこの間、お前から聞いたから知ってるけど……」大輔の歯切れが悪くなった。
小学四年生になる娘の加奈は内気な性格でそれにどんくさいらしく、それが原因でクラスメートから冷やかされているらしい。
「前の学校ではこんな事無かったのに、四月にここに引っ越してきてから、これよ」波江は少し疲れた顔を両手で覆うと、今にも泣き出してしまいそうだった。
「きっと、今だけだって。子供は飽きっぽいし、多分そのうち別の事に興味が移るって。それまで頑張ろう。なっ」大輔は波江に近くと、そっと彼女の肩に手をまわした。
「何が頑張ろうよ」波江は大輔の手を振りほどいた。
「あなたは全部私に任せっきりじゃない。何から何まで押し付けて。昼はパートに出て、帰ったら家事もしないといけない。それに学校の事から近所付き合いまで全部わたし。加奈の件で相談しようにもあなたはいつもいないし。あなたは何もしてないじゃない」波江は一気にまくし立てた。
「俺だって色々」と言いかけて大輔は口を閉じた。これ以上何を言っても今は聞く耳もたないだろう。それに火に油を注ぐのもあれだし。大輔はそう考えると、なるべく妻を刺激しないようにした。
夜空にくっきりと浮かんだ満月が、ゆっくりと厚い雲に覆われて見えなくなっていく。その間もずっと、波江の言葉は容赦なく大輔に降り注いでいた。
「こんな所、越して来なきゃよかった」しばらく我慢していた大輔だったが妻のその言葉につい反応した。
「お前が最初に言い出したんじゃないか、広い家に引っ越したいって」しまった。大輔はそう思ったがもう遅かった。
「確かにそうだけどあなたが選んだんでしょ、この家は。私のせいにしないでよ」収まりかけていた波江の怒りが再燃したようだった。
「二人で決めたんだから今さら文句いうなよ」大輔の声も荒くなっていく。
「私は元々別の家の方が良かったけど、あなたがここがいいって言うもんだか仕方なく決めただけよ」
「じゃあ何でその時言わなかったんだよ」
「言ったってあなたはどうせ私の言う事なんか聞きやしないじゃない」
「ふざけるな」
いつのまにか大輔は拳をテーブルに振り下ろしていた。食器が割れる音。物が倒れる音。色々な音が混ざり合った。
波江は夫が初めて見せた行動のせいなのか、今までの鬱積のせいなのか分からないが、テーブルに顔を伏せると、堰を切ったように泣き出した。
泣きたいのはこっちだぜ。大輔は泣いている妻を見てそう思った。朝から晩まで働いて、たまの休みも駆り出されて。そのうえ上司や取引先のご機嫌まで取らなきゃならない。正直、仕事のことで手一杯で、家庭の中まで気に掛けていられなかった。
「もう限界よ、こんな生活」波江は先程の姿勢のまま叫んだ。
「じゃあもう出ていけよ」大輔はきつく言い放った。
どのくらいたっただろうか。泣いていた波江が急に立ち上がると「しばらく実家に帰ります」そう言って、身支度を始めた。
「勝手にしろ」大輔は小さく呟くと、冷蔵庫から缶ビールを取り出し飲み始めた。
缶ビールを片手に横目で妻の様子を見ていた大輔は、彼女が娘を連れ出そうとしたところで声を掛けた。
「おい、加奈まで連れていくのか」
すかさず波江が「当たり前でしょ。あなたに任せられる訳ないじゃない」そう言って娘を起こし始めた。
「勝手に決めんなよ」そんな大輔の言葉をよそに、二人の準備は着々と進んでいった。
「お母……さん……」加奈はまだ夢見心地なのか瞼を閉じたまま母親に手をひかれていた。
大輔は波江が呼んだタクシーが来るまでの間、何度か説得を試みた。だが、彼女の意志が変わる事は無かった。
静かな住宅街を母娘を乗せた一台のタクシーが進んでいく。大輔は満月の光を浴びながら、それが小さくなるのをただじっと見続けていた。
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