この経済・環境システム(エコ・システム)は様々な事物の交換によって成立していると言える。冒頭で提示されるわらしべ長者のモチーフは、我々の言語活動――言葉によって価値を交換することで、物語を享受したり、なにか体験や感銘などを得て、あるいは読者の利益となることを示している。
この物語の二段落目は、主人公であるワくんが観察の対象であることを提示する。それはもちろん読者による観測だ。ドキュメンタリー番組のような視点で、ワくんの自閉的な行動が観察される……物語とは往々にして、そのような視点の暴力性を孕んでいると言える。この物語は三人称視点で語られるが、主人公の主観による一人称視点と同様、人間存在は根源的に暴力性を有している。「髪は短く、黒色で、時に長く白色だったりします」このように矛盾する描写の記述は、事物は主観的に描写されるものであり、客観的な真実なるものが存在しないことを意味する。
ところで、この世の終わりのようになってしまった地球は、いったい何と交換されたのか? それはおそらく、無限のように言語化不可能な形而上の概念だ。ヨハネによる福音書によれば「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とされるが、その「言」(あるいは聖書)を読むために光という物理的な現象が必要だったことも、暗に示されている。私たちは言葉によって意味だとか価値のようなものを交換しようと試みるが、作者の権威が解体された「作者の死」以後におけるテクスト論的な解釈行為もまた、読者の主観に過ぎないことを意味している。
私たちは物語やテクストを紡ぐことで、言語化不可能な形而上概念を「もっとすごいものと交換して」、私たちの言語活動――ひいては言語と契約によって成立している我々の社会システムによって「この星を救う」ことが可能なのか? という命題について考えさせられる。