第8章 動く死体

「去年の秋、さくらちゃんと菅田すがたさんは知り合い、付き合い始めることになった。冬合宿にお忍びデートをしていて、その前の夏に桜ちゃんは両親に強引に男友達との仲を引き裂かれたんだから、知り合ったのはその間の秋ということになる。二人がどうやって知り合ったかの馴れ初めは桜ちゃんに訊かないと分からないけれどね。でも、二人は大手を振って一緒に出掛けたりすることは出来なかった。桜ちゃんには夏の苦い思い出があるからね。もしも、またこのことが両親に知れたら。そう思った桜ちゃんは極力人目を忍んでの付き合いに留めた。

 菅田さんにもそのことを話したんでしょうね。菅田さんもお金のない苦学生だったから、派手に遊びに行くようなデートはできなかったでしょう。でも、それで十分だった。たまに二人で会って話をして。菅田さんは携帯電話も持っていなかったそうだから、余計にその時間は貴重なものだった。デートの連絡なども菅田さんの方から公衆電話を使って桜ちゃんの携帯電話に掛けていたんでしょうね。しかし、その幸せな時間は突然奪われてしまう……」

「菅田さんの交通事故……」

「そう、桜ちゃんはニュースを見るかして菅田さんの死を知ったんでしょうね。一向に連絡が来ないことを不安に思っていたかもしれない。桜ちゃんは菅田さんの訃報を知ったあとでも、他人の前では何事もないように振る舞わなければならなかった。二人の恋は秘密のものだったから。菅田さんが亡くなる前に二人は桜ちゃんの部活の冬合宿でデートをしていた。そこで菅田さんは桜ちゃんに、恐らく最初で最後のプレゼントをしていた。土産物屋で買った指輪よ」


 あのおもちゃの指輪。どういう経緯で指輪を贈ることになったのだろう。


「結果、その指輪は菅田さんの形見になってしまった。桜ちゃんがそれをどれほど大事にしていたか。決して誰にも語ることの、打ち明けることの出来ない恋の証。彼女にとってどんな宝石よりも価値のあるものに違いなかった。そして十月四日、事件が起きた。あの日、上一色かみいっしき家には高島たかしまさん、稲葉いなばさん、油木あぶらきさん、三人の来客があり、全員宿泊することになった。油木さんはいつものように桜ちゃんに言い寄ってきた。でも桜ちゃんにとって油木さんは全く歯牙にも掛けない存在だった。で、ここからはほとんどが私の推理と想像だから」


 うん、と私が頷くと、理真りまは話を再開して、


「どんな状況だったかは分からないけど、油木さんは桜ちゃんの指輪を入手した。桜ちゃんがうっかり落としてしまったのを拾ったのか、まさか部屋を家捜ししたとまでは思わないけれど。で、桜ちゃんは大切な指輪が油木さんの手にあることを知る。当然桜ちゃんは返すよう油木さんに迫るわ。でも、あまり声を大きくして返せとは言えない。秘密の恋の形見だからね。桜ちゃんは鬼気迫る様相で油木さんに対したことでしょうね。油木さんはそれが面白くなかった。彼にとってみれば、それはガラスのおもちゃ。何がそんなに価値のあるものなのか分からない。彼はそれまで高価な宝石やブランド品なんかを桜ちゃんにプレゼントしていたけれど、桜ちゃんは受け取らなかった。当然だけどね。自分の高価な宝石よりも、こんなガラス玉のほうが大事なのか。苛立ちを覚えた油木さんは、その指輪をおぞましいやり方で処分してしまう……」

「おぞましいって……」

「油木さんは、指輪を飲み込んでしまったのよ。桜ちゃんの目の前で」

「えっ?」


 私は思わず理真のほうを向いたが、運転中のため、すぐに視線を正面に向け直す。


「そう、飲み込んだの。その時の桜ちゃんの心境は察するに余りあるわ。桜ちゃんはショックで部屋に閉じこもってしまったんじゃないかしら」

「じゃあ、やっぱり油木さんを殺したのは桜ちゃんではない?」

「そう、そのあと、もうひとつのいざこざが起きる。午後十一時より前、油木さんは誰かに呼び出されるか連れてこられるかして勝手口の外にいく。そこでもうひとりの人物と口論になり、突き飛ばされて倒れ、庭石に後頭部をぶつけてしまう。突き飛ばした人物は油木さんが死んでしまったものと思って慌ててその場を立ち去る。しかし、まだ油木さんは死んではいなかった。後頭部を打って脳内出血状態だったけれどまだ息はあったのよ。そして時間は午後十一時になり雨が降り始める。雨に打たれて意識を取り戻した油木さんは、勝手口から家の中へ入ろうとするが、傷は深く、何歩も歩かないうちに再び倒れ、今度こそ絶命してしまう。そこが勝手口すぐ外のコンクリート打ちだった」

「油木さんが頭を打った石に付いた血は雨で洗い流されてしまったのね」


 理真は頷いた。私は、


「それで、その油木さんを突き飛ばした人物って?」

「高島さんね」

「……何か根拠があるんだね」

「ええ、昨夜、話を聞いたときのこと憶えてる? 私が桜ちゃんのとった行動について訊いたら、高島さんはこう言ったわ。『あんなに重い油木さんを、どうやって』って」

「それは、体格差に勝る油木さんを華奢な桜ちゃんが殺せるとは思えないって意味じゃないの?」

「違うわ。その質問はその前にしたのよ。高島さんは、桜ちゃんでも油木さんの隙を突けば殺すことは可能だったんじゃないかと答えたわ。私が訊いたのは、桜ちゃんが油木さんの腹を裂いた行動についてよ。その答えとしては変じゃない」

「『あんなに重い油木さんを、どうやって』……」


 私は高島の言葉を反芻してみた。理真は、


「高島さんは、自分が突き飛ばしたことで油木さんが死んでしまったものと思い込んでるのよ。高島さんの中では油木さんの死体は、ずっと後頭部を石に打ち付けた状態で外に放置されたままのはず。それが、桜ちゃんが凶行に走ったとき、油木さんの死体は数メートル離れたコンクリートの上にあった。それを見た高島さんはどう思うか」

「あっ! 桜ちゃんが死体をコンクリートの上まで移動させた!」

「そう、高島さんは、桜ちゃんが油木さんの死体を倒れていた地面からコンクリートの上まで引きずって動かしたと思ってしまっても仕方ないわ。だから思わずあんな言葉を口にしてしまったのよ。桜ちゃんが、あんなに重い油木さんをどうやって運んだんだろう。高島さんは思わずそう口にしかけてしまった。そして、もうここまで来れば桜ちゃんの行動の意味も分かってくるよね」

「そうだね……」


 私も桜の悲しい行動の意味を理解した。理真は説明を続け、私も黙って聞く。


「油木さんに大事な指輪を飲み込まれたショックで桜ちゃんは部屋に閉じこもっていたけれど、夜中、外へ出る。理由は分からないわ。指輪を返してもらう交渉をするため油木さんの部屋へ行く決心をしたのか。少しでも気分を紛らわせるために外の空気を吸いに出たのかも。とにかく時間は午前一時過ぎ、ちょうど雨が降り止んだ頃ね。別棟を出て敷地内を歩く。勝手口に差し掛かったところで桜ちゃんは、とんでもないものを発見する」

「油木さんの死体……」

「そう、高島さんに突き飛ばされて庭石に頭を打って気絶したけれど、雨に打たれて蘇生。部屋へ帰ろうと数歩歩いたところで力尽き倒れた油木さんの死体をね。それを見た桜ちゃんはどう思ったかしら」

「驚いたでしょうね」

「うん、でも、同時にこう考えたはずよ。『これはチャンスだ』ってね。『飲み込まれてしまった指輪を取り返すまたとないチャンスだ』って。桜ちゃんには、油木さんが死んでいることが神様の贈り物だと思えたかもね。『今のうちに死体の腹を裂いて指輪を取り戻せば、誰にも知られることなくこの一件を終わらせることができる』って。勝手口のドアを開ければ台所。刃物には事欠かないわ。懐中電灯は最初から持っていたのか、作業をするために取りに戻ったのかも。そして台所から持ち出した包丁で油木さんの死体の腹を裂く。桜ちゃんの頬や口元に血が付いていたのは臓物を食べたためじゃなく、指輪を探している最中に手で汗を拭ったことが原因。で、指輪を探しているところを……」

松波まつなみさんと牧田まきたさんに目撃された」


 理真は頷き、続ける。


「でも、二人に発見されたときには、桜ちゃんはまだ指輪を発見できていなかったのね。高島さんと稲葉さんに腕を押さえられていながらも、油木さんの死体というより、自分が裂いた傷口から目を離さなかったそうだから。目視で指輪を探し続けていたんでしょうね。

 そして、桜ちゃんは切り裂かれた臓物の中に指輪をついに発見する。でも状況が悪い。家中の人が集まってきたうえに警察まで駆けつけている。何より桜ちゃんは自分の行動の意味を知られることを恐れた。死んだ恋人の形見を見つけようとしているということを。過去に男友達との仲を無理矢理引き裂かれた記憶は桜ちゃんの中に深い傷を作ってしまったんでしょうね。このあと油木さんの死体は解剖される。そうしたら指輪は証拠品として警察の手に渡り、もう自分のもとには帰ってこないかもしれない。それは自分のものだと主張しても、死体の腹から出て来た証拠品。必ず出所を聞かれてしまう。菅田さんとの関係が明るみに出てしまう。指輪は絶対に今回収しなければならない。でも、ただ拾い上げただけでは間違いなく見咎められ、やはり指輪は取り上げられてしまう。確実に指輪を取り返す方法は……桜ちゃんは自分の腕を掴む手が緩んだ瞬間を逃さなかった。素早く臓物の中に埋もれた指輪を掴み取ると、そのまま口に運んで飲み込んだ。誰にも知られずに指輪を取り返すにはそれしかなかった。しかも、そのあと桜ちゃんは身体検査をされてるから、飲み込んでしまうという行動はさらに功を奏したわけだけどね」


 理真が喋り疲れて喉が渇いたというので、最寄りのパーキングエリアに寄った。トイレしかないパーキングエリアだったので、私と理真は自販機でジュースを買った。私のおごりだ。駐車場には私たちのもの以外には一台の車もない。


「桜ちゃんは飲み込んだ指輪をどうしたの? もう回収したんだよね」


 私は話の続きを振った。


「そうね。もう指輪は桜ちゃんの手にあるでしょうね。事件の翌日、日付でいえば同じ日なんだけど、別棟のトイレが壊れたって言ってたよね、牧田さんが」

「うん」

「あれ、壊したのは桜ちゃんだよ」

「どうして?」

「だって、飲み込んだ指輪を吐き出すにしろ、排泄するにしろ、洋式よりは和式の便器のほうが圧倒的に回収しやすいじゃない」

「あっ!」

「桜ちゃんは土曜の朝にでもトイレに行くときに、何かタオルとかを持ち込んでトイレを詰まらせたんでしょうね。体内の指輪を回収するためにどうしても母屋の水洗和式便器を使いたい。でも別棟にいる桜ちゃんが突然母屋のトイレを使い出したら怪しまれてしまう。母屋のトイレを使う口実を作るために別棟のトイレを詰まらせて使えなくしたのよ」

「そういうことだったんだ……」


 私たちの車はパーキングエリアを出て再び走り出した。運転席は理真に譲った。ここまで来たら最後まで私が運転してもよかったのだが、車の運転が好きな理真がハンドルを握ると言ったためだ。


 レンタカーショップまで迎えに来てくれた牧田の車で上一色家へと帰還したのは午後七時半だった。



 私と理真は、高島ひとりを応接室へ呼び出した。


 理真の話を高島はソファに腰を沈めたまま黙って聞いていた。

 事件の夜、油木を勝手口の外まで呼び出し、口論となり突き飛ばしてしまい自室へ戻る。そこまで語ったところで、理真は高島の反応を窺うようにひと息ついた。


「どうして僕がそんなことをしなければならないんですか。何のことだかさっぱり分かりませんよ」


 高島は落ち着いた素振りだが、理真と目を合わせようとしていない。


「動機はまだ不明です。今、諏訪刑事に会社のことを調べてもらっています。あなたが油木さんを嫌うのに、桜ちゃん絡み以外の理由が出てくるかもしれませんから」


 高島は少し体を揺すった。


「高島さん、あなた、どうしてすぐに逃げ出してしまったんですか」

「だから、何のことだか――」

「あのとき、油木さんはまだ生きていたんですよ」

「えっ?」


 ここで高島は理真の目を見た。理真は続けて推理を話す。

 頭をぶつけた油木は一時的な昏倒状態であったこと。雨に打たれて目を覚ましたが勝手口手前で力尽き倒れ、今度こそ本当に死んでしまったこと。そして、桜がその死体を見つけたこと。


「桜ちゃんが油木さんの死体と一緒にいるのを見たあなたは、さぞ疑問に思ったことでしょう。油木さんの死体は、あなたが知っている位置とは数メートルも離れた場所にあったんですから。非力な桜ちゃんが油木さんの巨体を引きずって移動させたのか。そう思っても仕方ありません。私も、桜ちゃんが油木さんの死体を移動させるのは難しいと思います。あなたが昨日言ったように」

「私が何を言ったというんですか」


 理真は、車中で私にした話を高島にぶつける。『あんなに重い油木さんを、どうやって』その言葉の意味を。


「そんなのは言葉の綾ですよ! 私は、桜さんに油木が殺せたはずはないという意味で言ったんです!」


 高島は捲し立てるが、狼狽えているのが分かる、顔を赤くさせ手足が震えている。昨夜の言葉が失言だったと感じ入っているようだ。


「暑いですか。冷房を入れてもらいましょうか。私はちょっと肌寒いくらいですけど」


 対照的に、高島を見る理真は冷静だ。高島の顔は上気し汗ばんでいる。


「話を逸らさないで下さい! 私じゃない、私はやっていない。何か証拠は、証拠はあるんですか! 目撃した人でも――」

「じゃあ、油木さんを殺したのはあくまで桜ちゃんだと、こう言うんですね。高島さん、あなたは」


 言葉を詰まらせる高島に、尚も理真は、


「それでいいんですね。確かに死体の腹を裂いたのは桜ちゃんです。死体損壊罪に問われるのは免れないでしょう。その桜ちゃんの異様な行動、彼女が口を閉ざしているのをいいことに、ちゃっかり自分が犯した殺人の罪まで着せてしまおうと、こういう考えなんですね、あなたは」

「そ、それは……」

「明日、現場の再検証がなされますよ。油木さんがぶつけた庭石からは血液反応が出るでしょうね。雨で血は流されたように見えても、血液の成分はそんな簡単に洗われたりしません。凶器が判明したら捜査はやり直しになる。当然、警察は疑問を持ちます。血液反応の出た庭石は地面に埋まったままで、地面から取り上げた形跡はない。持ち上げて凶器になど出来たはずがない。それとも、油木さんが頭をぶつけたのは持ち上げることなど出来ないくらい大きな石だったかもしれませんね。石を頭にぶつけたのではなく、頭のほうを石にぶつけたことが死因だろうと警察は判断します。そのためには油木さんを正面から突き飛ばして石に後頭部をぶつけさせるしかない。華奢な桜ちゃんにそれが可能だろうかと。可能だったとしても、死体をわざわざ移動させたのはなぜだろうかと。私の推理通り、一度油木さんが息を吹き返して自分で移動したのだとしても、なぜ桜ちゃんはその間、黙って見ていたのだろうと。さっさと目的である開腹をすればいいのに。当初から疑問に思われていた、油木さんの死亡時刻と桜ちゃんの凶行が目撃された時刻に三時間もの時差があるのはなぜだろうかということと会わせて考え、警察の結論は恐らくこうなりますよ。桜ちゃんは開腹をしただけで、油木さん殺害犯は別にいる、と」


 赤くなっていた高島の顔は、理真の話の間にすっかり青ざめてしまっていた。

 応接室のドアがノックされた。高島はその音にもびくりと体を震わせる。理真の、どうぞ、の声のあとに顔を覗かせたのは諏訪刑事だった。


「安堂さん――」


 諏訪刑事は高島がいるのを見て言葉を飲んだようだったが、理真が目で促したため室内に入ってきた。


「安堂さん、高島さんのことを調べました。高島さん、あなた、油木さんに大きな借りがありますね。あなたのミスで生じた工事金額の差異を油木さんに個人的に補填してもらっていたとか。結構な金額のようですね。上一色建設では誰も知らないことですが、油木商会の一部の人間には周知の事実だったようですよ」

「……あの野郎、結局喋ってんじゃねえかよ」


 高島の目はその瞬間、冷酷な殺人犯のようなそれになった。油木を突き飛ばしたときもこんな目をしていたのだろうか。

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