第5章 少女にまつわる話

松波まつなみさんが言ったように、あれは、お嬢さんが二年生になってすぐのことでしたか。学校から帰ったお嬢さんがえらく沈んでいまして。夕食も食べずに部屋に引きこもってしまったんです。松波さんや私が声を掛けても、気分が悪いの一点張りで部屋からは出てこなくて。その日はちょうど旦那様と奥様は、お二人とも仕事で留守にしていまして。ここから先は松波さんのほうが詳しいね」


 牧田まきたは松波に話をバトンタッチした。


「はい。私、やっぱり気になって、夜にまたお嬢さんの部屋を訪ねてみたんです。そうしたら、やっとお嬢さんが顔を出してくれて、今日のことは旦那様と奥様には話さないでいてほしいって言うんです。その時のお嬢さんのお顔、目が真っ赤で、あれは泣いていたんだと思います」

「その理由は分かったんですか?」

「いえ、結局分からず仕舞いでした。翌日からは、また普段通りに戻ったように見えましたが、あれ以来、お嬢さんは少し変わったような気がします。確かに普段はいつも通りなんですが、時折、暗い悲しげな表情をするようになりました。それからも、お嬢さんの部屋の前を通りかかるとき、部屋の中から泣き声が聞こえていたことが何度かありました。声が外に漏れないようにか、押し殺したような泣き声でした。それが辛くて。お嬢さんとの約束がありますから旦那様と奥様にはお伝えしませんでしたけれど、二人ともお留守のときに牧田さんに相談したこともありましたが、結局私たちにはどうすることも出来ませんで……」


 語り終えた松波は最後に、この話は泰蔵たいぞうとマキにの耳には入れないでほしいと念を押した。もちろん理真りま諏訪すわ刑事も了解する。


「他には、何か気がついたことはありませんか?」


 更なる理真の要求に、二人はまた顔を見合わせる。


「あれは、話しておく?」


 牧田が松波に耳打ちをする。


「あれって?」

「ほら、一年生の時の夏休みの……」

「ああ、あれですか。でも一年以上前のことでしょう。それこそ今度のことに関係あるかどうか……」

「ぜひお聞かせ願いたいです」


 と理真。そりゃそうだろう。そこまで聞かされて、いや、それは関係ないと思うのでいいです、と言えるわけがない。

 じゃあ、と今度は牧田が話し始めた。


「お嬢さんが高校一年生のときの夏休みに、ちょっとした事件が起きたんですよ。お嬢さんの通う高校は女子校なんですけど、夏休みに近くの共学校に進学した中学校時代の友達に誘われて、男女数名ずつで遊びにいったことがありました。旦那様も奥様も、お嬢さんのそういった交際にはとても厳格な方たちでして、それをお嬢さんも知っていましたから、誰にも、私たちにも秘密にしていたんです。そういった交際が何度か続く打ち、お嬢さんはグループ内の特定の男子生徒と親密な仲になったようで、二人だけで遊びに行く、要はデートをすることが何度かあったそうなんです。それが旦那様と奥様に知られてしまいまして。二人で長野市内の繁華街を歩いているのを奥様のお知り合いに目撃されたらしいのです。それが奥様の耳に入って。しかも悪いことに、そのときのデートが放課後の部活動をサボってのデートだったらしいんです。旦那様と奥様のお怒りようは、それは凄まじいものでした」


 牧田はその時のことを思い出したのか、ハンカチを取り出し額の汗を拭って、


「本人たちと友達の証言から、お嬢さんとその男子生徒との交際は不純な行為には及ぶことのない健全なものだったそうなのですが、そんなことは関係なかったんですな。とにかく、お嬢さんが異性と、しかも特定の個人と付き合うことが許せなかったらしく。その男子生徒の家にまで押しかけて交際を止めさせてしまったのです。お嬢さんのお部屋も、言葉は悪いですが家捜しされ、その男子生徒と撮った写真だとか、プレゼントされたアクセサリーだとか、全て捨てられてしまいまして。私は、何もそこまでとは思ったのですが、旦那様と奥様には逆らえませんから……」

「あれは……」


 松波も続けて口を開くと、


「私もやりすぎだと思いました。お嬢さんも高校生になって初めての夏休みで、どうしても気持ちが浮つくのは仕方ありませんよ。そんなことがあったせいで、お嬢さんはご両親と距離を置くようになったと私は感じています。多分、旦那様と奥様はお気づきにはなっていないでしょうけれど。あのお二人は、お嬢さんのことを大切に思って可愛がってはいるのですが、何て言いましょうか、いつまでも子供扱いしすぎるというか」

「そうだね」


 と今度は牧田が、


「私が思うにですね。あの二人は、お嬢さんを、こうあるべきだという理想像でしか見ていないんじゃないかと思いますね。私には息子しかいないんで、女の子を育てる難しさみたいなものはよく分かりませんがね」


 それを聞いた松波は、うんうんと頷き、


「お嬢さんはいい子ですよ。私のところは娘が一人いるんですけどね。もう嫁に行きましたけど。高校生の頃なんかは、うちの旦那に対してはもう、けちょんけちょんでしたよ。それに比べたら、お嬢さんはご両親に対して思うところは沢山あるはずなのに、全然反抗するような素振りもなく普通に接してらっしゃいます」


 今日、上一色かみいっしき夫妻が不在で正解だったかもしれない。二人の内どちらかでも在宅していたら、こんな話はとても出来なかったろう。


「……大変参考になりました。お二人とも、ありがとうございます」


 理真は頭を下げて礼を述べた。


「あらやだ、もうこんな時間」


 松波が柱時計を見上げて頓狂な声を出した。時計の針は昼十二時を指している。


「お昼、急いで何か作りますね」


 腰を浮かせた松波に対し、理真は、


「私たちは外に食べにいきますから、どうぞお構いなく」

「あら、そうですか。じゃあ、三人分、何か作らなきゃ。牧田さんも手伝って下さいな」


 松波は牧田を連れて台所へと走っていった。部屋を出る間際、


「お嬢さんもお腹を空かせていると悪いですし……」


 と呟いていた。桜は少しは食事にも手を付けるようになってきたと松波が昨日言っていたのを思い出した。もっとたくさん食べて欲しいという想いが、その言葉に込められているのだろう。


「諏訪さん、ひとつお願いが」


 座卓の上に散らばったままだった捜査資料をまとめながら理真が言った。すっかり忘れていたが、あの惨たらしい写真が一番上になっていなくてよかった。牧田と松波に見られでもしていたらと思うと。犯行発見時の話のように気絶されてしまうかもしれなかった。


「はい、何でしょう。私は安堂あんどうさんたちの捜査に便宜を図ってくれといわれておりますので、何なりと使って下さい」

「桜ちゃんの通っている学校に聞き込みに行きたいんですけれど、警察から話を通してもらったほうがいいですよね。今は部外者が学校に入るのは何かとやかましい時代ですし」

「桜さんの学校にですか? でしたら、とりあえず行ってみますか。学校でじかに私から事情を説明しますよ」

「よろしくお願いします。お昼休みに聞き込みを済ませたいので、私たちのお昼ご飯は遅くなりますけど」


 諏訪刑事は、構いません、と答える。私も同意だ。ちょうど食欲がなくなっていたし。


 諏訪刑事の覆面パトに乗せてもらい、私たちは桜の通っている清水女子高等学校へ向かった。渋滞も考慮して車で三十分くらいかかるだろうと諏訪刑事の推測だった。


 学校の駐車場へ車を停めて校舎へ向かう。

 来客用の玄関は生徒用のものよりも奥にあるようだ。すでに時間はお昼休み。途中すれ違った何人かの生徒たちが私たちに奇異な視線を投げかける。


 諏訪刑事は短い頭髪を小綺麗にセットした髪型に青い背広。こうして並んでみると、背丈は百七十五センチといったところか。刑事というよりは営業マンのような印象を受ける。

 今日の理真の服装は白いセーターにスカイブルーのスカート。私は紺色のセーターにジーンズ。この三人、どう見えているのだろう。まさか刑事と素人探偵とその助手だとは夢にも思うまい。



「オーケーです、昼休みの間だけですが、生徒たちに聞き込みを行う許可が出ました。安堂さんの希望通り、桜さんと仲のいい友達も呼び出してもらいました。すぐに応接室まで来るそうです。あまり刺激的なことは言わないでくれと釘を刺されはしましたが」


 職員室から戻った諏訪刑事が、応接室に待たされていた私たちに告げた。


 出されたお茶をすすりながら待っていると、三人の女子生徒がノックのあとに入ってきた。女子校だから女子生徒なのは当たり前なのだが。三人は小さい声で「失礼します」と言って頭を下げる。三人の後ろに教師とおぼしき中年女性が帯同していた。

 諏訪刑事の薦めで三人の生徒がソファに腰を下ろしたあとも、教師は後ろに立って構えている。


「ちょっと、歩きながら話しましょうか」


 その様子を見た理真が立ち上がり、半ば引っ張るように私たちと三人の生徒を応接室から連れ出してしまった。


「あ、先生はここで。どうもありがとうございました」


 尚も帯同しようとした教師に声を掛けて制すると、理真は早歩きで生徒たちを連れていってしまう。私たちも付いていくしかない。去り際に、慌てて諏訪刑事が回れ右をして一礼した。


「話しやすい場所があれば、そこに行きましょう。教えてくれる?」


 廊下の角を曲がって教師の姿が見えなくなると、早歩きをやめた理真が生徒に話しかける。


「お姉さんも刑事なんですか?」


 生徒のひとりが理真の顔を覗き込むようにして尋ねた。


「ふふん、見えない?」


 理真は片手で、ぱさりと髪の毛を後ろに払って生徒たちに流し目を送る。


「見えないですよー」「かっこいい」


 生徒たちが歓声を上げる。そりゃ見えないだろう。だって、刑事じゃないんだもん。


「それじゃあ、体育館の裏に行きましょう。あそこならゆっくりお話できます」


 生徒のひとりが提案して、他の二人も賛成の意を示す。


「ありがとう。ジュース奢ってあげる」


 理真は通りかかった玄関脇にある自動販売機を指さしたが、


「そういうことでしたら、ここは私が」と諏訪刑事が自販機に走った。


「あの刑事さんと付き合ってるんですか?」

「ううん、全然違うよ」


 生徒の質問に理真は即座に答えた。諏訪刑事は自動販売機から吐き出された六本の缶ジュースを抱えようと悪戦苦闘していた。



「えー? 探偵?」「ホントにー?」「マジ、ヤバい」


 理真と私の正体を聞いた生徒たちは、一様に驚きの声を上げた。


「素人探偵ですか、映画やドラマで見たことありますけど」「初めて会いました」「しかも、美人でかっこいい」


 三人の生徒の理真を賞賛する言葉は続く。理真も、うんうん、と何を気取っているのか知らないが、不適な笑みを浮かべて得意げに聞いている。漫画なら鼻が伸びているところだ。


「助手のかたもかわいいですね」


 生徒のひとりは私にも声を掛けてくれた。他の二人も、そうそう、と頷いている。私もちょっと鼻を伸ばしていいかな。


「本業は作家なんだけどね。安堂理真って、聞いたことない?」


 美人素人探偵祭りの中、理真が放った言葉は三人を沈黙させた。若者の活字離れに歯止めが掛からないと聞くが、さすがに理真はショックを隠せないようだ。祭りは終わった。桜が特別読書家だったということなのだろうか。


「さ、桜ならきっと知ってますよ。あの子、本好きだから」


 フォローするように声を掛けてくれた生徒のその言葉で、息を吹き返したように理真も語り返す。


「そう、今日は、その桜さんのことで話を聞きに来たの」

「やっぱり……事件のことですよね」


 生徒たちも一転暗い表情になった。


「桜が人を殺したって、本当なんですか? 私たち、昨日桜の家まで行ったんですけど会ってもらえなくて……」


 先に逆に質問されてしまった。一般には、上一色家で変死体が発見されたというくらいしか報じられていないはずである。どこかで噂話を拾ってきたのだろうか。事件と同時に桜が学校を休んだため、そういった考えになるのも無理はないが。


「そういうわけじゃないんだけどね……」理真は言葉を濁し、「みんなに聞きたいのはね、桜さんのことで。二年生に進級してすぐくらいに、桜さん、何か様子がおかしくなったことがなかったかな」

「ああ、あれですか。確かに元気ないときがありましたけど、私たちもよく分からないんですよ」

「あれは、彼氏よ。彼氏に振られたの」

「あ、やっぱりそうだったんだ」

「あの年上っぽい人でしょ。私も一回見たことある。でも、桜に聞いたら否定してたよ」

「それは、何か人に言えない事情があったのよ」

「もしかして……不倫?」

「いやいや、奥さんがいるような感じの人じゃなかったよ」

「でも確かに、あれ以来、桜に彼氏がいる気配は全然ないよね」


 理真の質問を皮切りに、生徒たちは思い思いに会話をしだした。目の前に刑事と探偵がいることなど忘れてしまったかのように。


「あ、ごめんなさい」ひとりの生徒が気付いたように理真を見た。


「ううん、いいのよ。そうすると、桜さんの元気がなかった理由は、失恋したからだと、みんなはそう思ってるの?」

「桜に、それとなく聞いたこともあったんですけど、あの子、何でもないって言って。あまり触れたがらないみたいでした」

「少しは打ち明けてくれてもよかったじゃんね。そうすれば、私らも少しは慰めてあげられたのに。あ、変な意味じゃないですよ」


 それを言った生徒が顔の前で手を振る。


「でも、私、探偵さんになら慰めてもらいたいな」


 などと呟いて潤んだ目で理真を見つめる生徒もいる。おいおい、と他の二人が突っ込んだ。諏訪刑事は圧倒されているのか、全くその存在をかき消されてしまっている。


「その、桜さんが付き合ってたといわれる男の人って、どんな人だった? 名前とかは分からない?」


 理真は目を潤ませた生徒にウインクを送ったあと、質問を続ける。

 唯一その彼氏らしき男性を目撃したことのある生徒が、


「全然分からないんです。身長は……」と一度諏訪刑事に目をやって、「そちらの刑事さんと同じくらいだったかな。大学生っぽかった気がします。ちょっと頼りない感じがしたけど、やさしそうな人でしたよ。でも、彼氏かどうか本当に分からないですよ。二人並んで歩いてたけど手も握ってなかったし」

「あんた、何で声掛けなかったのよ」

「だって、何て言うか、幸せオーラに包まれててさ、声掛けられる雰囲気じゃなかったんだって。あんたらも見たら分かるって」


 オーラとは本来、可視エネルギーのことだから、この場合、本当に二人が目に見える何かに包まれていないとおかしいのだが、そんなことはどうでもいいだろう。


「そういえばさ、あの時もそうだったよね。去年の冬合宿」

「ああ、あったねー。あれも結局誰も桜に聞かないんだもん」

「だって、その話題に持って行こうとしたときの、桜の、その話には触れないでオーラが凄かったじゃん」


 またオーラだ。桜はどんな能力を持っているというのか。


「合宿? 詳しく聞かせて」


 興味を持った理真が話を引き出そうとする。女子生徒のひとりが話しだし、


「去年のテニス部の冬合宿で、栃木県の日光に行った時のことですよ。あ、私たち、桜も含めて全員テニス部なんです。二泊三日の合宿で、練習とか向こうの高校との練習試合なんかやってました。昼間はそんなで、夜は当然ホテルに缶詰なんですけど。まあ、それはね、夜に抜け出して遊びに行くような生徒もいるわけですよ」

「いるわけですよ、って、私らじゃん」

「まあ、そうなんですけど。外に出たって、神社とか寺だけで全然遊ぶとこなかったんですけどね。それで、出る前に桜も誘おうと思って声掛けたら、自分は用事があるからって、ひとりで部屋に残るって言うんですよ。でも、遊ぶところもなかったし寒いんで、予定を早めて帰ってきたんですけど、そうしたら桜がいないんですよ。で、しばらくしたら帰ってきて」

「ちょうど、私らが帰るって言ってた時間の少し前に帰ってきたよね」

「そうそう、だから、これはあの子、私たちに内緒でどこかへ行って、知られないように帰るつもりだったんだなって。どこ行って来たのって聞いても、何か、ふにゃふにゃした答えで」

「翌日も夜に出掛けたんですよ。私らはもう抜け出す気なかったから、もう何も聞かないで、行ってこいって送り出したんですけど」

「先生にアリバイ証言もしたしね。麗しき友情」

「帰ってから色々奢ってもらったね。お礼に」

「なるほど……」


 話を聞き終わった理真は下唇に人差し指を当てて黙り込む。理真が考え事をするときの癖だ。


「まあ、隠す気持ちも分かるけどね。桜も一年のとき大変な目に遭ったから」

「一年のときって、桜さんが彼氏と別れさせられたっていう?」

「探偵さん、そんなことも知ってるんですか? さすがですね。でも、彼氏ってんじゃなかったよね」

「うん、そこまでは行ってなかった。友達以上恋人未満、ってやつ?」

「あれはかわいそうだったよね。桜の親もさ、娘の心配するのは分かるけど、ちょっと異常だよね」


 女子生徒がそこまで言ったとき、チャイムが鳴った。ああ、懐かしい響き……などと感傷に浸っている場合じゃない。


「あ、ごめんね。こんな時間まで」


 慌てた理真に、生徒のひとりが、


「大丈夫ですよ。今のは予鈴だから。でも行かないとまずいね」

「色々ありがとう。とても助かったわ」

「本当ですか。桜がどんなになってるか分からないですけど、力になってやって下さいね」

「それじゃ。今度、探偵さんの書いた本、読んでみますね」

「あ、あの、また会えますか? アドレス交換して下さい……」

「ほら、次の授業遅れたらやばいって、行くよ」


 顔を赤らめながら携帯電話を取りだした生徒の首根っこを、他の二人が掴んで引きずりながら、三人の姿は校舎の陰に消えていった。


「……嵐のように過ぎ去りましたね」


 ここへ来てから初めて諏訪刑事が口を開いた。


「ごめんなさい。諏訪さんも何か質問があったんじゃないですか?」


 理真も、その存在を今思い出したように諏訪刑事を振り返った。


「いえ、私は特に……」

「そうですか。じゃあ、遅くなりましたけれど、お昼にしましょうか」


 賛成だ。ようやく食欲も戻ってきた。


「では、私に案内させて下さい。長野のうまい店を紹介します」


 諏訪刑事が笑顔を見せたとき、本鈴のチャイムが校舎に響いた。

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