第4章 桜との面会

 目が覚めた。

 時計を見ると七時だ。七時半から朝食だと昨夜聞いていた。まだ寝ている理真りまを起こし、歯を磨き顔を洗って着替えて、昨夜夕飯をいただいたのと同じ母屋の部屋へ向かう。

 別棟を出る途中、松波まつなみと出会った。手には布を被せたお盆を持っている。さくらの朝食だろう。おはようございます、と私たちは朝の挨拶を交わした。


「お嬢さんの部屋には八時半くらいにお越し下さい。それまでに私が話をしておきますので」


 そう言い残して松波は二階へと上がっていった。


 今朝は理真の和式便器トークを聞かされることもなく、おいしく朝食をいただいている途中、牧田まきたが固定電話の子機を持って現れた。


安堂あんどうさん、長野県警の方からです」


 理真は礼を言って子機を受け取り耳に当てた。



「長野県警の刑事さん、十時くらいに来てくれるって」


 子機を牧田に返し、理真は食事を再開した。


「どんな感じの人だった?」

「うーん、普通かな。とりあえず、私たちを邪険にするような刑事さんじゃないみたい」



 朝食を終え部屋に戻り、時計が八時半になるのを待って部屋を出る。二階へ続く階段を上りきると、待ち構えていたように松波が立っていた。


「どうぞ、こちらです」


 松波は廊下の一角のドアを示す。

 理真は、ひと呼吸おいてノックをしたが返事はない。松波を向く。彼女が頷いたため、理真は「お邪魔します」と声を掛けながらドアを開き、部屋へ足を入れた。私、松波と続く。

 広さは私たちが泊まっている部屋と同じくらいだが、ベッドがひとつしかないため広々とした印象を受ける。正面には大きな窓。ベッドは部屋の中央に左の壁に頭を寄せて置かれている。その上では上半身を起こした少女が窓のほうに顔を向けている。腰まで届く長く美しい髪。


「お嬢さん、探偵さんです」


 恐る恐るという具合に松波が声を掛ける。しばらく少女は無反応だったが、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 端正な顔立ちに大きな目、憂いを帯びた表情。女の私でもどきりとしてしまう。写真で見るより数段美しい。いや、私が見た写真は事件が起きる以前のものだ。その写真に写った少女はもっと健康的なイメージだった。テニス部に所属していると資料にはあったが、今、目の前にいる少女からはそんな活動的な印象は全く受けない。ひとつの事件がここまでひとりの少女の印象を変えてしまったのか。彼女が、上一色かみいっしき桜。こちらに顔を向けはしたが、桜は口を開かない。


「初めまして桜ちゃん。安堂理真といいます。どうぞ、よろしく」


 理真が先手を打って挨拶した。微笑みを湛えたやさしい表情で。こうしていると理真も桜に負けないかなりの美人なのだが。


「安堂……理真」


 一瞬理真の顔に目をやった桜は再び俯き、唇を微かに動かして呟いた。

 理真は部屋の右手ある本棚を、頭を動かさず目の動きだけで見ている。私も見ると……この距離では書名や作者名まで読み取ることは出来ないが、見憶えのある背表紙が何冊か目に入った。間違いない、理真の著書だ。

 分かったぞ理真。彼女は、桜は安堂理真の作品をいくつか読んでいる。これはいけるかもしれない。泰蔵たいぞうや松波は探偵が来ると伝えただけで、名前までは言っていなかったのだろう。

 桜の視線が上がり理真の顔を捉えた。不思議そうな表情をしている。


「……安堂理真って、作家の?」


 桜の問いかけに、理真は頷いて、


「ちょっとわけがあってね、こういうこともやってるの。桜ちゃん、よかったら話を聞かせてもらえないかな」


 理真はゆっくりと桜のほうへ歩み寄ろうとしたが、


「駄目」


 その声で理真の足が止まった。


「何も話すことはありません。すみません。帰って下さい。」


 桜はベッドに横になり、向こうを向いて布団を被ってしまった。

 理真は私の顔を見て、困ったような笑みを浮かべた。



「ちぇっ、いけると思ったんだけどね」


 再び現場へ向かう途中、理真は拗ねた。


「桜ちゃん、理真の本読んでたんだね。それを見たとき私も、これはって思ったよ。愛読している本の作者にならって」

「甘かったわ」


 桜の籠絡に失敗したあと、明るい昼間にもう一度現場を見ようということになり、今度は外から勝手口へ向かっている途中だ。


「これは外堀から攻めないと駄目だね」


 理真は気合いを入れ直したように、きりりと口を結ぶ。


「何か手はあるの?」

「うん……ちょっとね」


 そんなことを話しているうちに現場へ着いた。こうして昼間に見ると全く普通の勝手口だ。コンクリート上の人型のテープと血痕さえなければ。見上げると、やはり軒下の上に屋根のひさしが出ている。ここに入れば雨をやりすごすことも可能だろう。新幹線の中での推理を思い出す。

 理真はコンクリートとブロック塀の間の地面を見て回っている。


「事件の夜、雨が降ったっていうのがやっかいね。何かあっても洗い流されちゃってるよね。まあ、何か残ってたら鑑識が見逃すはずはないけど」


 所々草が生えているが、足跡が全く残らないような地面ではない。今回の事件では足跡はあまり問題にならないと思うが。


「安堂さんでしょうか?」


 声がした。見ると、母屋の陰から青い背広を着た若い男性が顔を出している。

 そうですけど、と理真が答えると、その男性は足早に駆け寄ってきて、


「どうも、初めまして。私、長野県警捜査一課の諏訪すわと申します」


 警察手帳を見せながら、丁寧に腰を折って挨拶してくれた。



 私たちは母屋の居間を借りて諏訪刑事の持ってきてくれた資料に目を通した。

 お茶を出してくれた松波と諏訪刑事は二言三言言葉を交わした。どうやら諏訪刑事は事件が起きた直後にここへ駆けつけており、家のもの全員と顔を合わせているらしい。


「探偵さんが来ると聞いて、どんな人かと思っていたんですが、こんな美人のコンビとは意外でした」


 初めて理真を見た男性刑事は大抵似たような反応をするな。

 探偵は理真で、私は助手ですと訂正したが、美人という言葉には訂正を入れないでおいた。


「諏訪さん、新潟県警の丸柴まるしば刑事を通して、調べて欲しいとお願いしていた件は、どうでしたか?」

「ああ、あれですか。検屍した医師の話ではですね。正直分かりません、とのことでした」

「そうですか……」

「何? 何の話?」


 私の知らない話が進んでいたようだ。


油木あぶらきさんの死体からね、どれくらいの内蔵がなくなっていたか分からないかって調べてもらってたのよ。本当に桜ちゃんが死体を食べていたのだとしたら、生前よりは確実に臓器の量が減っているはずだから」


 思い出した。昨夜の脱衣所で電話していた件か。やはり理真は桜食人説に疑問を投げかけているのか。


「そうなんです」と諏訪刑事が詳しい解説を始め、「最新の身体測定結果によれば、油木さんの体重は八十二キロでしたが、これは半年以上前の健康診断でのデータですからね。多少上下していたと考えて普通でしょう。死ぬ直前の体重が分からない限り、死体時の体重との比較はできません。事実、死体の体重は正確には八十三.五キロだったそうです。内臓の状態から欠損部分を確認しようかとも考えたのですが、死体の内蔵はズタズタに切り裂かれていまして、どれくらい欠損したかは分からないそうです」

「そうですか。ありがとうございます」

「安堂さんは、桜さんが死体を食べていないと考えているんですか?」

「その可能性もあるのではないか、と」

「油木さんが殺された直後は分かりませんが、桜さんは最後に、確実に臓物を一切れ口に入れて飲み込みましたよ。私もこの目で見たんですから」

「諏訪さんは通報でここへ駆けつけていたんですね」

「そうなんです。たまたま当直でして」

「桜さんが臓物を掴み取って口に入れたときのことを、詳しく教えてもらえませんか?」


 理真は座布団ごと、ずずっと諏訪刑事に近づいた。


「は、はい、えーと、あの時はですね……」


 理真の顔がぐっと近づき明らかに動揺している。顔が赤いぞ、しっかりしろ諏訪刑事。


「わ、私どもが駆けつけた時にはですね。油木さんの死体を前に桜さんは座り込んでいて、両腕を高島たかしまさんと稲葉いなばさんに掴まれていました。油木さんの死体は仰向けで上着をたくし上げられており、露出した腹部を切り裂かれ臓物がはみ出て辺りは血の海。酷い状態でした。勝手口の向こうの台所では、牧田さんと松波さんが椅子にぐったりと腰を掛けていて。桜さんの様子は、何て言うか、鬼気迫るものがありましたよ。服も髪も血で濡らして頬や口元にも血が付いていましたね。それで、まっすぐに油木さんの切り裂かれた腹を見つめているんですよ。時折高島さんと稲葉さんが力を込めるような動作をしましたから、何とか抜け出そうとしていたんじゃないですかね。それで、いざ連行しようと、高島さんと稲葉さんが警官に桜さんを引き渡そうとした一瞬の隙でしたね、あれは。桜さんの右腕がするりと抜けて、油木さんの傷口に突っ込まれて、引き抜いた血まみれの拳を口元に持っていって、手の中のものを飲み込んだんです。ごくりって喉が鳴る音がしましたもの……」


 丸柴刑事から聞いた内容と同じだ。話しているうちに記憶が甦ったのか、諏訪刑事の顔色が青くなっていった。


「今の話だと」私は所見を述べてみる。「諏訪さんたちが駆けつけた時点で、桜さんの頬や口元にも血が付いていたんですよね」

「はい、それは間違いありません」

「だったら、やっぱり桜さんは食べていたんじゃない? 口元に血が付いていたっていうのが、それを証明してる気がするけど」

「うーん……」理真は唸って黙ってしまった。


「諏訪さん、他に何か資料を持ってきてくれたんですよね」


 私は、さっきまで理真が見ていた資料に目をやった。


「ええ、通報されて警察が到着した直後の現場や死体の写真です」


 う、そういうことか。やっぱり私も見ないと駄目だろうな、助手と名乗った手前。恐る恐る座卓の上から資料を引き寄せる……やっぱり見なきゃよかった。

 理真の助手として何体も死体を写真で、時にはじかに見てきた私にも、これは強烈だった。腹部を横一文字に切り裂かれた油木の死体。覗く真っ赤な臓物。理真はこんな写真をよく涼しい顔で見ていたな。


「傷口が開いているのはですね。桜さんが腹を裂いた後、手で広げたためではないかと思われます」


 諏訪刑事の解説を聞いて、理真も改めて写真を覗き込んだ。


「医師の方もおっしゃっていたように、内臓もズタズタですよね」


 そんな感想を述べもする。やはり涼しい顔で。理真は他の写真を引き抜いてショッキングな写真の上に乗せた。それは勝手口外の全景を捕らえた写真だった。勝手口のドアからブロック塀までが写っている。これが撮られたときには、すでに油木の死体は搬出されたあとで、コンクリートには死体の代わりに人型のテープが貼ってある。


「地面には足跡などは残っていなかったんですよね」


 理真は写真を指さしながら諏訪刑事に確認する。


「ええ、雨が上がった直後でしたから。足跡があったとしても洗い流されていたでしょうね」

「油木さんの死体は雨で濡れていたけれど、桜さんはそうではなかった」

「その通りです。油木さんの死体は雨でびっしょりでしたが、桜さんは濡れてはいませんでした。血の汚れだけでしたね」

「傷口に雨水の混入はなかった」

「はい。ですので、桜さんが油木さんの腹を裂いたのは、雨が上がってからと考えられています」


 何もかも最初の話の通りだ。

 さらに理真は他の点についても再確認する。油木の死因が後頭部への打撃であること。凶器が見つかっていないこと。死亡時刻は午後十一時であること。降雨時間は十一時少し前から一時までの間であること。(諏訪刑事は気象台に問い合わせた正確な時刻、十時五十五分から一時と答えた)裂かれた腹部の傷に生活反応はなく、死後に付けられたものであること。


「油木さんの死亡時刻の、この家にいた人たちのアリバイはどうですか?」

「ありません。全員、午後十一時にはひとりで布団やベッドに入っていたと証言しています。泊まり客の高島、稲葉両人も個室をあてがわれていましたから互いのアリバイ証明はできません。桜さんだけは証言が取れていませんが」

「あのー、皆さん」


 襖が開き松波の声がした。松波は襖の向こうから顔を出しながら、


「お昼ご飯は何か用意しましょうか? 私と牧田さんとお嬢さんの分を作るので、ついでと言っては何ですが、もう三人分作っちゃいますけど」


 時計を見ると十一時だ。もうそんな時間か。しかし私は全然お腹が減っていない。というか、さっき見た写真のおかげで食欲がない。


「泰蔵さんは、いらっしゃらないんですか?」


 理真が訊くと、


「はい、旦那様は今日は会社に行っております」

「泰蔵さんの奥さんは? 昨日もお見かけしませんでしたけれど」

「奥様は昨日からお仕事で泊まりなんです。今日の夜にお帰りの予定です」


 そういえば、泰蔵の妻(名前はマキといったか)には、まだ会っていない。美容セミナーの仕事をしているとか。


「そうですか……松波さん、ちょっとお時間いいですか?」


 松波は、はいはい、と言いながら部屋に入ってきて座布団に腰を下ろした。


「桜さんのことで伺いたいことがあるのですけど」

「はい、私にお話できることでしたら」

「桜さんに何か変わったことはありませんでしたか? ここ最近に限定しません。半年や一年、もしくは、それ以上の長いスパンで、何か普段と違うなとか、おかしいなと感じたことはありませんか?」

「普段と違うこと、ですか……」


 松波が首を傾げて考え出したところに、牧田も顔を見せた。


「松波さん、お客さんのお昼はどうします……ああ、皆さんお揃いでしたか」

「牧田さん、ちょうど良かった」


 理真は牧田も部屋に招き入れ、松波にしたのと同じ質問を投げた。


「ありゃ、いつだったかな、松波さん。お嬢さんが、えらくふさぎ込んでた時期があったよね」

「ああ、あれはね……お嬢さんが二年生になってすぐくらいだったから、今年の春だね」


 牧田と松波が顔を見合わせ話し始めた。


「でも、そんな前のことだから、今度の事件とは関係ないと思い――」

「いえ、ぜひ聞かせて下さい」


 牧田の言葉を遮って、理真は話してくれることを求めた。じゃあ、と牧田は口を開いた。

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