第3章 上一色家へ

 車は街中を抜け山の方角へと向かっている。次第に窓から見える町の明かりも乏しくなってきた。やがて見えてきた大きな門をくぐると、古風な邸宅が車のヘッドライトに映し出される。

 門をくぐり車を降りた私と理真りまは、とりあえず今晩から宿泊する部屋へ案内された。最初に目に入った古風な邸宅は母屋で、その隣に現代風の二階建ての別棟がある。私たちは、そこに泊まることになるようだ。

 部屋は一階の奥。十畳の広さにツインベッド。牧田まきたの話によると、普段は使われることはなく宿泊客用の部屋だということだ。


「この別棟の二階には、さくらお嬢さんの部屋があります。今のお嬢さんの状態はお聞き及びでしょう。もちろん捜査のため、お嬢さんにもお話を聞く必要があろうかと思いますが、それについては明日、家政婦の松波まつなみからお嬢さんにお話します。それまではお嬢さんを刺激するといけませんので、二階へは上がらぬようご配慮をお願いします」


 私たちを部屋まで案内してくれた牧田は申し訳なさそうに頭を下げた。

 桜は事件以来、全く何も喋らずにいるということだが、それは今も継続中のようだ。学校も当然休んでいるという。


「あ、それから」一礼して部屋を立ち去ろうとした牧田は、何かを思い出したように振り返って、「お手洗いは母屋のほうをご使用下さい。一端外に出なければならず、ご不便でしょうが、屋根のある渡り廊下がございますので」

「この別棟にはトイレはないんですか?」


 理真が訊くと、


「いえ、もちろんございますが、今は壊れていまして。何か詰まったようなんです。早ければ明日にも修理が終わるのですが。母屋のお手洗いは和式ですので、洋式に慣れた若い方にはご不便かけるでしょうが」

「ぼっとんですか?」

「……いえ、水洗でございます」


 理真、くみ取り式と言ってくれ。牧田が困惑している。というか、その情報必要か?

 十分程度で夕食の支度ができるので改めて呼びに来ると言い残して、今度こそ牧田は部屋を辞した。そこまでしてもらうのは申し訳ない気がしたが、よく考えてみれば私たちはこの家のことは全く分からないのだ。素直に食堂まで案内してもらうのが一番いい。

 食事には、途中からになるだろうが、桜の父、泰蔵たいぞうも挨拶に顔を出すという。何か訊きたいことがあれば食事のときに訊いてしまうのも手だ。


「同じ建物に桜ちゃんもいるんだね」


 理真はさっそくベッドの上に大の字に寝転ぶ。


「……ということは、よ」理真はベッドに腰を下ろした私を向いて、「桜ちゃんも母屋の和式便所を使うってことよね」


 何の話をしているのか。まあ、そうだろう。この建物のトイレが壊れているのではそうするしかない。


由宇ゆう、トイレ行きたくなってきた」


 シリアスな顔になった理真に私は、


「トイレの場所だけでも、先に聞いておけばよかったね。十分くらいしたら牧田さんが来るから、その時案内してもらおうよ」


 出て行ってからぴったり十分後に牧田は迎えに来た。

 私たちは食堂より先にトイレに案内してもらう。理真のあとに、ついでに私も用を足した。


 母屋の中は別棟と違い、見た目通りの純和風の建物だ。食事に案内された部屋も広い畳敷きだった。大きな座卓の上に二人分の料理が並んでいる。


「では、ごゆるりと。後ほど泰蔵がご挨拶に伺いますので」


 一礼して牧田は去った。


 家屋は純和風だが食事は和洋折衷だ。若い人ということで配慮してくれたのだろうか。いや、この家には私たちより若い桜がいるので、これが普通なのだろう。


「いやー、久しぶりに和式便器で用を足したわ」


 と、いただきますをした直後に理真。

 食事に入って最初の話題がそれかよ。まあ、私も久しぶりだったけれど。


「和式便器って、洋式よりも余計に水を使うんだよね」理真の和式便器トークは続く。


「へー、そうなの。何で?」私も乗っちゃうなよ。


「洋式だとさ、出たものは直接穴に落ちて、あとはそのまま流すだけでしょ。でも和式はさ、一旦出たものを穴まで押し流さないといけないじゃない。だから洋式よりたくさん水がいるんだって」

「なるほど」


 言われてみれば確かにそうだ。ちなみに、私も理真もさっきしたのは大きい方じゃないからね。念のため。


「考えてみれば、水の勢いだけで出たものを数十センチ横移動させるんだからね。かなりの流量がいるよあれは。出たものが柔らかかったら便器に付着して余計な抵抗になっちゃうしさ……」


 食事時というシチュエーションを意にも介さない理真の和式便器トークは、襖の開く音でとうとう中断された。


「ようこそお越し下さった。私が上一色かみいっしき泰蔵です」


 部屋に入り一礼した男性は、そう名乗った。

 私たちも座したまま一礼する。この人が、上一色泰蔵。桜の父親。病床についているという話だが、確かに顔色が優れないようだ。もっとも、病気のせいだけではないのだろうが。


安堂あんどうさんは、どちらかな?」


 泰蔵の問いに、理真が箸を置いて右手を挙げた。

 泰蔵は、失礼、と言って座卓の一角に腰を下ろす。私たちは挨拶をして自己紹介を済ませた。


「長野県警の本部長とは古い付き合いでしてね。新潟に素人探偵がいるという話を聞いて、お願いしてもらったのです。私も探偵が活躍する読み物は読んだことがありますが、探偵もワトソンも女性同士のコンビというのは珍しいですね」

「はい、行く先々でよく言われます。でも、私は私立探偵ではないんです。本業は作家なんです」


 理真は訂正する。さっき便器トークをしていた時とは全く違うよそ行きの喋り方だ。


「ほう、作家ですか。やはりご自身のご活躍を書いておられるのかな。エラリー・クイーンのような」

「いえ、私の専門は恋愛小説なんです」

「そうなのですか。では申し訳ないが私には縁がない。若者に人気なのでしょうか。桜は本が好きなので、安堂さんの作品を読んだことがあるかもしれない……」


 泰蔵の表情が曇った。それを見た理真も居住まいを正す。話を切り出す絶好の機会だ。


「その件なんですが泰蔵さん。私にご依頼下さったのは、ありがたく、光栄に思っていますが、私に出来ることは事件の捜査と推理だけですよ」

「……とおっしゃると?」

「捜査、推理の結果、警察の考えと同じ結論が導き出される可能性もあるということをご了承願いたいのです」


 泰蔵の視線が鋭くなった。


「……桜が、近安ちかやすくんを殺し腹を裂いて、臓物を口にした、と」

「はい」


 泰蔵はまぶたを閉じると、


「……それでもいい」


 呟いてからゆっくりとまぶたを開き、


「もしも、桜が殺人犯だったとしても、あのような残忍な行為に及んだのだとしても、私はその理由が知りたい」

「それを聞いて安心しました。ご期待に添う結果にはならないかもしれませんが、全力を尽くします」


 それを聞くと泰蔵は深々と頭を下げた。


「泰蔵さん、牧田さんから捜査は明日からと言われましたが、ご飯をいただいたら、出来ることは今夜から手を付けたいと考えています。現場を見ることは出来ますか」

「そう言っていただけるとありがたい」泰蔵はまた頭を下げ、「牧田を付けましょう。家の中の案内も兼ねて見て回って下さい。家のどこを見てもらっても構わない。別棟の二階以外は……」

「桜さんにお話を聞けるのは、やはり明日にならないと駄目ですか」


 理真の言葉に表情を曇らせる泰蔵。少しの沈黙のあと、重そうに口を開く。


「……桜は、あの子は、何も話してくれないのです。私にも、家内にも、とても慕っている家政婦の松波さんにもです。今日の放課後に学校の友達が見舞いに来てくれたのですが、会いたくないと突っぱねて。女性の探偵さんが来るから話をしてもらえないかと言っても全く反応がなく。過保護な親だと思われるでしょうな。人様を殺めたかもしれない人間を、娘だからといって警察に渡すのも拒否して。死んだ近安くんにも申し訳ないと思っている。啓助けいすけ――近安くんの父親にも会って詫びた。あいつは、近安くんにも殺されるなりの理由があったんだろうなどと言ってくれていたが、いかな放蕩息子とはいえ子供を失って悲しくないはずがない」


 再び訪れた沈黙。それを破ったのは、やはり泰蔵だった。


「明日の朝、また松波さんに話をしてもらいます。そこでの桜の反応がどうあれ、安堂さんにはあの子と会ってもらいます。明るい朝のほうが心を開きやすいと思うのです」

「分かりました」

「何とぞ、よろしくお願いいたします。費用はいくら掛かってもかまいません」


 泰蔵はそう言うが、お金で事件が解決できるわけはない。それなら、世界一の名探偵は世界一の大富豪ということになってしまう。


「今、牧田を呼んできますので」


 泰蔵は部屋を出て行った。

 私たちは手早く食事を済ませて、用意されていたポットと急須でお茶を飲みながら牧田が来るのを待った。


「失礼します」


 襖が開き、牧田がこの日何度目か、私たちの前に姿を現した。


「さっそく今夜から調査を開始して下さるそうで。ありがとうございます。お支度がよろしければ現場までご案内しますが」


 私と理真は、お願いします、と言って立ち上がった。


 現場まで行く途中に母屋の中を簡単に案内してもらった。風呂場、牧田と家政婦松波の部屋。松波は今、桜に夕飯を届けに別棟へ行っているという。そして台所。


「ここです。この勝手口のすぐ外で、お嬢さんが……」


 牧田は台所にある勝手口のドアを指さす。

 勝手口の土間には数足サンダルが置いてあり、理真はそれに足を入れて勝手口を開けた。私もサンダルを履いて続く。

 ドアのすぐ外は二メートル四方程度の広さのコンクリート打ちになっていた。牧田が電灯のスイッチを入れてくれたらしく周囲は明かりに照らされた。

 コンクリートの上には人型にテープが貼ってある。一応洗い流したようだが所々に血痕も残る。コンクリートの向こうは、大小の庭石が点在する地面が二メートルほど続きブロック塀が立っている。


「そのコンクリートの上に、油木さんが倒れていて、その横に、お嬢さんが……」


 牧田は力が抜けたような声で言った。発見した時のことを思い出しているのかもしれない。


「牧田さん、そちら、新潟からのお客さんかい?」


 台所から声がした。見るとエプロン姿の中年女性と目があった。こんばんは、と会釈する。人型のテープ周辺を歩いていた理真も勝手口に戻ってきた。


「こちら、家政婦の松波さん」と牧田が紹介してくれた。


「どうかよろしくお願いいたします。お嬢さんを助けて下さい」松波は深々とお辞儀をする。


「安堂理真です、こちらこそよろしくお願いします」

「私は助手の江嶋えじま由宇です」


 挨拶を交わしつつも、私は内心複雑だった。今の松波の言い方だと、理真に桜が無実だと証明してもらいたがっている期待がありありだ。しかし、泰蔵に言ったように理真に出来ることは真実の解明だけなのだ。たとえそれが残酷な真実であっても。


「桜さんの部屋に行っていらしたんですよね。どんな様子でしたか?」


 理真は松波に話しかけた。泰蔵に言ったような、覚悟を促すようなことは口にしなかった。それが賢明だろう。


「夕食をお持ちしたのですけれど、相変わらず、ほとんど何も喋ってはくれませんでした。でも、少しはご飯も食べてくれるようになりました」

「私が話をするのは、今はまだ無理ですか」

「……はい、明日の朝、またお嬢さんにお話ししますけれど。明日のお嬢さんの反応がどうあれ、探偵さんにはお嬢さんに会っていただけと旦那さまから言われておりますので」


 松波は桜も慕っている人物だという話を泰蔵から聞いたが、そんな人にも何も話さないというのであれば、理真が行ったところで状況が変わるかは疑問だ。


「分かりました」


 理真は松波と牧田の二人を交互に見て、


「ちょうど発見者のお二人がいらっしゃるので、事件当夜のことを伺ってもよろしいですか。大方おおかたの経緯は警察からの資料で読みましたけれど、何か他に付け加えるようなことや、あとから思い出したということはないですか?」


 牧田と松波は顔を見合わせ、首を傾げた。


「警察の方にお話ししたことで全てですよ」


 牧田が言うと、松波も頷く。


「資料によると確か……」理真は視線を上げ、「勝手口の外からの物音を聞いて松波さんが目を覚ます。牧田さんを起こして二人でここへ来てドアを開ける。するとそこには、油木さんの臓物を漁る桜さんがいた。牧田さんが桜さんを押さえる。松波さんの悲鳴を聞いた|高島

《たかしま》さんと稲葉いなばさんが駆けつける。泰蔵さんもですね。警察への通報はどなたが?」

「旦那さんです」


 松波が答えると、理真は話を再開し、


「警察が到着。桜さんを警官に引き渡そうと高島さんと稲葉さんが押さえた手の力を緩めた隙に、桜さんは油木さんの死体に飛びかかり、臓物を掴んで口に入れた」


 理真がそこまで言うと、松波はそのときの光景を思い出したのか、固くまぶたを閉じた。


「以上で間違いありませんか?」


 理真の問いに、二人は、それで間違いないと答えた。


「お二人が勝手口を開ける前、ドアの向こうからはどんな音が聞こえました?」

「……警察にもお話しましたが、よく憶えていないんですよ。何せ、その後に見た状況が、あまりに衝撃的でしたから。松波さんはどうだい?」


 牧田に答えを振られた松波も、憶えていないと答える。


「明らかに、人が何かを食べているような音がしたとか、そういうことも?」

「ええ、くちゃくちゃしたような音が聞こえていたかもしれませんが、すみませんが詳しくは……」


 桜が臓物を咀嚼そしゃくしていた音なのだろうか。想像して背筋に冷たいものが走った。


「すると、ちょっと腑に落ちないというか。言われているような猟奇的な状況と、現状は完全に符号するとは言えませんね」


 理真は顎に手をやって首を傾げる。


「どういうこと?」


 私が訊くと、


「桜さんは、いかにもがつがつと死肉を漁っていたような話になっているけど、実際に死体の臓物を口にしているところを見られたのは、最後に目撃された一回だけなのよね」

「うーん、誰も見ていないから、なかったとはいえないんじゃない? ある現象が起きても、誰もそれを知覚していなかったらといって、その現象は起こっていないなんてわけはないよ。誰もその瞬間を見たことはないけれど、現に宇宙はこうして存在しているよ」

「お、哲学的な話になってきたね。まあ、その問題はあとでいいか」

「私たちはもうよろしいでしょうか?」


 会話がおかしな方向へ行きそうなのを察知してか、牧田がいとまを告げようとする。


「あ、最後にひとつだけ」


 理真が去りかけた牧田と松波を呼び止め、


「事件当夜のお客さんも全員、私と由宇のいる別棟に泊まったんでしょうか?」

「いえ、皆さん、こちらの本棟の客間にお泊まりいただきました。若い男性がお嬢さんと同じ建物に宿泊するというのは、やはりよろしくないので」


 質問には松波が答えた。



 最後に現場周辺をひと回りして今夜の捜査は打ち切った。あとはお風呂に入って疲れを癒すだけだ。

 脱衣所へ行ったところで理真は携帯電話を取りだした。


「どこか電話するの?」

「うん、丸姉まるねえにね。長野県警にもっと詳しい捜査資料をもらおうと思って」


 理真はダイヤルして携帯電話を耳に当てた。


「あ、もしもし、丸姉。こんな時間だけど刑事だから関係ないよね」


 電話で会話を続けながら、理真は器用に服を脱いでいく。スピーカーモードにして携帯電話を置いて会話すればいいのに。そうこうしているうちに、理真は会話を途切れさせることないまま服を全部脱いでしまった。無駄な特技を持っているな。尚も理真は全裸のまま会話を続けている。風邪引くぞ。


「うん、じゃあ、よろしく」


 ようやく会話を終えた理真が風呂場に入ってきた。私はもう先に入って体を洗っている。


「丸姉が話しておいてくれるって。明日、資料を持って長野県警の刑事が来てくれることになると思う。そのまま私たちの捜査にも同行してくれるんじゃないかと」

「そうなんだ。素人探偵に理解がある人だといいね」

「そこは、向こうも気を遣ってくれるでしょ」

「理真、桜ちゃんは死体を食べてはいないって思ってるの?」


 私は、牧田と松波の話を聞いた最後に言った理真の言葉が引っかかっていた。


「それを調べるために頼み事をしたの。検屍解剖で油木さんの内蔵がどのくらいなくなっていたかが分かるかもしれないと思って」

「でも、最後に一口、内臓を掴み取って食べたのは確かなんだよ」

「そうね。その一口、それが今度の事件の鍵なのかも……」


 先に風呂場に入っていた私は、髪も体も洗い終わり湯船に身を沈めた。体中の毛穴から疲れが抜け出ていくようだ。やはり入浴は湯船に浸からなければ。シャワーだけだと、かえって疲れが溜まるような気がして私は駄目なのだ。

 眼鏡がないのと湯気でよく見えないが、理真も髪を洗い出したようだ。理真は真実に辿り着けるのか。そして、その真実が明らかにするものは。やはり上一色桜は猟奇の食人鬼なのか、それとも……

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