第2章 食人の理由

 事件の概要を聞き終えた理真りまは、レアチーズケーキ最後の一切れを口に放り込んだ。

 丸柴まるしば刑事は喋り通しだったため、ショートケーキは半分以上残っている。


「長野県警としてはね……」


 丸柴刑事は、満を持して、といったように自身のケーキにフォークを入れながら、


上一色桜かみいっしきさくら油木あぶらきを殺害、乱心して死体の臓物を口にする行為に至った。と、こう解釈するしかないと」


 言い終えると、今までで一番大きく削ったケーキの欠片をフォークで口に運んだ。土台を大きく失った苺が危うく揺れる。彼女は苺は最後に食べる派らしい。


「地元の名士の家で起こった事件に対して、随分とそっけないじゃない。長野県警ってそうなの?」

「それがね……」


 理真の問いに答えようと、ケーキを飲み込みながら丸柴刑事が答える。そのため今の彼女の台詞は、正確には「ふぉれがね」と発音された。


「肝心の桜が取り調べにも、家族の問いにも、全く答えないのよ。殺害の動機も、いや、まだ彼女が殺したと決まったわけじゃないんだけど。死んだ油木の臓物を口にした理由も、そもそもあんな深夜に勝手口の外で何をしていたのかも、何もかも一切。これじゃあ警察がどんなに好意的な解釈をしようが桜を庇いようがないわ」

「その桜ちゃんが何かおかしなものを持ってたとかは?」

「ないわね。女性警官にも来てもらって身体検査をしたけれど、なにも持ってなかったことは確認されてるわ。身につけていたのは寝間着だけよ」

「うーん……」理真は唸って腕を組み、「事件が起きたのが、四日の深夜、日付では五日になってたわけだけど。ということは……今日は?」

「七日の月曜日」


 私が答える。作家という仕事をしていると、曜日感覚がなくなっていけない。


「五、六、七」理真は指を折って日にちを数えて、「事件から三日経ってるわけね。その桜さんは、今、拘置所に?」

「ううん、自宅にいるそうよ。本来は油木を殺したかどうかは不明としても、死体損壊罪には問われるわけだけど、そこは地元の名士の家で起きた事件だから。精神的に大きな痛手を受けているとか何とか理由を付けて自宅に軟禁することを許してもらってるみたい。家政婦の松波まつなみさんが、桜の部屋の隣に寝泊まりして、見張りをような役目をしてるけど。でも、それも限界があるからね。長野県警が急ぐのも分かるでしょ。土日の週末はさすがに連絡は自重したみたいだけど、月曜になったらすぐ電話してきたから。ま、新潟県警も忙しいからね。こうして理真に話が行くのは、お昼過ぎになっちゃったわけだけど」

「それで、私は、その事件の捜査をすればいいのね」

「うん。上一色家としては、早く真相を解明しないと、このままじゃ一人娘が殺人犯として逮捕されてしまう。しかも、死体の肉を漁った猟奇殺人犯としてね。長野県警は、このままでは地元名士の娘を逮捕せざるを得ない」

「うーん、その言い方だと、真相に関わらず、桜が犯人じゃない証拠をでっち上げろって聞こえるけど」

「そういうことじゃないのよ」丸柴刑事は両手を振って否定する。「上一色も長野県警も覚悟は決めてるわ。桜が犯人でも仕方ないって。でも、何せ事件の概要がさっぱり分からないのよ。真相をはっきりさせないと、逮捕も何もないわ。こんな事頼めるのは理真だけなの」

「いいわ。今回は報酬が出るんでしょ。行くわよ。長野県警に恩売ってくるわ」

「ありがとうー、理真ー」


 丸柴刑事は理真を抱きしめた。


「桜お嬢ちゃんの口を割らせるのが一番早いんだけど、そううまくいかないんでしょうね」


 丸柴刑事の腕の中で理真は呟いた。


 私たちは手早く出発の支度をして、早速新幹線の切符を取って長野へ向かうことにした。

 私が丸柴刑事に手伝ってもらいながら荷物をまとめている間に、理真がネットで切符を予約するためにノートパソコンの電源を入れる。

 上越新幹線に乗り、高崎たかさき駅で降りて長野新幹線に乗り換え長野駅へ。長野駅には依頼者の上一色泰蔵たいぞうの使いが迎えに来てくれるという。

 最初は理真の愛車で高速道路を使って向かおうと考えていたが、一刻も早く捜査を開始してほしいという依頼者の要望と、せっかく金持ちからの依頼なんだから甘えちゃいなさい、という丸柴刑事の言葉で新幹線を利用することにしたのだった。


 ふと、理真が操作しているパソコンの画面を覗くと、何とグリーン席を取ろうとしているのを発見し慌てて止めた。さすがにそこまで甘えることはできないだろう。平日の昼なら自由席でも楽々座ることができる。

 理真は、ちぇっ、などと言いながらグリーン席のチェックを外した。油断も隙もあったものではなかった。


 丸柴刑事から聞いた携帯電話番号の主である上一色の使いというのは、事件の第一発見者のひとりである使用人の牧田順平まきたじゅんぺいだった。理真が挨拶も兼ねた新幹線の到着時刻を知らせる電話を掛け、私たちは丸柴刑事の車で新潟駅まで送ってもらった。



 Maxときの二階から観る景色が好きなのよねー、などと言って大量のお菓子を買い込み、勢い勇んで自由席車両に乗り込んだ理真だったが、最初の停車駅燕三条つばめさんじょうに到着する前にシートに深く沈み込み豪快に爆睡してしまっていた。

 仕方がないので、私ひとりで丸柴刑事から借りた捜査資料に目を通しておくことにする。これもワトソンの務めだ。

 事件発覚までの流れは丸柴刑事の話で大体つかんだので、後の長野県警の捜査で分かった事実を見ていくことにする。


 まず被害者油木近安ちかやすの死因は後頭部への打撃による脳溢血によるものだという。

 いきなりこれは意外だった。てっきり桜が油木の腹部を切り裂いたことが死因だとばかり思っていたからだ。その腹部の傷からは生活反応が出ていない。これは油木が完全に絶命してから付けられた傷であることを物語っている。

 油木の腹部を切り裂いた包丁は発見時桜が所持していたが、死因となった後頭部を一撃した凶器は発見されていない。傷跡からそれは石か何かのような堅い鈍器ではないかと推定されると鑑識の報告にある。ちなみに使われた包丁は、勝手口を入ったすぐの台所にあった刺身包丁だという。

 死亡推定時刻は午後十一時。ここでまた、おや? と思う。

 丸柴刑事の話だと、物音に気付いた家政婦の松波と使用人の牧田が、勝手口外でおぞましい行為に及んでいる桜を発見した時刻は、午前二時くらいだったと記憶している。殺害から三時間もの間、桜はずっと油木の遺体を切り刻み、彼の臓物を口にしていたというのだろうか?

 おまけに油木の遺体は水に濡れていたとある。これは事件当夜現場地域を通り雨が通過したためであろうと考えられている。

 しかし、桜がその蛮行の現場を押さえられたとき、彼女の体も服も濡れてはいなかった。雨が降っていた時間は午後十一時少し前から午前一時の間。雨が降り始めた時間は油木の死亡時刻と一致する。


 遺体の表面は雨に濡れていたものの、腹部の傷口から露わになった臓物に雨水の混入はほとんど見られないという。桜が遺体に包丁を入れたのは雨が降り止んでからと考えられる。

 遺体発見現場、すなわち桜が油木の遺体を切り裂いていた場所は、勝手口のすぐ外の約二メートル四方のコンクリート打ち。ここは屋根はなく雨ざらしだ。


 現時点で得られた情報から、頭の中で事件当夜の様子を想像で再現してみる。


 午後十一時、桜が油木を殺害。

 少し前から雨が降っていたはずだ。それにも関わらず桜が濡れていなかったということは、彼女は傘でも差していたのか。それとも殺害後、着替えて髪を乾かしたのか。しかし、油木の死体は雨ざらしになった。

 午前一時、雨が降り止む。

 桜、油木の死体の腹を切り裂き始める。内蔵に雨水の混入がなかったので、開腹は雨が上がってからのはずだ。死体のあった現場には屋根がなく、傘を差したままでの開腹は難しいだろう。

 午前二時、松波と牧田が桜を発見。


 わけが分からない。

 まず、現場に傘はなかったから桜が傘を使用したとは考えられない。私は先ほど死体の腹を切り裂くのに傘を差したままでは難しいと考えたが、それは殺害時においてもそうだろう。死因は後頭部への打撃だ。鈍器で殴るにせよ石をぶつけるにせよだ。

 雨が止んでから傘を家に戻すか、どこかに隠したとも考えられないこともないが、わざわざそんなことをする必要がない。傘のことは考えなくてもいいだろう。

 そうすると、桜が雨に濡れていなかった理由は何だ? 着替えたのか? いや、それも傘と同じだ。わざわざ着替えて髪を乾かす理由がない。現場はまだ見ていないが軒下くらいはあるだろう。そこに入れば雨を凌げる。

 さらにそう考えるとだ。そこまで桜が雨に濡れるのを嫌がったのはなぜか。

 雨中で死体の腹を裂くという行為を嫌がったのか? それにしても殺害から二時間も雨が上がるのを待つとは。いかな深夜とはいえ、その間に誰かに見つかる危険を犯して。事実、松波と牧田に発見されてしまっている。

 いや、雨が二時間で降り止んだからいい。朝まで、あるいは朝になっても雨天のままだったら?

 凶器の包丁についてはどうだろう。

 油木を腹を切り裂いた包丁は台所にあった刺身包丁だ。現場近くにあった凶器を使用したということは突発的な犯行だったのか? しかし、実際に油木の命を奪ったのは未だ発見されない後頭部を一撃した鈍器だ。殺害した凶器はどこへいった?


 頭が痛くなってきたので、理真の意見を聞こうと横を向いたが理真は相変わらず爆睡中だ。口が半分開いている。起きた時には、さぞ喉が渇いていることだろう。


 新幹線は燕三条駅の次の長岡ながおか駅を出たところだ。長野新幹線への乗換駅である高崎駅へは、あと一時間ほどで着く。資料を読み進めることにする。


 頭の中で組み立てた事件の様相があまりに異様なため印象が薄れてしまった感があるが、この事件の肝は何と言ってもここだ。

『なぜ桜は被害者の臓物を口にしたのか?』

 これは食人だ。英語で言えばカニバルだ。

 私も理真の助手を務めるようになってから、過去の不可能犯罪事件を小説化したミステリをよく読むようになったため、多少の知識は持っている。


 人が人を食べるというタブーを犯す理由は様々ある。

 対象人物を好きになりすぎて、誰にも渡したくなく自分の一部としたいがため。中には好きになった人を食べることで性的な欲望が満たされるというものもいる。

 対象人物が特別な力を持っている、持っていると信じており、その力を自分のものとするため。

 単純に食料として好みであるため。

 また、閉鎖された空間に閉じ込められ、やむなく人を食べざるを得ない緊急避難としてのカニバルもあるが、今回の場合はこれは除外していいだろう。


 さて、食べられる対象となった被害者、油木近安とはいかなる人物であったのか。桜にとって己の内部に物理的に取り込みたいほど魅力的、惹かれる人物であったのか。そんなことは決してない。丸柴刑事の話では、桜は、被害者を蛇蝎だかつのごとく嫌っていたのは明らかだ。

 なぜ食う?

同じ空気を吸うのも嫌、という表現があるが、空気を吸うどころか、体の一部を体内に入れてしまっているではないか。しかも、肉ではなく内臓を食うとは、どういう了見なのか。


 そういえば野生肉食動物は、仕留めた獲物の内臓から食べ始めるという。一番傷みやすい部位だからだそうだ。今回の事件と関係があるとは思えないが。

 さらに全く関係ないが、犬は雑食だが猫は肉食動物であるということを聞いたときはショックだった。あんなにかわいい外見をしていても、猫は生まれながらの捕食者プレデターなのだ。

 理真の実家でもクイーンという名前の三毛猫を飼っているが、昔は外でネズミだかスズメだかを捕まえて持ち帰ったことがあったという。理真のお母さんがそれに驚き、以来クイーンは完全室内飼いの猫になった。

 しかしペットショップの店頭には、野菜入りの猫の餌が売っているではないか。あれは何なのだ。


 思考が大きく脱線してしまった。ちょうどよいので休憩にしよう。

 いいタイミングで車内販売のお姉さんが通りかかった。ホットコーヒーを購入する。新潟駅のキオスクで買っておいたアーモンドチョコを一粒口に入れ、コーヒーもブラックのまま一口飲む。温かいコーヒーが口の中でチョコを溶かしていく。私はこの感覚が好きだ。甘くないコーヒーや紅茶をチョコレートを口に含ませて飲む。最初から甘い飲み物では味わえないハーモニー。

 幸せな気分になって気を取り直したところで捜査資料に戻る。事件当夜に家にいた人物の詳細を見ていくことにしよう。


 丸柴刑事の話でも述べられていたが、事件発覚時、深夜勝手口に集まっていたのが当夜上一色家に集っていた全員だ。

 すなわち、容疑者桜、彼女の父泰蔵、発見者の松波、牧田、警察が来るまで桜を押さえていた、上一色建設社員の高島たかしま稲葉いなば。そして被害者油木。

 もし桜が犯人でないなら、この中に真犯人がいるというのだろうか。


「ふわっ……くくく……ふわっ」


 奇怪な声が隣から聞こえる。見ると理真が顔をくしゃくしゃにして両腕を上に伸ばしながら発している声だ。どうやら目を覚ましたようだ。理真は私のコーヒーを見ると、


「何だ、自分ばっかりコーヒーを飲んで。ずるいぞ。いや、水かジュースがいいな。喉が渇いた。というか口の中がパサパサだ」


 仕方がないので私は鞄からペットボトルの紅茶を出してやる。ホットのものを新潟駅で買ったのだが、もうすっかり温くなっている。

 理真は紅茶を半分以上一気に飲み、私のアーモンドチョコを一つ摘み、ひょいと口に放り込む。


「理真、捜査資料に目を通してたんだけど……」

「何か分かった?」

「何も分からないということが分かった」

「どれ、じゃあ、私も読ませてもらうわ。せっかく二階席なんだから、Maxときの車窓から眺める越後の風景を楽しみながら……」


 理真が窓に顔を向けた瞬間。我々を乗せた新幹線Maxとき号は、谷川岳たにがわだけを貫通し新潟と群馬の県境を跨ぐ、全長二十二キロメートルにも及ぶ大清水だいしみずトンネルへとその身を突入させた。


 車内アナウンスが間もなく高崎駅に到着する旨を伝える。

 結局資料も読まず、ふて寝していた理真を揺すり起こし、私たちは高崎駅に降りる。

 長野新幹線への乗換までの待ち時間と、長野へ向かうあさま号の車内では、今度は理真が気を取り直し、ひたすら捜査資料に目を通す番となった。


「桜ちゃんは油木さんを嫌っていた。殺す動機はなくもない」と資料を読み終えた理真は、「だけど、何も無理矢理殺す必要はない。彼女が黙秘を通しているため、何か事情があったのかは分からないけどね」

「乱暴されそうになって反撃したとか」


 私も意見を出してみた。


「桜ちゃんは、体重四十五キロ。油木さん、体重八十二キロ。かなりのウエイト差よ。そう簡単に殺してしまうほど抗えるかしら」


 資料の最後に写真と共に関係者のプロフィールも付いていた。上越新幹線の中では、私はここまで辿り着かないうちに資料を読むのを止めてしまったのだ。


「でも、現実に油木さんは死んでいる。致命傷は後頭部の打撃痕だね」


 私は関係者の写真を見た。

 上一色桜、確かに絵に描いたような美少女だ。対して油木近安、絵に描いたような道楽息子だ。体重からして、その外見は推して知るべし。この巨体の油木を華奢な桜が殺害できるだろうか。


「そう、そこも引っかかるね」


 理真は私の言葉尻に反応する。


「刺し傷が致命傷なら、隙を突いて桜ちゃんでも包丁の一撃で大の男を殺害できないこともないだろうけど、腹を裂かれた傷は死後に付けられたものなのよね。それと、話は戻るけど、桜ちゃんが油木さんに乱暴されそうになって、やむなく反撃して殺してしまったのだとしたら。黙秘する必要ないよね。正直に言えばいい。正当防衛が成り立つんだから。大体からして……」

「腹を裂いて内臓を食べる理由が一切ない」

「そう、全てはそこに集約されるんだよね」


 理真は頭を掻いた。


 資料から得られる情報には限界がある。現地に行って、見て、聞いてみなければ何も分からない。

 車内に長野駅到着を予告するアナウンスが流れた。全ては現場に行ってからだ。



 長野駅に到着。

 待ち合わせをしていた中央口を出て、理真が電話を掛けようとしたが、それより早く、近くに立っていた壮年の男性が近付いてきて声を掛けられた。


「新潟からお越しの探偵さんですね」


 理真がダイヤルしようとしていた手を止め、頷く。


「私、上一色家の使いの牧田と申します。車はあちらです」


 牧田はハザードランプを灯して停車してあるグレーのセダンへと私たちを誘った。


「お若くて美人のお二人組だと聞いていましたので、すぐに分かりましたよ」


 ハンドルを握りながら、牧田は嬉しいことを言ってくれる。

 理真は、いやー、そうですかー、などと照れているようだが、美人と言われたことを否定しないのはさすがだ。まあ、私もだが。


 新幹線の到着が午後五時半近くだったため、もう辺りは暗い。

 上一色家には、長野駅から車で三十分くらいかかるという。

 今日は到着したら夕飯を食べて風呂に入り。明日から本格的に捜査を開始してほしいと言われた。もちろん使用人牧田の口を介してだが、主である泰蔵の言葉だ。

 解決を急いでいるようなことを丸柴刑事の口から聞いたが、急な頼みということもあり配慮してくれたのだろう。しかし、理真は恐らく今夜にも捜査を開始するはずだ。


 明日は仕事が終わり次第、高島と稲葉も上一色家に来るという。死んだ油木を除き、事件当日にいた人物が全員揃うわけだ。

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