第1章 血染めの少女

「ちりめん丼って、一度に失われる命の量が半端ないよね」


 メニューを見ながら、テーブルの向かいに座った安堂理真あんどうりまは突然話しかけてきた。


「この、ちりめん丼。何匹のじゃこが乗ってるの? ステーキならさ、一食二百グラムとしても、牛一頭の体重ってどれくらい? 六百キロくらい? 骨とかあるから、大ざっぱに体重の八割が食べられるとしようよ。そうすると……えーと、四百八十キロ。二百グラムで割ると……なんと、二千四百! ステーキ一枚は牛一頭の二千四百分の一の命なんだよ。ステーキを二千四百枚食べて、やっと牛一頭の命を平らげることになるんだよ。それに比べて、ちりめん丼はどう? たった一食で何百匹ものじゃこの命を一度に平らげるんだよ! 種に関わらず命の重さが平等ならさ、何だろうねこの違い。考えさせられるね」

「……」


 その特製ちりめん丼セットを頼もうとしていた私は、どうすればいい?

 私は、ずり落ちそうになった眼鏡を押し上げる。たまに贅沢な外食をしようと海鮮ものが売りのちょっとお高いレストランに来てみれば。何だこの話。


「いい? 決まった?」


 言いながら理真は私が答える前からコールボタンを押す。ウエイトレスのお姉さんが注文を取りに来た。私は、


「……海鮮丼セット」


 ここでステーキを頼んだら、理真にまんまと乗せられたようで癪なので、少し抗ってみた。ステーキよりは業が深いが、まぐろ、鯛、イカ、様々な海生動物から、少しずつ命をいただくとしよう。ウエイトレスが理真を向くと、


「私は特製ちりめん丼セットで」


 ちりめん丼、食うんかい。


「さっきの話、今度のコラムに書こうと思うんだけど、どうかな」


 食事が来るのを待つ間に理真が話しかけてくる。


「コラムって、どの雑誌の?」

「一番早い締切に使うんなら……『ファム』かな」

「女性ファッション情報誌に書く内容じゃないだろ!」


 やがて運ばれてくる料理。「わー、おいしそう」と喜ぶ理真の前には、何百というじゃこが山盛りになったちりめん丼が。ううむ、やっぱり美味しそうだな。


「食物連鎖の頂点に立つ生き物であることの感謝と責任を忘れずに、いただきます」


 箸のひとすくいだけで何十のじゃこが、ご飯と一緒に理真の口内へと運ばれていった。丼に残されたじゃこたちの目がこちらを見ているような気がする。やめろ、お前たちが見るべきは理真のほうだ。私は目を逸らすように海鮮丼をかき込んだ。こっちも美味しいよ。


 私の目の前で美味しそうににちりめん丼を食べている女性、安堂理真の名を知る人は大きく二種類に分けられる。

 切なくも美しい恋心をテーマとした作品を数作上梓し、雑誌のコラムなども書く恋愛小説家として知る人と、民間人でありながら不可能犯罪の現場に闖入し、類い希な推理力で難事件をいくつも解決してきた素人探偵として知る人。

 彼女を知るほとんどの人は前者であろう。

 後者の顔を知る人間は、ごく一部に限られる。理真の住む新潟県新潟市を管轄とする新潟県警察を中心とした警察関係者が主であるが、私、江嶋由宇えじまゆうもその一人だ。


 学生時代からの付き合いで、現在理真の入居するアパートの管理人である私も、助手と称して度々理真と共に事件現場へ足を踏み入れることがある。

 探偵とワトソンが両名とも女性であるというのは、なかなか珍しいコンビなのではないかと思う。


 一介の民間人である理真が優秀な日本警察の捜査に加わることができる理由は、彼女の父が元新潟県警刑事であることと無関係ではないが、彼女の能力が正当に評価されてのことである。

 もちろん、過去に幾多のレジェンド探偵が警察に協力して不可能犯罪を解決してきた、という下地もあることは言を待たない。


 理真としても、頼まれもしないのに事件に一方的に介入するような真似は決してしない。彼女の事件への関わりは、ほとんどの場合が彼女の力を必要と判断した警察側からの出馬要請によってもたらされるものである。それは時と場所を選ばない。


 携帯電話の着信音が鳴る。いかにも携帯電話といった趣の電子音〈着信音1〉買ってから一度も変えたことのない理真の携帯電話のものだ。理真は箸を休め鞄から携帯電話を取り出す。


「あ、丸姉まるねえからだ」


 理真は携帯電話を手に一旦店を出る。

 彼女が「丸姉」と呼ぶ新潟県警捜査一課唯一の女性刑事、丸柴栞まるしばしおり刑事からの電話となっては、ちりめん丼との格闘も一時中断せざるを得ない。

 丸柴刑事から理真に電話が掛かってくるとき、それは、理真の知恵を借りるような新たな不可能犯罪が起き、理真に出馬要請が掛かった場合が多いからだ。


 数分後戻ってきた理真は、食べたらすぐ帰ろう、と神妙な顔で告げた。理真の表情と口ぶりから察するに、丸柴刑事からの電話は素人探偵への出馬要請だったらしい。やはり事件は時と場所を選ばない。



「ごめんね、理真、由宇ちゃん」


 理真の部屋を訪れた丸柴刑事は、開口一番に言った。

 ファミリーレストランでの丸柴刑事からの電話は、事件の相談をしたから三十分後くらいに会えないかという内容のものだった。そのままレストランで待ち合わせても良かったのだが、三十分あれば理真の部屋まで帰ることができる。外ではなく自室でじっくり話を聞きたいという理真の要望だった。


 私と理真は食事を終えるとレストランを出て、アパートの理真の部屋まで帰り、丸柴刑事の到着を待っていたのだ。

 丸柴刑事は「おみやげ」と言いながら、ビニール袋を居間のテーブルの上に置いた。中を開けてみると、洋菓子店大阪屋のケーキではないか。


「ショートケーキとレアチーズとティラミスよ。私はショートね」

「私はレアチーズね」


 自分が食べたいケーキを宣言すると同時に理真が立ち上がり、狭い台所へ向かう。


「丸姉もコーヒーでいい?」

「ええ、いただくわ」


 丸柴刑事に対する呼び方を聞いても、理真がこの女性刑事を慕っていることがよくわかる。彼女は理真が探偵活動を始める以前からの知り合いであり、県警内での理真の最も良き理解者なのだ。

 警察官の全員が全員、理真の捜査への介入を歓迎しているわけではない。素人探偵がプロの現場に足を踏み入れることを快く思わない警察官も存在するし、理真もそれは当然だと考えている。事件解決の暁にも理真の名前が表に出ることは決してない。

 理真が私たちの分も含めて、三つのコーヒーカップを乗せたお盆を手に部屋に戻ってきた。盆の上にはケーキを取り分けるお洒落な皿とかわいいフォークも三組ある。

 銘々が指名したケーキを自分の前に引き寄せる。必然的にティラミスは私の前に来る。残り物だが不満はない。ちょうどチョコレートが食べたいと思っていたからだ。それを見越して丸柴刑事はこの三種類のケーキを購入したのだろうか。恐るべき刑事の感。などと言ったら失礼だろうか。


「理真、早速本題に入るんだけれど……」丸柴刑事はショートケーキをかわいいフォークで突いて、「最初に断っておくけど、場所は県内じゃなくて、お隣の長野県なの」

「あら、そうなの」

「長野県警にうちの本部長の知り合いがいてね。今朝急に電話を寄越したの。その内容がね、理真に捜査協力をお願いしたい事件がある、と」

「どうして私のことを長野県警が知ってるの?」

「本部長が何か酒の席で酔っぱらって話したらしいのよ。うちの管轄には名探偵がいる、とか何とか。女シャーロック・ホームズがいるとか言いふらしてたんでしょ。それで憶えてたんでしょうね」

「ふーん、ま、いいけど」


 レジェンド中のレジェンド探偵、シャーロック・ホームズに例えられるとは、恐れ多いことだ。


「あとで話すけれど、これは長野県警からじゃなくて民間からの依頼ってことになるわ。それも結構な金持ちからの依頼だから調査料を請求してもいいわよ」


 警察官がそんなこと言っていいのだろうか。


「ふーん、まあ、伺いましょう」


 理真はブラックコーヒーを喉に流し込む。カフェインに脳細胞を刺激させて聴く用意を整えたようだ。

 私もバッグからペンとメモ帳を取り出し筆記体勢を取る。


 丸柴刑事の語った事件の概要は以下の通りだった。



 長野県長野市の地元ゼネコン上一色かみいっしき建設。その会長、上一色泰蔵たいぞうの邸宅で事件は起きた。

 上一色建設は元々地元の小さな土木屋だったが、高度経済成長の波に乗り県下有数の大企業に成長した。その立役者が現会長である上一色泰蔵だった。齢六十五歳と今の時代まだまだ現役で働ける年齢ではあるが、会長職ということから分かるように、すでに会社経営の第一線からは身を引いている。しかしながら会社内での彼の信奉者は未だに多く、重要な決定や新規事業の立ち上げなど、この長老に意見を求めに来る社員は少なくない。

 泰蔵はあまり会社に顔を出すことはなく、病を患っていることもあり自宅での療養生活を行っている。十歳年の離れた五十五歳の妻マキは、かつて雑誌モデルであった過去の経験を生かし、地元の有閑マダムらを相手に美容セミナーのようなものを開催する仕事をしている。

 二人の間に出来た一人娘、上一色さくらは長野市内の公立高校に通う二年生。勉学の面は可もなく不可もなく。部活動では女子テニス部に所属する彼女は、納得のいかないことは上級生や教師相手でも物怖じせず意見する明朗な性格で、加えて容姿端麗。父親の芯の強さと母親の美貌を受け継いだのだと評判の美少女である。

 この親子三人に加え、広い屋敷の家事を一手に担う家政婦、松波静子まつなみしずこと庭の手入れや力仕事など雑用に従事する使用人、牧田順平まきたじゅんぺいの二人を加えた五人が上一色家に常時在住している住人だ。


 事件が起きたのは秋も深まってきた十月四日、金曜日のこと。


 この日、上一色家には常住する五人の他に三人の来客の姿があった。

 内二人は上一色建設の社員、営業部の高島康たかしまやすし、建設部の稲葉文典いなばふみのり。同期で共に二十五歳の若い二人は仕事の相談で泰蔵の意見を仰ぎに来訪していた。

 泰蔵は社員の自宅訪問を歓迎しており、休日前などは、夕食に酒も振る舞い親睦を深めることを楽しみにもしていた。


 上一色家は町中を離れた郊外にあり、家の前にバス停はあるが町へ向かう路線は早い時間に最終バスが行ってしまう。そのため訪れる社員などには自宅への宿泊を勧めており、別棟も擁する広い屋敷には数人の客を泊めるに十分な空き部屋があった。


 この日も金曜日で、仕事話が長引いたこともあり、泰蔵は当然高島と稲葉に泊まって行くよう勧めた。だが、これには一人娘桜への配慮もあったのではと思われている。というのも残る一人の客が、言い方は悪いが招かれざる客であったからだ。

 三人目の客の名は油木近安あぶらきちかやす、二十八歳。上一色建設の社員ではない。肩書きは油木商会常務役員。

 上一色建設と並び称される地元の大企業である油木商会。若くしてその役員となった近安は、その立場にそぐわない不良社会人であった。常務とは名ばかり。会社名と名字が同じことから察せられるように、近安は油木商会社長油木啓助けいすけの長男である。


 早くから素行の悪さで父親を悩ませていた近安が父親から自分の会社に入社するよう言われたのは、彼が二十歳になってすぐのことだった。

 社会人として働くことで真っ当な人間への再生を願ってのことだろうが、社長の一人息子という近安の立場と、いきなり役員待遇での入社を条件とし、それを父親に認めさせてしまったことは彼の普段の素行に拍車を掛ける結果となった。

 そんな近安は油木商会常務役員の他に一つの肩書きを持っていた。それは、上一色桜の許嫁。

 今時許嫁とはよく言えば古風、はっきり言えば時代錯誤な話だ。


 十数年前、上一色建設が海外事業進出の失敗で存続の窮地に立たされた時、油木商会がほとんど無利子で資金を貸し付けてくれて生き延びたという過去がある。

 上一色泰蔵と油木啓輔は大学時代からの友人であり、当時二人とも社長だった。

 美しい友情。しかし油木啓助はただ一つだけ見返りを求めた。それが上一色泰蔵の生まれたばかりの娘、桜を自分の息子近安と将来結婚させるという約束だった。

 なぜに当時としても時代錯誤である許嫁などという条件を啓助が出したのか、また泰蔵が飲んだのかは分からない。酒の席での迷い事だったのか。二人とも深く考えていなかったのかもしれない。現に、約束を交わした当人同士が数年も経てばその事を忘れていたほどなのだ。

 啓助の長男近安の若くしての素行の悪さが、啓助には罪悪感、泰蔵には嫌悪となって二人からこの約束を忘れさせたのかもしれなかった。


 上一色建設と油木商会は仕事上の付き合いが多いため、自然と近安と桜は知り合うこととなった。

 幼い頃から美少女で評判だった桜は、早くから近安の目に掛かってしまった。近安は何かと用事を付けては上一色家を訪れ、桜に会うようになっていった。だが幸いなことに、近安のような不良は桜が最も忌み嫌う類の人間だった。


 幼い頃はまだしも成長するにつれ、桜は近安をあからさまに避けるようになっていった。しかし、近安は諦めない。

 恐らく今までの人生経験から、彼は金になびかない女性はいないと信じきっているらしい。値札だけを見て購入したような無差別なプレゼント攻撃も桜には全く通用しなかった。当然、受け取りもしない。とりつく島がないという状態。

 そんな中でも近安が桜を諦めないのには、また別に理由があった。それがくだんの許嫁問題である。


 この話は当然近安と桜当人には聞かされていなかったが、近安はどこかからこの話を聞いたらしいのだ。これを知ってから近安は、さらに桜に対する態度を大きくしていった。


 事件のあった十月四日、金曜日。この日、用もないのに上一色邸を訪れた近安は高島と稲葉の姿を見つける。二人とも近安のことは互いに知っており、桜と同じように嫌悪していたようだが、商売上のこともあり表面上は無難に付き合っているように見えた。


 泰蔵が高島と稲葉に泊まっていくよう勧めたのは、近安よりも先に二人を帰したくなかったからだ。あまりに桜が近安の相手をしないため、最近近安の態度が度を超すようになってきていたという。

 桜のボディーガード代わりになってほしい、などという明らかな依頼の話はなかったが、泰蔵の申し出を二人が快諾したのは、高島と稲葉も、やはり近安と同じように桜を憎からず思っていたためだろう。しかし、それは逆効果だった。


 高島と稲葉が上一色家に宿泊するという話を知った近安は、自分も同じように泊まっていくと言い出した。泰蔵も無下に断るわけにもいかない。

 泰蔵の心中を察した高島と稲葉は、桜は自分たちがガードするからと近安の宿泊を認めさせた。二人とも近安の桜に対する態度は相当腹に据えかねているらしかった。

 使用人の牧田は、二人のどちらかが、「今夜は決着を付けるのにいい機会だ」などと言っていたようだと語っている。


 事件が起きたのは、その日の深夜だった。


 日付が変わって五日未明、家政婦の松波静子は物音を聞いて目を覚ました。

 悲鳴のような声であったというが、はっきりとは憶えていないという。後に警察への通報時刻から逆算するに午前二時前後ではなかったかと推測されている。

 物音は勝手口の外あたりから聞こえたようだ。真夜中に怪しい音に目を覚まし、ひとりでその原因を探りに行くほどこの家政婦は豪胆ではなかった。近くの部屋に寝泊りしている使用人の牧田順平を揺り起こし応援を頼むと、二人は物音のする勝手口のある台所へと向かった。

 家政婦と使用人は勝手口に歩を進めた。

 静子が懐中電灯を持ち、順平の手には、万一の事態に備え勝手口のある台所の流しから拝借したお玉が握られていた。普段味噌汁を掬う作業に従事しているお玉にどれほどの戦闘能力があるか疑問ではあるが、ここで包丁などを選択しないあたり彼の気の弱さであろうか。

「ぐちゃ、ぐちゃ」

 勝手口のドアの向こうから聞こえてきた音を、のちに二人はそう表現した。実際にそう聞こえていたのか。その後〈現場〉を見ての先入観、いや、後入観がその生々しい擬音を選択させたのではないだろうか。


 二人は音を殺しドアの前まで忍び寄った。使用人がドアノブを回し、勢いよくドアを開け放つと同時に家政婦が懐中電灯で真正面を照らした。もしそこに賊などがいようものなら、一括して追い払ってやろうと息を吸い込んでいた。しかし、電灯の丸い輪の中に照らし出された光景は家政婦から言葉を奪った。

 勝手口の外、コンクリート打ちの上に人が仰向けに倒れている。そのすぐそばにもう一人の人間が座り込んでいる。倒れているのは男であった。腹部からおびただしい血を流し、素人の一目にも絶命しているのが理解できた。

 座り込んでいるのは女であったが、その女の行動は、数十年間に渡り真面目に家政婦業、使用人業をこなしてきた人間の理解の範疇外にあるものだった。


 倒れた男の腹から真っ赤な物体が飛び出している。

 座り込んでいる女は両の手を男の腹に突っ込み、その物体を掴んでいるのである。女の脇には真っ赤に染まった包丁と手元を照らすための懐中電灯が置かれていた。

 そして、家政婦は女と目が合った。その口元や頬の一部も真っ赤に染まっている。女の顔は静子のよく知っているものだったが、そんなことを理解する間もなく、家政婦は賊を一括するために吸い込んだ空気を全て悲鳴として吐出する羽目になった。

 決して豪胆な性格ではない牧田順平が、悲鳴を押し殺して女の両手を取り押さえた行動は賞賛されるべきだろう。

 牧田も女の顔を知っていた。高級な寝間着を泥と血で染め、腰まで届くロングヘアを縺れさせ、端正な顔に汗と血の化粧を施したその女は、上一色家の一人娘、上一色桜であった。


 通報を受けた警察が駆けつけたとき、その夜上一色家にいた人間は全員現場に集合していた。一人は死体となって。


 第一発見者の家政婦松波静子と使用人牧田順平は、精魂尽き果てたかの如く台所の椅子に腰を預け、ただ呼吸をする機械と化していた。

 牧野からバトンタッチする形で令嬢桜の腕を抑えていたのは、高島康と稲葉文典である。二人とも松波のあげた悲鳴を聞き、飛び起きて駆けつけたのだという。

 父、泰蔵は神妙な面持ちで立ち尽くしている。彼もまた悲鳴に起こされたのだ。最近では立っている時間よりもベッドに伏せている時間のほうが長くなったというのに、この時ばかりは立ち上がったまま微動だにせず、わが子と哀れな犠牲者を見つめていた。

 腹を裂かれ、無残にも内臓を曝して死んでいるのは油木近安だった。


 通報を受けてから警察が到着するまで二十分とかかってはいない。家政婦松波が怪しい物音を聞いて目を覚ましてからも、三十分ほどしか経過はしていないだろう。

 第一発見者の二人が口をきけるようになるまで、警察は現場の検証を行うことにした。


 処遇に困ったのは、高島と稲葉に左右から腕を掴まれて死体の脇に座り込んでいる桜である。その間も桜は、立ち上がらせようとする二人を力ずくで拒否し、遺体のそばに座り込んだまま血の海から覗く油木の内臓にピタリと視線を合わせ凝視し続けていたという。

 第一発見者の二人が発見時の状況を説明しない限り、桜の処遇ははっきりしない。

 とりあえず警察が、桜を遺体のそばからどかすよう高島と稲葉に指示し、屈強な警官とともに桜を抱え上げようとしたそのとき、おぞましい場面は訪れた。


 警官に場所を空けるため、高島と稲葉が桜の腕を抑える力を抜いたその一瞬、令嬢は細い腕をするりと抜き、目の前の死体の腹部に飛びついた。そして真っ赤な臓物の切れ端と思しき物体を右手で鷲掴むと、そのまま自らの口へと運んだ。一瞬の出来事だった。

 誰もが言葉を失い、静寂が支配する中、その場にいた全員が聞いた。桜の喉がごくりと鳴り、口に入れたものを飲み込む音を。

 ようやく話せるまで落ち着きを取り戻した松波と牧田であったが、その光景を見た瞬間、二人は完全に気を失ってしまい、結局事情聴取出来たのは翌日のお昼をすぎてからとなってしまった。

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