第3話
パパラッチのような不躾な連中が去っていった後、もっともらしい理由を持って、そいつらは自然にさり気なくやってきた。
「医学」という関係者だ。
もちろん、彼らの背後にはメディアが潜んでいたなんてことは小学生の僕にはよくわからなかったし、彼らは子を思う親心に漬け込んできた。
そう、母へのアプローチだ。僕にきつく指導をしていたのは母だったから、彼らはそこに付け入るチャンスを求めてやってきた。
「私達はこういうものです。」
そう言って僕の隣に座っている母に彼は名刺を差し出した。
NPO法人 幼少年能力開発機構
プラスチックで出来たその名刺は、その男性の身なりや甘いマスクにふさわしいものだった。下品な成金がふざけて作ってみましたという感じはなく、彼はちょっとした所作からも知性が感じられた。そのことは僕が普段接している「先生」という人種とは明らかに別物であり、憧憬を僕に感じさせるのであった。
「ところで、こうした方がうちにどういうご用件なのでしょうか?」
怪訝そうに母が尋ねる。
「私達は所謂、一般的な意味の教養が優秀な年少者を対象にした研究機関ではありません。国家でもごく一部の人間しか知らない特命組織なんです。しかし、秘密組織というわけじゃないので普通にこちらの住所に問い合わせしても、現場は存在しますし国が認めている能力開発組織なんです。」
はぁ、というぼんやりとした返答をする母を僕は見つめていたが、僕だったらどんな返答をするだろう。おそらく、過半数の成人ははぁ、としか言えないのだろうと思う。
「お宅の息子さんの話題を耳にしました。」
母の表情が硬化する。そして、返答をしない。
「学校に行ってみましたが、彼の話題で持ちきりでした。同級の方の中には、もう一度飛ぶところを見たいのに、僕等を避けるようにさっさと帰っちゃうんだよな、なんか前から物静かだったけど、それでもいいやつだなって思わせる雰囲気があったのに、最近は感じ悪いなって。」
今度は僕が黙る。母は、そんな学校生活を自らに強いていることを初めて知ったようで、しばし、いとおしそうな顔で僕を見ていた。そして、男が渡した名刺に目を落としていた。
「あなた方の要求は何ですか?」
強い語気で母は言う。
「何もあなた方に犠牲を強いるわけじゃないんですよ。我々は単純に現実に起きた現象を検証して、その能力が人々の幸せにつながるのならば、誤った方向に利用されないようにしっかりと方向づけをしたい。能力開発のための費用は国家が持つわけですし、当然彼の安全を第一に重視します。人権や人格を見視したような実験は今や世界が許さないでしょう。決して悪い話じゃないと思うのですが。」
彼は大きく息を付いて、母が入れたお茶をすする。
「良いお茶ですね。私は静岡の茶畑農家の出身でうるさい方なんですよ。」
世に「悪くない」という言葉を多用する人が居るが、意味合いとして良いことを指すのになぜ回りくどいのか。現代に置いて僕はこの言葉を何かのリスクを回避するための擬娩のように聞こえる。
「良い」
その言葉を使えないのは一体なぜだろうか。
時計が秒を刻む音と、男が美味しそうにお茶をすするだけの時間が過ぎていく。僕は奇妙にその時間に身をおき、やがて西日が部屋をオレンジ色に染めていった。母はずーっと下を見たまま身動きひとつしなくなった。我が家は本来とても我慢強く慎重で無口なのだ。
その静寂に先に耐えられなくなったのは来客の方だった。
「そろそろ、夕食の準備でしょうし、焦る必要など無いのです。だた、その能力が危ないのもか、安全なものか、科学的に確かめるくらいは良いと思うのですがね。」
また、参ります。何か心変わりなどありましたら名刺宛に連絡をください、と言って帰っていった。
彼は帰ることでこの重い空間から逃げることができたが、残された母子がいつもの日常に戻るのには相当の時間がかかり、お互いに風呂に使ってタールのようにベッタリとまとわりついた嫌な雰囲気を洗い落として寝るくらいしかできない有り様だった。
翌日登校する。
それほど嫌いでは無かった学校も事件以来非常に居心地の悪いものとなってしまった。母の言いつけを守ろうと自然に行動したつもりだったが、幼少期の僕はその下限を知らず、自らの殻に閉じこもることしかできなかった。事件から一ヶ月。僕は実に簡単に完全な孤独になった。もっている能力が能力だけにいじめられることは無いが、ネゴレクトというやつだろう。オカルト研究同好会だけが、いつもしつこくまとわりついてきていたが、一度たりとも浮くことはしないように細心の注意をした。窮屈な学校生活は子供心ながら、心を遠慮無く傷めつけていっているような気がした。
それでも、僕はやさぐれることなく真面目に皆勤賞を積み重ねていった。子供なりのいじなのか、母ゆずりの頑固さなのか。
それは突然だった。僕が学校を終えて自分の家まで飛ぶこともなく歩いて帰る途中に、ある廃工場の門の影から声をかけられた。僕が不用意に助けた彼女である。僕は気にしていなかったし、忘れようともしていた事件なのだが、当事者の彼女はまた違った思いで、悩んでいたようだ。
「本当は真っ先にお礼を言わないといけないのに、ごめんなさい。こんなに時間が経ってしまって……」
その後は涙声でほとんど聞き取れなかった。
「んー。僕がでしゃばって迷惑をかけてしまったし、巻き込んでしまったんだけど、この力を隠し通すことにはことは失敗したけど、人の命が助かったという結果には僕は後悔もしてないし、ちょっと誇らしくも思っている。」
この言葉に少し彼女はホッとしたようで、しばし僕らは傍にあった椅子に座ってひと目をはばかって会話をした。事件の当事者二人が内密に話をしているなんてメディアの格好のネタになってしまうから。また、クラスで浮いている僕と話していることを見られて、彼女も窮屈な思いをすることは望まない。
僕からみて、彼女は活発な子でクラスの中では容姿も手伝って目立つタイプの人だった。運動もよく出来る。だから、自らすすんでわざわざ窓の外側を拭こうと立候補しちゃったりするんだろうけど。
「だって、誰も言い訳ばかりでやろうとしないでしょ。そういうの聞いているとだんだんイライラしてくるの。」
あっけらかんとした人だ。持っていたイメージと違う。
「私こう見えて、高所恐怖症なんだけど。」
と言ったところで僕の目を見る。
「ここ笑うところなんだけど、あんな事件があったから面白くないよね……」
さて、なんて言葉を返したら良いものか。ユーモアのセンスはあるが、タイミングは悪い人のようだ。
「あの時も、悔しいから頑張って外窓を拭いていたんだけど、ちょっと遠くの方の汚れがひどかったの。だから反対からいけばいいのに私結構大雑把だから、横着してそのまま手を伸ばしたらグラって……」
そして、彼女はまた泣き出す。
きっと怖かったのだろう。
トラウマとして記憶されてしまうものは多くは、長きにわたって人の心を蝕んだり、人生の方向性を変えてしまったりする。
「あ、だめ、と思った時、何か丈夫な足場に乗っかちゃったような気がしたから私死んじゃったのかな?とか思ったら、何か凄い力でで窓枠の中に押し込まれて振り返ったら、代わりにあなたが落ちていくのが見えた……。みんなはあなたがとてもゆっくり落ちていったといっていたんだけど、私はもうクラクラしていて時間の長さとかわからなくて、ただ私をかばって落ちていったクラスメートが死んでしまう。……私が殺したのと一緒だ。」
そこで、気を失って気がついたら夕方まで保健室のベッドで横になっていたとのこと。
彼女が騒ぎに気がついたのは、夕方になってからである。死んだと思った僕が生きていること。しかも、擦り傷程度で怪我など全く無かったこと。更に信じられないクラスメートの言葉。
「あなたが落ちそうになる時、彼は貴女をふわっと抱きかかえて支えて、安全なことをみどどけて教室に押し込んでからゆっくり下に降りていったっんだって!」
かなり、話に尾ひれが付いているようだ。一体僕はどんな王子様だ。
少なくとも、僕は窓枠の外に飛び出して、彼女に体当たりをして教室の中に戻れるように押し戻して、いつもの様に降下に失敗してみっともなく落ちただけだ。僕はとっさのことで手を出してしまったが、目の錯覚で浮いたかもしれないと思われたとしても、ヒーローのように抱きかかえるように見える感じで周りにアピールすることは避けたはずだ。ここに人間の噂のメカニズムというイマジネーションの怖さを感じなければいけないと学んだのである。
それからいろいろなことを彼女と話をした。
意外にも僕の家のご近所さんであること。そのせいでクラスは違うものの小学生、中学生と同じだったし、たまに僕が犬を連れて散歩しているのを見かけていたから昔から知っていること。一度だけ、僕が話しかけたことがあるらしい。簡単な言葉。
「いつも見守ってくれてありがとう」
僕には記憶が無い。それに、何を見守られていたのか。もしも、それだけの感謝を述べるならばきっちりとした理由があるはず。
彼女は目立つので、同じクラスになってすぐに覚えたけど、彼女はもっと前から僕を知っている。その印象的な感謝の言葉のせいで。
日が暮れてきたので解散することにした。僕は彼女が廃工場から家に向かい、姿が見えなくなることを確認してから家路に付いた。だた、久しぶりにひと目のない場所だったので、
「んっ」
と集中して浮いてみた。三階の高さくらいの工場のむき出しの屋根に捕まって、後は近くの階段まで雲梯で移動して、下りは階段で降りた。
「まぁ、こんなものかな。」
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