観応二年のアントニオ猪木

 世の中には時おりカリスマと呼ばれる者があらわれるが、カリスマのいない時代は楽といえば楽である。

 なぜなら、慣習で社会が動きやすく、不確定要素が少ないからだ。

 そのような世の中の場合、既存の権力や価値観の生む流れに問題がなければ、多数の人々はカリスマなどは求めない。

 しかし、その流れが狂った時、私たちはカリスマを求め、進む方向の変更を望む。

 また、人々が望まなくともその時代にカリスマが居合わせた場合、彼や彼女は流れを自らの求める方向へ変えていく。


 カリスマの恐るべきところは、理屈や保身を越えて他人を動かす力、言葉では説明できない魅力にある。

 カリスマから無理ごとを求められて断ろうとしても、彼や彼女の顔を見ただけで要求を受け入れざるを得なくなる。

 カリスマと彼や彼女に従った人々が、前時代の理屈や道理に基づいた社会の自然な流れを変えて来たのが、私たちの歴史である。

 ナポレオンをはじめとしてほとんどのカリスマは功罪半ばで、世の中の流れをある面は良い方向へ、別の面では悪い方向へ強引に変えた。

 余計・不要なものも含めて色々創った者もいたし、既存の社会や価値観を壊すことしかできなかった者もいた。

 カリスマというのはたいてい善悪を越えた存在であり、我々と見た目だけは似ているが、種族のちがう怪物たちであった。


 歴史上のカリスマについて想像を巡らせようとしたとき、いちばん簡単なのは、いま生きているカリスマについて調べることだ。

 そういう点で勉強になったのは、アマゾンプライムビデオの「有田と週刊プロレスと」シーズン4の№23であった。

 詳細は動画に任せるが、二十年前、プロレスラーの永田裕志さんが、アントニオ猪木さんから総合格闘技の試合に出ることを依頼された。

 この試合は永田さんにまったくメリットはなかったが(実際に大きなデメリットが生じた)、猪木さんから話があると二つ返事で受け入れた。

 永田さんには断る理屈はいくらでもあったが、それを断らせない何かが猪木さんにあったらしい。

 ここで重要なのは、当時の猪木さんに権力がなかったことだ。

 社長や上司が部下を強引に従わせるような力はすでになかった。

 猪木さんのこの手の話は他にもあるらしいが、これがカリスマの力だろう。

 理屈で言えば従う必要はなく、断っても誰も文句を言わないのに、なぜか従わせてしまう不思議な力が、社会の色々な面で、良くも悪くもその自然な流れを変えて来た。


 歴史上のカリスマを探すと、一番手は漢を興した劉邦だろう。

 ほぼカリスマ性だけで、低い身分から皇帝に上り詰めた。

 対して日本の歴史で言えば、足利尊氏を押したい。

 観応二年、尊氏は弟直義に戦で敗れたはずなのに、勝者のごとく振る舞い、周りに有無を言わせなかった。

 普通であれば、敗れた尊氏は権威を失い、歴史はより道理に基づいた方向へ流れていただろう。

 それを尊氏のカリスマ性が、戦の勝利者が世を動かすという道理を曲げさせ、その後の歴史を変えてしまった。

 そして大事なことは、そちらの流れの方が、室町幕府にとっては良い結果を生んだと思われることだ。

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