山から降りよ
仏教において、悟りを開くうえで最後まで邪魔をするのは、自分と他人を比べてしまう人間のさがである。
修行を重ねた人でも、このさがを捨て去るのはむずかしい。
ひるがえって俗世間を見てみると、自覚的に他人に対してマウントを取ろうとする人間ばかりである。
また、無意識のうちにマウントを取ってしまう者も、これまた多い。
しかし、よく考えてみるまでもなく、マウントを取って得になることは何もない。
他人の反感を買うか、陰で悪口を言われるだけである。
いや、優越感に浸れるではないかと反論する者もいるだろうが、よく考えてほしい。
その一時期の快楽で、どれだけ自分が損をしているのかを。
マウントを取るのは、酒を飲み、タバコを吸うのと同じことだ。
中毒性があるのもよく似ている。
品のある人間になりたいと思ったら、その方法は実に簡単だ。
マウントを取るのをやめればよい。
自覚的にだけでなく、無意識にマウントを取っていないか反省する。
それだけで、平均以上の品性を得ることができる。
年齢、学歴、収入、家族、趣味などなど、マウントを取りたい誘惑を覚えても、そこは果然と拒否しなければならない。
最悪でも自分の中だけに収めておくべきである。
「マウントを取る」とひとまとめに書いてきたが、いちばん愚劣なのは、自分が知らないということに対して、マウントを取ることである。
この私が知らない、興味のないことには価値はないとか。
そんなものに関わっている人間は愚かだとか。
第三者の目から見て、これほどの道化はいない。
そして、この世の中は道化だらけである。
この道化の中でも最悪なのは、自分がそもそもターゲットではない、そもそも相手にされていないことに気がついていない場合である。
知的水準的に、世代的に、収入的に。
発信者や企業が、自分の理解をそもそも求めていないのに、そのような相手にマウントを取ることが、道化の所業でなければ何だというのだ。
自分がそもそも相手にされていない、自分には理解できない世界があることを理解しなければならない。
若者の流行に対して、ヤフーニュースのコメント欄でマウントを取っても、若者はそんなものは読まない。
相手にしていない。
マウントを取れる立場になった時、その者の人間性が出る。
とにもかくにも、人間としての品性を保ちたいのであれば、マウントを意識的にも無意識的にも取らないようにしなければならない。
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