M2 チサト、決断す。
◇1
通用口から入った途端、奥の方から大きな鳴き声が聞こえた。
<またか…>
チサトは思ったが――特にあわてることもなく、ゆっくりと控室へ向かって、歩いていく。
キャプテンとして、気になることは気になるけど……誰かが泣いているなんて、日常茶飯事すぎて、それくらいでは動じなくなっていた。
控室に入ると、部屋の奥にハカタGS最年少の矢島ミコがいて、その周囲に数人のメンバーがいたが……ほかのメンバーは、食事してたり、メイクをしていたり、スマホをいじっていたりしている。
チサトは、いつもの席――一番手前のテーブルの中央――が空いてるのを確認すると、荷物をパイプイスに載せて、
「おはよー」
隣に座っている木村ヤヨイに声をかけた。――が、返事はない。
見ると、髪の下からイヤホンのコードが伸びている。
<音楽を聞いてるのね…>
納得したチサトは、キャリーケースの中から荷物を取り出して、机の上に並べた。化粧道具、ミラー、各種スプレー、ヘアアイロン、スマホ3台、そして消毒ジェル。ちゃんと消毒ジェルが荷物の中に入っていたことに、チサトはほっとした。
消毒ジェルは、握手会の必需品だ。ファンは自分と握手をするために、会場に足を運んでくれるわけだから、感謝しかない。けど、何百人と握手をしたあとは、そのままというわけにもいかず……いろいろ試して、チサトは消毒ジェルを使うようになった。前に一度、消毒ジェルを忘れてしまい、軽くパニックになったことがあるので、ちゃんと荷物の中に入っていたことに、チサトはほっとしたのだった。
アイドルのイベントとしてすっかり定着した握手会だが、元はアキバGSが「発明」したものだ。8年前、アキバGSがはじめてCDを出した時、思惑が外れて、大量の在庫を抱えてしまった。
そこで苦し紛れに、「CDを買ってくれたら握手します」という即売会を開いたところ、これが大当たり。いつしか、握手したいがために、複数のCDを買うのが当たり前となった。
ここ数年、アキバGSの出す曲はどれもミリオンセラーとなっているが、実態は「特典の握手会参加券目当て」だったりするのだ。
「本店」と呼ばれるアキバGSのCDとなれば、姉妹グループのメンバーもその握手会に参加することになる。参加人数も多いので、必然的に会場も大きくなる。
今日は、アキバGSの全姉妹グループが集う「大握手会」だ。そのために、チサトたちハカタGSの面々も、東京の「湾岸ビッグアリーナ」に来ているのだった。
チサトは、スマホ――の中の、完全プライベート用のやつ――を手にとって、時間を確認した。12時を少し回ったところ。13時から自分の握手会がはじまるから、ちょっとあわてて準備しないと間に合わないかもしれない……と思いはじめたとき、急に控室がざわつきだした。
チサトが顔をあげると、メンバーが続々と控室に入ってきていた。午前の部のメンバーと、午後の部のメンバーの入れ替えのタイミングだから、確かに控室が賑やかになる時間帯ではあるけど、たいていは別の場所で食事をとっていたり、姉妹グループの控室に遊びにいったりするので、こんなに一気に人が集まることはない。
「どうしたと?」
チサトが、控室に入ってきたメンバーに聞くと、
「マネージャーさんが控室に集まれって」
先頭にいたナツキが答えた。
なにか事務連絡でもあるのかな……と、チサトは思った。
指宿リコが在籍しているおかげで、ハカタGSにはタイアップイベントの話がくる。そのたびに、メンバーには「こんなことをしてほしい」というリクエストが寄せられる。
イベントごとにレギュレーションが細かく決まっているので、みんなを集めて一気に説明してしまうことは、ちょくちょくあるのだ。
メンバーに続いて、スーツ姿の尾形が控室に入ってくると、ざわついていた控室が静かになった。
「みなさんにお知らせがあります。2月14日に、シングルCDを出すことになりました」
尾形がそう言うと、控室全体に緊張が走った。
シングルが発売されるということは、新たなファーストチームが編成されるということだ。ファーストチームに選ばるということは、その曲を歌うということのみならず、ミュージックビデオにも歌番組にも出演できるし、雑誌の仕事も増える。
ファーストチームに入るか入らないかは、このグループに属している以上、死活問題なのである。
「それでは、次のシングルのファーストチームを発表します」
尾形は、そこで大きく息を吸った。そして、手元のコピー用紙から視線を上げぬまま、16人の名前を読み上げた。
――その16人の中に、チサトの名前は、なかった。
ハカタ、独立! 麻績村まさひこ @omimi
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