22日目

22日


 午前中から霧雨が降っていた。

 畑に種を蒔いてから初めての雨だ。発芽のために最も重要なものは水である。日々の水撒きは行っていても、雨が降らなければ土壌中の湿度は保てない。土壌が乾燥していて、周囲が生育に適していないと発芽も上手くはいかない。乾燥に強くなるための植物の生存戦略が、そのまま人間にとっての都合になっている。

 種籾の損失はそのまま次の収穫量に影響する。農協も何もない世界では、発芽の失敗が致命的な事態となってしまう。文明を維持・発展させる為に必要な農耕だが、狩猟採集よりも遥かに博打であることがよく分かる。


 雨の中だが村のほとんどの人間が広場に集まっていた。日本人の感覚からすると傘が欲しい所だが、誰も雨具を身につけていない。

 ジルク村やレンド街まで行く道中で感じた風も湿っていなかった。北と東に山脈があるため、そこを越えてきた空気が乾燥してるのだろう。料理に塩が頻繁に使われている事を考えると、海もそれほど遠くは無いはずだ。海が近いとそれだけ、1年の気温の変化が緩和される。これからやってくる夏も、異常に厳しいということはなさそうだ。


 話が逸れてしまったので本題に戻ろう。

 ジェルガを先頭に村の人たちは、私が彷徨ったあの森へと向かった。いつもはワイワイ騒いでいる子供たちも、今日はおとなしい。人々の神妙な表情から、先日の祭りとはまた違う儀式が行われるのだろうことは想像がついた。

 不安定な吊橋を渡り森の奥へと進んでいく。雫が樹の葉を弾く音、甲高い鳥の鳴き声、白い靄の向こう側で獣が枝を揺らすカサカサという音、そして人々が地面を踏む湿った音。けぶる森の中は、雨上がりを待っているかのような、そわそわした気配で満ちていた。

 森歩きに慣れていない私は、泥濘んだ地面で滑ったり、苔むした石で転んだりと、この世界に来たばかりと変わらず失敗ばかりだ。しかしあの時とは違う。バランスを崩した私をユエンが支えてくれたし、尻もちをついた私を顔しか知らない村の男性が助け起こしてくれた。

 すでに旅立ちを決意していた私は、湧き上がる想いに涙を零していた。雨が降っていなければ、きっと皆に心配を掛けてしまったことだろう。


 二時間ほど歩いただろうか、ひらけた丘陵を登った所で歩みが止まった。

 森全体を睥睨するように、一本の巨木が生えていた。周囲の木からも抜きん出たサイズで、見上げても高さがよく分からないほどだ。

 太い幹から傘状に枝葉を伸ばしていて、広いヒサシになっている。ヒサシといっても、葉はそれほど茂っていないので雨を完全に遮ることはできない。老木なのだろう、どこもかしこも節くれだっている。

 巨木の根本、幹と根の境となる場所にはジルク村の織物が、幕のように掛けられていた。随分と長い間、そこに掛けられたままなのか、色が落ちひどく、汚れている。

 村長のユーズカの指示で幕が取り除かれると、ぽっかりと穴が開いていた。人ひとりが手を伸ばしても入れるぐらい間口の広いウロだ。

 運んできた酒樽や食べ物など、供物がウロの中に運び込まれ、ユーズカの祈祷が始まった。他の村の人たちも目をつぶり、頭を少し垂れる。儀式の様子には興味を引かれたけれど、私も礼儀に倣って目を閉じた。

 ユーズカの祈りは収穫の歌と違い、もっと静かなものだった。子供を寝かしつけるような優しい声だ。慣れてきたはずだが、単語の一つも聞き取れない。

 雨音と調和した祈祷の言葉は、耳で聞くというより身体の芯へと染み込んでくる。入り込んだ音は肺の中で反響し、全身へと広がっていくような不思議な感覚に陥る。細胞が活性化したように、雨で冷えていた身体が暖かくなっていった。

 声が聞こえなくなってからも私は目を閉じ続けていた。

すると、誰かがツンツンと脇腹を突いた。驚いて声を上げると、ユエンがユーズカの方を指差している。私に何か用があるようだ。

 祈りを終えたユーズカは私に宝玉を差し出し、何か言っている。どういうことだと訝しんでいると、ユエンがウロを指差す。どうやら、私に宝玉を運んで欲しいようだ。

 どう考えても、栄誉ある役目だ。村長のユーズカやその息子であるジェルガ、孫のユエンが担うのが自然だろう。少なくとも部外者に任せる仕事ではない。

 断ろうとすると、ジェルガも頼むとばかりに私の手を握った。儀式を見守る村の人たちも、期待するような視線を私に送っている。断れる雰囲気ではなかった。

 私は宝玉を受け取ると、巨木のウロへと足を踏み入れた。

 ウロの中は暗く、暖かかった。雨風が入ってこないというだけでなく、巨木そのものが体温を持っているように感じた。その温度のせいか、樹木の力強い匂いが鼻をついた。

 樹木が水を吸い上げているからだろうか、雨以外に何かが流れる音が聞こえる。奇妙な暖かさと相まって、まるで血の通う母体に回帰したかのようだ。

 供物に囲まれた小さな祭壇があった。堆積岩を削って磨いただけの簡素なもので、中央に窪みがある。宝玉はそこにピタリとはまった。一瞬、透明な宝玉の中で星が輝いたように見えた。暗い場所ゆえの目の錯覚なのか、本当に起こった現象なのか、確かめようと宝玉に触れたが答えは得られなかった。

 私がウロの外に出ると、新しい織物を持った男たちが待ち構えていた。彼らはその幕をウロに掛け、蓋をした。

 ユーズカの顔に柔和な笑みが戻る。村の人たちの口から、安堵の吐息が漏れた。どうやら儀式は無事に終わったようだ。


 さて、戻ろうかとなった時だ。突然、周囲が暗くなった。雨が激しくなるのかと、私たちは揃って空を見上げた。

 離陸直後の飛行機のような巨大な十字架の影が空から落ちていた。影は形を変えて両翼を羽ばたかせる。巻き起こされた風で、雨雫が激しくうちつけた。

 巨鳥アブーサだ。その眼は私たちを捉えている。雨のせいで他の獲物が見つからなかったのだろう。ひらけた丘陵にいた私たちに狙いを定めたようだ。小さくても数が揃えば腹の足しになるだろうし、巣に雛鳥がいればちょうど良いサイズかもしれない。

 急降下した巨鳥アブーサの爪が地面をえぐった。間一髪の所で私も村の人たちは避けていた。しかし、巻き起こった突風だけでも、多くの人たちがなぎ倒された。私も吹き飛ばされ、背中を強かに打ってしまった。

 足を挫いて動けない怪我人も出てしまった。助け起こそうとしている間にも、巨鳥アブーサは再び降下体勢に入っていた。次はもう失敗しないと、その眼光は鋭い。ジェルガは仲間を守ろうと、鉈を手に巨鳥アブーサに立ち向かおうとする。だが、あまりにも生物としてのサイズに差がありすぎる。

 私は力いっぱい叫んでいた。悲鳴だったのか、意味のある言葉だったのか、覚えていない。ただ必死に声を出した。

 巨鳥アブーサは凶悪な爪を向け突っ込んでくる。その時だ、また別の影が動いた。

 それは巨木の太い枝だった。根っこが地面をから盛り上がるほどに身体を曲げ、伸ばした枝で巨鳥アブーサの急降下を遮ったのだ。

 突然の事に巨鳥アブーサも動きを止められない。枝を掠め、短い悲鳴をあげた。そして激しく羽ばたき、どうにか身体を引き揚げ上空へと戻っていった。

 巨鳥アブーサは恨めしそうに巨木の上を旋回すると、やがてその場を離れていく。

 喝采を上げるわたし達だったが、思わぬ『落とし物』が降り注いだ。

 身体に似つかわしい巨大なフンが、私と周りにいた人たちをどろどろに汚した。匂いは強くないが、気分の良いものではない。

 聞き覚えのあるくぐもった笑い声が聞こえてきた。振り返ると、巨木が『目』を開けていた。

 鳥の糞まみれで呆気に取られている私の方へ、巨木はそっと枝を伸ばしてきた。もう大丈夫だと言っているように思えた。その様子を見て、村の人たちは酷く驚いていた。

 私は巨木に向かって笑った。二人で笑いあっていると、つられた村の人たちも笑いだした。神聖な雰囲気も緊迫感も、完全に霧散してしまった。


 なぜ巨木が私たちを助けてくれたのか、正確なことは分からない。供物のお礼なのか、気まぐれなのか、あの巨鳥が嫌いなだけなのかもしれない。

 でも、私には巨木が親しみのような感情を持ってくれているように思えた。以前、同族?のトラブルを解決した私を助けてくれたとのではと感じた。

 ある種の植物は匂いで情報のやり取りをするという。もしかしたら、地下茎で繋がっている同一個体かもしれない。とにかく、何かしらの情報伝達手段を持っている可能性はある。

 野外で用を足す時は気をつけることにしよう。


 帰りの道中で雨はやんだ。下りの道が多くなかなか苦労したが、どうにか尻もち1回の代償で無事に村へたどり着くことができた。

 フンまみれの身体を川で洗い、子供たちと一緒にユエンの家の暖炉で暖まっていると、いつの間にか眠ってしまった。


 目が覚めてからは、日が暮れるまで子供たちとずっと遊んでいた。かけっこや鬼ごっこ、的当て。こういった遊びの中から、私は沢山の事を学ばせてもらった。


 夜はユエンの母リテンの料理を満腹になるまで食べた。この世界に来て森の中を彷徨い、ひもじい思いをしていた頃とは雲泥の差だ。


 夕食が終わり、ユエンはジェルガから鉈で木に細工をする方法を習っている。リテンと祖母のラナが食事の片付けをし、ユーズカがうつらうつら眠そうにしながら家族たちを眺めている。


 私は杯に残っていたお茶を飲み干すと、明後日にこの村を去ることを伝えた。

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