21日目
21日目
二ヶ月ぶりだろうか、今日は髪の毛を切った。襟首をくすぐるほどに伸びていた髪の毛がなくなったので、随分と頭が軽くなった。
シラミやダニの寄生、その他の衛生面を考えるなら丸坊主にした方が良いのだろうが、そこまではしなかった。加齢によって頭髪が薄くなった老人はいるけれど、ジルク村でもレンドの街でもスキンヘッドやそれに近い髪型の人間はほとんど見かけない。見るからに異邦人である私が、坊主頭にしてしまってはさらに人目をひくだろう。それを避けたい思惑と、恥ずかしさが手を組んだ結果だ。ただのショートカットでは寂しいので、探求者のヘアスタイルと名付けることにする。
さて、散髪の件も含めて一日を思い返していこう。
昨日の売上で残ったお金でジェルガは、カックルの毛を買い付けた。世話になったデガにお礼を言い、私たちは牧場を後にした。
文字通りピカピカの新品になった宝玉は行きと同じように私が抱えた。その私や買い付けた品物を乗せた荷車をジェルガが操った。考えうる限り完璧な役割分担だろう。
眠気もなく、精神的余裕があるお陰で、荷車の上から景色を眺めることもできた。
丘を登ったところで、遠く北の空に二つの影が見えた。私の目では判然としなかったが、ジェルガによるとあれは『アブーサ』らしい。『アブーサ』とは私が村にやってくるきっかけになった巨鳥の事だ。
ジェルガは続いて『夫婦』だとも言っていた。現在の季節は春か初夏だから、繁殖期なのだろう。あの時、巨大な蛇を狩っていたのは、求愛か子育てのためだと考えられる。ツバメはもちろん、大鷲など大型の鳥でも夫婦で子育てを行う。翼開長が20メートル近くあるような鳥でも、同様の習性を持つようだ。
二羽は切り立った山へと飛んでいく。そこに巣でもあるのだろう。木に止まって夜を明かすとは思えない。巨体から考えても障害物の少ない岸壁や、山頂などを寝床にしているはずだ。
昼は湧き水の場所でデガの奥さんが包んでくれたパンを食べた。楕円体のパンにソーセージと野菜が挟んであり、見た目はホットドッグに似ているが甘みのあるソースがかかっていた。ハニーマスタードをもっと甘くしたような味付けで、スパイシーなソーセージやキュウリっぽい野菜と良くあって美味しい。村のパンよりも生地がぎっしりと重たい感じで、見た目よりもずっと食べごたえがあった。濃い目のソースなのも、この生地が理由なのだろう。
村まで残り4分の1ほどといった所で、ジェルガは唐突に荷車を止めた。何事かと荷台から身を乗り出すと、ジェルガの腕が伸びグローブのように大きな手が私を止めた。動くなと言っているようだ。
強張ったジェルガの腕から先、その視線を追うと道から外れた森のなかで何かが動いていた。シルエットと四つん這いの姿勢から、すぐに人間ではないと分かった。
熊のような見た目だが、口元から猪のように発達した牙が覗いている。地面に四肢をついた状態で体長が2メートル近い。全身が茶色のツンツンとした見るからに硬そうな体毛に包まれている。
「ヌク」とジェルガは小声で言った。他に説明は無かったが、雰囲気から危険な生物だと分かった。
熊を例に取ると、人間が危害を加えられるパターンは大まかに二つある。一つは子連れの母熊が我が子を守ろうとする場合だが、周囲に他の個体の姿は見えない。もう一つは若い個体が好奇心で人間に接近する場合だ。
こちらに気づいたヌクはのっそりと近づいてくる。どうやら後者のようだ。
ヌクが去っていかないと分かると、ジェルガも行動を起こした。私に下がっているように身振りで指示すると、懐から木札と小さな袋を取り出す。札はあの発火する紅色の石がついている札だ。
ジェルガは小袋からぴょこんと伸びている紐をナイフで切って長さを調節する。それから石を擦って火をおこすと、撚った紐に火を移した。紐には脂が塗ってあるのか安定して燃えている。ジェルガは火の付いた小袋をヌクのいる方にポンと軽く投げる。
最初は様子見をしていたヌクだったが、すぐに警戒を緩め小袋に近づいていく。そして、鼻先を近づけた所で導火線の火が袋の中にまで回った。
すると凄まじい煙がもうもうと湧き出し、たちまちヌクやその周囲を包み込んだ。
ヌクは短い悲鳴を上げると、一目散に走り出した。木の幹や倒木に身体をぶつけながら、森の奥へと消えていった。
煙は僅かだが、私たちの方まで流れてきた。私は興味本位で身を乗り出し、その煙を嗅いだ。そして、すぐに激しい後悔に襲われた。鼻の奥が突き刺さるように痛く、目が酷く乾燥したようにしばしばになってしまったのだ。嘔吐くような咳が出て酷く苦しくなる始末だ。
ジェルガは大声で笑い、水筒を渡してくれた。目と鼻と口をすすぎ、どうにか苦しみは収まった。これを大量に吸っていたら、地面にうずくまって動けなくなってしまうだろう。
「ルゥリ」というものだと言う。袋の中を見せてもらったが、植物かなにかを乾燥させて、細かく砕いたものだった。これがあるから、ジェルガや村の人達は危険な獣がいても、森で生活できるのだろう。
ちなみにヌクの肉は美味しいらしい。大事な宝玉を持っていなかったら、ジェルガはあのヌクを狩っていたのかもしれない。街中で公然と武器が売っていたのも、こういった危険生物に対処する(あるいは狩る)ためだろう。
ヌクに遭遇した以外は特にトラブルもなく、わたし達は昼過ぎにジルク村へと到着した。
村の入口ではユエンや他の子供たちが、ジェルガと私の帰りを待っていた。少しでも早く彼らを安心させようと、私は荷車の上から宝玉を掲げて見せた。すると、子供たちは一瞬驚いたように息を呑んでから、すぐさま村中に散っていった。
村の広場に着く頃には、村の人たち全員が満面の笑みで集まっていた。宝玉が村長であるユーズカの手に渡されると、村の人達は喝采を上げ喜んだ。
さらにジェルガは私についても、色々と説明をしてくれた。無口な彼にしては珍しく長い演説だったのだが、正確に聞き取れたのは「大金を払った」ぐらいだ。その後は、私の不理解を補うように、村の人たちがこれでもかと感謝を言葉と態度で表してくれた。いわゆる、揉みくちゃ状態だ。
こんなに褒められたことは初めての経験で、恐縮を超えて軽いパニックになってしまう。言葉が分からなくて良かったとは言わないけれど、もし100%理解できていたら、それこそ顔から火を噴いて逃げ出していたかもしれない。
騒動が一段落した所で、ジェルガは預かっていたお金と買い付けてきたカックルの毛を再分配した。出立の時は深刻そのものだった人々の顔が、喜びに綻んでいるのを見て、私は携帯電話と種を売って良かったと改めて思った。
宝玉についてはまだ何か相談事があるようで、村長のユーズカを中心にジェルガや男たちが話し合っている。
広場に集まっていた子供たちが暇そうにしていたので、私は青空教室を開くことにした。前回の授業から間が空いてしまったので、復習も兼ねて簡単な足し算から始めた。
引き算まで進んだ所で理解状況に、はっきりとばらつきが出てきた。そこからは、小さな子たちを中心にゆっくりと丁寧に教えた。ユエンも積極的に手伝ってくれたので助かった。
気がかりだったのは理解の早いリームだ。4桁の暗算までこなせるリームには、さらに掛け算の基礎も教えることにした。
彼は非常に頭の回転が早い。この小さな村ではそれを発揮する機会は、少ないだろう。学校など教育機関が存在するなら、そこへ行かせたいと思った。彼の将来がさらに開けるだろうし、もし将来的に村へ戻ってくれば発展に寄与してくれるはずだ。
子供たちが勉強に飽き始めた頃、大人たちの話し合いも終わった。
こちらにやってきたジェルガは、身振り手振りを交えて私に何かを伝えようとした。いつもどっしりと構えている彼の必死な様子に、何事かと私も真剣にそれを読みとうことした。二人でパントマイムショーを繰り広げたがなかなか上手くいかない。結局、ユエンが簡単な言葉に置き換えてくれて、どうにか意思疎通ができた。
どうやらジェルガは「お礼がしたい。何かしてほしいことはないか」と尋ねているようだった。
そこで私は前髪を二本指で挟んで見せ、「髪の毛を切って欲しい」と伝えた。すると、ユエンの母リテンが呼ばれ散髪が始まった。
リテンの手先は器用で、散髪も丁寧だった。普段は刺繍や裁縫に使っているハサミで、掴んだ髪の毛を一房ずつ切り落としていく。
郷愁に胸を詰まらせた私は涙をながしてしまった。突然泣き出した私に、リテンと子供たちは心配そうに声を掛けてくれた。
散髪は15分ほどで終わった。鏡がないので正確な仕上がりは分からないが、手で触った感じでは変な所は無いように思えた。どんな髪型にされても受け入れようと覚悟していたけれど、十分過ぎる結果だった。
私だけではなく、ついでにユエンや他の子供たちも髪の毛を切って貰った。
暗くなるまで子供たちと遊んでいると、それまで姿が見えなかったジェルガが呼びに来た。他の家々も夕食の時間のようだ。
いつも夕飯を作るリテンが散髪にかかりきりだったので、準備をしたのはジェルガと村長のユーズカだった。
鳥の羽を毟って鉈で捌いただけのほぼ丸焼きと、皮を剥いただけのジャガイモとぶつ切りのベーコンのスープ、そして酒と酒と酒。まさに豪快な男料理だった。さすがに総合的な味付けではリテンに及ばないが、肉と脂がこれでもかと舌と胃を刺激し、アルコールで開放された脳が快感に満ちる。
食事中、私の杯に酒を注いだのはユーズカだった。食事の準備も含めて、おそらく首長としての『もてなし』だ。共同体に功績があった人間を、そのリーダーが直接歓待するという習慣があるのだろう。
この場合、歓待を受ける側は大いに飲み食いし、楽しむのがマナーだ。そうでなければ、ユーズカの首長としての尊厳に関わる。祭り(タセリラ)では酒で若干の失敗をしたけれど、今回も肉を食らい大量の酒を胃に流し込んだ。
結果、腹がはち切れんばかりに膨らんでしまった。さすがにもう食べられないという所で、締めのお茶が振る舞われた。胃に優しそうな味で、身体の芯からぽかぽかと暖かくなった。
私は酔いの力も借りて、リームの事をユーズカとジェルガに伝えようとした。ほぼリームの名前を繰り返し、「すごい」と繰り返すだけだが、ニュアンスは伝わったようだった。そもそも、リームが優秀なことは村の誰もが認識している。彼の今後については、大人として色々と考えているようなので私も安心できた。
貸家に戻った私は、楽しかった今日を噛み締めながらこの日記を書いている。
そろそろ潮時だ。
お腹一杯の肉と酒、そして恩返しができた満足感は、私に出立の決意をさせるには十分だった。
子供たちに別れを言うことを考えると、それだけで目元が熱くなる。
しかし、私は進まなければならない。
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