9日目
9日目
今後の行動について私は悩んでいる。しばらく小屋での生活を続けるべきか、移動するべきか。頭のなかを整理するために、今日あった事を日記に書いていこう。
まだ太陽が高くないうちは、芋掘りをしてすごした。
鳴子を仕掛けたけれどイノシシを追い払えるかどうか分からない。なら、奴らに荒らされる前に、出来る限り採取してしまおうと考えたのだ。
握力が無くなるまでに掘り出せたのは、20センチ程度の芋が3本と、10センチ以下の小さな芋が5本、種類は全て同じ、あのヤマイモに似た芋だ。
芋の保存は以外と難しい。温度が低くすぎると腐ってしまい、逆に温度が高すぎると発芽してしまう。でんぷん質なのでカビも生えやすい。地面に穴を掘って保存するのが良いらしいけれど、それではイノシシに見つかるリスクが本質的に変わらない。
そこで二つの保存方法を試してみることにした。一つは干し芋だ。皮を剥いて輪切りにしたものを天日干しにした。地面で直接干すわけにはいかないので、小屋にあった長机を外に出し、その上に並べた。
もう一つは堅焼きだ。ペースト状に練ったものを、石に塗って遠火で焼く。一昨日は厚手のクレープ生地のように、まだ柔らかいまま食べてしまったけれど、今度はさらに時間をかけて焼いてみることにした。
焼いている時間を利用して、水汲みと仕掛けのチェックに川へ向かった。
川に到着してすぐに仕掛けを調べた。今日は囲いの中に魚はいなかった。少しがっかりした。でも、運次第の仕掛けなのだから、そう毎日都合よく魚が捕れるわけがないと、気を取り直すことができた。
相変わらず水中には、悠々と泳ぐ魚の姿がいくつも見える。追い込み漁を試しても良いかもしれないと思った。前回はやたらと追い回してビショビショに濡れただけだけれど、今回は囲いの中に誘導できれば良いぶん成功率は上がっているはずだ。それぐらいなら私の運動神経でもいけそうな気がした。
さっそく実行に移そうと、川に足を踏み入れた時だ。視界の端で何かが動くのを見た。まさか水を飲みに来たイノシシではと慌てて視線の向けた。
そこで目にしたのは、サッと茂みに隠れる小さな人影だった。
まさかと自分の目を疑いながらも、私はその影を見た下流の方へ近づいていった。緊張に興奮で口の中が乾き、川辺に敷き詰められた石を踏む足が震えた。
茂みまで5メートルほどの距離まで近づいたところで、私は足を止めた。確実に葉っぱの後ろに誰かがいる。相手も私の方をジッと見つめているのが分かった。警戒しているようだ。
その時の私は頭の中がいっぱいいっぱいで、どうすれば良いのか分からなくなっていた。それでも無言で接近するよりは、話しかけた方が良い気がした。
「あの」と声をかけようとしたけれど、久しぶりの発声に「のっ」と息の詰まったような音が出てしまう。茂みがビクッと震えた。逃げようとしている気配が伝わってきた。
私は思い切って「こんにちは」と挨拶してみた。気さくな挨拶がいけなかったのだろう、人影は身体の向きをくるっと変えて走りだした。私もとっさに後を追った。
まだ探索していない森の中なので、私自身が迷子になる可能性もあった。それでもこのチャンスを逃したら一生後悔する。蔦を払い、樹の枝を踏み越え、転びそうになりながらも私は全力で走った。
しかし相手の足の方が格段に速かった。最初はすぐ前にあった背中が遠ざかり、木々に隠れるようになり、ついには完全に見えなくなってしまった。
私には情けなく助けを求めるしかなかった。せめて声だけでも届けと呼びかけ続けた。いま思い返せば完全に逆効果だろうけれど、この時の私にそんな余裕はなかった。
興奮と大声で脳が酸欠になり、ふらふらになってしまう。さらに溢れた涙で視界も悪く、私は木の根っ子に足を引っ掛けて盛大に転んでしまった。無様な悲鳴が静かな森をかき乱した。
地面に転がった私は、額に手を当て木々の天蓋を仰いでいた。足の痛みと疲れで、立ち上がる気力が完全になくなってしまう。もう二度と人間に会えないような恐怖に取り憑かれ、声に出して泣いてしまった。ああ、私はこのまま死んで、イノシシの餌になるのだと本気で想像した。
しばらく弱音を喚いていると、頭上に影が差した。私の涙で濡れた汚い顔を、人影が恐る恐る覗きこんでいた。
子供だった。遠くから見ても背が低いと思っていたけれど、実際の身長は120cmぐらいだ。腰に籠を括りつけていた。短い黒髪に黒い目であどけない顔をしている。子供だと考えた最大の理由は関節だ。半袖半ズボンから覗く手足の関節部から、成長期特有の皮と骨っぽさが分かる。筋肉より先に骨が成長するので、肘や膝の関節が浮き出て見えるのだ。
そんな分析はともかく、私の悲鳴を聞きつけ、心配して戻ってきてくれたのだ。理解できる感情に触れ、また涙が零れた。と、同時に子供の前で醜態を晒した恥ずかしさに、顔が熱くなった。
私はゆっくりと身を起こし、敵意が無いことを示そうと両手を開いて見せた。ジェスチャーの意味が分からなかったのか、子供は不思議そうに目をパチクリさせていた。
とりあえず話しかけてみたけれど案の定、日本語は通じなかった。簡単な英語で話しかけてみるも、こちらもダメだった。
逆に子供の方も私に話しかけて来てくれたけれど、何を言ってるのかさっぱりだった。状況と表情からして、私を気遣ってくれているようなので、とりあえず笑顔で応えた。
私の無事を確認した子供は、見ず知らずどころか言葉の通じない相手に困惑し、この場を去りたそうにしていた。もちろん、このチャンスを逃がすことができない私は子供のその雰囲気に気づかないふりをして、コミュケーションを試み続けた。
言葉や身振りで上手く意思疎通できないとなると、残された手段は絵だ。
私は落ちていた枝を手にして、地面に人間の絵を描いた。それから絵と自分を交互に指さして、自分の名前を伝えた。次に自分だけをトントンと何度も指さして訴えた。子供は私の名前を呼んでくれた。私が何度も頷いて喜ぶと、子供も嬉しそうにしてくれた。
次に私の絵のとなりに、もうひとり小さな人間を描いた。その小さな人間の絵と子供を交互に指差す。順番だと気づいた子供が、自分を指さして「ユエン」と名乗った。私が子供を指さして「ユエン」と呼ぶと、彼も笑顔で頷いた。
順調に意思伝達ができている。私は急いで次のステップに進んだ。
私とユエンの少し離れた左の横に魚を描いた。その魚を挟むように二本の縦線を少しくねらせながら、長く長く描く。私とユエンが遭遇した川のつもりだ。おまけでさらに魚を二匹ばかり川に追加する。そして、走ってきた大体の方向を指さし、次にこの川を指さす。念押しとばかりに、口でバチャバチャ言いながら水を被って頭を洗う真似をした。ユエンが笑顔で頷いたので通じているようだった。
次に川の上流に小屋を描いた。そして、その小屋から川に線を引き、そのまま川伝いに進んで、棒人間の私に繋げた。
ここでユエンに枝を渡した。ユエンは川の下流から少し離れた場所にいくつかの家を描いた。それから、私がしたのと同じようにこの場所までの線を引いた。
私は心のなかでガッツポーズを取った。
簡単なものだけれど、私は地図を手に入れたのだ! 闇雲に森の中を彷徨う必要はもうないのが嬉しかった。
言葉は通じないけれど、私はユエンにお礼を言って深々と頭を下げた。それから、念の為に持ち歩いていたアメを一つ、包装を破いて渡した。ユエンは訝しんでいたけれど、私が別のアメを食べて見せると、安心して口に入れた。
アメをガリガリと齧ったユエンは、目をおおきく見開いて驚いた。それから笑顔で何度も何度も頷いた。最後のアメだったけれど、ユエンが気に入ってくれたので良しだ。
気づくと太陽が傾き始めていた。地図から判断するにそれほどユエンの家まで離れていない。私よりもよほど森に慣れているみたいだけれど、子供に暗い道を歩かせるのは危険だ。地図が分かったのだから、これ以上はユエンを引き止め続けるのはよくないだろう。
私は自分を指さしてから小屋を指し、次にユエンを指してから彼の『家』を指さした。ユエンは地図から顔をあげると私の目を見て頷いた。それから、しっかりとした足取りで前だけを見て歩き出した。私には同じ森のように見えるけれど、ユエンにはこの場所がどこなのかはっきりと分かっていたようだ。
ユエンが去ってから私は川に向かって歩き出した。挫いた足がまだ少し痛かったけれど、それが気にならないほどの大きな達成感が胸の中にあった。
多少道に迷いながらも、夜になる前に私も無事に帰ることができた。小屋に戻った私はさっそくノートを開き、憶えた地図を記し、この日記を書いている。
あらためて地図を見返した。地面に描いた地図に手を当て、親指と小指の間隔で各所の大雑把な距離の比はとってある。しかし、もともとが私の雑な絵なので正確さはまるで保証できない。それを加味しても、ユエンの『家』まで、小屋からそれほど距離はないだろう。
見たところユエンは8~10才ぐらいだった。腰に籠を携えていたので、森や川で食べ物か何か採取していたようだ。身につけていた服は、布を縫っただけの簡素なものだった。子供を常に労働力としているとしたら、ユエンの所属している集団は、日本のような社会福祉の整備された社会ではないのだろう。
だからこそ私はあの時、ユエンについて行かなかった。文明度が低いとしたら、言葉が通じないという一点で何らかの危害を加えられる可能性がある。その上さらにだ、子供の後をついてきたとなったら不審者まるだしだ。
最初に出会ったのがユエンという子供だったから良かったものの、大人と遭遇していたらどうなっていたことか。戦うことはもちろん、逃げ切ることもできなかっただろう。
すぐにでも集落を目指すべきなのだろうか?
人間との出会いを求めていたけれど、いざその時が来ると不安で胸が一杯になってしまった。
分からないことだらけだ。
不安を抱えたまま接触するのはお互いにとって良くないだろう。とりあえず、この小屋で生活基盤を整え、万全の準備(逃走も含めて)をしてからユエンの集落に向かおう。
それはそうと、囲炉裏に放置しっぱなしだった堅焼きは完全に失敗し、カサカサボロボロの白い粉に錬成されてしまった。
だから夕飯は中途半端な干し芋と芋の切れっ端だ。
食べれるだけありがたいと思うことにした。
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