第21話

 それから、私の朝稽古に驚くような変化が生じた。


 私の言霊が初めて成功したのだ。私自身かなり驚いてしまい、途中で詠唱をやめてしまうところだった。勿論、驚いていたのは私だけではない。


 父は言葉を失っていた。目を見開いて、私を見ていた。彼の表情はとてもじゃないが嬉しさがこみ上げている顔ではなかった。起こり得る筈のない出来事に対し、自分の目を疑っているようだった。


「師範代、どうしたのですか」


「何でもない。……今日の稽古は中止だ」


 父は何も語らず、道場から立ち去った。私には父の行動の意味を理解できないでいた。受け入れがたい現実を認めないかのように口元を抑えていた。父は私から何を見ていたのだろうか。


 初めて言霊の扱いに成功した私は思ったよりも嬉しさがこみ上げてくることはなかった。私の驚きよりも、父の表情の方が気にかかっていたからだ。


 母にも私が言霊を扱えるようになったことを伝えると、沈み込んだ笑顔を私に浮かべて「よかったじゃない、晴ちゃん」と答えた。父も母も私が言霊を扱えたことをよく思っていないようだった。二人の応対は私の心をチクリと刺した。


 それからというもの、放課後の時間は御堂修吾との作戦会議に当てられた。とは言っても、彼と放課後に初めて話した時のように私が何か意見をするということはなく、彼の意見を聞いて、聞いて、聞いているだけだった。彼は私の意見を聞かないものの、私の表情から何かしらの考えを読み取っているみたいだった。


 そして、もう一つ。確実な変化は朝稽古に父が付き添わなくなってしまったことだ。父は、私が言霊を扱えるようになった次の日から連日、家に帰らなくなった。父の顔を見る機会は極端に減り、母の口数も減った。私との会話がどこかぎこちないものになり、会話もどこかよそよそしい。


 二人は私が何かしようとしていることを感づいているのだろうか。私も二人に対して隠し事があったものだから、そのぎこちなさを追求することはなかった。


 近所の家の桜はほとんど散りかけていて、早い話が四月の終わりを告げようとしていた。ゴールデンウィークを向かえる前にはこの全てを終わらせてしまいたい。私はそう思っていた。

 私は季節の風物に物思いに増える暇もなく、彼との作戦会議に無理やり参加させられた。二十九日が祝日であったので、彼との作戦会議はほぼ反日をかけて行われることとなり、他の時間は自らの修練に時間を割くことになった。なんて高校生らしからぬ生活ぶりだと自分のことを卑下しながら、その日を迎えるまで私は励み続けた。


 四月三十日、私たちは作戦の決行をした。御堂修吾の情報網により、兵藤という人と島崎という人が陰陽師の本部の方に出向するのがこの日だった。御堂修吾の呪いの引き渡しが行われるのだ。書類のような手続きを通して、本部の方に彼の判断を仰ぐらしい。陰陽師の処罰における呪いは、半永久的に対象を縛り付けてしまう。それゆえに、本部に送られるかどうかというのは各地方陰陽師の間で随分と判断を委ねられているんだとか。だからこそ、彼らの決定は遅く、私たちはそれまでの間、作戦と鍛錬に集中することができた。


 もっとも、彼の処罰が本部に送られることが決定したということは、彼の犯した罪というのはだいぶ重いものだという証明にもなっていた。当然の話だ。私の偶然がなければ彼は人を殺していたかもしれないのだ。私は改めて彼と協力すべきなのかどうか迷っていたが、ここまで来てしまった以上、引き下がれはしなかった。


 私はその日、学校を休んだ。というか、休まされた。御堂修吾という人は怖いくらいに用意のいい人物で、母の声色を使って学校を休むことを私の担任の先生に報告済みだった。これほど用意周到であっても、企てる目的、思想がお粗末な人だからこれ以上迷惑な人間もいないことだ。


 私は彼と合流するため、制服を着用して近くの駅に向かった。母を騙すためには制服を着ざるを得なかったのだ。


 その後、駅のトイレを利用して着替えを済ませ、上下が赤と黒のジャージに着替えた。前回着ていたジャージは胸のあたりがポッカリと空いてしまったので、使い物にならなくなってしまった。それと、マスクと帽子、帽子はつばのついた黒いもので、この二つを身につければただの不審者だ。


 その後、制服を入れた袋と学生鞄は駅のロッカーに入れて、鍵を閉めた。荷物になるからと前もって御堂修吾に言われていた。


 駅の改札口で待っていると、御堂修吾がやってきた。彼もまた制服姿でやってきた。私を流し目で素通りしてそのまま男子トイレに向かった。彼の家は学校から近い、つまりは私の家からも近いはずなのにどうして改札口から現れたのか。いささか疑問ではあった。


 ジャージ姿に着替えた御堂修吾が私のもとにやってきた。ジャージ姿の彼の格好は今までよりも身体のラインが浮き出る。彼の身体はあまりに細かったということを再認識させられた。そして、ジャージ姿があまりにも似合っていなかった。


「行くぞ」


 彼が歩き出したので、私はそれについていった。通勤ラッシュのせいか道行く人の逆をゆく私たちは妙に目立った。このようなところを、私たちを監視している陰陽師が見れば不審に思うに違いない。けれど、御堂修吾の話では私たちの警備担当も兵藤という人と島崎という人が行っているらしい。小僧小娘の監視など手薄になるのが当然だと彼は軽口を叩いていた。地方の陰陽師の人たちも随分とこき使われているのだと悟った瞬間だった。


 人の流れを逆らうようにして歩いていると、同じような流れをたどっている人がいることに気がついた。


「もしかして、あれですか」


「そうだ。あいつらは人のいない方に流れる。古式ゆかしい伝統みたいなものがあるらしい。正式な場に向かう時は方違えに近い話だが、人のゆく道もずらすらしいな」


 方違えとはその人にとってその方角が凶であるとき、例えば南の方角が凶だとすれば、西や東の方角に進み、一度宿を取ってから目的地に向かうというものだ。宿をとった場所から見れば方角は南出ないことが味噌になるのだ。


 この場合に限って言えば、方違えではなくて、人違えとでも呼べばいいのだろうか。人気のない道を選んで目的地につかなければならないのだから、方違えよりも作業は面倒かも知れない。


 そんなことを話しながら、彼は人の網目をスイスイとすり抜けていった。彼の薄い胸板ならば確かに可能なことだった。今度、テレビの液晶画面と比べてみたいなどと馬鹿なことも少し考えた。


 人通りが少なくなった小道に入ってくると、スーツを着た二人の男は周囲を警戒し始めた。尾行者がいないか確認しているというよりは人の目を気にしているらしかった。彼らはキョロキョロと周りを確認しながら、ゆっくりと足を進めていた。私たちも彼らに見つからないように注意を払わなければならなかった。


「このあたりだ。奇襲を仕掛ける」


 私は静かに頷いた。彼らの後をついていったおかげか、随分と人通りの少ないところを歩かされた。その代わり、私たちを目撃するような一般人もいない。ということは、陰陽術を使っても問題ないということだった。


 御堂修吾は懐から小さな果物ナイフを取り出して、その切先を親指の腹に当てて、僅かに刺した。


 じわりと赤い血が露になって彼も人と同じ血が通っていたのだと感心した。


「お前、今、くだらないこと考えただろ」


「いえ、別に何も考えていません」


 私は大げさに首を振って否定したが、動きが怪しすぎて即座にバレた。彼は別段気にしている様子でもなかった。


 私よりも遥かに速く文字を書く。彼の文字はどうやら草書体という文体らしく、字のほとんどを繋げるので人の何倍もの速さでかけるみたいだ。その代わり、私には判読すらできなかったが。


 二枚の紙はすぐさま鳥へと変化した。燕のようで、燕尾服のような尾が特徴的だった。ああ、逆か。燕尾服が燕の尾をモチーフにしているのか。


 二羽の燕は二人の男の周りを囲むようにして飛び、ぐるぐると回っていた。彼らもその燕の怪しさにすぐに気がついて、口を手で覆って言霊を用いた。けれど、遅かった。


 二羽の燕が円形の陣で兵藤と島崎を囲うと、彼らの周囲に光る円形の縄のようなものが出来上がり、そして、彼らを縛り付けた。


 彼は立て続けに呼び出しをして、二人に言霊を唱えさせることを阻んだ。何枚もの桜の花びらが彼らを包み、口を塞ぐのだ。


 二人は暴れていたが、時間の経過とともに静かになった。窒息死まではいかないものの、気絶はしている可能性はあった。


 私は彼らのもとに近づこうとしたが、御堂修吾が手を出して私が前に出るのを阻んだ。


「まだだ」


 彼はそう言った。若干の苦笑いを浮かべながら、御堂修吾は前を見ていた。


 私は壁の陰に隠れ、姿を見せないようにした。


「全く…、若者ってのは礼儀を知らないな。年長者に対する礼儀を学校で教わらなかったのか」


 脇から覗いた。


 彼らは二人まとめて胸元のあたりを縛り上げられていたが、そのうちの一人がもうひとりを担ぐようにして立ち上がった。


 低く落ち着いた声。おそらく島崎という人だった。


「少なくとも俺は習ってねえな。お前ら大人の教育制度が悪かったんじゃないか?」

 相変わらず、御堂修吾という人は人に悪態をつかなければ話が進められない人だった。


「俺は教師様にそうしろと頼んだわけじゃない。だが、社会に責任はありそうだ。何しろ、こんな無礼な小僧を生み出してしまったんだからな」


 男を縛り付けていた光の縄は見事にちぎれた。それと同時に、島崎でない方、兵藤はコンクリートで舗装された地面に強く打ち付けられるが、島崎は気にも留めていない様子だった。


「かくいうお前も随分と仲間を大事にしないんだな。いいのかそれで」


「いんやあ、こいつは俺とは違う部署だ。だから、どうなろうと知らねえな」

 筋肉ダルマこと島崎は穏健そうに見えて実にしたたかな男のようだ。私は最初から怪しいと踏んでいたけれど。


 彼はひとり島崎に姿を見せたが、私はそのまま隠れさせられた。

 隠し玉じゃないけれど、島崎の油断を誘うためのカードという大役らしかった。散々聞かされた彼の作戦の一つにこれは組み込まれていた。


「どうだ。このままおとなしく俺の呪いを解いてくれるならお前には手を出さねえ。これから大怪我するかもしれないことを考えれば、悪い話じゃないと思うが」


「呆れてものも言えねえな。どうしてそんなひねくれたガキになっちまったのか聞きてえもんだ」


「そうか、交渉決裂とは残念だ。…近くに建設途中で放置された廃墟がある。そこでカタをつけようぜ。罠があると勘ぐるのは勝手だが、派手に騒いで周辺の人間に目撃されるよりはマシだろ」


 島崎はため息をついてそのまま歩みを進めた。その廃墟に関しては彼も知っている様子だった。陰陽師の間では割と有名なのかもしれない。


 私はふたりがともに歩き去るのを確認してから、道路で気絶している兵藤に近寄った。御堂修吾の推察によると、彼が太白の封印か御堂修吾の呪いを受け持っているはず。

 けれど、彼が兵藤を確認せずにそのまま廃墟に向かったことから察するに、兵藤が彼の呪いを受け持っているわけではないのだろう。


 私はそこで伸びてしまっている彼の懐やポケットなどをあさってみるが、それらしい何かは見つからない。財布をあさったり、手帳を調べたりしているところを誰かに見られでもしたら、お縄を頂戴することは必須だろう。


「ないなあ」


 大体、彼が術者であるならば、彼の意識が切れてしまっている時点で太白の封印は解けているはずだった。


 それなのに、私の身体には何も変化が見られない。ということは、私を縛り付けているのはここで寝っ転がっている人ではないということだ。


 私は元の場所に財布やら何やらを戻しつつ、財布に入っていた怪しげな人の名刺は彼のお腹のうえに置きっぱなしにしてあげた。これは私なりのいたずらだ。


 私は事前に教えられていた廃墟、島崎という人と御堂修吾もそこにいるはずだけれど、そこまで歩いて行った。


 先程と違って人のいないところを一人で歩くのはなかなかに怖かった。お昼前とは言え、警戒しながら歩みを進めた。


 それでも廃墟までは何事もなくたどり着いた。既に改装の兆しはなさそうで、もしかしたら、陰陽師御用達の場所なのかもしれないと、そんな予想を立てていた。


 ところどころ、コンクリートが砕けていて、むき出しになった鉄筋がところどころに見えた。ベランダあたりの鉄格子は塗装が剥げてほとんど錆び付いている。けれど、この廃墟を支える柱だけは綻びもなく佇んでいた。しばらくは崩れなさそうだ。


 スーパーの袋や食べかけのゴミ、実に廃墟らしいものが床に捨てたままになっていた。誰かがここで寝泊りもしているらしいが、今はここに人の気配はなかった。上で聞こえる怪しげな爆発音などを除いて。


 元々はマンションのようだけれど、既に部屋を仕切る壁は破壊されている。むき出しの水道管や、大破したバスルーム、原型を保たない畳。そこに生活感は生まれないはずだけれど、その空間の中には少しだけ整った場所があって、人一人が寝泊りできるような空間が意図的に作られているようにもみえる。家を失った人たちがここを利用しているのかもしれない。


 階段が綺麗に保っているのが不思議なくらいだった。三階くらいは昇っただろうか。普段、運動なんてしないものだから、私は息を切らしていた。


 さて、段々と上で聞こえる音が近づいて、私は足音が大きくならないように努めた。


 五階。ついに音の正体を目にした。私は階段から少しだけ顔を出してその様子を眺めた。


 漆黒に染まった二頭の狼。その狼らが御堂修吾の両脚を噛み付いているように見えた。だが、その狼がそれ以上動く気配はない。痺れているのか、それとも動けないのか。兎に角、二頭の狼は御堂修吾を苦しめているようには見えない。そして、バチバチと電気が流れるような音とともに、御堂修吾は怪しく光っている。ジャージは既にボロボロになっていて、気味の悪い腕がむき出しになっていた。彼の身体を駆け巡っている怪しげな光がどうやら彼の衣服をボロボロにしているようだった。


 そして尚且つ、彼の身体は人間味を失い始めていた。彼の脚は動物のように黄金色の毛を帯びて、素肌を晒しているはずの足は尖った爪を有していた。


「気持ち悪いガキだ。お前みたいに知恵があって、実力も兼ね備えている陰陽師が悪事を働くと、困るのは俺たちなんだよな」


 相対する島崎も余裕はあるようだった。ある年齢層越えた大人に特有のボヤキをかましながら、面倒くさそうに首のあたりをさすっていた。


「だから言った。解放するなら今だと」


 御堂修吾は若干声質も変わっていた。若干しゃがれた声で彼は返答した。


「お前、それで呪いにかかっていると言うんだから大したもんだ。触媒は自分自身か。若い人間がそんな風に簡単に命をかけるのはおっさんの俺としては頂けない話だ」


 島崎は命を軽々しく捨て去ることを選べる、御堂修吾の生き様を否定した。


 御堂修吾は何も言わなかったけれど、その顔を見るに機嫌が良さそうというわけではないようだった。


 それにしても、触媒を自分自身とは随分と強硬な手段に出ている。血で式神を呼び出す方が遥かに能力のある式神を呼び出せることは私自身実証済みのことである。


 それを考えれば、彼の肉体そのものを触媒に呼び出すことがどれほどのことであるか、想像だにできない。


「てめえのせいだろうが。この呪いの苦痛から逃れるために俺はここまでの賭けに出なきゃならなかった。てめえをぶっ飛ばしたらすぐにでもこの術を解いてやるよ」


 彼の口数が多いのは言霊を用いていないからだろう。そして余裕だからだろうか。彼の邪魔建てをして彼の不利を呼び込むわけにもいかないので私はこの術比べを見ていることにした。


 御堂修吾が動いた。広大な草原を駆ける猛獣のような脚力で瞬時に島崎の懐に入り込んだ。そして彼のみぞおちに掌底が入る。見た目はそこまでのものではなかったけれど、彼の体躯を走る電流がその威力をはね上げていた。


 島崎に襲いかかる衝撃。それは半端なものではないだろう。にも関わらず、彼は身体を動かしてみせ、更には彼に一撃を入れる。


「いてえじゃねえか」


 島崎はそう口にすると、自身の足元にできる影から彼の式神、つまりはお呼び出しをして、何頭かの黒い狼が出現した。私には自分の影を触媒にするなどという考えは生まれなかったので彼の式神の呼び出し方は驚くべきものだった。


 新たに生まれた黒狼が彼の四肢に噛み付く。だが、黒狼は先の狼と同じように動きが鈍くなり、すぐに動けなくなる。


 どうやら、御堂修吾の電撃は島崎の呼び出す式神との相性が抜群のようだ。彼が圧倒的に有利だ。とは言っても、ここまでは彼の前準備の賜物だった。特に島崎に関しては念入りに調べていたらしいことは彼の長話を聞かされた私が一番よく知っていた。


 式神を使う意味がないと判断した島崎は御堂修吾に撃鉄をいれる。既に距離を縮められているので、言霊の類はまるで使い物にならないからだ。


 だが、それは力なく、脆弱なものだった。彼を襲っているのは電流による衝撃そのものよりも肉体に起こる麻痺の方が遥かに強大なようだった。


「いてえし、痺れるし。てめえの性格の悪さがにじみ出る術だ」

 徐々に瞼がとろんと落ち始めてる。島崎の意識は既に危うかった。


 これ、私のいる必要なかったんじゃないだろうか。彼は島崎を圧倒している。

 島崎の動きは徐々に鈍く、鈍くなっていった。獲物を捕らえた蜘蛛がじわじわと追い込んでいるようだった。


 彼が即座に島崎を仕留めないのは彼の静かなる、いや、表立った怒りが影響しているのだろう。それほどに彼に降りかかる呪いは彼を苦しめていたのだ。


 正直、逆恨みもいいところだけれど、私に彼を止める術も理由もなかった。太白を封じているのは島崎かも知れないのだから。


 意識は朦朧としている。焦点が定まらず、彼は最早、御堂修吾をその瞳に捉えることができないでいた。


「これで終わりか」


 御堂修吾は島崎の頭に両手を添え、強力な電撃を放つ。


 沈み込むように彼は倒れた。


 それと同時にかもしれないが、彼の腕を侵していた黒く気味の悪い何かはゆっくりと消えていった。


「やっとこの痛みから解放されたか」


 腕をさすりながら、彼は倒れ込んだ島崎を踏みつけた。彼は悦に入っているようだが、彼の声がまだかからないので私はまだ出てきてはいけないらしい。これでもまだ彼の作戦のうちなのだろうか。


 私は我慢できなくなって、彼のもとに向かおうとした。けれど、それをしなかったのは私の直感からか、それとも単なる偶然なのか、それとも――。


 彼のもとに向かう前に一人の人が彼のところに向かった。あまりにも私の想像からはかけ離れた人物であったからか、言葉を失うほど驚いた。


「修吾」


 そう呼んで彼女は御堂修吾に近づいた。私のいなかった方の階段から彼女はやってきたようだ。


「お前、ここには来るなと言っておいたはずだ。それに、まだ話は済んじゃいない」


 御堂修吾も彼女の来訪には驚いている様子だった。彼を纏うバチバチと光るものは消えてしまい、若干なりと逆だっていた髪は落ち着きを取り戻した。肉体も元の人間の身体に戻った。


「だって、あんたいつも無茶するじゃん。今も大人相手にこんな――」


「そうでもしないと俺の呪いは解けない。手っ取り早い手段を選んだだけだ。それより一刻も早くここから出て行け。胸騒ぎがする」


「でも、あんたの呪いが解けたなら全部話は終わってるでしょ?何を心配する必要があんの?」


 彼女は御堂修吾と面識があるらしかった。彼との会話におけるくだけた感じからも察することができた。


 御堂修吾は彼女の言葉など意に介さず、周囲を警戒している。私がいることは既に理解しているようだけれど、彼が探しているのは私ではないような気がした。


「違う」


 彼は何かを否定した。けれど、彼女の言葉に対する返答ではないみたいだ。うまくいきすぎていることに違和感を覚えているみたいだった。それだけでなく、彼は何かを感づいたようでその顔には焦りが見えた。


「何が違うの?ねえ、修吾。答えないとわかんないって」


「説明は後だ。この廃墟から出るぞ」


 二人はこちらの階段を使おうと向かってきたので、私は急いで階段を駆け降りた。その際、足音を立てないように細心の注意を払った。


 私は四階の物陰に隠れて彼らが降りてくるのを待った。けれど、彼らが降りてくる気配が一向にない。私は注視しながら階段の方に戻って、またさっきのようにひょっこりと顔を出して五階を確認する。


 二人の他に誰かいる。その後ろ姿に見覚えがあった。御堂修吾の父、御堂司の姿だ。優しそうな顔つきに黒縁のメガネ。陰陽師特有の道着を着込んで、その上に黒い羽織を羽織っていた。御堂修吾も、そして彼女も何かに縛りつけられるかのように動かないで彼を見ていた。


 彼らの足元を見ると、何か陣が敷かれていて、それが彼らを縛り付けているらしかった。


「本当に、本当に出来の悪い息子を持ってしまったものだ」


 嘆くように御堂司は口にする。私からその表情は見ることができなかった。


「はっ。てめえにとって俺の存在が不利益になるとわかった途端、これか」


「不利益。そうだな。修吾、お前の存在は最早私にとって害悪でしかない」

 そう言って御堂司は吐き捨てた。彼の手には扇が握られていた。状況はよくわからないけれど、彼は自分の息子に何か危害を加えるつもりらしい。


「害悪ねえ。俺のおかげでてめえは甘い汁を吸ってきたように思うけどな」


「甘い汁。違うな。これは私の手腕による功績だ」


「確かにそうだな。だが、そうすると、俺のこの犯罪まがいな行動もてめえの功績ってわけか。随分と泥を被ってくれるもんだ」


 御堂修吾は自分が動けない状態にも関わらず、強気な姿勢を崩さなかった。けれど、表情は苦しそうだった。彼の隣にいた彼女は恐怖に打ち震え、何もできずにその場に立っていた。


「いや、お前の泥は誰にも知られることなく消える。お前は地方から派遣された陰陽師島崎との戦いの末、命を落とすのだから」


「それが狙いか」


 御堂修吾は驚かなかった。既に知っていることのようだった。


「覚悟ができているのなら話は早い。だが、お前には安倍家の御息女の居場所を吐いてもらわなければならない。殺される前に彼女の居所を教えなさい」


 突然私の名前が表に上がった。だが、私を引きつけた言葉は寧ろ、殺すという言葉だった。


 彼は自分の息子を目の前にしてなんて言葉を口にしているのだろう。湧き上がる混乱。私は震えが止まらなくなっていた。


 地を擦る音がした。御堂司は動きづらそうな草鞋を履いて歩いていたから、散らばる砂利を擦る音が際立った。彼は二人のもとに近づいていた。


「あの女が結局目当てか。いや、あの女が持つ太白とやらか。力に目がくらむのはどうやら遺伝らしいな」


「晴、晴をどうにかするつもり何ですか。おじさん。晴はそんな。関係ないじゃないですか」


 怯えていた彼女が御堂司を前にして初めて口を開いた。すくむ足を何とか立たせながら声を出す彼女はひどく弱々しく見えた。助けなきゃ。私はそう思った。でも、私の足もまた震え、すくんでいた。


「太白のことまで知っているのは感心だ。修吾の察しのよさは助かるよ」


「さあな。今頃呑気に学校にでも行ってるんじゃないのか」


「……やれやれ。私は拷問というのが得意ではないのだがね」


 そう言うと、御堂司は手にしていた扇を開いて口元に持っていった。その直後、彼は言霊を口にする。その速さは御堂修吾を凌いでいるのではないかと思わせるほどだ。いや、事実、御堂司の方が陰陽術に優れていることは御堂修吾の言葉からもわかる。


 羽織の袖がゆらりゆらりと揺らいでいる。無風状態だったこの場所からどこからともなく風がそよいでいるらしい。


 御堂修吾は対抗する素振りを見せなかった。この場を私に委ねているのだろうか。それとも単に対抗する術を持っていないのか。


 そのどちらにせよ、私は言霊を口にしないわけにはいかなかった。御堂修吾のためではなく、その場にいる彼女、光ちゃんのためだ。


「守れ、守れ。加護を与え、盾を与えよ。祓え、祓え。仇なす――」


 私が言い終える前に御堂司は詠唱を終えた。御堂修吾は両手両足を、地面を割って突き出す緑の蔓に縛り付けられ、見えない何かによって身体を切り刻まれる。


 刹那に訪れる、強い風が、彼を切り刻むものの正体を明らかにしていた。風だ。


 色白の肌から赤い鮮血が滴り落ちる。腕は既に満身創痍。にも関わらず、彼の腕に巻きつく蔓は何の傷もなかった。縛り付ける蔓の間を縫うようにして切り刻まれているのだろう。


 彼は声も上げず、御堂司を睨みつけていた。

 私の詠唱が終わる。すぐさま彼らを守るシャボン玉のような透明な膜が現れる。


「近くにいるのか」


 私の存在が御堂司にバレた。当然といえば当然のことだが、彼はその際、御堂修吾から目を離し、周囲に警戒の目を移した。


 その一瞬の隙を御堂修吾は見逃さなかった。島崎のやり方を同じように真似ていた。自分の影を式神としてお呼び出しをし、瞬く間に彼の影が黒い狐の姿に変わる。


 三頭の黒い狐が御堂司に襲いかかる。それと同時に私が覆った透明な結界の中にあった影が一頭の黒い狐の姿に変わり、彼を縛り付ける緑色の蔓を噛みちぎった。


 御堂司に攻撃をけしかけたことにより、彼らの足元に敷かれた陣にゆらぎが生じた。


 御堂修吾は彼女の腕を掴んでともに陣から離れ、結界の外に出た。そのまま近くに勢いよく倒れこむ。


「手間をかけさせるな」


 襲いかかる狐を振り払い、膝立ちをしながら再び口元に扇をかざす。あくまでも言霊での決着を望んでいるらしい。


 御堂修吾は自身の父の頑なな姿を誰よりも理解しているのだろう。彼は構わず式神のお呼び出しをして、次々と襲わせる。既に、立ち上がって彼女から距離をとっている。私はその意図に気がついてすぐに彼女の周囲に結界を作る。


 動物なのか、ものなのか、あまりにも膨大な数に私は目で追うことができなかった。彼に詠唱の隙を与えないためなのだろう。流れ出る血をそのまま式神に変えているようだった。


「そうやって権威に固執して言霊以外の全てを排斥するのはてめえの悪い癖だ。俺は単純に力を欲している。それが権力であっても力と名のつくものは全て手に入れる」


「全てを手に入れることができるなどと妄言を吐くことのできるのは若さゆえの過ちだな」


 彼は御堂修吾の呼び出す式神の全てを言霊によって凌いでいる。言霊は式神のお呼び出しほどの即時性を見いだせない。けれど、それに対抗しうるということは、御堂司がそれほどの人物だということだ。


 そして、御堂修吾。彼もまた異常な人物であることは間違いない。だって、そうだ。父に裏切られている人の表情を彼はしていない。


 彼は笑みを浮かべているのだ。そこにあるのは、恐怖や落胆ではなく、純粋な力と力のぶつかり合いを楽しんでいる者の表情だ。狂気の沙汰だ。


 だが、形成は明らかに御堂修吾にとって不利なものだった。式神は呼べば呼ぶほど、肉体に降りかかる負担は増していく一方、言霊はあくまでも詠唱による効果に過ぎないので身体に負担はかからない。


 御堂修吾がお呼び出しを続けるのは、御堂司の詠唱の速さについていけないためであろう。それでも彼は笑っていた。私と術比べをしたときのように何かに恐れおののくということはなかった。


 彼は既に負けることを覚悟しているのかもしれない。父に勝てない可能性が高いこと自覚しているのかもしれない。彼を見ていて思ってしまった。


 じゃあ、彼は何のために戦うのだ。止まらない出血を止める素振りも見せず、自身の父と戦っている。何のために。


 そして、私は思い出した。彼は決して共犯者がいることを明かさなかった。だが、あの日、単独での実行は不可能だ。誰かを庇うために彼はだんまりを決め込んだ、そう考えれば合点がいくのだ。


 それを思い出した直後には、既に私は詠唱を始めていた。


「我、不浄のものを身に注がれし者。縛られ、穢された不浄の肉体を、御身の力をもって聖灰を焼べよ」


 左手に走る痛み。私を縛り付けていた何かを、私は今ここで解放する。誰が、私の身体に封印を施したのかわかったからだ。そして、私を縛り付ける男は今、御堂修吾という強敵と戦いに興じている最中。私の封印を解くのにこれほどの好機は後にも先にもないだろう。


「くっ」


 不意に御堂司が体勢を崩した。右手に扇を持ちながら、彼は左手で頭を抱えていた。そして、彼の頭から流れ落ちる紅い雫。それの意味を私は確実に理解した。

 左手を見る。私の左手に光が灯る。


「太白」


 その刻まれた文字を見るのは何日ぶりのことだろうか。程遠い年月を過ごしてしまったかのような感覚がそこにはあった。


私は祈り、捧げる。胸の中にある物理的な虚無感。痛みはなく、寧ろ、心躍っていた。


「来なさい、太白」

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