第20話

 それから数日としない、よく晴れた日の朝。私は一つの決心をして家の道場に向かった。いつものように父が先に座していて、私もその横に並んで座した。普段通り黙祷し、普段通り言霊の扱いを習い、普段通り出来損ないと貶された。いつもの稽古を終えてから私は父に尋ねた。


「師範代、師範代は私がお呼び出しをしたことをご存知ですか」


 浅葱色の道着を着ている以上、父と呼ぶわけにはいかない。私は父に叱責されることを覚悟して尋ねたのだ。


 父はしばらく黙り込んで動かない。表情には出さないものの、何か答えづらいものがあるのかもしれないことは長年の付き合いから読み取れた。


「知っている。だからなんだ。お前が言霊を扱えない事実は変わりない。私の娘である以上、お前が極めるべき陰陽術は言霊でなければならない」


 言霊の権威の娘だから私も言霊を極めなければならない。私はその言葉の意味を今までそういうふうに捉えてきた。けれど今更になって、父の言葉は何か違うことを意味しているような気もした。


 父から何か聞き出したい。私はそんな思いにかられた。


「では師範代は、いえ、お父さんは部屋に私が入ったことをご存知ですか」


 お父さんという言葉を口にするのは随分と久しかった。口にする違和感は抜けきらず、何かつっかえたみたいに口ごもってしまった。


「知っている。だからなんだ」


 父は何か隠している。けれど、父が話そうとしないので私は言葉を続けられなかった。他に言いようもあるはずなのに、父は言葉を短く切って話を終わらせようとしていた。


「いえ、なんでもありません」


 その言葉の後、父は何も言わずに道場を離れた。私は、滴る汗をそのままにそこで立ち尽くしていた。


 それから父と顔を合わせることもなく私は学校に向かった。


 変わらない日常、変わらない平穏。そこにあるのは今までの私の生活と何ら変わりないいつもの光景だ。けれど、私はそこに物足りなさを覚えていた。太白が来てから色づいて見えた世界が、太白と会わなくなって無味乾燥とした世界に変わっていた。太白に会いたい。私の衝動は抑えられなくなってきていた。


 その日の放課後、私はついに決心した。夕暮れの教室。私は左手に巻いていた包帯を外した。左手に刻まれているはずの文字。光を失ったその左手を高く掲げ、夕日の差し込む窓に向かってその手を向ける。


「太白、私、やっぱりあなたに会いたい」


「その太白ってのがあの白い奴の正体か」


 扉を開く音とともに聞こえてきた声。私は振り向いて扉に視線を移す。御堂修吾。彼の姿がそこにはあった。


 制服は新調したのか、新しいものだったけれど、そもそも転校生の彼が新しい制服を身につけていたところで不自然な点は見当たらない。私以外の誰も彼の制服が変わったことには気がつかないだろう。


「どうしたの。御堂君。普段は家にすぐ帰るのに」


 私は動揺したのを隠すため平静を装った。狐のようなその細い視線は人を食ったかのようなものだった。


「話をそらすな。今はお前の式神について聞きたい。あれはなんだ」


 高圧的で偉そうで、そして何より自信に満ち溢れた目。彼の何がそうさせているのだろう。


「あれって何ですか?」


「とぼけんな。あの忌々しい糞猫のことだ。でかいだけの猫にも驚かされたが、あの白い猫はでかいだけじゃねえ。人間みてえな目をしてやがった」


 御堂修吾は鋭い。そして、彼は太白について何か知っているようだった。あの日、彼は太白を見ていたのかもしれない。


私は少したじろいだ。彼は私の方にゆっくりと歩いてくると、近くの机の上に座った。


「私、猫はいっぱい呼べますけど、あの時、あんなに大きい猫を呼んだのは初めてです」


 私は仰々しく彼に応対した。既に疑問を抱いている人間を騙すことなどできない。私は兎に角、知らないふりをする他なかった。


「そんなわけねえ。もし本当にあのサイズの猫を呼び出していたのが初めてなら、お前は術比べの最中にもっと驚いていたはずだ。それこそ、俺が驚いたみてえにな」


 図星だった。確かに初めて太白に出会ったとき、私はひどく驚いた気がする。


「御堂君、私負けたんですよ。負けた相手のことを聞いても御堂君の役に立つとは思えません」


「役に立つか立たないかなんざ聞いてから理解する。いいから答えろ。それとも、答えられないような後ろめたいことでもあんのか?」


 私はビクッとしてしまった。すぐに気づいて取り繕おうとしたけれど、無駄だった。


「なんだ、その様子だとあるみてえだな。いいじゃねえか。俺も前科者、陰陽師の連中に後ろめたいことがあるのは俺も同じだ」


 後ろめたいことがある人とは思えないほど彼は堂々としていた。


 御堂君が胸のあたりまで腕を持ち上げた時、彼の制服の裾から少しだけ見える彼の肌は、彼の持つ今までの白さとは程遠い気味の悪い色をしていた。


「御堂君、それ…」


 私は彼の腕を指さした。彼は気にすることもなく、隠そうとすることもなかった。制服の袖をまくって、肘のあたりまで露にした。彼の腕を最早腕と呼べるのかわからなかった。


 黒く染まり上がって、何かが彼の腕で蠢いているような気持ちの悪さがそこにはあった。もしかすると、彼の処罰というのはその腕のことかもしれない。


「まあ、そういう顔すんのが当然だ。ルールを破った者には罰を。それが社会のルールってもんだ。まあ、陰陽道のルールは随分と手厳しいらしいけどな」


 彼は平然としていた。彼の身に何か起こっているのは確かだが、彼の表情からそれがどんなものなのか悟ることができない。他人から見てもわかるその気持ち悪さを彼はどうして表情一つ変えずに立っていられるのだろう。


 強情な彼の性格に疑問を呈していた私は、今度は彼の異常さに疑問を呈したい気持ちになった。


 彼はまくっていた袖をもとに戻し、制服についたシワを伸ばした。


「俺のことはいい。それよりお前だ。あの猫のこと、話してもらうぞ」


 私は話すべきか迷っていた。彼の行ってきたことを鑑みれば、別に話す必要は全くないのだけれど、彼の腕を見ると急に罪悪感が湧いてきた。これを偽善と呼ぶのかもしれない。


 彼の功罪、いや、彼は別に功を残しているわけじゃない。彼の罪とそれに対する罰。私はその二つを天秤の上に乗せて、その前で右往左往していた。


「私があなたに話すメリットなんてないです。それに誰かに話されたら面倒だもの」


「面倒な女だな。別にお前の話を誰かに話すわけじゃねえ。生憎、俺の話を聞いてくれそうな人間は近くにいないわけだ。ああ、それと、なんだ。もしかしたら、今お前が悩んでいることについて何か助言を与えてやれるかもしれねえな」


 彼は私が何かに悩んでいるということを察しているようだった。私は顔に出やすいから彼がそれを見抜くのも当然のことかも知れない。


 そして、彼は交渉というものを理解していた。彼が確実に助言できる可能性は別にない。けれど、人が困っているところにそんな甘言を提示すれば、その人間が飛びついてしまうだろうことを熟知していた。


 私だって、例外なくそれに当てはまる。それが自分の首をさらに絞めることになるとしても、私はその甘い蜜の誘いに乗らないわけにはいかなかった。


「わかりました。教えます。ですが、約束してください。誰にも言わないと」


「わかった、約束しよう。俺はこのことを誰にも言わない」

 あまりにも簡単に承服するので、あまり信用できなかった。


 私は御堂修吾に太白について教えた。太白が何の理由で陰陽師に狙われているのか言わなかったけれど、私の話を聞く限り、彼は何かしら予想しているみたいだった。


 私が話し終えるまで彼は黙って聞いていた。いつも偉そうに何か言うのに、黙り込んで真剣に私の話を聞くものだから、調子が狂った。


 最後まで聞いてから彼は口を開いた。


「それは好都合だ」


 悪い笑みを浮かべていた。したり顔とはこのことだろうか。御堂修吾は立ち上がって黒板の方に向かった。私は席について、黒板に目を向けた。彼はチョークを用いて何かを書きながら、口を開いた。


「まず、俺たちは共通の敵を抱えている。陰陽師という大きな母体だ」

 いきなり何を始めるのかと思えば、何やら作戦を建てようとしているらしい。


「えっと、いきなりどうしたんですか」


「俺は面倒なこの呪いから早く解放されたい。お前は太白とかいう糞猫を陰陽師の目から逃れさせたい」


 彼は私の質問を無視して話を先に進めた。


「つまり、ここは協力し合うのが最善策だとは思わないか」


「いえ、思わないです」


「俺はお前に協力してやるから、お前も俺の呪いの解放に協力しろ」

 人の話をまるで聞いていない。この人本当に話を聞いてくれるのだろうか。半ば強制的に私は彼の話を承諾しなければならなくなっていた。


「沈黙は承諾とみなそう。それで、まず俺の呪いについてだが――」


「せめて、私の相談に乗ってからにしていただけますか」


「ふむ、じゃあ、お前の相談に乗ればお前は俺の呪いを解くことに協力してくれるんだな」


 どんどん彼の領域に飲み込まれている気がする。私は少し焦りを感じながら渋々彼の言葉を飲み込むことにした。


「それでいい。確かにお前の言葉通り、太白とやらを動ける状態にしなければ、俺の呪いを解く算段は立てられそうにないな。お前の太白、今は出せるのか」


 そう言われて私は太白を強く念じてみた。けれど、左手に反応はない。太白の文字が浮かび上がらない以上、彼を呼び出すことは不可能みたいだ。


「ダメです。呼び出せません」


「ちっ、使えない女だ。まあいい。おそらくお前が入院した時にその契約は切られている。それと同時に、お前の陰陽の力も幾分奪われているはずだ。だから、何か術を行使する際、不都合が生じることがあるはずだが、何かないか」


「た、確かにあります。この前――」


「あるならいい。お前がほとんど使い物にならんことは理解した。これなら一人でやったほうがマシかもしれなかったな」


 人の話をほとんど聞かないで彼は話し続ける。頼りになるとは思ったけれど、私にとって受け入れがたい性格であることはよくわかった。


 その間も何か書いているみたいだったけれど、彼の背中が邪魔になってよく見えないので、そちらの方に今はあまり集中していなかった。


「次だ。お前のところに兵藤という男と島崎という男が来たはずだ。あ~、一人は優男でもうひとりは気味の悪い笑顔を浮かべる筋肉ダルマだ」


 彼の言葉は的を射ていたが、言葉には刺があり、彼らに対する敬意は全く感じられなかった。私は静かに頷いた。けれど、彼が背中をこちらに向けていることに気がついて「覚えています」と返事し直した。


「あのふたりが確かここらの警備担当をしている陰陽師だ。周辺に結構陰陽師の家があるからそこまで力のある陰陽師じゃねえはずだ。俺の家もあるし、お前の家もある。大人共はそう考えてこのあたりを手薄にしているんだろうよ。ま、俺はそこにつけ入ったわけだが。それはいい。お前の太白を一時的に封じているとすればおそらくあのふたりのどちらかだ」


 彼の因果の繋ぎ方は一体どこから来ているのか、それはよくわからなかったけれど、この人もまた、私の考えうる範疇を遥かに上回って思考の網を張り巡らしている。


「そしてどちらか一方が俺に呪いをかけているはずだ。一人の人間が呪いと封印を同時にこなしているとも思えねえ。封印はてめえの太白の程度にもよるが、俺にかかっている呪いは一級品だ。言霊の大半を封じられている」


 彼の物言いは自分が一級品であるかのような言い方だった。いや、事実彼は一級品だと自負しているのだろう。


 けれど、疑問が生じた。私たちは二人共陰陽師としては半端者だ。そんな二人で彼ら大人と渡り合えることができるのだろうか。


「あの、そうすると、私たちだけでは及ばないところがあるように思うんですけど、もしかして、協力者がいるんですか?」


「いねえ。そんなものはいねえ。だから、余計な勘ぐりを入れんな」


 明らかに怪しかった。これでよく陰陽師の人たちを騙せたなあ。


「わかりました。そこに関してこれ以上聞きません」


「それでいい。俺は言霊を使えない以上、俺は呼び出しによる式神の行使、お前は呼び出しを使えないから言霊が必要だ。俺は非常時に備えて言霊しか使ってこなかったから式神を使うことに何も問題ない。お前はどうだ。出来損ない」


 私は言葉に詰まった。彼の顔は見えないけれど、彼の背中が言いようも何かを口にしているような気がしてならなかった。


「まだ…言霊のほうは…」

 彼は手にしていたチョークを折った。そのままチョークを取り替えて再び何かを書き続けた。


「まあ、予想していなかったわけではなかった。だから今まで書き続けていたわけだが」

 彼は教卓の下に入れてあったプラスチックのチョーク入れに手にしていたチョークを入れた。入っている他のチョークと比べてチョークのサイズが全然違うけれど、それは新手の嫌がらせだろうか。


 彼が黒板から離れると黒板に書かれていた何かが露になった。


 日本語で何か書かれているらしかったけれど、ミミズみたいな文字で書き綴られていたので少なくとも私には読むことができなかった。日本語だと理解できたのは国語の教科書で似たような文体を見たことがあったからだった。もしかしたら間違っているかもしれない。


「これはお前の言霊の力を一時的に引き上げるものだ。一種のドーピングだと思ってくれればいい」


「でもそれって…、副作用がないわけないですよね」

「当たり前だ。だが、これはマシな方だ。言霊自体、人体への負担は小さいからな。それ以前に言霊自体使いこなせない陰陽師の方が少ないから使う機会なんてカスみてえなもんだがな」


 私に対し念入りに釘を刺しているように感じられた。私のことはやはり嫌いみたいだ。それとも、彼は誰に対してもこのような感じなのかも知れない。


 黒板に書かれた文字は円形に、子供が描く太陽のように書かれていた。


「これを私に?」


「そうだ。方陣の中心に手をかざせ。少し痛いだろうが我慢しろ」


 私は恐る恐る黒板に近づいて手をかざした。黒板に書かれた白い文字は這い寄るように私の手に近づき、そのまま私の腕を駆け上がった。その際、激痛が走ったが、方陣が描かれた黒板から手を離しはしなかった。


 文字は私の身体を駆け巡ってやがてどこかで落ち着いた。痛みは消えたが、私に残る疲労感は半端なものではなかった。


「……かなり痛かったです」


「よかったじゃないか。悪いがその痛みの倍以上の痛みが俺の身体にまとわりついている」


 私は絶句した。たった数秒の痛みでさえ私には耐えられないものだった。彼はそれを常に体感しているという。


 ともかく彼との協力関係が成立した。彼がいつ私を裏切るかもしれないという緊張感はあったものの、彼が協力してくれることの心強さはとても強いものだった。


 ことを終えて御堂修吾はすぐにでも教室を離れようとした。


 私は彼を引き止めた。

 彼が振り向いた直後、私は彼に頭を下げた。


「あの、ありがとうございます。でも、あなたはそれでいいんですか?」


 間接的ではあるにせよ、彼に呪いをかける原因を作り、彼の陰陽師としての地位を失墜させたと思っても仕方のないことだと思っていた。私の行動の原因がかれによるものだったとしても。


「ああ、お前を助けてやることか。俺とて好きでやっているわけじゃない。お前の糞猫に呪をかけられ、その上、お前を助けねえとキレる奴まで近くにいやがる。俺の意志とは無関係にお前を助けないとダメらしいな、俺は」


 愚痴をこぼして彼は教室を後にした。彼の生き様はまるで理解できないけれど、彼のことは少し理解できたような気がした。彼も決して一人で生きているわけではないのだ。


 それにしても、太白が彼に対して呪いをかけていたのには驚いた。彼はこうなることを予測していたのだろうか。


 私はいつものように教室に残って梨穂ちゃんの部活が終わるのを待った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る