第19話
それから数日して私は退院することができて(というのも陰陽術を施してもらったので、普通の人間が入院しなければならない期間よりも遥かに短い期間で治療することができたのだ)、大体一週間ぶりくらいに学校に登校することになった。
入院していた間、私は一度も父の顔を拝まなかった。正直、父の部屋の中に入ったことを今更ながら咎められるのではないかと思っていたのだが、父が何も言ってこないのを見ると、何だか拍子抜けだった。
家に帰ってからはいつものように朝稽古が始まった。私が病み上がりだろうとなんだろうと父は関係なくいつものように接してくれた。それが良いことなのかは別として。
父は私のことをいつものように出来損ないと蔑んだ。いつもこの言葉を聞くのが嫌だったけれど、退院した今となっては何だか逆にありがたい気もしていた。出来損ないと言われるより、異端、異常と言われる方がよっぽど辛いものだと理解したからである。だからといって、何も言わないでくれるのが私の心には一番優しいのだけれど。
ただ、父は私が式神を用いたことを知っているはずだった。にも関わらず、私に対し、式神、お呼び出しに関する一切の陰陽術を教えることはなかった。父も何かを隠しているのかもしれないと思ったのはこれが初めてのことだった。
久しぶりの学校。私の気がかりはやっぱり梨穂ちゃんだった。いつものように元気な梨穂ちゃんでいてくれればいいと思っていたけれど、万が一、心を崩していたらどうしようかと私は心配していた。とは言っても、入院している間、彼女とメールでやり取りをして何か問題が生じているわけではないので大丈夫だと踏んでいるけれど。
梨穂ちゃんは事件のことを全然覚えていなかった。誰かに何かされたのは覚えているのだけれど、そこからの記憶は完全に飛んでいて、気づいたら家の中で眠りこけていたと言っている。おそらく陰陽師の介入があって余計な記憶は消されているのだろう。だから、私の一番の心配は彼女が誘拐される前とあとで性格が豹変するようなことがないかということだった。
そうやって、私が考え事をしながら歩いていると、どこかで聞き覚えのある足音が後ろから聞こえてきた。軽快で尚且つテンポが速い。
「おっひさ~」
私の背中を強く叩いて光ちゃんは颯爽と登場した。いつものように髪を結んでいる光ちゃんの顔は前よりも少しだけ陰りがあるように見えた。寂しさがあったのかもしれない。
私は勢いに身体を預け、少し前のめりになってから体勢を立て直した。
「おはよう、光ちゃん」
私は背中をさすりながら光ちゃんに挨拶した。
「晴、随分と休んでたもんなあ。わしゃ寂しくて死んじまうかと思ったぞい」
わけのわからないおじいさん言葉で彼女は話す。
「私も寂しかったよ」
「いいや、私の方が寂しかったね。人生賭けてもいいよ」
「それは賭けすぎ」
私は笑った。
校門を過ぎたところで陸上部が走っている姿が目に入った。私は視線と身体を勢いよく陸上部の方に向けて、彼女の姿がないか確認する。
そして見つけた。一番格好よく走っている選手、それが梨穂ちゃんだった。私は彼女がこちらを振り向くまで大きく手を振って声援を送った。
三回くらい「梨穂ちゃん」と声をかけたところで彼女がこちらを見た。凛々しく、男子顔負けの堂々とした態度。そして、変わらぬ笑顔。私は彼女が再び走り続けるまで何度も手を振り続けた。
「良かった。本当に良かった」
聞き逃してしまいそうなくらい小さな声で光ちゃんは呟いた。胸のつっかえが取れたような光ちゃんの姿はいつもと違って何だか不自然なように思えた、けれど、今は彼女に久しぶりに会えた感動が大きかった。
教室にいる生徒には何も変化が見られなかった。私はそのことが嬉しくもあり、ショックでもあった。そう。何も変わらないというのは本当に何も変わらないという意味だった。教室の後方を陣取っている彼の姿も健在だということだ。
私は陰陽師の間で厳しく処罰を下したことの意味をこの時初めて理解した。つまり、公に彼を捕まえることはできないから、事実上、こちら側の社会において彼は無罪放免ということだった。未成年ということもあり、両親の監督責任なども問われただろうが、当の本人はケロっとしてこの教室に居座っていた。肝が据わっているといえばいいのか、性根がひん曲がっているといえばいいのか――。
ただ、以前のように私に何か仕掛けるということはなくなった。それだけに、彼から事件の全容が語られる可能性は消えたわけだけれど、私からすれば彼との接点が消えたことは朗報だった。
授業は私が休んでいた分だけ進んでいるみたいだった。事件における表上の犯人は名前も年齢もでっち上げられて適当な人間が報道されていたためか、生徒たちの不安は消えているようだった。私が入院していたという話をする人はいなくて、風邪か何かで休んでいたという程度に考えられているみたいだった。私が休んでいたことさえ知らない人もいた。
学校生活のそんな様相を眺めて、私は陰陽師というものの恐ろしさと、その秘匿性について思い知らされた。彼らは容赦なく人の記憶を改竄し、自分たちの存在をなかったことにする。今まで彼らが普通の社会に干渉しないよう努めているように見えていたけれど、今は何だか違うような気がしていた。彼らは人間という自分たちより見劣りする者を自分たちの生活を脅かす害虫のように考えている。だから、彼らの記憶を消したりしてもなんの後ろめたさも感じない。彼らのそんな姿勢にどこか寂しく悲しいものを覚えた。
そして変わらない放課後を迎えた。私が放課後に何かしていることは陰陽師の間で調べはついているはずだ。つまり、私は今まで通りの生活を今まで通り演じ切らなければならない。本心からやっていたことだったのに、それを意識的に行ってみようと思うと何だか変な感じがした。
何をしていたんだっけ。私は自分の行動を思い出そうとする。そうだ。私は梨穂ちゃんを待つ間、自分の陰陽術を鍛えていたんだった。
少し、日が傾いているけれど、まだ、沈むほどじゃない。窓は、開けていたかな。そうするとカーテンも開けていたと思う。何だろう。自分の行動を振り返ってみるとひどく滑稽な気がする。警戒心の欠片もない。一応、周りを見なきゃ。
私は廊下を見て、誰もいないことを確認する。平気。何も問題はない。けれど、一々の行動にわざとらしさを感じずにはいられない。
私はチョークに視線を移した。
確か私は黒板の前にあるチョークを用いて猫さんを呼び出した。あの時、猫さんの大きさについて気に留めていなかったけれど、あの日のことを考えるとそんな無頓着ではいられなかった。
私の血を使って呼び出した猫さんはとても大きかった。それに親指から出たなぞる程度の血よりも、額から流れ出た猫さんの方が遥かに大きい。ここに因果関係を見いだせない方が不思議だ。
そうすると、呼び出す触媒によって呼び出される猫さんにも変化が生じることになる。そこまでは了解できる。じゃあ、智慧に富んでいて、膂力にも富んでいる太白は何を触媒に呼び出しているのだろう。私は疑問を抱きながら、その答えのひとつにどこか確信を持っていた。
心臓。
彼を呼び出すときに必要になるのは私の心臓だ。それは私の心臓が無傷であったことからも想像することは難くない。普通なら貫かれるはずの心臓が貫かれなかったのは、私の心臓がその時そこになかったからだ。
けれど、それだけではどうやら私の行動の全てを説明できるわけではなかった。もう一つ、もう一つ何か触媒にされているはずだ。でなければあのことを説明できない。
私はベージュのカーテンを掴み、白いチョークを眺めながら考えていたが、そのうちにぼうっとしている自分の不自然さに気がついて黒板の方に向かった。考えることはいいけれど、不自然なところを周囲に見せてはいけない。多分、私の行動は監視されているはずだから。見られていようと見られていなかろうと、極力そういった行動は控えなければ、陰陽師の人たちに怪しまれかねない。
太白に聞けば答えを教えてくれるのだろうか。ふと、そんなことを考えたけれど、それが出来ない相談だと知っていた。包帯でぐるぐる巻きになった左手を見つめる。
手の光はあの日の後からその光を失っていた。左手に刻まれた文字を誰かに見られていれば、きっと私はこの場にいないだろうから、多分この手の文字は彼らに見られることなく自動的に消えたものなのだろうと予測していた。
もしくは、彼らは全てを知った上で私に学校生活を送らせているのかもしれない。そう考えると何だか恐ろしかった。私の今日の行動が単なる道化に過ぎない、全く意味のないことになり変わるのだ。
私はチョークの一つを握って静かに見つめる。そしておもむろに書き始めた。
「猫」と。
空虚な思いのまま私は猫を呼び出そうと念じた。目をつぶって静かに呼び出そうとした。けれど、文字に変化は現れない。そのまま。そのまま。
陰陽師としての力を失ってしまったのかと思った。でも、相変わらず父が私の稽古に励んでいるところを見るとそうではない気もした。
そうすると、私が単に集中できていないからかもしれない。確かに今日の私は注意力散漫で色々なことが頭の中を駆け巡っていた。
私は自分の椅子に座り、机に頬杖をついてぼんやりと教室を眺めた。
あの日を境に私の生活が色を失い始めていた。それが何だか退屈でほんのりと苦しい。
私は結局、下校時間になるまでぼんやりと考え事をしながら梨穂ちゃんの部活が終わるのを待った。
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