第6話
低く、ゆったりとした鳴き声が教室に響く。私は好奇心に身を任せ、目を見開いた。そこにいたのは随分と大きな猫。あれだ。ゴールデンレトリーバーくらいの大きさはあったんじゃないかと思う。
動物園にいるような大人のライオンとか虎よりは小さいけれど、猫にしては十分以上に大きい。でも、ペルシャ猫のように四肢が細いわけではなく、どちらかというとライオンとかみたいに太かった。
絹のように真っ白な毛色。窓から差し込んでくる僅かな光が猫の体を金色に染め上げている。瞳はオッドアイなのか片方が青く、片方は金色。とても優雅で美しかった。今までに呼び出した猫さんとは明らかに毛色が違った。もしかしたら成功したのかもしれない。私は期待に胸を躍らせ、大きな猫さんの尻尾の方に目をやった。
私は驚嘆した。
一本だった。
「ということは、また失敗かあ」
大きな尻尾をフリフリとさせながらそこで寝っ転がっている猫さんをよそに私は激しく落ち込んだ。今回は成功かと思ったんだけどなあ。
落ち込んではいたけれど、今回のお呼び出しには少し満足のいくところもあった。だって、こんなに大きくて綺麗な猫さんは今までに見たことがなかったからだ。背中のあたりをなでてみると、とてもサラサラとしていて気持ちがいい。肌に直接触れれば暖かいのに、毛先の部分だけをなでると、とてもひんやりとしていた。今までにない感動が私の中に巡っていた。
けれど、すぐに我に帰った。こんな大きな猫の姿、周りの人に見られでもしたら一大事だ。ほかの人がこの猫さんを見でもしたら、大騒ぎになることは避けられない。とは言ってもすぐに術を解いてこの猫さんを消してしまうのは勿体無い。どうしよう。
私は頭を抱え、悩み、唸っていた。
「娘よ、何をそんなに呻いておる」
「う~ん、この猫さんをどこに隠そうか悩んでいるんです」
「ふむ、確かにここは身を隠せそうな柱もなければ、我ほどの大きな畜生を覆い隠す布があるわけでもなし。娘が悩むのも無理はなかろうて」
言うとおりだった。確かに猫さんを隠せるような場所も空間もこの教室には存在していなかった。となると、外に連れ出すより他はない。
「そっかあ。でも、家にも連れて帰れないしなあ。」
「なるほど、八方塞がりか。いや、しかし娘よ。要は我が他の者の目に映らなければよいのであろう。とあらば、我に妙案がある。聞いてみる価値はあるのではないか?」
私は気になって猫さんの方に耳を傾けた。何やら妙案があるらしい。って…、あれ?
「猫さん、喋ってる?」
私は今になって気がついた。私は先程まで誰かと会話していたにも関わらず、近くに私以外の人影は見当たらない。別に電話が勝手に通話状態になっているわけでもない。となれば選択肢は他に残されていなかった。
「何を今更。先程まで我と会話しておったではないか」
寝っ転がっていた猫さんが顔をくるりとこちらに向けて、口元を動かして声を発した。私が言葉と認識できるほど流暢に話していた。
「ええええええええええええええええ。猫さん、喋ってるううううううううう」
びっくりして大声を上げてしまった。が、すぐに気づいて両手で口を塞いだ。
「そうだ。それで良い。外の者に気取られては困るからな」
大きな猫さんは大きくあくびをして、何だか退屈そうにしていた。
「ええ、猫さん。喋ってる。喋ってるよ」
大きな声を出したりはしなかったけれど、相変わらず驚いているのは変わりない。いや、驚くよ。だって、猫さん、喋ってるもん。私は動転して気がおかしくなってしまいそうだった。尾が二本の猫よりももっと驚きの結果を導いてしまっている。
「不服か。ならば黙っていても良いのだが」
「いや、そんなことないです」
思わず敬語に。何だか高貴な感じがして、敬語を使わないと失礼に当たりそうだったから。猫さんの言葉もどこか偉そうというか、なんというか。
「忙しい娘だ。まあ良い。楽にして構わん。それより、我の話を聞く気になったか」
「はい、猫さん」
と、私が即座に返事をすると、猫さんはどこか不服そうだった。
「その、なんだ。我を猫さんと呼ぶことは承服できん。娘は人間に向かって人間さんなどと称することがあるのか逆に問いたい」
なるほど、不服そうな理由はそこにあったのか。猫さんの割に?何だか理知的で意外と細かい猫だ。でも、それを言うなら私のことを娘と呼ぶのも何だかおかしい。女の子を見たら皆、娘と呼ぶのか猫さんに問いただしたい。
「分かりました。それじゃ、なんて呼べばいいですか?私、猫さんの名前を知らなくて。あっ、私は安倍晴って言います」
遅れて自己紹介する。そういえば私も自分の名前を言ってなかったのだから、猫さんが私のことを娘と呼んだのはある意味当然とも言えた。
「そうか、晴よ。我は太白。見ての通り猫である。吾輩と称する猫より智慧に富んでいるわけでもなし。後ろ脚だけで躯を支えることもできぬ畜生よ」
太白と名乗る白猫は起き上がって私の方に頭を垂れた。凛々しく、雄々しく、猛々しい。人間の私よりもよっぽど礼儀がなっていて、私よりもよっぽど綺麗で高貴な猫だった。人間に対し何か劣等感でもあるのか、それとも、二足歩行に対して何か感じ入るところがあるのか、やたらとそのあたりを推してきた。
「太白さんは他の猫さんとは見た目も大きさも違うみたいだけれど、どうしてそんなに大きいの?それとも他の猫さんとは種類が違うの?」
私は思ったよりこの状況に順応していた。私が落ち着きを取り戻したというよりは、太白の堂々とした態度に落ち着かせられたと言ったほうが正しいかも知れない。
「ふむ、我のことはあまり聞いてくれるな。我のことを話すのは気が進まんのだ。それより今は、人に姿を見せぬように外に出ることが先決であろう」
猫さんがそう言うので、私はそれ以上言及することができなくなった。
低く落ち着きのある声は説得力があった。私は太白さんの言葉に頷いて、とりあえず外の様子を確認してみることにした。幸い誰かがいる気配はない。私は胸をなでおろした。
「誰もいないみたいです。それで、どうすればいいんですか?」
私は思い出したように敬語を使いなおす。先程は好奇心が先を進んで敬語を用いることを思わず忘れてしまった。
「堅苦しき言葉を用いずとも良い。楽にしておれ。…確かに人の気配はない。まあそれに、難き事でもなし。我が風よりも速く、人の目に映らぬ速度で駆ければ良いだけのこと」
太白さんは髭をピクピクと動かして、鼻筋を歪ませて周囲の様子を感じ取っているようだった。何だかムズムズとしていて可愛らしかった。
「は、はあ。でもそれって本当に簡単なの?」
太白が敬語を使わなくてもいいと言うので、私はお言葉に甘え礼を失して聞いてみた。
「易き事。赤子を捻るようなものよ」
太白の強靭な四肢で赤子を捻られたら、それこそたまったものではない。しかし、その強靭な四肢ならば、風のように駆けることにも納得がいった。
「じゃあさ、私を背中に乗せて走ることもできる?」
「むう、出来ぬこともないが、果たしてする必要があるのか?晴に危害が及ばぬのなら構わぬが、そこまで周りは都合よくなかろうて」
太白の言葉で私は梨穂ちゃんと一緒に帰る約束をしていたことを思い出した。確かに太白の背中に乗って家に帰ってしまえば梨穂ちゃんとの約束を破ってしまうし、それにこの時間帯は母が庭で水を撒いている最中だ。母の目に私と太白の姿が同時に入りでもしたら、家族会議の始まりだ。いや、これを機に自慢するという選択肢もあったけれど、今は慎重にいきたい。
「そうだね。私も用事があるんだった。なんかドラマとか映画で大きな動物に乗って走るシーンがあったから、なんかそういうのに憧れがあって」
「どらま、とか、えいが、という類については知らぬが、確かに人間と畜生は切り離せぬ存在。広義で言えば人間も畜生に含まれるな。故の共生というわけか」
ドラマや映画という言葉には耳慣れないものがあるようで、カタコトというよりはグニャグニャっとした言い方だった。それでも私の話さんとしていることを太白はきちんと汲み取ってくれる。随分と頭のいい猫だと私は感心した。人間の言葉を理解できるくらいだ。相当な頭脳を持ち合わせているのだろう。
「じゃあ、私の家はわかる?」
「要は晴の匂いを辿れば良いのであろう。容易い」
太白はあくびをしながら私の質問に答えた。そんな仕草をとっていると普通の猫とかわりないように思えた。
「じゃあ、太白のことは太白にお任せしてもいい?私が呼び出したのに随分と無責任でごめんね」
「我が身は我が身で守るのが常。晴が気に病む必要はない」
私は庭先で母が水遣りをしている可能性を太白に示唆してから、教室の扉を半分位開いて、もう一度外の様子を確認してから太白を外に連れ出した。のろのろと扉の方まで向かって来た太白は一歩廊下に足を踏み入れるなり、その姿を消した。私は太白の姿を見失ってしまったのだ。
それにしてもこんな危険な橋を渡るくらいなら素直に術を解いてしまえばいいのではないかと思ったけれど、太白にもう一度会える保証はない。こんな貴重な経験、もうできないかもしれないと思って私は術を解くことを危ぶんだ。
彼が消えてから、私はまた退屈になってしまった。だから、時間つぶしをすることに躍起になった。まずは周囲を確認して何か面白いものはないかとキョロキョロと視線を移してみる。
そして、気づいてしまった。
黒板に書かれたままの猫又という文字。今まで気がつかなかったのが不思議なくらい私が動転していたのか、それとも、そこに書かれたままだったから気づかなかったのか。今となっては私の知るところではなかったけれど、兎に角、私は気づいてしまった。
いつも私が陰陽術を使う際には何かしらのものを媒介にしていた。常ならばそれはチョークで書かれた文字。そして、術を解けば、そこにいた猫は白い粉に成り果てる。
そう。いつもなら、書いた文字がそのまま猫の姿に変わるのだ。じゃあ。目の前に書かれている猫又の文字。これが意味していることはなんなのか。
簡単だ。媒介がこのチョークで書かれた文字でなかっただけのこと。つまり私のお呼び出しは最初から最後まで失敗していたのである。最早私の術によって呼び出されたのかどうかも怪しかった。けれど、太白がここに居ない今、それを確認する術はなかった。
仕方ない。あとで太白本人、いや、本猫に聞いてみるとしよう。あれ、でも待って。もし、私が呼んだんじゃないとしたらそれってまずくない?太白が他の人の猫だったとして、それを私の家にあげちゃって、しかも、私は太白の正確な居所を掴んでいない。あ~れ~。大変なことなんじゃないかな?
まあ、でも多分大丈夫。太白優しそうだったし。ちゃんと聞けば答えてくれるよね。私は随分と楽観的だった。とりあえず、私は黒板に書かれた「猫又」の文字を消して当座の証拠を隠滅させた。結構保守的な女なのだよ、私は。でも、随分と丁寧に濃く書いてしまったので、黒板消しを使って消そうとも、うっすらと跡が残っていた。
私は日が暮れるまで教室で待ってから窓を閉め、カーテンを閉めたところで教室を後にした。その後、部活動でヘトヘトになっている梨穂ちゃんと一緒に下校した。
勿論、今日あった出来事を梨穂ちゃんに話すことはできず、いつものように「晴は何をしてたの」と聞かれても曖昧な返事をしてごまかすことしかできないでいた。話術が巧みなわけでもない私はいくつも嘘を用意できなかった。
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