第3話
早朝。私は目覚まし時計のアラームが鳴る前に起床した。眠い目を意地と根性で見開いて、着替えに入る。制服ではなく、安倍家の道着だった。浅葱色の道着で、柔道や剣道をやるにはそぐわない色かもしれないが、私が行うのは陰陽術だったので、気にする必要はなかった。
一階の奥に道場へと通じる廊下がある。私は裾が床にぶつからないように気をつけながらゆっくりと道場へ向かう。中には既に、正座して待つ父の姿があった。
「おはようございます、師範代」
練習中、父のことを師範代と呼ぶのが常だった。とは言っても、父のことを最近師範代以外の呼び名で呼んだ覚えがなかった。私は師範代の隣で座して深々と頭を垂れる。
そして、しばらくの黙祷の後、稽古が始まる。
父が得意とするのは言霊。つまり、言葉を音声にして力に変える陰陽術だった。私が出来損ないと呼ばれるのにはそこに所以があった。私は言霊が苦手だった。集中力がないというか、注意力が散漫しているとか、そういったことに原因があるらしいのだけれど、兎に角、私は言霊を扱うことに向いていなかった。父も頑固者だから「陰陽術の一番の基本である言霊を扱えないような奴は次の段階にはとてもじゃないが進められん」と言って言霊以外の陰陽術の稽古をさせてくれなかった。
正直、言霊以外のことは結構できる自信がある。だけど、父にそれを言ったところで「言霊も扱えないような奴の言葉なぞ信じられるか」と、見向きもしないので八方塞がり。仕方ないから私は辛酸をなめて稽古に挑んでいるというわけ。
まず父が手本を見せてから、私がその真似をするのだけれど、父と同じ言葉を用い、同じ姿勢で唱えても、私の方には何の変化も見られない。父も最初の方はもう一度手本を見せたり、別な方法で教えようとしたりしたのだけれど、数年経っても成果が見られないこともあってか、今となっては何も言わぬか怒鳴りつけるかのどちらかしか選択肢がなかった。今日は怒鳴りつけられた。
稽古を終えると朝食。それが済んだら、制服に着替えて学校へ。梨穂ちゃんは朝練があるので、今日は先に家を出ている。私はゆっくり歩いて登校した。
校門に差し掛かる頃、私は後ろから聞き覚えのある足音を聞いた。
「おっハロー」
気の抜けた声で挨拶してきたのは同じクラスの光ちゃん。いつも元気で活発な女の子。ショートカットの私よりずっと髪が長くて、後ろで二つに結わえて結んでいた。おさげといえば通じるだろう。
私の周りには活気に満ちた女の子が多くてびっくりする。私一人が結構暗くて地味だ。
「おはよう、光ちゃん」
「むむむ、なんだい、そのしょげた顔は。まるでお父上に怒られて気が沈んでいるみたいじゃあないか」
光ちゃんや梨穂ちゃんは私の家柄が陰陽に関わっていることは知らないけれど、私の父がとても厳しい人間だということを知っていた。
どうやら私は気が沈んでいたような顔をしていたみたいだった。自分では気がつかなかった。鏡は見てきたつもりなのに。
「すごいね、光ちゃんは。今日もまた父様に怒られちゃって」
外では父のことは父様と呼んでいた。そう呼んでいたほうが別次元にいる人のこと
いついて話しているみたいで、気苦労がなかった。外で父のことを話そうとすると、何だか負い目を感じる。自分の父親に対して負い目を感じている時点で、私は既に家に居づらくなっていることを実感した。
「なんだってまた、こんな幼気な美少女にお父上は厳しく当たるのかねえ」
年配の方が話しそうな言葉を用いて、光ちゃんは神妙な顔つきをした。
「私が悪いから仕方ないよ。それと、私は美少女じゃありません」
「するってえと、見目麗しき高嶺の花ってところですかい?」
「何かその言い方って変。光ちゃん折角可愛いんだから、もっと女の子らしくしてないと」
光ちゃんの言葉に私は思わず笑ってしまった。彼女は私の笑顔を見届けると、ふっと微笑んで安堵の声を漏らした。
「ああ、良かった。やっと笑ったよ。ったく、日陰みたいな顔してると幸せ逃げちゃうぞ」
光ちゃんは私の前髪で隠れたおでこを指で小突いた。私は少し仰け反って、突かれたおでこを両手で押さえる。
「あとね、晴に言われるのは構わないけど、梨穂だけには絶対に言われたくない。見てあれ」
そう言って彼女はグラウンドの方を指さした。陸上部がトラックを使って走り込んでいた。その中に一際目立つ女性の姿があった。梨穂ちゃんだった。周りと大差をつけてゴールしているところだった。雄々しく堂々とした走りは、確かに彼女が女性であることを忘れさせた。
「すごーい。梨穂ちゃん超かっこいい」
「あんたそれ絶対麻痺してる。梨穂がかっこいいのは確かにそうだけどさ」
私と光ちゃんは大きく手を振った。梨穂ちゃんはすぐに気づいて手を振り返してくれた。
彼女に手を振り終えたあと、私たちは三階にある自分の教室へまっすぐ向かった。
ホームルームギリギリになって、梨穂ちゃんは教室に入ってきた。急いで着替えをしていたのか、若干衣服に乱れがあって、大人な美しさを漂わせた。軽く息切れしていて、髪は少し濡れていた。女の私でも見蕩れてしまった。
チャイムが鳴って少ししてから、担任の先生が来た。いつもなら適当に出席をとってすぐに終わらせるのに、教卓で何やら小さな紙を見てそこでしばらくその紙と格闘していた。書かれてある内容が小さくて読みづらいらしかった。
「えー、四月入ってすぐだが、このクラスに転入生が来た」
突然の担任の言葉に私たちはざわめく。転校生?随分とまた急な。担任が「入りなさい」と扉の方に声かけると、ひとりの男の子が教室の中に入ってきた。
彼の姿を見たとき、私は言いようもない恐怖に襲われた。何が何だかわからないうちに私は怯え、震えていた。
至って普通の高校生だ。だけど、何か違う。私は本能からその転入生を怖いと思った。
「えっと、御堂修吾と言います。よろしくお願いします」
御堂と名乗る男の子は丁寧に一礼してから空いている席に座った。彼の席はちょうど私の対角線上に位置していた。私の席が前から二番目、左から二番目というとりわけ目立った席でもない。彼の席は後ろから二番目、右から二番目だった。彼と物理的に距離が離れたことで私は少しホッとしていた。
端正な顔立ちをしているけれど、狐のようなつり目が何を考えているのかわからなくさせた。すっきりとした顔にしつこさはなく、細い腕、白い肌からは、あまり外に出ていないことが読み取れた。見た目はとても無害そうな男の子なのにどうして私は怖いと思ったのだろう。そう。強いて言うなら、雰囲気。歩き方やお辞儀の仕方。どこかで見覚えのある動きで私にとって随分と身近なものに感じられたからかもしれない。
とすると…。
私は嫌な予感がしていた。そして、私の嫌な予感は大抵当たるのだ。
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