第12話 櫛とボタン
坂田くんはいつもさわやかだった。他の男子が見るに耐えない漫画や雑誌をわざと見せびらかして私たちを興ざめにしてしまうのに対して、彼がその中に加わることがなかった。彼はスポーツマンでとくにサッカーが得意だった。
私が坂田くんのことを強く意識したのは、校庭の角で友達と話していた時にサッカーボールが私にあたった時のことだった。右肩に軽く当たっただけだったのだが、何しろまったく気が付かなかったので大声で悲鳴を上げてしまったのだ。
その時、坂田くんが走ってきて真剣な表情で謝ってくれた。私があっけにとられていると、笑顔にもどってグランドに戻っていった。わたしの心はその時から坂田くんの方ばかりに向くようになっていたのだ。
坂田くんは高校を卒業したあと、名古屋の理容専門学校に進むことになっていた。彼ならば東京の有名な大学にだって文句なしに合格できるはずなので、周囲の生徒や先生も強く進学を勧めたが、意志は固かったらしい。彼は家業を早く継ぎたいと思っていたのだ。彼の父親が病気で店に立てなくなっていたことは、その後かなりたった後で知ったことだった。
卒業式の日、私は思い切って彼に櫛をプレゼントすることにした。彼にとって一番大切なものだと思ったからだ。彼はそれを受け取ると始めは戸惑っていたが、やがていつものさわやかな笑顔にもどっていた。何かお返しをしなければ、という彼の言葉を聞いて、制服の私は第二ボタンをくださいと反射的に言っていた。彼は明らかに顔を赤らめて校章がデザインされた金のボタンをくれた。
彼とは卒業後まだ会っていない。私は東京の大学に出てしまったし、彼とは時間的にも距離的にも離れてしまった。もうどんな声だったのかも思い出せなくなってきている。でも彼の制服のボタンはまだ捨てていない。実家の一番上の引き出しのなかに入っている。
就職活動に何とかけりをつけたら、ふるさとに帰ってみようかと思っている。
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