第五章(2)

 高瀬さんは五時間目が始まる前に教室を出て行って、すぐに戻ってきた。おそらく顔を洗いに行ったのだろう。僕は彼女に一度声を掛けたが、そっぽを向かれてしまった。そのまま放課後まで、彼女と話すことができなかった。その内機嫌を直すだろう、と津島さんが休み時間に言ってくれたが、僕は気が気でなく授業に集中できなかった。

 今日は木曜日なので部活はない。何回か高瀬さんを誘って一緒に帰ったことはあったが、今日はそんなことができるわけもなく、一人でさっさと教室から去ろうとした。しかし意外にも高瀬さんが声を掛けて来た。もちろんいつもの明るく元気な態度は微塵も見せなかった。とはいえ応じないわけにもいかず、僕達は並んで帰路を歩く。

 しばらくは二人とも黙っていた。自分から雑談しようなどと思える雰囲気でなかったのは言うまでもない。周りに人が少なくなってきた時、高瀬さんが話しかけてきた。

「堤君……。今日はごめんね」

 まず、高瀬さんに嫌われたわけではなかったことに安心した。自分から謝るということは、仲は保とうということだと解釈してもいいだろう。

「あたしあの時すごく気が動転しちゃって。堤君の言い分もまだ聞いていないのに泣き出しちゃって……。本当にごめんね」

「いや、高瀬さんは悪くないから」

 高瀬さんは被害者なのだ。彼女が謝罪する必要などない。

「そう……。一つ訊かせて。キスしたのはどっちから? それとも事故だったの?」

 それは知っておきたいところだろう。返答によって僕の罪状が変わってくる。

「姉さんからだ」

「それは……本当?」

「本当」

 今日の昼に嘘がばれたばかりだとはいえ、嘘の疑いを少しでも持たれたということは、僕が今までのような馬鹿正直なだけの人間ではないと認識されたということだろうか。

「そっか……。なら、堤君は悪くないよね。白川さんが勝手にしたことだし」

 キスに関しては僕に非がなかったとしても、僕には一つ大きな罪が残っている。

「でも、あの時キスをしていなかったって嘘をついたようなものだから。それは本当にごめん」

 今度は僕が謝ると、ようやく高瀬さんが微笑みを浮かべてくれた。

「いいよ。そんなこと普通隠すだろうし……。津島さんが堤君に嘘をつけって言ってた時、あたしもそうするように煽ってたから。堤君がそんな嘘をついてもあたしは責められないよ」

 確かに理屈ではそうかもしれないが、いつも合理的な考えをする高瀬さんにだって、理屈で割り切れないことがあるだろう。だから、昼休みにあんなに取り乱したわけだ。

「それでもごめんなさい。あんな嘘をついて」

 けじめはしっかりとつけよう。嘘をついた僕が悪いのだ。

「分かったよ。そんなに申し訳なく思ってるなら、あんな嘘は二度とつかないでね。もう堤君には嘘をつく必要はないでしょ」

 言われなくてもそうするつもりだ。少なくとも、好きな人を悲しませるだけの嘘をつかないことを誓おう。とにかく高瀬さんとすぐに仲直りができてよかった。本当に、高瀬さんが二度と口を利いてくれないという最悪の事態を想定していたほど不安だったのだ。

 それからはいつも通りに楽しく歩いていた。しかししばらくしない内に、後ろから大声で呼ばれて、僕達は踵を返した。中島さんが走って追いかけてきたのだ。

「堤さん。高瀬さん。すいません呼び止めてしまって」

 僕達の傍に辿り着くなり、中島さんは膝に手をついて呼吸を整えていた。それほど急いでいたということだろう。一体何の用なのだろうか。

「まさか津島さんか八坂さんに何かあったの?」

 僕はそんなことを危惧したが、中島さんは首を横に振った。

「違います。緊急の事件とかではないです。ただお二人に聞いてほしいことがありまして。放課後に伺おうとしていたんですが、こっちのクラスのホームルームが長引いて、お二人が既に帰ってしまったようでしたので……」

 中島さんがようやく顔を上げたところに、高瀬さんが言葉をかけた。

「それなら休み時間に来てくれればよかったのに。別に構わないよ」

 僕も同じことを思ったが、中島さんはまた首を横に振った。

「できれば祥ちゃんに聞かれたくなかったんです。確か祥ちゃんは今日生徒会だからちょうどいいと思って……」

 嫌な予感が駆け巡った。津島さんに聞かれたくないということで、中島さんが何を話そうとしているのかが分かってしまった。高瀬さんも察したようで、面持ちが真剣になっていた。

「それはラップ音に関してのことかな?」

「はい、そうです。とにかく場所を移させてもらってもいいですか? 真美ちゃんに鉢合わせしてしまうかもしれませんので」

 僕も高瀬さんも帰宅する時間が遅くなってしまうことに文句を言うことはなかった。いつもの通学路から外れて、生徒があまり通らない道を進んだ。しばらく歩くと公園があり、僕達はそこのベンチに腰を下ろした。中島さん、高瀬さん、僕という順番に並んでいる。公園の周囲は人通りが少なくはないが、それでもうちの生徒は見かけない。

 まず高瀬さんは質問を投げかけた。

「それで、何か新しいことが分かったの?」

 その問いに対して、中島さんが迷わずに首肯する。

「はい。実は私の家の前に建っていたというアパートのことをお母さんから聞いたんです」

 虐待を受けて亡くなったという女の子の霊が生前に住んでいたアパートのことだ。八坂さんも幼い頃に住んでいたらしい。

「その家を購入する時に、不動産の人がこんな話をしたらしいんです。何年か前に子供が不幸な事件で亡くなった所なので、いろいろ噂があるところですって。そしたらお父さんが聞いたんです。幽霊でもいるのですかって。すると不動産の人は、確かにそういう噂はありましたがだいたいはいたずらか気のせいであって、当時のアパートの住人からはそういった類の報告は受けていなかった、と言っていたそうです」

 八坂さんがまたやりやがったというわけか。十年前にあのアパートでラップ現象に遭遇したということも嘘だったようだ。さてどこからが嘘だったのだろうか。

「八坂さんがあの場所に住んだことがあるっていうこと自体が嘘だったのかな」

 僕がそう言うと、中島さんはそれも否定した。

「いえ、あの場所に八坂さんという家族が住んでいたことは確かみたいです。お母さんが近所の方に八坂さんの話を聞いたことがあると言っていました。おそらく真美ちゃんがあそこに住んでいたことは本当だと思います」

 だとしたらどういうことだ。八坂さんは、件のアパートでラップ現象に遭遇したということだけが嘘だったということだろうか。それにしてもおかしい。八坂さんがそう話した時点では、津島さんは既に中島さんと仲直りをしており、八坂さんが心霊現象を引き起こしたということを認めようとしていた。そして女の子の霊は無事に救われていた。にもかかわらず、そんな嘘をつく必要があるのだろうか。

 高瀬さんに意見を求めようと、視線を移すとそこにあるものが視界に入った。

「そこ、気を付けて」

 中島さんから五メートルくらい離れた位置を、僕は指差した。大きな虫が飛んでいる。接近されたらあまり気分のいいものではないだろう。そう思い、注意を促したのだ。高瀬さんと中島さんは僕が指す方へ向く。

「きゃっ」

 すると高瀬さんが僕に抱き着いてきた。とはいえそんな嬉しい展開を期待したわけではない。高瀬さんは僕から離れて、困ったように呟いた。

「ごめん。あたし虫苦手なんだよ……」

高瀬さんにもそういう可愛いところがあったと思ったのも束の間、強烈な違和感に襲われた。

「高瀬さんって、本当に虫が苦手だったの?」

「そうだよ。言ったことなかったっけ」

 いつかの時に、高瀬さんが虫を苦手としていることを話していたのは確かだ。しかしおかしい。中島さんの家で、虫がいると高瀬さんが言ったことがあった。その時は平然としていたはずだ。それなのにどうして今はこんなに驚いているのだろうか。いや逆だ。どうしてあの時は平気だったのだろうか。虫が遠くにいたからだっただろうか。しかしあの時は家の中にいたのだ。外にいる今よりも虫がいることに驚いてもよかったのではないだろうか。それなのに冷静に指を差して――。

 指を差して――。

 その先に――。

 その瞬間、全てが繋がった。

 僕は立ち上がって、すぐに走り出した。高瀬さんが僕を呼んでいたが構わない。とにかく先を急いだ。行き先は勿論学校だ。その中でもまずは生徒会室に行くつもりだ。

 おそらく中島さんは嘘をついていない。彼女が嘘をつく機会はなかったのだろう。そしてこの真相も知らないでいるのだろう。しかし僕の周りは嘘つきばかりだった。八坂さんだけではない。高瀬さんも、そして津島さんも嘘をついていたのだ。どうして嘘をついていたのか。それは三人とも真相を知っていたからだ。それぞれの理由でその真相を隠して、別の現実を作ろうとしていたのだ。八坂さんが霊能者だという虚構を生み出そうとしていた。

 精一杯走って、生徒会室に辿り着いた。ノックも忘れて扉を開ける。

「また君か。ノックもしないで失礼だと思わないのか」

 真っ先に小役人から叱責を受けた。むかつくのだが、今回は奴の言うことは正論だし、わざわざ立ち向かっている暇はないのだ。

「すいません。でも、今はそれどころじゃないんです」

 部屋の中を見回す。目的の人はいない。

「堤君どうしたの? そんなに息を切らして」

 会長が心配そうに声をかけてきた。とにかく要件を言った方がよさそうだ。

「津島さんはいませんか?」

「いいえ。今頃は図書室でお手伝いに行っているところだわ」

「分かりました。ありがとうございます。失礼しました」

 扉を閉めようとしたところ、会長に「待って」と呼び止められた。

「何をそんなに急いでいるの? 何かトラブルがあったの? それとも津島さんの身内の方に何かあったの?」

「いえ、そういう緊急の話ではないです」

 今すぐにしなければならないというわけではないが、時間が惜しかった。いくら相手が会長であっても呼び止められることに苛立ちを感じざるを得ない。

「だったらもう少し待ちましょう。あと三十分もしたら戻ってくるわよ。それまでここで待っていてもいいわよ」

「いや、待てないです。今すぐ話さないと……」

「いい加減にしなさいっ! 少しは落ち着いたらどうなの!」

 会長に怒られるのはこれが初めてではないだろうか。彼女の威圧感に思わずたじろいでしまった。いつも優しく接してもらっている分、怒った時との差が激しく感じられた。というかただ単純に怖かった。これでは会長に従わないわけにはいかない。

「すいません。自分を見失っていました」

 僕が謝ると、会長は笑みを浮かべながら近づいてきた。そして彼女は生徒会室にいる人達に向かって言い放った。

「私はこれからこの子と少しお話してくるから。よろしく頼むね」

「はいよ。任せとけよ」

 多分僕のことを気に入っている人がそう応じた時には、会長は僕を外へ押し出して、生徒会室の扉を閉めた。そして困ったような顔を浮かべて僕に告げる。

「もう……。津島さんのことが大切なのは分かるけど、いろいろ考えて行動しなさい」

「はい。返す言葉もございません」

 判明した真相があまりに衝撃的だったという言い訳は利かないだろう。冷静さを失って、津島さんに迷惑をかけてしまったら元も子もない。とにかく会長に話を聞いてもらおう。会長はラップ現象とは無関係ではないのだ。真相を知ってもらった方がいいかもしれない。会長ならそれで津島さんを忌避することもなさそうだ。

 それと高瀬さんに相談すべきだ。絶対に彼女はこのことを知っている。知っていながら、明かすべきではないと考えていたのだ。つまり、それほど慎重に考慮しなければならない事態だということだろう。僕が闇雲に行動しても裏目に出るだけに違いない。

「とにかく高瀬さんがもうすぐここに来ると思います。校門で彼女を待ちましょう」

 きっと僕が真相に気づいたことを察して、追いかけてくるはずだ。僕と会長は校門へ向かった。すると昇降口に辿り着く前に、高瀬さんと中島さんと合流した。二人とも走って来たようで、ひどく疲れた様子だ。しかし高瀬さんは呼吸を乱しながらも、僕を見るなりすぐに問う。

「堤君。津島さんに会ったの?」

「まだだよ。今図書室にいるみたいで三十分後に戻ってくるみたい」

 そこで高瀬さんは安堵したように胸を撫で下ろした。

「よかった……。一人で先走らないでよ。確かに黙っていたあたしも悪いけど……。とりあえず屋上で話そう。会長も来ていただけますか?」

「ええもちろん。堤君から詳しく話してもらおうとしていたところよ」

 そうだ。そろそろ真の決着をつけるとしよう。

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