第3話

***


 老婦人は、ふと空を見上げた。

「あら、ゆっくりお話ししていたら、少し日が陰ってまいりましたわね」

 確かに、太陽は西に傾いて、青空もうっすらと紅の薄絹をまとい始めていた。

「ああ、すみません。もうお疲れでしょうか?」

「いいえ。楽しくて時間を忘れてしまいましたわ」

 はにかんだように微笑んだ老婦人は、一度奥に引っ込むと、もう一度熱い茶を入れて戻ってきた。手にした盆の上には、今度は草餅が載っていた。見れば網で焼き直してくれたのか、焦げ目がついて香ばしい匂いがする。

「少し硬くなっていましたのでねえ。よろしければ召し上がれ」

 僕は遠慮なく手を伸ばした。この草餅もよもぎを摘んで手作りしたのかと問えば、老婦人は、買って来たものだと笑った。

 もう歳をとって、餅を搗くこともなくなったからと。

「この山里も、お宮で飴をいただいた頃はまだ若い人たちもたくさんいたのですよ。山仕事は力がいりますからねえ」

 今は一番若い夫婦も六十を超えるのだという。子どもの姿はない。

 老婦人は小さな茶箪笥からいくつかの古びたお手玉を取り出して見せた。赤い折り鶴模様がついたお手玉は、彼女の手作りなのだろうか。

 取り上げて振ると中でカサコソと乾いた音がした。

「昔はこんなものでも大事に遊んだものです。これはわたくしの母が縫ったものなのですよ。母はよく端切れでお手玉やお人形を作ってくれましたわ。わたくしは、それはそれは大切にしておりました。特にこのお手玉は、わたくしのお宮参りのときの着物を解いて縫ったものでしてねえ。どこに行くにも持って歩いていたのですよ」

「では、その夜も?」

 僕の問いに老婦人は真っ白な頭を小さく振った。

「いいえ。大事にしておりましたのに、藤吉さんが取り上げて、一つなくしてしまったのですよ。その前の紅葉の頃に」

 懐かしむような笑みに、一瞬だけ影がよぎったような気がした。


***


 最初の飴は、口に入れたとたんにホロリと溶けました。甘くて、そう、乳臭いというのでしょうか。そんな味と香りがいたしました。

 わたくしがそう言いますと、ヒキガエルがそれはまだ赤ん坊の涙からできた飴だろうと教えてくれました。

 小さな欠片を目を瞑って舐めていると、不意に誰かに抱き上げられているような気がしましたわ。ゆっくりと揺すられて、なんだか眠くて。

 ところが、いい気持ちでうとうとしかけたのに、誰かが足をキュッと抓ったのです。わたくしは大きな声で泣きました。するとまた誰かの手が、抓ったところを撫でるのです。

 ――ごめんな、ごめんな。

 そんな声がして、またわたくしは眠くなりました。

「赤ん坊にかえった気分はどうかナ?」

 ヒキガエルが大きな口を開けて笑いながら言いました。

「へんなきもち」

 夢から覚めたようにぼんやりと答えました。それ以上、どう答えていいかわからなかったのです。

「だが可愛がられていたのじゃロ?」

「なんでわかるの?」

「いい顔で泣いていたからナァ」

 わたくしは手で目をこすりました。ええ、飴が口にある間、わたくしはその赤ん坊になって泣いていたのです。

「でも、アメはすぐになくなっちゃったよ?」

「赤ん坊のうちに死んじゃったなら、そうたくさんの思い出もなかったんじゃろナァ」

 十人生まれても半分は幼いうちに死んでしまうような時代ですからねえ。それでもそのときのわたくしは、もう一度あの誰かの腕に抱いてほしくて、悲しくてしかたありませんでした。思い出が多くないからって、さびしくないわけじゃないのですよ。


 それでも時間がありません。飴はまだ十三もあるのですもの。

 次の飴は、最初のものよりずっと硬くて、舐めてもなかなか溶けませんでした。口の中で転がしていると、甘さと一緒に苦みも感じて、わたくしは顔をしかめました。

 今度は目を瞑るまでもなく、わたくしは引き込まれるように夢を見ていました。

 それはやはり誰か知らない子どもでした。女の子です。

 わたくしは、猫を追っていました。キジトラの猫でしたわ。木に登って降りられなくなっていたんです。だからわたくしは――いえ、その女の子は、勇敢にも木に登っていたのです。

 ――みよ、やめなさい!

 誰かが、たぶん女の子のお母さまでしょう。女の子はみよという名なのですね。

 ――みよ、危ないから。猫はそのうち降りてくるわ。

 ――でも、朝からずっと鳴いてるのよ。

 わたくし――みよが答えました。目の前の青々とした木の葉を見ると、これはミズナラの木でしょうか。青いドングリが生っておりました。

 みよは、枝にしっかりつかまり、足をかけて少しずつ登っていきます。風が吹いて、ほつれた髪が頬をくすぐりました。上の方では猫がにゃあにゃあ鳴いております。

 見上げると細くなった枝先から後ずさりしようとして、でも風が枝を揺らす度に怯えたように鳴くのです。

 ――もう少しだからね、じっとしてるのよ。

 みよの所から猫まではもうすぐでした。

 その時、ひときわ強い風が吹きました。あっと思った時には、キジトラの猫がジャンプして、みよの頭を蹴って、そのまま下に飛び降りたのです。

 もう! なんてことでしょうねえ。自分で飛び降りられるのならば最初からそうすればよかったのに。

 わたくしはそう思いましたが、みよは違ったようでした。みよは声をあげて笑ったのです。鈴を転がすような、きれいな可愛い声でした。

 え? みよは木から落ちたのではないのかって? いいえ、ちゃんと幹を伝って降りましたよ。笑いながらね。

 そして下で待っていたお母さまに、叱られるやら抱っこされるやらしました。


 そんな思い出ならばなぜこんなに苦いのかしらって、みよの中にいたわたくしは思いました。

 でもねえ、それは思い出が、いえ、みよにとっては思い出じゃなくて現実だったのですわね。それは甘いこともあれば苦いものもありますよ。子どもであっても。

 次に浮かんだのは、それこそ甘い記憶ではありませんでした。

 ――夏だというのに。この寒さでは稲穂はスカスカだ。

 ――しかも長雨で蕎麦もいかんな。

 大人たちが話していました。寒い夏だったのでしょう。山里の冬は厳しいものですが、夏に十分なお日さまがあり、適度な雨が降れば人は自然から恵みを受け取ることができます。

 でも、ひとたびその巡りが崩れれば餓えるのです。

 みよの持つ小さなお椀には、いくつかの蕎麦の実と山芋の蔓が浮かんでいるばかりでした。夏の収穫が思うようになく、秋にも実りがなければ、とても冬を過ごすことはできませんからね。

 ええ、わたくしもつらい冬を越えたことはありましたよ。

 みよは、お椀の中のものを全部飲み込むと、小さく笑いました。お腹がふくれたわけではありませんが、鍋にはもう何も残っていないことを知っていたのです。

 ――ごちそうさまでした。

 ――みよ、もう一杯食べるかい?

 それはみよのかあさまの分でした。

 ――ううん、ひと口、藤吉にあげて。

 みよの言葉を聞いて、みよの中のわたくしは、びっくりして悲鳴を上げそうになりました。

 あの飴は、十二年分の子どもたちの涙でできています。

 そうですわ。藤吉さんには確かにお姉さんがおりました。わたくしと藤吉さんが三つか四つの頃に亡くなったのでした。ですからそのときから振り返れば五年ほど前のことになりますわね。

 たまたま引き当てた飴が藤吉さんのお姉さんのものだったなんてねえ。

 それからいくつも場面が変わりました。ええ、長い長い夢でした。つらいことも。楽しいことも。

 そして、亡くなる瞬間の夢も。


 飴をなめおわるころには、わたくしは先の赤ん坊の時よりもずっとぐったりしておりましたわ。

 亡くなった瞬間を覚えていたのかですって? ええ、でもそれは申しませんわ。苦しくて、怖くて。とても言葉にはできません。

 ぼんやりとしたまま辺りを見回すと、ずいぶん長い時間だったと思うのに、お宮さんの境内は少しも変りなくにぎやかでした。

「さあさ、お立会い。これに取りい出したるハマグリの貝がら。なんだそんなちいせぇ貝がらなんて言っちゃあ、いけないよ。ハマグリは蜃と申して、春から夏に海中で大層な気を吐き、楼台を作り出すと言われておるのを知らんのか。妖になって百年やそこらの小物じゃない。千年、万年の大妖だ。いやいや、ここにあるのは確かにまだまだ子どもだが……」

 狐の若衆が口上を述べたてている横では、ふわふわとした黒い毛玉のようなモノが、五匹、六匹と集まって、ポンポンと弾むような踊りを見せておりました。

「お嬢ちゃん、もうやめておくかい?」

 隣でヒキガエルが丸いはずの目をしょんぼりと垂らして言いました。

「ねえ、これであの子は――藤吉さんのお姉さんは、もう泣かなくてもよくなったかしら?」

「涙がきれいさっぱり無くなりゃあ、思い残すことも消えて、まっさらになったこったろうよ」

 慰めるようにヒキガエルはわたくしの膝をぽんとたたきました。

「まっさらな魂になりゃあ、すぐにまたこの世に生まれてくる。こんどこそ、長生きしてちゃんと成仏できるといいナァ」

「うん」


 わたくしは、うなずいて、次の飴を手にしました。

 それは琥珀色の少し透きとおった飴でした。

「大丈夫かナ?」

「だいじょうぶよ」

 少し怖くなっていたのを無理やりおしこめて、わたしはその飴を舌の上に乗せました。

 とたんに、景色が変わりました。

 ――やぁい、弱虫泣き虫、泣き毛虫! ぼさぼさ頭で丸くなって、うえうえ泣いてらあ。

 その声は、藤吉さんの声だったのですよ。でもねえ、わたくし、喜ぶどころではなかったのです。だっていきなり現れたのが、藤吉さんにわたくしがからかわれている場面だったのですもの。

 ――ひどいひどい。かえして。

 しゃくりあげながら言っているのが、わたくしでした。

 ――かあさまが作ってくださったの。あたしのお手玉、かえしてよお。

 ――だから返してやったじゃないか。

 ――あんなところ、手がむとどかないもの。

 ――おれがやったんじゃねえ。カラスが取っていったんだ。


 そう、今でもはっきりと覚えていますわ。

 あの日、母が作ってくれたお手玉を、藤吉さんが取り上げてわたくしをからかって、柿の木のうろに隠したんですよ。

 藤吉さんはすぐに返すつもりだったのでしょう。でもその前に、カラスが見つけて、今度はとても手の届かない、ケヤキの木のてっぺんにある巣に持って行ってしまったのです。

 ほら、ここから見えるお宮の鳥居の脇に、ケヤキの木があるの、おわかりかしら? 長生きですわね、まだ立派に立っているでしょう? わたくしとは大違いですよ。

 ケヤキって、箒をさかさまに立てたような枝ぶりでしょう? 幹の途中までは太くてしっかりしていても、枝先なんて細くてとても登れたものではありません。

 いくらお転婆な子でもねえ。

 それでも無理に登ろうとしたわたくしを、藤吉さんが襟をつかんで引きずりおろしましたので、もう髪の毛も着物もぐちゃぐちゃで。

 ――ひどいひどい。藤吉さんのせいよ。かあさまのお手玉、かえしてよお。

 わたくしは泣きじゃくって、何度も、何度も言いました。

 藤吉さんは、本当に困ってしまって。

 ええ、飴をなめているわたくしは、藤吉さんの夢の中ですから、藤吉さんの気持ちが自分のことのようにわかりました。あの時、藤吉さんは、本当に、心底、困っていたのです。

 ――泣くなよ、泣き虫! 泣き虫毛虫ははさんで捨てちまうぞ!

 口では憎まれ口をきいていたのに、心の中では藤吉さんこそ泣きそうになっていて、わたくしはびっくりしてしまいました。


 だって、いつもいつも意地悪ばかりしていたのですよ。お手玉を取ったことだけではありません。ヘビの抜け殻を襟首から入れたり、お腹に空気を吹き込んでパンパンになったカエルを投げつけたり。それはもう。

 あら、笑っていらっしゃるわね。ええ、小さな男の子がやりそうないたずらですが、そのたびにわたくしはいつも泣いておりました。

 でもねえ、不思議と藤吉さんのことが嫌いになったことはなかったのです。

 なぜだろうと思っておりました。

 他にも遊び友だちはいましたのに、なぜあの子といつも遊んでしまうのだろうと。

 ええ、気にかかっていたから、飴にも執着したのでしょう。

 そして、飴をなめて、藤吉さんのそのときの気持ちを知って、わかりましたよ。


 ――困ったなあ。こんなに泣かせるつもりじゃなかったのになあ。

 ――あぁ、鼻水まで一緒にふいて、きたねえな。せっかくかわいいハンカチなのに。

 ――こらっ! いいかげんにしねえと、本当に田んぼに突き落とすぞ。

 そう言って、藤吉さんはわたくしの顔を自分の袖でむちゃくちゃに拭くと、手を引いて立たせました。

 ――お手玉は、カラスのやつから取り返しておくから、おまえは帰れ。

 ――かえしてくれるの?

 わたくしは、またこみあげそうな涙をのみ込んで聞き返しました。

 ――ああ、明日の朝までにはな。だから母ちゃんに告げ口するんじゃないぞ。誰かに言ったら、本当に毛虫みたいに紙でくるんで捨てるからな!

 藤吉さんは、わたくしの背中を押しました。これまで何度も意地悪をされましたが、こんな風に約束したことを、あの子は破ったことはありませんでした。

 ――じゃあ、ゆびきりね。やくそくよ。

 今の子どもたちもするでしょう? ゆびきりげんまん、ウソついたらって。藤吉さんはわたくしにゆびきりして約束をしてくれましたわ。

 だから、わたくしは、素直に、家まで走って帰ったのです。

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