第4話
***
老婦人は、ふぅと深い息を吐いて、目をしばたたかせた。先ほどよりも疲労の色が濃く頬に落ちていた。
「藤吉さんは」
言いかけた僕は、結局その先を続けることができなかった。
彼女が首を振ったからだ。
「嘘つきは地獄に落ちるって言われて育ちましたから。その後、どうして藤吉さんがあんなことをしたんだろうってみんながしゃべっていたときも、わたくしは黙っておりました。はっきりと嘘をついた訳ではありませんが、わたくしは、きっと地獄に落ちるのでしょう」
「いや、嘘をついたことのない人間なんて、この世にはそうそういないんじゃないですかね」
「いいえ、いますよ。藤吉さんはわたくしに嘘をついたことなんて、それまでに一度もありませんでしたから」
八十年も秘めていたことを告白した老婦人は、しかし涙を落とす訳でもなく、乾いた声で続けた。
「藤吉さんの飴は、お姉さんのと比べたら早く小さくなりました。それは、赤ん坊のものよりも長くかかったでしょうけれども。でもその飴に込められていた夢のほとんどに、わたくしがおりました。あの子のお母さまよりもたくさん」
「幼い恋、だったのでしょうか」
なんて陳腐な言い草だと思ったが、そう言わずにはいられなかった。ロマンチックな気分になっていたのだ。
小さな妖たちとの交流。神社の境内に並ぶ夜店。生意気だけど真っ直ぐな少年と、少し泣き虫の可愛い少女の恋。そして悲劇。
自分の中で組み立てられたその物語に、僕自身が酔っていたのだ。
「藤吉さんは、一度だけ嘘をつきました。いいえ、あれは嘘ではなかったのですがねえ。明日の朝にはお手玉を返すってわたくしに言ったとき、あの子は嘘をつくつもりなんてちっともなかったのですから。でもわたくしは信じていたのです。わたくしのあの美しいお手玉が返ってくるって。だから」
老婦人は赤い折り鶴模様のお手玉を二つ手に取って、おぼつかない手つきで投げ始めた。
〽 一番はじめは一の宮
二は日光東照宮
昔のお手玉歌が、乾いて皺の寄った唇から漏れた。
「ご存知ですか、この歌」
「いえ、昔のわらべ唄ですよね?」
「ええ、一番は全国のお宮さんを歌にしてますわ。でも二番は」
〽 二度と逢えない汽車の窓
鳴いて血を吐くほととぎす
「なんですか、それ?」
思いがけない歌の文句に、思わず声を上げた。子どもの遊び歌にしてはやけに生々しい。
「昔流行った芝居を歌に取り入れたのですよ。なんでまあ、お手玉歌なんかにつけ加わったのかと思いますがねえ」
不意に老婦人の口元に笑みが浮かんだ。それは、先ほどと変わらないおっとりとした優しい笑みのはずなのに、僕は背中に汗をかいていた。
***
翌朝、わたくしはお手玉を返してもらいに藤吉さんの家へ行きました。ところが藤吉さんは、夜が明けるとすぐに出かけたと言うんですよ。
だから、あのカラスの巣のあるお宮のケヤキの木のところに行ったのです。
そこに藤吉さんはいました。手も足もすり傷だらけのひどい格好で。でもわたくしは、あの子がお手玉を取り返していないことに腹を立てたのです。
――やくそくしたのに。
わたくしの言葉に、藤吉さんの心はきゅっと縮みあがるのがわかりました。
――かえしてくれるって、言ったのに。かあさまが作ってくれたのに。
藤吉さんは、何も言い返しませんでした。ただ胸のうちで、どうしよう、どうしようって。
――ひどい。あたしは、かあさまにも、とうさまにも、ちゃんとだれにも言わなかったよ。これから先だってだれにも言わない。それなのに、ひどい。ひどい。
赤いきれいなお手玉は五つあったのですから、一つなくなっても遊ぶことはできたのです。だってわたくしは五つもいっぺんには扱えませんでしたからね。
それなのに、何度も、藤吉さんにひどいひどいと言って、泣きじゃくりました。
わたくしがひどいと言うたびに、藤吉さんの心が、ぎゅっ、ぎゅっと縮まっていきました。
そして、何も言わずに駆け去ってしまったのです。
――ひどい。藤吉さんなんか、もうごめんなさいって言っても、けっしてゆるさない。やくそく守れない藤吉さんになんか、きらい。
わたくしが最後にかけた言葉はそんな風でした。
それから先のことは、飴をなめなくても、わたくしは知っておりましたよ。
藤吉さんは、ゆびきりの約束どおり、自分の指を鉈で落としたのです。ええ、その日のうちに。裏の畑で。
でも、そのときの恐怖や痛みは、飴をなめて初めて知りました。
――うわああああああ。
落とした小指の先を押さえて、藤吉さんは地面に転がりました。
――痛い、痛い、痛い。
頭が真っ赤になりました。流れる血で腕も服も真っ赤になりました。
――怖い。怖い。怖い。
――助けて。助けて、痛いよっ。
大人たちが、藤吉さんの叫び声に駆けつけたときは、むやみに転げまわったせいで、傷口はもちろん頭から足先まで土ぼこりを浴びていたそうです。
でも、そんなことは藤吉さんにはわかりませんでした。ただ、その痛みと恐怖でいっぱいになっていたのです。
――この指はどうしたんだっ!
藤吉さんのお父さまが怒鳴りましたが、藤吉さんはもう何が何だかわからなくなっていました。
次に目を覚ますと、もう指の先はしっかりと布が巻かれておりました。ズキン、ズキンと脈を打つように痛みますが、恐怖は薄れておりました。
藤吉さんのお母さまが、粥を口元まで持ってきて、まるで赤子をあやすように世話をしてくれるのが、なんだか恥ずかしくて。
――ねえ、藤吉や。おまえ、なんであんなことをしたんだい? 鉈で草刈りでもしていたのかい?
――うん。そうなんだ。
藤吉さんは小さな嘘をつきました。とても自分で指を落としたなんて、言えなかったのです。
藤吉さんのお母さまは、大きなため息をつきました。
――まあ、なんにせよ、左手の小指の先でよかったよ。それならそう不自由なこともないだろうしねえ。
ええ、そうですよ。藤吉さんは、指を切り落としたから命を落としたんじゃないんですの。直接にはね。
傷口から悪い菌が入ったんでしょうねえ。
飴の見せる夢はとびとびで、全部が鮮明に見えるわけではありません。だから次に見たのは、とても、とても、苦しい夢で。息もできなくて。身体を動かせないのに、勝手にびくびくと跳ねて。
そうです。藤吉さんは、その後、半月くらいして亡くなったのです。
――苦しいよ。苦しいよ。
――おれ、死んじゃうの?
――でも、おれ。約束……守れなかったけど。でも。
〽 ゆびきりげんまん、うそついたら針千本飲ます、指切った
藤吉さんは最後まで、あのお手玉のことを気にしていました。苦しんで。苦しんで。息もできないのに。
「大丈夫かナ?」
ヒキガエルの声で、はっとしました。まだ飴は舌の上に残っていました。
「顔が真っ青ですゾ、お嬢ちゃん? 拙者の顔より青い」
「うん、だいじょうぶよ」
わたくしは舌の上の飴をそっと転がしました。とても、しょっぱい味がしました。
「藤吉さんのだったの」
「ほうほうほう。それはそれは、良かったですナ。三つ目で引き当てるとは、運がいいですナァ」
ヒキガエルは何度もうなずいてくれました。
先ほどの狐の若衆のところには、たくさんのモノたちが集まっておりましたから、やはりそれほど長い時間ではなかったのでしょう。
「あのハマグリには蝦蟇の油が入っておるんじゃヨ。イやイやイや、拙者の油が欲しければ、その尻尾を一つ寄越せと言ったんじゃがナァ。それじゃあ、引き合わないって。まあ、そうでしょうナァ。狐が尻尾を一本増やすのに最低でも百年はかかるのですゾ」
ヒキガエルは機嫌よく言ってクォッ、クォッと笑いました。
「さてさて、どうしますか、お嬢ちゃん。残りの飴は?」
そう、まだね。飴は十一もあったのです。でも、これ以上飴をなめる気にはなりませんでした。
だから小さく首を振りました。ヒキガエルは、そうだろうと言わんばかりにうなずいて、籠を取り上げました。
「じゃあ、この飴はあやつらに分けてもいいかナ?」
「みんな、そんなにほしいの?」
「そりゃあ。人の子の涙なんて大好物じゃ。大丈夫、大丈夫。悪さをするモノたちにはやらぬ」
やはり妖ですわねえ。ヒキガエルは、籠を持って夜店のほうに行ってしまいました。
ええ、悪いことは、なにも起きませんでしたよ。ヒキガエルはちゃんとわかっていたのでしょう。わたくしの涙をやったカラスもね。無事にそれから八十年も生きたんですもの。
ああ、こうしてお話したおかげで、あの夜店の提灯が目に浮かぶわ。
いろいろなお店。にぎやかで威勢のいい物売りの声。
光る石、薬草、虫の羽、蛇の皮。
おかしくてヘンテコなモノたち。
あんなに不思議な夜は、これほど長く生きても二度とありませんでしたわ。
不思議で、苦しくて、甘い夜は。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます