last episode:Like the wind 最終話「風のように 後編」
last episode:Like the wind 最終話「風のように 後編」
運命の日が朝日を連れてやってきた。
学校が休みにも関わらず、早い時間に起きて午前七時ごろに学食へ向かうことにする。休日でも開いているのは寮生活をしている学生にとっては喜ばしいことだ。
券売機で食券を購入して、引き換える。
朝食は当然のようにハムチーズトースト。
見た目はカリッと狐色に焼きあがった食欲をそそるパンに挟まれて、遠慮がちにちょこんとでているハムとチーズが素晴らしい。
それを持ち上げ、断面を見ると均整の取れたハムととろけて今にも挟まれた間から落ちてきそうなチーズの並びが食欲をそそる。
背後に熱烈で暑い朝日を浴びて、周囲を見ながら食を進める。周りにいたのは十人十色の面子。
優雅に朝食をとりながら至福の一時であるかのように読書をしているもの。
ご飯を食べながら筋トレしているもの。
普通に早く起きてしまって、ただご飯を食べているもの。
今朝は豪華にいこうと朝からうげっとするような重いランチを食べているもの。
すべて彼らの日常の枠組みのなかにある行動そのものだろう。
どこか、遠い世界の景色であるかのようにそれを見つめていると、ふと、ここ数ヶ月間のことがフラッシュバックして懐かしい気分になる。
元の時間にしてみればたった二週間から一ヶ月程度のことなのだが、ブラックボックスの時間遡行によって永遠と時間を繰り返し続けた結果、幾万もの可能性が生まれては消えていくことになった。
俺たちの周りを揺るがす物語が始まった事の発端は凛が言いだしたこと。
探検部を作ろうよ――それが唯一のきっかけであり、歯車が周り始める最初の潤滑剤。
そこに都合がいいのか、悪いのか、優衣の過去――自分の観測者の力で誰かを傷つけたトラウマが蘇って……。
俺は優衣をトラウマから解放するために奔走したっけ。まさか、あの時の優衣が暴力を振るった相手が俺だったとは思わなかったけれど。
あいつの力の発端はブラックボックスのもので……一度それを小さい頃に乗り越えたが、ずっと心の奥底で苦しんでたんだろうな優衣は。
そういや優衣と凛が漫画にでてくるような、ハイスピードの戦いもしていたか。どうしてそうなったのか、全然思考が追いつかなくてそのうちに、殺されたんだったな。
思いだすとその時に刺された胸の辺りがちくっとする。痛みを知覚することなく死んだのは凛がせめて俺を苦しませないためにと、容赦なく心臓を突き刺したからだろう。
その戦いで優衣は凛に負けて地下帝国に送られてしまった。そこから何度目かの時間遡行を挟んで次に立ちはだかったのは愛瑠さんが抱える過去の鎖だった。
両親が死んだ真実を伝えたくない愛瑠さんと真実を知らないまま育った時先輩の間には大きな隔たりがあって、愛瑠さんは時先輩のことを考えて真実を隠していたし、憎まれるのも良しとしていた。
そんなんじゃいけない、と勝手に首を突っ込んだのは俺だ。
憎しみを抱えたまま生きるのは辛いことで、できればそれをちゃんと解決してほしくて、動きまわった。
所詮、自己満足と言えばそれまでのことだから拒否される可能性もあったけど、二人とも歩み寄りたいって気持ちはあったんだと思う。だから、二人は和解ができた。
数十年にも及ぶ過去の鎖を断ち切ったけれど、次に待っていたのは再びの凛による介入。
愛瑠さんは、元々自分が凛に対して立ち回れる力を持っていないことを知っていて、戦いをしなかった。ブラックボックスによって与えられた凛の力――リライトと名づけられたそれは人智を超えたところにある力だ。足掻こうと覆せる力の差じゃない。
愛瑠さんも地下帝国に送られた直後に、ブラックボックスが暴走を始めた。全てを飲み込んだ時間遡行は再び春に時間を移して、凛の死、谷風の死と最悪の事態を招く結果になった。
思えば遠いところまできてしまったように感じる。
初めて、凛、優衣、愛瑠さんと出会ったのは十二年前くらいのことで、その時は時間遡行をするなんてことは考えたこともなかった。
ただ悠久に過ぎ去るように思えた時間の中で培った友情は、一度レールが途切れたにも関わらず続いている。
俺はブラックボックスから生まれた人間のようで人間じゃない奴で、何であるかわからない中途半端な存在であると知りながら彼女たちは俺を親友と思ってくれた。
そして、優衣と愛瑠さんに凛を託された。
あまりに多すぎる出来事のくせに実際にたった時間はほんの少し。
「こんなこと考えてしまうっていうのは、やっぱり緊張してるんだろうなぁ……」
租借しながら呟く。
実際、こんな早く起きて学食に居るのも緊張からくるものだろう。
「おはよう」
唐突として隣で、耳に透き通りながらも芯のある声が聞こえて隣を見る。この特徴的とも言える肉声で誰かはすぐにわかった。
「おふぁひょうふぉらいふぁす」
「……そのもぐもぐするのをやめてから話なさい」
行儀が悪いわよ、と付け足して注意してきたのはさらさらとしたショートカットと、気の強そうなツリ目を持つ時先輩だ。
「んぐ……おはようございます」
「……」
時先輩は挨拶を聞き終える前に、てきぱきと椅子に座って背筋をきっちりと伸ばして、自室から持ってきたのであろうメロンパンを食し始める。
「起きるの、早いですね」
「いつも余裕をもって行動しようと早起きしてるだけよ。それより――今日の行動予定を伝えるわ」
「いよいよ、始まるんですね……」
「そうよ、やっとお姉ちゃんを救うことが……」
気合の入った物言いは、時先輩の心意気を如実に表していた。
「きっとうまくいきます」
「いくんじゃないの。私たちが、ちゃんとするのよ。
気を取り直して、今日の午後十八時に作戦を決行するわ。集合場所は生徒会室ね」
「生徒会室ですか。最初から地下帝国に繋がる橋である大樹に集まると相手に察知される可能性があると?」
「その通り。地下帝国と繋がる扉には断続的に人が配置されてるわ。時間遡行で地下帝国を見たあなたなら、知っているでしょう。黒服たちよ」
「黒服たちをどうにかする算段はあるんですか?」
「私たちの味方である地下帝国の人たちがなんとかしてくれる手筈になってるわ。彼らも彼らで王直属の黒服とは違う系統に所属する黒服たちと味方につけているみたい。
味方の黒服たちが、地下帝国の扉がある大樹付近を制圧後に私たちは地下帝国へ突入することになるわね」
「……」
「あんまり心配しないで、自分のやることをやりなさい。戦闘に関してはプロがやって守ってくれるから」
張り詰めた顔をしていたせいだろう。時先輩が不安を払拭するように声をかけてくれる。
いくら悩んだった無駄だって結論をだしたばっかりじゃないか。
「はい、わかってます。俺は俺の為すべきことをします。先生の説得に関しては失敗してしまいましたけど……」
「……失敗したのね」
「すみません」
元より説得ができるとは思っていなかったのか、時先輩はさほど落胆した様子もない。
「いいのよ、元より先生に関しては頭数に入れてないもの。もし説得できたら儲けものだから。
……コホン」
時先輩が仕切りなおす。
「今回私たちがやることは至って簡単。私は味方の黒服が付近を制圧したあとにお姉ちゃんの救出を。神風くんは兎風 凛の説得よ。どうにかして兎風 彗を守る彼女を無効化して」
この世界において、凛に手出しをできるものはいない。俺だって手をだせるわけじゃないが、話をするということはできる。そして、今の凛に何か言葉をかけられるとすれば俺以外はいないだろう。他の誰でもない、凛と親友の俺が、時間遡行前に失敗した凛との話し合いを絶対に成功させる!
……
「で、これは一体どういうことだ……?」
「どうって、そりゃ――」
学食からでる寸前に谷風に捕まって、いつも探検部で使っていた部室に案内されていた。もちろん、時先輩も捕まった。厳密に言うと捕まらせた、だが。
いつもここを溜まり場に使うのは何か運命的な作用でも働いているのかもしれない。
谷風の話を待っていると、背にした扉が音をたてる。
「――探検部を始めるためにです!」
静かで品性を感じさせる肉声が教室に反響する。
「なんだ? 突然どうしたんだよ? 凛」
誰かなんて、振り向いて確認するまでもないが一々振り向いて言った。
昨日とは打って変わって太陽のように笑顔を作っている凛がそこにはいた。
予想はしていたが、このタイミングで元気になるのはやはり、ブラックボックスの生贄になるとわかっているからこその空元気なのだろうか……。
「どうしたもなにも、探検部を作ろうと思って。ね、谷風くん」
「おう。面白い部活なんだぜ」
「面白い部活? というか新しく部活作ろうとしてんのか……?」
探検部がどんな部活かを知っている身としては白々しいことだがここは谷風に質問を返すしかない。
「その通りだが……作ろうって言ったのは兎風だ」
「はい、私です」
凛が教室の出口から移動して教卓にたって、白いチョークで黒板に"探検部"と書き記して、得意げに語り始めた。
「この幻無高校には昔から地底人と呼ばれる地下に住んでいる人が現れるという噂があるんです。そして、つい最近もそれが現れた……もうここまできたら、核くんには私が何をしようとしてるか、わかりますよね?」
まるで先生のように名指しして凛は答えを求めてくる。
「ようは、その地底人とかいうのを見つけようってことだろ?」
俺の回答に満足した凛が頷く。
「その通りです。私は地底人を探そうと思って探検部を作ろうとしてるんです。核くんは――」
一端口上を区切って、目を閉じて間を空けたあとゆっくりと手を差し伸べて告げる。
とても大事なことを、全てのキッカケを。
「私と一緒に探検部をやってくれますか?」
状況は始めの頃とまったく違うけども、同じように告げられる言葉に自然と同意して手を差しだして手を握る。
「やるよ。何があろうとも俺は探検部のメンバーだ。それは変わらない」
「……ありがとう、核くん」
本心から出た言葉か否か、穏やかに凛は微笑む。
それを谷風は微妙な顔で見つめていた。
「どうしたんだよ、谷風」
「いや……お前は探検部に入らないって言うかと思ってたんだがな」
「なんだ、あてが違ったか?」
「ちげぇよ。これでも嬉しいんだぜ」
谷風が探検部に俺が入らない、と思っていたのは俺が探検部に入ることを戸惑っているところを見たことがあったからだろう。
「……コホン」
時先輩がわざとらしく咳をする。
「で、私まで連れてこられた意味はあるの?」
「はい。未風 時先輩にも探検部に入ってほしいです」
凛が俺との手を振りほどいて、真正面に時先輩を見据える。
「そう……いいわ。私も入ることに抵抗はないし」
「ありがとうございます」
「お礼なんていいわよ。で、探検部っていうのは地底人を探す部活なんでしょう? とっとと探しにいきましょ。あなただって、時間を無駄にする気はないでしょう?」
不機嫌さが垣間見える辛辣な言葉を浴びせる時先輩に対して、凛は何事もないように話を続ける。
「そうですね。私も、あなたも時間はあまりないでしょうし。いきましょうか。最初は、神風くんたちの寮に」
凛が生き急ぐように教室の扉を開いてでていこうとする。
「ほら、何やってるの、急ぐわよ」
「ですね」
「お前ら順応するの早いよな……」
ある程度どうするのかはわかっているからな……とはとてもじゃないが言えなかった。
いつも俺たちの後ろに居た幼馴染は、いつの間にか遥か先を歩いている。
昔はいつも俺たちの後ろを歩いていたのに生き急ぐように前を歩いていくようになってしまった。
今日という唯一のチャンスになるこの日を無駄にするつもりはない。
今日こそすべてに決着をつけよう。
地下帝国のために、そして俺たちのために。
……
寮に向かう途中の並木道。
気持ちの良い春風が体を撫でていくのを感じながら寮に向かう。
「ちょっと」
前で意気揚々と歩く凛と谷風を尻目に時先輩が肘でつついてくる。
なんとなく察しがつくが、とりあえず聞いてみる。
「なんですか?」
「もしかしたら兎風 凛にバレてるかもしれないわよ」
「十中八九バレてます……」
思い当たる節がないと言えば嘘になる。
「……何かしたの」
ジトっとした目が少し怖い。
昨日のことを思い出しつつ、簡潔に述べる。
「なんというか、まぁ。俺が大声で凛に対して怒ってしまったのが原因というか……すみません」
「はぁ……そんな理由?」
露骨に呆れられた。
時先輩は一度、前方で谷風と陽気に喋る凛を一瞥した。
「兎風 凛がもし地下帝国に情報を流していたら、今の私たちはここにいないでしょうし。たぶんバレたのはあなたの記憶が戻ったってことだけ、ということでしょうね。なんで地下帝国に報告しないのか、なんてこと聞くまでもないのかしらね……」
時先輩も、凛の事情を知っているのだろうか。表情を曇らせる。
「きっと凛は俺と決着をつけようとしているんだと思います」
「決着……ね。それは兎風 凛にとっては生との決別でしょう。そんな場を彼女に与えていいの?」
「あいつがそれで納得するならいいことだと思いますよ――ただし、決別させるつもりなんて毛頭ないですけどね」
俺の宣言を聞いた時先輩は鼻で笑い飛ばしながらも、微笑を浮かべる。
「あなたはそうよね……。頑張りなさい。あなたたちを二人にする算段はつけるから。たぶんあっちも二人で話たいと思っているでしょうからね」
「……ありがとうございます」
「お礼はいいから頑張りなさいよ」
「当然、全力で頑張りますよ」
「未風先輩、核くん。はやくこっちこっち!」
前方を歩いていた凛が振り向いて手を振ってきていた。
長く話していたから自然と歩くスピードが遅くなっていたらしい。「今いく!」と言って時先輩と駆けだした。
……
「ってここ俺たちの部屋じゃねーか!」
寮室に入った途端、何の前触れもなく谷風は頭を抱えて叫んだ。
「いや、知ってるんじゃなかったのか。お前」
凛と結託して建前上は、地底人を探す案内を率先してやっているかと思いきや。自分がどこに行くのかすらも把握してなかったらしい。
「いやさ。どこに行くとは聞いてたんだが、ここだとはさすがに思わなくてな! 地底人探しにいくっつうのに自分の部屋にくるなんて普通思わねぇだろ!?」
寮で探すとは聞いていたが、自分の部屋にくることは聞いていなかったということだろう。
「その理由なら確かにその通りだけどな……凛は何も教えてなかったのか?」
「ごめんね、谷風くん。少し驚かせたくて……」
申し訳なさそうに凛は謝ろうとするが、谷風がそれを制する。
「俺も盛大に驚いたけど薄々どこいくかわかってたから気にするな! それより、この部屋で何すんだ……?」
「え、えーっとね……」
凛が手を口にあてて考え込む。
まさか、何も考えてなかったのか。みんなが黙る中、凛は何か思いついたようで手をぱんっと可愛らしく叩いた。
「この部屋の庭で地底人を見かけたって情報があったから、ここにきたの。二人は見たことない?」
そうきたか。
谷風と顔を見合わせて凛には悪いが「「ない」」と異口同音に即答する。
「うっ……ほら、何かない? 深夜に物音を聞いたとか、怪しい人影を見たとか」
話を合わせてやりたいところだが、実際になかった話をすると谷風がいぶかしんでくることもある。普段どおりにいこう。
「特に見たことはないな……谷風は?」
「俺も心辺りがねぇな。核より遅い時間に寝たりするがなぁ……物音なんてすりゃ気づくだろうし」
「……谷風くん。あなたいつ寝てるの?」
少し威圧的な雰囲気を身にまとう時先輩に物怖じせず、谷風は陽気に答える。
「一時くらいですかね! 遅いときは三時くら……はっ!?」
「あなた、そんなことだから遅刻するんじゃない……? 谷風くんの教師陣の間の名称知ってる……?」
「な、なんだ……それ……!?」
「知らないのね……あなたの名称は遅刻の風よ!」
派手な効果音がつきそうな、はっきりとした口調で告げる時先輩に対して、谷風は体を震わせていた。
興奮しているのだろうか。溜めたわりにあだ名が格好悪いことに対して怒っているのか果たして――。
「意外にかっこいい! 俺そんな名前で呼ばれてるのか!?」
やたらと興奮した様子で、鼻をふんふんと気持ち悪く鳴らす谷風。
「別に格好良くないだろう……遅刻魔って言われてるようなもんだぞ?」
実際、遅刻魔と言われてもしょうがないレベルで谷風は遅刻を繰り返しているが、なんで率直に遅刻魔と教師陣も言わずに風なんて単語をつけているのだろう。
「いいや、違うぞ! 遅刻の風だぜ? なんと言っても風だ。カッコイイだろ」
「何がカッコイイのか分からんぞ。なぁ、凛?」
凛を一瞥すると、またもや手を口にあてて凛は考えて、何事か呟いていた。
「うーん……遅刻の嵐だったらかっこよかったかも……」
思わず目が点になりかける。 凛は何を言ってるんだろう。遅刻の風でも意味がわからないのに遅刻の嵐ってなんだ。集団遅刻でも起きたのか!? ストライキか!
「遅刻の嵐って……?」
「えっ!? あっ……なんでもないから! うん、遅刻の風なんてかっこ悪いよね!」
ぼそっとした俺の一言を聞いた凛は、慌ててとどめの言葉を口走ってしまう。すると、谷風が項垂れた。
「……そうか。そうなのか……」
「凛……」
「意外に容赦ないのね……あなた」
「た、谷風くん!? そんなに落ち込まないで! 核くんも時先輩もそんな引いた顔しないで! ただ単純に喉からでてきてしまったというか、なんというか!」
「それ本音っていうことじゃね……?」
「「うん」」
「違うから! 谷風くん、遅刻の風ってすっごくかっこいい名称だよね!」
「どこら辺が……?」
ここぞとばかりに、自分が落ち込む方向に追い討ちをかけているように見える谷風は、とても可哀想だった。
「そのえーっと……遅刻の風ってアレだよね」
「アレ……アレか……」
凛、フォローできないならフォローしなくていいんだ! 傷口に塩を塗りたくるのはやめるんだ! と言いたかったが、言いづらい雰囲気に躊躇う。
何か見てるだけで漫才っぽくてこれはこれで……。
「えっ!? アレって聞いてなんで落ち込むの!? 核くん、助けて!」
「ほら、答えてあげなさいよ。神風くん」
「なんで俺に振る!? 時先輩もなんで遠のくんですか! あなたも力を貸してください!」
項垂れた谷風を復活させるのにしばらくの時間を要してしまった。
誰かが笑いながら、誰かを楽しませる。たったそれだけのことなのに。
自然に凛と谷風と時先輩を遠巻きに見つめてしまう。
ぎゃーぎゃーと騒がしく、懐かしい……和気藹々とした雰囲気。
凛と優衣と愛瑠さんと谷風の全員が揃っていた頃に見ていた光景がここで形を変えて存在している気がした。
……
谷風の調子を戻してからも建前上は地底人探しの思い出巡りは続いた。
寮の次は学食に始まり、一年から三年までの教室を。果てには図書館を回る。
実際に巡った場所を使っていたのは何度も繰り返す世界の中だけで、本当の温もりはないけれど、思い出として残る風景は懐かしいものだった。
そして、最後に行き着く場所はいつもの部室で、ここだけは使わなかった時間軸が存在しなかったはずの場所。
夕日が差し込みだす十六時頃の部室はどこか寂しい雰囲気を漂わせていた。
凛は窓に腰掛けて校舎の外を悲しそうな表情で見つめ続ける。
どこかで見たことのある光景――そう、これは凛が我慢の限界を迎えたときに起こるであろう未来で見た凛そっくりだった。
あの時の場所は教室だったか。今は部室で同じような光景を見ているのはとても複雑な気分だ。
もし、自分の心で抱え切れないほどに、不安と絶望を抱え込んでしまった凛が居たとしたらそれは誰も止めることも抗うこともできない最悪の事態。
「――核。おい、核!」
「あ……?」
集中して考え事をしていたせいで谷風が呼びかけていることに気づかなかったらしい。
「あ? じゃねぇよ。行ってくるって言ってるんだよ!」
こいつは何でキレかけてるんだ。
「なんだ、どうした。トイレか?」
「そうだよ!」
「あーもじもじすんな。わかったからとっとと言って来い」
「もじもじなんてしてねーよ! ちゃちゃっと済ませてくるか」
谷風がでていくのを確認したあと、時先輩が近寄ってきて耳打ちした。
「谷風くんは私が止めておくから、兎風 凛のこと頼んだわよ。できれば今のうちに方をつけて頂戴」
俺は静かに頷いて返すと、時先輩も満足したようで頷いて谷風のあとを追っていった。時先輩がどうやって谷風を止めるのかが何気に気になるところだが、そんなことを気にしている暇はない。
今のうちに方をつけて頂戴、というのは後々に凛が作戦の妨げにならないようにここで説得しておけ、ということだ。
願ってもいないチャンスだ。
凛に向き直って口を開こうとするがうまく形にならない。何をどう話すのか、決めていたはずだった。少しだけだがシミュレートもした。でも、実際に話そうとすると言葉が浮かんでこない。
説教みたいなものから、思い出、今のこと――たくさん言いたいことはある。言いたいことが多すぎて頭に靄がかかったみたいになっている。
言いたいことを言えばいいだけなのに、口走れない。
足踏みをしていると、凛が唐突に声を発した。
「核くん、この学校にきてどうだった? 楽しかった?」
あくまで凛はこちらを振り返らずに窓の外の景色を見ながら聞いてくる。後ろで束ねられた髪が柔らかな風に揺らいでいた。
楽しかった、と聞かれたもちろん答えは決まっている。
「今思い出してもすぐに思い出せるくらい、楽しいことばっかりだったよ。優衣も愛瑠さんも凛も……谷風も、親友たちが揃って遊んだことは一生忘れない思い出だ」
凛は風の調(しらべ)に耳を傾けるように頭をリズム良く揺らす。
夕日が差し込んで影を生みだす教室が、静寂に包まれる。不思議と居心地のいい雰囲気に思わず俺も風に耳を傾ける。
「……私もその通りだよ。ここにきてから心が躍ることばっかり。嫌なことがあってもみんなと遊んでたら自然と忘れられる。暖かな楽園みたいな場所だったんだ……」
凛の声から掠れた震えたような声が垣間見えるようになってきた。
「凛は……後悔してるのか?」
「……うん。後悔も絶望も不安も……あったよ。それでも、悔恨があってもここまできたなら、もう――」
言いながら凛は校舎に入り込もうとする夕日を一部遮り、振り返る。
「――戻ることはできないんだよ……私は勝手な人間だから」
夕日を真後ろに受けて影を生みだす顔から一粒の光――涙が零れでて、床を濡らす。
涙を流しながらも凛の表情は決意を固めたことを感じさせ、俺に焦燥を煽らせる。
決意と涙、それを見た途端、心に架せられていた枷が外れるように喉から声が溢れでた。
だって、こいつの言ってることは……!
「……違うだろ! お前はまだ戻れる! なんで戻れないなんて勝手に決めてるんだよ!?」
「……」
頭が沸騰しそうなほど熱くなる。
凛が言っているのはこういうことだ。
謝れない過ちを犯してしまったから、俺たちとはまったく違う別の道を歩んでしまったから……もう引き返せない。
誰かが引き止めてくれても違えた道を戻すことはできないと、そう言っているのだ。
「確かに優衣と愛瑠さんには取り返しのつかないことをしたかもしれない! でもそれだけでどうして戻れないなんて言うんだよ! お前と俺たちの道はまだ繋がってるだろ!? お前も学園生活が楽しいって言ってただろ! 取り返しのつかないことがそれっていうなら、お前が消した楽園はまた復活させればいい! そうだろ! 凛!」
必死に言葉を振り絞る。
しかし――凛は感情から出続ける俺の言葉を否定するばかりか、聞こえていないように振舞って夕日へ向き直る。
そのまま窓から飛び降りてしまうんじゃないか、そう思って何度でも呼びかける。
ただ羅列される言葉。本能に脳が追いつかない。
「俺も協力する……だから凛! お前をこのまま行かせるわけにはいかないんだよ……! 俺の話を聞いてくれ……お願いだ、凛……」
足が、動かない。
凛は窓から一歩も動いてないのに本能が拒絶するように足が進まない。決意を灯した凛を見て、足が立ちすくんでしまったのか、それとも凛が観測者の能力で足を進ませないようにしたのか、どれも定かな原因ではなかったが事実として足が動くことはなかった。
そして気づく。声もでない。
息を求める魚のようにパクパクと口を開閉させるが、何もでていない。
しまった……!
凛はやろうと思えば世界中で何でもできる、現実を書き換える力と言っても過言ではないリライトを持っている。それを使われたのだ。
表情の見えない後ろ姿を見せる凛は、現実に存在しているような存在ではなく、手を添えると儚く消えてしまう雪のようだった。
「私はみんなと一緒に居られた時間とっても楽しかったよ。かけがえのないもので、死んでも忘れない、なんて言ったら大袈裟かもしれないけどそれくらい大事なものだった。だから、ありがとう」
今生の別れであるかのように、凛は語る。
反論しようとしても、言葉は口にならず喉元からでることはない。
「核くんが記憶を取り戻してくれたおかげで、私はやっと決意することができた。もう、私を縛るものはないよ。あっ私が地上から居なくなったら足も動くようになるし、声もでるようになるから少し耐えてて。
ありがとう、核くん。
こんな私と親友で居てくれて、私のことを一生懸命考えてくれて……感謝しても仕切れないくらいだよ。
もう……時間だから行くね。追いかけるなら追いかけてきてもいいけれど、その時は本気で相手をするから……」
一方的に捲くし立てて、凛は窓から飛び降りる。
普通の人間の芸当ではないが、リライトで自分の身体能力を思いのままにできる凛はなんの躊躇もなく飛びでた。
完璧に誤算だった。
凛に対して俺が見せた明確な意思は記憶を取り戻した可能性があるということだけ。ただ……それが思わぬ方向に作用してしまった。
いや、わかっていたはずだ。凛はそういう奴なのだと、知っていたはずなのにその可能性を考えなかった俺のミスだ。
凛は俺が記憶を取り戻したことをきっかけに、凛は俺たち親友との決着をつけようとした。そう、ブラックボックスの生贄になるための最後の一押しを俺がしてしまったようなものだ。
また、凛は前回と同じ事を繰り返そうとしている。いくら外的要因が加わり、俺が記憶を取り戻すという事象が起ころうとも凛が最後にやることはブラックボックスの生贄、だった。
凛自身、父親に逆らえるとは思っていないのだろう。これまでも細々とした抵抗はしていたのだろうが、本格的に抵抗することはなかった。
何があろうとも凛は父親の命令を選んでしまう、それを如実に見せられた気がして、心が灰色になっていくのを感じた。
巡り巡る思考を辿っていると、時先輩が息を切らしながら駆け足で現れた。
「はぁはぁ……兎風 凛は!?」
時先輩が叫ぶと同時に、窓から見える景色が眩い光に包まれた。
覚えのある激しい光は、地下世界へ人を送り届ける閃光だった。
それだけで時先輩は何があったのか把握して、残念そうに呟く。
「失敗……か。その調子だと兎風 凛に何か言われたみたいね」
いつの間にか解かれた足を棒のように立て、掠れた声をだす。
「止められ……っなかった……。あいつが行くのを……」
「……そう。で、どうするの。あなたは地下帝国に行くの、行かないの」
感情を押し殺した冷徹に決断を迫る声が耳に反響する。
地下帝国にいけばいい。
そうやって心で決めるのは簡単なのに、体はなぜか動かない。心が折れてしまったのかもしれない。
俺が凛に説教する、説得するというのも凛が俺に協力を求めていて初めて成立するものだったからだ。
何が説教だ、助けるだ。そんなものただの勝手すぎるエゴじゃないか。ただエゴを押し通すだけじゃ、ただの傲慢な人だ。
凛は俺を拒絶したんだ。
もう凛の心に俺の言葉が響くことはない……。
回転する思考のなか、しばらくの無言を肯定と受け取った時先輩がテキパキと行動を開始する。
「あなたが行かないならそれでいいわ。私の目的はお姉ちゃんだから……じゃあ、私は行くわ。くるなら、早めにきなさい」
最後にそれだけを残して廊下を走る靴音が段々と離れていく。
「……もう、無駄なんだ……。俺のしてきたことは……何もかも……。なんのために戻ってきたんだ……俺は……」
何度考える時間を与えられても最後に大きな壁にぶち当たった途端これだ。
凛の意思なんて関係ない、そう思っていたのに明確に拒絶を味わったことは相当に堪えたらしい。
このまま、寝てしまったらまた親友同士で遊ぶ夢を見られるんじゃないか。
永遠に覚めない夢という快楽に身を預けたいとすら思った。
そんな思いから目を閉じようとする。
「神風、なに寝ようとしてるんだ?」
「……えっ?」
そんな矢先に聞き覚えのある声質に、顔を少しずつあげる。
すると、そこにいたのは――。
「よう」
――笑顔で手を掲げる、説得に失敗したはずの先生の姿だった。
……
山と山の間の谷間に消え行く夕暮れを尻目に、先生の肩を借りて廊下を進まされる。
もう当に体から力は抜けでて、俺はもぬけの殻のようになっているのに先生はあくまで前へ前へ進ませようとする。
「どうしてそんなつらそうな顔をしてるんだ? お前は」
しばらく無言だった先生から発せられた言葉に釣られて、心を吐露してしまう。
「全部……無駄だったんですよ。俺がしようとしたことも、なにもかも……。
凛に記憶を取り戻した俺の姿を見せれば、もしかしたら俺に協力してくれるかもって……そうはいかなくとも、せめて俺の話を聞いてくれるようになる、そんな風に思ってた……でも、それが裏目にでて、凛は自分勝手に優衣、愛瑠さん、俺――みんなとの決別を結論づけて、一方的に捲くし立てた挙句、遠い手の届かない場所に行った……。
元から俺の協力なんて必要なかっ――」
「いや、それは違うぞ。神風」
そこで、聞き手に回っていた先生が被せ気味に発言する。
「もし、お前が記憶を取り戻さなかったら兎風は全てお前に内緒で事を為しただろう。でも、どうだ? お前は兎風がやろうとしていることを知っている――ブラックボックスの生贄になることを」
先生はどうやらブラックボックスの生贄に凛がなるということを知っているらしい。
俺が不思議な顔をしていたからだろう。先生は補足する。
「地下帝国から逃げだしたと言っても、俺は観測者のまんまだ。ブラックボックスの異変を察知するくらい何でもないさ……。
神風、お前に逃げるなって言われて考えたよ。
俺は逃げていることを自覚しながらも、これはしょうがないことだ、誰だってそうする。そんな思考の逃げ道を作って全ての事象から目を背けていた」
ふと、自嘲気味な笑みを浮かべる先生。
凛は自らの意思で去ったんだ。言葉を並べられようと、何が起ころうと関係ない。
灰色の心は、そう思っているはずなのに先生の話を心が勝手に耳に入れていく。
「でも、そんな逃げをもう終わりにする。
俺は逃げる口実を死んだ百合風のように人に優しくすることで、勝手に押しつけて正当化していた。
それを、終わらせる」
目に火が灯っているというのだろうか、先生の目に確かな覚悟が見て取れた。
そんな覚悟を見て、灰色だった心が震えだして躍動している。
「でも……俺は……ッ。凛に、拒絶……されて……」
「それがなんだ?」
先生はなんでもないかのように言い放つ。
その物言いに、少し頭がイラッときてしまった。
「なんだって……! そんな言い方――」
「お前は勝手に俺の心に入り込んできただろう」
「昨日の、ことですか。それに腹をたてていると」
「そうだな。俺はお前に対してイラついてる。それは確かだ。
神風は言ったな、俺はもう一度百合風、夜風、そして地下帝国と向き合えると。
向き合ってやろうじゃないか。一度逃げたことに向き合うんだ。
それを決意させた張本人のお前がその調子でどうする!
もう一度向き合うんだ。兎風に拒絶されたからってなんだ。お前は俺が拒絶を示しても諦めなかっただろう。そして、ここまで俺を導いた」
「それは……先生自身が出した結論、でしょう」
「その通りだ。だからお前も自らの意思で結論をだせ、このまま全てを終わらせていいのか?
兎風をこのままにしておけば、お前にとって兎風がブラックボックスの生贄になる、そんな最悪なことが起きる。
全てを決めるのはお前自身だ。誰も攻めやしない……それで、お前が納得するならな。
あとな、お前が言うような未来にはならないかもしれないぞ? 何を見たのか、知らないけどな……確定した未来は存在しない。お前はまだ運命を変えられるターニングポイントにいるんだ」
「……」
先生はそこで言葉を区切った。
あくまで俺の意思に任せてる、そう言った。
ゆっくりと校舎を進んで、階段を降りる。その際に、窓から外の景色が見えた。
思わず目を覆いたくなる、明るく黄金のようにさえ見える夕暮れが照らす先は、校庭の大樹が燦然と存在していた。そこには時先輩と、仲間と思われる地下帝国の黒服たちが勢ぞろいしていた。
そろそろ作戦も開始の時間なのだろう。何かを決断するにはあまりにも短い猶予時間を表しているように思える。
ここで時先輩を追いかけて合流すればまた凛に近づくことができる。勝手に離れていったあいつに。
でも、それをしなければ何も得ることはできない。
もう、頭は本能は、己のやりたいことを理解していた。
泥沼にはまって、立ち直れないと思っていたものは、ふつふつと心を沸騰させる高揚感に変わって、全身を駆け巡る。
ああ……そうだ。俺はこんなところで立ち止まってるわけにはいけない。やらなきゃいけないんだ。
勝手に去るなんて冗談じゃないぞ、凛。俺はまだお前に言いたいことを何も言ってない。
「すみません、先生」
肩を貸していてもらっていた先生から自立して地面を踏みしめる。
少し呆然としながらも先生は意図を察したのか、頷いた。
「調子はもどったか?」
「はい。ありがとうございます。俺のやるべきこと、しっかりと見つめなおしました」
「そうか、なら問題ないな。未風に合流するぞ、走れ」
言うや否や、先生は駆けだす。
「はい!」
それを追いかける。
もう時間は待ってくれない。既にターニングポイント(分岐点)は通り過ぎた。
何度も迷い、折れて、決意する。
その繰り返しだったけれど、それも、もう終焉だ。ここまできたら迷うことも後悔も考えることはない。
ただ、感情のままに突っ切ればいい。
この先、作戦が成功すれば訪れるであろう、優衣、愛瑠さん、凛の暖かくて、笑顔で過ごせる輝かしい未来を見つめて。
……
「時先輩!」
夕暮れも沈みを向かえて、空が灰色に染まりつつある時間。
大樹の下で、作戦開始の時間を刑が執行される囚人のように静かに目を閉じて待つ時先輩に追いつく。
「神風くん? どうしたの」
本当に不思議そうな表情で尋ねられる。
あのあと、追いかけてくるとは一切思っていなかったらしい。
時先輩の性格ならそうだよな……。何があっても自分の目的は達成しようとする人だし。
「俺も作戦にもう一度参加させてください。今度こそ、大丈夫です」
「そう……助かったわ」
言いながら笑みを浮かべる時先輩。
「助かった……?」
「そうよ。私たちだけじゃ兎風 凛をとめられないからね。どうしようかと思ってたのよ」
不安を抱えながらも時先輩は進もうという意思を曇らせることはない。時先輩にとっては、地下帝国に囚われた愛瑠さんを解放することが為すべきことで目的だからだろう。
「やっぱり時先輩は強いですね……」
漏れでた本音に時先輩は目をぱちくりと瞬かせたあと、意味を察したように返答した。
「……そんなことないわよ。ただの強がりばっかり並べても結果が伴わなければ意味がない。分かってても並べることで前へ進めるならそうすべきなのよ。
だから、まずはやるべきことを見据えてしっかりとやりきりましょう」
「はい!」
「未風、俺もお前たちの作戦に協力させてもらう。いいか?」
話が区切りを迎えたのを境に、先生が割り込んでくる。
「こちらにとっては願ったり叶ったりだから問題ありません。こちらの懸念対象の兎風 彗をどうにかできればそれで」
「任せてくれ……とは安々と言えることじゃないがな……なんとかするさ」
「お願いします。
で、神風くんは本当に兎風 凛を止められるの? あなたの制止を振り切って地下帝国に戻ったんでしょう」
「その通りです。でも、俺は勝手に去っていった凛に言葉を伝えないと気がすまないんです。止められる確証がなくとも、やってみせます。
伝えられることを精一杯に伝えて」
「ならいいわ。作戦としては完全にミスなんでしょうけどね。一番の不確定要素である兎風 凛をなんとかできる算段ができただけで十分ね」
夕暮れが完全に沈み、夜の帳を知らせる月が地面を照らし、夜にも関わらず地面には影が生まれ――それが始まりの鐘を告げる合図だった。
周りに居た黒服の一人が時先輩に話しかけると、時先輩の表情が次第に緊張を帯びたものに変わっていく。
話を終えた時先輩が、チラッと俺と先生に目線を移す。それに二人で頷き返し、準備が既に完了してることを伝える。
「神風くん、先生、作戦が始まったわ。進路が確保できたようだから、私たちも突入するわよ」
「はい」
「わかった」
返事をしてから、地下帝国へ渡るための大樹に近づいて手をつける。先生も、時先輩も、黒服たちも全員が手を添わす。
今更ながら、心臓の鼓動が張り裂けそうなほど速いことを自覚した。
落ち着け。俺がやるべきことはそんなに多いわけじゃない。
第一に、凛と話し合うこと。
第二目的である先生を兎風 彗と会わせるところまでは、第一目標を達成すれば可能だ。
たった数秒で思い描けるほどに簡単で、シンプルなこと。
「みんな、行くわよ」
いつの間にか完全に準備が整ったらしい時先輩が合図をする。
考えることは後回しだ。
深呼吸して心を落ち着かせる。
体に夜の肌寒い空気が満ちて、鼓動が止まらなかった心臓が次第に落ち着きを取り戻していく。
凛とあったらきっと冷静じゃいられない。言葉なんて今考えても意味がないんだ。
よし!
決意すると同時に時先輩が地下帝国への扉を開ける呪文を唱える。
「……転送!」
大樹が光に包まれて、そこからさらに光が拡散、収束し、次第にそれは広がり大樹を覆いつくす。
光だけが視界を支配し始めた頃、意識と体が浮遊する感覚。
ふわふわと、体が風船のように飛びあがりそうになり……そして――。
……
光と闇が明滅を繰り返す混濁した意識が次第に思考の深海から浮上する。
寝起きのように頭が働かないが目を擦りながら開いた。
意識が次第にはっきりとして、胃に車酔いにも似た気持ち悪いさが蔓延する。
「この転送は初めてだけど案外キツイのね……」
「……あー……気持ち悪い……」
「なんだ、だらしないな。これくらいなんでもないだろうに」
時先輩と俺はダルげな顔をしているのに、先生は事もなげな顔をしていた。
「いやこれけっこう辛いですよ……胃の中がぐちゃぐちゃというかかき混ぜられたみたいに気色悪いです」
「私も同じね……本音を言えばしばらく動きたくないけどとっとと行きましょう。私たちとは別の部隊が既に道を確保してるからそれに追従ね。それに、話なら走りながらでもできるでしょう。皆さん、案内宜しく」
時先輩が告げると黒服たちは頷いて一刻の猶予もないと告げるように走りだした。それに続いて時先輩と俺と先生も駆けだす。
特に妨害もなく、町中から聞こえてくる喧騒から離れたわき道を駆け抜ける。
どうやら、本当にこちら側に味方してくれている黒服が進路を確保してくれているようだ。
「現状を手短に説明するわ」
「どうなってるんです?」
「今はこっちが優勢みたいね。兎風 凛がでてきていないのが一番の要因で、彼女がでてきたら――」
「こちら側が壊滅する……ってことですね」
「そういうことになるわね」
凛の観測者能力、リライトは強力無比で、絶対的な神のような力だ。
ブラックボックスの影響下にある場所であればいつでも、どこでも発動できて相手、または自分の存在を書き換えることができる。
書き換える相手に例外はなく、どんな人であろうと物であろうと正確に狙った改変が行えることが一番の強みだろう。
言ってみれば、凛の身体機能が秀でているのもリライトによる改変によるものだし、俺が口も足も動けなくなったのもリライトによるものだ。しかし、相手の存在を消す、またはワープさせるなど――優衣や愛瑠さんを地下帝国にそのまま送り返したように、強力な力を使う場合は相手に触れていなければならないという制約もある。
俺はブラックボックスに触れたことにより、リライトの能力が異次元の力を持っていることを理解している。
もし、凛が動きだせばこの作戦は一気にひっくり返されるだろう。文字通り、盤上の駒を全てひっくり返すことができる。
味方にとっては居ればそれだけで心強い一騎当千の力を保持し、相手にとっては存在するだけで圧力を与えられる存在。
それなのに、なぜそうしないのか。それだけが疑問だった。
「……凛はなぜでてこないんでしょう? 兎風 彗だって命令してると思うんですが」
「確かなことは言えないけど……きっとあなたを待ってるのよ」
「俺を? 勝手に結論をだして飛び出していったのに?」
それが本当なら本当に勝手な奴だ。
「えぇ。きっと、あれだけで決着がついたなんて彼女自身も思ってないのよ。一方的に捲くし立てることには意味がない、ただの自己満足であることを知っているから、本当に決着をつけようとしているんだと思うわ」
「……」
言葉を受けて沈黙していると、目的地についたらしく、黒服たちが立ち止まり、周囲を警戒しながら時先輩に合図する。
「ここみたいね」
「……刑務所、か。ブラックボックスがある場所はやはり変わっていないんだな」
先生が懐かしむように構造物を見上げる。
刑務所と呼ばれたそれは、刑務所らしい脱獄阻止専用の壁があるわけでもなく、ただ地下へ続く階段があるだけだった。
周囲を確認し終えた黒服たちが続々と暗闇に続く階段に吸い込まれるように入っていく。
俺たちもそれを追いかけた。
……
明度が薄く、暗い階段を急ぎながら降りる。
地下一階、二階、と降りていくたびに明度が少しずつ薄くなっていっている。
刑務所と呼ばれたこの場所には来たことがないはずなのに、本能は知っているようだ。
どこがどうなっているのかが理解できる。風のように階段を突っ切る中、時先輩が突然立ち止まって口を開く。
何事か? と俺と先生も立ち止まる。
「私はそろそろ別行動をとらせてもらうわ。この階層にお姉ちゃんがいるはずだから」
「ここに愛瑠さんと優衣が……二人の救出をお願いします」
「俺からも頼む。大切な教え子だしな」
「言われるまでもないわ。このために、私は地下帝国の王政反対派に協力したんだから。むしろそっちが頑張ってね。私がお姉ちゃんたちを救ったって、あなたたちがしっかりやってくれないと作戦成功とは口が裂けても言えないんだから」
時先輩は、あくまで厳しく言い放つ。
「わかってます。絶対に……皆が笑顔になれる未来、掴みとって見せます!」
決意を示すように大声をあげると、時先輩が嬉しそうに笑みを浮かべた。
「お願いするわね。私は、この先できること、残ってないだろうし……でも、できるだけ急いで駆けつけるわよ。私が止めてもきっとお姉ちゃんはそうするだろうし」
愛瑠さんなら駆けつけてくれるに違いない。
「あはは、そうですね」
「あんまりこんなことで時間もとってられないわ……また無事に会いましょう」
「はい!」
時先輩は廊下のように続く薄暗い空間に姿を消す。あの先に、愛瑠さんと優衣がいるんだ。
会いにいきたい、そんな誘惑が頭の端で浮かぶ。
しかし、俺が気にするべきなのはそちらではなく、凛のことだ。
迷いを振り切るために、息を吸って勢いをつけて言う。
「じゃあ、行きましょうか、先生!」
「ああ……」
少し歯切れの悪い先生は、迷いを振り切るように頭を横に振って底なしの暗闇のように為っている階段を見据えて呟いた。
「もうすぐだ。久しぶりに会うことになる……待ってろよ……彗」
決意、迷いが複雑に絡み合った言葉は小さな空間で反響し、薄暗い闇に溶けていった。
安全用に設置してある手すりを掴みつつ、階段を二段、三段と飛ばしながら降りていく。
暗いから続く階段が見づらいが、多少の無茶は承知の上だ。
時先輩がいなくなったことにより、前を行く黒服が教えてくれた情報によれば、凛と兎風 彗はブラックボックスの祭壇と呼ばれる場所に居るらしい。他の味方は凛を刺激しないためにブラックボックスの祭壇には入っていないようで、次第に黒服に身を包んだ大人を見かけるようになっていった。
「よっ」
手すりを頼りにした強引な階段飛ばしをしてコンクリートの地面に着地する。先生もそれなりの年をとっているはずなのに、俺に追従して階段を飛び降りる。
「っと……ふぅ……。神風」
「なんですか?」
「この先にブラックボックスの祭壇がある。準備はいいな?」
どこか遠くを見つめるように、正面から続く廊下を見据える先生。
兎風 彗に対して思いを馳せているのだろうか。
「準備なんてとっくに完了してますよ。とっとと行って終わらせましょう。過去から続く連鎖の糸を……」
「確認は不要だったな」
しばらく無言で、目の前に見えるコンクリートの通路を抜けると、次は砂が地面を覆いつくす通路。
そこをしばらく進むと、誰かを待つようにブラックボックスの祭壇へ続く、鉄の扉が大きな口を開けていた。
周りには黒服が待機しており、いつでも突入できるようにしているようだ。手持ち無沙汰で警戒を解いているものもいる。
扉の奥の様子は外から窺うことができず、無を表すような黒に染まっており、中に何が待っているのか、把握できない。
しかし、この暗闇に対しては直感で、これがどんな力から作られたものなのかを把握していた。
ブラックボックスが与えてくれた記憶様々だ。
「……これ、観測者の力が感じられますね」
「やっぱりか。俺たちの世代では中が見えないなんてことなかったしな」
「それに、たぶん俺と先生しかこの扉は通れないと思います。俺たち以外の人は弾くように設定してあるみたいですね」
「元から彗も兎風も決着をつけようってことだな……」
「その通りみたいですね。行きます」
一歩、二歩と足を踏みだして徐々に、光のない真っ暗な世界に侵入する。
時間にしてみればたった数秒のことだが、心臓は破裂しそうなほど鼓動を鳴らしていた。
一つ前は何もできずに失敗することしかできなかったが、戻ってきたぞ、凛。
ここでやっとお前と正面きってちゃんと話せる。
虚無の空間を抜けると、そこには洞窟のような空洞が広がっており、その中央に目が惹かれた。
まさしく祭壇と呼ぶに相応しいものがそこに鎮座していたからだ。
質素な石削り、接着してを繰り返して作られた祭壇はそこにあるだけで強烈な存在感を放つ。しかし、目を惹く要因はそれだけじゃない。
祭壇の頂上に二人の人影と黒い箱が居たからだ。
頂上の二人――兎風 凛と兎風 彗。
兎風 彗は、先生を見てあざ笑うかのように失笑した。目からは限りない憎悪のようなものが感じ取れて背筋が震えてしまう。
これほどまでに威圧的な男だったか、兎風 彗は。
「ふん、地下帝国を脱走した輩がよく戻ってこれたものだ。今更なんのようだ?」
問いかけに、先生は迷うそぶりも見せず一歩踏みだして相手との距離を縮める。
「俺たちから始まった因縁に決着をつけるために、ここまで来たぞ、彗」
「ふんっ因縁……? 何が因縁だ……決着だ……。そんなものに意味はない。凛、侵入者を排除しろ」
「……はい」
兎風 彗の指令を受けて、感情を一切感じさせない凛が懐から果物ナイフを取り出して、広げつつ、祭壇の階段を一歩、また一歩と降り始める。
それと同時に強烈な威圧感が辺りを席捲し始める。まるで蛇に睨まれた蛙になったようで、手足の自由が効き難い。
いつの間にか体内から吹き出た汗が、頬を伝って砂の地面に一滴垂れる。
怖いんじゃない、覚悟がないわけでもない。ただ、単純に凛の決意とも取れる威圧感そのものが、本能に働きかけてきているのだ。
「やはり最初から話し合いはできないか……神風、確か俺を呼んだのは百合風と夜風だと言ったな?」
「……」
ここで呑まれてはいけない、なのに、人は圧倒的な存在を前にして、震えてしまう、竦んでしまう。
思考の糸が途中でハサミで切られた糸のように寸断される。
ダメだ、迷うな、威圧に圧倒されるな。
自意識が威圧という沼から這い出る間際。
「おい、神風、神風!」
「えっ?」
声に、手を引っ張られた感覚に自意識がしっかりと覚醒する。
俺は完全に呑まれていたというのに、先生は凛から発せられている威圧感に耐えているのか、受けていないのか平然としていた。
「兎風 凛がでてきた以上、止められるのは親友であるお前だけだ。できるな?」
念を押すように、先生は語気を強める。
「お前ができなければ、俺がここにきた意味もなくなる。深呼吸して、しっかりと前を見ろ!」
言われた通りに、深呼吸する。
それだけのことで、頭がクリーンになって威圧感に支配されかけていた本能を取り戻し始める。
凛は着実に迫ってきているが、焦ることはないんだ。本能が抗うからって抵抗できないわけじゃない。
「すぅ……はぁ……」
よし。
頭から雑念とも取れる威圧感に恐怖した心を持ち直し、準備が完了した時、既に凛は階段から降りて、砂の地面と接地していた。
もし、凛が本格的に俺を潰そうとするならリライトの能力を使って即座に接敵して手に持っている果物ナイフを心臓に一突き刺せばたちどころに俺は絶命するだろう。
凛はもしかしたら気づいていないのか、無意識で力を使うことを躊躇っているのかもしれない――観測者の能力を使わないということは、凛は心の中で、未だ迷っているということに他ならないはずだ。
自分の心に整理をつけて確固たる意思を得ても人は、些細なことで、傷つき、悩み、苦悩する。
迷いを持ってない人間なんてどこにも居ない。だから、迷いという心の隙間に俺の心と言葉も伝わるはず。
いや、そこにしか俺の言葉は届かない。それほどまでに、凛は決意を固めていることが、接近してくる凛の目から感じられた。
焦ることなく、ゆっくりと俺は凛に語りかけ始めた。
「凛、俺はお前に最初に謝っておくことがあるな……俺はお前の辛さに気づいてあげられなかった。
例え、みんなと――親友と遊んだ日々を忘れたとしても、それだけは気づくべきだったのに……お前が悩んでるときに傍に居てやれなくて……。
あんなにも、もがき苦しんで苦悩していたのに、何度繰り返しても察することができなくって……」
「……」
「そんな言葉で凛を躊躇わせられると思っているのか。浅ましい……友情などッ! 凛、聞く耳持つなよ」
兎風 彗が祭壇の頂上から静かに告げた。
彼にとって友情というものは忌み嫌うものの最たるものなのだろう。
兎風 彗の言葉すらもう耳に入っていないのか、凛はただ黙々と無表情の仮面を張り付かせて進んできており、距離はあと十五メートル程度まで近づいていた。
あんな謝罪の言葉で、凛の心が動くわけがないとわかっていたが、少しくらい動揺する素振りか、気づかなかったことに対して怒る素振りくらい見せてくれてもいいんじゃないか。
そんな風に思うのも威圧感から体と心が解き放たれてきたからだ。活力を取り戻した本能は、考える間も自分自身に与えずに言葉を選び出す。
「俺はさ。みんなと一緒に居られる未来が欲しい。
凛、愛瑠さん、優衣、谷風――みんながみんな、時には笑いあったり、哀しみあったり、苦しみあったり……今となっては当たり前にすらできないことを現実にしたい。
お前が協力してくれたらそれができる!
もしかしたらもう戻れない、そんな風にお前のことだから思ってるかもしれないけどな! 人は一箇所から戻れないなんてことはないんだ。どんな道に突き進んで、それが行き止まりでもまた引き戻せばいい。
お前が戻るためなら優衣も、愛瑠さんも、親友のみんなが協力してくれる!」
必死の問いかけにも凛はピクリともせずに距離を詰め続ける。距離はおおよそ五メートル。
あとたった数歩で凛は目的を達成してしまう。俺は焦らなければいけないはずなのに、時間は妙に緩やかに過ぎ行くようだった。
「凛、みんなお前を心配してる。戻ってきて欲しいと思ってる。前の時間遡行でもそうだった。
愛瑠さんと優衣は俺にお前を託して、この時間まで送り届けてくれた! もし……凛一人で解決できない問題があるのなら、俺たちがなんとなする! してみせる!
だから、凛――!」
たった数歩の距離は縮まり、凛はその手で持った果物ナイフを突きだす。
恐怖心はある……でも、ここで目を瞑ったりするわけにはいかない!
「父親の呪縛から覚めてくれ……! お前は俺たちの仲間で、大切な親友だから、助けたいって、やろうとしてることが間違ってるって言わせてくれよ!」
「……私は、私の意志でここにいる」
凛は静かに呟いて、ナイフを突きだした。
誰もが息を呑むような刹那の時間。
最後の言葉に凛は何か感じ取ってくれたのか、突きだしたナイフは心臓に届きそうになる直前少々遅くなりそして――。
「おらぁッ!」
甲高く、それなのに男らしい口調が右隣から耳を刺激し、今まさに心臓を貫こうとしていたナイフは宙高く弾き飛ばされて、地面との衝突に砂を撒き散らした。
凛は彼女たちが来たことに対して驚き、
「嘘……そんな……」
と言って後ずさる。
ああ、来てくれたんだな……。
自然と笑みが浮かんできてしまう。どんな状況であろうとも、掛け値なしに信じることができる彼女たちを振り返るまでもなく、呼ぶ。掛け替えのない親友たち名を。
「優衣、愛瑠さん」
二人は俺の両隣に並ぶ。盗み見た二人の横顔には、自嘲気味な笑顔があった。
手放しに喜べる状況ではないが、それでも会えたことに感謝するような微笑み。
「間一髪、だったわね」
「まったく、核も無茶するぜ。もっと自分の命は大切にしろよな」
「一番最初に行動を起こした優衣にそれを言われたらおしまいね。 核くん」
「ははっ……まったくですね」
「おいおい、久しぶりにあったってーのに、ひでーな!」
「うんうん、まったくだ」
ん? あれ……最後だけ聞きなれない男の声が混ざってきた。俺の知る限り、こんなところに来れるはずがない者の声帯だ。
そいつはいつの間にか愛瑠さんの隣で仁王立ちして、頭を上下に反復運動させていた。
呆れてものも言えないが突っ込まざるを得ないらしい。
「はぁ……なんでお前はここにいるんだよ。谷風」
「お前、ここ数日、何かこそこそと動いてただろ? んで、俺がトイレ行った時、未風先輩が俺を足止めしようとしてたのが分かったからな……そのあと、あとをつけさせてもらった」
じゃりっと砂を踏み潰す音が聞こえて、後ろを振り向きながら言う。
「つけられてたみたいですよ。時先輩」
目的である愛瑠さんを救出したというのに非難の篭った眼差しを俺に向ける時先輩が居た。
「いつの間にかついてきたらしいわ」
「というかどこであったんですか?」
純粋に疑問として気になるところだ。なにせ、時先輩と別れたのはついさっきで、しかも刑務所に入ってからなのだから、谷風は黒服たちの目を掻い潜ってここまで来たことになる。
緊張感のあった雰囲気が一転して和気藹々していたからだろう。
兎風 彗が空気を一転させるために、空気を振動させるほどの大声を張り上げて、凛に命令する。
「何をしている、凛! なぜ動かない! 命令したはずだ! 侵入者を駆除しろ!」
「……あ……」
命令に、呆然とした意識を凛は反射的に取り戻し、立ち上がった。
しかしそれだけだ。凛は動こうとしない。
凛を説得しきるならこのチャンスしかないだろう。きっと今なら話を聞いてくれる。
「うるせー声だな……」
愚痴を言う谷風だが、構っていられる場合でもない。実際、優衣や愛瑠さんが来たおかげで凛の決意にさらなる淀みが生まれたものの、未だに凛は兎風 彗の命令を聞いて立ち上がった。
もう一押し……声をかけ続ける!
「お前のために優衣も愛瑠さんも谷風も……みんなが集まってくれた。きっとお前の問題に力を貸してくれる。凛の目的はそれじゃ達せられないか?」
唇を噛んで凛は俯き、ここにきて初めて言葉を発した。
「まだ……まだなの……。私はみんなと一緒にいられる天国を奪ってしまった……。だからみんなと、一緒にいられない……!」
凛は地面に落ちているナイフを拾い上げて、俺だけを見つめる。優衣が隣でまた動こうとするが、俺はそれを手で制して一歩前へでる。
あいつが本当に何を望んでこんなことをしているのか、きっと誰にもわからない。俺にだって簡単に理解できることじゃない……でも、あいつはこう思ってしまったんだ。
「一緒にいられない? それが本当の理由でもない、目的でもないだろ。凛が本当に思っていることは――」
「やめて……言わないで! 私はそんなこと望んでない! 絶対に違う、私は誰かに――」
元々、凛の心は優衣と愛瑠さんがでてきた時点で崩れ落ちていたのだろう。
だからか、これまで鉄のように揺らがなかった心を取り乱した凛が、俺と同時に告げる。
長年シコリとして彼女の中で根付いてきた一つの真実で、父親の言いなりになっていた本当の理由を、目的を。
「認めて欲しいってことだろ!」
「認めて欲しくない!」
相反する二つの言葉は地下帝国中を駆け抜けたのではないか、そんな風にすら思えるほどクリアに通った。
思いがけない理由に、誰もが目を白黒させるなか、凛だけがナイフを力なく地面に落とした。
否定するように首を振る凛に対して、俺はさらに追い討ちするように口を紡いだ。
「お前は小さい頃からずっと父親に存在を否定されてきた……だから、誰かに必要とされたかった。認めて欲しかった……だから今、こんなことをしているんじゃないのか」
「違う……違う……違う……ッ!」
「王になる教育をされてきたお前は厳しい教育から存在を否定されることが多かった。一度お前は俺に言ったことがあっただろう。
なんで大人は嫌な目で私を見るんだろうって。
あの時からじゃないのか、お前が存在を認めて欲しいと思ったのは。だから、お前は存在を認めて欲しくて何度も何度も、兎風 彗の命令を聞いてきたんだろ!
……これまでのお前の行動を見ておかしいと思ってたんだ。リライトの能力で片付けようと思えばどんな障害だってお前は片付けられたはずなのにそれをしなかった。
能力を障害排除のために使うこともなく、兎風 彗の言いなりになり続けた。
やっと理解したよ、お前は誰かに認めて欲しかったんだって……元の前提条件が間違ってたんだ。お前は自らの意思で最初からそこに居た。父親の呪縛なんてなかったんだ。
でも、お前を取り巻く悩みや苦悩は尽きることがなくて……自分を追い詰めていって、お前は自分自身が枷た呪縛に囚われていたんだろう。俺たちとの関係を俺との話し合いで終了させて、ブラックボックスの生贄になって消える……そうすれば全て終わったことになる。
自身で枷た呪縛もそれで終わることになる……でもな、ふざけるなよ。
俺たちはお前と居てなんの後悔もしたこともなかった。ずっと凛のことを心配し続けてきた。
だから……自身への呪縛を終わりにしていいんだ。お前の存在を肯定してくれる親友がここにはいっぱいる」
優衣、愛瑠さん、谷風を見回すと、それぞれが笑顔で、頷いてくれる。
凛は王になる存在として幼い頃からずっと教育されてきた。その過程で存在を否定されることが多く、いつしか自分でも気づかないうちに自分が存在する意義を他人に依存し始めた。
最初は親友に対して依存していたんだろうが、それも俺が地上に行くという事象が起きたことで一時的に崩壊した。
塞ぎこんでいた心は優衣と愛瑠さんのおかげで持ち直したものの、凛に残った心のしこりは存在する意義というもので、天秤のように揺らめく心で親友も大事、家族である父親も大事な凛は、存在する理由を容易に感じられる父親の指令に傾けさせて、仕舞いには自分自身に枷として存在の意義を求めるまでになってしまった。
任務さえ遂行していれば人は自分を見てくれる。肯定してくれる。認めてくれる……そのはずだと、自ら思っていってしまったのかもしれない。
でも、心の支えであった親友を、自らの手で消していくのは凛に過度な心のストレスを与えてしまうことでもあって……気づいた時には既に親友は周りからいなくなって、なおさら、自分は引き返せない道に来てしまったんじゃないか、と思ってずっと塞ぎこんでいたんじゃないだろうか。
力の抜けた凛は、脳で整理ができないのか独白する。
「……存在の肯定……。そう、かもしれないね……。私は誰かに認めて欲しかったのかな……。お父さんの命令に従ってれば、その時だけは私は自分の存在を肯定できた……。ここに居てもいいんだって思えた。美風ちゃんやふーかちゃん、核くん、谷風くん……みんなと遊んでいる時以上に、自分を肯定することができて、嬉しかった。
いつしか、私は私自身のために命令を聞くようになっていった。それで苦悩して勝手に絶望してるんだからどんくさいよね……でも、終わりにできるのかな……?
私はみんなに酷いことしてきたのに、肯定してもらえるの……?
私は、いらない子じゃないの……?」
最後の疑問は凛にとって本当に漏れ出た偽りない言葉。真に心からでた言葉に感じられた。
何度も疑問を浮かべる凛に、しっかりとした口調で目を見つめて俺なりの答えを告げる。
「当然だろ。お前は俺たちの大切な友達で、親友なんだからな、いらない子なわけがない……そうですよね愛瑠さん、優衣」
「ふふっ当然でしょう。トリちゃん、あなたの本当の悩み気づいてあげられなくてごめんね。長い付き合いで知ってたはずなのにね、辛い目にあっていることに……次からはちゃんと相談してね。なんて言ったって私たちはあなたの親友だから」
「愛瑠さんよりあたしのほうがわりーよ……。付き合い長いんだからさ、凛も一言くらい相談してくれ。私もほら、察するとかできるタイプじゃねーし。存在の意義なんて小難しいこと考えずにあたしたちは楽しく遊べればそれで楽しかったはずだろ? なーんにも気にする必要ねーって」
愛瑠さんも優衣も静かに語りかけながら凛に近づき、彼女を柔らかく抱きしめた。
「うっぁぁ……ごめん……なさい……私、こそ……勝手なことばっかりして……こんなことになって……ぅうぅぅわあぁぁぁぁん」
凛は言葉を漏らしつつも、耐え切れなくなって涙を流し、地面を濡らす。
存在の肯定。
それは存在を否定されてきた凛にとって唯一無二の言葉だったのかもしれない。俺たちは元から凛の存在は無条件で認めているのに、言葉にしなくてもわかるようなことでも言葉にしなければ伝わらない。
凛はひたすらに不器用だった。人付き合いが苦手だということでもないのに、言葉、口にしなかっただけですれ違ってこんなことにまでなってしまった。
俺だって今の今まで凛の目的に気づけなかった。兎風 彗に逆らえない、それは間違なかったのだがそれはあくまで手段であり、自らの存在の肯定という目的ではなかった。
どこか遠巻きに三人を見ていたからだろう。先生が疑問を投げかけてくる。
「お前はいかないのか?」
「いや……俺は、いけないんですよ。あの場には……行くわけにはいかないんです」
寂しいけれど、俺はあの楽園に入れる資格をもう持っていないのだから。
「……?」
先生は疑問符を浮かべるが、それよりも先ほどから祭壇の頂上で信じられない光景を見ているように目を見開いている兎風 彗のほうをどうにかしないといけないはずだ。
「それより先生、兎風 彗をお願いします。彼と先生……二人の過去の因縁、断ち切ってください。俺も少しですけどその手伝いはさせてもらいます。約束どおり、百合風さんと夜風さんに言われたことを果たすために」
俺は初代観測者である百合風さんと夜風さんに、先生と兎風 彗を会わせるという約束をしていた。それと猛一つ、彼らの因縁を断ち切るためにしなければいけないことがある。
先生はブラックボックスの祭壇で凛を見つめ、憎悪を剥きだしにしている兎風 彗を辛そうに見上げて呟いた。
「ああ……わかっているさ。今度は俺たちの番だ」
兎風 彗はその呟きが聞こえてか、否か、我に帰って怒号を飛ばす。
「何をやっている! 凛! 侵入者を排除しろと言ったはずだ!」
しかし、凛にその言葉は届かない。元から凛は逆らえないから命令に従っていたわけではないのだから、心を揺さぶれるはずもない。
動揺するように声を荒げる兎風 彗に対してはっきりとした口調で告げる。
「無駄だ。あなたの声はもう凛に届かない。これで、チェックメイト……あなたにも逃げ場はありません」
本来、俺たちの目的は兎風 彗を捕縛することだ。最大の懸案事項であり、最大戦力の凛を止めたことで作戦は成功していると思ってもいい。
でもそれは全体的に見た反王政側の目的であって、俺の最終着地点ではない。
先生が二歩踏み出して、兎風 彗に言った。
「彗」
呼ばれた兎風 彗は先生を睨みつけて、言葉を吐き捨てる。
「地下帝国を捨てて一度去ったような男が今更なんだ……? お前と話すようなことなど、ない」
「そうだな、もうここに戻ってくるようなことはないと思ってたさ……。でも、俺は呼ばれたから来ただけだ」
「……呼ばれただと……? そのブラックボックスが生み出した小僧にか……!」
そう言いながら兎風 彗は俺に視線を移す。彼の目には幾多の絶望が感じられ、どれほどに辛い人生を歩んできたのか象徴しているようだった。
俺は首を左右に振って、否定した。
「俺じゃないですよ。先生を呼んだのは――百合風さんと夜風さんです」
二人の名前を聞いた兎風 彗の目が一瞬、見開かれるがすぐにそれは引っ込み、さらなる憎悪が空気を震撼させるように放たれる。我慢ならないと言った風に、兎風 彗はブラックボックスの祭壇から降りながら言葉を交える。
「百合風と夜風……? 二人は死んだ……もういない! お前が殺したんだろうが……まだまだ未来があったにも関わらず……! ブラックボックスは死者まで愚弄するか……! 悪魔め……ッ!」
激しく荒い口調に対して、先生も反論する。
「それは違うんだ、彗……。百合風も夜風も……地下帝国の未来を考えてブラックボックスの生贄になったんだよ……!」
「そんな話今更言われても信じられるか! 夜風はもっと生きたいと言って泣いていたんだぞ……そんなあいつが好き好んでブラックボックスの生贄なんかに為りたがるものか! 百合風だってそうじゃないのか! お前が止めていれば俺たちはッ!」
「あいつらは俺の言葉なんて聞かなかった! 俺が止めてても意味がないんだよ……!」
「戯言を……お前さえ、お前さえ二人を止めていれば……こんなことにもならなかったはずだ!」
どちらも譲れないものがあるから、どちらも主張を曲げることがない。今の彼らは油と水だ。
同じ土俵に立たせれば混ざり合うことなく、反発する。決して意気投合することがない。
しかし、それを接着できる者がここには居る。先生と兎風 彗の絶望に苛まれた過去を払拭できるであろう存在が。
兎風 彗と先生の平行線の言い争いを聞きながら、ブラックボックスを見上げた。
「ブラックボックス――いや、百合風さん、夜風さん、約束通り二人を連れてきましたよ。あとは、あなたたちに託します!」
張り上げた声と同時に、快活で聞いているものを元気にするような声と素っ気無いながらも、柔らかで静かな声が、空間に轟く。
"まっかせなさーい!"
"……百合風五月蝿い"
"あはは、ごめんごめん。久しぶりに外にでれると思ったら、さ"
"……時間ないから、はやく"
"はいはいっと"
声がなくなったかと思うと、彼女たちは空中に突然現れて、兎風 彗と先生の間に割ってはいるようにふわふわと降り立ち、百合風さんは先生と、夜風さんは兎風 彗と対面した。
百合風さんは俺の記憶通り、昔の姿そのままで降り立つ。動きまわりやすそうに切りそろえられたショートカットは快活さを感じさせる。反対に、夜風さんは動きにくそうな、腰までかかるロングヘアーを垂らしてる。
先生も兎風 彗も唖然としてその光景を見ていた。
「ゆりか……ぜ……?」
「や、かぜ……?」
本能から思わず漏れ出たであろう一言に対して、百合風さんは不機嫌さを露にする。
「ちょっと、三十年くらいあってないだけで私のこと忘れちゃった? 薄情だなぁ~」
「……三十年はちょっと、じゃない。とっても長い時間」
「わ、わかってるわよ! 久しぶりに会ったから少し言ってみたかったの。人と話すのすら久しぶりだからね……」
そう言って唖然とする先生に百合風さんは笑顔を振りまく。しかし、対照的に夜風さんは顔を曇らせていた。
先生が百合風さんをきっちりと認識し、問いかける。
「本当に、百合風なのか……今までどこに……いや、お前は既に死んだはず、だよな……?」
問いかけに、百合風さんはあっけらかんと答える。
「うん、その通り。私は既に死んだ、人の輪の中に居てはいけない存在……だけど、あなたの知ってる通りの百合風さんだよ」
先生が口を開きかけるが、そこに兎風 彗の怒りを孕んだ声が鼓膜を刺激する。
「違う……夜風は死んだはずだ……そのはずなんだッ! なのになぜそこにいる! 夜風の姿を模って俺の目の前に現れるなっ!」
「……落ち着いて。私はここにいる。いまは、彗の前にいる」
「その声で語りかけるな! 夜風も百合風も生きていたなら俺は――」
頭を沸騰させていた怒りの糸が切れたように、兎風 彗は膝からかくんと倒れて、目の前までやってきていた夜風さんを見つめる。
「――僕は……なんのためにこんなことをしていたんだ……。全てを犠牲にしてやってきたのに、それなのに、なんで今更……ッ!」
行き場のない怒り、哀しみを吐き出す地下帝国の王、兎風 彗はどこか哀れにすら見えた。
そんな兎風 彗に、夜風さんは対等な目線になるように、砂がつくのも構わずに膝を地面につけて、悲しそうな笑みを浮かべる。
「……あなたは今までとても頑張った。私たちが勝手に消えたのに、それでも地下帝国をどうにかしようと、豊かにしようとした。必死に為すべきことを為そうとするあなたは格好良かったよ、彗」
そう言って夜風さんは兎風 彗をか細い腕で抱きしめた。
だが、頑なに兎風 彗は夜風さんの存在を認めようとはしない。
夜風さんに抵抗しようとするが、どうにも力が入らないらしく、夜風さんの抱擁を解くことはできないようだった。
「違う、違う、夜風はそんなこと言わない、僕を怨んでいるはずなんだ……! 夜風を助けられなかった無力な僕を……ッ!」
「……怨んでなんかない。私は、私自身でブラックボックスの生贄になったから……」
「そんなはずない。夜風は生きたいって最後に言ってたんだ……僕が守ってあげなきゃいけなかったのに……!」
次第に、兎風 彗の言葉の端々が掠れて、目が潤みを増す。
夜風さんは目を閉じて、赤子に語りかけるようにゆっくりと述べる。
「ごめんね、私の言葉がずっとあなたを縛り続けてきてきたんだね。でもありがとう。私が死んでからも地下帝国を、私の大好きな故郷を守ってくれて、本当にありがとう」
夜風さんが口にしたのは謝罪とお礼の言葉だった。
それは思いがけないものだったのか、兎風 彗はついに限界を迎えて一滴の涙を零した。
「……あ……うっぐっ……や、かぜ……」
「……少ししか時間はないけれど、今は泣いて。そうすれば、あなたは前に進めるはずだから」
一度零した涙は決壊したダムのように留まるところを知らず、流れ続ける。
夜風さんはさらにぎゅっと兎風 彗を抱きしめる。
それを見守る百合風さんと先生は暖かみを感じる笑みで微笑んでいた。
「夜風の話、聞いてもらえてよかった。もしかしたら拒絶されるかもって思ってたから」
「本当に、よかった。彗も前に進めるんだな……でも、百合風、お前たちには時間がないんだよな?」
「うん、その通りだよ。私たちがここにいられるのは、ブラックボックスのおかげだからね。それに、まだやるべきことがあるからね。
あ、もしかしてずっと一緒に居られなくて寂しい?」
「当たり前だろ。何年お前のことを引きずってると思ってんだ」
「……うん、そうだよね、ごめんね。でも、私はあなたにありがとうを伝えにきたんだ」
「俺はお前の行動を逃げ道にしていただけだ……地下帝国からも逃げて、お礼を言われるようなことなんて、何一つ、ない」
「そんなことないよ。確かに地下帝国からは逃げたかもしれないけど、また戻ってきてくれたじゃない。私はそれが嬉しいの。それに、私の変わりに困った人をいーっぱい助けたんでしょ? それが逃げ道だとしても……良いことしてたんだから胸張って!
私の変わりに色々な人を助けてくれて、ありがとうね」
「……ああ」
「あれ、泣いてるの?」
「悪いかよ……」
「ううん、全然」
先生は、百合風さんからの言葉を受けて、左手を顔に当てて涙を落としていた。百合風さんはそれを愛おしそうに、寂しく見つめていた。
あの二人もどうやらしっかりと問題を解決したみたいだな……。
これであと残った問題は――全ての元凶にして、願いを叶えてきた黒い箱ブラックボックスだ。
……
しばらくの間、涙を流していた凛、兎風 彗、先生を待ったあと、ブラックボックスの祭壇に全員であがる。
「核くん、ブラックボックスは……どうするの?」
ブラックボックスとの開口一番、口を開いたのは隣に居た凛だった。先ほどまで泣いていたが、今はそれを感じさせないはきはきとした口調。
「……こいつはもう、ここに居ちゃいけない。たくさんの哀しみを生み出しすぎた……だから、壊す。それが――」」
「少しいいか」
言葉に割ってはいる形で、兎風 彗は、一歩踏み出して全員を見渡しながら言う。地下帝国の王としての威厳を感じさせる風貌を未だしているが、夜風さんと出会ったことにより憑き物が落ちたように清々しい顔をしていた。
「ブラックボックスを壊されては困る。あれは地下帝国の繁栄を築いてきたものだ。もう、地下帝国にはブラックボックスしか拠り所がない。ブラックボックスがなくなってしまえば、地下帝国はさらに衰退の一歩を辿ってしまうことになる。王として、そんなことは容認できない」
「そう言うと思ってました。あなたはあくまで地下帝国側の人間で、地下帝国の繁栄を第一に優先している……それなら、ブラックボックスに頼るということも終わらせるべきなんです」
「それは無理というものだな……地下帝国はブラックボックスに依存しすぎた。もう、ブラックボックスとは離れられない存在だ。ブラックボックスのエネルギー問題については重々承知している。だから――凛を生贄にしてしまおうとしたわけだからな……」
「お父さん……」
「安心しろ、凛。もうお前を生贄にする気はない。俺が生贄になる、観測者としての能力は低い故にそれほど時間は稼げないだろうがな……」
「ブラックボックスの問題点はそこなんですよ。あなたが生贄になったとしても、いずれエネルギーは尽きる、そしてまた生贄が生まれ……哀しみの連鎖を紡ぎだす。何度時を変えようとも、地下帝国がブラックボックスに頼っている限りそれは逃れられないことでしょう?
また、あなたたち初代観測者のような人や、俺たちみたいな悲劇に彩られた人が現れることになる。その連鎖を終わらせるためにも、ブラックボックスを壊さなければいけないんです」
「そこまで言うからには、何か意見があるのか? ブラックボックスがなくても地下帝国が生きていくための代案が」
「……それはあなた自身の心に埋まっているものですよ。遠い昔、あなたたちは言ってたじゃないですか。地下帝国を変えるって……それを今から実戦して欲しいんです」
兎風 彗の目が見開かれる。先生も同じようにしているが、百合風さんと夜風さんだけは笑顔で俺の言葉を肯定していた。
「馬鹿げたことを……そんなこと無理に決まっている。昔考えていたものなど、世間を知らない子供が考えた戯言だ。あんなものに真実味はない。俺は王だ。地下帝国の民をたった一縷の望み程度で危険に晒すわけにはいかない」
「でも、やってもらわなければならいなんですよ――」
先ほど、兎風 彗に割り込まれた言葉を口にする。
「――ブラックボックスはもう、限界なんですから……」
「限界……? エネルギー問題のことなら――」
「いえ、そういう限界じゃないんですよ。ブラックボックスは自分の意思で気付いてしまったんですよ」
「待って、そこからは私たちから説明させて」
「……任せて」
俺が説明しようとしたところで、夜風さんと百合風さんが名乗りをあげる。
二人とも長年ブラックボックスの中に居た存在だ。ブラックボックスのことに関しては俺より適任、か。
「わかりました。お任せします」
「ん、ありがと」
百合風さんと夜風さんはブラックボックスの隣まで移動して全員を見渡す。
みんなが注視していることに満足したのか、咳払いする。
「こほん」
「……いいから進めて」
「どうして百合風と夜風が説明する必要があるんだ……?」
先生が素朴な疑問を口にする。ブラックボックスから生まれたブラックボックスの分身のような俺を差し置いて、なぜ百合風さんと夜風さんが説明するのか。
実際、事情がわからない俺以外の人たちはぽかーんとしていた。
百合風さんは、「ああ」と呟いて納得したように頷いた。
「そっか。まだ説明してなかったね。今の私たちはブラックボックスの分身っていうのかな、そういう存在なんだ。ブラックボックスに長いこといてさ、ブラックボックスの意思もわかるから、それで説明しようって、ね」
「……その通り。それで、話すを戻すとブラックボックスは自身の消滅を望んでいる」
「自身の消滅、だと……? どういうことだ……?」
「言葉通りの意味だよ、彗。ブラックボックスは長い間、人の願いを叶えすぎた……楽しいことも、嬉しいことも、哀しいことも叶えてきた。でも、ふとブラックボックスは気付いたんだ。自分の叶えた願いで歓喜している人は極少数だけど、哀しんでる人のほうが多いっていうことに」
「……だから、自分の存在をブラックボックスは消したいと思って、何個かの手段を用意した」
「手段……もし、多少なりとも意図的に起こったものだとしたら、もしかして、ブラックボックスの暴走も……」
「愛瑠ちゃん、正解。今回のブラックボックスの暴走は、ブラックボックスが意図的に起こしたものだよ。ブラックボックスが死ぬにはエネルギーの枯渇による使用不能状態、またはブラックボックス自身が損傷し、復元不可能なくらいまで粉々にされることっていうのがあってね」
「ん、じゃあ私が殴ればブラックボックスはぶっ壊れるのか?」
話を聞いていた優衣が、軽く拳を構えながら疑問を口にする。
「……それも正解。だけど、もっと確実な方法がある」
「凛の能力か?」
先生がふと口にする言葉に、百合風さんが頷く。
「リライト……この能力はね、ブラックボックスの死にたいって願望が作りだした能力であり、ブラックボックスにとって毒なんだ」
「私の、能力が……?」
「……そう。あなたの能力はブラックボックスが確実に死ぬには必要な能力。絶対に失ってはいけないものだった」
「しかし、それならどうしてブラックボックスは自ら死を選ばなかった? 毒を与えることができるなら、自分にも毒を打ち込むことはできるだろう?」
兎風 彗がここまでの話を聞いて、当然の疑問を口にする。
「……それはできない。ブラックボックスは自ら死を選ぶことはない、選ぶことはできない」
「なに……? それはおかしいだろう。ブラックボックスは死を望んでいると言ったはずだ。それなら自分で自分を殺すことも可能じゃないのか」
「ブラックボックスは誰かに望まれている限り、その願いを叶えたいと思う……そんな倫理観をブラックボックスは長年培ってきたの。ブラックボックスの存在意義ってなんだかわかる?」
百合風さんの質問に対して、押し黙る。これはきっと人の身でわかる答えじゃない。だが、それが分かる者がいたとすれば……それは同じ境遇を味わったものだけだ。
「願いを……」
凛が思いついたように言葉を述べる。
「願いを叶えることだと思います。ブラックボックスにとっては人の願いを叶えること自体が存在意義、だった……違いますか?」
「違わないよ。凛ちゃんの言ったとおり、ブラックボックスの存在意義は人の願いを叶えることなんだ。哀しみを生み続けていると分かっていても、死ぬわけにはいかなかった。それだけが、存在意義なんだから」
「そうか。ブラックボックスは自分で自身を殺せないけど外的要因に殺してもらうことで、自身の消滅を為そうとしたんですね?」
愛瑠さんの言葉を、百合風さんが肯定する。
「うん。矛盾を抱えつつも、やっぱり死にたいって願望があったんだろうね。ブラックボックスに……。
私たちがここにいる目的はブラックボックスを死なすこと、だから彗に認めてもらうのが一番なんだけど……」
「……認めることはできない?」
百合風さんも夜風さんも、兎風 彗を見て答えを求めるが、口にだされたそれは、やはり王としての答えだった。
「何度問われようとも認めることはできない。ブラックボックスが死ねば、現在地下帝国が日本に優位として誇っている時間遡行がなくなり、外交手段も殆どなくなってしまう。最後の拠り所がブラックボックスしかないのだ……」
「さっき話した要因もなんだけど、まだブラックボックスを壊す必要性のある要因があるんだ。
ブラックボックス自体が実際、限界なのよ。いつの間にか生じてしまった人を苦しみと人の願いを叶えたい心が相反して大変なことが起きるかもしれないのよ……ずっと時間遡行を繰り返すことになったり、ね」
「そうなのか……いや、しかし……問題を先送りにできるなら、そうしないと……」
「……いや、彗。案外どうにかなるかもしれないぞ」
先生がひらめいたように、手をぽんっと叩く。
「ようはブラックボックスに頼らず、地下帝国が自立していければいいんだろう?」
「その通りだが……言うほど簡単なものではないぞ?」
「そうだな……この実現には時間もかかるし、何度も壁は立ちはだかるだろう。だが……お前が地下帝国の王なら、可能だ。
昔俺たち探検部で考えていたことを実行する。地下帝国を日本の属国にする」
「なっ……そんなこと無理に決まっているだろう。日本に何の得もない、要望が跳ねられるのは明確だ」
「それでもなんとかするしかないだろ。ブラックボックスはもう限界だと言ってる……それに、もう俺たちみたいな悲劇を繰り返したくはない。お前もそうだろう」
「ぐっ、その通りだが……しかし……俺には地下帝国の全てを守る義務も責任もある。生半可なもので最後の拠り所をなくすわけにはいかない。それにブラックボックスがなくなってしまえば、今のブラックボックスが行っている地下帝国の大気中の酸素の浄化から、木々たちも死ぬのではないか? そんなことになれば地下帝国は崩壊する」
「……心配は無用。ブラックボックスは死ぬといっても本当に死ぬわけじゃない。ただ、時間遡行する力がなくなるだけ。地下帝国の安全は保障する」
「夜風が言うならそうなんだろうが……乗り越える壁が大きすぎる。俺一人ではとても――」
「何言ってるんだよ、彗。俺も協力する。長年地上で暮らしてるからな……ある程度の情報はいつも仕入れていたし、人助けしてたせいか、少しばかり政界への力を持つ人間も知りえている。俺は逃げてしまったが、地下帝国を変えようといった約束を忘れてはいない」
「……地下帝国にその命を賭すことになるぞ。それでいいのか」
「構わないさ。俺はお前から逃げてしまったんだからそれくらい背負わせてくれ。それで許されるとも思っていないがな……」
「そうか、わかった。認めよう、ブラックボックスを破壊することを。もう一度確認させてくれ、ブラックボックスを破壊したら時間遡行ができなくなるだけで、地下帝国の根幹を成すブラックボックスの役割が消えるわけではないんだな?」
「大丈夫よ。安心して。あ、でも……」
「でも……? なんだ」
百合風さんが寂しそうな表情を浮かべる。夜風さんも似たようにしているところを見ると、ブラックボックスを消してしまったらどうなるのか、わかっているのだろう。
このまま言わないものと思っていたが、言ってしまうのだろうか……。
「観測者の能力は消えちゃうかな。その力とももうお別れってわけね。それも一応確認とっておきましょうか、観測者の能力は消えちゃうけど、それでいい? みんな」
百合風さんの確認に、観測者の各々は即答で答える。
「ま、しょうがないわ。ね、時」
「そうね……使ってて少し楽しい能力だったんだけど、仕方ないね」
「こんな力はいらないよな……ま、なくなったらなくなったでいいや」
「……核くんは、核くんはどうなるの?」
それぞれが、答えを出す中、凛だけは別のことを心配していた。どうやら、気付いてしまったらしい。
俺はブラックボックスから生み出された者。つまり、ブラックボックスが消えてしまえば――。
心で思うよりも早く、口が動いてしまう。
「俺は、ブラックボックスが消えてしまえば、消えることになるな」
「え……?」
信じられないことを聞いたように、凛は驚きを露にする。
愛瑠さんと優衣はこのことを知っていたのか、俯いてしまう。
凛は、はっとしたように意識を戻し、言葉を紡いだ。
「そんな、嘘、だよね、核くん……?」
「……その話は真実。でも、神風 核は大丈夫」
夜風さんが口を挟むように、食い気味に言った。
ちょっと待て、今なんて……?
「なーに呆けてるの神風くん。あなたは消えるなんて心配しなくていいよ。消えるのは私たちだから。
ね、夜風」
「……うん」
百合風さんと夜風さんが事もなげに言い放つ。
そうか、俺は消える必要はないのか。だったみんなと一緒に――って……え?
今、聞き捨てならない掛け合いが聞こえたぞ……? ブラックボックスが消えるのなら、ブラックボックスから作られた俺が消えるのは道理のはずだ。なのに、消えることがない?
「意外そうな顔してるわね。さっき言ったでしょ、ブラックボックスが消えても時間遡行ができなくなるだけ。あなたは別に消える必要がないのよ。ずっと、あなたたちは一緒……もうあなたたちの関係を切り裂くような要因もないしね」
「ちょっと待ってください。消える必要がないって……だって俺はブラックボックスに作られたんですよ? だったら」
「確かにあなたはブラックボックスから作られた人間よ。自分の意思で考えて、自分の意思で何が良いのか悪いのか判別できる、ただの人間だから……消える必要がないの」
「……あなたはもうブラックボックスの管理から外れて、一固体の人間として周囲に認められている……それに、ブラックボックスはあなたを消したくないって言ってる」
ふと、ブラックボックスを見上げる。目の前に存在し、顔色すら窺えない、俺の親とも言うべき黒い箱はただそこに鎮座している。
お父さんかお母さんかもわからないが、ブラックボックスは俺のことをしっかりと見ていてくれたらしい。
心がとても温かなものに染まっていくのがわかる。じんわりと広がるそれは、親との別れを惜しんでいるのか、生きられることを喜んでいるのか。
「よかったね! 核くん。またみんな一緒だよ!」
騒ぎ立てるように、凛は喜んだ。愛瑠さんと優衣も同様のようで、喜びを表情で表していた。
しかし、そんな中で何事も発言していなった奴が、やっと口を開いた。
「えーと、つまり……核はずっとこんままってことだよな?」
「いたのか、谷風」
今までだんまりとしていた谷風が、突然喋りだした。
「いたよ! なんの話してるかわかんねーけどとりあえずノリ的にいたんだよ!」
「ところで、お前はどうしてここまでこれたんだ? そんな簡単に来れるようなところじゃないはずだが」
「なんて言えばいいんだろうな……」
「……ストーカー」
「そうそう、核をストーカーしてたら……って未風先輩、人聞きの悪いこと言わないでくれ」
時先輩はどうやら、谷風がどうやってここまで来たのかを知っているらしい。
しかし、ストーカーとは……。
「ストーカーとか最低ね」
「まったくだ」
「もう、ダメだよ谷風くん、」
凛、愛瑠さん、優衣の三人からダメだしを食らう谷風。
「いやいや、凛はわかるけど、なんで見知らぬ人にまで罵倒食らってんの!? 俺! でも気持ちいい!」
谷風はこんな時でもやはり谷風だった。しかし、谷風のおかげで深刻な話し合いをしていた雰囲気がぱっと晴れやかになった。
しかし、気になる言葉もあった。当然といえば当然のことではあったんだが。
「谷風、お前この二人のことは覚えてないのか?」
そう言って愛瑠さんと優衣を指差す俺。
「カサくん、人を指差すものじゃないわ」
「まったくですよねー。核、その手をどけろ」
愛瑠さんが冗談めかして言うと、谷風は付き従うように指差した俺の手を跳ねた。
「知らない人だったんじゃないのかよ!?」
「そりゃ知らない人だが、こんな美人に指差す奴なんているかよ!」
「……はぁ……」
「なんだその露骨なため息は……!?」
「その、なんだ……。お前、記憶失っても変わらないよな……」
「は? 記憶……? お前のほうこそどうしたんだよ? 俺は記憶なんて――」
「……核くん。谷風くんの記憶を戻す?」
しばらく手を口に当てて考え事をしていた凛が提案してくる。
「記憶が戻せるならそのほうがいいが、百合風さん、記憶とか戻しても大丈夫でしょうかね」
「ん~問題なーいと思うよ? ま、一時的に記憶の混乱は起きると思うけどね。ま、ブラックボックス壊しちゃったら観測者の能力もなくなっちゃうから記憶を復活させるとしたら今しかないかな」
「それじゃ決まりだな」
返答を聞くや否や、優衣が谷風の手を後ろから拘束して、動けないようにしていた。
「ってぇ!? あの、すいません、話していただけますか」
「抵抗するなよ。力加減ミスったら骨壊れるから」
「壊れるってなんだ!? 折れるじゃないのかよ!」
「あんちゃん、静かにしてねーと骨ぶっ壊すぞ?」
耳に残るどすの効いた物言いに、谷風が押し黙る。膝ががくがく震えて、今にも倒れそうなのにそれすら許さない優衣は確実に鬼だ。
「戻すならとっとと戻してあげましょう。あんまり苦しみが増すのも可哀想だから」
愛瑠さんはわざと誇張した言い方をして、谷風の不安を煽る。とても愉快そうに微笑んでいる愛瑠さんはとても輝いて見えた。
「えっ!? 今から苦しむの!? そんな予告されても困るんだが! なぁ核! 助けてくれよ!」
「……すまん、お前を助けることはできないッ」
「そんなぁ!」
思わずこれから起こる出来事に目を背ける。
ここで記憶を取り戻すチャンスを失ってしまったらもう完全に元には戻れない……だから、耐えてくれ。
「核くん、戻す範囲は……時間遡行中も含めるの?」
「いや、含めなくていい。そうだな……始業式開始日までの記憶を戻したら大丈夫だろ」
「了解したよ。それじゃいっくよ、谷風くん」
「ええぇ!? 本当に何かするつもりなの!? 改造されてバッタにでもなんのか俺!」
「静かにしてろっつったろ」
「……わかりました」
凛が集中するように深呼吸してから目を閉じて、執拗に身体を拘束され続ける谷風に右手を向ける。
それは時間にしてはたった数秒のうちに終わった。
「んっ……」
何をしたのかは具体的に理解すらできないが、谷風が突然気を失ってくたっと力なく倒れかけるが、優衣が支えた。
凛も特に苦労はしていないのか、汗一つなくやることを終えていた。
それを見届けた百合風さんが、こほんと咳払いする。
「……それ、好きだね」
「なんか始まるぞって感じがするじゃない? それだけだからあんまり気にしないッ。
これでやることは全部やったかな。はー……会える時間もおしまいかー」
百合風さんのぽつりと漏らした本音の一言に先生は戸惑いながらも問い返す。
「……ブラックボックスがなくなったらお前たちはいなくなるのか? 折角また会えてみんな揃ったっていうのに」
「……約束だから」
「そうそう、私たちブラックボックスと約束したんだよね。私たちがブラックボックスのお願いを叶えるから、最後にあなたたちに会わせてって」
それを聞いた兎風 彗が納得いったように頷いて、言葉を紡いでいた。
「なるほど、そういうことか……。百合風も夜風も死んだことは確かだったが、なぜ突然現れたか理解できた」
「……うん。最後のお願いも叶えたからお別れ」
「……」
先生は俯いて、唇を噛んでいた。もう会えないことを悔しがっているのか、彼らは悲劇に見舞われて、数十年の時を経てやっと全ての束縛を断ち切って再開した。
それなのに、たった数十分の時間会っただけでお別れだ。淡白すぎる、哀しみに暮れるのも理解はできる。
しかし、そんな先生に対して百合風さんはあくまで照り輝く太陽のように笑顔を振りまく。
「なーにそんな暗い顔してるのよ! あんたたちが大変なのはこれからなんだからね? 今まで逃げ回った分、ちゃんと活躍してくれないと私、怒っちゃうからね?」
「……なんだよ、逃げ回ったことは攻めないんじゃなかったのか」
「それはそれ、これはこれ。私はあんたちにお別れを告げにきたんだからそんな調子じゃあ……困るのよ」
照り輝く太陽が、雲に隠されるように、百合風さんの笑顔から陰りが見える。
それを見て、先生はさらに唇を噛み、手を震えさせた。刹那の時間、無音が空気を支配する。
先生は一体何を考えているのだろうか、そんなものすら考える暇なく、先生は数秒で決心したように、表をあげた。
「ああ、わかってる。お前が何を考えてるのはしっかりと理解してるよ……。お前が暗い顔してちゃ、締まらないもんな。百合風、俺たちのために頑張ってくれてありがとうな」
礼を言われたことに驚いて、百合風さんは目を見開くが、すぐに目を細め、声を震えさせた。
「ううん、私のほうこそ、ありがとうね……あ、あれ……おかしいなっ……涙が……」
百合風さんの目からは、涙が天から振る雨のように流れてブラックボックスの祭壇にぴちょんと音を立てた。
「……泣かないって言ってたのに」
「うーるさいっあんただって泣いてるじゃないの」
「え……? 私が?」
疑問に思いつつも、夜風さんは自分の下まぶたをなぞる。
「あ、ほんとだ……」
「ふ、ふふっ、あはははは」
「……そんなにおかしい?」
「おかしいおかしい! だって泣かないって決めてたのにさ、いざ分かれるとなるとこんなに苦しいんだもん。生きててよかったーって思うよ」
「……私たちはもう死んでるけど」
「そういうことじゃないよっ」
「……わかってる。言ってみただけ」
その掛け合いを見て、感化されてしまったのか、兎風 彗が辛そうに顔をしかめながら聞く。
「夜風、百合風……二人が生き残る方法はないのか……?」
わずかな希望にすがりつきたい、そんなものを見る目で兎風 彗は夜風さんを見ていた。
「……ないし、私たちは生き残るつもりもない」
夜風さんはそんな兎風 彗に対して断言する。
「しかし、生きれることができるなら……」
「ダメよ、彗。私たちは既に死んだ人間。この世界にとってはもう異物の存在なの。死者が生者と相容れることはない……死者が生きてちゃ、生者の邪魔になっちゃうからさ。それに私たちがずっとこんな風にしているためには、ブラックボックスの力が居る。もう壊すって決めたでしょ」
「……わかった」
「やけに聞き分けがいいわね」
「夜風ができないって言うならそれは本当にできないことなんだろう。邪魔をするつもりもない……」
「夜風、夜風、ね。愛されてるわねー」
百合風さんがひゅーひゅーと夜風さんを煽る。しかし、夜風さんはそんなものは物ともせず、兎風 彗を正面にしっかりと見据えた。
「……彗、ありがとう。私は彗が大好き。一緒にいられないのは寂しいけれど……覚えてて、私たちの魂は風に帰っていつまでもあなたと一緒だから」
「絶対に忘れない、その言葉。夜風と少しで一緒に居られて、俺も――いや、僕も幸せだった」
夜風さんと兎風 彗が向き合って最後のお別れを済ませる中、百合風さんは面白くないと言った風に呟いた。
「あーあ、夜風はいいなぁ。あんな風に思っててくれる人が居て」
「俺じゃ、役不足か?」
先生が一歩でて、百合風さんと対面に並ぶ。
「んにゃ、そんなことはないよ。あんたいっつも気づくの遅いしさー。もっと鈍感なところ直さないとこれから大変よ。というかその外見で四十くらいなのよね……」
「よく言われる。こんなおじさんでもお前は大丈夫だったのか?」
「ぜーんぜん問題ないわね。私はあんたのこと好きなんだから外見なんて関係ないわよ。それに思ったより格好良くなってるしね。これから今までの人生で一番大変な時期だろうけど……頑張ってね。私も風に乗って応援してるから」
「それは嬉しいな……。
夜風も言ってたが風になるってどういうことだ?」
「説明、してなかったわね……ブラックボックスは元々、自然の産物でできたものなんだけど……どうやら壊すと大気に溶け込むようになってて、地球を取り巻く風みたいになるんだってさ。んで、私たちの魂もあの中にあるから一緒に風になれたらいいなって、みんなを見守れる風に……」
「そうか」
「そうかって何よ。随分と執心がないわねー。話せるのは最後なのよ?」
「それはそうなんだが……なんだろうな、話したいことはいっぱいあったのに、いざ話すとなると浮かんでこないもんだなって思ってさ」
「……うん。その通りね。私も同じだわ……。もっと話したいこと、共感したいこと……たくさんあったはずなのに、こうやって一緒に居られるだけで十分だって思えちゃう。
とっても幸せ者ね、私は」
「ははっ」
「笑うことないじゃないのよ」
「いや、変わらないなと思ってな」
「当たり前よ。私は百合風のままなんだから……どれだけ姿形が変わろうとあんたの傍にいるわよ」
「そんな恥ずかしいことよくも照れもなく言えるもんだ」
「ふっふーん、それが百合風さんクオリティ」
「……ほんと、会えてよかったよ、百合風」
「えぇ……」
それからしばらく、別れを惜しむ百合風さんと先生、夜風さんと兎風 彗を見守っていた。
彼らが歩んできた道は決して楽なものではなく、霧の深く険しい山岳のようなものに阻まれて苦難の連続だったけれど、それでも歩むことを彼らはやめることはなく。
どんな形であれ、道を進み続けて輝かしい未来に続くであろう世界を勝ち取った。
そんな彼らの、たった数分だけの穏やかな時間は誰も邪魔できなかった。
……
百合風さんと夜風さん、二人との別れを済ませた兎風 彗と先生は二人から離れて、こちらに戻ってくる。
百合風さんと夜風さんだけはブラックボックスに付き添うようにして、動こうとはせず、先ほどまでの別れを惜しむ姿を微塵も感じさせない口調で百合風さんは凛に言った。
「さて、それじゃあ凛ちゃん、お願いね」
「はい、わかりました」
緊張した面持ちで、凛は頷いて歩き、ブラックボックスへ手を触れる。
これで、全てが終わる。
迷い、苦しみ、時には傷つき、時には笑いあった、その全てが終わりを――いや、ここからやっと全部が始まる。俺たちはやっとスタートラインにたったばっかりだ。
だからこれは終わりじゃなくて、始まりだ。
「凛ちゃん、力抜いて……そんなに気負わなくていいからね」
「……ゆっくり、ゆっくり」
「……はい」
何をすべきか凛は観測者として知っているのだろう。目を閉じて意識を集中し始める。
「すぅ……はぁ……すぅ、はぁ……」
深呼吸して、最後の能力発動になるであろう瞬間を迎えた。
「リライト……」
呆気ないものだが、文字にすればたった四文字。
そうやって呟いただけで、ブラックボックスは大気に溶け込む砂のように、崩れ始める。同時に、百合風さんと夜風さんの体にも同じ現象が起きはじめた。
崩壊する体は意図も解さず、百合風さんと夜風さんは照り輝く太陽と闇夜に光り輝く月のように笑顔だった。
「これでお別れだね。今の観測者のみんな、ごめんね。私たちの世代が残したごたごたが君たちの世代で悪影響を及ぼした……謝っても意味ないけど……ごめん」
「百合風さん、謝らないでください。俺たちは別に過去を後悔なんてしてませんから、な?」
優衣、愛瑠さん、凛の横顔を見渡す。
「その通りだぜ。そのごたごたがなけりゃーあたしたちは出会ってなかったかもしれねーんだ。むしろ感謝してるくらいだ」
「えぇ、その通りね。もし……過去に何もなかったら私たちは絶対に出会ってなかった。親友になっていなかった……だから後悔なんてないわ」
「辛いことも悲しいこともあったけど……だからこそ今の私たちがいます。それは掛け替えのない宝物ですから……」
「そっか。うん、君たちがそういうならそうなんだろうね!」
「……ずっとみんな仲良くして」
何も示し合わせず、当たり前のように、俺たちは互いに呼吸を合わせた。
「「「「はい!」」」」
「よしよし。さて――」
時間はもう残されていない。百合風さんと夜風さんの体はもう半分以上が大気に溶け込んでいた。
「本当の本当にお別れだよ。もっと泣いてくれてもいいんじゃないの? お二人さん」
茶化すように百合風さんは、先生と兎風 彗に声を掛けていた。迷いを振り切ったのか、二人とも清々しい顔を百合風さんと夜風さんに向けている。
「泣くなと言ったのはお前だろ、百合風」
「まったくだ」
「だって泣いてくれないと締まらないじゃない?」
「そんな締まりがあってたまるか。俺たちは笑顔で百合風も夜風も見送るさ、な、彗」
「その通りだ……例え姿形が見えなくなっても風になってまた会いにきてくれるんだろう?」
「彗も自信家になったもんねぇ……ま、頑張って会いにいくわよ。その時は私たちをちゃんと感じてね」
「……感じてくれなかったら許さない」
「ちゃんとわかるさ……ずっと俺たちは親友だ。親友が近くにきたら嫌でもわかる」
「ふふっお願いね」
「……百合風、時間」
呟く夜風さんは、既に頭だけになっており次第にどこで喋っているのかすらも、わからなくなる。百合風さんも同様の進行速度で、そこから先は、一瞬で訪れた。
「みんな、ブラックボックスの願い叶えてくれて本当にありがとうね! じゃあまたどこかで会いましょ!」
「……楽しかった。ありがとう」
二人が同時に言葉を空気中に遺して、消え去る。
時同じくして、ブラックボックスも完全に大気に溶け込み、今までそこにあったのが嘘であるかのように空洞ができていた。
数多の人の人生を巻き込んだこの騒動はきっと、この事件を体験した人間しか知らないだろうし、語り継がれることはないし、語り継がれるべきものでもない。
誰も知らない間に終わって、誰も知らない間に、また次が始まるが、それでいいのだ。限られた人間しかしらないからこそ、俺たちにとって価値のあるものだった。
大気に走る風は流転し、幾多の場所に流れ行く。
人はそうやって前へ進み続けるだろう。
かくして、俺たちを巡るブラックボックスの因縁は終局を得た。
そして、時は移り変わり、一年後の春を迎える――。
last episode:Like the wind「END」
エピローグへ続く
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます