last episode:Like the wind 第10話「始まりの軌跡」

 last episode:Like the wind 第10話「始まりの軌跡」



 真っ白い白昼夢のようなまどろみのなか、頬をさらっと撫でる風が通り過ぎる。

 朦朧とした意識が次第に覚醒を促されて次第に失われていた世界の輪郭がしっかりとしたものに変わる。

 息をゆっくり吸うと鼻を刺激する甘い匂いが体中を満たした。

 上を向いて目をしっかりと開ける。

 そこは、絵の具をそのまま塗りたくったように青く澄み渡る晴天の空に、体に染み渡る暖かい風が吹いていた。

 地面に目を向けると、色とりどりの花に覆われていて、花の上に立っているいるのではないか、という錯覚を抱かせる。

 幻想。

 そう言い表すのがもっとも近しいかもしれないそんな、世界にいる。


「……」


 周囲を見渡しながら、あてどなく歩きだす。

 歩けど歩けど、世界の果てが見えない。ただ続くのは地面に執拗なまでに咲き誇る色とりどりの花と上空を支配するようにいる晴天の青空だ。

 遠くを見渡せば、それはどこか霞みかかった光景で、この場所が夢ではないかと錯覚させた。

 ――否、実際にここは夢。

 暖かい風に吹かれようとも花を散らさない花たちを見て、そう思った。

 花を踏み潰さないように、地面へ膝をついて、一輪の花を包み込むように手を添える。

 暖かい光が花を取り囲むように現れて、包み込んだ手から、脳に電撃が迸った。

 嬉しくて、怒って、哀しくて、楽しんで、そんな感情が複雑に入り乱れる。

 自分ではない感覚が自らを支配して、動かそうとする。

 目の奥に何かが見える。

 泡のように無限に現れて、小さなことで潰されていく。

 可能性の消去……そう例えるのが一番しっくりくる。

 本来、可能性とは、そういうものだ。人は誰でも無限の未来、可能性を持っている。

 しかし、可能性は些細な事象で変化して、別の道を辿る。

 いくらでも分岐する道。

 ふと、頭に誰かの可能性の情景が浮かぶ。


 馬のしっぽのように快活に揺れる髪に、人形のように整った顔立ちをして哀しみに暮れる少女が目の奥に映る。

 誰か、なんて一目瞭然だ、後姿であろうとも簡単に判別できる。

 一生忘れることのないであろう俺の親友の一人……。

 優衣と愛瑠さんから託された願いの根源で、俺がこれから助けなければならない少女の兎風 凛だ。

 哀しみの夕焼けに暮れる凛は、俺の知らない一面性を持った凛である。

 凛はいつも仮面を被っている。

 学校という表では、仮面を泥にはまるようにはめて、笑顔で振る舞い、太陽のような笑顔を絶えず振るまく。

 学業も友好関係もいたって良好で、誰かも好かれるクラスの人気者、これは知っている凛だ。

 誰にも見られることのない夜では光のない瞳でひたすら闇を見続ける孤独な人形をしている凛は俺の知りえない凛だ。

 何も感情のこもっていない目で兎風 彗の命令を待つ毎日に飽き飽きしている。自分で何も感じていないと、心を閉ざしているけれど心の奥底ではストレスがグラスを満たす赤ワインのように溜まる。

 ワインの配給者は兎風 彗だ。

 兎風 彗の命令でブラックボックスの強制ループを起こすために、ブラックボックスの鍵である俺を殺して、殺して、心が壊れるまで殺しまくった可能性を背負った凛が、目の奥にいた。哀しい目は既になにかを悟って振り切っている。

 何百回目かもわからない俺の殺害を引き受けた、地下帝国の人形である。

 自分が殺されるイメージが何度も頭の中に入ってくる。心をナイフで何回も、何回もズタボロにされる感覚に思わず手を口にあてる。

 イメージは膨大な罪となって、俺を蝕む。吐きだしそうになれど吐きださない。

 これは、吐きだしてはいけないことだ。凛を救うために必要なことを教えてくれている。

 この哀しい凛を生み出してしまったのは俺の罪だ。俺は凛をどうにかして救える立場にあったのに、これまで何もしてやれなかった。

 気づいてやれなかった。

 目を背けてはいけない。

 再び、目の奥に可能性が映し出される。

 俺をひたすらに殺すこと、それが壊れるためのトリガーだった。

 年端もいかない16歳の女の子が心から潰れてしまって人間でなくなってしまうには、十分なことだ。

 兎風 彗に再び俺を殺害することを凛は依頼される。グラスに満たされた赤ワインは静かに音をたてずに割れて零れた赤ワインが心に血のように広がっていく。

 振り切れてしまった。もうどうしようもならない。そんな感覚の陰鬱とした絶望が凛を蝕む。

 深い身を裂かれる絶望を知った凛は鋭い果物ナイフを手に、密かに誰にも気づかれず全てを終わらせるために行動を開始した。 

 最初に狙われたのはもっとも凛に近い優衣と愛瑠さんだ。

 観測者としては優秀な能力を持つ彼女たちだったが、観測者として最大級の能力であるリライトを前になすすべもなく、凛に殺害された。

 次に犠牲になったのは学校の生徒全て……一人の女の子ができることではないけれど、観測者の能力であるリライト能力があれば、そんな芸当も可能になってしまう。

 それが凛の手に入れた神の力――リライトと呼ばれる観測者の能力だった。

 全てを為そうと思えば為せてしまうような、力を持った凛が本当に絶望の淵に堕ちてしまったらどうなってしまうのか、そんな可能性が目の奥で繰り広げられる。

 優衣と愛瑠さん……そして生徒を全て殺害したあと凛は教室で俺に自殺を迫り、それを跳ね除けて教室からいなくなった凛を追いかけ、廊下にでた瞬間――殺された。

 それがこの可能性の顛末で、あり得たかも知れない未来の可能性だ。

 可能性を映しだす花から手をどけて、立ち上がり、正面を見据える。

 そこに突如として、現れたのは天を貫く巨大な大樹で、どこまでもこの世界を覆いつくすように枝が伸びていた。


「あれは……そうか。あれに、俺のなくなった記憶があるんだな」


 途方もないほどに天空へ伸びる大樹を見上げる。

 俺の記憶は小学生より以前のものが一切存在しない。優衣と愛瑠さんと凛と一緒に居たと思われる幼少期の記憶が頭の中にないのだ。

 記憶がないから、彼女たちが持っている友情、親友という概念と俺の親友という概念はもしかしたらまったく違う別ものなのかも、しれない。

 優衣は何度も俺の記憶について聞いていたけれど、ない、という根源的な矛盾点に気づかなかった。

 ブラックボックスが俺の記憶を変えた。消えた空白の矛盾点で俺が苦しまないように記憶の改変をしたのだ。

 過去に何があってどんな物語があったのか、俺は自分のことを全てを知りたい。

 全てを知った上で、未だ始まりの軌跡を知らない俺を払拭して、幼い頃からの親友の兎風 凛を救いたいと願う。

 なぜ、俺は観測者としての能力を持っていないのか、なぜ、地下世界の凛たちを知っているのに地上世界で暮らしていたのか、なぜ、凛はあそこまでに父親に逆らえないのか……。その全てを知りたい。

 俺の全てがあの絵の具を塗りたくったように青い空に届く大樹にある。そんな確信が体中をざわめかせる。

 これはブラックボックスが与えてくれた、チャンスなのかもしれないと勝手に解釈する。

 こんな芸当をできてしまうのはブラックボックス以外知りえないからだ。

 凛を本当に救うために、俺は全てを思い出して、何も知らなかった俺を捨て去る。

 でも何も恐れることはない。記憶を取り戻したとしても、俺は俺としていられると確信が持てる。何が変わるわけでもない重要なものを取り戻すんだから。

 満開で足元に咲き誇る可能性の入った花を避けながら歩きだす。

 少し歩けば、大樹はいつの間にか眼前に迫っていた。

 体中を暖かい風が撫でるように通り過ぎて、いつの間にか高鳴っていた鼓動が落ち着きを取り戻す。

 風にトンっと背中を微弱な力で押されたように感じた。


「ふぅ……よし、いこうか。俺の記憶へ……!」


 俺はどんな出来事があっても驚かない。幼少期の記憶がないということは、何かがあったはずなのだ。俺が地上世界にきて、地下世界のことを忘れた原因そのものが記憶の根底にあるはずだ。

 俺の始まりの軌跡の物語を読み解こう。

 壊れ物に触るように大樹へ触れる。その瞬間、空へ浮いてしまうのではないかと錯覚するほどの暖かいものが背中を駆け巡り、意識が光に飲み込まれて沈んだ。


 ……


 神風 核――名無しの赤子は突然として地下世界に光臨した。

 誰が生んだでもない、誰が捨てたのでもない。

 最初に発見したのは、兎風 彗であった。

 しかも、神風 核はブラックボックスの祭壇に無造作に置かれていた。まるでそこにあるのが自然であるかのように……。


「なんだ、これは……」


 兎風 彗は生まれたばかりだろう目を線のようにつむる赤子を見て、唇を噛んでブラックボックスを睨む。

 彗の人生を狂わせたのはブラックボックスであり、ブラックボックスを憎んでいる。

 以前の――三十年前に夜風や百合風たちと居た彗のままなら、ブラックボックスの使用を許可しなかっただろう。

 しかし、彗は知ってしまった。前の王から全てを受けついで地下帝国の王に君臨した際に見たのは地獄だった。

 政治界の派閥争い。

 覇権を握るための落としあい。

 日本政府との対談。

 地下帝国の飢餓。

 どれをとっても舐められるとすぐにでも更迭されてしまう。気丈であらなければ地下帝国は足の引っ張り合いですべてを失うだろう。

 ましてや、日本政府との完全共生などできるはずがなかった。

 そんなことをしても日本政府側に何も得がなく、むしろ地下帝国を養わなければならない立場になるのは日本のほうだ。

 子供の頃に己が抱いていた幻想は呆気なく壊された。

 現実は大いなる壁として立ちはだかって彗を蝕む。

 前の王もこうだったのだろうか。その前からの王も……全てが幻想を抱いて、そして為るべくして為る王ですべてを諦める。

 彗の目の前に、透明な四角い板のようなものが現れる。空中に浮遊するそれは一種のモニターのようなもので、ブラックボックスがそこに何かを表示させた。

 淡々と描かれる文字を見て、彗はまたブラックボックスを睨む。目が開きすぎて充血を起こしそうになる。


「なんなんだ、お前は……毎度毎度!」


 思わずブラックボックスに殴りかかろうと振りかぶるがすぐにとめる。いま、ここでこいつに八つ当たりでもして何か異常をきたせば地下帝国は立ち行かなくなる。

 本当は自分の運命を狂わせたブラックボックスを完膚なきまでに叩き潰したい。

 願いを叶えるなど幻想だ。こいつは悪魔だ。

 人の運命を弄ぶ魔王だ。

 壊したい。

 ブラックボックスを見るたびに彗の心は破壊の衝動に染まる。

 しかし、そんなことは王として許されない。

 地下帝国の民、全ての命を預かる王としてやってはならないことだ。

 ブラックボックスの望みを聞くことしか兎風 彗にはできない。

 ブラックボックスの願い。

 それは、この赤子――神風 核に世界を見せてやって欲しい、勝手な願いだった。


 ……


 ブラックボックスから生まれた赤子はブラックボックス自身に神風 核と名づけられた。

 地下帝国の身寄りのない子供達が集まる施設に入れられてそこで育ち、数年の時が過ぎた。

 神風 核は成長して、自らの足で立ち、自我が芽生え始めた五歳くらいには同じ施設の子供や教育係の大人に囲まれて平穏な日々を謳歌していた。

 ちょうどその頃である。

 親友となる少女、美風 優衣と初めて神風 核が出会ったのは。

 核が施設の外で子供たちと一緒に遊んでいると髪を頭の両端で束ねた少女――美風 優衣は笑顔で駆け寄ってきて言った。


「おーおもしろそうだなー! あたしもいっしょにあそんでいい?」


 どうやら遊んでくれる子供を捜していたようで、優衣の突然の問いかけに戸惑いながらも施設の子供たちは頷いた。

 優衣は近所の家に住んでいるらしく、毎日のように遊びにきていた。

 施設の子供たちの中で優衣はその天真爛漫さと行動力で確固たる地位を確立していった。所謂、ガキ大将のような子供たちの中心にいる立場である。

 あらゆる施設の子供に好かれて、優衣は毎日、泥にまみれるまで遊んだ。

 平和で、何もない一時の時間で、まだ観測者としての能力にも、責務にも目覚めてない時だった。

 そんなある日に……優衣は観測者の能力に目覚めた。

 観測者の能力に目覚める条件はブラックボックスに選ばれること。

 何を基準にして選抜しているか不明だが、ブラックボックスは自分の意思で自分の目を選ぶ。

 観測者とは目だ。ブラックボックスが動けない自分自身に地上世界を見せるため用意したブラックボックスの目と為る者。

 目となる責務を負う変わりではないが、観測者に選ばれると一つ能力を付与される。それは実用性があったり、ふざけたような能力であったり……そんなものの中で、美風 優衣が目覚めたのは、力の能力だ。

 何者にも束縛されない圧倒的な力だが、この能力が彼女に果てなく続くトラウマの影を落とすことになった。

 ブラックボックスの観測者に選ばれたとして王に呼ばれて観測者が何たるかを聞かされた次の日から――事件は起こる。

 人とは違う能力に目覚めた優衣はそれを自慢して回った。至るところでブラックボックスに選ばれたと言えば誰もが頭を垂れる。

 子供にとってそれはどれだけ愉快なことだっただろうか。子供や大人まで全ての人間が、自分を尊敬し、敬う。

 ブラックボックスは地下帝国では絶対の権力を持つ願望の箱で、それに従わないものは誰もいない。

 優衣は自分の力を"制御"すらできていないのに自分が神であるかのように振る舞い始めて、次第に優越感は大きく成長し、周りに被害を及ぼし始めた。

 "制御"が効かない力で、従わないものを脅して危害を加える。子供だからこそ為される行為の数々は次第に彼女のことを真に友達と思ってくれる人を減らす。

 あくる日に、優衣が意気揚々と一人の少女と一緒に施設にやってきた。


「こんにっちはー」


 入ってきた優衣を見ると施設の子供たちは子供ながらの不恰好さを垣間見せる愛想笑いで、優衣を招き入れる。

 優衣はいつの間にか子供たちの中心ではなく、疎外されて敬遠される立場になっていた。


「ん? あれ……おおーい! りーん! なにしてんだよーこっちこいってー」


 優衣は手を振りながら大声で、施設の入口に振り返る。

 そこには、馬のしっぽのように束ねた髪を左右に揺らして中を見る端整な人形のうな顔立ちをした少女が居た。

 目が合うとすぐに少女は顔を引っ込めて、またしばらくしてからひょっこりを顔をだす。

 核は何か気になって、少女に近づき、手を差し伸べた。


「あそばないの?」


 少女はぽかーんと口を開けて、驚きに目を見張りおずおずと手を差し出して核の手に乗せた。


「あ……あそぶ……」

「うん、あそぼう。きみ、なまえは?」

「とかぜ……りん……です」


 これが、兎風 凛と神風 核の最初の出会い。

 幾多もの運命を翻弄する二人の遭遇でも、この時点ではまだ歯車はハマらない。

 歯車の数が揃って、本格的に回りだすのは、もう少し先のこと。


 ……


 凛と核が会ってから数日が過ぎようとしていた。

 凛はあまり他人にあったことがあらず、人見知りで、未だに子供たちの間に溶け込めていないが、核とはちょくちょく話すようで、少しずつ氷で包まれた心を溶かしていっている。

 優衣は相変わらず力に溺れている子供で、いつも誰かを付き従えて行動している。

 優衣に意見をできるものは地下帝国には存在しない――もしそれができるとしたらそれは同じ観測者か――それを超越して地下帝国の枠組みから外れているものだけだ。

 今日も彼女は子分を従えて施設に自慢げにやってきた。


「こんっばんわー。お? なんかおもしろそうなのもってるな、かしてよ」

「えっ? あ……」


 小さな男の子が遊んでいたおもちゃを無理やり取って、優衣は遊び始める。

 それは最近輸入されてきた子供用のおもちゃ――小さな車のおもちゃで、最近誕生日を迎えた男の子が施設のお母さん的人にプレゼントされた大切なおもちゃだった。

 さすがに無理やり奪ったことに、核も見かねて優衣に言葉をかける。


「ゆい、それそいつのたいせつなもの、なんだ。かえしてやってよ」

「ん? なんだよ、さね。くちごたえするのか」

「……そのたいどみんなからきらわれてるってわかってよ」


 優衣は久しぶりに自分へ反抗してきた人間に、怒りを募らせた。

 子供はどこか自分で世界が回っていると錯覚してしまう。観測者の能力ですべてが自分の通りに動いているならなおさらだ。

 思わず優衣は観測者の力で手をだしてしまった。その巨大なまでの力で容赦なく、核に殴りかかった。


「うるさい! あたしに口答えするな!」


 鉄をも砕く鉄拳が核を吹き飛ばして、施設内のコンクリートに激突して、大きなへこみを作った。

 誰もがこれは現実で起こっていることなのか、と口をあんぐりと開けていた。

 コンクリートに激突した核は額から血を流し、重力に従って地面に仰向けに倒れて、そこから血が水溜まりのようにじんわり広がっていく。

 世界の時間が停止したように静寂が訪れる。

 一番最初に我に帰って動きだしたのは兎風 凛で、核に走って駆け寄って、体を揺すり始める。


「だ、だいじょうぶ! さねくん! さねくん! さねくん!」


 凛は目に涙を溜めながら核の名前を呼び続ける。


「あ……ああ……」


 優衣は、じんわりと広がる血を見てくたっと足を倒れさせた。

 観測者としての力を本格的に振るったのは、優衣にとってこれが初めてのことだった。大体の子供も大人も観測者と優衣を認識すれば逆らうものはいない。

 自分の手と倒れた核を見比べて優衣が、手を震わせる。自分の手に、血がべっとりとついてるような気持ち悪い感覚が優衣を支配する。

 息が荒くなってまともな思考ができなくなる。目から止め処なく溢れだしてくる。

 核が屍のように動かない。自分のしてしまったことへの罪が身を引き裂く。頭を抱えたくなっても体が全然動かない。


「……うっ……うぅ……うあぁぁぁぁぁぁ」

「お、おい! 大丈夫か! 核!」

「これは……酷いな。早く医者に連れていけ!」


 大人が駆け寄ってくるのを皮切りに、施設の子供たちが密閉された地下を震わすほどの大声で泣き始める。

 てんやわんやと大人が事態の解決に動くなか、優衣と凛はその場で泣き続けて、凛はただひたすらに核の名前を叫び続ける。優衣は自分のしでかしたことに涙と後悔を浮かべていた。

 

 ……


 優衣が核を殴り飛ばしてから数日後……額から血を流していたものの、核の容態はそこまで深刻なものではなく、現在は病院のベッドで絶対安静ではあるが入院している。

 暇をもてあましながら、核は窓の外を見る。

 吸い込まれそうになるほどに黒い天井は一人でいる心をさらに暗くさせる。


「……」


 一人で微妙な気分になってしまって目を背けて病室の扉を見つめているとふとした瞬間に、扉が横に少し開いた。


「……だれ?」


 扉の奥から恐る恐る馬のしっぽのような黒髪が現れて喋った。


「げ、げんきーかなー?」


 核にはその問いかけが誰のものかすぐにわかって名前を呼んだ。


「りん……だよね?」


 空気が静まりかえり、頭を手で恥ずかしそうに抑えながら兎風 凛が現れた。


「……あ、あはは」

「とつぜんきて、きょうは、どうしたの?」

「けがひどいってきいたからおともだちといっしょに、どうなのかなーってきたの。げんきそうでよかったっ!」

「おともだち? だれもほかにいないみたいだけど」


 凛は扉の奥で誰かを手招きだした。


「こっちだよー。なにしてるの?」

「あ、あたしいかないっていった!」


 拗ねている声に凛はほっぺを膨らませて、扉の奥に消えた。動くことが出来ず声を聞くことだけしかできない核は首を傾げて疑問を浮かべていた。


「むー、こっち!」

「ひ、ひっぱるなって! あ~!」


 勢いよく扉の奥から美風 優衣が緊張気味に現れる。凛はむすっとした顔で、優衣の手を離さないように手を握っていた。


「ゆい……」


 核は思わず、優衣を見た瞬間に名前を漏らす。その声から感じた声色は、優衣にとって罪悪感の塊であった。


「……あ、う……」

「あのね、さねくん」


 口を閉じて下を向いてしまう優衣をよそに、凛が口を開いた。


「さっきのうそなんだ。きたりゆうは、みかぜが、さねくんにあやまりたいっていうからきたの。でもけががしんぱいじゃなかったわけじゃないよ? ってあれれ? なにがうそだったんだろ」


 一人で首を傾げる凛をよそに、核の視線は優衣に注がれていた。


「う……」


 優衣はその視線に、睨まれた蛙のようになって体を硬直させる。謝りにきたのはいいものの、踏ん切りがつかなくて顔をあげることができない。

 自分がどれだけ酷いことをしたのか知っているから、素直に謝れない。素直に謝って許してもらえるのだろうか、もし許してもらえなかったら、と思うと動きだせない。

 凛は優衣の思いに気づいたのか否か、笑顔で優衣の背中を押した。

 驚いて凛を不安な目で見る。根拠もなく、凛は笑顔で頷いて、背中をぽんっと一叩きした。

 その一叩きに勇気がこもっていた気がして、優衣は一歩前へ踏みでて深呼吸をしてから核の目をしっかりと見つめた。

 自分の思っていることが伝わるように、自分の誠意が伝わるようにと込めて。


「さね、なぐってごめんなさい! さね、おこってるよな……あたし、どうかしてた。さねをなぐってからりんにいわれたんだ。かんそくしゃのちからはなにかをおとしめるためにつかうんじゃないって、りんのおとうさんは、かんそくしゃのちからはまもるためにあるっていってて、あたしりんのおとうさんがいったことってよくわからなかったけど……ぼうりょくっていうのかな……? をしてて……でもそれじゃだめだって、りんがおしえてくれたんだ。これからあたしはぼうりょくをぜったいにつかわない! だからあたしともういちどともだちになって!」


 これは子供にとって精一杯の謝罪で、本音が如実にでる誠の声だ。

 核は言葉がいまいち理解できなかったらしく、目をぱちくりさせてから、頷いた。


「もうぼくたちともだちでしょ? ゆいになぐれたのはいたかったけど……でもおこってないよ」

「ほん、とう?」


 優衣は目の端に涙を溜めながら核を上目遣いで見つめる。


「うん。ほんとう。でも、あんないたいのはもういやかな」


 優衣は笑顔になって核に駆け寄って手を握る。


「ぜったいにあたしはもうぼうりょくはふるわない! あたしのちからはまもるためにつかう! まだよくわかってないけど」

「あはは、なにそれ」

「あたしもわかんない! でもいいことだって!」

「よかったね、みかぜ」

「ありがとう。りんがいなかったらあたしあやまれてなかった! ほんとありがとう!」


 核の次は凛の手をとって優衣は遠慮なく縦にぶんぶんと振り回す。


「あたたた、いたいよみかぜ」

「あ……ごめん。あたしまた……」

「だいじょうぶ! ゆいはまだかんそくしゃにめざめたばっかりだから、ちからをこんとろーる? できてないだけなんだって」

「ふーん」

「わかってる?」

「わかってない!」

「ぼくもわからない」

「わたしもよくわかってないんだ。おとうさんがいうことむずかしすぎて」

「ふーんまあいいや、あたしはもうぼうりょくはふるわないぞー! おー!」


 優衣は手を天井に向けて誓いのように突き上げる。それに続いて、核と凛も同じことをする。


「おー!」

「おー!」

「がんっばるぞー!」

「おー!」

「おー!」

「もっとばりえーしょんだして!」

「やー!」

「とおー!」


 核と凛と優衣が、目を見合わせてなにがおかしかったのか唐突に笑いだした。


「あはははは、じゃあ、あたしたちはこれからしんゆう、な!」

「しん、ゆう?」


 疑問を浮かべる核に凛が自身気に答える。


「ともだちよりもーっともーっとふかいきずなでむすばれたひとのことなんだって、わたしたちにぴったり」

「おー、じゃあみんなしんゆう」

「うんうん、あたしたちはしんゆうだー!」

「おー!」

「おー!」


 こうして、子供たちの笑顔に満ちた声は、まだしばらくの間、暗くて閉塞的な地下世界に続いた。

 

 しかし、優衣の怪我に対する不安――トラウマがこれで消えたわけではなかった。

 木のように育まれた不安は、いつしか心の中で根を思いっきり伸ばして優衣を侵食していつしかトラウマとして、心に消えない傷跡を残していた。

 たったそれだけ、と思われるかもしれないが幼き頃に体験した罪深きものは、いくら時間がたとうとも、忘れることのできない罪悪感の塊である。

 それが、地上世界に行った観測者が起こした事件の発端になってしまった。

 そして、それが全ての始まりでもあった。


 ……


 核と凛と優衣が、出会ってからはやくも一年が過ぎた。

 優衣は核に謝ったあと、施設の子供たちや大人たちに核と凛と共に謝って回った。

 優衣が犯した過ちは、子供たちにすぐ許してもらえた。しかし、大人たちはそうもいかない。半年の時間が過ぎた頃にやっと優衣は普通に扱ってもらえるようになった。

 時間が、誰かの傷を癒した。

 核たちはいつも一緒にどこかで遊んでいた。

 いつも三人で、いつの間にか仲良し三人組みとまで言われるようになっていた。

 核はどこか物静かでテキパキと物事を言うどこか不思議な男の子。

 優衣はいつも目を爛々とさせて、どこへでもみんなを連れていく子供たちのリーダーのような存在。

 凛は少し遠慮がちだけど、ちゃんと言うべきところはしっかり言う芯の強い女の子。

 全員が少しずつ肉体的にも、精神的にも成長して行くなか、核たちは最後の親友となる女の子と出会う。

 彼女は、絶望の淵に降りていて光のない瞳で世界を見つめる。何も楽しいことなどない。何も感じることなどないように――無感情で誰にも興味を持たない。出会った当初はそんな女の子だった。

 閉塞的で漆黒のように暗い闇を物理的に形にしたような子供で、それはのちに親友となる――古風 愛瑠だった。


 ……


 神風 核、兎風 凛、美風 優衣が六歳を迎えた頃――施設にて、核たちがいつものように遊んでいると彼女は何かの訪れを表すかのように現れた。


「みんな、集まってくれー」


 施設の大人に促されて好き勝手に遊んでいた子供たちがざわざわと集まる。

 全員の視線は、召集した大人の隣にいる少女に釘付けになっていた。

 大人びたように見える長い髪に、焦点の合わない目で誰とも顔を合わせない無愛想な少女である。


「なんだなんだー?」


 集まる子供たちを掻き分けて核と凛と優衣が現れて異質な少女を見た。

 人が増えることが喜ばしいのか優衣が、体を左右に揺らす。


「おー! せんせーこのこ、あたらしいひとかー?」

「そうだぞー。それじゃあ、ほら、自己紹介してごらん」


 施設の大人は壊れものに触るように少女の背中を押した。

 少女は、ただ機械的に前へ一歩踏み出して感情の灯らない瞳で言った。


「ふるかぜ、あいる、よろしく」


 少女の自己紹介に、施設の子供たちは拍手で迎える。

 この施設では、新しく入った子には拍手でお迎えするという慣習があってそれに習った形だ。


「せんせーこのこ、なんさいだー?」


 優衣が人懐っこい笑みで、聞く。

 新しい子供が入っていても立ってもいられないらしい。


「優衣の一個年上だ。何歳かわかるかな~?」


 先生が謎かけの言葉を伝える。

 手で、今まで生まれてからの年数を数えてたっぷりと時間を取ったあと言った。


「じゃあ、ななさいだ!」

「正解だ。偉いぞー。それじゃあ、みんな仲良くしてやってくれよー」


 子供たちは元気よく、はーいと声をあげて、愛瑠に近寄りだす。

 もっとも速かったのは優衣で、愛瑠のことが異様に気になるらしく、とてとてと我慢できないように可愛らしく歩み寄る。


「よろしくー! なぁなぁ、なにしてあそぶ?」


 心の壁を感じさせず、心に入り込む優衣に対して、愛瑠はあくまで反応せず、勝手に歩みだしてしまう。


「……」

「……ちょっとちょっと! どこいくんだ!」

「……」


 愛瑠は、聞こえているだろうにあくまで歩みを止めるつもりはないらしく引き止める優衣を置いていく。

 さすがにむっとしたのか、優衣が駆け足で愛瑠に近寄って、肩を掴み自分に向かせる。


「むし、するのはよくないとおもう! ちょっとだけでいいからおはなししよーぜー」


 歩みよろうとする優衣に、愛瑠は尖った氷のような視線を浴びせる。

 優衣は、その視線に思わず刺されたような気がして言葉を発するのをやめてしまう。


「……もう近寄らないで。わたしひとりでいいから」


 引き止めていた手は自然と肩から外れていた。愛瑠はそれに満足したようで、隅っこにいって、感情の灯らない瞳で天井を見つめ始めた。

 まるで、天国にいる何かを見るように……。


 ……


「へんなこだよなー、なんでだれともあそばないんだろー? みんなであそんだほうがぜったいにたのしいしいいこともいーっぱいあるのに!」


 優衣が五センチ大のボールを柔らかく遠投する。山なりに飛んだボールを核が捕って投げ返す。

 このキャッチボールは優衣の観測者能力を制御するための訓練で、核もそれに付き合っている形だが、話題はもっぱら今日入った少女の話だった。

 凛は同じ観測者として優衣に力加減を教えつつ、話題に参加する。


「みんなであそんだらたのしいーよねー。あっもうちょっと、ちからいれないように、くんれんしないといけないかも」

「まじかーあたしもっとがんばる、っぜ!」


 力を入れた言葉とは裏腹に、緩やかな山なりを描いてボールはすとんと地面に落ちた。

 核はころころ回るボールが来るのを待って優衣に言葉と共に投げ返す。


「あのこ、だれともいっしょにいたくないみたいだったけど……」

「そうだけどさーだからってだれともあそばないなんておもしろくないからーさねは、あのことあそびたくない?」


 優衣の質問に、核は思いっきり横へ首を振って否定を表現する。


「ううん、あそんでみたい。いろんなひとと、あそびたい」

「だよなー! んーなんだろ、あのこわーい、め、なんとかしたい」


 言葉のキャッチボールと物体のキャッチボールが交互に行われる。


「じゃあどうするの?」


 凛は手を顎に添えて可愛らしくうんうんと考えるように上下に顔を揺する。

 無言のうちに、ボールを捕る音だけが耳に深く残るようになっていく。

 それぞれが、何をどうすればいいか考える。

 必死に考えて脳を稼動させる。


「あっ!」


 最初にこの静寂を破ったのは優衣だった。捕まえたボールを地面に落っことして、爛漫な笑顔を浮かべる。


「みんなであそびにさそおう!」

「それさっきからずっといってるよ! どうやってさそおうかっておはなし!」


 凛がすかさず反応して、声を荒げる。

 優衣はそっかそうかーと言ってまた唸りだした。どうやら遊びに誘うということは考えているらしくても、遊べるまでの過程が想像できないらしい。


「むー……ぜったいにみんなであそんだほうがたのしいのになぁ……」

「そーだ!」


 名案が浮かんだとばかりに、凛が両手を胸の前で合わせて優衣と核を見据える。

 唸っていた核は、疑問符を浮かべている。


「どーしたの?」


 首を傾げて質問する核に対して、凛は嬉しそうに体を上下に運動させる。


「うーんとあのね! せんせーにきいてみようよ。せんせーなら、なんでわたしたちとあそばないかしってるかも!」

「おー! なるほどな! ぜんは、いそげだ! いっくぞー」

「ま、まってー!」

「まてー!」


 先行した優衣を追って凛と核が仲良く走りだす。

 ただ一人の少女と遊びたいがために、彼らは自分の全力を注いで閉鎖的なこの世界を駆け抜ける。

 彼らは意識していないけれど、一人の暗雲立ち込める心に、清らかな風を通そうと必死に頑張っていた。

 たった一人の未来の親友を救うために――。

 

 ……


 外から施設に戻ってきて、優衣はすぐに施設の先生に一秒でも速く駆け寄る。


「なーなー」

「どうしたのかな~? 優衣ちゃん」


 話しかけられた施設の先生は、膝を折り子供の目線でゆっくりと話す。誰と話す時でも一番大切なのは、相手の目線になって考えることである。

 それを実戦している子供を預かる先生として大切なことを知っている先生だ。


「あのね、あのね、えーと! なんだっけ!」

「はぁ……はぁ……ちょ、ちょっとゆい……はやす……ぎ……」

「はぁはぁ……そんなにいそぐこと、ないのに」


 遅れて核と凛が息を切らしてとやってくる。優衣は後ろを振り向いて興奮した様子で、凛に食いつく。


「あたしがはやーいのはがんばってるから! なぁなぁりん! なにきけばいいんだ?」


 せっつかれる凛は、胸に手をあて息を整えてから口を開けた。


「せんせーあのね。ふるかぜちゃんのことなんですけど」


 うんうんと施設の先生は凛の言葉に耳を傾ける。急がせることもなく、ゆっくりとその子に合わせた聞き方を行う。


「いつもひとりでいるからみんなであそべないかなーっておもってるの。せんせーはどうしたらいいとおもう?」

「ぼくもあのことあそびたい」


 全てを聞き終えたあとに先生はにっこりと微笑んで、凛たちの考えを肯定する。


「とってもいい考えね。あのね、古風ちゃんはとっても哀しいことがあってみんなと遊んでないの」

「かなしいこと?」

「そうよ、涙がでそうになるくらい哀しいことなの……」


 優衣は先生の言葉が今一理解できないらしく、唸ってから元気よく持論を展開した。


「なみだがでるってことはあたしみたいにくるしかったんだろうな……じゃあしんゆうをつくればいい! しんゆうはみんなをしあわせにしてくれるからあたしたちがふるかぜのしんゆうになる! それでみーんなしあわせ!」


 持論を聞いた先生は、優しく優衣のさらさらな髪を撫でる。くすぐったそうに優衣は目を細めて、先生の花のように優しい瞳を見つめる。


「親友か、とってもいいものね」

「うん! あたしとりんとさねは、しんゆう、なんだー。しんゆうがいればしあわせ」


 核も凛も優衣の言葉を肯定するように、ゆっくりと頷いて「しんゆうー」と手を合わせる。

 それを見た先生は、少し寂しそうな笑みを浮かべた。


「そう……親友か。とってもいいわね。でもね、優衣、核、凛」

「「「なぁーに?」」」


 可愛らしく首を傾げて先生の語りかける口調に耳を貸した。


「親友って宝石みたいに綺麗で美しい友情だけど、それを他人に押しつけちゃダメなの。親友っていうものは作るものじゃなくて、為るものだから」


 先生に言われた言葉に、何を言われたかわからないとばかりに頭の上に疑問符を浮かべる三人に先生が柔らかく微笑んでさらに言葉を付け加える。


「ふふ、ちょっとあなたたちには難しかったかもしれないわね。親友にはすぐに慣れないかもしれないけど、焦らず、ゆっくりすればきっと古風ちゃんは心を開いてくれるわ。そしたら、親友になれるかもしれない」

「よくわからないけど、わかった、かも」

「わたしもー」

「あたしもー」

「そう。諦めないで遊ぼうって言ってあげてね。そしたらきっと、あなたたちの思いは届くから」

「「「はーい!」」」


 明るく耳に残る返事を核と凛と優衣はあげる。

 思いは届くから。

 不思議と、その先生の言葉は核たちの心に澄み渡るように浸透した。

 押しつけるだけでは、人間は救えない。

 核たちは己のしたいこと……たった一人の過去に囚われた少女、古風 愛瑠の心に一歩ずつ押しつけることなく歩み寄ろうとする。

 子供ながらに、誰かの心に思いを届かせようと努力することを決意した。


 ……


 先生に助言をもらった次の日から、施設のみんなが遊び始めたお昼ごろに、核と凛と優衣は施設の隅っこでただひたすらに天井を眺める古風 愛瑠の元に集まって遊ぼう? と毎日、問いかけ続ける。

 無視をされても、何度も毎日懲りずに足を運び続けて自分たちがどれくらい古風 愛瑠と遊びたいか、を示し続ける。

 数日が過ぎた頃に、そろそろ鬱陶しくなってきてしまったのか古風 愛瑠がやっと無愛想な顔で口を開いた。


「……うるさい」


 古風 愛瑠の言葉に、核たちは驚きに目を瞬きも忘れるほどに開く。

 核たちが知っている限り、古風 愛瑠が彼らになんであれ言葉をかけたのは最初に施設へきた時以来だからだ。


「ごめん……」


 核が最初に謝って、言葉をさらに紡ぐ。


「でも、ぼくたちはふるかぜさんとあそびたいんだ。あそばない? ふるかぜさんはなにがいいの? ぼーるあそび? ほん、みんなでよむ?」

「……わたしのこと、ほっといて」


 見続ける天井から目を落として、光の灯らない冷ややかな瞳で屈託ない笑みで遊びに誘ってくる年下の子供を見る。

 しかし、この子たちは、そんな瞳を気にしない者たちだった。


「いやだね!」


 優衣は胸の前に、両手で拳を作って、元気満々とでもいうのか、ガッツポーズした。


「あたしはふるかぜとあそびたいんだ! ちょーっとだけでいいからあそぼうよ! きっとたのしいよ!」


 古風 愛瑠は、ため息をついて思考する。

 一体何が、彼らをここまで高めるのだろうか。自分なんて心が空洞で空っぽで……遊んでも楽しそうに見えないだろうに。

 ただ遊びたいだけ……なのだろうか。

 まぁ、一度くらいなら遊んでもいいだろう。それでつまらなかったら彼らも諦めてくれるはずと頭の中で、考えてから抑揚のない声で言った。


「……わかった。遊んだあげる」

「……」

「……?」


 ?今まで五月蝿かったのに、急に黙った核たちを見て、古風 愛瑠はちょこんと首を傾げる。

 核たちの目が次第に見開かれて、それと同時に口もあんぐりと大きく開かれる。

 核、凛、優衣がそれぞれの顔を見比べて無言で頬をつねりあってから、手を天に突き上げた!


「「「やったあああああああぁぁぁ!」」」


 古風 愛瑠が核たちの空気を震えるほどの声音に驚きを隠せないように目を見開いて後ろに後ずさる。

 どれほどまでに核たちが古風 愛瑠と遊ぶのを待ち望んでいたというのだろうか。

 無愛想で、無表情な古風 愛瑠は少しばかり胸の高鳴りを自然と覚えていた。もしかしたら、彼らなら鈍感で鉛のように鈍い自分の心を溶かしてくれるかもしれない。

 そんな予感がふつふつと暗雲漂っていた心に思いが届いて、心が澄み渡る気がした。


 ……


 核たちは、施設から飛びだして簡素な住宅街を大声で塗り替えながら歩く。

 暖かくもなく、寒くもなく、地上世界のように風の吹かない世界で……地下帝国という閉ざされた箱庭の世界で僅かな楽しみを見つけて遊ぶ。


「どこであそぼーか?」


 道路の端を四人並んで歩きながら、核が尋ねる。


「もういくとこはきまってる! あたしまえからいきたいところあったんだー ふるかぜさんがいたらだいじょうぶ!」


 優衣が、うきうきとした笑顔でいきたい場所に指差す。気づけば、そこは住宅街から少し離れた森林だった。

 森林へ入る扉のようにある手前の木に黄色いビニールテープで立ち入り禁止と書かれた赤文字がでかでかと張ってあるが、子供たちは気づかない。


「……ここはおとなのきょかがないとはいれないばしょのはずよ。わたしがいるからってはいれるばしょじゃない」


 呆れたように愛瑠が肩を下げて、言った。

 なんだ、この子たちは私と遊びたかったんじゃなくて、この森に入りたかっただけか……そう思った矢先に、愛瑠の心情を察したのか、そうでないのか……優衣が手を繋いでくる。


「あたしは、このばしょでふるかぜとあそびたい! だってよにんもいるんだからちがうことしてあそぼう! きっとこのばしょであそんだらふるかぜのふあん? もけしとぶ!」

「うん! あたらしいばしょであそぼー!」


 核が、優衣の言葉に同意する。凛は掛け声で「おー!」と短い手を天井に突き上げていた。


「はぁ……どうしてわたしあそぼうとおもっちゃったのかしら」


 手を顔にあてて、さらに呆れたような仕草を取るも、核たちは気にせず森林へ勝手に入り始める。


「みっちなるせーかいへー!」


 優衣はあくまで元気に、腕を振り回しながら。


「いけーいけー!」


 核はノリよく、手を振り上げながら。


「おーおー!」


 凛は手を天井に掲げながら進む。


「ちょ、ちょっとあなたたちかってにはいったらあぶないっていってるのに! もう!」


 愛瑠は自然と笑顔になって、先へ行く核たちを駆け足で追いかける。

 まるで手のかかる弟と妹みたいで、自分の妹のことを思いだしてしまう。

 手のかかる妹ではなかったけれど、守りたかった、最愛の妹だ。

 どこかその妹に姿が重なる彼らに――遊びを何度も断った私をいつも誘ってくれた彼らに何かを返そう。

 私はつまらない人間だけど、折角遊ぶのだから、両親を、妹を失ったどす黒い負の感情を抑える。古風 愛瑠は核たちの一歳年上のお姉ちゃん、今日だけでも頼れる姉になろう、そう振舞おうと決意した。

 心は未だに、絶望に染まっているけれど……世界は暗闇に満ちているように見えるけれども、どこかで今からでも真っ当に感情を表せるのではないかと期待に胸を膨らませる。

 私は、両親も、妹も失った。心に残ったのは一人ぼっちという思いだけ……でも、もしかしたら一人ぼっちじゃないのかもしれない。

 愛瑠は笑顔で何も恐れない彼らを見て、そう思った。

 

 ……


 高い木が鬱蒼と生い茂る森林の中を、核たちは歌を口ずさみながら歩き続ける。

 どこにいくか、当てもないけど、楽しいこと。


「あたしーたちはー」

「げんきーげんきーたいようのこー」

「すすめっすすめっ! かぜのようにー!」


 優衣と核は、道中で折れた木の枝を手にして振り回しながら進んでいる。凛は、愛瑠に手を繋いでもらって元気満々といった感じで、枯れ葉を一つ持って、核たちは歌を歌っていた。


「そのうたは、なにかしら?」


 先ほどとは打って変わって、暗い表情をしないように、失ったもののことを思い出さないようにして、愛瑠は話しかける。

 一歳も年下の子たちが自分と遊びたいと思ってくれたなら、それに答えるのが年上の義務であるとでも言うように精一杯お姉さんらしくする。

 明るく努める。それが例え仮面を被る行為だとしても、ずっと遊びに誘ってくれた子の子たちに報いなければならない。

 凛が愛瑠を見て、笑顔で告げる。


「これはねー。そらのうた、だよ」


 愛瑠は余所見をして、小枝に躓いてこけそうになる凛を支えながら、聞く。


「そらの、うた……? そらって、なにかしら」

「えーとねー。そらってゆうのは、どっかのせかいのてんじょうのあおいところー」

「天井……?」


 思わず愛瑠は真っ黒く薄気味悪い天井を見つめる。

 何も生み出さない、負の感情しか抱くことのできない空間は、凛のいうように青くなかった。


「そとには、あおいそらっていうのがひろがってるんだって、あと、あたたかーいかぜもあるってー、いってみたい、そとのせかい」

「うんー」

「いってみたいー」


 優衣と核が、凛に同意する。

 外の世界――地上世界の存在は地下帝国では公開されている情報ではあるが、子供たちの間では、地上世界という存在自体を知るものは少ない。

 子供たちに秘匿されているわけではないのだが、大人たちがそれほど教えたがらないのである。

 理由は、子供の頃に教えてしまうとどうしても地上世界へ行きたいと願望を抱くものが多く、外を見たいがために、地上へ続く門を通ろうと逮捕されてしまうからである。

 地下帝国の雰囲気は暗く、狭く、閉鎖的で人の心を暗くするが故に、地上世界の空や太陽や……風を求めて地上世界にいこうとするものがあとを絶たないのである。

 昔に、住人たちが結託して地上世界に行きたいと一揆を起こしたこともあるが、それも鎮圧されて全ての住人が刑務所へ入れられたことがある。

 そのような前例があるから住人たちはこの箱庭の中で、行き続ける。子供たちをできるだけ地上世界という楽園へ近づけないようにしていた。

 凛が、地上世界のことを知っているのは王族として、王の座を次ぐために外の世界の政治のことや地上世界のことを今は概念的に学んでいる最中で、それを核や優衣も凛から又聞きした形である。


「あおい、そらかぁ……あのてんじょうがあおいってことでいいの?」

「そうだよー? かぜっていうのは、すごーく! きもちいいんだってー」


 きらきらとした瞳で、愉快そうに凛が語る。

 地上世界には凛も行ったことはないけれど、情景は目に浮かぶようで、笑顔を垣間見せる。


「たいようっていうのがそらにあってね、あつーいけど、みんなをいかしてくれてるすっごいものなんだって! ぶらっくぼっくすみたい!」

「ぶらっくぼっくすみたい……か。きっとたいようっていうのはかみさまみたいなものなのね」


 愛瑠は、しばらく森林を歩く間に、凛に地上世界のことを聞いた。話を聞いているだけで、わくわくして、胸の鼓動が高まる言葉だらけで、世界にはまだこんなにも楽しいものがあったんだと理解した。


 ……


 ブラックボックスを地下世界での太陽だと言った子がいた。

 地上世界の人間が生きていくのに、太陽が必要なものなら地下帝国にブラックボックスは不可欠で国として存続する生命線でもある。

 地下帝国は地下にあるからして、地上から空気の入る場所はあるがそれだけで人は生きていけない。

 ブラックボックスは、地下帝国の民に太陽で光合成せずとも成長する木や地上世界から地下帝国へ少しずつ運ばれる空気を浄化してくれている。

 証拠として、昔の文献での言葉として残っている記述のみだが、地上世界とのコンタクトに必要な扉もブラックボックスが拵えてくれたもの、らしい。

 ブラックボックスに生かされている――地下帝国の人間は少なからず、誰でもブラックボックスの恩恵を受けて暮らしている。

 誰であっても、地下帝国で生まれたものにとって……ブラックボックスは否定できない神様のようなものだった。

 だから、観測者と判明したものは優遇されてブラックボックスの目となることを義務付けられる。

 地下帝国の民にとって、観測者とは神に選ばれた御使いのようなものだから、誰も否定しない、否定してしまえばそれはブラックボックスを否定することに繋がってしまうからだ。

 否定できないが故に、三十年前ほどに起きた観測者たちの犠牲の物語があった。だが、この真実を知るものは少ない。

 年端もいかない子供たちに、死を強制してしまった事態は安易に公表できるものでも、ない。

 三十年前のブラックボックスの物語は、家族たちにも詳細は伝えられていない。

 百合風、夜風、そして――一人の男。

 彼らは地上世界に魅入られて、悪魔の道を進んでしまったと家族には伝えられた。所謂、行方不明として処理されてしまった。

 このようなこともあってか、地上世界の存在を大人は子供たちに教えたがらない。子供は理性が聞かないが、ある程度年をとって成人さえしていれば、理性で踏みとどまることができる。

 家族を遠い未訪の地へ送りだしたい家族など、存在しない。

 閉塞しているが故に、連帯感が強いのが地下帝国の民たちだ。だからこそ、地下帝国の民たちは地上世界へ出たいと望み、地上世界へ行きたくないと望む。

 矛盾した考えを抱いて、今も地下帝国の人間は生き続ける。

 地上世界を羨みながら……憎みながら、いつか誰かこの状況を変えてくれることを誰もが心の底で望んでいた。

 誰かが、風のない地下帝国へ風を吹かすその時まで――。

 

 ……


 枯れ葉を踏みしめて核たちは森林を掻き分けて進んだ先で、丸く開けた場所にでた。

 そこは、色とりどりの花に彩られていて、地下帝国の楽園……そう表すのがもっとも的確に思えた。

 ぽつんと楽園の中心部にある墨のように老朽化して黒くなった家と周囲を幻想的なまでに色とりどりに彩る花たちを見て、子供たちは思わず感慨の声をあげる。


「ふあー……すっげー」

「すごい……」

「わー……きれい」

「……」


 愛瑠だけは、口を開かずに目をぱちくりとさせる。

 こんな綺麗な場所がこの世界にあったなんて思わなかったからだ。

 そんな愛瑠を尻目に、核たちは花を踏まないように歩きだした。途中で凛は膝をついて爛々とした瞳で、神秘的なまでに白い花に顔を近づけてあまったるい花の匂いを嗅ぎ始める。


「んー、いい、におい! みかぜもさねくんもかがないのー?」


 凛の声など聞こえていないように、優衣と核はずんずんと花を避けながら進む。どうやら、中央に存在する老朽化した家を目指しているらしい。

 目を輝かせて、家の前までくるとがたついて、傾いている扉を二、三度ノックした。


「おーい、だれもいないのかー?」

「いませんかー? でないねー」

「ちょっとまって。ひとさまのいえかもしれないんだからかってにはいっちゃだめよ」


 花を嗅いでいた凛と連れ添って、愛瑠は核と優衣に注意を促す。

 老朽化した家は、近くで見ると屋根や窓の一部が朽ちていて建設されてから相当に時間が立っていることが外からでも確認できた。

 優衣は愛瑠の話を聞かずに、観測者としての力を行使して傾いた扉を押し込む。


「どっせーい!」


 扉は立てつけるように置いてあっただけなのだろう。優衣の力に簡単に押し負けて家の中に倒れこんで、大量の埃を舞い上げた。


「う、うわ! なんだこれ!」

「ちょ、ちょっとなにしてるの!」


 愛瑠が、凛の口を手で覆って埃が口に入らないようにする。一方の核はもろに埃を吸い込んでしまったらしく、咳をしていた。


「こほっこほっ……ゆい、いきなりあけちゃだめだよ」


 核が辛そうに目を擦って咳しているのを見て、優衣は申し訳なさそうに顔を曇らせる。


「ごめん……つぎからきをつける! でも、これみてくれよ! いえだぜ、いえ!」


 家の中を覗き込む。

 まず最初に目につくのは、天井や床にとどまらず、壁にも埃がカビのように存在していることだろう。

 存在感溢れるカビだけで、長らく利用されていないことが、理解できた。

 誰かが利用していれば、目に付く埃は片付けようとするだろう。?いくらものぐさであろうとここまでの埃は、看過できないだろう。そんな途方もない数の埃だった。

 森林に隠蔽されるように隠されたこの場所が忘却の彼方に忘れられたものだと理解させるには十分なものだった。

 過去にどんなことが、ここであったのかわからない。

 誰かの物語が息づいているのかもしれないし、誰かが住んでいたのかもしれない。

 数多に可能性はあれど、真に忘却された楽園を見つけたのは、この子たちだけだ。

 忘却の彼方にあった楽園は、これから彼らの楽園となった。

 

 ……


 老朽化した家の中にあったくすんだ箒でしばらくの間、埃の掃除をするも愛瑠以外のメンバーは飽きてしまったように外に咲く色とりどりの花の元に走っていってしまった。

 愛瑠もしばらくして、飽きてきてしまって箒を適当にほっぽりだして適当な木陰を見つけて腰を下ろす。

 足をピーンと伸ばして、両手を絡めて伸びて一息つく。

 自分の緊張までもが、その伸びで途切れてしまう。

 これまで、相当に無理をしていたのだ。

 古風 愛瑠という少女は、たった七歳で両親と妹を車の交通事故で亡くした。 

 地下帝国では、比較的に富裕層の家庭ですくすくと育っていた。

 仲が良くて、いつも子供のことを本当に愛して慈しんだ両親とお姉ちゃんのあとを、とことこと愛らしく歩んでくる妹……。

 どれも、大切で、代わりのない人で、愛瑠の世界の全てだった。

 子供にとっての世界は、両親と妹とそれに付随する友達……それが世界の全てだ。大人になれば、もっと視野が広がって綺麗なことも、汚いことも見ることになる。

 それでも、愛瑠にとって大切な世界は両親と妹だけだった。

 全てが一瞬にて砕け散ったのだ。誰も図りきれないくらいの哀しみをたった六歳の小さな身に抱え込んだことだろう。

 真実から目を背けるために、愛瑠は心を閉ざした。

 硬く、亀の甲羅のように何人にも絶対に割られない。そんな魔法を自分にかけた。

 それが、逃げることであろうとも、それは人間が故に持っている蘇生術だ。

 何かから目を背けても何も解決しない。ただ事態が雄大な時の流れの中で過ぎ行くだけ……それを愛瑠は望んでいた。

 このまま何も見ずに、感じずに過ごせればよかったのか?

 精神を閉ざすというのは、予想以上に辛いことだ。何も関心を持たないということは感情を消すということ、人間であることをやめる、こと……。

 それは、次第に精神を蝕んで自分が本当に感情のない人間だと錯覚させてしまう。その前に、柔らかくて包み込むような手を差し出したのは彼らだ。

 なぜか愛瑠と遊ぼうとして何度断られても、鋼のような心で再び遊びに誘ってくれた弟、または妹のような子たち……たった一歳しか違わないのに、どうしてこうも彼らは強靭な心を持っているのだろう。

 何が彼らをそうさせているのだろう。

 子供が故の純真さだけが、そこにあったのかもしれない。

 感情が灯りかけた瞳で、花にまみれながら嘘のない仮面のない笑顔で、遊び続ける神風 核、美風 優衣、兎風 凛を見つめる。

 泥のように遊ぶ彼らを見て、その姿がなぜか両親や妹に重なってしまう。

 背丈も年齢もなにも似ていないのに、どうしても、そこにいるかのように錯覚してしまう。


「ああ……どうして……どうして、わたしをおいていったの……おかあさん、おとうさん……とき……」


 掠れた鼻声で、感情を吐露し始める。

 心にかけた魔法が溶けてしまう。

 この魔法は自分で感情を言ってしまえば、自分に感情があると認めることになる。だから、消えてしまう。

 感情がなければ悲しむこともないのに、どうしてか口は止まらない。


「もっと……っ! もっといっしょにいたかったのに、どうして、どうして……いっぱい、しあわせあったのに、ぜんぶ、なくなったっ……」


 脳では、その口を開くのを止めろと口に命令するけれど、本能はそれを拒絶してただひたすらに感情をぶちまける。

 次第に、瞳に溜まってしまった涙が頬を伝って零れ始める。

 一滴が頬を撫でるたびに、感情が戻ってくる。自分を覆っていた亀の甲羅が外れていく。


「だれとも、あそびたくないなんて、うそっ。だれかとあそんで、あそんで、わすれたかった! なのに、どうしておもいだすの!」


 溢れ出る涙を止めようと必死に、手で目を覆ってもいくらでも、際限なく涙が溢れて溢れてとまらない。

 自分で制御できない!

 ここにいるのは、ただ一人の――これから先、最愛の両親も妹もなく、生きていかなければならない悲しみに慟哭する少女だった。

 幾重に、幾万に悲しみを重ねようとも、心が癒えることはありえない。

 強制的に引かれたレールの上で、足踏みをして膝を抱えることは罪だろうか。

 誰が、この少女に動けと命令できるだろうか――否、できない。

 悲しみは個人が持つが故に、悲しみなのであり、他人が理解できないからこそ理解してもらいたいと思う。

 矛盾した感情は、抑圧されて次第にはけ口を失う。

 抑圧されすぎた感情は限界を突破すれば流れ落ちる滝のようにいくらでも感情を流れさせる。

 慟哭する少女に最初気づいたのは、核だ。

 何気なく、遊んでいた核の視界にふと、両手を潰れるくらい頬にあてて悶えている愛瑠を発見した。

 駆け寄って、核は心配そうに言う。


「だいじょうぶ? め、いたいの?」


 その掛け声は少女にとってどれほどの救いになっただろうか。

 もしかしたら、救いになってなど、いないのかもしれない。

 核の声が、なぜかお父さんの優しくて包み込んでくる声に置き換わる。

 もう絶対いないはずの人に置き換わって、私を慰めようとする。


「やめて……! やめて! もうおとうさんはしんだの! おとうさんはっ! おとうさんは……!」


 いま、顔をあげたら絶対にお父さんでないことに気づいてしまう。

 ああ、自分は核たちと遊ぶというそんな些細なことで狂ってしまったのだろうか。 

 愛瑠は全てを失ってから数ヶ月間を耐えた仮面が剥がれてしまっていた。

 誰かが剥がしたのではない。自分の意思で、剥がしてしまったのだ。

 虚構を張っていた心は見るも無残に全てを曝けだしてしまった。

 愛瑠の異常に気づいた優衣と凛も駆けつけて心配そうに声をかける。


「どうしたんだ、だいじょーぶか?」

「なみだ、ながしてる……なにかあったの?」


 優衣と凛に質問されて、核は「わからない」とばかりに首を横に振る。

 耳に届く声で、愛瑠はさらに苦しんだ。

 心が壊れそうで、核たちのことが失ってしまった両親と妹に見えてしまって、どうしようもない。


「うぐ、えぐ……みんなっみんな……わたしからさっていくっ! どうして! なんでおいていっちゃうの! みんな、そばにいて……ひとりは、いや……こわい……おとうさん、おかあさん、とき、あいたい……うぐっえぐっ……」


 濁流ではなく、静かに流れる川のように感情が流れいずる。

 その誠の叫びは、核たちの心を純粋に突き動かした。

 心配するように、それぞれが愛瑠に寄り添う。

 ただ悲しんでいることだけがわかったのだ。何を言っていても、それだけは唯一不変の事実だったから。

 友達の、悲しみが癒えますように。

 ただ、それだけを愚直に願う。

 賢者のようであり、愚者のような光景だった。

 核たちは、愛瑠の涙がからっからに乾くまで核たちは待ち続けた。

 それが、どれだけの救いになったかはわからない。もしかしたら何にも解決していないのかもしれない。

 それでも、悲しい時に誰かがいれば、人はいくらでも悲しみから立ち直れる。

 何も悲しみを乗り越えることはない。

 克服することもない。

 人の心は千差万別で、測りようのない存在して、存在しないもの。

 鉄のように雄大な心を持つ人間もいれば、ガラスように繊細な心を持つ人間もいる。人の心は決して鉄のように強いものだけではないのだ。

 だから、受け入れるだけでいい。

 いまは、それでいいのだ。

 いつか、乗り越えることができればそれで人は前へ進めるのだから。


 ……


 刹那かもしれない、永遠かもしれない。永久にさえ思える時間が流れた。

 いつしか、愛瑠は慟哭の叫びをやめていた。

 目は充血したように腫れぼったくて、鼻は集中豪雨でもそこだけ受けたようにびしょ濡れ。

 どうしようもない、両親や妹――最愛の人がいない絶望を受け入れられたのだろうか?

 流しすぎた涙のせいなのか、掠れた声で途切れ途切れに、愛瑠は呟く。


「……みん……な。やさ、し……かった……。いって、ほしく……なかった。あえない……なんて、いってほしく、なかった……。わたし……どうすれば、いいの?

 なにを、したら、うけいれられるの……?」


 古風 愛瑠は子供ながらに、聡明だった。

 お父さん、お母さん、妹と会えないことを涙を流して感情を吐露しているうちに受け入れようとしていた。そこまでの結論を子供ながらに導いた。

 人が死んだのならば、生き残った人たちは死んだ人たちを糧にしてその上を歩み続けるしかない。

 しかし、このままでは受け入れるという入口に立ち上がっただけだ。

 スタートラインにやっと昇っただけだ。

 何かの後押しがなければいけない。いくら聡明であろうと何かを一人で受け止めるのは地獄にいるように辛いことだ。

 悩みの言葉を虚ろに流す愛瑠に、凛が泣きそうなまでに悲しい微笑みを浮かべて駆け寄る。


「ふるかぜちゃん、なにがあったの……? つらいことが、あったの?」


 ゆっくり語りかけてくる言葉に、愛瑠は静かに頷く。


「うん……おとうさんとね、おかあさんといもうとが、しんだの」


 死んだ。

 その言葉を幼き子供たちが理解するのは難しい。

 しかし、悲しいことがあったことだけは、理解できる。


「かなしい、ことがあった?」

「すっごく、かなしいこと」


 腫れた目で、愛瑠は凛を見上げる。

 凛はその顔を見て、涙を瞳に溜め始めた。


「うっ……ぐすっ」

「……どうして、ないてるの? あなたこそ、つらいことがあった?」

「ううん、ちがう。ふるかぜさんがかなしいなら、わたしもいっしょに、なくの」


 凛の訳の分からない言葉に、愛瑠は首を傾げる。


「どうして? あなたまで、つらくなるひつようはないのに……なかなくても、いいのに」

「ぐすっ……おともだちだから、いっしょに、なきたい。いっしょにいて、あげたい」


 凛の言葉に愛瑠はお礼を述べて俯く。

 しかし、優衣は反論に近い形で、それに力強く意見する。


「……つらくても、いっしょにないてるだけじゃだめだ! あたしたちはあそびにきたんだからあそぼー!」


 天井に手を勢いよく優衣は掲げる。

 核も自分の思っていることを、口にする。


「ゆいのいうとおりだよ。いっしょにあそんで、かなしいこと、ぜんぶふきとばそう!」


 愛瑠は弱弱しく顔をあげて、眩しそうに優衣と核を見やる。


「そんなの、むりよ……わたし、もうからだうごかない……うごけない。あそぶ……ことなんて、できない」

「どーしてそこであきらめる! たてよ!」

「たって、あそぼうよ! かなしいことをぜったいに、ふきとばせるくらいに、おもしろく、するから!」


 人が悲しみにくれているのに、ずんずんと心に入ってくるその様は、薄情なものに見えるかもしれない。

 無責任であっても、それが時に有効なことも、あるのかもしれない。


「どうして、あなたたちはそんなにもわたしにかかわるの……? わたしはかなしんでるんだから、ほうっておいたらいいのに……なんでそこまでえがおでいられるの?」


 愛瑠の言葉に、一緒に悲しんでいた凛も顔をあげて愛瑠を深く見つめる。

 共に思いを共有して、悲しもうとした凛も、遊ぶことで悲しみを消そうとした優衣と核も思っていることは、心に根ざしていることは同じだ。

 凛はあくまで、静かに。

 優衣はあくまで、元気に。

 核はあくまで、相手に心が伝わるように、言った。


「「「しんゆうに、なりたいから」」」


 純真無垢なその言葉に、愛瑠は衝撃を受ける。この子たちは、何を言っているのだろうとさえも思った。

 親友になりたいから、手を貸す。

 そんなことは成熟してからの身ではできないことだろう。それでも、いまの核たちにはそれができた。

 大きくなればなるほど言葉を素直に伝えるのは億劫になって、他者を気遣い、貶めるようになる。

 そんなことは、今の核たちに関係のない、ことだった。

 たった一文の言葉で、愛瑠の心には火が灯った。

 全てを失ったと思っていた愛瑠だが、それは違った。

 全てを失ったからと言って、これからの全てを失うわけではない。

 失っても、また得ればいい。

 過去を求めることはできないけれど、未来を求めることはできる。

 おかしそうに、愛瑠は笑う。


「あははっあはは。そっか、そんなかんたんなことだったんだ」


 なんだ、気づいてみれば簡単なことじゃないか。

 自分が何が欲しかったのか。

 偽りの虚無という仮面を被るのは必要な時間だった。

 うだうだ悩む時間も必要なものだった。

 両親の死と妹の死を受け入れるのは時間がかかるかもしれない。

 それでも、いま心は心を閉ざすより目の前にいる、自分の親友になりたいと思った子たちと一緒にいたいと思った。

 

 そばに居てくれる人が欲しかったのだ。


 人は一人では生きていけない。だから、他者を求めて、他者を蹴落とす。

 なんであれ、形による繋がりがなければ人は悪循環に陥るだけだ。


「まだ、うけいれるの、時間かかるかもしれないけど……いまはあなたたちとあそぶ」

「ほんと!? じゃあ、あれ! おにごっこしよ! おにごっこ! ほらほら、じゃんけんじゃんけん!」


 核が座り込んだ愛瑠の手を引っ張りあげる。

 それは絶望的にはまりこんだ泥沼から抜ける行為だ。

 自分一人だけでは泥沼から脱出できなくても、外から一人、二人、三人で引っ張ってもらえればいくらでも外の世界へ出ることができる。

 もしかしたら一生、両親たちの死を受け入れることはできないかもしれない。それでも、神風 核、兎風 凛、美風 優衣たちとなら乗り越えられる気がした。

 愛瑠は、絶望の暗雲漂う未来から、輝かしい未来へ一歩を踏み出した。


 愛瑠という女の子は、いつか生き別れた妹と遭遇する。

 不幸な事故で地上に光臨してしまった妹は愛瑠を憎んで育っていた。

 最初、妹に出会った時に愛瑠は妹が生きていることが信じられなくて、嬉々として駆け寄った。

 でも、向けられた視線は憎しみや侮蔑を混めた人の心を毒死させるような毒の視線だった。

 妹は、両親が死んだことを知らなかった。愛瑠がずっと両親と和やかに、愛されて暮らしていると想像し、信じていた。

 妹が両親が死んだと絶望するくらいなら、生きていると思ってくれたほうがいい。自分がずっと憎まれることで妹が悲しい現実に直面しないで済むなら、そのほうがいいと思った。

 逃げかもしれない、優しさかもしれない。

 でも、どんな悲しい現実でも人は真実を知ったほうがいいのだ。そうでないと、前へ進むことができなくて立ち往生してしまうから。

 これが、二つ目に起きたこと。


 ……


 神風 核、兎風 凛、美風 優衣、古風 愛瑠の四名は、愛瑠の心を溶かす一件から、さらに仲良くなっていった。

 唯一無二の親友になった彼らの時間は、いつの間にか一年がたっていた。

 子供にとっての一年は長く険しい。しかし、短くもある。

 核、凛、優衣が七歳を迎えて、愛瑠も八歳を迎えた頃に、核を除いた三人は観測者として覚醒していた。

 この時代に選ばれた観測者は三人、それが彼女たちだった。

 ある程度精神も成長した彼女たちに神風 核の真実が地価帝国の王――兎風 彗から語られる。

 ブラックボックスの目となる観測者として彼女たちは真実を知らなければならなかった。

 彗は徹頭徹尾、冷徹な目で観測者を見やった。


「お前達の知る神風 核は人間では、ない。」


 嘘を真(まこと)に変える魔力を持つかのような言霊を纏う威厳に満ちた言葉が彼女たちの胸を貫く。

 しかし、これは嘘ではない。

 彼女たちは核と暮らす間に、薄々感づいていた。

 ――神風 核はどこか歪んでいる。おかしな人間である。

 人の形をしているが中身は賢者そのものであり"人の心を救う動きをする"これが自身が元から持っていた特異性なのか、人の願いを叶えるブラックボックスによって生み出されたから、なのかは定かではない。

 真実なのは、神風 核が異常であることだけである。

 王は淡々と真実を語る。年端のいかぬ子供とはいえ、彼女たちは観測者である。

 それが良かったのか、悪かったのかは置いておいて、真実を伝えるに足る場所に、彼女たちは自然と居た。


「神風 核はブラックボックスから産み落とされた、自然の人間ではない。奴はいうなればブラックボックスの分身だ。

 世界に生きる人間とは違う理で生きる異性体だ」


 凛たちは王の言葉に、少しながら反応する。

 人間とは違う理で生きる異性体。

 友達がそう言われて何も思わない友達はいないはずだろう。

 優衣は震える手で拳を作って、膝の上に抱える。

 愛瑠はうちに秘めた怒りの思いを露出させないように、あくまで冷静に彗を見つめる。

 凛は、目を伏せてずっと、彗の話を聞き続けていた。

 兎風 彗の言ったことは真実で、神風 核は人間ではないと告げるものである。

 しかし、そんなことで凛たちが培った友情は壊れるほどたやすくない。

 誰であろうと、何を言われようと、いつも接している誰かが何者であろうとも友達であることは疑いようもない真実で唯一不変のこと。

 彗はブラックボックスに対して激しい憎悪と怨みを持っている。

 忠告しているのだ。

 例え、人の姿だが、核はブラックボックスの分身である。人の願いを叶えるのが生きている証だとしても、いつか、裏切られるかもしれない。

 ブラックボックスはいつも人を安心させて無期限に幸せを供給しているが、光があれば闇があるように突然に闇の部分が現れて体を蝕んで、お前の首を食いちぎり幸福を奪って、絶望を与えていくだろうと、数十年前に絶望を味わった観測者として、忠告していた。

 


last episode:Like the wind 第10話「始まりの軌跡」 オワリ


第11話「終わりの軌跡」へ続く

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