Lost episodeⅣ

 Lost episodeⅣ


 夜風を必死に追いかけた彗の姿を見えなくなるまで見送ってから、俺も元の老朽化した家にぞうきんを手にぶらさげて戻った。

 拓也は、物珍しそうに未だに家の物色を続けていて、幼い頃から蓄えられた地下帝国のおもちゃの数々とか、何かの植物の種とか何かを発見しては、おおぉー! と五月蝿く叫んでいる。

 百合風は拓也とは無関係と言わんばかりに家の隅っこの床に座って、拓也の唐突に驚くといった光景に眉を寄せて怪訝な顔をしていた。

 ぞうきんをぶらぶらと手持ち無沙汰にさせて、百合風の横に自然に座る。

 拓也が騒々しい中、ぼーっと空中を見て、声を掛ける。


「なんだ。随分怪訝な顔してるじゃないか」


 目線を拓也から外した百合風は目を空中浮遊させ、面倒くさそうに言った。


「なんでもないわよ。龍馬の監視してただけだし、大人しくしとけばいいのに……」


 呆れたように百合風はため息を吐く。

 ため息が向けられている拓也はそんなことを気にした様子もなく、好奇心に目を光らせて、地下帝国のおもちゃやらに胸を躍らせているようだった。

 その光景に俺も思わずため息をつく。


「はぁ……ま、大丈夫だろ。あそこには地下帝国のことに関して書いてることなんてなにもない。ただのおもちゃ箱だ。見られて困るものが入ってるわけじゃないだろ」

「それもそうだけど……自分のおもちゃを人に触られるのって、何か嫌じゃない?」

「俺は別にそんなことはないが……独占欲か?」

「んー……もしかしたらそんなところかもね。自分のものは何一つ取られたくない。手に取ったものは、全て零れさせたくないって思うから」

「そうか」


 それからしばらくの無言が、世界を包みこんだ。

 無言で居ると、どこか自分が暗い闇に放りこまれたのではないかと錯覚する。胸のあたりがぽっかりとあいたように寂しくなる。

 無意識に、これからのことを考え始めていた。

 誰も失わず、誰もが朗らかな笑顔で、太陽に包まれたように暖かく、光る道を歩む。でも時々怒ったり悲しんだりして、みんなが居れば、それは人生の幸いだ。

 ふと無意識化で心の中から芽生えた理想に、暗雲が立ち込める。

 どうしようもできない現実が、地面に雷を落として、理想を、地面を打ち砕く。

 現実を認識したくなくて、空中を彷徨わせる百合風の顔を盗み見る。

 端整な顔立ちに、さらさらと細やかに動く短髪。どこか憂いを帯びた表情はこれまで見てきた元気ハツラツな百合風とは違っていて胸の奥が疼くのを感じた。

 百合風は、王に言い渡されたブラックボックスの生贄になるということを、どう考えているのだろうか。

 憂いのある表情からは、うかがい知れない。

 彼女は、百合風はいつも他人を気にして、自分ことなどどうでもいいように振舞って、自己犠牲の精神で相手を助けるような優しくても、どこかで自分が傷ついている。

 他人によく気を回すし、困っている人が居れば助ける。でもそんな彼女にも助ける人を選定する序列というものがある。

 人が伸ばせる手には限界がある。助けを求めるいくつもの手に必死に手を伸ばしても、全てを救うことはできない。

 誰かを失うことも、あるかもしれない。

 百合風は聡明で聡い人間だから、全てを救えるとは思っていない。全ての人間に手は差し伸べはしない。自分の助けられる範囲を取捨選択して決断している。

 全体状況の把握はもちろんのこと、それに対してどんな行動を取れば助けられるかを考えている。

 今回のことでいえば、ブラックボックスをこのまま失えば地下帝国は日本の援助を受けれず自然消滅する。

 地下帝国を助けられるのは百合風と夜風だけ、という状況で、百合風が選択するのはおそらく――。


「それ、貸して」


 いつの間にか目線を俺に固定していた百合風が、くいくいっと人差し指を動かしていた。


「これか?」


 水場でわざわざ濡らしてきたにも関わらず拭き掃除をせずに床に放置したぞうきんを拾って、手渡す。


「ありがと……」


 ぞうきんを受け取ると百合風の隣の埃が大量に付着した柱に対して眉を寄せて拭き掃除を始めて、しばらくして納得するまで埃をとったあと、また俺にぞうきんを寄越して、膝を抱えて座り、体をゆっくり傾けて柱に頭を預けた。


「……頼みごと、してもいい?」


 搾り出すような掠れた声が、隣から聞こえた。


「……ああ、なんだ。なんでも言ってみろ」


 俺も搾り出すような声を出すのが精一杯の、強がりだった。この状況での頼みごとなんて、誰でも想像がつく。そして、百合風がどんな結論をだしているかも。それがどれだけ反対されようとも、力強い意思を持つ百合風は考えを変えることはないだろう。

 気になって百合風を盗み見る。悲しそうに空中の一点を彼女はジッと見つめていた。あまりこっちを見るなと言われているようで、盗み見た視線をまた元の位置に戻す。

 戻った視線の先の空中には何もなく、視界には老朽化した木だけが映される。


「もし、私が死んだらあとのことをお願い。地下帝国のことも、彗のことも……全部」


 諦め。

 それに近い語気を孕んだ言葉が、耳に届けられる。


「お前は、それでいいのか? もっと、探せば方法があるかもしれないだろ。まだ、何か――」

「そんな都合のいい方法あるわけないじゃない……ッ!」


 静かに百合風は語気を強めて叫ぶ。

 思わず声に振り返る。百合風は俺を悲しみに満ちた目で見つめていて、瞳から一筋の線が悲しみを象徴するように引かれていた。

 胸がチクッと刺されたように感じる。静かに慟哭(どうこく)する百合風に俺は掛ける言葉が、見つからなかった。


「私だって、もっともっと生きたいッ! みんなと一緒に生きて、おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっとずーっと笑いあってたいに決まってるじゃない……ッ!」


 激しく、俺の瞳の一点を見つめ、悔しそうに唇をかみ締めながら感情が吐露されると涙もそれに比例して雨粒のように床を濡らし始めた。

 落ち着かせようとして、おずおずと手を伸ばそうとする。

 その資格が俺にあるのか?

 俺が苦悩するほど悩んでいるということは、百合風も相当に悩んでいたということの裏返しだった。百合風のことをわかっているつもりで、わかっていなかった。

 彼女がどれだけ善良な存在で、自分を犠牲にして誰かを助ける人間でも、自分が犠牲になることに疑問を抱かない者や悲しみを覚えない者はいない。

 もし、そんな奴がいたらそれは人ではなくなっているだろう。

 俺の手は、百合風に差し伸べられるだろうか。

 差し伸べようとしても透明な壁が邪魔をしているように、手は届かない。


「私は地下帝国のためなら命を投げ打っていいとも思ってる、だけどそれとは別に、みんなと一緒にいたいって矛盾した思いももってる……私は、私はッ! どうしたらいいの……?」


 苦悩に満ちた視線が俺を射抜く。心が締まって、言葉が言えない。

 どうしたら、いい?

 こんな簡単な疑問に、答えられない。答えられる、術がない。

 俺は無力な人間だ。いくら地下帝国救いたい、このままじゃダメだという一心で探検部を始めてみたけれど、暗雲立ち込める現実の前でお前はまだ何もできない子供だ。無力でちっぽけだと言われているようで、何をしても、無意味な気がしてくる。

 もし、もしだ。百合風にブラックボックスのこと、地下帝国のことを捨てて俺と一緒に地上にこいと言っても、どちらもあてのない逃避行に疲れてまた地下帝国に帰ってしまうのだろう。

 覚悟のできていない、子供。

 それが、現状だった。いくら理想論を並べようと理想を現実にしようと足掻いて、足掻いて、頑張っても抗いようのない現実――ブラックボックスの暴走や不確定な事象に邪魔をされる。事象に打ちのめされた挙句に、自分で煮詰まって悪循環に陥る。

 答えなのないことに、百合風は一層辛そうに顔を涙で歪める。

 こいつにこんな表情をさせてることに、罪悪感や後悔や自分のへたれ具合に嫌気がさす。

 これまで百合風は人に手を差し伸べてきたのに、それがこんなブラックボックスの生贄になるなんて形で終わっていいものかッ!

 何も報われない、何も与えられない。人並みの幸せはあっても、それは平均化した幸福なだけで、最上の幸福では、ないはずだ。

 何をすれば、百合風を幸せにできる?

 その結論をだせるのは、百合風だけ……どうしたらいいと震えている彼女に、また俺は背負わせるのか、何か、できることはないか……。

 煮詰まる脳を必死に動かして、俺は、精一杯の虚勢を張って喉を震わせた。


「俺と……俺と一緒に、地下帝国を出よう」


 ああ、と思った。

 無自覚に、でてしまった言葉に百合風は目を見開いて、再び涙を目に溜め始めて、ふと笑った。苦しくて、辛い感情が心を支配していても、満天の太陽のような笑顔は、誰かに感謝するときに向けられる笑顔だった。


「なにそれ、プロポーズ?」


 精一杯の意思を張った明るい言葉に、心がチクリと痛む。百合風の瞳いっぱいの涙は、ぽろぽろと頬を流れる。


「……そうかもな。そう、かもしれない」


 小さい頃から元気でみんなを笑顔にしてきた百合風のことをずっと見てきた。何があっても、彼女は助けを求める人の味方で、俺もその手を差し伸べられた人間で……百合風がずっとそばにいるからこれまで、これた。

 観測者になった時も、地下帝国を閉鎖した現状から脱却させようとしたのも、全部……自信があったから始まったことじゃない。

 いついかなる時も、俺が困っているとわかると百合風は毎回、毎回、助けてくれた。

 それがどれだけ心の支えになっていたか。

 このままでは失われるものを前にして、それにやっと気づいた。


 俺は百合風が好きなんだ。


 俺と百合風を隔てる透明な壁はいつの間にか霧散していた。

 百合風を真剣に見つめなおす。瞳の奥で、絶望や希望や全てのものが混じりあっているみたいで、百合風も揺れ動いていることが、わかった。

 笑顔で見つめ、こぼれ落ちる涙の一滴に手を差し出して、握る。

 しっとりとしていて、手を躍動的に濡らす涙は、今の百合風のどっちつかずさを表しているようで、心が苦しく、詰まりそうになる。

 涙で濡れた手を自分の心臓にあてる。

 瞳から溢れ出ようとする涙を、必死に抑える。体が、悲しみに震える。隠しきれない涙声で、言う。


「辛かったよな……苦しかったよな……なぁ、百合風。俺はお前の涙を見たことがなかった。お前はいつも自分を押し殺して、誰かを助けて……泣くことができなかったんだよな……いつでも、誰かを前提に動いてて、俺も手を差し伸べられた人間で……ありがとうな、百合風……支えてくれて。

 俺から百合風に勝手なお願いが、ある」


 それは、百合風が提案したお願いとはまったく違う、相反するお願い。

 落ちる涙を何度も受け止めた百合風の手をゆっくりと床から壊れ物を扱うように包み込む。震えて、涙を受け止めていた手はしっとりと濡れていて、儚げだった。

 百合風は俺の一世一代の言葉に静かに頷く。


「うん……」

「俺と一緒に地上世界で暮らそう。もう、地下帝国のことは……どうでもいい。俺はお前が生きててくれれば、それだけで、いい。俺と、付き合ってくれ、百合風」


 率直に単純に伝えて言い終わった。言ってみればどうってことない、言葉で、どこか虚ろになる心を置いて、目を瞑る。

 元から回答がでている言葉に期待はない。もしかしたら、と思うことはあれど、それはただ実現しない希望を持っているだけで……それだけではどうにもならないのが、人の心で……。

 俺の言葉に、百合風の涙がすーっと消えていく。憑き物が落ちたように、彼女の瞳から涙が消え去って、いつものように柔らかくて静かに暖かい太陽のように笑みを浮かべる。

 壊れ物のように触れていた手に、力が篭って手を握ってくる。

 そして、俺の言葉に対する回答を、静かに述べた。


「まず、ありがとう……。私にプロポーズしてくれて……。とっても、胸が張り裂けそうなくらい嬉しい……。でも、私はあなたと一緒の電車に乗れない。同じレールの上を歩けない。だから、ごめんなさい、そして、本当に、ありがとう」


 最後の言葉を紡ぐと、百合風はそっと顔を近づけて、薄ピンクの唇に、俺の唇を押しつけた。そっと髪から漂う包み込まれるような匂いに身をゆだねる。

 たった数秒の、甘くて刹那の時間は甘美で、ずっと居続けたくなる桃源郷のようだけれど、それも、すぐに幻想のように終わる。

 百合風は、遠く、俺の手の届かない場所に行く選択をしたから。


 ……

 

 本当は泣きだしたかった。男らしくもなくみっともなく、ここに居てくれ、俺と一緒に居てくれと言いたかった。でも、それはお前の望むことじゃなくて……わかってたさ。お前が、何を選ぶか。何を為したいのか。

 人を救うことをしてきた百合風が、地下帝国のことを真剣に考えていることも……だからこそ、自分が犠牲になる選択を選ぶことも……。全て、理解した上でのプロポーズだった。

 若造が何を、と思う。でも、あの時の俺にとって、それは一番大事で、掛け替えのないことで……一世一代を賭して為したいものだった。

 俺は結局"最愛"の人に対して"死"というものを後押ししただけだ。

 百合風はきっと表面上だけで言えば、揺れ動いていた。もしかしたら、俺が泣き喚いたら、一緒にきてくれて……地下世界のことを全て見なかったことに、忘れたことにして幸せに過ごせたかもしれない。

 でも、彼女の根底にあるものは、人の役に立つことで、例えそれが命を賭けたことであっても……命を散らすことを選択する。それが、俺の"最愛"の百合風という女の子だった。

 強い鋼のような意志を持っていて、地上世界の太陽のように眩しくて、柔らかい暖かさに満ちていて、勉強もスポーツもできるけどどこか抜けていて……そんな全てが愛おしい女の子だった。

 今、もし彼女に会えても俺は会うことを選択しない。現状を彼女に知られると困るし、幻滅されるかもしれない。以前の臆病なままだ。何を始めるにしても誰かにキッカケを作ってもらえて始めることができる。

 三十年たった今でもそれは変わらない。

 どうか、この臆病な俺は見つからないように、平穏を乱されないように……それだけを願うようになっていた。


 ……


 百合風と唇を合わせてから、数刻がたった。

 未だに唇を奪われた時の包み込まれるような匂いが鼻にじんわりと残っている。

 唇を合わせたっきり百合風は隣でそっぽを向いている。

 きっと、自分のことを整理することが必要があるのだろう。

 ……あとは俺自身少し安堵している。このまま顔を合わせても俺は顔を真っ赤にするだけだろう。ファーストキスであり、どうやら俺は自分で思ったより純情だったらしい……少し気恥ずかしさを残しながら、百合風のそっぽを向いたうなじを脳に焼きつけるように見つめる。

 後ろ姿は儚くて……手を伸ばしても絶対に手が届かないところにいる彼女を、俺は見つめるだけだった。

 どうやら俺たちのやり取りを地下帝国のおもちゃに夢中で聞いていなかった拓也は「何かあったか?」と聞いて、俺は「色々な、気にすることはない」と複雑に感情が入り組んだ言葉を言ったきり拓也は「そうか……」とそっけなく頷いて何かを悟ってくれたらしく、もう言葉を発することはなかった。

 しばらくして、夜風と彗がよりそって、帰ってくる。

 うまくいったんだな、と視線を彗に向けると彗はうん、と頷いて恥ずかしさを含んで微笑みかけてきた。見ている側が甘酸っぱくなってしまいそうな、そんな甘ったるい笑顔。

 一方同じく帰ってきた夜風は俺に一瞬ちらっと視線を送ってきていた。

 その目は悲しみや嬉しさや愛おしさが混じっていて俺は唇を悔しく噛んでしまいそうになった。


 彗をお願い。


 俺に夜風の意識が移りこみそうなほど精一杯の眼力が込められた視線は心に深く刻まれた。お前も、彗を愛してるだろうに、そう言いたかった。でも、ここでそれを言っても何も、ならない。

 今の幸せそうな彗の顔を壊してしまうだけだ。これから絶望がるなら、せめて今だけでも幸せに過ごしてほしい。

 夜風、やっぱり、お前もそうするんだよな……俺たちは所詮地下帝国の人間で、小さい頃からお国のために働きたい、そんな心情が心で燻っている。地下帝国の人間は多かれ少なかれ、そんな教育をされている。

 それは小さい頃から陰湿なまでに刷り込まれた忠誠心で、王として次代で国を統べるように教育された彗と俺たちの違いで。

 百合風と夜風たちがブラックボックスの犠牲になることに理解を示してしまったのも、そういう、ことなのだ。

 本当は、手の届かないところへ行ってほしくない。理解なんてしたくない。別れたくない……。

 でも、百合風たちは行くという、遠い場所へ……。それを誰が止めることができる? 悲壮なまでの覚悟を抱いて決意した者を誰が止めることができるだろうか。

 小説や漫画とかの主人公なら迷いなく、臆することなく誰もが喜ぶハッピーエンドへ導けるだろう。

 全てが笑顔になるような、そんなハッピーエンドは訪れない。それが、唯一無二の現実だった。

 しばらく目を彷徨わせてから夜風に視線を合わせて「任せろと」重く頷く。


「みんな!」


 彗が晴れ晴れしいまでの笑顔で、声を張り上げる。

 全員が、なんだなんだ、と頭の上に疑問符を浮かべて、首をかしげる。


「みんなで、缶蹴りしよう。――くん少しだけならいいよね……?」


 拓也のことを心配してだろう、彗が不安げに顔を曇らせる。

 俺は特に考えもせずに、ああ、と頷く。


「……うん」

「そうね、それは、とっても面白そう……」


 百合風、夜風、俺の顔は酷く歪んだ作り笑顔だっただろう。

 眩しいくらい笑顔の彗が、直視できない。酷い罪悪感が身を引き裂いて、内蔵がぐちゃぐちゃにされたようにすら感じる。

 今からでも本当のことを話したほうがいいのではないか……そんな風に思ってしまう。

 でも、今この幸せの絶頂にいる彗を絶望に叩き落すのか?

 今教えないのも、俺のわがままで、勝手なエゴではないか。

 あとで絶望に叩き落してしまうくらいなら、今ここで百合風と夜風の真意を聞かせたほうがいいのではないのか……ブラックボックスの生贄になると決めた彼女たちの崇高なまでの覚悟を……。

 酷く喉が渇く。

 考えを何順させただろうか、伝えたほうがいいという悪魔と、伝えないほうがいいという天使が一進一退で争いあう。

 どっちをとっても悪い方向にしか進まず、絶望を身に染み渡らせる未来を予兆してしまう。

 あまりの緊張からひりひりと痛むまで至った喉を酷使して、口を開く。


「な……なぁ、彗――」


 異変が起きたのは、言葉を紡いだ刹那だった。


 ……


 砂をじゃりっと静かにすりつぶしたような音が、静かに耳に届けられた。それは背筋を冷たい手でそっと撫でられたかのように身震いさせる。


「聞こえたか?」


 問いかけに、真剣な眼差しになった百合風と夜風……それと拓也が静かに頷く。

 彗は何があったのかわからないように、首を傾げる。


「何か聞こえたの?」

「おそらく、地下帝国の保安部隊だ。今は陣取りをしてるみたいだな……」


 苦虫を噛み潰したように彗の表情が不快そうなものに変わる。


「ここにくるってことは、拓也のことがバレた?」

「そういうことだろうな。できるだけ見つからないように動いてはいたがどこかで見られたんだな……くそっ」


 拓也は何が起こっているのか、事態の深刻さが理解できないのか、頭を掻いている。


「あー、なんだ、その保安部隊ってのはなんだ? 警察みたいな奴らか」

「その通り、警察のような奴らだ。ここに来るまでにどこかで拓也を見らてしまってたんだ。くそっ……拓也がここにいると完全にバレたら捕まっておしまいだ」

「もし、捕まったらどうなる?」

「消されることに、なる」


 俺の言葉に、拓也は衝撃に顔を歪めて息を呑んだ。


「それは……ここに来た部外者は、死ぬって解釈すれば、いいのか」

「……そうだ」


 拓也は心臓を抑え、息をゆっくり整える。突然死ぬ、なんてことを言われて何も思わない奴はいない。

 心境を整える時間が必要だろう……。

 俺は手を口に当てて考える百合風を見た。


「どうする? 俺たちが囮として出ていくか? 保安部隊がでているってことは何か証拠があって来てるはずだし」


 百合風は首を否定するように横に振る。


「それじゃダメね。わざわざ私たちがでていったらここに目標の人はいますよ~って言ってるようなもんよ。

 むしろ、ここに隠れているという情報を得たから探しにきたって理由づけたほうが自然ね。でも……いつ拓也が見つかったかが問題ね。私たちと一緒に居た時か、それとも……拓也が一人の時か。そこらへん、どうなの?」


 心情を整理しを得たのであろう拓也が考えこむ。


「特に見つかっては……ない、はずだ。こういう危なそうなところにきたらまず他の奴にはできるだけ見つからないようにしている。俺もどこで見つかったか心辺りがない」


 夜風がそっと百合風と俺に顔を寄せて、か細い声で耳打ちをする。


「……もしかしたらブラックボックスの力を使ったのかもしれない」


 その一言にその手があったか、と唇を噛む。百合風も納得した様子で頷いている。

 ブラックボックスは人々の願いを叶えることのできる代物で、地下帝国にいる人一人くらいの居場所ならすぐにでも教えてもらうことができる。

 ましてや拓也という地下帝国に元から存在しえないイレギュラーを探すことなど御茶の子さいさいだろう。


「ブラックボックスの力か、その可能性があったな……」

「それをやられてたら、アウトかもしれないわね……」


 心臓がバクバクと鼓動を刻む。緊張という糸が、俺たちを雁字搦(がんじがら)めに縛りつける。

 汗が皮膚から噴き出して手にじんわりと行き場のない気持ち悪さが広がっていく。

 皮膚が焼かれるようにジリジリと時間が過ぎる。

 ジャリ、ジャリと足音が聞こえる間隔が次第に短くなって保安部隊が近づいていることを認識させた。


「くそっ時間がない……何か、何か手はないのか……!」

「僕が、保安部隊を説得しに行ってくる。王の息子の僕の話なら保安部隊も無視できないはずだし……」

「迷ってる時間はなさそうね……彗、お願いできる?」


 百合風は思案顔で、彗の提案に頷く。

 彗は微笑み頷き返し、親指をぐっと立てる。

 玄関扉まで音を押し殺し、静かに移動する。右手を心臓にあて、緊張し震える自身の体を抑えるように息を整え、玄関扉のドアノブを握り静かに開いてその先に消えていった。


「彗のおかげでしばらく時間を稼げるわね……」


 考え混む百合風が、人差し指を唇に当てる。


「説得に成功してくれる以上のことはないけどな……俺たちは保険を考えておこう」

「んー、わかってるわよ。保険って言っても何かできることあるかしらね……」

「……静かに」


 夜風が人差し指を立て唇に当てて静かに、と態度で示す。

 何かあったのか? と百合風と顔を見合わせて、夜風に従い耳を澄ませる。

 そうすると爆発しそうな感情を理性に落とし込んだような声が聞こえた。


「ここには誰もいません。観測者である僕が証明、します。僕たちは地下帝国に地上世界の人が紛れているとの情報を得てここに来て調査していたんです」

「……調査した結果はどうした?」


 静かながらもびりびりと鼓膜を震わせ人を凄ませる重みのある声――これは、彗の父親の声だ。

 保安部隊と一緒に王が来てる……? それを知って思わず舌打ちをする。自然と力が手にこもる。


「ここにいた痕跡はありましたが、もう引き払っているようでした」


 彗は淀みなく言葉を紡ぐ。地下帝国の民なら誰もが恐れる自分の父親を前にして怯むことのない鋼鉄の心を手に入れていた。

 もう、俺たちと一緒にいることに極端に依存しなくなるだろう。百合風や夜風がブラックボックスの犠牲になると決められたのも、そのおかげかもしれない。彗のことを気にしていたのは彼女たちも同じだ。ずっと気にしていたものが心から降りたのだ。安堵しないわけがない。

 しかし、彗がいくら気丈に振舞ったとはいえこの状況が打破できる可能性はないに等しい。あの王がでてきたのならなおさらだ。


「まずいな……。王がいるってことはここに黒服も来ている可能性もあるな」

「えぇ……。それにいくら彗が王を説得しようとしても今の王が折れることはないでしょうから……痺れを切らして突っ込んできたらおしまいだわ……」

「……八方塞」


 いいアイディアを思いつくことができないままに、時が進む。

 何かを考えなければいけないのにそれすらできない。


「ま、待って! 父さん! ここには誰もいない! いないんだよ! 信じてよ……なんで信じてくれないんだよ、父さん!」

「……」


 彗の焦りと怒りが付与された音声が、耳を刺激し、体を震えさせる。

 ダメだ、何か、何かないのか。

 焦りから俺たちは何も考えることができず、緊張の面持ちで玄関扉を見守ってしまう。

 ゆっくりと扉が、俺たちを絶望へ導く扉が開かれてしまう。

 やめろ、やめてくれ。拓也を見つけないでくれ。

 祈ったこともない神様に祈ろうとするけれど、俺たちにとっての神様とはブラックボックスのことで……俺の知っている神様はそんな全知全能ではなくて、願いが聞き届けられることは、なかった。

 ガチャっと無機質に、静寂に包まれた乾いた音が、耳に届けられると玄関扉が開いていた。

 そこには、彗の父親であって――地下帝国の王である威厳を見に纏わせた男が悪魔のように、君臨していた。


 ……


 王の突入から、事態は急転直下した。

 王に続いて黒服や保安部隊たちが続々と老朽化した家の窓から進入し、拓也を発見して捕縛する。

 その間も彗は必死で王にしがみつこうとして黒服に地面へ伏せられる。ばたばたともがいても、黒服の力に為すすべもなかった。吼える獅子のように目を滾らせ、睨みつけても王は話すことなどないと言わんばかりに、彗を振り返ることはなかった。

 拓也が、黒服たちに拘束され連れていかれようとしている。

 俺はその光景を虚ろな目で見ている。

 もう、どうしようもない。

 そうやって諦めてしまったから、足が棒のように動かないのかもしれない。

 百合風は何度か声をだそうとしても、喉に言葉がつっかえてでてこないようで苦しそうに顔を歪める。

 夜風は達観した表情で、物事を静観しているようだ。何をしても無駄だと、悟ってしまっているのかもしれない。

 それは俺も同じことで、王が現れた時点で俺たちは詰み。あとは激流に身を任せるしか手段はなかった。

 彗だけが、この状況に勇敢な意思を滾らせて抗おうとしている。しかしそれはただ空回りするだけの行為で、王の目前では全てが受け流されてしまっている。


「……父さん、父さん……やめてって、言ってるじゃ、ないか……!」


 次第に搾り出す言葉は微弱なものとなっていく。目にも涙が浮かび始めて、悔しく表情が歪む。

 拓也を連行したのち、王に耳打ちされた黒服に着いてくるように、と促されて静かに頷き返し、俺たちは人形のように歩きだした。

 心を包む暗黒の絶望は今まさに始まったばかり。


 ……


 連行された先で王位の間に通される。王は、ゆっくりと威厳を満ちさせた歩きで、玉座に座り肘をついた。


「あの地上世界の者は観測者であるお前たちの関係者で、間違いないな?」

「……」


 威圧感を感じる言葉に静かに頷く。

 隣にうな垂れる百合風は生気の抜けた目で床の一点を見つめる。夜風は無表情に成り行きを見守っている。

 彗は王に逆らったとして、自室で待機させられている。普通なら刑務所行きなのだから、寛容な処置をさせてもらったと思うべきだろう。

 王は静寂の怒りを身に纏わせる。眼光から発せられる怒りに、思わず立ちすくみそうになった。


「お前たちがあの者を手引きしたか? ならば、私はお前たちを罪で処刑せざるを得なくなる」


 夜風は一歩前にでて、肩膝をつき、王を確かな意思が灯る目で見て真実を述べた。


「あの者は自ら全てを導きだし、こちらの世界にきました。私たちの存在に気づくためのヒントが与えられたのはブラックボックスの暴走で時間が撒き戻る際、比較的近くに私たちの傍に居てしまったからでしょう」

「不幸な事故が原因、だと?」

「……はい。その通りです」

「ふん……それで、お前たちは偶然の事故だから、あの地上世界人を助けろということか?」


 夜風は、一体どうするつもりなんだ。一体そんなことを王に話して何をしてもらおうとしているのか?

 まさか……。

 俺が一つの可能性に思い当たると同時に夜風は決意のこもった口を開いた。


「そうではありません。あの地上世界人は誰が手引きしたものでもない。私たちは無関係です」

「ほう……」


 王は唇をにっとあげて、不気味なまでの笑顔を作った。


「それで、いいのだな?」


 王は夜風に――俺たち観測者に確認する。

 俺たちは老朽化した家に拓也と居た。そして彗が家に入らせまいと説得しようとしたことを知っているはずなのに、地上世界の人である拓也を庇った罪を全て拓也がやったこととして終わらせようとしている。

 拓也の命が知らないところで賭けられていた。

 夜風の考えは、理解できる。地上世界から現れた拓也を秘密裏に地上世界に戻そうとしていた俺たちは国家反逆罪として観測者とはいえ、全員がブラックボックスのエネルギーとして吸収される形で処刑されてしまうだろう。

 それは王の望むところではないはずで、観測者を全員殺してしまえばブラックボックスにどのように影響を与えるかもわからない。だから夜風もそこに付け込む。

 誰もが死ぬ選択ではなく、誰かが死ぬことによって助かる選択をしようとしている。王もそれに都合よく乗っかってきた。

 それは非道な行いで、人として、最悪最低だ。

 ただ、俺たちはその選択をしなければ生き残ることができない。夜風は誰かを犠牲にすることで、のちに続く俺と彗を助ける選択をしたのだろう……。

 迷うことなんてない。首を横に振ってこんな取引は認められないと夜風に一言、言えばいい。

 だが、そんな一言は言えるはずもない。俺と彗はこいつらに、守られていると自覚してしまったのだから。

 夜風は一言、悪魔のように王へ囁く。


「この提案を呑んで頂ければ、私と百合風はブラックボックスのエネルギーとして、即座に……生贄になります」


 この一言にどれだけの重みがあっただろうか。王には軽いものだろうか、生贄になるのは当たり前のことだと思っていたのだろうか。少なくとも俺には一世一代を賭した言葉であると認識する。

 百合風は噛んでいた唇を解放し、王を仰ぎ見る。決意を滲ませた目で肩膝をつく。まるで、自分も生贄になることを承知していると自己表明しているようだった。

 行動で示すというもっとも単純で、もっとも効果のある光景に、目の前が底なしの穴に落ちたように真っ暗になった。夜風と百合風の決意は身に染みてわかっていたし、頭で理解もしていた。

 それでも実際言葉にして命を賭ける現場に遭遇してしまうと何も言えなくなってしまう。考えることを脳がやめて、力が抜けていく。

 くたっと倒れ落ちる俺を前に王は満足そうに立ち上がって王位の間から出て行こうとする。振り向きもせず、言葉を継げた。


「午後七時にブラックボックスエネルギー補給及び地上世界人の処刑を行う。観測者二名は七時までにブラックボックスに集合しろ、以上だ」


 生気のない目で、王の背後を見つめる。

 巨大な背中に確固たる意思を持って非常なる冷酷さを持つ王はまさに鬼神のようで、王の決定に何も言えず、見送ってしまった。


 ……


「……よかった」


 力なく倒れる俺に、夜風は安堵に満ちた表情でぽつりと呟いた。

 その言葉に、少しカチンときてしまう。


「お前らの命と拓也の命で俺と彗の命を救ったことか……? 全然よくないだろ!」


 王位の間で、自分勝手な叫び声が反響し響き渡る。

 夜風は寂しそうなのに柔らかく笑顔で、月のように透き通った声で、語りかけてくる。


「……私は、それほど知らない誰かの幸せより身近な人の幸せを取る。あなたたちに生きて欲しいから、それを選んだだけ」

「やっぱり全部俺たちのせいかよ……あとに残された奴はそんな重いものを託されてどうすりゃ、いいんだよ……そんなことに、拓也の命を使ってもいいってか!? そんなことないだろ!」

「……そう。でも私には彗と――が助かれば、それでいい。拓也が地下世界に来てしまったのは不幸な事故で、私たちには、関係のない、こと。あなたたちを助けられるなら、私は利用できるものは利用する」


 次第に抑揚をなくす声は、どこまでも張りがなく生気が抜けてしまったようで……必死に感情を押し殺した声はどこまでも平坦に響く。

 夜風は冷静で、あくまで現実思考だった。万が一の奇跡にも、可能性にも賭けない。拓也をこれから逃がすのは不可能に近く、それならその状況を利用して、拓也に関与していたものは誰一人としていない……自分たちは無実だと無理やり証明した。

 王なら、俺たちが拓也を地上世界に返そうとしたとわかったら確実に殺そうとするはずだ。ブラックボックスに異変が起ころうとも、それが不本意でも王としての責務を果たそうとする。

 しかし、互いの利害が一致さえしていればそれは成立しない。

 王はブラックボックスから与えられた観測者という役割を持った者を全部殺したくない……いや、待て――なら、夜風の利益とはなんだ?

 俺と彗が生き残ることの、どこが利益だ? いくら長年連れ添って育った親友同士とはいえ自分の命を賭する理由には、程遠く感じる。

 もしそれができるなら、それは自分の命を顧みない愚か者か無理と無茶を勘違いしているような人間だ。

 もしかして、彗なのだろうか。

 彗と夜風は百合風に彗が諭されて以降に急接近しているようだった。老朽化した家でも、見せた彗の笑顔はすぐに思い出せる。恥ずかしそうで、でも見ている側を甘酸っぱい気持ちにさせる笑顔は初めて、みたのだ。

 一つの結論に至ってしまったことに、唇を震わせながら喉から言葉を押し出そうとする。

 夜風はわざと憎まれ口を叩かれるような言い方をしていた。それはつまり、隠したいことがあるからに違いない。

 もし隠したいことが彗のことなのだとしたら、俺は何か言えるだろうか? そんな風に考えながらも、唇は――本能は言葉を紡いでいた。


「彗の、ことか……? お前がそんなに感情を押し殺して、喋るのは彗のことを、思っているから、か? 夜風が生き残れなくても俺が生き残ってれば、彗の力になれると……?」


 夜風の目が驚きに見開かれる。次第に瞳は濁り、端から一筋の涙が零れ落ちた。

 感情のダム決壊が崩壊したように涙がいくらでもあとからあとから落ちゆく。


「そうだよ……ッ!」


 抑揚のなかった声から抑揚が戻り、怒りにも似た叫び声が空気を震撼させる。夜風が怒りに身を任せて感情を吐露する。

 それは、彗の真実を知らせる言葉だった。


「地下帝国に居たくないって言っても彗の心はいつも地下帝国にあった! 王の重圧に怯えながらも、王に依存していた! 小さい頃からずっとずっと――王に縛られ続けてきた彗はブラックボックスのエネルギーが失われて、地下帝国がこのまま自然崩壊してしまったら自分を憎み、妬むくらいに絶望する! だから私は彗のために、彼を守るためにブラックボックスの生贄になるって決意した! たった一つの"最愛"を守るために!」


 夜風の言葉に、心がぐらぐらと天変地異でも起こっているかのように揺れる。呆然と夜風を見上げて呟く。


「お前は、たった一人の"最愛"のために、全部を命まで、賭けられるのか……? それで、お前はいいのか、幸せ、なのか……?」


 俺の瞳を真っ直ぐ見つめる夜風は、ゆっくりと涙に頬を濡らしながらも月のように輝かしく頷いた。

 一人の"最愛"のためにここまでできる。なんて輝かしい魂を秘めていたんだろう。

 自分の命を使って"最愛"の人を守る、なんて誰でもできることではなくて、人によっては馬鹿らしいと思われることでも、夜風はそれを選んだ。

 百合風に聞かされた決意にただ言葉を失うことしかできなかった俺には、到底真似できないことだ。

 でも――俺は――。


「わかった……夜風の気持ち、ちゃんと、受け取った」


 お茶を濁すように言葉をゆらゆらと紡ぐ。心の通わない笑顔を浮かべる。

 とても酷い顔をしていただろう。夜風の気持ちを裏切るような目をしていただろう。

 それでも、夜風は俺の瞳をじっくりと観察し、見つめて言った。


「……ありがとう。あなたの気持ちも、受け取った。先に行ってる」


 お礼を述べてから夜風は王位の間からすたすたと立ち去る。思わず、驚愕に目を見張る。

 俺の気持ちを、受け取った……?

 瞳を見て、気持ち全てを理解しても、なお俺を攻めず許すっていうのか、お前は……。


「きっと、許す許さないんじゃないんだよ」


 これまで静観して物事を俯き見守っていた百合風が、顔をあげて寂しく微笑む。


「夜風も、あなたも勝手なことを言ってる。託す託されるでもない、許す許されるでもない……きっと、夜風はただ聞いて欲しかったんだと思うよ。彗には言うことのできない思いを、願いを……誰かに聞いてもらいたかっただけ……」


 じっくりと思いを呟く百合風は視線を移動させて、王位の間から廊下に続く、開け放たれた大きな扉を見つめる。扉の先はこれから訪れるであろう彗に対する試練のように黒く、絶望的な色に染まっていた。

 彗が夜風の死亡を告げられるのはきっと……夜風がブラックボックスの生贄になってからだろう。

 その時、あいつはどんな表情で世界を見るのだろう。色褪せた世界として、見てしまうのかもしれない。夜風をなぜ止めなかったのかと、怒られるのかもしれない……。

 でも、自分が死ぬ覚悟を持つ彼女を誰が止められようか。


「聞いてもらいたかっただけ、か……あいつの覚悟は、胸に刻んださ……」

「うん……」

「でも拓也のことはどうする……あいつは何も知らずに取引材料にされて、殺されるのか」


 百合風がふっと顔を伏せると目に前髪が、かかる。

 唯一表情として受け止められそうな桜色の唇は、苦しむように震えている。

 残酷なことを言っているのはわかってる……。拓也を犠牲にしなければ……例え王に都合のいい話でもそうしなければ俺たちが助からなかったことも。

 しばらくの静寂ののち、桜色の唇がか細く言葉を紡ぐ。百合風も、この決断に内心納得していないのだと思う。

 誰かを救うために、誰かを犠牲にする。そんなことが、大嫌いな奴だから。


「……しょうがないよ。拓也はどっちにしろ王に見つかった時点で終わり……前からあんたには言ってたはずよ。

 気をつけないとアイツは――拓也は殺されるって。

 巧妙に、匠に国が隠していた事実を知った……殺されても文句言えないわ。拓也が、私たちのことに気づかなければ平穏無事に暮らせた……はずよ」

「たら、れば……か。なぁ、百合風」

「どうしたの?」


 百合風はこっちを向かずそっぽを向いて返事をする。俺がこれから何を言わんとしているのか、理解しているのかもしれない。

 わずかな可能性を信じるのが悪いことだろうか? 俺はみんなと笑い合える未来がいい。俺たちには、普遍的でそんなちっぽけな未来すら許されないのだろうか。


「拓也を救出できないだろうか……なんとかしてアイツを助けて、それで全員地上に逃げる。逃げて、逃げて、追いかけなくなるまで逃げるんだ……」

「本気で言ってるの?」


 それまで扉を凝視していたであろう百合風が、正面に突然顔を表す。酷く失望したと、眉間に皺のよる顔で俺を睨む。


「いいだろ……小さな、ちっぽけな幸せを掴もうとして、何が悪いんだよ……」

「……!」


 吐き捨てるように言うと百合風に胸ぐらを掴まれて床に押し倒される。ひんやりとした冷たさに背中が刺されたようにすら感じる。


「もういいだろ、地下帝国のことなんて……いいじゃないか。もう……。

 うんざりなんだよ。地下帝国に振り回されて、俺たちはちゃんとやってきただろ! 百合風はみんなを助けてきたじゃねーかよ……自分の手が届く範囲で全部助けてきたのに、それがこの仕返しってそんなの、許せるもんじゃないだろ……」

「あんたまた泣いてるの……?」

「わりぃかよ……」


 いつの間にかまた涙の雫がぽろぽろと頬を伝う。俺、今日で何度泣いてるんだ。涙もろすぎるだろ……。

 ひんやりとした百合風の手が頬を壊れ物のように触ってくる。気持ちがよくて、思わず安堵してしまう。


「あたしのために泣いてくれてありがとうね。私はあんたが私たちが死んだあと、どうするかわかってる。

 でも、その選択に対して私は何も言わないよ……でも、できたら彗のこと、考えてあげてね」


 百合風の手が、すっと頬を離れる。

 俺は思わず躊躇いの息をだしてしまっても、百合風はそれに気づかないように王位の間からでようと歩みを進める。


「待てよ、待ってくれよ……なぁ、百合風」


 情けない声をだして百合風を求める。俺にはお前という"最愛"が必要なんだよ……どうしてそれをわかってくれないんだよ! どうしてお前は別のところに行こうとするんだよ!

 百合風は王位の間の扉の前で立ち止まって、あくまで感情を押し殺し平坦に言った。


「私は、地下帝国を救うためなら、命を使う。それでしか救えないから……それを選択するわ。

 あなたが何の選択を選んだとしても、私はあなたを攻めたりしない……」


 ふっと百合風が振り返り、微笑む。

 優しさと後悔が弄り混ざった複雑な、透き通るような、彼女の笑みに、俺ただただ、天から天使が舞い降りたのではないかと思って見惚れる。


「だから、好きに生きてね。ずーっと、ずーっとあなたが幸せに暮らしてくれたら、私はそれだけで、満足だから……じゃあね」

「待っ――」


 俺の言葉は告げられぬまま、王位の間の扉が無慈悲に閉じられる。

 真っ黒な闇の中、ただ一人たたずむ。


「……ハハッ……アハハハハ……」


 笑い声とも、うめき声とも取れる卑屈な声は、王位の間を震わせた。


「そうだよな……もう、こんなところは、たくさんだ……ッ!」


 おぼつかない足でよろよろと立ち上がって朦朧とする意識のなか、俺はあてもなく歩き出す。

 これ以上、絶望を味わうくらいなら、なにも、なくて、いい。


 ……


 私は、王位の間からでて、一息ため息をついた。

 拓也を見殺しにすることに、なんの疑問も持っていないわけでもない、救えるなら、救いたい。

 拓也を救って、地下帝国から脱出したとしても五人での逃避行など目立ちすぎる。いずれ地下帝国の黒服や地上世界の警察に確保されて、終わり。

 それが定められた運命で、覆せない事象だから。


「どっちにしろ、できることじゃないんだよ……可能性なんて万に一つもありえない」

「……よかったの?」


 柱の影から、夜風がそっと現れる。

 その瞳を見据える。

 憂いを帯びた瞳は、私のことを心配しているのだと確信させた。私にとっての"最愛"は彼だ。

 彼についていかないのか、そう瞳で物語っている。二人でなら逃げれるかもしれない。あなたたちは平和に、暮らしてほしいと願っている瞳だ。


「これでよかったのよ。私は地下帝国のために働く観測者――ブラックボックスに運命を定められた子羊……だから」

「……やっぱり」


 夜風が、子供のように口を尖らせて拗ねた顔になる。


「やっぱりってあなたもでしょ。ブラックボックスを使って最後の結末を覗いてしまったのは、夜風も一緒……」

「……うん。私たちが死ぬ未来は以前から決められてたことだし、今更だったから」

「覚悟はできてた、よね。それでも、死にたくなんか、ない……"最愛"と一緒にいたいって思っちゃうけどそうしたら、全員が死ぬ。私はそんな未来は望まない。生まれさせちゃいけない……。夜風、最後に歩きながら色々話そうよ。

 最後の最後に、腹割って思いのたけぜーんぶ話しちゃおう!」

「……私はいつもそうしてる」

「だよね。私も、だよ」


 私たちは死へ歩きだす。

 ゆっくりとたっぷりと時間をかけながら最終地点へ向かう。

 後悔がないと言えば嘘になる。これまでの人生うまくやってきたつもりだけど、どうしても後悔はあとからあとから泡のように生まれてしまう。

 でも、意味はあった人生だ。

 "最愛"の人をこの手で守れるなら、それはとってもいいことなんじゃなかろうか。

 これが、私の、幸せ。

 夜風と私の"最愛"の人を守る最高で自分勝手な幸せだった。


 ……


 俺はあてどなく、歩き回った。

 その間にも時間は無慈悲に経過して、現実を侵食する。

 目まぐるしく変わりゆく世界に時間よ止まれ、と命令しても時の歩みは止められることはない。

 一度始まってしまったものは終わりまで時を進めることを余儀なくされている。

 そして、一つの終わりが耳に届けられる。黒服から、百合風や夜風……拓也が死んだことを聞かされたのだ。

 ああ、もうそんなに時間がたったのか。

 俺は虚ろな目で扉の前にたつ。

 そして、無造作に扉を開け放つ。

 部屋は暗闇に満ちていて、そこで彗は膝を抱えてうずくまっていた。


「彗……」


 平坦で抑揚のない声で、喋りかける。

 俺にはもう、すがる物も何もない、だから感情なんてものも、ない。

 俺の声に彗は、俯いた顔をあげて救いを求める目で見てくる。


「あ……拓也が拓也が殺されちゃう。ねぇ、どうしよう! どうしたら……」


 まだ希望があると、救いを求められる瞳は滑稽にさえ、見える。

 事実を告げるのは躊躇われる。

 でも、俺の本能はそれを告げてしまった。あとで黒服から知らされるくらいなら、今知ったほうがいい……。


「百合風と夜風と拓也はもう死んだ。拓也は、もう、救えない」


 淡々と事実だけを告げる俺の顔はどうなっているんだろうか。笑っているのだろうか、泣いているのだろうか、怒り狂った表情をしているのだろうか。

 彗は驚愕に目を見開いて、信じられないといった風に首を横に振る。


「うそ、だよね……夜風が死んだなんて……嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ……嘘だッ!」

「……俺は地下帝国を捨てる。もうこんな場所には一秒たりともいられない」

「なに、言ってるの? ――くん……捨てるって……」


 希望があると、救いがあると信じていた彗の目が次第に黒く濁る。絶望を知らされて、暗黒へ堕ちる。


「……じゃあな。彗」


 さっさと告げることは告げて、俺は歩きだした。

 後ろでは彗が泣き喚く声が永遠と外に漏れでている。

 ごめん、夜風。

 俺はお前に彗を頼むと言われたけれどこんな場所、もう捨てていいとすら思えてしまった。

 地下帝国を救おうと、今の現状を変えようとしたけれど、そんなものただのまやかし、幻想だ。

 俺は、地下帝国の呪縛から逃げることを選択する。

 百合風にも顔向けできない。

 顔向けできなくても、もういいと思った。

 うんざりだ。

 全てのしがらみから逃げようとする俺は、最低最悪の男だ。


 ……


 ブラックボックスは俺たちに観測者という強大な責務を与えた。

 観測者は、地下帝国で動けないブラックボックスの変わりに目として地上世界を見て、ブラックボックスに地上世界を伝えるということを目的を課した者たちのことを指す言葉だ。

 観測者なんて制度がいつブラックボックスに導入されたか、なんてことは解明されていない。

 分かっているのは俺たちの世代が最初の観測者だったということだ。

 もしかしたら願望を叶えてくれるブラックボックスへのお礼に風が吹き、太陽がさんさんと輝く地上を見せてあげたいと願った人がいたのかもしれないし、ブラックボックスが地上世界を見たくて動けない自分の代わりに見てこい、というブラックボックスの自分勝手な我がままが具現化したものが観測者という制度なのかもしれない。

 俺と百合風と夜風と彗は、ブラックボックスにきっちりと地上世界の魅力を伝えられたのではないかと、思う。

 観測者として覚醒してから、ブラックボックスの意思というものを垣間見る時は少なからずあった。とは言っても感覚のようなものなので、本当に垣間見たのかは時間の経ってしまった俺には、知るよしもなかった。

 観測者というのは俺たちの環境を良くも悪くも、変えてしまった。

 地下帝国のことを変えると意気込んでいた俺は、正直言ってただ理想だけを追い求める子供だった。

 今にして思えば、百合風と夜風と彗さえいれば、閉塞した地下帝国に風を通して全てを変革させることも可能だと信じる純真無垢な現実が見えていない愚か者と百合風と夜風に罵られても仕方のない人間だと思う。

 心の中で、奥底の隅っこで反響される言葉が胸をぐちゃぐちゃに突き刺すように響く。どうしようもない、人間なんだ。

 俺は"逃げた"。全てを放り捨てて、しがらみという呪縛から逃れようとした。キッカケは忘れようとしても乾いてこびりつく血のように記憶を蝕み続ける。 

 お前のせいだ。

 お前のせいだ。

 お前のせいだ。

 お前の、せいだ。

 やめろ!

 やめろ!

 やめろ!

 やめ、ろ!

 何をしていても反響し続ける声は俺を無慈悲に攻め立てる。百合風の太陽のように明るい声で攻めるな! 夜風の月のように静かな声で攻めるな!

 あいつらはそんなことは言わないと否定しつつも、どこかで憎まれているのではないか攻めたてられるのは当然ではないかと理解してしまう。

 あの時――何ができた?

 俺は精一杯考えて結論を出して行動したんだ!

 もうあんな場所にはいられなかったんだ! あの場所にこれ以上いたら俺の精神はずたぼろに壊されていた!

 だから、全てを捨てて逃げて、逃げて、三十年も時がたった。

 その間に、追ってがこなかったのは幸運だったのか、はたまた一人程度なら何も考えることはないと、思われていたのか。

 俺は幻無高校の先生として、生活を確立させていった。

 先生、先生、と生徒から慕われる。

 でも、それで優越感に浸ることはなかった。頼られるたびに、心臓が刺されたように痛む。

 生徒の問題に親身になって接するのも、地下帝国から逃げて俺の贖罪だった。百合風がやっていた人に手を差し伸べることを永遠と求められるがままに、やってきた。

 ある時、俺とは違う観測者が現れて、卒業していった。

 そいつらは笑顔で地下帝国に戻っていく。俺たちみたいな葛藤は何も、ない。

 憎らしいとすら、少し思ってしまう。

 俺たちはあんなにも傷ついたのに、あの観測者たちはただ、ただ笑いあっているだけ……何を間違えた? 俺たちが何をした?

 そして、アイツが――神風 核が入学してきた。

 人目見た時から神風 核の異常性を理解できたのは一重に俺が未だに観測者だったからだろう。

 観測者に一度なってしまえば、観測者の任を解かれることはないらしい。

 神風 核の周りには、三人の女の子がいた。

 美風 優衣、古風 愛瑠そして、兎風 凛の三人だ。

 兎風という文字を見た時には心臓が止まりそうになるほど心音が高まった。

 彗の娘ということ、だろう。彗はあのあと子を授かったのか、時がたって悲しみが癒えた、ということなのだろうと、自分に都合のいい解釈をする。

 神風 核を取り巻く環境はブラックボックスの時間逆行や、彼自身の異常性で全てを変えていった。

 俺は、地下帝国にはもう関わらない。

 だから、ずっと、逃げている。

 逃げて、逃げて、罪の意識から目を逸らす。

 どれだけ罵られようとそれは俺が数十年の間に手に入れた蘇生術だった。

 あいつらに手は貸せない、貸さない……そう、願う。

 百合風と夜風に託されたものから逃げた俺には、地下帝国に関わる、そんな資格すらないのだから。


 Lost episode 「END」


 last episode:Like the wind へ続く。

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