Lost episodeⅢ
Lost episodeⅢ
龍馬 拓也とブラックボックスの祭壇で出会ってから数分後に刑務所から離脱して、ブラックボックスと接触して知ってしまった絶望に押しつぶされないように、何も考えないようにしていた。
地下帝国の人間は最近人口増加の一途を辿っていたとはいえ、人との繋がりは人口が少なかった頃と伝統のように変わらない。
そのため、もし拓也が地下帝国の人間に見つかってしまえば、地下帝国の存在を知った地上人として通報されるだろう。その後待っているのはただの処刑で、地上世界では行方不明として処理されてしまうだろう……。
だから、俺たちは拓也が地下帝国の人間に見つからないように、人がそれほど立ち寄ることのない公園に訪れていた。
そしてついた途端の拓也の一言がこれである。
「ところでさ、ここ、どこなんだ? 青空も雲も太陽も風も……何もない。何を見てもどこか閉鎖的で無明の闇にいるみたいだ。ここ、地球では、ないよな?」
拓也は少し眉をひそめて天井を見上げる。地上のように無限に続くように感じられる空は存在せず、太陽による眩くて浴びれば元気の出るような光も存在しない。薄暗くて心を覆ってしまいそうな天井があるだけだ。心の闇を吹き飛ばすかのように優しく吹く風もない。
ここには、地上世界の生活で必需となっているであろうものが何もない。外にでても感じるものがなにもないのだ。
現時刻は朝の七時で、そろそろ地下帝国の民たちが起きてくる頃だ。早く解決しなければならない、と思いつつも拓也の質問に全員が無言を突き通す。
下手なことを喋ってしまったら拓也に危害が及ぶ。今ここで何も見なかった、何も知らないままにさせれば拓也はまだ普通に生きていける。
まだ、地下帝国という言葉すら知らないであろう拓也なら、地下帝国に狙われることもなく心と体の安寧を取り戻せる。
心を決めて、一歩踏み出す。
「拓也、お前をこれから元の世界に戻す。お前は何も見なかった。何も知らなかった。いいな?」
俺の言葉に目を細めて、拓也はほくそ笑んで納得した、と言った顔をした。
何だ……? 何を笑うことがある。ここで素直に頷いてくれればお前を元の世界に戻せる。とっととこの問題を解決して百合風たちのことを考えなければならない。そんな風に考えていたのが悪かった。
俺は見落としていたのだ、龍馬 拓也という人間を見くびっていた。
龍馬 拓也は洞察力に優れ、感が鋭くてそれでいて好奇心旺盛であり行動力もあることを……。拓也が何かを発見すればそれは、知らざるを得ない。それが不思議なことであれば尚のこと。
「……――は、この世界のことを知られたくない。そうなんだよな?」
「……」
無言を肯定と受け取ったのか、拓也がさっきとはまるで違う、好きなおもちゃを買ってもらった子供のように目を輝かせて言う。
「この世界は幻無高校の大樹と繋がっていて、この世界の人間であるお前達はその呪文を唱えるとこっちにこれる! 世界がこんなにも薄暗いのは地下にあってここが元から空がないからだ! この世界はそうだな――一昔前にテレビでよくやってた国で、名前はなんつったっけな……ああ、そうそう地下帝国ってところだろ!?」
目を輝かせて何かを暴けて嬉しそうなアイツを見てられなくて、思わず目をそらす。俺たちが与えてしまったヒントはそう多くないはずだ。なのに、ここが地下だと言い当ててしまうのは感がなせる技か。
「拓也くん、あなたの言うとおりだとしてもここが地下なんて証明する証拠はある?」
百合風が一歩踏み出して余裕のある表情で言った。
拓也の物言いは感で裏づけされた薄っぺらい自論だ。ここが地上世界とさえ認識させられれば問題はないに等しい。しかし、ここが地上世界だと言って信じるものはいないだろう。
なにせ、空がなくて風もなにもないのだから。
建物の中にしても、これまでの時間俺たちに会わなかったということはある程度この世界における住宅を知っているということだ。つまり地上世界ではありえない、場所と認識しているはず。
「そうだな……」
まずは、と拓也は前置きして真剣な眼差しを向けてくる。全てを見透かしてそっと忍び寄って心の内を覗かれていると感じさせる瞳に一抹の恐怖を抱いた。
「お前たちの存在について俺はあくまで想像することしかできない。しかし、お前たちが現れてからというもの学校内で学校関係者ではない黒服にサングラスをかけた人間が目撃されている」
口には出さないまでも動揺する。
黒服は地下帝国で主に王や政治家の警護を担当したり水面下で問題の解決にあたる警察の実行部隊のようなものだ。俺たちにつけられた護衛は警護の意味合いもあるが、つけられたもっともな理由は俺たちが地上世界の人間に地下世界のことを暴露しないための監視役だ。
地上世界の人間に地下世界の存在がバレてしまうとたちまち噂になって広がっていく。一人にバレたところで、と思うかもしれないが人の噂の拡大、誇張は凄まじいものがあり、決して軽視できるものではなかった。
もし地下世界の人間だとばれた際に真実を知ってしまった人間を人知れず地下世界に送り、処刑する。そんな役割を持ったのが黒服だった。実際に地下帝国があるという真実にたどりついてしまった数人は……処刑されている。
地下帝国という荒波に飲まれて、死んでしまっている。
なぜ、そこまで地下帝国の存在がバレてしまうのを危惧してしまうのか、それは世界に存在がバレてしまえば地下帝国のブラックボックス、その特性が明らかにされてしまう可能性があるからだ。
もし特性がバレて、時間遡行のことが世界に広がってしまったら最後だ。日本はずるをしていたとして世界の矢面に晒されることとなる。
それ故に守らなければならない、秘匿されなければならないのだ。地下帝国の存在は。
もっともな理由は地下帝国の存在を知られるのが地下帝国の老人政治家には許せないというただのプライドの、人としての問題だった。
プライドだけが肥大化した風船のような奴らなのだ。地下帝国を担っている政治家は……。
拓也は俺の考えていることなど意にも介さずに話を続けようとする。
もうやめろ……それ以上、口にするんじゃない。
「その顔、知らなかったって顔だ。学校じゃけっこう噂になってたんだぜ。黒服がいるってな。でも職員達は見間違いだろう……で済ます。職員たちに口止めをしていたのは大方国自体だろう。しばらく俺の足で全てを調べた……しかし、情報は一向に現れない。
どんな奴が黒服を操っているのか……俺の好奇心はもうとめられなかった。
そんな時だ。テレビで地下帝国という存在を報道していたのは……。一般人にとってその番組は嘘、デマの類にしか見えなかっただろう。地下に空洞があってそこに国が存在しているだとか、扉があるだとか。取るに足らない情報かもしれない、しかし俺はそれに縋るしかなかった。好奇心を満たすために調べるしかなかった。
嘘の中に本当の話を混ぜて真実を奥底に、もっと隠蔽するのは古来からやってこられた人間の摂理だ。
俺は必死で地下帝国の情報を探した。あらゆる箇所に散らばったピースと言う名の真実を集めた。そうこうしているうちに俺は巨大な壁にぶち当たった。
実際に地下帝国の人間が居なかったことがその壁だ。いくら何を調べてもそれが根本的条件にあり、人間がいなければ地下帝国という文明は成立しない。
そして、地下帝国がある、と確信したのは一日前のことだ」
拓也の嬉々とした言葉に百合風と目を見開いて顔を見合わせる。百合風の顔色が異常事態が起こってしまった、と物語っていた。
おそらく……百合風と俺は同じ結論を、正解を導いている。拓也は答え合わせのように言葉を紡いだ。
「俺はその日、――の部屋の扉を開けた。その時に眩い光に巻き込まれて気づくと俺は知っている時間の前に居た。テレビをつけても過去の出来事を記憶そのままなぞることをやっていた。テレビのアナウンサーが日にちを間違えて誰も訂正しないのは異常なことだろう? その時、思ったんだ。俺は時間を飛んだってな。不思議と違和感や取り乱すことはなかった。むしろ好奇心にそそられて、その日は心で謝りながらもお前たちを監視してた。これは最低の行為だ。謝る、すまなかった。
だが、そのおかげで俺はこんな場所にこられた! まさか夜更けに大樹に集合するとは思わなかったし光るとも思わなかったけどな!」
どうだ! と言わんばかりに拓也が誰とも構わず指差す。
失念していた。いつもとはまるっきり違う出来事にだけ関心がいっていた。
もしも観測者の周囲に人間が居る場合その人物はブラックボックスから記憶消去の除外を受ける可能性があるとしたならば?
龍馬 拓也は時間逆行の際に俺と百合風の傍に居てしまった。それが原因で記憶消去を免れたとしたら……?
普通の人間ならこうはならなかっただろう。取り乱し、親に連絡したりして誰の目に触れることもなく解決したかもしれない……。
バレた相手が悪かった。海よりも深い好奇心を持つ拓也は自力で真実に辿りついてしまった。
それが台風に自ら飛び込むような行為だと知らずに拓也は気づいてしまった。草陰に丁寧に、巧妙に隠されていた事実を草を刈り分けて見つけ、自ら乗り込んだ。
俺は一瞬ふらついて、俯いてしまいそうになる頭を手で支えて、尚も指差し続ける拓也に掠れた声で言った。
「お前は、地下帝国があると知って……何をしたいんだ……? 世間への地下帝国の公表か? 学校で地下帝国があると広めたいだけか? 地下帝国に地上の人を呼び込みたいのか? 何が……何が目的だッ!」
話出すと止まらずに、思わず最後は語気が強くなってしまった。
もう余裕なんてないんだ。俺たちは百合風と夜風をどうにかして助ける手立てを立てないと、全てを失う。
でも、それにかまけて……もし拓也が地下帝国で殺されてしまったら、俺たちは笑顔でいられない。例え、百合風と夜風を救えてもそれでは意味がない。
「拓也が欲しいのは地下帝国を見つけたという名誉か!? 地位か!? なんだ、なんなんだよ……ッ!」
独り言をうわ言のように繰り出す。思考が底なしの沼に落ちゆく……足が、腕が、沼に沈んで動かなくなっていく。そんな錯覚が全身を支配する。
どうすれば――どうすれば――どうすれば――どうすれば――。
何度も反復する言葉が銃弾のように飛び交う。心臓が破裂しそうな音だけが自分を、現実を認識させる。
何を考えても悪循環に陥る。そうこうしているうちに限界が来てしまったのか、足元の地面が突然裂かれる錯覚と共に、俺の脚は崩れ落ちた。
「ちょっと何倒れようとしてるのよ……あんた」
神速の速さで百合風が隣に現れ、支えてくれる。自身の悪循環に耐えながらも、百合風にお礼を言う。百合風の顔は泣きそうに歪んでいた。
「……ありがとう」
「お礼言ってる場合じゃないでしょ。肩に捕まって……」
肩につかまって、ゆっくりと上体を前かがみながらも立たせる。
荒い息で手を顔で抑える俺を心配そうに見ながら、拓也は申し訳なさそうに言った。
「俺は何がしたいわけじゃない……――が言うように、公表とか何かを手にしたいわけじゃない。ただ、知りたかっただけなんだ。地下帝国っていうのが本当にあるっていうのとか……何か不思議なことがあるんじゃないか、自分の知らないことがあるんじゃないかって思うと感情を止めることができなかったんだ。
それだけ声を荒げるってことは俺に悟られちゃいけない何かがあったということだろう? 興味本位で、来てしまって本当にすまないと思っている。この通りだ」
拓也は、頭を下げてあくまで実直に謝った。
その姿を見てふと我に帰って、心の中に生まれた言葉が思考を苛む。
俺は最低だ……。
百合風と夜風のこと、ブラックボックスのことで余裕がないとはいえ、拓也にあたるのは間違っている。そんな誰でも気づく簡単なことに気づかないほど動揺していた。
ふらついていた足は未だに笑っている。立つことはできなそうだが百合風が肩を貸してくれている。自分が大変で、絶望に包まれているだろうに人を気遣っている百合風が肩にまわしてくれた手の意味を、重みをかみ締めながら、拓也の瞳を見た。
瞳は後悔の念に揺らいでいて、自分が追い詰めてしまったと言いたげにしていた。
「謝るのは俺のほうだ。拓也が謝る必要はない……お前にドス黒い感情をぶつけるべきじゃなかった」
言い終わると頭を下げる。すると、百合風も支えにくいだろうに一緒に頭を下げてくれる。顔を見ると、今は笑えるほどの精神状態じゃないだろうに、満足そうに笑顔で微笑んでいた。
拓也が呆然として、表をあげる。俺は頭を下げたまま、言った。
「一つ、約束してほしい。地下帝国のことを地上に広めないでくれ……地下帝国は地上世界の人間に地下帝国の存在が広がるのを阻止しているんだ……。もし広めてしまったら、地下帝国の真実を知った全員が巻き込まれて、死ぬことになる。
そんなことにはしたくないんだ……だから、勝手なお願いだが、頼む……地下帝国のことは拓也の胸の中に仕舞っておいてくれないか。そうすれば、すべて丸く収まるはずだ……」
拓也は俺の率直な言葉を聞いて短く「わかった」と呟いた。
「ありがとう……」
「俺のほうが悪いんだ。みんなが隠そうとしている真実を好奇心で知ってしまった。――の話を聞く限り、地下帝国のことは日本の政府にとっても秘密事項のようで、マスコミを使ってまで、嘘と本当を混ぜるんだ、よっぽどのことなんだろう……。それに、そこまで焦るってことは長い時間ここにいるのすら、まずいんだろう? だったら早く帰ろうと思うんだ」
拓也の提案に、全員が顔を曇らせる。
その理由は、これからの時間にあった。
今は早朝で、大勢の人が起きだして闊歩する時間になる。地下帝国は暗闇で太陽すら昇らないが、一族の体内時計はしっかりとしており昼夜の管理はしっかりされている。これも、遺伝子によるもので、長年の習慣が染み付いたものらしい。
「俺、何かまずいこと言ったか……?」
首を横に振る。
拓也の提案は至極まともだ。これ以上関わらせないのなら可及的速やかに地上へ送り返すことが重要となる。地上へのゲート付近は許可された者以外近寄らず、ゲート起動のための言葉も何も知らないが、一定の警備体制はいつも敷かれている。夜になれば警備体制も薄くなってゲートへ侵入しやすくなるのだが……。
「拓也、こっちに来る時に通ったゲートがあると思うんだが、昼間は厳重な警備体制が敷かれているんだ……その中に、お前を放り込んだらきっと捕まってしまう……。だから夜まで間ってくれないか。夜になれば俺たちも全力でサポートして、お前を無事に地上へ送り届ける」
時間が過ぎれば過ぎるほど、何かしらの痕跡はついて回るものだ。今送り返せないのはとても苦しい状況だが、無謀とも言える場所に放り込むわけにもいかない。
「そうか、それはいいんだが、夜までどこに隠れればいいんだ? 話を聞く限り地下帝国の人に見つかったらアウトのようだし、何か隠れられる場所があればずっと隠れているが」
「どこか見つからなくて、隠れやすくていいところ、あったかな」
「……わからない」
「ねぇ、そろそろ重いんだけど……! 私の肩外れちゃう」
「あ、百合風……肩、貸してくれてありがとう」
緊張の糸が切れたのか、百合風の我慢できない、と言った言葉にお礼を述べてから、いつもどおりに足を立たせる。極度の緊張状態にあった状態からはどうやら俺は脱したらしい。息も荒くならず、足も笑っていない。
冷静になった頭で序列をつける。一度にやろうと、考えようとするから余計に混乱する。
今は百合風、夜風のことは心苦しいが、拓也の送還だけを考えよう。百合風と夜風も拓也のことが解決していない状態で何かをしようとする気にもならないはずだ。
地下帝国で、誰にも見つからず、隠れられる場所なんてあっただろうか。根本的に地下帝国はそこまでの広さは有していない。人口に比例した土地を持っているわけではないために、人が活動的になる昼間には人がいない場所なんてないくらいだ。
しばらく唸っていると彗が何か閃いたのか、手を手で叩く。思わず全員がその仕草に彗を見て、彗は手を手で叩いたのを見られて気恥ずかしかったのか頬を手で掻いて、名案であるように言った。
「みんな、僕らの秘密基地にいこう。あそこなら誰も寄ることなんてない。きっと拓也くんを隠せると思う。それに……少し寄っておきたいんだ」
提案に、百合風、夜風、俺が頷く。拓也は何がなにやらと言う顔だが頷いた。
誰もが小さい頃に抱いたことがあるであろう夢の場所――秘密基地。
そこは、観測者になる以前、何も知らない無垢な幼少期からの思い出が詰まった思い出の地だ。
……
遠い昔のことだ。
ブラックボックスは願望機だった。今でも願望機の根底は覆っていないものの、誰かが強く願ったことで、時間を戻したいとの願望を受け入れて。
あり得ないことを願う感情がブラックボックスの本質を変えてしまった。ブラックボックスはいつしか、時間を戻す謎の箱として地下帝国に君臨し、崇められ、利用されていた。
しかしそれ以前に、願望によって作られた太陽の光なく、際限ない暗闇でも育つ木があった。
地上の人から見れば本当に不気味であろう。
木が無秩序に生い茂って舗装されていない森林の中を俺たちは歩いていた。
沈み気味に、足並み遅く歩いているのだが、拓也だけは不思議な木に目を輝かせている。木を指差しながらテンション高く言った。
「うおぉぉ――! なんだこの木! 太陽の光がないのに木が立派に成長してるじゃないか! なぁ、これはどういう仕組みでこうなってるんだ!?」
「あんまりはしゃいでると迷子になるぞ。ここ、人が通らないことで有名で、完全に森林を把握してる人はいないんだからな
木が成長してるのは、なんていうか、地下帝国の中で進化した生物ってところだ」
拓也には申し訳ないが、本当のことを拓也に話すわけにはいかない。
ブラックボックスのことまで話してしまうと拓也は元に戻れるレールを失って、壁に阻まれてしまう。それだけは避けなければいけない。
拓也は俺の解説に余計なことは質問せずに「なるほど」と頷いて、また森林を観察している。
地下帝国に来たことからも明らかだったが、龍馬 拓也という男はどうやら好奇心が思考を先行してしまうと先走ってしまうらしい。学校でのイメージなんて当てにならないものだ。
彗や百合風や夜風は会話に参加する気はないらしく、少し俯き加減だ。
……秘密基地に行くというのは俺たちにも色々、思うところがある。意味のあることであるとみんな理解している、悟っているのだと思う。
拓也を連れて行くことにはなったが、元々俺は予定していたことでもある。ここには、俺たちの全てが詰まっているから。
無言で、森林を歩くこと数分後に、無秩序な森林を抜けた先にそれはあった。
森林の中にぽっかりと空いた穴のような場所で、そこだけ時間が止まったように、昔と変わらないままで存在していた。
俺たちの状況は刻々と変化しているのに、変化せず、さま変わりすることがなく、真ん中に所在無さげに古い一軒家が鎮座している。
木でできた家は元々の老朽化もあるようだが未だに自立している。もし、風があったならばそれだけで倒れそうなほど老朽化した家で、それが俺たちの秘密基地だった。
幼い頃に何もなくともみんなここで集まって、服が汚れるまで遊んでいた。
秘密基地は現在も変わることなく、今の俺のように百合風や夜風がいなくなることを、変わることを拒むのを許してくれるように、居た。
しばらく来ていなかったここを見て、ああ、やっぱり、と思った。
ここは、辛くても許してくれる、そんな気分になる場所だった。
……
玄関がなく、吹き抜けになった扉をくぐって老朽化した家に足を踏み入れるとまず足元の埃が踏み入れた足によってばら撒かれて、ツンとした埃が鼻腔を刺激した。
百合風が思わずその惨状に、鼻を摘まんで悪態をつく。
「うわぁ……こりゃ酷い。さすがに何年も来てなかったらこうなるものなのねぇ。まず片付けることから始めましょ」
そう言って、いつ備え付けたのかすら忘れた玄関付近に設置してあった箒入れから箒を取りだして、順番に配っていく。
「ありがとう」
「……ありがとう」
「おう」
百合風から配られる箒にそれぞれのお礼や反応をする中、もちろん拓也にも配ったのだが、文句を言うこともなく手にとった。
この光景は懐かしい。
久しぶりに来るとここはいつも埃が溜まっていたから、それをみんなで掃除するのがここに来て一番にやることだった。
彗や夜風も何か晴れ晴れとした顔で、自然に掃除を始める。
数時間前までは絶望に沈んでいたのに、そんなことは微塵も感じさせず、他愛のない会話をしながら埃を集める。拓也は楽しそうな光景に何か感銘を受けたのか、勇んで埃掃除に飛び込んでいった。自然に会話にも混ざる。
そこにいるのは、いつもの俺たちだった。
「ほーらッ!」
突然尻を叩かれて、景気のいい音が俺から響いた。
あまりの痛さに少し涙目になりながら百合風を見る。
「けっこう痛いぞ、それ」
「いい音したねぇ……大丈夫?」
「あれは痛そうだなー……」
「……男なんだから大丈夫」
「何勝手に断言してるんだ。夜風」
男共は掃除をしながら気遣ってくれているというのに、夜風は男をなんだと思ってるんだ。
「なんか泣きそうにしてサボってるからよ。ほら、早く掃除掃除! 時間は待ってくれないんだから!」
百合風は、箒を逆立てて柄の先を床にぶつけて、乾いた音が静かに響いた。
「そんなクラス委員長みたいなポーズしなくてもいいだろう。
わかってるよ……もう尻叩かれるのは勘弁だしな。真面目にやるよ」
「あはは、またサボってたらドラムの如く叩きにいくから覚悟しておきなさいよ」
目をキランとでも聞こえそうに光らせて、快活に笑いながら百合風は埃集めを開始した。
「んじゃ、頑張るか。たまーの、秘密基地掃除」
箒を担いで、もっとも埃が溜まってそうな場所で俺も掃除を始めた。
……
「ふぅー……やっと終わったか」
「お疲れ」
最後の埃をちりとりで清掃し終わる。
「おう。でも、まだ最後の掃除があるだろ」
彗の労いの一言に返事をしつつ、その辺に放り投げてあったぞうきんを拾って、彗にも渡してから水場へと向かった。拓也にはできるだけ出歩いてほしくないため、ここで待っていてくれ、と釘を刺すのも忘れない。
水場へ向かう途中で彗は顔を伏せながら言った。
「僕たちは、どうすればいいのかな……」
いつまでも先送りにはできない問題を彗は考えていた、らしい。
拓也の問題はあとは時間が解決する。でも時間が過ぎれば百合風と夜風はブラックボックスのエネルギー吸収のための犠牲になって、死ぬことを余儀なくされる。
考えすぎないように、俺はあくまで冷静に努めて答えにもならないものを、問いの答えとして提示した。
「わからない……。何を選んでも、何かを失う。そんな気がしてるんだ」
秘密基地の付近にある川の畔で、埃まみれになっているぞうきんを手洗いする。
彗は後ろで手を握りながら立ちつくしていた。
誰も答えを示せない。誰も、答えを知らない。
「僕は……僕は……。どうにかして、父さんを説得できないかって考えてるんだ」
漏れでたその言葉に、思わず目を見張って、彗を見る。
そこにいたのは、俯いた彗ではなく、以前までの他人に従って生きていた彗と違い、確固たる意思を持っていた。
自らの感覚でいえば一昨日までは、みんなに依存していた彗はしっかり成長していて、敷かれたレールに立ちはだかる壁と無明の闇に光を差し込もうとしていた。
「王を説得、か……。盲点なところだけど、本当にできるか? 大のために小を選ぶことはしない、理想の王だぞ、お前の父親は……それを説得するなんて、並大抵のことじゃないだろう」
彗は、わかっているとでもい言いたげに頷いて、拳を握って胸の位置に移動させた。それは決意が固まっているという意思表示でもあり、今まで従ってきた王に、父親に対して意見をするという彗にとっては、震えるような行為を勇気を持って覆すとも取れた。
「――くんのいう通り、並大抵のことで成し遂げられることじゃないけど、僕は今まで逃げてたんだから、挑戦したい。どんな道であっても、もう絶対に逃げることはしたくない。でも、僕一人だったら立ち止まってしまうこともあるかもしれない。だから、一緒に王を説得するのを手伝ってほしい……お願いできるかな?」
「お願い、なんてそんな言葉必要ないさ。俺とお前は親友だろ?」
「うん……正直言って、僕はみんなに依存してたのがバレて、呆れられてたんじゃないかって思ってたんだ」
「そんなことで呆れるわけ、ないだろ。どんなことがあっても、俺たちは親友だ。それは変わらない。それに、俺たちにそこまでちゃんとした意見を言ってくれることに俺は感動してるんだよ。父親との確執があるとわかってても、俺たちは彗との関係を壊すのが怖くて、言うことができなかった。ごめん」
「ううん、そこまで考えてくれてたなんて、ありがとう。僕たちこれで、本当の親友かな」
「さっきの言葉、聞いてなかったのか? 俺はちゃんと言ったぞ。俺とお前は親友だろって」
洗い終わったぞうきんを左手にもって、右手を握って彗の前に突きだす。
彗は面食らったような表情のあと、笑顔になって。これからやることを察して、同じように胸から拳を移動させて、拳を突き出した。
「うん。僕たちは、親友だ」
両者の拳がぶつかり合う。
男と男の誓い。
ずっと親友でいようとか、そんな青臭いけど俺たちには必要な、誓いの立て方だ。
「あっ……」
「ん? どうした、何か居たか?」
ふとした瞬間に、彗は目線を遠くに動かしていた。
俺も釣られて彗から目を背けて、目線を追う。
「森林なんかに入っていって、なにやってんだ、アイツは……?」
無秩序に木並ぶ森林に入っていこうとしているのは、白髪の長髪を無造作に揺らしている夜風だった。
顔は見えないが、足取り重く、その姿は何かに迷っているように感じられた。
「あ、あの、僕……」
心配そうに夜風が入っていった森林をチラチラと見る彗に俺は言った。
「そんなに心配なら行ってこい。拭き掃除は俺がやっておくから」
少し複雑そうな表情で俺と夜風が入っていった森林を見比べてから彗は神妙に頷いた。
「ありがとう。任せるね」
「おう、ちゃんと喋ってこいよ」
「うん!」
元気よく張り上げた声を残して、夜風を追いかけて彗は走っていった。ぞうきんは無造作に投げられており、空中で風が吹くこともなく、重力に従ってあっけなく落ちた。
心にちくりと刺す痛みに耐えながら、それを拾って、彗のあとを目で追い、俺は思わず心のうちで思っていたであろうことを呟いてしまった。
「ちゃんと喋れるのも、これで最後かもしれないんだから、しっかり喋っとけよ……彗」
俺の顔は笑っていなかっただろう。むしろ、これから起こりうる事態に対して、まだ絶望していた。先行きの見えないレールが敷かれた電車ほど、不安なものはないのだから。
彗がいくら父親である王を説得するといっても、長年王として君臨した者を説得するのはほぼ不可能と言ってもいいだろう。
最大限、彗の言ったことを実現できるよう努力はする。
でもそんなことで今までの政策を進めていた王が何か変わるとも思えない。
今の彗が親友を守るために確固たる意思を持つ者なら、彗の父親も地下帝国の民を守るために確固たる意思を持つ者なのだから、王が親友か、地下帝国の民のどっちを取るか、なんて自明の理であることだ。
地下帝国の民もいくら外にでたがっている――閉塞された状況を好んでいないとはいえ、今の安定した利益を得られる生活か、先の見えない暗闇に突入するか、なんて答えるまでもないだろう。
つまるところ、俺たちのやっていることは独善的であり、自らのしたいことをするただのエゴイズムだ。王として、地下帝国を率いるものとしては到底感化できない思想だろう。
彗もそのことに内心認めたくはないものの、そのことに気づいているから、いつ、何時いなくなるかわからない夜風の元に駆け足で向かったのだと思う。
実際には、彗は夜風のことを意識し始めている、ということも要因の一つだと思っている。
彗に一分一秒でも時間を共有したい相手が出たことは親友として好ましいことで、嬉しい。
でも、今にその状況に――恋愛という状況になってしまうのは、彗に過酷な現実を突きつけ、狂わせる、小さな時限爆弾のようなものだった。
……
僕は森林の中を走って、みっともなく息を切らしながら、不安げに歩く夜風の背中に追いつき、その背中に声を投げかけた。
「夜風!」
夜風は僕の声に立ち止まって、顔だけ振り向く。緩やかに白髪が、夜風の肩に流れる。その仕草はどこか、艶やかで儚く消えてしまいそうなのに僕は思わず胸を高鳴らせた。
どきどきと鼓動を早める心臓を落ち着かせようとしても、暴走した列車のようにそれは止まることを知らなかった。
そもそも、僕がこうやって夜風を意識するようになったのは、僕の考えを――勝手にみんなを自分の拠り所だと捉えている、と百合風に私的された時のことだった。
あくまで、自分のペースで追いついてきた夜風を見て、僕は思ったんだ。なんて、僕のことを分かっているんだろう。そんなに僕のことを知っていて、考えていてくれてたんだって……ちょろいと言われても仕方のないことだと思う。
たったそれだけで、僕は心臓が高鳴るのを阻止できなくなっていた。
夜風の話を聞くうちに、いつの間にか気づいたんだ。
僕という闇に、光を灯してくれた彼女――夜風が好きなんだって……。
――『……やっと追いついた』
――『何をしにきたのさ……僕は、最低の人間だッ。みんなを自らの拠り所として思うことで、自分を保ってきたんだ……みんなに嫌われた……』
――『……そんなことはない。少なくとも、みんなそんな風には思っていない。あなたの、勝手な想像』
――『……そうだよ、僕の勝手な想像だよッ! でも人の心が、本心がどこにあるかなんてわからないじゃないか……僕は、最低の屑だ』
――『ね、彗。百合風は覚悟、を試した』
――『覚悟……? なんだよそれ……王と話す覚悟って、こと?』
――『そう。その覚悟があるか聞いた。あなたは、地下帝国のために自分が嫌なことができるかって百合風は聞いたの。あなたが言った私たちと地下帝国を変えるっていう約束。それに伴うことを、質問した』
――『地下帝国を救うのに王と話せって、そんなのは無理だよ。あの人は僕の話を聞いてくれるわけない。一蹴される、だけだよ』
――『じゃあ、彗はどうして私たちと活動しようとしたの』
――『そんなのみんなが――あッ……』
――『みんなが、いるから? それじゃダメだって百合風は言いたかったんだよ。一番大切なのは、彗が地下帝国の今の現状を変えたいと思っているかどうか。それに私たちは対等な関係、依存をするな、とは言わない。けれど、依存するだけじゃ、私たちはこれ以上前に進めない、と思う』
――『……ッ。僕はいつもみんなのあとを付いてきた。だから、ここまでこれたのに、それを否定なんてできない、できることじゃないッ! それに僕は対等な関係だと――』
――『本当に、思ってる? 彗はみんながやるから、やる。それはただ流されてるだけ。自分の意思がない。私も、百合風も、――だって、自分で決めて地下帝国の現状を変えたいって思った。彗は、何をしたいの? それは、あなたが決めること、アドバイスはできるけど、最後に決めるのは彗』
――『……そう、だよね。みんながやるからやるって、全然対等の関係じゃないよね、僕は依存して、うぐ……ッ。それで守られてる気がして……気がしてッ。本当に安らか、だったんだ……』
夜風は泣き出した僕をその小柄な体で抱きしめた。言葉になっているようでなっていない言葉の羅列をゆっくり頷いて、聞いてくれた。その時、色々恥ずかしいことも言った気がする。
みんなとのこと、王と――父親とどうしたいのか、とか諸々だ。
心の中にあることを全てを吐露して、僕はやっと泣き止んだ。その時には、心の奥底で整理もついていた。
百合風は辛い言い方をしたけれど、それは僕のためで……ちゃんと足をつけて、みんなにおんぶに抱っこしてもらうんじゃなくて自分の意思で歩いて、ってことを言ってくれたのだと理解していた。
――くんは、僕をいつも見てくれてた。父親とのことを時々気にかけてくれていて、彼も迷って、迷って話しを振ってくれてたんだ。いつか、解決しなければならない問題だから……あとで、謝らないといけないな。
安心できるように、と真っ黒な夜に光輝く月のように静かに僕を包み込んでくれていた夜風にお礼を述べて、正面からしっかりと夜風を捉えた。
真っ黒な夜空に輝いて満月を背に柔和に微笑んでいる夜風を見て、幻想的な光景だと思った。
いつもは無表情で、淡白で、どこ吹く風の彼女がまるで満月の夜に現れる絶世の美女にすら、見えた。
言葉さえ発するのを忘れかけた僕は頭を振って、意識を現実に戻した。
今、そんなこと考えてる場合じゃないだろう、と。
――『ごめんね、夜風』
――『ありがとう、でいい。私と彗は、対等で、親友』
――『うん……ありがとう。みんなに、周囲に流されてて決めてた決意じゃなくて、どうしたいか、が固まった。僕は、みんなと地下帝国のために戦いたい。それと……お父さんと仲直り、したい。父もきっと悪い人じゃないんだ……だから、僕は寄りを戻したいと思ってる』
――『……分かった。私も、お父さんと寄りを戻したいっていうそれに、協力する』
――『ええ!? そんな、でもこれは僕の問題で……』
――『私は、対等な、親友。手伝うのに理由はいらない。私がやりたいから、手伝う。邪魔なら、いいけど』
――『ううん! 全然邪魔なんかじゃないよ! ありがとう、夜風!』
この一部始終が、僕が夜風を好きになってしまった顛末だった。弱った時に優しくされたからって、どんな単純な男だと思うだろう。
でも、その優しさに僕は惹かれた。
きっと、恋愛の始まりなんて、そんなものでいいんだと思う。
夜風は、僕の目を見てそれから不安そうにまた歩きだしてしまった。
それを追いかける。
「ちょっと待ってよ、夜風」
「……私には行くところがある。来る?」
あくまで前を見ながら、言った。
夜風の向かおうとしている場所に何があるか、なんて知らないけど、僕は迷うことなく即答した。
「うん」
「……わかった」
ゆっくりめの夜風と歩調を合わせ、森林を歩く。
横から見た夜風の綺麗な瞳は、どこか、虚ろで上の空だった。
……
しばらく森林特有の包まれるような静寂とともに、歩いた先に、夜風の目的地はあった。
そこは森林からぽっつりと忘れ去れるようにあるでこぼこの巨岩だった。円形の開けた場所には、巨岩以外には周囲数十メートルに何も生えておらず、巨岩の数十メートル奥にはまた森林が続いている。
左右を見渡しても木はあるけど、巨岩の周りには草木一つ生えていない。とっても不思議な、現象だった。
森林で周りに誰もいなくて、つまはじきにされているとさえ感じる巨岩に夜風は近づき、地べたに座った。
夜風は僕に「座らないの?」とでも言いたげな視線を投げかけていたので、僕もそれに続いて、座る。
僕が座ったのを確認すると夜風は巨岩に体を預けた。
でこぼこしていて一見痛そうだが、体を預けてみると案外フィット感があって、後ろを確認するとそこは少しくぼんでいて、僕の体にピッタリとハマっていた。
少し気持ちいいかも。
次いで、夜風はゆっくりと目を閉じた。それに習って、目を閉じる。
視界は真っ暗で、映るものはない。風もないから、木々がざわめく音も聞こえない。
夜風の息づかいだけが耳の印象に強く残る。
彼女は、いま、どんなことを考えているんだろう。
僕といる喜びだろうか、はたまた百合風のことだろうか、――くんのことだろうか、ブラックボックスのことだろうか、父のことだろうか――様々な想像が心を駆け巡った。
しばらくして、目を閉じながら、夜風に呼びかける。
「夜風」
「……なに?」
夜風は、ブラックボックスの犠牲になるつもりなのか――いきなり確信を述べようとして、思いとどまる。
もし、夜風がそれで首を縦に振って意思表示をしたら、僕はどうする……?
考えるまでもない。
絶対に、何を言われようと止めてしまう。それでも夜風はきっと自分の考えを変えないとも理解していた。
夜風は、いつも無表情で、飄々としているけど一度決めたことは梃子でも動かない人だから。
僕の無言に夜風は疑問を重ねる。
「……彗が気にしてるのは、ブラックボックスの、こと?」
夜風にはいつも悟られてしまう。何を考えているのか、何を思っているのか……。
夜風が目を開いているのかもわからないのに、僕は、震えて小さく頷いた。
「そう。私は、ブラックボックスの、生贄になる」
素っ気無く、呆気ない言葉を聞いた途端に時間が止まった気がした。
目が勝手に見開いて、夜風を思わず呆然と見つめる。
言葉にならない声が、心で反芻する。
なんで、どうして、そんな簡単にブラックボックスの生贄になるなんて言えるんだ!
夜風は、僕を満月のように輝く笑顔で見つめる。
その空間だけ切り取って、保存したいくらい、煌く笑顔なのに僕を見つめないで! 僕の父親のせいで、決断しようとしたんでしょう!?
そんなの嬉しくない。あんな父親の言うこと、真に受ける必要は、ない。
僕は俯き、乾いた喉に唾液を染み渡らせても、なお震える声帯を振り絞った。
「……ぼ、僕は……ッ! 僕は、そんなの……嬉しくないッ! そんな生贄になる、なんて……素っ気無く言うことじゃないでしょッ!?」
「……素っ気無く言ったつもりは、ない。私なりに、考えた末の答え」
俯いた顔を、夜風はその柔らかな両手を使って顔の正面に固定する。切なそうで、泣きそうな笑みを浮かべる彼女に、僕は何も言えなくなった。
感情で物事を図ってしまった。夜風の考えを、否定してしまった。
そんな考えを意にも介さず、夜風は言動を一言一句確かめるように言った。
「……私は、これを犠牲になる、なんて思ってない。これは、地下帝国に必要なことだから」
あまりに自分を考えない言い方に、僕は胸をチクリと刺す痛みに耐えながら話を待った。
次第に濁り始めた目を手の甲で払うこともせずに、夜風は続けた。
「地下帝国のためになることを、したい。いま、ここで私たちが逃げだしたらきっと地下帝国は終わってしまう。この、静かな場所も終わる。この地下帝国って場所が私は、好き。
閉塞的で、みんなの心が沈んでいても、ここで必死に生きる人々は生に必死で……そんな命の輝きが芽吹く場所だから、地下帝国が好き。
でも、それだけじゃいけなくて、たまには気分転換も必要……外の風を浴びればもっともっと、地下帝国の人は活気づいて、輝く場所になるはずだから……私は私が守りたいもののために――」
「……犠牲になるって……? そんなの、おかしいじゃないか……おかしい……。自分の幸せを捨てて、地下帝国のために何かしようって……そんなの自己満足だよ……」
「そうだよ。自己満足……だけどッだけどッそれで私は幸せ――」
必死に踏ん張って、最後の一言を紡ごうとした時、それは起きた。
必死に目の中で、心の中で保っていた濁りという名のダムが決壊した。それは、心の本音というものの決壊したのと同じだった。
夜風から目に溜まった涙が最初は小雨のように地面に降り注ぐ。
「――幸せ、だけど、幸せ、じゃないッ!。彗と居たい、地下帝国のためになりたいって思いがある……ッ、どぼじょう……こんなのじゃ、地下帝国のためっていぇない……。みんなの笑顔、みだい……でも、死ぬの、怖いよぉ……ぶりゃっくぼっくすのために、なんで、彗と分かれてまで、みんなと分かれてまで、死ななきゃならないの……うぐっ……こわい、ごわいよ……」
震えながらも絞りだす声と小雨は、やがて大雨になるが如く、涙も扇情的に密度を増していく。いつも無表情だった夜風の顔はくしゃりと歪んでいて、地面を見つめる瞳からは涙が断続的に零れ落ちる。
どれだけ飄々としていて、肝が据わっているように見えても年端のいかない一人の女の子だ。
ブラックボックスのために犠牲になるなんてッそんなの……辛いに、受け入れられないに決まってる!
僕は、いてもいられなくなって泣きはらす夜風を抱きしめた。
抱きしめた体は、細かく震えて、見た目通り繊細で、山に消えていってしまう夕日のように儚げに消えてしまいそうで、夜風の本音からの吐露と今や洪水のように流れる涙を肩に受け止めながら、しばらく、か細くて、いつ消えるかもわからない儚げな夜風を抱きしめていた。
……
いつしか、全ての吐露を終えたように夜風はまた巨岩にもたれかかっていた。
僕も、それに習って再び巨岩にもたれる。
これに、どれだけの意味が込められているか、僕にもわからない。
だけど、何か安らげる気持ちに、なれた。
「……彗。ここ、どう思う?」
未だに泣き腫らしたあとのある夜風が唐突に呟いた。
突然なことに意味を図りかねて、もう一度尋ねる。
「どう思うって、この巨岩が森林に囲まれてるってことに?」
「……そう」
僕は、訪れた時の感想を率直に述べる。
「なんて可哀想な岩だって、思った。木々のみんなが離れて立っているだけで、周りには誰もいない……そんなの、ただの一人ぼっちじゃないか」
自分で言っていて胸が張り裂けそうになる。
巨岩が、昔の僕と同じだと、気づいたから。昔は王の息子ってだけで、みんなから遠巻きに見られた。泣き喚いていても誰も助けてくれない。なんて薄情な人たちなんだろう、と子供ながらに思った。
夜風は僕の感想を寂しそうに聞いた。そして、次に自分の意見を述べた。
「……見方によっては、巨岩だけが仲間はずれにされてるように見えるかもしれない。けど、私はこうも思いたい]
巨岩にもたれかけていた夜風はゆっくりと上体を起こして、月夜のように、優しく人を包み込む笑顔を浮かべた。
「巨岩の周りの木は巨岩を見守ってくれているって思う。今はたった一人かもしれないけど、それは巨岩が気づいていないだけ……みんな、心配してくれているんだよ。
巨岩が避けてるから、木も必然的に近寄らないだけで巨岩が歩み寄ったら木も歩み寄ってくれる……。
都合のいい解釈。だけど、私は世界がそうであったらと思う」
夜風らしい、包み込まれるように流れる言葉に僕はしばらく耳を傾けた。
幻想的であり、理想的な言葉に僕は思わずその情景を思い浮かべた。もし、もしかしたら底なしの闇の中で泣き喚いていた僕が、みんなに近づけば遠巻きに見ていた彼らは闇に歩み寄ってくれたんだろうか?
少し考えて、想像できない、と心の中で否定する。
既に起きてしまったことにIFを求めるなんて、無意味だ。例えブラックボックスの力で人の心が変えられたとしても、それはやっちゃいけないこと、なんだ。
考え込む僕は包み込まれるような夜風の笑顔を真正面に受けていた。少し気恥ずかしくて思わず視線を外して、脳裏に鮮明に映る、泣いている僕に手を差し伸べることすらしなかった大人や子供たちの姿を思い浮かべながら、吐き捨てるように言った。
「夜風の言葉は純白で透明で……そうなったらいいなって思う。けど、世界はそんな透き通る宝石みたいに綺麗なことに満ちてるわけじゃないよ……。悪いことを考える人も、たくさんいる……誰もが、夜風みたいに思えるわけじゃないんだよ……」
言い終わってから、夜風の透明な言葉を否定してしまったことに気づいて、逸らしていた視線を夜風に戻した。
夜風の穏やかな目はふと寂しそうに眉を伏せる。そして、顔をずいっと寄せてきて、言ったのだ。
僕が、いや……僕だけは絶対に否定できない言葉を。
「……そう。世界は私の言ったように単純なことばかりでも、綺麗ごとばかりで片付けられるものでもない。それでも、そうやって願い続ければいつか叶うかも、しれない。それに、誰も信じないとしても、私だけは、信じたい。
……彗は、私は信じられない?」
ああ、夜風の言葉はなんて、綺麗なんだろう。
僕はすっと胸がすくような思いで、問いに答えた。
「……信じられるよ。僕は、夜風のことなら……信じられる。だから――」
「だから?」
これは言ってもいいものか、と少しの間だけ悩んだ。
そんな思考とは別に、本能は勝手に口を動かしていた。
「夜風、絶対にブラックボックスの犠牲にならないで……お願い。僕は……君が好きだ。だから、絶対にそんなことに巻き込ませたくない」
本能でしてしまった告白に僕は自身で呆然としていた。
目を穏やかに微笑ませて、安堵したように夜風は顔を近づける。ふわっとした心地いい香りが、匂ってくる。
僕たちは自然と目を閉じて、最初で最後の、甘酸っぱくて、病的なまでの胸の高鳴りが抑えようとしても抑えられなくて、桃源郷に居ると錯覚してしまうような柔らかいキスをした。
名残惜しみながらも、夜風は唇を離す。瞳を覗かせた時の夜風が、儚く消えてしまいそうで抱きしめた。
耳元に甘くとろけるような息づかいが聞こえて胸の高鳴りがさらに高くなる。でも、か細く喉を震わせた夜風は、胸のドキドキで手一杯の僕に言ったのだ。
「……あとは、お願い。託したよ、彗」
……
夜風が二人っきりの時に最後に僕に託した言葉を理解するのにはいくらか時間がかかった。
あの時、僕は夜風と幸せな未来が続くことを疑いもしなかった。もし行く道に壁があるのなら、それは迂回して進めばいい、そう思っていた。ずっと甘くて、時々酸っぱく、暖かい物語が続くと、実直なまでに信じていた。
――いや、信じたかった。二人の、輝かしい未来を幻想のままにしたくなかった。夜風とのキスで、僕は夜風を命に賭けても一生幸せにしよう、そう決断した。
僕の決断と夜風の決断は、まったく違うベクトルを向いていた。この時点で逃げ出せば、よかった。
果たして、告白を選んだ決断は間違っていたのか、なら、なぜキスなんてしたんだろうか。キスなんてしなければよかった、なんて逃げの言葉を使うつもりはない。
それでも、アレだけのことで僕の魂は君に雁字搦(がんじがら)めにされたというのに、なぜ、僕を闇の中へ置いていってしまったんだろう。
僕には、夜風の心情を思い知ることができず、今でもなぜ夜風があんな行動に出たのか理解できない。
夜風の行動は地下帝国に利益をもたらした。でも……もし、夜風が生きているなら今の僕を見て、どう言っただろう。
透き通るような微笑は見れないとだけは確信できた。きっと、泥にまみれて生きている僕を見て呆れ果てるんだろうな。
それでも、もう止まることはできない。泳ぎ始めたマグロが止まると死ぬように、そんな暴走列車に乗って当てもない人生の旅を歩んだ。
僕はもう……夜風に顔向けできないほど、泥沼にはまっている。
Lost episodeⅢ オワリ
Lost episodeⅣへ続く
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