third episode:rewrite 第9話「観測者」

 third episode:rewrite 第9話「観測者」


 暗闇の中を一粒の光だけが辺りを照らしだす牢獄に、私たちは居た。

 違反者収容所と名づけられたそこに、私こと古風 愛瑠と美風 優衣は隔離されていた。

 収容所となっているそこは地上でいえば刑務所。罪を犯した者や違反者をここに隔離、確保するための施設。

 自身のしたことを愚かだと思いつつも、それは無駄なことではないと言い聞かせる。それでも、やっぱりため息をつきながら何度目かわからないほど周囲を見渡す。

 だってここ、やることないんだもの。

 手持ち無沙汰の手をぶらぶらさせる。目の前には前時代的な鉄格子が行く手を阻み、周りはコンクリートで覆われている。正方形の一室で出口は目の前の鉄格子のみのため、脱出しようにも私たちはここではただの女の子であり"観測者"としての能力を使うこともできない。まぁ、私の場合使っても使わなくても別に脱出できるわけではないのだけれど。

 周りはかび臭いし、異臭もちょびっとばかり臭ってくる最悪の環境。極めつけはお風呂に入れないこと。体が臭いのも我慢できないけれど、髪がべたついているのも我慢ができない重要な死活問題なわけで、牢獄にいることよりもお風呂に入れないのが辛いのが正直なところ。


「なぁ……凛、大丈夫かな……」


 優衣の悲しみを背負った声が暗い牢獄に響く。優衣は間隣の部屋に隔離されており、聞いたところによると私と同じく目の前には鉄格子、お風呂も何もない最悪の環境にいる。牢獄なのだから変わらないのは当然だし、最悪な環境なのも罪を背負った者に対しては当然の仕打ちと言える。

 優衣は、脱出しようと思えば"観測者"の力で脱出できるのだけれど、私と同じく彼女もここでは能力が働かず、脱出不可能。"観測者"で牢獄に閉じ込められる人がでるのは初めてのはずなので、能力に制限をかけられる人といえば、あの子しかいないはず。きっとあの子がこの場の力場を歪ませている。

 私たちは元は普通の十七歳の女の子。だから能力を封じさえすれば何の抵抗もできない赤子も当然の存在であるが故に、ここには監視を目的とする人間もいない。

 まぁ今は地上がごたごたしているだろうしここに監視を割く余裕もないのだろう。何かがあれば私たちもすぐにここからでる準備をしてかなければならない。

 まぁ、ここには何もないからやることも何もないのだけれど。


「あたしのせいで、全部始まって、起こしちゃったんだよな……凛から楽園を奪っちまった……」


 自嘲気味な罪悪感に苛まれた生々しい感情が隣から吐露される。

 コンクリートの壁に頭を寄せる清掃されておらず、汚いけれど無機質に冷たいコンクリートは頭の回転を促進してくれる。

 優衣が探検部の活動と同時に、核くんに助けを求めたから私もそれに続く形になって私たちはこの世界に置ける罪を背負って今ここにいる。凛に負担は相当かかっただろう、でも優衣が起こした出来事について核くんに全てを話そうとしたことに関しては凛は後悔していないはず。

 凛は気づいていないかもしれないけど、きっと助けて欲しいって心の奥の叫びから凛は探検部を作ろうとしたんだろうと私は推測していた。ずっとこのままでは前へ歩いていけないから、誰かが敷いたレールの上ではなく、少しわき道へ逸れたレールを最初に敷いたのは紛れも無い凛。探検部という部活はわき道へ逸れるために凛が敷いた一本のレールだった。元からあるレールから派生したそこに、私たちは乗った。しかし、凛が元のレールに戻ったが故に私たちは何もできずにここにいる。

 凛は内面上―いえ、表面上でもすべて父親である兎風 彗の人形である凛がSOSとして出せる手段は探検部というものだった。むしろ凛はそれでしかSOSを出せなかったのかもしれない。父親に逆らえない凛は、無意識のうちに探検部という部活を別の逃げ道のレールとして敷いたのではないかと思う。

 その凛が敷いたレールを壊してしまったのは私たち。

 凛に謝罪しなければいけないのは私たち。自身のトラウマに左右されず、懸命な行動をしていたならば"箱"のタイムリミット前にすべてを片付けることができていたのかもしれない。もしかしたら凛から楽園を奪わずに済んだのかもしれない。だけど――。


「たらればは考えるだけ、無駄ね……私たちにも何かできることがあればいいのだけれど」

「そーだな……今のあたしたちにはなにもできねーしな」


 意味のないたらればからの思考停止した私の何気ない吐露した一言に優衣は同意した。

 たら、れば。

 もしあったら、もしあれば、そんなifの状況は歴史には存在しない。卵を溶いてしまったら二度と黄身には戻らないように、それが世界の常、ルール、理。

 でも、私たちはそんなたら、ればを実現できる状況についこの間までいた。凛に連れ戻されるまでは。そんなものを駆使して"観測者"として"箱"を使い国に利益をもたらす。それが私たち民が唯一生存する方法だった。

 予測不可能な事実上の"歴史"に対して有利に働くように改竄、改変をする。

 それしか生き残る方法がなかったとは言わないけれど、今の私たちはそんなインチキの元になりたっていた歪みの一族。。

 しかし、それはいずれ尽きる。相手が利用価値がないとわかれば捨てるような人間であればなおさらだ。結果を出し続けなければ民は死に絶える。

 だから、結果を出し続けなければならない。根本的な解決をしなければならないのに、それは一方にできていない。

 それは、私たちのプライドの問題だった。

 若い世代の人間はプライドなんて関係なく、生きることを優先するけれど、年を食った世代はそうもいかないらしい。凝り固まった老人たちはどうしても体裁を気にして、根本的な解決を図るのではなく上辺だけの嘘を塗りたくりプライドを守ろうとする。


「私たち民族は誰も風にはなれなかったのかしら、ね」

「風? なんだ風って」


 唐突に零れでた言葉に反応した優衣の質問に対して私は長年持ち続けていた持論を展開する。


「ほら、ここって風が吹かないじゃない。どうあがいても、私たちは風のない世界にいる」

「そりゃ自然風が吹くようなところじゃないからな。風が吹かないのが当たり前だし、それがどうしたんだ?」


 私たちの自然とは、風が吹かないこと。つまり風が吹かないことが当たり前の場所にいる私たちは風を入れることを恐れる。よく言えば保守的、悪くいえば閉塞的。


「私たちの名前って風ってついてるじゃないどこかに。私だったら古風」

「あたしだったら美風ってことか、って兎風も神風もそうじゃねーか! 愛瑠さんさすが! でもそれに何の意味があるんだ……?」

「私たちの名前は昔から受け継がれてきた由緒ある名字。私たちの名字に風が入っているのは、閉塞した空間の中で育った人たちがこれではダメだと思ったから、らしいわ。風っていう漢字に想いを混めたんでしょうね。昔の人は、外界に世界があることを知らなかった。外界の世界があることを知って、外にでた時、彼らは外に風があることを知った。それを彼らが知った時、この閉塞した空間ではダメだと感じたんでしょうね、もっと外に目を向けて欲しいって王に言ったみたいだけどその人がまた頑固者でプライドが高かったみたいでね、そんなことができるかって言って突っぱねたらしいのよ。それで今の王様には話が通じない、それなら未来の子孫たちに託そうってその時できた子供に名字として風ってつけたものを与えたのが私たちの祖先……だったらしいわ」

「ん~? けっこう勝手なこと思ってたんだな、昔の人たちも。まぁ、あたしたちに外へ目を向ける風になれってことか」

「そうね……この閉塞した空間、世界に外からの風を通せるものを託そうとしたんでしょうね。ま、私たちにとっては、いい迷惑だったのかもしれないけれど」


 優衣が感慨深そうに「うんうん」と頷いているような声が聞こえる。


「でもさ、その人たちの気持ち分かるよ。あたしも初めて地上に出たとき思ったもん。風ってすげーってこんなに気持ちよくて、穏やかな気持ちになれるんだってさ……愛瑠さんは?」


 始めて地上にでた時のことを思い出す。

 優衣、凛、私の三人で地上のあちこちを見て回った時に登った山で私たちは風の偉大さを知った。

 肌をやんわりと包み込むように通り過ぎていく優しい風は、私たちの故郷にはないものだった。

 風にもいろんな強さがあってあたりの強い風や優しく包み込んでくれるような風……人間のように十人十色のような風たちは、私たちに偉大さを知らしめるのに最適だった。

 風を思い出して、優しい気分になりながら質問に答えた。


「とってもいい気分になったわ。ああ、これが風なんだって。これが自然の豊かな風なんだって……一体どれだけの人が私の触れた風と暮らしているんだろうって、こんなにも世界が広いだなんて思っても見なかったわ。昔の人もこんな気持ちだったんでしょうね。一世代じゃ無理だったから、次の人に託すために名字を変えて風というものを取り入れた。ここに、この世界に風を通してくれる人が現れますようにって」

「……じゃあ、あたしたちはその人たちに顔向けできないかもなー失敗しちゃったし」


 自嘲気味に優衣が呟く。

 私たちは失敗した身だから、何もできないけれど――。


「ふふっそうかもね。でも、もしかしたら核くんがやってくれるかも……知れないわよ?」

「ああ~核ならやってくれるかもしれないな! なんせあたしの心を洗い流してくれたんだし。あいつはやってくれる!」

「そうね、私も同じ気持ちよ。彼は私たちの希望の風。きっとこの世界に風穴を開けて、風を通してくれる」


 核くん、今の私たちは何もできない無力な存在。

 でも応援してる。親友として、私たちを助けてくれたあなたを……だから、寂しい凛の心を埋める風になってあげてちょうだい、そして願わくば、凛と一緒に迎えにきて、核くん。

 これは、勝手な感想だけど、それでもそう願わずにはいられなかった。もう、凛には時間がないのだから。この瞬間にも、凛は命の危険に晒されているのだから……。


 ……


 探検部へ入部した凛――まだ正式に部活となったわけではないが、ここでは入部した、ということにしておく。

 根暗から脱却した凛はおそろしく前向きで、俺たちの脳にはとてもしっくりとフィットしていた。

 違和感がなかったから、とてもつい昨日まで根暗で、あんなに冴えない少女だった凛だったから。俺たちは失念していた。なぜ、凛がこんなにも唐突に前向きになってしまったのか"前向きになろうとした原因"というものをもっと深く考えるべきだったんだ……。考えなかったことは深く悔恨のしこりを残すことになった。


 少し肌寒さが残る三月の寒空。

 空は澄み切ったように青く。探検部の本格的活動を祝福しているようだった。

 学校へ続く桜並木も少し前まで元気がなかったように桜を散らしていたが、今は活力を取り戻したように桜の花びらが元気よく幻想的に空中浮遊していた。

 全てが好調に向かっていると思える最高の日であると外にでただけで確信できた。

 この時、俺は既に固執していたピース集めなどのことを気に止めていなかった。純粋に、探検部として地底人を探すことをしようとしていたのだ。

 気合を入れて、谷風と凛に探検部の活動場所を提案する。


「よーし、それじゃ探検部の活動としてまずは図書室から回ってみるか?」

「うん。それでいいと思う! まずは地底人って言う存在がどんなのか確かめたほうがいいかも」


 凛は楽しそうに、手を叩きながら同意してくる。

 俺たちは地底人地底人とは言うものの、地底人に関しては何も理解していない。地下に住んでいる人間だから地底人と安直な発想である。まず、地底人について知るというのは至極真っ当な意見だ。


「俺もそれでいいと思うぜ。未だに地底人ってどんなのか把握してねーからな!」

「それもそうだが、少しくらい調べようとはしなかったのか」


 俺が言えたことではないが。


「昨日は、ほら……あんなんがあっただろ!」


 凛が不思議そうに顔を傾けた。


「あんなん……? ねぇ核くん、どんなこと?」


 思わず話しにくい話題を振ってくる凛。谷風、お前なんてこと言ってくれたんだ……。


「い、いやぁ、ほら、言いだしっぺのお前がいけよ、谷風」

「ははっ何言ってんだよ。お前のほうが頭いいだろ?な」

「こんな時だけ頭悪いのアッピルしてんじゃねぇぞ……!」

「やんのかおらぁ!」

「売られた喧嘩は買うぞ!」


 思わず臨戦態勢に突入し、拳を構える。谷風も同じらしく拳を握り、睨んできていた。

 それを見て凛は間に入って、俺たちの脳髄が滅びさるほどの衝撃すぎる一言を述べた。


「き、昨日のテレビってあれかな。ほら、売れっ子女優さんがデートコースについて話してたりしたやつ」


 それは刹那の一言。たった一言。

 それだけで臨戦態勢状態の俺と谷風が静止して、片言になりながらも俺は言葉を搾り出した。


「リ、リン。ソノバングミ、ミテタノカ」

「なんで片言なのかわからないけど、そうだよ? なんだっけ。映画行ったり、レストランに行ったり、夜には夜景をみたりする人とはデートいきたくありませんだったかな。その女優さんが言うには」


 目を瞑って、一言一句思い出すように言った凛に対して谷風は先ほどまでの生き生きと喧嘩をするような目ではなく、死んだ魚のような目をして掠れた声を絞り出した。

 どうやらこいつも昨日の一件はだいぶ堪えていたらしい。

 普通は堪えないことであろうと俺たちはまだ女性と付き合ったこともない完全に生き遅れた男子だ。理想のデートは? と言って答えたものがまったく、何も相手にされないものだと思うと俺たちの夢は完全に幻想だったと言っても過言ではないだろう。


「ああ……」

「合ってた? よかった。私もあれ見ててね――」


 思わず俺たちは息を呑む。身近な女の子――例え凛であり、恋愛の対象とはなぜか見れないにまでもそんな女の子にまであれが理想のデート? ないない。なんて言われたら立ち直れないかもしれないとさえ思う。

 そんな彼女が空気を吸って、息継ぎをしてとても穏やかに言った。


「私は理想のデートとか……そんなんじゃなくて、大事な人とただ一緒にいられるだけで幸せだと思うんだ。何があっても一緒に居られたらそれが幸せだと思うんだ。もう会えないくらいなら、一緒にいたほうがずっといいって」


 胸をチクリと刺す痛み。

 大事な人と一緒に居られるだけで幸せ。ただの理想論、綺麗事、そんな言葉に聞こえるけど、それはなぜか俺の胸に刺さった言葉。

 確か、前に――寒い冬の日に、べランダで一緒にいた凛が思い出される。

 俺が変化のない日常は退屈で、そんなものは望まないと言った時凛はこういっていた。

"もしだよ、もし、何かあってその人に会えなくなって……その時、そんなことも言える?"

 凛はあの冬の日から何一つ変わっていない。限りなく今が続く停滞を望んでいる。

 あれ? でもこんなことあったっけ……。


「まだ、停滞を望んでるのか……? 凛」


 俺の言葉にはっとしたように暗い表情へ戻り、そっと細々と凛は呟く。


「……私は、停滞を望むよ……それがなんであれ、今日がずっと続けばいいって……」


 彼女の一言には絶望と諦めが混じっていた。

 しかし、そんな感情の吐露はなかったように凛は明るく振舞い、谷風と地底人についてあれこれと話し合う。

 今の凛は敬語で喋っているわけではなく、あくまで対等に俺たちと話している。

 まるで、元からそこにいたように、十年来の友であるかのようにそれはすんなりと耳になじむ。

 でも、やっぱり無理をしている。彼女の一言が脳にこびりつく、絶望と諦めが混在した言葉は真実だと思ってしまったから。


「どうしたの? 核くん? あ、私の顔何かついてる……?」


 いつの間にか視線が凛に移動していたらしい。凛は、顔をぺたぺたと手で触り可愛らしく何かついていないか確認していた。

 絶望を諦め、それは今聞くべきことじゃないだろう……それに凛はきっとこの楽しい時間を続けたいはずだ。

 俺は、彼女が抱えているであろう闇を親友として晴らしたい。でも今は、今だけは楽しくせめて凛に暗い表情をさせないように部活を楽しくやろうと思った。


「いや、何もついてないから安心しろ。さ、こんなところでずっと駄弁っててもしょうがないだろ? 図書にとっとと行こうぜ」

「うん! 頑張って地底人について調べよう」

「おう! 地底人を見つけて友達になってみせるぜ!」


 当初の目的など忘れたように兎風と谷風の元気よい返事に後押しされ、俺たちに活を入れるように舞い散る桜並木を通って、学校の図書室へ向かった。


……


 休日とはいえ学校は絶賛稼働中であるため、主に運動系所属の人間が部活動で走りこみをしている校庭へ入り校内へいつものように入る。

 稼働中とはいえ、先生の人数なども少なく非常時のためにきている先生がほとんどである。

 校内へ入った正面にある階段を昇り三階へ。そして廊下を突き当たりまで進んで図書室の扉を開ける。


「さ、何から調べるか」

「何も考えてないのかよ……」


 失礼な、考えてないわけじゃない。


「まず俺たちは地底人ってものを知らなさすぎる……だから、参考資料を集めようと思う。そういうのを追っていけば何か手がかりがでてくるかもしれないだろ?」

「うん、それでいいと思う。地底人ってどんなのかなぁ、タコみたいな外見してたりするのかな?」


 凛が人差し指を唇に当ててほけーとした顔で言う。

 そこに谷風からの容赦ない突っ込み。


「いや、それ火星人じゃね……? ツチノコって地底に潜ってるイメージないか、だから地底人ってのはもぐらとかの脳が極端に発達してたり……」

「それは地底"人"か?」

「あ、人じゃねぇな……外見は人で決定だな! あと爪がなげーと思う」

「根拠は――」

「ない。ないったらない。人が森羅万象を理解してもない」

「そんなに壮大な話か!? っとこんなところで話してる場合じゃない。時間は有限じゃないんだ。とっとと資料探すぞ!」

「おう! って結局何から探すんだよ?」


 ここの図書室は一万冊の本を抱えており広いため、どの本がどこにある、という見取り図を見ながら谷風が言った。

 俺もそこを凝視しながら答える。


「そうだな、この歴史資料の項目はどうだ? 昔って確か地底人の番組ってよくやってたし、まぁ、実際に地底人に遭遇した番組とか見たことないけど」


 谷風と凛が頷いて同意する。


「よし、それじゃあまずは地底人に関係するような資料から集めて、机に置いてこう」

「りょーかい」

「分かったぜ」


 谷風、凛と分かれて資料探しに没頭する。歴史的資料が多くある棚は三列あり丁度一人一棚担当することができるようになっていた。


「そっち見つかったかー?」

「うーん、こっちはまだ見つかってない」

「こっちもだ。どこもかしこも江戸時代の歴史資料集しかねぇ……!」

「あ、谷風くんのところはそうなんだ。私のところは石器時代とかなんだけど……」

「そっちは一切希望とかなさそうだな……」


 二人の絶望的な声を聞いていると地底人に関して乗っている書物はなく、どうやら、大昔、または昔のことが書かれている書物が多いようだ。

 そんな時代にも地底人はいるのだろうか……。

 黙々と歴史的資料を読み漁ることを十分。静寂する図書室に大声を張り出したのは谷風であった。


「あー! こっちはない! これ以上探せるかっ!」


 棚を挟んだ俺にも聞こえる悲鳴を含んだ大声は図書室を一瞬だけ静寂から解放したが、次の瞬間にはまた静寂が戻っていた。


「あんま大きい声だすなよ、探せなくなるだろ」

「だってよー、新撰組がなんだってんだよ、地底人の資料なんてねぇよ……」

「わぁったからお前はこっち探しにこい。こっちになら地底人の資料あるから」

「お、マジか。そうだ、地底人の資料の中身を見るのは俺に任せてくれよ」


 谷風の性格から言って、こういうものの資料を探すというのは性に合わないのだろう。あいつが本を捲っている姿など漫画を読んでいる時しか見ないが……まぁ、探し出した地底人の資料を読ませたほうがいいかもしれない。


「じゃあ机に置いてある資料から地底人の外見、地底人探しに関係がありそうなものを探しといてくれ」

「それなら任された!」


 意気揚々と元気を取り戻した谷風が机に座って真剣に本を読み始める。やる気は十分と言った感じで刻々と積み上げられてく歴史書、または歴史的資料が詰まった本を解読しているようだった。

 ある程度読み飛ばしながらも地底人に関わる項目がないか流し身しながら確認する作業は思ったよりも疲れる行為であり、疲れの色が見え始めた時――。


「ね、核くん。こんなのが本の隙間に挟まってたけど、使えるのかな?」

「ん? どれどれ」


 凛が持ってきた一枚のメモ帳用紙を受け取り、もっとも太く黒マジックで書かれている文字を読み上げる。


「地底人 七不思議~指定場所を回った人地底にご招待~か……いや、なんだその、すごくうそ臭いな……」

「……いたずらかな?」


 凛の不安そうな声と共に腹の虫がすんなりと耳に入ってきた。少し見やると凛は恥ずかしそうに頬を朱色に染めていた。


「あー、そろそろ飯か」

「私のお腹の虫で判断しないで!」

「いや、だってな。腹減ってきたんだったら別にいいじゃないか。俺も丁度腹減ってきたし、谷風もそこにあるもん読み終わっただろ?」

「おう、なんとかな……」


 凛の後方から死んだような目をして現れた谷風。どうやら普段から読まない文章を読んだせいで頭に負担がかかったらしく湯気のようなものまで頭から上がっている。


「さすがにお前も休んだほうがよさそうだな。情報整理もかねて学食にでもいくか。今日なら確か空いてただろ」

「わ、私はどっちもでもいいけどっ!」


 腹の虫を聞かれたのがよっぽど恥ずかしかったのか、なぜか強気な凛に俺たちははいはいと言って歩き出す。


「おーい、凛、学食いかないのかー!」

「早くいかねーと飯なくなっぞ」

「うぅ……うん……確かにお腹減ってたけどこんな時に鳴らなくてもいいよね――」


 なにやらぶつぶつ言いながらも後ろに小動物のように凛はついて来る。


「腹の虫聞かれたぐらいで別に騒ぐことじゃないだろ、俺たちの仲なんだし」

「そうだよなーこれが他の女子ならないわーってなるかもしれんけど。凛ならなー」


 発せられた何気ない言葉に凛はふと優しい表情を浮かべてそっと呟いた。


「うん、そうだよね。ありがとう、核くん谷風くん」

「あ? お礼言われることなんて言ってねーぞ」

「ああ、言われる理由がないな」


 振り向く俺たちに凛は後ろで手を組んで笑顔で答える。


「そうだねっ、さ、早くご飯いこ、ご飯!」

「あ、ああ」

「おう! カツ丼食うかー!」

「今日は休みだから定食しかやってないけどな」

「えっ!? だったら外で食おうぜ!」

「そんな面倒なことできるかよ……定食で我慢してろ、今日の定食はなんだっけな」

「えーとね……なんだったかな? 行ってみないとわからないかも」

「んじゃ言ってみてからのお楽しみってことだな」

「そうだね、一緒に地底人のことについても整理しないとねー」


 谷風、凛、俺での他愛のない世間話をしながら学食へ赴く。

 何も変化がない日常が欲しいわけじゃない、適度に変化が訪れる、親友と駄弁るこんな日々がずっと続けばいい、心からそう思った。


 ……


 ものの数分で学食へ到達。

 学食内は休日ということもあり閑散としており一部の部活動、または生徒会活動があるような生徒達が昼飯を友人と語りながら食っていた。

 何か見知らぬ物体として、一本の巨大な串に無数の巨大ハンバーガーが縦に重なるように刺さっている食品もあるがここの生徒達のことだから持参者だろうとスルーして食券販売機に向かうことにする。

 凛が「うわぁ、すごく……大きい……」と呟いていたことを添えておく。


「腹が減っては戦はできぬ、ってな! あ?」


 いち早く意気揚々と食券販売機に滑り込んだ谷風だったが、何が不満だったのか滑り込んだ姿勢から回帰して背筋を伸ばしていた。


「間抜け面してどうしたんだよ? 休日なんだしどうせ一食しかないんだから悩む必要な――え?」


 谷風の横から覗き込むように食券販売機の販売ボタンを捉えたが、目を一度擦って二度見する。


「な、目疑うだろ。お前もアホ面になってっぞ」

「アホ面言って悪かった。しっかしなんだ、学食もよくわからないことを考えるもんだな」

「どんなの? ってなにこれ! 学食のおばちゃんのススメ! 値段は――千円!?」


 凛が感情豊かに身振り手振りで食券販売機を指差さして「これ、学○のススメか何かに関係あるのかな」と呟いたので「いやそこまで考えてないと思うぞ」と同じく呟く。

 しかし学食のおばちゃんの勧めるものと言えば決まって定食メニューであることが多い。ここのおばちゃんはうどんを食べようものなら定食を食べなさいと言ってくるほど定食を勧めてくるのだが、その理由はこの上なく真っ当だった。

 うどんは炭水化物が多い、そして野菜を取りにくくヘルシーではあるが栄養面では物足りないというものだ。ここの定食は栄養面にも気を使ったメニューになっており日替わりで定食メニューが変わっていくため非常に生徒の人気も高い。そんなおばちゃんが勧めるメニューなのだから当然栄養価が高く元気になれるものなのだろうが、突発的に催されているメニューにまともなものなど期待できるのだろうか……?

 学生にとっての千円はとても貴重なものであるが故に、これは当たった時は嬉しいかもしれないが外した時がどうなるやら。


「そんなに考えて頼むの?」

「凛は頼むのか、これは大博打だぞ……」

「私は頼んでみようかなっ。挑戦できることには挑戦しようと思うんだ」

「随分前向きになったな……。俺はどうしようかな、当たりだったらいいがはずれだったらと思うとな」

「千円はきついけどいっちゃえいっちゃえ!」


 子供のように俺の後ろに回り腰辺りを手で押してくる凛。果たして彼女の手が押す先は崖なのかそれとも道が続いているのか。

 俺が真剣に頼むか検討中のそんな中、谷風は商品を受け取るステンレスの板に肘かけて、厨房のおばちゃんに一声かけていた。第三者がこの姿を見たらナンパにしか思えない光景だった。


「ねーおばちゃん。今日の学食のおばちゃんのススメ!ってあるけど何が入ってる?」

「そーだねぇ、色々だよ色々ねー」


 厨房の後ろに控えて食材の検品や賞味期限切れがないかを確認しているおばちゃんたち数名も「ねー」とかぶせて来る。

 厨房奥からしゃりしゃりと音が聞こえるのが何か不気味なことをやっているのでないかと連想されて注文するのをさらに躊躇わせる。

 谷風は何が入っている?という質問に対して帰ってきた色々入っている、との言葉が気にいらなかったのかさらに迫る。


「そんなこと言ってないで教えてよ。何か一品でいいから! そしたら安心して注文できるから!」


 必死な谷風(なぜ必死なのかは不明)をひとしきり見つめたおばちゃんはにやっと口元を歪めた。

 まるで山姥のような恐ろしい表情を浮かべた学食のおばちゃんに谷風は思わず後ずさる。


「あの料理に入ってるのはねぇ……なんとフォアグラだよ」

「なんだと……!?」


 谷風に電流走る!


「それは本当かいおばちゃん! 嘘ついてたらおばちゃんでもハリセンボン飲ませるぜ!」


 谷風、それは針千本の間違いではないだろうか。

 ちなみに針千本飲ますをハリセンボン飲ますと考える説もあるが、そもそもハリセンボンは飲むものではなく食べるものであることから俗説だと言われている。


「おばちゃんが嘘つくと思うてるのかい……」


 おばちゃんは尚も恐ろしい顔で谷風を見やるとふぇふぇっと笑った。この学食のおばちゃんのススメ!によほど自信があるのだろう。フォアグラを使っているとも言っていたし。既に限界に近く、腹の虫がおばちゃんと谷風との会話で一線を越えて我慢できなくなってきてしまっていた。

 よだれを必死に抑えながら財布を開けると中には諭吉が一枚。今月の食費代(朝飯、昼飯、夕飯)などが諸々詰まっている夢の諭吉さんだ。ここで千円使うということはどこかを浮かさなければ元は取り戻せない……ここの学食を利用するのは一日一回としても朝飯、夕飯に基本的にかかる料金は300円程度。一日で元が取れると考えれば決して悪いことじゃない。ここで使わずに後で後悔し、悔しがるより今千円を使えば至福の時を味わえるだろう……。

 どうやら凛は既に買うことを決めたらしく、販売機の前に立ち、千円札を投入し、学食のおばあちゃんのススメ!のボタンを躊躇なく押した。くそっあれだけの勇気が俺にもあれば……!


「迷っているようだな!」

「ああ」

「買わないのか? いいや、俺は買うね! なんせ今日しかやってなくてフォアグラが入ってるっていうじゃねーか! 俺たち学生が食えるものとしては最大限のもんだろ!? それを買わないなんてありえないね!」


 生返事した俺に対して、おばちゃんに情報を聞きだし、腹の虫も限界だと言わんばかりに谷風が騒ぎ立てる。

 そうだ、谷風の言うとおりフォアグラが入ってると言うじゃないか、どれだけ安物であろうと千円で食えることを考えれば悩むこともないじゃないか。この期を逃したら次にいつ食えるかわからないんだったら買うのが一番後悔しない選択肢だろう。足を一歩踏み出す。凛は既に食券を購入した手でおばちゃんに渡していた。心なしかわくわくしているようで、少しそわそわしていた。

 俺も財布から断腸の思いで諭吉を投入し、学食のおばちゃんのススメ!と今日の定食と書かれた二つのボタンが赤く点灯する。もう心に迷いを抱かない俺は右手を学食のおばちゃんのススメが点灯するボタンに持っていって、震える手で、押した。押してしまった。

 紙の擦り切れる音と共に食券販売機から食券が出口に舞い降りる。それを手にとっておばちゃんへ渡した。


「ふぇっへっへ。ありがとさん……どこか適当なところに座って待ってね届けるから」

「はい」


 未だにこのおばちゃんは不気味だ。いつも数々の生徒が阿鼻叫喚の中で食券を追い求める時は冷静でできるおばちゃんと言った感じで物事を処理しているのに今のおばちゃんにはそれが感じられず、野生的なものを感じざるを得ない。

 一体学食のおばちゃんのススメ!には一体何があるのだと言うのだろうか、今から言ってもあとの祭りであるため、わくわくしながら待つことにした。

 凛は一足先にテーブル備え付けの椅子に座り、借りてきた図書室の本を開いていた。俺も同じテーブルの椅子に腰を落として、適当な本を手に取る。


「……地底人議事録と来たか」


 いかにも胡散臭いタイトルに少し戸惑いながらも開き、活字が支配する戦場を流し読みしながら読んでいく。

 そこには、ある一人の少女のことが刻まれていた。

 千九百六十六年、交通量のそこまで激しくない田舎町の車道でそれは起こったらしい。なだらかで、澄み切った青空が広がる昼間、歩道を何気なしに散歩していたおじいさん(六十歳)の横をたまに車が通りすぎたりしていると、突然周囲に光が広がり始めてそれが車道に収束するとそこには血まみれの少女が現れていたらしい。

 突然、前触れもなく血まみれの少女を見たおじいさんは驚いたが、何よりも大事なのはその子の命であるとばかりに近所に設置してあった公衆電話から病院へ連絡、それからしばらくして救急車が現れおじいさんは第一発見者ということで血まみれの少女と一緒に救急車で病院へ向かった。

 病院での検査の結果、血はおそらく親族のものであると過程された。血まみれの少女は長い時間意識を取りもさずにうわごとのように「お父さん、お母さん、お姉ちゃん」と繰り返していた。そのうわごとや親族のものと思しき血から、もしかしたら何かの事件ではないかと警察も調査に乗り出したが、何も手かがりがないままで事件は伸展しないままであった。

 そんな時、少女が目を覚ました。警察は事件の関係性があると見て、少女の容態を様子見しながら情報を聞き出していったが、それはどうにも要領を得ない会話だったらしい。

 なんせ、その少女が言うには、本物の空は初めてやら、お父さんは、お母さんはお姉ちゃんはどこ、やら嘘か真かわからないものに警察は耳を傾げた。なんとか名前を聞き出すことに成功した警察はどこの出身か、どこの生まれか、家族は存命しているか、使える全ての権利を使って調べたが、少女の名前はどこにも見当たらなかった。少女の名前は戸籍として市民登録されていなかったのだ。当然、少女の言う肉親たちの名前も登録されておらず、手がかりも全てなくなった。

 いつしか少女の容態は回復したが、相変わらず肉親たちの情報は皆無であり少女をこのまま病院に居座らせるわけにもいかず、最初の目撃者であるおじいさんからの提案もあり、少女はおじいさんに預けられることとなった。

 筆者は、この少女は地下から来た地底人ではないかと推測している。突如光ったと思ったら車道に現れ、そして肉親たちの名前や、自分の名前が戸籍として存在しない。そして「本物の空は初めて」と言ったことから少女は地底人ではないか、と疑念を抱いている。


「……なんとも、眉唾もんだな……」


 状況証拠は揃っているとはいえ、これだけのことで地底人がいると思うのはいささか決め付けが過ぎるのではないだろうか。俺だって探検部を始めたのは自身の違和感を解消、またはなぜ、そんな違和感を抱いているかを知るためだ。かといって、これがそれを解くための参考になるかといわれるとノーだ。

 そんなことを思いつつ本を閉じてテーブルの隅に追いやるように奥と後ろから手でちょんちょんと肩をゆるく叩いてきた人に対して振り向く。そこには意外な人物が俺の顔をその澄み切った目で見つめていた。


「こんな休日に何してるのかしら?」


 耳に透き通り、思わず背骨を条件反射で伸ばしてしまいそうになるほど威厳と柔らかさを内包した声。

 隅に置いていた地底人議事録を手に取り繊細に一通り捲ったあと先輩は顔をあげて言った。


「ふーん……なかなか面白そうなことしてるわね、地底人探しなんて」

「わかるんですか?」

「えぇ、わかるわよ。うーんそうね。私も混ぜてもらおうかな」


 思わずと図書室から借りてきた本を熟読していた凛は顔をあげる。その顔はまさに驚愕、と一言で表現するのが的確だった。

 一言に、驚く俺と凛を他所に勝手に空いている凛の隣の椅子に腰掛けていた。突如現れて混ぜてもらおうかなと言い放った人は――短めの黒髪にこのマンモス高の生徒全員の長である未風 時生徒会長だった。


……

 

 ちょっとこれ読ませてもらうわね、と言って地底人議事録を開いたっきり、未風 時生徒会長は面をあげない。


「いやぁ、参ったな。ったく学食のおばちゃんの話が長くてよ――あ?」


 食券を発行したあともおばちゃんの話に長々と付き合っていたらしい谷風が、あんぐりと口を開けていた。

 当然だろう、いつの間にか生徒会長である未風 時がテーブルに腰掛けていているのだから。俺だって突然、生徒会長が自分たちのグループの中に入ってきているのなら驚く。しかも、悠然と本なんて読んでるし……。


「なぁ、何かしたのか」


 谷風が隣に腰掛け、耳元でまるで何か罪でもおかしたかのように言ってくる。


「なんもしてねぇよ。お前がいない間に俺が何か起こせるとでも思ってるのか」


 しきりに首を捻ったあと、素っ気無く谷風は言った。


「起こせる。お前なら絶対に起こせる」

「お前のほうが起こせると思うがな……。素っ頓狂なことを」

「むしろあなたたち二人が揃ったら変なこと起こすんじゃないかしら」


 本を片手でパタンと閉じた未風 時生徒会長が澄み切った瞳で表をあげて言い放った言葉に俺たちは言い返した。


「「いやいや、そんなことありません。変なこと起こすのはこいつだけです」」

「やんのか!」

「ああ!?」

「ヤンキーの喧嘩みたい……」

「女の子が居る前でよくそんなことできるわねぇ……ところで、ご飯、きたみたいよ」


 振り向くと学食のおばあちゃんが薄気味悪い笑みを浮かべながら大きいお盆を持ってきていた。盆には四つの白皿が乗っており嗅覚と腹の虫をくすぐるとても良い、匂いがしていた。


「ふぇっへっへ……これが……学食のおばちゃんのススメ!だよ、さぁ、食べてみな」


 瞬く間に机の上にあった本が隣の机に移動され、手際よく料理、箸、お冷が用意される。まるで執事のような華麗で俊敏な動作に驚きを禁じえない。

 四人で目をぱちくりさせるが、顔を見合わせてから箸を取り料理をガン見する。

 料理は至ってシンプル。一つの大皿に複数の料理が乗せられているだけだ。お皿を分けないのは経費を削減するためだろう。何個もお皿を使っていればその分、洗うのに時間がかかってしまう。

 それにしたって大皿に乗せるのもどうかと思うが。問題は乗っているものだった。

 ファグラと思しきものは純粋に乗っている。そう、お皿に純粋に盛られているのだ。テレビでも何回か見たことがあるが、フォアグラのソテーと呼ばれるものだ。

 フォアグラのソテー以外にも鯛の刺身や白米(何か高そう)と見た目があっさりめのドレッシングをかけられたサラダなどがところ狭しと大皿に配置されていた。

 混沌。

 この大皿を一言ではそう言い表すのがもっとも良いだろうと思われる。おそらく俺と谷風が食べても腹が膨れるほどのボリュームもあり、これで千円なら安いかもしれないが、こればかりは食べてみないとわからないだろう。

 おばちゃんがくいっくいっとあごを動かすので、早く食えと催促されているようなので、全員が喉を鳴らして、覚悟を決め箸をフォアグラに寄せて箸の上に乗せた。


「……」


 無言のまま俺たちはおばちゃんの威圧とも言うべき視線に耐えながら箸に満遍なく乗ったフォアグラのソテーを口いっぱいに含んだ。


「「「「……」」」」


 それを口に含んだ瞬間。

 俺たちの時は止まった。体が打ち震え、人として考えるべき思考が破棄される。本能のみが俺たちを突き動かした。

 しかし、俺たちの思考という時間は止まったまま、動きだそうとしない。本能が全てを管理する、本能で体が動く。体が止まらず、手は忙しく動き続ける。まるで、

 そう、俺たちは口にフォアグラのソテーを含んだ瞬間――桃源郷に誘われていた。

 

……


「……」


 俺は今だらしなく口を開けている。周りを見ると谷風はもちろん、普段しっかりしている凛や未風 時生徒会長も口をぼーっと開けて思考を破棄しているようだった。

 目の前に並ぶ大皿に盛られた料理を見る。

 既に見る影もないくらい全てがなくなっている。

 お箸を手に取りつんつんと大皿を叩くが、そこには何もない。いつの間にか、ほかの面子も同じことをやっていた。それほどまでに、この料理はありえなかった。

 全てが美味。これに何か別の言葉を被せることなど料理に対する侮辱であり、作った学食のおばちゃんたちに対する侮辱であろう。下手に感想を述べるより旨い、美味である、そう率直にそう伝えられる味だった。

 俺たちの様子にいたく満足したらしい学食のおばちゃんが不気味な笑い声をあげながら手をパンッと叩いた。


「さぁ、ご飯の時間は終わりだよ……ふぇっふぇふぇ、満足してくれたならよかったよ。じゃあね」


 再び不気味に声をあげながら学食のおばちゃんは闇に消えていった。

 あのおばちゃん、一体何者なんだ……。


……


 俺たちが桃源郷から帰ってきて三十分。

 図書室から借りてきた本を全員で読み漁りながら、気になる記事があればチェックしていく。

 主に地底人探しについてチェックしているのだが、元よりこの部活を始めたこと自体が探検部という部活、そして地底人という単語にインスピレーションを感じたからであるため、直感以上のものを頼ることができなくなっていた。

 それを未風 時生徒会長に言うと「アホね。まぁ直感で行動するのは悪いことでも愚直なことでもないしいいでしょう。私も手伝うわ」と言っていた。拒否できる雰囲気ではないためそのまま生徒会長の力を貸してもらっている。

 力を貸してもらっているいっても、ずっと地底人議事録を読んでおり他の書物には手をつけることをしていなかった。よほど興味深い何かが乗ってただろうか、あの本には。


「未風 時生徒会長――」

「時でいいわ」


 地底人議事録を閉じることなく、読み進めながら会長は威厳を保ちながらも、親しみを感じ取れるような声で発する


「――わかりました。時先輩、その本何か乗ってましたか? 俺が読んだ限りは一人の女の子の記録のようだったんですが……」

「そうね。たった一人の、女の子の記録ね」


 なんだか寂しそうな声になぜか心が締め付けられる。何が俺をそうさせるのか、口が勝手に開く。


「でも、その女の子今は満足してそうですよね」

「ん、どうして? この女の子は何もかもを失ってそこにいたのよ。その子にとって不幸であることに変わりはないでしょう」


 地底人議事録を閉じ、悲痛を感じさせる顔が向けられる。なぜ、そんなに悲しそうなのか俺にはわからないけど、でも……。 


「そう、ですね……。でも、誰も拾ってくれなかったらこの女の子がどうなってたかわからないし、ましてや拾われたのが優しそうなおじいさんでよかったって、これがもし作られた捏造の話でもそう思います」


 時先輩は少し柔らかい表情をして、地底人議事録のカバーを撫でた。そうね、と前置きしてから。


「もしおじいさんに拾われていなかったら野たれ死んでいたかもしれないし、そうでなくとも危ない人に拾われていたかもしれないわね――」


 尚も時先輩は呟く。俺にすら聞こえない小声で――唇を動かし続けていた。


……


 しばらくして、一通り図書室から借りてきた本のチェックが終了する。


「滞りなく終了しちゃったね……」


 凛が少し疲れたようにテーブルの上に顔を乗せてだらーんとだらける。谷風と俺ももちろんだらけ捲くりである。

 普段本を読まない人間がこんなことをしたらどうなるか分かっていたはずなのに、と少し後悔の念が残る。

 そんな俺たちを見た時先輩からの容赦のない一言。


「あなたたちね、やる気あるの? まだスタートラインにも立ってないじゃないのよ。 ほら、どれが怪しいか言ってみて。チェックするから」

「さっきまで同じ本しか読んでなかったのになにを……」


 谷口が珍しく女性に愚痴をおちょぼぐちで言ったが、その瞬間、世界が凍った。

 ゆっくりと、壊れた機械のように時先輩は谷風を見て、笑顔で返す。


「ん、何か言ったかな谷風くん」


 時先輩は笑顔だが、その裏に隠されているであろう裏の顔に俺と谷風に旋律走る!

 な、なんだ。あの顔は……笑顔なのに、まったく優しいと感じられない、むしろ恐怖すら抱く。例えるなら鬼だ。笑顔という仮面を被った鬼。

 谷風もその結論にたどり着いたのか、少し汗を流しながら、口を震わしながら言った。


「な、な、な、なんでもございままません」

「そう、ならよかった。生徒を手にかけるようなことにならなくて」

「手をかけるって……生徒会長の言うことじゃないですよ」

「あら、それはどうかしらね。罪のあるものには制裁を、ってのは言いすぎだけど何かしでかしたら、ね?」

「お、俺なんもしてないっす。品行方正です!」

「聞いてるわよ、万年低空飛行で課題はやってこない。居眠りはする。とかいう人がいるって。谷風くんじゃない?」

「え、あ、あははー。そんなわけないじゃないですかーや、やだなー」

「しっかり言っておいたほうが罪状も軽くなると言ったものよ、谷風くん」

「俺、罪なんておかしてないですからね!? そりゃ居眠りしたり授業中に教科書広げた後ろで漫画読んだりしてますが!」

「……谷風くん……」

「あ……」

「……ふふ」


 柔和に微笑む時先輩はまさにこの世の不条理を集めたような人で、誰かの面影を感じられる。

 誰かの、面影。

 勝手にでた言葉の軌跡を辿る。時先輩に似た人なんていただろうか、自分で言っていてわからなくなるも、それは嘘、偽りない。人が持っている偽らざる本能からでた言葉だった。

 頭の奥にある幾重にも厳重に張られていた記憶の繭が晴れるように少しずつ鮮明な画像が脳内に映し出される。

 その光景に思わず顔をしかめつつもその先を手探りで探っていく。

 思い出したい。

 思い出しちゃいけない。

 見たい。

 見ちゃいけない。

 言葉を重ねる。頭の中で反復することはすべて間逆の言葉。本能は俺に思い出せと言っている。でも理性はそれを思い出すな。と叫んでいた。

 幾問の末、少しのビジョンが脳内に映し出される。

 細かく艶やかさをもった黒く、長い髪。

 顔は……すべてが綺麗にまとまっていて、満月のように澄んだ瞳を浮かべている彼女は時先輩にとても似ている。髪が短ければ一瞬見ただけでは時先輩と見間違うのではないかというほど似ている。

 時先輩が柔らかさの中に威圧的な態度を醸し出す人であれば、この人は柔らかさの中に優しさを醸し出す人と表現するのがいいだろう。どちらも違う柔らかさを持っているように思える。

 俺は、この人を知っている――。


「ぐっ……」


 突然の頭痛に頭をしかめる。幸い誰にも見られていなかったのか、凛、谷風、時先輩はそれぞれ話すのに夢中になっていた。

 名前が思い出せそうになった瞬間、逆再生するかのごとく繭がかかっていく。それと同時に脳に負担をかけてでもいたのか、頭痛が起こった。

 もうちょっとで何か思い出せたはずだ……。思い出せ、俺が忘れていること、目を背けているであろうことを思い出せ。

 俺はこのもやもやに回答を用意したいんだ。それに何かとんでもないことを忘れているって本能が言っているから、だから思い出せ、と脳に言い聞かせるように言葉を反復させる。

 闇の底から記憶を引っ張り出そうとするのに没頭する俺に、時先輩が重苦しい声で呟く。


「……やめときなさい。無理に思い出すと頭が痛むわよ。それに今はやっと元気になり始めてる凛を見てなさい」


 現実に引き戻された俺は時先輩を瞳に捕らえるが、彼女は元気に喋っている。今の声……忠告だったのだろう。

 二度は言わないといった様子で時先輩は、谷風を弄っている。

 それに、凛はやっと元気に――俺の本能が言うには、快活で元気な凛だ。俺の記憶と本能でなぜ凛に対する捉え方が違うのか、それはわからないが、少なくともこの本能は間違っていないと言える。だから、凛を昔に戻さないように凛を一人の親友として、元気になってもらいたい。

 ということで、早速行動開始。


「さて、谷風くんを弄るのもこの辺にして早くやること決めないと時間なくなるわよ。時間は無限じゃないんだから」


 時先輩が俺の機微を察したかのように谷風弄りをやめて話題を変えてきた。


「俺遊ばれてた!? ま、まあ、分かってたけどね! やることって何やるよ、核」

「……?」

「なんだその、何する……?なに言ってんだお前。みたいな顔は。お前がリーダーなんだからお前が決めてくれよ」

「ま、リーダーが決めるのが基本よね」

「うんうん。核くん、どうする?」


 首を可愛らしげに傾げる凛。

 朝から図書室で調べていた俺たちだが、決定的にこれを調べる、となるものは一切なかった。しかし、一つだけ、俺が未だに気にしているものがあった。凛が持ってきたたった一枚のメモ用紙。何か胡散臭いものの、何もないよりはマシで、やるか、やらないか。もしかしたらこのメモ帳も何かに通じているのかもしれない。やるか、やらないかだったらやったほうが可能性も広がるだろう。

 そうだな、と前置きしてから答える。


「凛が見つけたこれを遂行してみようと思うんだがどうだ。地底人 七不思議~指定場所を回った人地底にご招待~ってのを調べるのはどうだ? ここに書かれた場所を回るだけでいいみたいだし、時間もそんなにかからないだろ」


 ズボンの後ろポケットに折って入れていたメモ用紙を取り出して、テーブルの上に置くと谷風と時先輩が覗き込んだ。


「えーと何々……まずはどこにいきゃ――って俺たちの部屋じゃねーか、なんだこのピンポイントな場所指定……」


 時先輩はしばらくメモ用紙を見つめたかと思うと手にとって触り始めた。


「時先輩、それ触ってもなにも起こらないかと……」

「紙に対してセクハラか!?」

「いえ……なんでもないわ」


 横目でチラッと凛を見ていたようだが、こともなげに目を逸らした。時先輩の表情は少し納得していない様子で、凛と時先輩の今の間に何があったのか、計り知れなかった。


「んじゃ、これを遂行するか。凛もそれでいいか?」


 凛は少し戸惑ったような表情を浮かべたが、杞憂であったかのように柔らかい表情を浮かべなおした。


「それでいいと思うよ。やらないより、やったほうがいいもんね。さ、いこいこ!」

「お、おい凛!引っ張るなよ!」


 柔らかく、優しい笑顔を浮かべる凛に引っ張られながら、寮へ向かった。


……


 少し日も傾いてきたらしく、夕日が最後の力で舞い散る桜を着飾るように黄金を身に纏わせる道を歩き、寮へ直行する。

 しばらくして、寮に到着。

 男女合わせて明確に線引きされた寮は、右が男子寮、左が女子寮となっており、大きな建物はそこにあるだけで威風を感じさせた。威風を感じてしまう原因としては女子寮にはいつも監視役の役員がいるというところだろう……。黒を基調にしたスーツ姿にはボディーガードという言葉が似つかわしいだろう。この学園の警備をしている証として胸元に認証カードをつけているのも特徴だ。一体どれだけの男子が女子寮に入ろうとして犠牲になったことだろうか。

 新入生は毎度のこと、ボディーガードを軽んじて策を弄して女子寮に侵入しようとするが、誰も彼も成功したことがなく、もはや鉄壁の城砦であることを示し続けるのがこのボディーガードたちだった。

 ボディーガードに見られてもいないのに威圧を感じつつ、男子寮の俺と谷風が生活している部屋へ行き、鍵を開けて中へ入る。


「んで、この部屋にきて何するって書いてるんだ」


 寮にくることになった案件であるメモ用紙は凛が持っている。メモ用紙の第一発見者ということでメモ用紙を託しているのである。

 凛はメモ用紙をスカートに備え付けられているポケットから取り出した。


「えー……っと。次は学校だって」

「「「……学校!?」」」


 異口同音で谷風、時先輩とハモる。


「いやいやいや、待ってくれ凛。そのメモ用紙を渡すんだ」


 凛にメモ用紙を渡すように言う。何かの間違いだろう。確かに指定場所を回った人地底にご招待~って怪しげな、信用できないタイトルでしかも内容が本当に寮に来るだけなんてこたぁないはずだ。

 こう、ほら色々あるだろう。このベランダに何か置いてあってそれを掘るとか、七つ集めると願いが叶ってしまうボールを集めるとか!

 だが、この幻想はメモ用紙を見た瞬間に砕かれた。


「寮に到着しましたか? では次は二年B組の教室へいきましょう……!? 本当何もないのか!?」

「本当に何もないみたいね……何かしらそこを回った証を用意しろって言われるのかと思ったけどそんなこともないみたいね。本当に眉唾ものだわ」


 時先輩はなぜか凛を見つめながら文句を垂れ流していた。


「うーん……でも一度やるって決めたものを変更できませんし、やりましょうよ。時先輩は面倒なら帰ってもらっても大丈夫ですけど……」


 首を振って否定する時先輩。


「いいえ、面倒でもなんでもないけど、お粗末なものだと思ってね、これに乗ってくれるのがあなたたちみたいなお人よしで助かったでしょうね、そのメモ用紙書いた人」


 毒を吐きつつも、すぐに上履きを履いている時先輩をよそに、谷風と俺も上履きを履く。凛だけが、その場から動こうとしなかった。まるで、目に焼き付けるように部屋を凝視している。


「どうしたよ、凛」


 声でポニーテールをゆっくり揺らしながら不自然なまでに固定された笑顔の凛。


「ううん、なんでもない。日が完全に傾く前に急いでいこ」

「あ、ああ……」


 やっぱり今日の凛はおかしい……最初から感じていたことだが、笑顔を絶やしていない。だが、ふとした瞬間に憂いを帯びた――いや、光がなく、闇しか残っていない、そんな目をしている。

 まるで生きる屍の如き表情を見るたびに心が痛む。

 あの根暗だった凛を何がここまで変えたのか、一日で物事が動きすぎており、俺の当初の目的である探検部設立目的の自身の違和感を探ること、春休みの課題に書かれていた愛瑠、優衣といった女性の名前らしき単語のこともすべて彼方に忘れていた。

 そう、俺は忘れてはいけないことを忘れている。そこまでの解はでているのに次の解へ進むことができない。まるでピースの隠されたパズルのように全てがハマることはない。そんな解答を求めているのではないか、と思うほどにすべてが隠されていた。

 時先輩は凛だけを見ろと言っていた。それは正解であり今の凛を放っておくことはできない。

 だが、今の凛に何を言っても無駄であると思える。何もかもをはぐされて終わり。探検部へ入る一日前と何も変わらない。表面が変わったところで、内面はそうは変わらない。

 一体何が凛を絶望に落としているのか、ふとした瞬間の絶望を見に纏った目は一体何なのか、そんな問に答えはでないまま、時は無情にも進んでいった。


 ……


 メモ用紙にかかれていた指定場所をしばらく回り続ける。寮の次は二年B組の教室、そこから一年C組、学食、二階空き教室へ行き、最後にかかれていたのは校庭に存在する大樹だった。

 指定場所を回りながら凛はここで何があったか、などの思い出話をしていた。全員がそれに乗って話していたが、全員が気づいていた。

 凛は何かに別れを告げようとしている。

 これだけが分かっても、何も意味がない。一体何に対しての別れなのか、それは探検部に入ったことと関わりがあるのか、すべての疑問が螺旋状に絡まり、大樹へ収束した。

 

 校庭を黄金の夕日が照らす校庭、その隅にその大樹は存在していた。

 万年、四季全てにおいて緑を振りまくこの大樹は、二十数年前に埋められた一つの種から成ったものらしく、ここの卒業生が埋めたものらしいそれは今も緑で生い茂っていた。

 凛は一歩踏み出して、その大樹を見ていた。

 横から顔が見えないものの、おそらく絶望に包まれた表情をしているんだろう。何かに別れを告げようとしている凛を目の前に、時先輩や谷風も口を開くことをしない。


「楽しかったなあ……今日はありがとうね、みんな」

「いや、俺も思い出話聞けたしよかったよ」

「そうだな」


 嘘だ。今いいたいのはこんなことじゃない。凛が何を隠してるのか聞きたい、それが何であれ相談に乗れるものであれば、俺は乗る覚悟だった。谷風もおそらくそうだろう。

 メモ用紙に書かれていた指定場所はここが最後。

 だから、ここで聞かなければいけない。今日何をしようとして、探検部を、俺たちを誘ったのか、そしてなぜ、メモ用紙による手段で俺たちをここまで導いてきたのか。メモ用紙が凛のものであるという確証はない。しかし、指定場所を回るうちに何かが記憶に浮上していた。二年B組から一年C組、学食、二階の空き教室、すべて懐かしい感じがして、いつも、その場所にいる時は凛がいた気がするのだ。みんなと笑って過ごしていたような、そんな小さな思い。

 しばらくして、意を決して唇を開こうとした矢先、凛が言った。


「……私ね、今日でここからいなくなるんだ」


 先に言われた言葉。それは知りたかった言葉でもあり、知りたくなかった言葉でもある。


「やっぱりそうか」


 そんな言葉しかでてこなかった。薄々わかっていた。だから、聞かなかった。今日の凛はいつもの凛とは違ったけど、今日の凛は俺にとって違和感がなかったから――まるで十年来の友のように自然にいられた。以前の凛相手にはこうはいかなかっただろう。

 根暗だった凛と快活な凛。どちらも凛であることに変わりはないが、快活な凛に対して自然な態度で居られた俺は何か、凛との壁を感じていた。俺が何か忘れているんだ……。そう思うほかなかった。

 事の発端は、春休みの課題の愛瑠や優衣といった名前だったり凛の元気な文字だったりした。俺がこの世界に――ひいては凛に感じていた違和感も探検部を作るキッカケになったと言っても過言ではないだろう。

 現実と記憶の齟齬。

 それは何か違和感を感じ、自分が何かを忘れているのではないかと思考がいきつくのも自然なことだろう。

 だから、探検部を作った。記憶のピースを探すために。

 探検部自体も直感でしかでてこないものだったが、作らなければいけない、そんな強迫観念に近いもので発案されたもの――きっと俺の中で大事なことだった。それを忘れてしまったから凛は変わってしまったんだろうか……?


「凛、俺は……何か忘れてるんじゃないか。お前とした何か、を」


 谷風もほとんど俺と同じ思考に至ったらしく、凛が喋るのを待っていた。きっと谷風も違和感、または何か自分が忘れているのではないかと思っていたのだろう。この違和感は決して気持ちのいいものではなく、気づいたらもう不気味なものだった。 

 突然の言葉に、凛は驚いた表情はせず、淡々と喋った。まるで機械を相手にしているかのような冷酷さ。


「核くんも、谷風くんも何も忘れてないよ。大丈夫だから――」


 凛が手を伸ばしてすぐに降ろす。それはまるで自ら全てを諦めたかのように、届かない夢であるかのように。

 場を震撼させたのは、複数の男の声だった。


「凛様、時間です」


 黒ずくめの男たちが、いつの間にか俺たちを取り囲んでいた。黒を基調なスーツ姿、一言で表すとボディーガード。しかし、この学園を警備しているボディーガードではない。その証拠にボディーガードがいつも胸元につけている証明カードがなかった。


「な、なんだ?」

「……凛?」


 俺と谷風はいきなり黒服に囲まれ、混乱するが、時先輩は一人納得しているかのように動じていない。

 問いかけを無視した凛は興味なさそうに目を背ける。


「わかっています。予定通りに、お願いします」

「はい。それでは移動をお願いします。凛様」


 凛が大樹へ対して手を伸ばして何か呟き始めた時、場の空気が刹那のうちに修羅のものとなった。

 俺たちを取り囲んだ五人はいるであろう黒服の男たちは瞬時のうちに鉄砲を構えていた。

 見る限り重たそうな拳銃。本物と偽者などの判断が聞くものでもない。

 黒服たちはあくまで事務的に言った。


「神風 核。手をあげろ」


 突然の名指しに驚きつつも、拳銃をつきつけられ、手をあげる。谷風が、なにしやがる!と言いながら地面に押し倒され、拳銃で頭を狙われていた。

 非日常の光景に言葉など浮かぶはずも無く、脳が思考することを拒否する。


「そのまましゃがめ。未風 時、貴様もだ」


 黒服の男に呼びかけられ、時先輩が怒りに似た殺気を放ち、拳銃を突きつけられているにも関わらず、決して屈することのないであろう瞳を宿らせながら凛を見据えた。


「……なるほど、こういうことだったのね……兎風 凛、あなた親友を売ることはしないだろうと思っていたけど、まさか、すべてなくなるから良いって思ってるんじゃあないわよね?」


 威風の聞いた言葉に凛はピクッと体を反応させ、時先輩を視界に捉えた。死んだ屍の目で。

 今までの凛を感じさせないその目は、生を感じさせない、生への執着というものがないように見えた。

 一気に物事が起こりすぎている。凛の突然の変化、黒服の男たち、俺の記憶に存在する本能が呼びかける違和感、半月で起こるには随分と劇的なことで、一日で起こったことが大半であり、ついさっきまで何もなく、穏やかに見えた日常が音を立ててガラス片のように崩れて落ちている。何事が起きたか理解できない俺をよそに、時先輩は激情に身を任せるように言葉を紡いだ。


「あなたがいなくなればストッパーがいなくなってきっと今の王様はなんでもしようとするわよ。今はあなたが王様を止めている。もしあなたの能力がなくなったらなんでもしでかすわよ! 神風 核だってどうなるかわからない。あなたが守り通そうとしたものはすべて無駄になるのよ、未風 優衣も、古風 愛瑠もあなたに手を伸ばそうとしていたじゃない! なのに――」


 言葉を遮るように凛も激情に身を任せ反論した。それは、俺が始めてみる。

 普段、感情を滅多に吐露しない凛の感情が発現した瞬間だった。


「私が父を止めている……?そんなわけないじゃない! 仕方ないじゃない!」


 絶望、諦め、悲しみ、そんな負の感情が無数に封じ込められた思いが詰まった言霊とでも言える言葉が放たれた。


「父の命令――地底人である王様の命令よ!? 誰が逆らえるっていうの!? 私が逆らったら私に関わったすべての人間が不幸な目に会うかもしれない! そんなことできるわけないじゃない! ふーかちゃんも、美風ちゃんも、谷風くんも、核くんも、全員が私の裏切りの代償を受けることになるかもしれない! だったら!」


 途中からそれは、泣き言のように、変わっていった――そして、悪魔が、現れた。

 大樹から突然、この世界全体を包み込むような光が放たれ、思わず場に居合わせた誰も彼もが目を瞑った。

 光が霧散するように消え行く中、その男は現れた。

 男の輪郭が次第にハッキリしていく。背丈は平均男性のものと変わらないが、とても中性的な見た目をしており、顔の全貌も見えてくる。ぱっと見ると女性にも見えるだろう整った顔立ちには長年の苦労が滲んだように苦い顔をしていた。

 しかし、すべての光が消えきった時、そんな感情は外に放りなげられた。

 煌びやかな装飾に身を包んでいて、背後にはマントがあることが正面から見ても理解できた。一言でこの男を表すなら"王"と言うのが当てはまっているだろう。

 "王"が俺を見る。思わず、後ろに下がる。

 視界に捉えたものすべてを萎縮させるその姿はまさに、一言で"王"だ。


「……凛、時間だと言ったはずだ」


 "王"は一言喋っただけのはずなのに、木々が揺れ、小鳥がさえずり回るような威圧的な声を響かせた。

 威圧的な声と共に、目を見た。目が凛と同じで死んだ屍のような目をしている。それでも、威圧的に感じるのは何かが"王"を動かしているからなのだろうか。

 何か強烈な金縛りにかかったように体が動かない、それほどにこの男は威圧的だった。

 "王"とは言ったが、この男は不気味だ。何を考えているかわからない。瞳の奥に見えるのはひたすらの闇、光が入り込む余地など元の選択肢に存在しないかのような無のような暗闇。


「お前達、未風 時と神風 核を連れてこい。そいつらにはまだ使い道がある」


 "王"の威風堂々とした迷いのない言葉に、凛が驚いたような顔をする。


「なっ……お父さん! 私が真っ当すれば彼らは巻き込まないって……!」


 今、凛は父といったか。

 この何にも感じていないような瞳をしている男が、凛の父親……?優しい、凛からはとても想像できないような親。

 拳銃をつきつけられたと思ったら自分の認識の外で何かが進んでいっている。戻れない非日常へ勝手に足が突っ込んだ、そんな認識。

 凛のことなど些細なことのように、なんとも思っていないように凛の父親だと思われる"王"は言った。


「お前が真っ当に任務を果たせさえすれば解放しよう。王として、約束は守ろう」


 父と子の会話には一切見えないキャッチボール。


「本当、ですね……?」


 凛の感情を吐露した言葉に辟易しているかのようにため息をついた・


「……私が約束を違えたことはなかったはずだ」


 短い言葉に篭る威圧の言霊。

 それは凛を納得させるには十分だったように、凛の感情が消えていく。


「わかり、ました……」


 それ以上、凛は発言することをやめていた。もう、何かもがおしまいだと言いたげな表情を浮かべて。

 時先輩が凛の父親をにらみながら、言葉を投げかける。


「あなたが今の王様って分けね……。娘の命を使ってまであなたは、事を成そうとしているの」

「お前たちに質問する権利はない。黙っていろ」

「……」


 時先輩の歯軋りが聞こえる。やっと凛の父親らしい男からの威圧に慣れてきた俺は言葉を紡ぐ。

 何も言わなくてもわかる、この状況がどれだけ異常か、だからこれに導いてきたであろう人間に聞くしかなかった。


「今、娘の命を使うっていってたよな……それとなんだ、この黒服は……なぁ凛、これは一体なんなんだ?」

「……それは――」


 重苦しく言葉を開こうとした凛を父親が遮って黒服に言葉を飛ばす。


「凛、転送準備をしろ。お前たち、未風 時と神風 核を連れてこい」


 凛の父親の言葉に咄嗟に反応したのであろう時先輩が、手で指をぱっちんとしようとするが、すぐに黒服に抑えられる。俺も同様に抑えられ、取り押さえられる。別段乱暴なことをされているわけではないのだが振りほどこうとしても黒服たちの力は思ったより怪力のようで引き剥がせない。むしろ抵抗すると骨がきしむように、鳴る


「くっ……」

「なんだよ、これ! なあ、凛!」


 俺は凛に呼びかけることしかできなかった。脳の許容範囲外での出来事、何が起きているのかもわからない。ただただ、立ち尽くすか、凛に問いかけるしかできない精神状態。

 拳銃をいつの間にか降ろした黒服たちが、抵抗する暇もない俺と時先輩を拘束する。両手を手錠のようなもので拘束され、身動きがとれなくなる。

 時先輩は未だに闘志を瞳に宿らせ、獣のように凛の父親を見据えていた。

 まるで、少しでも隙を見せたら首を食いちぎるぞ、といわんばかり。


「ふんっ……いけすかん目だ。古風 愛瑠と同じ目だな」


 あざ笑うかのような王様の言葉に時先輩は珍しく笑った。


「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない……」

「……」


 その目を面白くないように見たあと、黒服に指示を飛ばす。黒服たちに起こされ、手の自由が手錠によって拘束された状態で大樹までつれていかれる。凛は大樹に手をつけて、何かを呟いている。

 黒服たちが興味がなさそうに、上から押さえつけられ、暴れる谷風の頭に拳銃を向け、聞く。


「この男は」

「殺せ」


 あまりに淡白な、言葉の押収。

 だから、気づくまでに時間がかかった。

 夕日が黄金に照らす校庭の中。

 ただ乾いた音が響き渡った。

 乾いた音が耳に入るまでの間に、谷風は動くのをやめ止まっていた。まるで、一人だけ時間の止まったように。


「……」


 目の前で起きた光景が理解できない。

 何が起きた、今、何が。


「あんたたち、わかってるの!? 地上の人間を巻き込んだら……外交問題よ!?」


 時先輩の叫び声、しかしそれが脳に進入することはない。事態が把握できず、処理ができない。


「巻き戻せば問題なかろう。エネルギーは補充される。もし巻き戻せなくとも、もみ消すことなど造作もない。一度、あったことだ」


 ただただ、淡白に答えている王様をよそに、何も感じない。感じられない。まるで外からこの物事を見ているかのような冷静さ。

 目が、視界が、黒に染まる。

 一つの言葉が脳を永遠に反復する。

 谷風が、撃たれた。

 おもちゃのような銃で撃たれた刹那、人形のように動かぬもの言わぬ物となった。

 夕日で黄金を見に纏った校庭に一滴の水滴が広がるように血が広がる。うつぶせで、どこから血がでているかわからないものの、見た目からして、頭からでているのだろう。

 人が考えることを行う脳が銃弾によって焼かれた。貫かれた。それで死なない人間はいないだろう。

 もし生きていたとしても、考えることのできない、ただの屍のような人間になってしまう。

 冷静に物事を見ている自分が怖い。とんかちで頭を叩かれている感覚に襲われる。

 頭が痛い。

 吐き気がする。

 記憶の底から何かが思い出されようとしている。

 皿いっぱいに広がった記憶という名のスープが掬い上げられる。

 スープに映る映像には、誰かが拳銃で撃たれ、倒れる瞬間が記憶されていた。ついさっき起きたことではない、以前起きたことなのだろうと脳が冷静に分析する。

 倒れた男は俺に手を伸ばして「生きろ……逃げて、生き延びてくれ……頼む。どうか、幸せに……!」そう言っていた。


「巻き戻せばいいって……本当に言ってるの! あなたの娘の命を使って手に入れたエネルギーをそんなことを使うの!? そんなことをしているからすぐにエネルギーが枯渇するのよ! それにもみ消せばいいって……いつまで地下帝国のつもりでいる……今は融和を取らないと生き残れないわよ……ただの利害関係の一致だけで生き残れるわけがない」


 激情に身を任せて時先輩は荒げる。静かな、風も吹かない校庭にはそれだけで十分響く声だ。


「……その娘の口を閉じろ」


 "王"の言葉に、黒服が無造作に動く。どこから取り出したのか、ガムテープを持っていた。

 時先輩がガムテープで口を塞がれる。尚も、何か叫びをあげている時先輩を無視して、凛は言った。


「準備が整いました」

「お前たちもこい」


 まるで気にも止めていないような口ぶりで、物事が勝手に進んでいく。ただただ、自然に進むことに誰も違和感を抱かない。いや、未だに時先輩は口をもごもごと動かして抵抗しているようだった。

 違和感を抱いているのは俺と時先輩だけ。いや、時先輩は状況は飲み込めているように、話している。時先輩もきっと凛と同じ側の人間なのだろう。

 俺だけが、何もわかっていなかった。理解できていなかった。

 黒服たちは歩きだして、物言わぬ動かない谷風を背にして、黒服の男たちの一人が言った。


「この男はどう致しますか」

「捨て置け。どちらにせよ、なくなる時間だ。死んだところで気にする必要はない。それにそんな者死んだままでもよかろうよ」


 言葉を聞いた瞬間、たった一つだけ理性として残っていた糸が音を立てて千切れた。

 肺が潰れそうなくらい息を吸って、喉が焼ききれるほど叫ぶ。

 谷風が死に、もう理性なんて残っていなかった。


「うわぁあぁあああぁぁ――!」


 理性が残っていたと言っても、それはいつか破れる理性だった。谷風が撃たれて、血が広がっていくのを見た瞬間から理性などなかったのかもしれない。

 状況の推移を脳が処理しきれなくなり、"王"の何食わぬ一言と同時にやっと思考が追いついて爆発した。

 子供のように、ただ、突然の非日常に言葉の暴力をぶつける。

 "王"を睨む。こいつが、こいつがでてきたからおかしくなったんだ。こいつが――こいつが!

 手の自由は利かなくとも、足の自由は利く。突然動き出した俺に対応しきれなかった黒服たちを置いて、二、三歩あるけば届く範囲にいる"王"に走って感情を吐露する。

 それは言葉にすらなっていない言葉。


「なんなんだよお前は! 谷風は、谷風はどうなったんだよ!」


 我ながら何を言っているかわからない。谷風はどうして死んだ。この黒服はなんだ、お前たちは――なんなんだ。そんな感情が爆発していた。

 鬱陶しそうな"王"の視線など構わないとばかりに俺は"王"と相対した。


「……」

「お前たちはなんなんだよ! こんなことして!」


 好き勝手に言い放ったその時"王"の手が動き、俺の頭を掴んで持ち上げる。

 瞳を覗き込むように見る"王"。その瞳を睨み付けるが、"王"の瞳には光が灯っていなかった。

 狂気と絶望。

 この二言でしか"王"の瞳は説明できないだろう。この瞳は不気味で、残酷で、全てを諦めた、絶望した目だ。しかし、その中にわずかな狂気を感じることができて思わず心身が激情している中でありながらも身を震わせた。

 "王"は整然と口を開いた。


「それを言いたいのはこっちだ"箱"の分身が……貴様のせいで今までどれだけの人間が死んだきたかわかるか! 俺たちはそれでも"箱"に頼って生きていかねばこの世を行きぬけない!」


 言葉による衝撃とでも言うのだろうか、頭がゆれ、木々が揺れる。まるで、言霊が宿ったような言葉。

 "王"から初めて感情らしい感情が吐露されたように思える激しい口調。言霊のような言葉には、それだけの真実が込められている。しかし、その言葉は理解できない言葉だった。

 "箱"? 俺のせいで人が死んだ? 一体何を言っているんだ……?

 "王"は突然の言葉に呆然としていた俺を手から解放し、王の証であるらしいマントを靡かせて憎悪を俺に塗りたくるように言った。


「貴様など見たくもなかったわ! "箱"の! お前のせいで、夜風は、百合風は……!」


 歯軋りをしながらも、尚も憎悪を増徴させる。

 夜風、百合風……、言っている言葉が全て理解できない。人の名前だというところまではわかるがそれ以降の情報がない俺には何も考える余地もなかった。

「なんだよ……何言ってるかわかんねーよ! 谷風は、谷風は……!」

 視界に谷風を捉える。血はもうとめどないほどに、見た目で手遅れだとわかるくらいに広がっている。

 こうも簡単に、人の命はなくなるのだと分からされる。

 俺の怒りはまだ収まらない中、勝手に落ち着いた"王"が、告げる。


「理解できない、所詮は分身か……おい、凛、いけ」


 大樹に手をつけたままの凛は、目を瞑ったまま、迷いなく頷いた。


「……転送」

「何を――」


 たった一つ呟かれた言葉と同時に視界が歪む。暗闇で世界が包まれて閉じる。まるで何かに吸い込まれているかのような感覚。足から底なしの沼に落ちていくように俺は沈んでいた。

 最後まで、動かない谷風の姿が深裂に記憶を支配した。

 その最中、最後に凛はとても、見た人を誰も彼もを幸せにできる、そんな優しい表情で微笑んで、手を伸ばして言った。それは、別れの言葉だった。


「核くん、みんなと一緒に居られて楽しかった。ふーかちゃんも、美風ちゃんも、谷風くんも、時さんも、みんなと一緒で幸せだった。まるで、幸せって言葉の中にいるみたいで、嬉しかった……。

 でも、そんな時間も終わり。私は今まで罪を犯すことしかしてこなかった……。父の言葉に逆らえず、核くんを殺してきた。こんなことしか言えないけど、ごめんなさい。ままで、どれだけのあなたを殺したのか、わからない。

 許してとも言わないし、私はもう、あなたの目の前には現れないから……ごめん――ううん、ありがとう。さようなら……」


 それが別れの言葉な気がして、辛そうに、笑顔を浮かべる凛に手を伸ばす。

 凛、お前の笑顔はそんな辛そうじゃダメだろう! お前はいつも誰かの中心にいて、笑顔を振りまいてたじゃないか。なんでそのお前がそんなに辛そうな顔をするんだよ!

 自然とでた心の言葉は、まるで凛を昔から知っているような感じだ。凛がまともに笑顔になったのは俺が知る限り、今日だけなのに、なぜかいくつもの凛の笑顔が浮かび上がる。


「……リライト」


 凛の最後の呟きに、それも次第に泡のように割れていった。


……


 暗闇の中にいる。

 周りに何一つ見えない虚無を想像させるように何もない世界。視界から得られる情報は黒という単語だけ。

 ただ、その暗闇を漂っているのだけは自覚できた。

 手も、足も動く。視界だけが真っ黒。深遠を彷彿とさせる状況に戸惑いすら浮かばない。

 確か、俺の記憶の違和感からもっとも直感で違和感の存在した地底人という言葉と探検部って部活作ってそれから――ああ、活動日初日に、あった出来事は――。

 そこまで思い出して記憶にノイズが走る。赤い水のようなものが広がっていく。見るからにそれは血だ。

 血が広がって、広がって、止めようもなく溢れる。俺は動けなくて、ただそれを見ているだけ。

 自覚した。

 谷風が、死んだことを。

 声を張り上げる気すら起こらない。ただ、信じられないといった風情。

 永遠の暗闇から、誰かの声が聞こえた。


「……サくん」


 誰だろう、この声。声色は女性で耳に自然と馴染む声に、緊張していた脳が弛緩する。まるで、何かに優しく包まれているような……そんな優しい声だ。


「――い! 起きろ!」


 もう一つの声も自然と耳に馴染む、懐かしい声。男勝りの声で気を保たなければ、と思わせる叱咤の念が秘められていた。

 声に導かれるがままに、深遠を彷徨う。この暖かいもの……俺は知っている。この声の持ち主に会いたい。素直にそう思った。

 永遠の暗闇に見えた場所の一角に光が灯り始めた。それに向かって一直線に直進する。

 走れ、走れ。

 足が地について走っているいるわけでもないのに光にどんどん迫る。

 走れ、走れ。

 手を必死に伸ばす。あの光の先に何があろうとそこにいかなければならないと肌で感じる。だから、必死に走る。


「届いた!」


 光に吸い込まれるように手が触れた。その瞬間、俺の意識は途切れた。


……


「……っ」


 意識を覚醒させる。それと同時に独特の臭いが鼻腔をついた。少し臭みを感じる土の臭い。

 独特のそれは、どうやら今いるところ全体から発せられているようだった。まるで染みついた臭いであるかのように付着した臭い。

 だが、自然と嫌な感じはしない。むしろ、懐かしさを感じた。


「ここは……」

「起きたのね……」


 突如聞こえた声に驚きながらも聞こえた左に向くと、時先輩が十字架に貼り付けにされていた。


「と、時先輩!? 大丈夫ですか!? 今たすけ――」


 時先輩は呆れたようにため息をついた。


「あなた、それでどうやって助けるっていうの。まずは自分の状態を確認することから始めなさい」


 言われてから初めて、自分の置かれた状況について理解する。

 俺も時先輩と同じく地面から生える十字架に貼り付けにされていた。他人から見ればこの姿はとてつもない罪を犯した罪人に見えるだろう。それほどまでに異様だった。

 手と足は拘束具で固定されており動こうとしても動けないようになっている。何かないかと回りを見渡すも、正面にあるのは鉄格子の扉のみ。

 周りはコンクリートに囲まれていて、一見すればそれは牢獄だった。


「くっ……」


 どうにか外れないかと暴れて拘束具をがちゃがちゃと忙しなく揺らす。


「やめときなさい。そんなことしてもなんにもならないわよ……。それより、あなた今置かれた状況を理解してる?」


 まるで、時先輩は理解しているかのような言い方できつく言い放った。

 そうだ……。確か、谷風が――殺されて、それから大樹が光って目が覚めたら囚われていた。嘘のような本当の展開。


「時先輩は、今の状況を理解できているんですか……」


 冷めたような顔で、時先輩は言い放つ。その様は何か諦めを感じさせる。


「あなたよりは、理解しているわよ……。どれだけ絶望的な状況かっていうのも、ね」

「含みを持たせた言い方ですね……何が起こってるか教えてもらえますか」

「あなた以外に冷静ね。こんなわけのわからないところに連れてこられたのに」


 彼女の言葉で、なぜ自分がこんなにも同様していないのが自覚した。それは――。


「そう、ですね……なんていえばいいのかわからないんですけど、こんな感じのところに昔いたことがある気がするんですよ」


 と言って、鼻腔をくすぐる土の臭いを嗅ぐ。

 どこか、懐かしい臭い。温かみを感じさせるのは何故だろう。この場所を知っているわけではない。

 でも、俺は何かを知っているんだ……繭の中から記憶が表面上に浮かび上がろうとする。


「ぐっ」

「記憶を無理に思い出すのはやめておきなさいって言ったでしょ。あなたの記憶が損傷するわよ。ただでさえ、あの子の力は"箱"の影響力化では神にも等しい力なんだから」


 彼女の言葉にいくつかの疑問があがる――その前に、何か知っている風情だ。谷風が死んだ時も何も取り乱さない冷静な姿で、現れた"王"とも対峙していた。それ以前にも、俺が図書室へ向かう際に励ましの言葉をもらった記憶がある。凛の行動についても彼女はある程度どう動くか理解していたんだろうと思う。

 おそらく、全ては知らないまでも何かしら知ってることがあるのだろう。時先輩にそう問いかけると自嘲気味に口元を歪めた。


「私が知っているのはここが、あなたの求めていた地底人が住む世界。地下帝国っていうことよ」


 その言葉に驚愕の息が漏れる。

 ここが地底人が住む世界? テレビとかで昔はよく特集が組まれていた地底人の国?


「にわかには信じがたいことなんですが……」


 まさに眉唾とはこのことだろう。

 でも、確かにこの臭い、俺は知っている。

 記憶のピースを探るために直感で感じた地底人と言う言葉に掛け、地底人を探していた。幾重にも存在するピースの一つがピースが欠けた壁画にはまった気分がする。

 凛やあの黒服や"王"がもし、地底から来た人間だとしたら納得できるだろうか。状況証拠――"王"と凛との会話から察するに俺たちが住む世界とは別の場所で何かが執り行われていたのは、別の世界があるのは納得の行く答えだ。時先輩はあの時――谷風が死んだ時、外交問題と言った。それはつまり、日本と地下帝国は外交関係にあるという証拠になるのだろう。

 いくら当事者とはいえ、このまま地底人ですか、はいそうですか。と納得できるわけではないが、時先輩は嘘をついていない。それは素直に感じることができた。

 本当に短い時間一緒にいただけなのに、俺は時先輩を凄く信頼している。怖いまでに。まるで、自分以外の自分がどこかで、会って話をして仲良くなっていたのではないかと思ってしまうほどに時先輩との壁はなかった。


「ま、突然言われて眉唾なのは理解できるわよ。 ま、信じてもらえないにしても、巻き込まれたからにはあなたにも全部を知ってもらうわ。ここから脱出するためにも……それがただ一つ、この絶望を退ける剣なのだから」


 時先輩は十字架に貼り付けられながらも、決意の瞳を向けてくる。何者にも屈しないといったその瞳に、誰かの影が差す。

 そんなところは姉妹だな――ってあれ……今俺、なんて思った……?

 彼女は何かを思い出しかけて戸惑っている俺に対して言葉を続けた。


「まずは、そうね……。今のあなたの置かれた状況とかその他諸々ね。私たちは今、地下帝国の牢獄と呼ばれる場所に隔離されてるわ。それも最深部の場所だから人目にもつかない。誰かが助けにくるのは期待しないほうがいいでしょうね」

「もし最深部じゃなければ何か助けがくる期待はあったんですか?」

「ないわね。誰とは言わないけどきっと彼は動かない。傍観者だから……ね」


 頭に疑問符を浮かべる俺を無視して、さらに彼女は饒舌に続けた。


「こないものに期待しても仕方ないから、説明を続けるけど。まずは兎風 凛の置かれた状況についてね。兎風 凛は今、"箱"のエネルギーを充填するための生贄になろうとしているわ」


 物騒な単語が飛び出た。


「ちょ、ちょっと待ってください。生贄……? それにその箱ってのはなんですか。聞いている限りそれのために凛は生贄になるって……」


 時先輩は失念していたかのように、首を傾げて目を苦そうに細めた。


「あなた、何も知らないのね。そうね、まずは――」

「余計なことを喋っているようだな……未風 時――いや、古風 時」


 時先輩が言い掛けたのと同時に、男の声色が全身を貫く。この威厳に満ちた声、威圧を感じるものは"王"のものに他ならなかった。

 鉄格子を挟んだ向かい側に、"王"はいた。目つきは険しく、鋭く眼光で人が殺せるのではないか。"王"より独裁者と言ったほうがいい目つきだ。

 護衛としてなのか、黒服が四人ほどついている。厳重な警備がなされているようだ。時先輩の話を信じるならここは、地底人が住む世界、地下帝国で、この男はそこの"王"と言ったところなのだろうか。


「その名前で呼んでも私は別になんとも思わないわよ。それより、自分の娘を生贄に捧げるのはやめなさい。リライト能力者がいなくなって困るのはそっちでしょう」


 時先輩の吐き捨てるような言葉に、"王"は俄然とした態度で言った。


「ずっと地上にいたお前にはわからぬことだ。古風 時。今現在の地下帝国は日本政府との条約で成り立っている。その条約が果たせなければ我々は潰えるだろう。それ故の今回の決断だ」


 "王"の言葉からは一種の憤りを感じられた。どうにもならない現実。そういうものに抗うかのように。


「まだ、凝り固まった思想で動いてるのね。そんなことだから"箱"を使いすぎるのよ。そうして、全てを犠牲にしていく……」

「私はもう歩みだしたのだ。止めることはできん」


 吐き捨てて"王"は鉄格子の前から姿を消した。それに付き添うように黒服たちもいなくなる。

 張り詰めていた空気が霧散し、弛緩する。


「くっ、もう時間が、ない……」


 俺の知らないところでどんどん話が進む。何かが起ころうとしているのは事実なのに、全てが釈然としない。俺だけが、何も知らないんだ。


「時間がないってどういうことですか!?」

「兎風 凛が生贄になるまでの時間がもうないってことよ…」

「そもそもその生贄って……"箱"って奴のせいですか」


 俺が唯一持っている、聞いた情報から検討をつける。

 時先輩の焦りようから凛が本当に死のうとしているのは理解できる。気を失う前に、凛が言った言葉。あれは別れの言葉だった。

 今、ここにきて脳が現実に追いついてくる。大樹で黒服たちが現れて以来、脳は現実に追いついていなかったが、理解する。今嫌な汗が吹き出る。

 谷風は死んだとは断定できていない。しかし、頭から広がる血の海を浮かべる。今更に、腹から喉に伝ってくる嘔吐感。

 それと同じ光景が広がるのか……凛が、死ぬ。

 耐え切れない。谷風が死んだ可能性は頭で理解している。でも理解したくもない。

 誰かが死ぬ。

 その現実だけで、心が痛む。凛とそれほど長く一緒に居たわけでもないが、心が針に刺されたかのように痛む。俺の中で凛という存在は思ったよりも大きいものだったらしい。

 思いは一緒にいた時間に比例して信頼に、友達から親友に変わって友情に発展すると思っているが、凛といた時間はたった一年ほどであり、その間も根暗だった凛に対して少し距離を置いていた俺に、それほど信頼を育む時間はあっただろうか――否、それで説明できるような信頼関係ではないのだ。この関係は。

 そんなことを思うくらいに凛は俺の中で肥大している。今になって思う。春休みの課題に記載されていた愛瑠、優衣の名前に思ったのはこのことだ。

 知らない名前なのに、俺の中でその名前は肥大して、存在感を出している。忘れても、忘れられないもののように心に刻み込まれている名前に思えた。

 しばらく思案していた時先輩が悔しそうに呟く。


「私の能力はそもそも戦闘用じゃない……心辺りは優衣くらいか……でも優衣は――」

「あたしをぉぉぉぉ! 呼んだかぁー!」


 男勝りの耳に響く声が牢獄全体に響き渡った。思案していた俺と時先輩は突然のことに驚き鉄格子で遮られた外界に視線を向ける。

 そこには、二人の女性が居た。どちらも幻無高校の制服を着用していた。記憶は知らない女性だと理解しているのに本能では知っている女性だと叫んでいる。

 一人の女性は茶髪のショートカットに、男勝りの顔だが男くさいというわけではなくむしろ美人さの中に男勝りな部分を感じるような部類の女性。容姿も凹凸がはっきりとでており、まさにぼんっきゅっぼんっとはこんなことを言うのだろうと思うほどに鮮麗された体を持っていた。どうやら先ほど叫んだのはどうやらこの子のようで、腕を組んで仁王立ちをして自信気な顔をしている。

 もう一人の女性は、艶やかな長い黒髪。見ることすら愚かしいと感じられるほどのきめ細かそうな白い肌。しっかりとした意思を感じられる瞳を宿した美人だった。この女性も体の凹凸がはっきりとしており、まさにモデル体型と言ったところだろう。

 二人のうち、黒髪の女性が最初に口を開いた。そういえば、この人――時先輩に似ている。もし、時先輩が髪を伸ばせばこんな感じになるのかもしれないと感じさせる。


「時、助けにきたわよ」


 優しく語りかけるような言葉が耳に馴染む。まるで優しさという言葉に包まれているのではないかと思う声だ。

 時先輩は顔をくしゃくしゃにして、笑顔で黒髪の女性を見つめた。


「……うん。きてくれると思ってた」


 黒髪の女性と時先輩が別の次元のところで見つめ合う中、もう一人の茶髪の女性が呆れたように腕組をやめた。


「うっし、とっととやっちまおうぜ」


 軽々と言った途端、彼女は鉄格子を掴んでふんっ!と言った。いやいや、大の大人でもそんなものは曲げられないだろうに威勢のいい声だけでなんとかなるもんでもあるまいと思った矢先のことである。

 金属の曲がる音が聞こえた挙句、めしっと何かを握りつぶした音で理解する。基盤の目のように鉄の棒が人一人通れない程度の感覚で置かれていた鉄の棒が歪んだ。

 茶髪の女性が掴んだ鉄の棒は次第に変形して、まるで粘土のように形を変えて人一人が通れそうな隙間を作りそこから黒髪の女性と茶髪の女性が牢獄の中に侵入する。

 思わず口をぽかーんと擬音がつくくらい開けていた俺に茶髪の女性は言った。


「ん? そんなアホ面してどうしたんだよ? 今外してやるからな!」


 黒髪の女性は時先輩へ、フレンドリーに話しかけてきた茶髪の女性は俺のところにきて十字架に貼り付けにされている原因であるゴムで作られた腕と足を拘束するためのものを外しにかかっていた。

 なんなんだ、この女性たちは……。

 突然のことに驚愕する反面、俺はどこか懐かしい感覚を味わっていた。知っている感覚だ。

 この女性二人と凛と谷風、そして俺。それぞれが笑いあっている光景が目に浮かぶ。楽しそうに、仲よさそうに笑う姿は親友同士のよう。

 とって変わるものなどない。そんな友情の心が俺を支配する。

 ああ、これはとても暖かい空間だ。


 ……


 未だ牢獄の中にいる。

 突如現れた二人の女性に十字架に貼り付けにされている状態から助け出してもらう。どうやら時先輩はこの二人のことを少なくとも知っているようで、艶やかな黒髪の女性を気にしているようだった。


「それじゃ、現状の整理をしましょう。現在凛は――」


 彼女たちがきてから少し和気藹々としていた雰囲気は一発で黒髪の女性が壊しだした。

 いまだに状況を完璧に把握できているわけではない俺は止めに入る。


「ちょ、ちょっと待ってください。何が起こってるか俺全然わかってないんですけど……」


 戸惑いの言葉に、黒髪の女性は少し考えこんだあと得心したとばかりに頷いた。

 俺は未だにこの現状についての理解値に関していえばまったくないも同然だ。まず説明をしてもらわないと。


「ああ、そうね。カサくんはリライト使われてるものね。わからないのも無理ないわ。説明する時間も惜しいから、一点だけ理解していればいいわ。凛が死のうとしてるってことだけを。あなた、凛は大事?」


 突然の質問に戸惑う。どういう意味での大事、なのだろうか。

 友達としてか、親友としてか、それとも女性として、か。三様の答えは、一つしかなかった。

 まず女性として凛を見れるかというとNOである。なぜか知らないが、俺は凛を女性として認識することはできなかった。もう二つの友達と親友についてだが、どちらも信頼の深さが違うだけ……なら答えは一つだった。

 意を決した言葉を発する。


「大事です。親友として……探検部のメンバーとして放っておけません。谷風と一緒のことなんて、させません」


 谷風のこと、という言葉に茶髪の女性が反応する。


「谷風がどうしたって……? 核、何があった」


 なんでこの人は俺の名前を知っているのだろう。俺は彼女たちを知らないのに、彼女たちは知っているようだ。

 質問に答えるため、手短に今までの経緯を説明する。俺個人の探検部の発足などは除外して、凛の経緯と谷風の、死について。

 それを聞いていた茶髪の女性は腕を震わせて、谷風の死を聞いた途端、震えた腕を振り上げて、一滴涙を落とし、目いっぱい溜めてから振り下ろした。

 ガコンッ。

 どんな怪力を持ってしてもへこまないであろうコンクリートが凹む音。乾いた音には悔しさが込められているようで誰も何も言わない。

 床に振り下ろし、クレーターのようにコンクリートをへこませた茶髪の少女は膝を折れるようについて怒りに飲み込まれるように言葉を吐き出した。


「くっそ! くっそおぉぉぉぉ――! あたしたちはこうならないようにしてきたはずなのに……凛だって必要以上に関わらせたらどうなるかわかってたろうにどうして……! どぉして……なんだよ……」


 途中から怒りを含んだ言葉は行き場のないように彷徨い、涙声に変わった。そんな茶髪の彼女を黒髪の少女が慰めるように隣に寄り添って頭を撫でた。


「きっと凛は自分の命を使って全部をやり直すつもりなのよ」

「だからってこの今の時間でなら何をしてもいいってか!? 凛はそんな奴じゃなかっただろ!? 親友と思ってる奴を何もしないで死ぬのを見てるだけなんて、思える奴じゃない……だろ!」

「そうよ……。だから、凛を殴りにいきましょう。助けるんじゃなくて、こんなんじゃダメだって教えに――」


 それは、突然訪れた。

 天地がひっくりかえるような衝撃が地面から鳴り響く。大地そのものが揺れるような衝撃に、思わずたっていられなくなり地面に膝を折る。


「こ、これは……まさか!」

「始まったの!?」


 茶髪の女性が何かに気づいたように顔を抑える。声も震えていた。

 黒髪の女性が苦虫を潰したかのような顔をしていた。

 時先輩も何かが起こったことは理解したらしく。放心した顔で、一言、遅かった。と呟いた。


「くっ……」


 揺れが収まると同時に頭に激痛が走る。頭が割れるのではないかと思うほどの激痛に思わず両手で頭を抱える。

 強制的に、何かが開示されていく感覚が広がる。無理やり鍵で閉めていたものをこじ開けるような感覚。情報の奔流が頭の中を錯綜する。

 一つの記憶が通り過ぎる。これは、俺の知らない記憶……?

 凛と谷風と――愛瑠さん、優衣との出会いの記憶。

 記憶という名のビー玉が頭を疾走する。それが脳を通過するたびに思い出す情報量は大きくなっていく。

 思い出す記憶は高校二年の春の出来事が大半で、現在より未来の日付の話も、ぼんやりと浮かび上がるように思いだす。


「ああぁぁぁぁ――」


 与えられる情報量に耐え切れず思わず声が漏れ出る。

 なんだこれは。

 なんなんだこれは。

 自分の知らない記憶が溢れ出てくる。こんなに気持ちの悪いことはないだろう。

 自分であっても、自分でない何かが誰かと話している感じがする。

 外見は神風 核そのもの、中身も神風 核そのもの。でも俺にそんな記憶は存在していない。

 これがどれだけ歪なことか。最初に思い出した記憶が既に知っていた記憶の中の一部分として体に、脳に、記憶に馴染みだす。ああ、これは俺の体験したことなんだ、と自覚する。

 愛瑠と優衣という名前に違和感を感じたことも納得した。本能は覚えていても記憶が覚えていなければそれは違和感として存在してしまう歪なことになる。

 俺は、知っていたんだ。

 どうやら何らかの手段で封じられていた記憶が何かのキッカケで今解放されているのだろう。優衣のトラウマ、愛瑠さんと時先輩の誤解の解決――高校一年の出来事。

 そして、小さな、昔の日々の記憶を思い出した。

 尚も情報の奔流は続く。

 愛瑠さんが静かに頭を撫でてくる。


「ゆっくり、落ち着いて……少しずつ記憶を受け入れるの。全てを受け入れるのは無理でも少しずつ、少しずつよ」

「ああ……」


 俺は今、何もかもを思い出した。幼い頃から続く因果の巡り合わせ、そして観測者としてやるべきことを。


 ……


「ありがとう。愛瑠さん。全部、思い出したよ。俺が為すべきことも」


 未だに記憶の混在が続き、馴染まない記憶があるもののある程度記憶は違和感ないまでに馴染んだ。

 詳細でさえなければ、概要として小さい頃から今までのことを思い出せるほど。

 思い出せた記憶はすべて俺――神風 核のものだ。記憶に少しの歪さを感じるが、それほど支障があるものでもない。おそらく慣れれば自然に受け入れられるのだろう。

 さっきまで記憶を思い出すのが気持ち悪かったのは嘘のようだ。

 愛瑠さんが撫でてくれていた頭に少しの温もりを感じながら膝着きから立ち上がる。


「愛瑠さん、優衣。また会えてよかった……」


 思わずもらした安堵の言葉に愛瑠さんと優衣は少し苦しそうな顔をしながらも笑顔を浮かべた。


「会えて、よかったわ。けど、凛は……」

「……」


 愛瑠さんは反応が薄く、優衣は反応すら返ってこない。何が起こったのか、それは単純故に明解だ。

 発端は、俺が記憶を思い出したこと。そして、その記憶を封じていたのは凛の能力であるリライトと呼ばれる能力。

 この世では絶対的に強力無比な力を持つ能力を凛は宿していた。それ故に"箱"の生贄にならざるを得なかった。

 "箱"の力は生贄になるものの能力が高いほどエネルギーの吸収率は段違いに上がる。凛のリライト能力は観測者として"箱"から授かる能力としても最高峰のものだった。

 だから、凛は生贄に選ばれた……。観測者が死ねば発動していた能力は強制的に解除される。

 俺たちの中で既に結論はでていた。

 

 凛は既に死んでいる。


 リライトの能力を持つ凛が死ねば当然、今までリライト能力で記憶を操作されてきた俺はリライトから解放される。

 つまり、凛が死んだのはおそらく地面が揺れていた時。あれは"箱"の生贄になった直後に起こった振動であろう。エネルギーを回復させた"箱"が起こした産声とでも言ったところか。

 しばらく思案する。

 この状況は俺たちにとっては詰みだ。

 凛の願いはおそらく自分がいなくなって、俺や愛瑠さんたちが一緒に暮らす世界のはずだろう。

 反面、俺たちの願いは俺、凛、優衣、愛瑠さん、谷風の全員が笑って暮らしている世界だ。それを追い求めた優衣と愛瑠さんは凛の頑なな心を破れなくて地上から姿を消していた。凛にとって、自分が死ぬよりは誰かが死ぬのが辛いのだろう。とても、優しい少女だった。

 だから、それ故に誰かの幸せを願うあまり、自分が死ぬ選択すらも厭わない。凛は強い女性であり、弱い女性でもあった。

 凛の死、この事象を止められなかった時点で俺たちの詰みだ。俺は記憶を封じられていて何も知らなかったとはいえ観測者として、やれることがあったはずなのにできなかった。唯一観測者として現状凛以外に動けたのは俺のみだった。優衣、愛瑠さんは地下に捕らえられていたようだったし、時先輩に関しても彼女が積極的に動く理由はないに等しいことだっただろう。もし理由があったとしてもそれは姉である愛瑠さんを助けることだったのだと思う。だから、今こうして時先輩はついてきてくれているのだろう。

 観測者は"箱"に選ばれし者。否応にも世界を観測する者としての地位を与えられて為るのが観測者であり"箱"が外を見通すための媒介でもある。


「この状況を打破しよう」


 考えた末、そう呟いていた。今の状態はこの時間軸に置いて凛が死に、谷風が死んでいるこの状況は俺たちにとっての詰みだ。しかし、俺はまだ逆転の一枚がある。

 そう気軽には使えない。本当の切り札が。


「状況の打破って……どうするというの? 私たちは今"箱"に接触することもできないのよ。 エネルギーが戻り自由に全てを行える"箱"には相当数の護衛をつけているはず……私たちがもし、この詰みを回避できるとしたら――まさか……カサくん――」


 愛瑠さんは途中で真意に気づき、それを優衣が引き継いだ。


「お前、死のうとしてるのか? あたしたちが、していた時のように」


 時先輩が納得したように頷いて神妙に呟いた。


「"箱"の観測者であるあなたが死ねば"箱"に直接接続されて巻き戻しが起こる……直結しているあなただからできることね。その役目を今まで兎風 凛が果たしていたけどどこまで巻き戻すかの指定はできているの? もし"箱"のエネルギーがこの話してる間にも使われたらアウトよ?」


 凛はリライト能力で時間軸の巻き戻しの指定を行ってきた。優衣、愛瑠さんが地下に強制送還された時に俺を殺したのも時間の巻き戻しが必要だったからだろう。

 "箱"に凛が死んだことによりエネルギーが充填されたことで"箱"に願いさえすれば巻き戻しを起こすことができる。ただ、それには"箱"の目の前で祈ることをしなければならず、俺たちの現在の状況ではそれはできない。

 だから"箱"と直結している観測者の俺を使う。それが一枚の切り札になる。

 愛瑠さんがしばらく考え込んでたっぷりと時間を置いたあと、言った。


「……それしか手はないわね。今この状況の詰みを回避できるとしたらあなただけだけど、本当にそれでいいの? 一度死ぬ痛みを味わうことになるのよ。凛がいない今、私たちではあなたに苦痛を与えず殺すことはできないわよ」

「大丈夫です。覚悟は、できてます。それに、谷風のことは俺が、探検部をまた作ってしまったせいです。凛のことも……助けたいから、親友として。だからお願いします」

「そう、全部知っても尚、私たちのことを親友と呼んでくれるのね……」


 愛瑠さんは俺を殺してきたこと、そして俺に全てを教えられなかったことを悔いているのだろう。優衣は感情を静かに振るわせるように震えた声をだした。


「あ、あたしたちを許してくれるのか……核。逆らえない命令とはいえあたしたちは核を殺してきたんだぞ……? それに何も教えられなかった……」


 首を振って優衣の言葉を否定する。


「それは違うだろ。優衣と愛瑠さんも、当然凛も俺を巻き込まないようにして何も教えなかったんだろ? ずっと会ってなくてそれでも親友として思っててくれてたんだから何も責めることはない! 強いて言えば、次からは隠し事はなしで、な」


 言葉を聞いた優衣はぽろぽろと涙を流しだした。何も伝えてこれなかった優衣を親友だと言ってくれるなんて、許してくれるなんて思わなかったのだろうか。

 頬を伝って冷たいコンクリートに涙は落ちる。


「うっ……うああぁぁ……よかっだぁ……よかった……」


 愛瑠さんはゆっくりと優しく包むように優衣の頭を撫でる。


「えぇ、よかったわ……」


 一頻り優衣が泣く。

 俺がみんなをこんなことで嫌うとでも思っていたのだろうか。小さい頃、親友であると誓った頃から俺と優衣と愛瑠さんと凛は一蓮托生。ただ何かが教えられなかっただけで、今更つぶれる関係じゃない。それに高校一年の頃からも一緒にいたのだから、俺が嫌うなんてあるわけがない。

 しばらくしてから、愛瑠さんが言った。


「優衣、時間もないからすぐに始めましょう。カサくんはそこに座って。優衣、そんな役回りだけどやってくれる?」


 手で泣いていた目を擦った優衣は頷いた。

 よし、準備は整ったとばかりに俺は床に座って優衣に背中を向ける。優衣なら、フルパワーで頭を勝ち割れば俺なんてすぐに死ぬだろう。

 俺の死によって、全てが再び始まる。


「カサくん、イメージするの。始業式のことを。私たちは地下に囚われたままだけどどうにかして脱出する方法を模索するから地上の――凛のことをお願い。凛は未だに父親に逆らえないでいる。あの絶対的"王"に。だから、まず父親――兎風 彗のことを調べて、たぶん兎風 彗のことは先生が知っているはずだから、先生に相談するといいわ。時はカサくんのことサポートしてあげてね。私たちじゃできないことだから……」


 サポートの言葉に呆れたように時先輩は呟く。


「わかってるわよお姉ちゃん。地上は私に任せて頂戴。地下のことは任せるけど無理しないでね? 誰かが死んだらそれで終わりなんだから」

「今回は状況が状況だけに観測者でも本当に全てを覚えて巻き戻ることができるのかわからないけどね……それでも本能に刻むわ。やるべきことを」


 姉妹の会話を耳に反映させつつ頭にやるべきことを浮かべる。

 ここで俺は一度死んで"箱"に直接直結できるようにする。そしてそこで万能の"箱"に始業式の開始日に戻るように、巻き戻るように願う。

 そして次は凛を救う。未だに父親に囚われているらしい凛を父親の呪縛から解放する。それは優衣と愛瑠さんの二人がどうにかしてやろうとしても解決できなかった深い、断ち切りにくい呪縛だ。しかし、そこで諦めたらまた、きっと凛は"箱"の生贄になることを選ぶ。だからそれをさせないようにする……。

 谷風はこの一件には極力関わらせないように徹底する。

 血が広がる映像が流れる。ぴくりとも動かない谷風。

 もう、そんな光景を見るのはごめんだ。元々関係ない人間を巻き込んでしまったのは俺たち観測者全員の罪だ。だから絶対に関わらせない。

 やるべきことは決まってる。しかし不確定要素は多い。

 凛を父親の呪縛から解放することができるのか……それすらもわからないが、やってみなければ始まらない。

 優衣と愛瑠さんがやろうとしてできなかったことを俺がするしかないのだ。今まで何もわかっていなかった俺がする。

 覚悟は決まっている。

 さぁ、扉を開けよう。誰も親友が失われないように、誰もが笑ってられるように――凛の暗い顔が浮かぶ。あの顔も笑顔に変えて見せる。

 四月八日の扉を今、紐解こう。


……


 雄大な空を彷徨っている。

 ふわふわと浮かぶ眼下に広がるのは俺たちが住む青い惑星、地球。

 ここはどこだろう?

 周りを見渡して確認しようとする。俺は確か、凛を助けるために優衣に殺してもらってそれから……ああ、ここは"箱"が作り出している精神世界のような場所なのだろうか。


「へぇ、またお客さん――あれ、君は……」

「……丁度いい子がきた」


 目の前、真空であろう真っ黒い宇宙に平然と浮いているのは女性が二名。


「え、えーと、あなたたちなんで浮いているんでしょうか……」


 思わず飛び出た疑問に活発そうな女性は笑って答えた。


「あははは! 何言ってるのきみーきみだって浮いてるでしょ?」

「……変な子」


 なにかあって早々、変な子という烙印を押されてしまった。それになんだって、俺も浮いてるだって……?

 そんなわけはないと下を見ると吸い込まれそうなほど黒い真空の宇宙に俺も浮いていた。

 適当に当たりをつけて今の状況を把握しよう。


「あの~……ここって"箱"の精神世界ですよね……?」


 思わず普通の人に聞けばなんだこいつと思われてもしょうがない質問を投げかける。すると活発そうな女性はより一層笑った。


「あははー。そういうことを言ってきて自覚してるってことは君は外からきた人間だねー。それにこの感覚、観測者でしょ?」


 驚いて頷くと活発な女性の後ろに存在感を漂わせずにいた無口な女性が意を決したように驚愕の事実を述べた。


「……きっと"箱"と直結してる子」


 呟くように出た一言は、驚くほどに的を射ていて、シンプル。


「そんなことが分かるってことは……もしかして……?」


 活発な少女がスカートをなびかせてゆったり、ふわっと近づいてくる。左手を忙しなく動かして、唇に当ててくる。その仕草は見る限り同年代の女子なのに包容力があってドキッと胸が高鳴る。

 なんだろう、この人。すごく、暖かい。無口な女性も柔らかな雰囲気を感じて静かでありながら暖かい空間が成形されている。


「ふふっあんまり女の子の秘密を探るもんじゃないぞ~? ま、君が外の側から来た人間ってことはわかったし一つ頼みごとをしようかなっ、いいかな?」

「は、はい」


 いたずらっ子のような笑顔を浮かべる活発な女性。いつも笑顔で皆の太陽のような女性なんだろうな、というのが出会ってからすぐにでも分かる。


「……あんまり無茶振りしないように」

「あはは、はーい」


 無口な女性の戒めの言葉に対して、活発な女性は頬をぽりぽりと書いた。


「なんか、姉妹みたいですね。お二人って。心で通じ合ってるなーってそんな気がします」


 二人の女性を見て思わず呟いてしまった一言。容姿はどちらも姉妹というのは無理なほど似ていない。しかし、通じ合っている。以心伝心でどちらがやることもわかっていると言ったところ。

 活発な女性は恥ずかしそうに頭を自分で撫でながらあくまで得意げに。


「まーたくさんの年月一緒にいるからねっ。もうわからないことはないくらいだしねっ! 私たちは姉妹じゃなくて親友だけどね!」

「……うん。親友」


 親友。

 その言葉が胸に響く。死んでしまった谷風と凛をこれから救わなければいけない。

 谷風は、もう俺たちに関わらせない。親友であるが故に谷風に近づきすぎた。

 凛は、おそらく行動の妨げになっているであろう父親の呪縛を断ち切らせる。小さい頃から、なにかにかけて父親が行動の基盤になっていた。それを、なんとかする……。

 この空間は居心地がとてもいい。真冬の布団の中であるかのように離れにくいが、それはできない。

 俺にはやらなきゃいけないことがある。


「あの! すいません、俺いますぐやらないといけないことがあるんです! だから、お願いは聞けないかもしれません……」


 活発な女性は驚いたと目を見開いて、すぐに柔らかい表情になった。大丈夫、わかってるよ、と全てを見通しているような感覚。


「あんまり無茶振りするようなことはしないから安心して。お願いしたいことは二つ、どっちもあなたの望むことと一緒にできると思うよ」

「…………後世の人に役割を任すのは心苦しい」


 後世の人……?

 "箱"の精神世界に居るということはこの人たちは現実にはいない人たち。この女性二人は"箱"が精神世界で生み出した人だと思い込んでいたが、どうやらそれは違う。

 はっと気づく。ここに人間がいるということは、この人たちももしかして過去に"箱"の生贄になった人たちかもしれない。だから、後世の人という言い方をしたのだろうか?


「もしかして、箱の犠牲になった人じゃ……?」

「犠牲? ううん違うよ、私たちは――」


 柔らかな言葉を無口な女性が引き継ぐ。


「後悔なんてしてない。だから犠牲じゃ、ない」

「そっ。私たちは箱の生贄になったことを後悔してない。でも外に残った二人が気がかりでね……観測者である君たちから見通した世界で大体の状態は把握したし、ちょこ~っとだけ手伝ってもらいたいんだ」


 有無を言わさぬ物言いで詰め寄ってくる。随分押しが強い人だ。

 返事を聞く前に活発な女性は人差し指を一回転させてあくまで場が重くならないように、気軽そうに"お願い"を言った。


「一つ目は兎風 彗と――くん。この二人をどうにか会わせて欲しいんだ。――くんは今先生してるはずだからね、みんなから頼られる先生に。だから見つけるのは簡単だと思うよ~」


 兎風 彗、凛の父親と、先生だって……?


「その二人は知ってますけど、何か接点があるんですか?」

「そりゃ~もう語るに語れない事情があってね! 今ここで話すと長いから割愛するけど、きっと――くんは君たちの味方だから記憶を取り戻しましたって言ったら手伝ってくれるよ、私たちの知ってる彼はそんな、優しい人だから」


 愛瑠さんも確か先生に相談することを進めていた。こういうことだったのだろうか、兎風 彗と先生の接点。それは先生が地下帝国の人間だったということだろう、先生は何か知っているはずだ。しかし二人を会わせろだというのはそれなりに無茶な要求だ。どちらも今は違う立場にいる人間、そうやすやすと会えるものじゃない。

 でも"箱"の生贄になったあとも気にかけるくらいだからよっぽど大切な人なんだろうと理解できる。恋人かもしれない、俺や愛瑠さんたちと同じで親友なのかもしれない。だったら、会わせるのもやぶさかじゃない、俺に与えられたこの力で何かができるなら、それはやり遂げたい。


「わかりました。絶対にできるって約束はできませんけど……できるだけ会わせるように頑張ってみます」

「よっ! 話の分かる物分りのいい青年だねっ、あいつもいい生徒を持ったもんよね」


 手をメガホンのようにして動きのある動作で声を張り上げた彼女とは対照的に無口な人は単語を呟く。


「……まったく、隅に置けない。もう一つのお願い」

「はいはいわかってますよー。もう一つのお願いわねー、地下帝国の民を外にだす風になって欲しいんだ。私たちができなかった、地下から地上に風穴を開ける風に」


 彼女たちにとってはとても大事なことなのか、神妙な顔つきで言い放つ。

 地下帝国は昔から内向的な国で、外交手段と言ったものを一切行ってこなかった。それ故に日本では昔から地底人がいるだの、少し前まではニュースで頻繁に地底人の特集を行っていた。内向的な地下帝国が本格的に外交を始めたのは丁度三十年前のことで、それ以降、地下帝国から日本への外交によって地下帝国は未だに秘匿とされている。

 地下帝国は元々、内向的な民族が地下に住み始めたのが由来であり地上の民族とは遠い昔に袂を分かった民族であるため地上の人とは元々の考え方が違う。どうしても保守的に走る。

 それ以外にも、地下帝国は現在のところ日本からの輸入により食料を保っている。地下帝国から日本へ搬出できるような価値ある品は非常に少なく等価交換さえすることができないのが地下帝国の現状だった。人口過多による食糧不足。今ならどこでもある、飢餓の可能性、民族の崩壊を辿っていたが、地下帝国には何よりも願望を叶える"箱"があった。

 地下帝国は日本の不利益になろうとすることを消し去る。または消し去ることができなければアドバイスをして今の地位を保っている。"箱"のエネルギーが不足すればそれは日本との繋がりを失うことになり民族の崩壊を招く。

 地下帝国は日本の属国となることを許さない。それは内向的な考えからくるまたは民族意識の高さからくるプライドの問題だった。だから、地下帝国の人間は"箱"のエネルギーの心配を第一にする……。それゆえに、凛が犠牲にならざるを得なかった。

 風とは、この状況を打破して欲しいということだろう。この閉塞的な地下帝国に風を吹き込む。


「……私たちの名前にはそれぞれ風がついてる」

「そう、私たちの名前は少し前に外へ冒険へ出かけたいくつもの人々が残してくれた名前」


 活発な女性は胸に優しく手を置く。まるでそこに残してくれた名前が手で触れる形で存在するかのように。


「あなたにも、風の名前はついてるでしょ? あなたの名前は?」

「神風、核です」


 反論すらも許されないような優しい言葉に反射的に答える。


「神風くんか、いい名前だねっ。その名前はきっと地下帝国から外へでた人たちがつけてくれた名前だよ。あなたの心にもきっとその時つけた人たちの温もりが残ってるはず、今の閉塞した地下帝国じゃこの先の未来はない。それをその名前と一緒に変えて欲しいんだって言っても何も一人でやる必要はないよ? 誰か、そうだね、私たちみたいに親友と一緒にやってくれたら嬉しいんだ。後世の人に頼まないといけないことになるのは辛いけどね」


 優しくグーで胸をとんとんと叩かれる。優しい思いが流れ込んでくる。この人たちは本当に地下帝国のことが心残りだったのだろう、それ故に、今動けないこの女性たちは動ける俺に頼んでいる。この精神世界は女性二人によって構成されている、こんな優しくて気持ちのいい空間を作り出せるこの人たちが言っていることだ。

 それを無碍にすることはできなかった――それに昔、愛瑠さん、優衣、凛とこんな約束をしたことがある。

 私たちの名前は風。閉塞した地下帝国に風を通して、この状況を終わらせる、閉鎖的な考えを捨てて今の状態から脱する。


「ありがとうございますっ」


 思わず頭を下げる。女性二人は頭にはてなを浮かべているけど、それでもそう言いたい気分だった。

 やっと完全に思い出せた。探検部は、地下から地上へ風を通すために作られたものだ。本当に幼い頃に四人で約束したこと。

 それはずっと親友でいること、この閉塞的な地下帝国に風を吹き入れること。風船は空気を入れなければ膨らまない。今の地下帝国はまさにそれだ。

 空気が抜けていって萎んでいる最中。もうこれ以上地下帝国も時間がないのだ。

 全てのものに決着をつけなければならない。それは、この名前を託された俺たち全員の問題だ。


「やっと、全部思い出せました。俺のやること、俺たちのやるべきこと……任せてください。先輩方に負けないように頑張ります」

「先輩、か。いいねっ、ね?」


 同意を求める活発な女性に無口な女性は無表情で頷く。それと同時に視界が歪んでいく。


「あ、あれ……?」


 ぼやけるように、二人の女性の輪郭が境界線のないものとなって、この世界と融合していく。その過程は一見グロテスクでも、幻想的でもあった。


「……。後輩全て任せた」

「任せたからっ! 私たちはここから応援することしかできないけど、君が受け継いでくれたなら安心だよっ!」


 ぐっと親指を立てて二人の女性は俺を見送ってくる。二人の顔は見えないけどきっと笑顔な気がする。

 もうこの世界の輪郭すらも揺らいでくる。この精神世界が持たなくなってきているのだろうか、全てが曖昧なものだと思える。

 最後に聞き忘れていたことをどこにいるかももう判別がつかない幻想的に揺らぐ空間全体に届くように張り上げて言った。


「あなたたちの名前はー!」

「……夜風」

「百合風だよー! 未来の後輩――ううん、神風 核くん任せた!」


 未来の後輩……ここにいるということは昔に観測者だったということの証明だ。

 それは文字通りの意味で、とても重い言葉だった。


「任されました!」


 先輩から後輩へ、受け継がれる未来への思いを胸に、俺は俺の戦場へ舞い降りた。


 hird episode:rewrite 「END」


 Lost episodeⅡへ続く

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