第22話そうだ、ちゃんと考えなくちゃ。
ほとんどのアトラクションを制覇し、最後に残っていた観覧車の前までやってきた頃には空は茜色に染まっていた。木霊するカラスの鳴き声が哀愁を誘う。
「いやー、久しぶりに遊び疲れた」
「全力で遊んだって感じだねー」
短い列に並びながら柑奈と談笑する。水野さんがやけにおとなしいのが気になって目を受けてみれば、ものすごく真剣な眼差しをパンフレットの一点に向けていた。
「どうしたの?」
「あ、はい。これを見てください」
問いかけると、水野さんはパンフレットを俺達の方に向けて観覧車の説明文を指さした。
「なになに? 『頂上に到達した瞬間にキスしたカップルは永遠に結ばれるなんて噂も!?』ねえ。えーと、つまり……するの?」
「もちろんです」
まあ、そうなるよな。キスか。キスね。うーん、キスくらいなら別にいいか。小さい頃になら柑奈としたことあるし。ぎりぎり兄妹のスキンシップの範囲内だよな。
……うん、そういうことにしておこう。
それに確率は三分の一。そこまで高確率でもない。
「辺見さんもいいですか?」
「うん、いいよー」
柑奈が了承すると、水野さんは今までで一番やる気に満ち溢れた顔を見せる。
「それではいきます。……じゃーん、けーん――」
「ぽんっ!」
三人声を揃えて勢い良く手を突き出す。水野さんがグー。柑奈がパー。俺はグー。
……引いたよ、三分の一。一発で引いちゃったよ。
「負けました……。残念です」
水野さんはどんよりとブルーに沈んでいた。この世の終わりが来たみたいな顔。
一方の柑奈の様子をうかがってみると、こちらは意外にもなんとなく困ったような笑みを浮かべていた。
「えーと、乗るのか?」
「え、ああ、うん。そうだね」
柑奈は歯切れ悪く言って頷いた。そこでちょうど俺たちの順番が回ってくる。
「じゃあお先にどうぞ。私は一つ後ろに乗ります」
水野さんに促され、俺と柑奈はゴンドラに乗り込んだ。
ゆっくりと体がゴンドラごと地面から離れて浮き上がっていく不思議な感覚。地に足がついた日常の中で見ている風景から少しずつ遠ざかって、いろんなものが俯瞰できるようになっていく。夕焼けに染められた町並みは幻想的で、現実感に乏しい。
そのせいか、夕日に照らされながら物憂げに外をながめる柑奈の表情も普段より妙に大人っぽく見えた。
「その……本当にキスするのか?」
なんとなく居心地が悪くなって言葉を発すると、柑奈は窓から視線を外して微笑んだ。
「んー、今どうしようか悩んでるところ。でも私の質問に対する、仁くんの解答次第ではキスしちゃうかも」
「質問?」
「うん。ちょっと真面目なお話してもいいかな?」
「別にいいけど」
急にどうしたんだろう。なんだかよくわからないけど真面目な話と言われると緊張してくる。手のひらに汗がじんわりとにじんできた。背筋を伸ばして柑奈の質問を待つ。
柑奈は逡巡するように俺から一度視線を外して唇をなめた。しかしすぐに小さく首を振って顔を上げる。
「仁くんはさ、どれくらい水野さんのこと好き?」
「……どれくらい、って言われてもな」
意図がわからず、どう答えていいのか迷う。単にすごく好き、とか言って何か意味のある答えになるとも思えない。
「正直に言うとね、最初は私、仁くんがそこまで本気だと思ってなかったの。ただの気まぐれで、すぐに冷めちゃうものだとばっかり思ってた」
「それは……」
違う、とは言い切れなかった。実際、初めは恋をすること自体が目的だった。
「でももしかすると本気なのかなって徐々に思い始めてたところに、あの仁くんが水野さんのために喫茶店で働くなんてことがあったわけだよね。仁くんの気持ちは、私が思ってたよりもずっと強いんだって思い知らされた」
そこまで言ってから照れくさそうに笑って、慈愛に満ちた優しい瞳で俺を見つめた。
「私、仁くんが大好き。大好きだから、誰より幸せになってほしいと思う。仁くんの幸せのためならなんだってしたい。何を捨てても惜しくない」
いきなりの熱烈な愛の告白。場の空気が空気だから、冗談でもなんでもないことがよくわかってくすぐったい気持ちになる。
「でもやっぱり、私にだって捨てたくないものはあるよ。それが仁くんへの気持ち。私にとって一番大切なもの。仁くんと一生一緒にいることが、私の一番の願い」
柑奈の表情が少し硬くなる。思いつめたような、今までに見たことのない顔。
「だけど、仁くんの一番の幸せのためならそれだってあきらめられる。私にとって仁くんと結ばれることがそうであるように、水野さんと結ばれることが仁くんの一番の願いなんだとしたら、私は自分の一番だって捨てられる」
胸の内の何かを押しこむように大きく息を吸って。
「もし仁くんが本気なら、私は仁くんにキスしない。私は――仁くんを応援したい」
力強く、そう言い切った。
思っていたより、ずっと大事で重大な話だった。
どうして急にそんなことを……いや、違う。急なんかじゃない。
最近の柑奈の態度の変化を思い出してみれば合点がいく。俺と水野さんをデートさせようとしたり、私服を買いに行くことを勧めてくれたり。それはすべて、柑奈の気持ちの変化のあらわれだったんじゃないのか。
「まあ、応援したいなんて口では軽く言えるけど、やっぱり実際はそう簡単に割り切れるものじゃないんだよね。私なりにいろいろ考えてやってみたつもりではあるんだけど、気持ちが宙ぶらりんのままだからか、自分でもなんか違うなーって感じがしてて」
やっぱり、デートを勧めたりっていうのはそういうことなんだな。
「それって、ちゃんと仁くんの気持ちを確かめる前に行動に移しちゃったからだと思うんだよね。だから聞かせてほしいの。本気だってはっきり言ってもらえれば、思い切れる気がするから」
そして、改めて俺をじっと見据えてくる。表情は柔和に見えるけど、その端々から内心の切迫感がにじみ出ているような気がした。
「水野さんのこと、どれくらい好き? 仁くんはどこまで本気なの? それこそ、結婚とか考えてるくらい?」
……結婚。
そんなこと考えてもみなかった。でも水野さんと結婚だなんて、想像しただけで頬が緩みそうになる。いいな、結婚。是非したい。
「も――」
反射的に、もちろんだと言いかけた唇をすんでのところで理性が縫い付けた。
質問は「したいかどうか」じゃない。「考えているかどうか」だ。たった今考えてもみなかったって自分で言ったばかりじゃないか。
軽口を叩いていい状況じゃない。俺の答えが、柑奈の大事な思いを左右するんだから。俺の軽薄な言葉で柑奈に重い決断をさせるなんて、許されるわけがない。
それだけじゃない。俺がいつもみたいに調子よく「考えてる」って言ったところで、柑奈がきれいさっぱり気持ちを切り替えられるとは思えない。それどころか、余計に柑奈を追い込むことになりかねない。
だからといって、「考えていない」と答えるのも違う。だって結婚したいというのは嘘じゃないんだ。「考えてない」と答えたら俺が本気じゃないということになる。
答えるなら、俺が本当に本気なんだって柑奈が納得できるくらいの誠意を見せた上で、「考えている」と答えなくちゃいけない。
でも今見せられる誠意ってなんだ? 土下座か? 土下座しながら「水野さんと結婚したいです」って言うのか? なんだその「お前に娘はやらん!」とか言われそうな状況。柑奈を相手にやってもしょうがないぞ。
じゃあどうする? 俺はどう答えればいいんだ?
何も言うことができないまま、俺は下を向いて頭を必死で回転させていた。
そしてふと柑奈が動く気配を感じて顔を上げると、柑奈の顔がさっきよりもずっと近くにあった。そんな柑奈の肩越しに見えたのは、下降を始めた一つ先を行くゴンドラ。
ということはつまり、今俺達がいる場所は――。
「ん」
ほんの一瞬だけ、唇に柔らかい感触。
そしてゼロ距離にあった柑奈の小さい顔が、甘い吐息を残して遠ざかっていく。
俺は呆然と不思議な感覚の残る唇を指でなぞって、初めて理解した。
柑奈と、キスをした。
「ごめんね」
うつむいて震える声で言う。
頭が真っ白になってうまく働かない。
確かにこの観覧車に乗るまではキスくらいなら別に、なんて思っていた。でもこうして柑奈の真剣な強い気持ちに触れた今は、そのキスにどれだけの思いが込められていたかが痛いほどわかる今は、軽く受け止めることなんて絶対にできなかった。
ゴンドラが、そんな俺達を運んでゆっくりと地面に近づいていく。半分を降りたところで、急に柑奈が自分の両頬を挟むように叩いた。
「んー、もう! 何やってんだろうね、私。言ってることとやってることがめちゃくちゃだよ。ごめんね、本当に。今の全部忘れてくれていいから!」
笑って、明るい口調で言う柑奈。しかしその表情も声音も、無理矢理に作っているものであるのは見え見えだった。
……ああ、くそ。俺がうじうじと黙りこくっているから柑奈にこんなこと言わせてしまうんだ。わからないならわからないとはっきり言えばいい。
「ごめん。今はまだどう答えればいいのかよくわからない。でも必ず、近いうちに必ずきちんと答えを出すから」
「ううん、そんなことしなくていいよ。本当に、きれいさっぱり忘れちゃってよ」
「いや、そういうわけにはいかない。ちゃんと考える」
「……ごめんね」
三度目の「ごめんね」。柑奈は何一つ悪いことをしていないのに、俺を気遣って何度も謝る。本当、なんで俺はこんなに情けない兄なんだろう。
どう答えればいいのか、ちゃんと考えなくちゃいけない。
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