第15話そうだ、走ってみよう。(後編)
保健室の中に先生はいなかった。昼間水野さんが寝ていたベッドは、まだカーテンが閉められたまま。誰かがそこで寝ていることは間違いない。
頼む、水野さんであってくれ……。
「水野さんっ」
呼びかけてみるも、応答はない。どうする? カーテン開けてみるか? もし他の人だったらとんでもなく失礼だぞ。いや、水野さんだったとしても失礼だけど。
「リリおねーちゃん……?」
俺が逡巡していると、背中の亜美ちゃんがうかがうように声を上げた。
すると、中からゴソゴソとシーツのこすれる音が聞こえてきた。閉じられていたカーテンが揺れて、わずかに開く。
そしてその隙間から覗いたのは、水野さんの赤い顔だった。
「え、え? どう、して……?」
「おねーちゃんっ!」
「ぐえっ」
水野さんの姿を認めた亜美ちゃんは、俺を突き飛ばすようにして床に降りた。
「スリッパ、は別にいいか……」
水野さんに走り寄る亜美ちゃんの背中に向けてさっき取っておいたスリッパを差し出したけど、すぐにあきらめて腕を下ろした。
「疲れた……」
達成感からか、一気に体の力が抜けてその場にへたりこんでしまった。脚がガクガク震えている。これほどの緊張感を味わったのも、体に鞭打ったのも随分久しぶりだ。運動不足はよくないな。
水野さんの腕にすがりついた亜美ちゃんは、またしても泣き始めてしまった。汗を拭いながらその様子をながめていると、こちらを見た水野さんと目があった。
「あの、これは……」
声が小さい上にかすれてしまっていてよく聞き取れない。俺はなんとかもう一度立ち上がってベッド脇まで行くと、再び腰を下ろしてあぐらをかいた。
「大丈夫、ですか? フラフラしてますよ?」
「俺? 俺は大丈夫。ちょっと疲れただけだから。それより勝手なことしてごめん」
水野さんは力なく首を横に振る。
「いえ、そんな……。でもどうして?」
「亜美ちゃん、水野さんに会いたいあまり泣き出しちゃって。きっと水野さんも同じくらい亜美ちゃんに会いたいんだろうな、って思ったら居ても立ってもいられなくなって」
「そう、ですか」
水野さんが慈しむような視線を亜美ちゃんに向け、その頭を優しく撫でる。
「ぐすん、ううっ……リリおねーちゃん……」
ようやく涙が収まったらしい亜美ちゃんが顔を上げて水野さんを見つめる。
「うん、リリおねーちゃんだよ」
そう言ってもう一度亜美ちゃんを撫でた水野さんの顔は、今まで見たどんな表情よりも優しげだった。まるで美術の教科書で見た聖母のよう。眩しくてくらくらする。
「あのね、あのね……お誕生日プレゼント、ありがとう」
何から話そうか迷うように言いよどんで、結局お礼の言葉を最初に口にした。
「どういたしまして。あんまりきれいにできなくてごめんね」
「そんなことないよ! すっごくキラキラしててきれいだったよ!」
「そうかな。そう言ってくれると嬉しいよ」
そんな調子で、二人の和やかな会話がしばらく続いた。亜美ちゃんと話しているときの水野さんの表情は、高熱を出しているということを忘れさせるくらい穏やかだった。
お互いがお互いのことを強く思っていることがよく伝わってきて、そばで聞いていた俺まで顔がにやついてしまった。走り回った甲斐があったというものだ。
「けほっ、けほっ」
「リリおねーちゃん、大丈夫?」
不意に水野さんが咳き込んだ。さすがに限界かな。
「亜美ちゃん、そろそろお別れしないとリリお姉ちゃんもっと具合悪くなっちゃうから」
「……うん、わかった」
亜美ちゃんが唇を噛んで頷く。わがままを言わない、本当にいい子だ。
「亜美ちゃん。プレゼントと一緒に入れたお手紙に私のメールアドレスが書いてあるの。お父さんかお母さんに携帯貸してもらえばメールできるから、いつでも連絡してね」
「うん、ありがとう。バイバイ、リリおねーちゃん」
「また、絶対また会おうね」
二人が小指を絡めて指切りをする。たっぷりと名残を惜しんでから、ゆっくりと指が離れた。水野さんの体調を思えば仕方がないとはいえ、引き離すことに罪悪感を覚える。
そして、そんな苦々しい思いをしていた俺に水野さんが向き直る。
「辺見くん」
「は、はい」
水野さんは俺の名前を呼んでから、力を振り絞るようにして頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
そう言ってから再び上げた顔は、やっぱりつらそうではあったけど確かに笑っていた。
――これが、初めて水野さんが俺に向けてくれた笑顔だった。
ラプレミディに戻ると、途中になってしまっていたプレゼントタイムをご両親からのプレゼントでしめくくり、それでお誕生日会はお開きになった。
「ふう……」
誰もいなくなった静かな店内で大きく息をつく。たった今亜美ちゃん一家のお見送りを済ませたところだ。疲れたけど、胸は達成感で満たされていた。
「随分お疲れだね。ほら、これ飲みな」
俺のすぐそばのカウンター席に、店長さんがコーヒーカップをおいてくれた。
「おお、カフェオレですか」
「だってあんた、ブラックは苦手なんだろう?」
「……え?」
ずばり言い当てられて、思わず俺はまばたきを繰り返してしまった。そんな俺をながめる店長さんは、愉快至極という感じだった。なんでわかったんだろう。
「あんた、この前店に来た男の子だろう。ブラック頼もうとして結局カフェオレにした」
「ど、どうしてそれを」
俺が男だということがばれたのはともかくとして、どうして前に来たということまでわかったんだろう。メイクしてるから全然違う顔になっているのに。
「伊達に長生きしてないんだ。所作を見てれば男か女かくらいわかるよ。まあ、前に来たお客さんだっていうのはあてずっぽうだけどね」
「所作ですか……」
やっぱりそういう部分は年月を重ねないとどうにもならないんだろうな。
「まああてずっぽうといってもまったくの無根拠じゃないんだけどね。あんたもそんな恰好してるってことは、璃里花ちゃんの抱えてる悩みは知ってるんだろう?」
「はい。男の人が苦手だと」
「ああ、だから璃里花ちゃんに関係のある男は自然と限られてくる。私の知る限りでは、前に店に来て璃里花ちゃんを熱心に観察していた男くらいしかいない。それで今日のあんたの璃里花ちゃんのために必死になる姿が、そのときの男に重なって見えたのさ」
なるほど。でもやりとりの内容まで覚えてるっていうのはすごいな。
「はい、おっしゃる通り私……いえ、俺は男です。本名は辺見仁太郎といいます。騙していてすみませんでした」
俺は素直に頭を下げた。店長さんは怒ることなく楽しげに笑ってくれた。
「亜美ちゃんのためだったんだろう? 別にいいさ。私にまで嘘をつく必要があったかどうかはともかくとしてね」
まったくだった。普通に事情を話しておけばよかったな。
「しかしそれにしたって驚いたよ。女装しているとはいえ、頼み事ができるくらい近しい男の子が璃里花ちゃんにできたんだもの」
「それでもまだまだ遠いですけどね」
でも少なくとも、熱で朦朧とする意識の中気まぐれに微笑みかけてくれるくらいには仲良くなれたかな。……それって仲いいのかなあ。
ふと気づくと、店長さんは難しい顔して俺をじっと見つめていた。
「どうしたんです?」
「あんた、水野さんのお家のことは知ってるのかい?」
「お家のこと?」
そういえば水野さんのお家のことは何も知らないな。どこに住んでいるか、お父さんはどんな仕事をしているのか。
「ああ、いや。知らないならいいんだ」
失敗した、という風に頭をかく店長さん。
「あの、何かあるんですか?」
「うーん、そうだね。でも璃里花ちゃんが話してない以上私の口からは言えないんだよ」
「そうですか」
そりゃそうだよな。人の秘密をペラペラ話していいわけがない。問い詰めたい気持ちもあるけど、それはなんとかこらえよう。
「でも、一つだけ。もし璃里花ちゃんを救うことができる人間がいるとしたら、多分それはあんただけだと私は思う」
「俺が? 救う……?」
どういうことだろう。水野さんは何か窮地に陥っているのか?
「ああ、そうさ。もしそのときが来たら、是非力になってあげてほしい。私にとって璃里花ちゃんは孫みたいなもんだからさ、可愛くて仕方ないんだよ」
「わかりました」
何が何だかさっぱりわからないけど、俺が水野さんの味方につかないなんてことはあり得ない。店長さんに言われるまでもなく、俺は水野さんの力になるさ。
頷く俺を見て、ようやく店長さんに笑顔が戻った。
「さて、今日はもうお客も来ないだろうし店じまいにしてしまおうかね。さすがに私も疲れたよ。楽しかったけどね」
「手伝うなんて言っておきながら途中抜けてしまってすみませんでした」
「いやいや、あれはむしろ行ってくれてよかった。感謝するよ。……っと、まだ給料を渡してなかったね」
慌てて店の奥に行こうとする店長さん。俺はそれをやんわり引き止めた。しかし店長さんがそういうわけにはいかないと食い下がるので、水野さんの給料に上乗せしてもらうということで手を打った。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
「よかったらまた手伝いに来ておくれよ」
そう言ってくれる店長さんに会釈して、俺はラプレミディを出た。もう七時近い。辺りはすっかり暗くなってしまった。住宅街の夜は静かに更けている。
「あ、仁くん」
十字路の方から聞き慣れた声が聞こえたかと思えば、柑奈が走り寄ってきた。
「おお、どうした」
「早く上がっていいって言われたから一応来てみたんだけど……」
「もう店も終わったぞ」
「そうだよね」
そのまま柑奈と一緒に家路につく。夜空には星が静かに輝いていた。
「仁くんも働いたの?」
「そりゃな」
「びっくりだなー。いつもあんなに働きたくないって言ってたのにね」
そういえばそうだったな。普段あれだけ拒絶していた労働に、何の抵抗もなく勤しんでしまった。柑奈に言われて気づいたけど、自分でも驚きだ。
「本当だよな」
「やっぱり仁くんがそれだけ水野さんのこと好きってことなのかなー」
空を見上げながら言った柑奈の声音には、なんだか複雑な感情が入り混じっているようだった。なんと返そうか迷っていると、ふとまったく別のことが俺の中で腑に落ちた。
――ああ、そうか。そういうことか。やっとわかったぞ。
父さんが頑張って働けるのも、俺たちのことが好きだからなんだ。自分が生きるためだけじゃない。自分と、俺と、柑奈と、母さん。大好きなみんなと生きるために働いてる。だから耐えられるんだ。
俺も水野さんのためだから、こうして苦にもせず働くことができた。きっと世の中の多くの人は、守るべき誰かがいるからこの苦しい社会を生き抜けるんだろうな。
「でもやっぱ疲れる……」
といっても疲労の主な原因は逃亡劇で、ラプレミディでの労働にはないんだけどな。
帰ったらたっぷりご飯食べて、たっぷり寝よう。
家を目指す足取りは軽かった。
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