第14話そうだ、走ってみよう。(前編)

 街灯がつきはじめた薄暗い道路を全力で駆け抜けていく。もちろん亜美ちゃんに衝撃がいかないよう配慮しながらだ。目指す方角の空は赤光の残滓に染まっている。

 水野璃里花は、普通の女の子だ。本当はクールでもなければ淡白でもない。氷の壁はあるけど、他人にまったく興味がない氷姫なんかじゃないのだ。他の多くの人と同じようにごく普通に人を愛することができる。それは柑奈に対する態度を見て十分にわかった。

 ただ、気を遣われながらの煩雑な関係の中に組み込まれるよりも、小説の美しい物語に浸っている方が水野さんにとって幸せだったというだけの話。極端に言えば、そこまでして付き合いたいと思う相手が今までいなかったというだけのことなのだ。

 その事実は逆に、あえて友好的な関係を持った相手が水野さんにとってどれだけ大切であるかを示している。柑奈、店長さん、そして亜美ちゃん。

 中でも同じ苦しみを共有する亜美ちゃんには、きっと特別な思いがあるはずだ。亜美ちゃんの涙が、二人が家族にも等しい関係だったことを狂おしいほど物語っている。

 亜美ちゃんがどこに引っ越してしまうのかはわからないけど、おそらくそう簡単には会えないところへ行ってしまうのだろう。

 そんな大切な人が遠くに行ってしまうんだ。水野さんは会いたくて仕方がないに決まってる。それなら俺は、その望みを叶えなくちゃいけない。

 全部勝手な想像だけど、それは地球が回っているなんていう遠い真理よりもよっぽど確かに感じられた。

 ……そうだ、もし学校にいなかったら店長さんからなんとしてでも住所を聞き出そう。

 個人情報保護法と戦う覚悟をも決めたところで、ようやく校門の前まで辿り着いた。

 校内にはまだちらほらと明かりが残っていた。その明かりがついている教室の中には保健室も含まれている。

 これは、もしかするともしかするか……?

 足音をひそめて校門を抜け、靴箱の前までやってくる。俺は一応上履きに履き替え、亜美ちゃんの靴も脱がせて一緒に俺の靴箱に入れた。代わりに来賓用のスリッパを拝借。

「なんだね、君は」

 そのとき背後から届いた声に、錆びついた機械のように首を回して振り返る。

 進路指導主任の大島先生がいつもどおりの般若の形相で立っていた。よりによってこの人かよ。ザ・杓子定規とでも呼ぶべき大島じいさんは、いかなる例外も認めない人だ。

「なんでこんな時間に校内にいる。背中に背負っているその子はなんだ」

 どうする? なんとか言い訳するか? いや、頭の固い大島先生相手に事情を話したところで追い出されるのがオチだ。となれば……。

 意を決した俺は、大島先生の頭上を指さして叫んだ。

「あ、UFO!」

「ここは屋内だ、馬鹿者!」

「ちくしょう!」

 まったく注意をそらすことはできなかったけど、先生がツッコミを入れている隙になんとか脇をすり抜けてこの場を離脱することができた。いや、多分それ関係ない。

「待たんか!」

 玄関は「く」の字型の校舎の屈折部分近くにあるため、廊下は二方向に伸びている。向かって右の廊下はまっすぐ伸びていて、一番奥に階段がある。保健室もこの廊下に面しているけど、このままだと保健室に入るところを見られてしまうから今はまだ無理。

 左の廊下を行くとすぐ左手に階段があり、その階段を通りすぎるとちょうど「く」の字の角に突き当たる。その角を曲がるとまた教室が並んでいるけど、その先は行き止まり。

 とりあえず左手の廊下から階段を上って、なんとか大島先生を撒くのが最善だ。

 即断して左に曲がると、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。

 この際だから多少の衝撃は勘弁してくれよ。

 二階に到着。すぐ右に折れて、一番手前の教室に滑りこむ。鍵が開いててよかったぜ。でも明かりがついてるのは目立ってよくないかも……って、明かり?

「あの、君は……」

 そんな声に顔を上げてみれば、教壇の前に学校一美人と噂の深山先生が立っていた。そうかそうか、さすがは若手の先生。お仕事遅くまで頑張ってるんだな……。

「ぎゃああああ!」

「ええええええ!?」

 思わず悲鳴を上げてしまった。それに対して深山先生も驚きの声を上げる。

まさかいるとは思わなかったよ! また先生に見つかっちゃったじゃないか!

 俺は今閉めたばかりのドアを開けて素早く外に出る。

「あ、この野郎!」

 そこにタイミングよく大島先生が階段を上がってきた。

「うわああああ!」

 当然逃げる方向は右手の長い廊下しかない。奥の階段を目指して疾走する。夜の学校に生徒はいないから、人にぶつかる心配はない。それだけは幸いだ。

 階段まで辿り着くと、再び上階を目指して快足を飛ばす。とりあえずは上に行ってから撒かないと、保健室に入っても一階の教室を虱潰しに探されてすぐにジ・エンドだ。

「ふう、はあ」

 なんとか三階までやってきた。そろそろ脚にも疲労がたまってきた。いくら亜美ちゃんが軽いとはいえ、人一人を背負って走っているわけだからそれも当然だ。でも保健室に水野さんがいるか確かめるまでは負けるわけにいかない。

「大丈夫?」

「うん!」

 背中の亜美ちゃんに短く確認すると、明るい声が帰ってきた。もしかしてこの子、この状況をちょっと楽しんでないか? これは末恐ろしい逸材だぜ。弟子にほしいな。

 それはいいとして、問題はこの先どうするかだ。このままこの階に隠れてもいい。ただそうなると、先生が四階に行ってくれることを祈るだけの単純な賭けになる。

 ついさっき俺が二階に上がってすぐ隠れたことを考慮すれば、先生がこの階を探す可能性は小さくない。

 となると、仕方ないか。できればやりたくなかったけど……。

 意を決した俺は三階の廊下に向かって全力で自分の上履きをすっ飛ばした。きれいな直線を描いた上履きは、廊下の中腹の少し先までいって着地した。

 それを見届けた俺はすぐさま四階に向かう。階段を上りきったところで止まって、階段の隙間から階下の様子をうかがう。

 ほどなくして息を切らした大島先生が上がってくる。立ち止まり、四階につながる階段を見上げてから三階の廊下に目をやってそのまま固まった。俺の上履きを見つけたようだ。

 ……さあ行け! そのまま廊下に進め!

 上から大島先生に思念を送る。しかし大島先生は上履きから目を切って、もう一度階段を見上げた。

 やばいか? こっち来ちゃうか?

 緊張しすぎて自分の周りだけ時間の流れが遅くなったんじゃないかという錯覚にとらわれる。浅い呼気が静かな校舎内ではうるさい。噛みしめた奥歯がギリリと鳴った。

 頼む。頼むから廊下に行ってくれ……。

 そうやって、俺が激しく脈打つ左胸を押さえつけながら見守っていると――。

「はあ……」

 大きなため息をついた大島先生は、階段ではなく三階の廊下に向かった。

 ――よし! 作戦成功!

 ちなみに上履きを廊下に放った理由は、二つある。

 一つ目はもちろん、俺が三階に行ったように見せかけるための小道具としての役割。しかしさすがにこれは子供だましすぎる。もし功を奏すればラッキー程度の小細工だ。

 本命は二つ目の役割。それは犯人の遺留品としての役割だ。大島先生は、女装した俺の姿を知らなかったようだった。名前の入った上履きを見れば、侵入犯が誰かを特定することができる。つまり、この場での現行犯確保をあきらめさえすれば、後日必ず捕まえられるということだ。

 ここで重要になってくるのは大島先生が老齢であること。大島先生には、俺を延々と追いかけ回すだけの体力はない。できればさっさと終わらせたいと思っているはず。そこに労せずして犯人を特定できる証拠を差し出してやれば、食いついてくる可能性は十分にある。

 おそらく大島先生は俺の意図に気づいている。だからこその、あの大きなため息だ。つまり「説教はあとで必ず聞くから今は見逃してくれ」という俺の要求を、忸怩たる思いで受け入れることにしたということだ。

 先生の姿が廊下に消えたところで、俺は忍び足で階段を降りていく。三階をすぎたところで一気にスピードを上げ、一階の保健室をまっしぐらに目指した。

 額から汗が滴り落ちる。先生との駆け引きと久しぶりの運動のせいで、心臓が今までにないほど早鐘を打っている。肺もヒューヒュー悲鳴を上げている。

 でもあと少し、あと少しだから……。

 保健室付きの佐山先生は優しい人だ。もし保健室にいても事情を話せば見逃してくれるはず。万が一見逃してくれなくても実力行使でなんとかしてやる。問題は水野さんが残っているかどうかだ。

 これでいなかったらとんでもない徒労だぞ……。

 ついに保健室の前まで辿り着いた俺は、ほとんど倒れこむような恰好でドアを開けた。

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