第12話そうだ、保健室に行ってみよう。
翌日。今日も今日とて女装で登校し、光陰矢のごとくすぎて四時間目。
今はオーラル・コミュニケーションの時間。英語の中でも会話表現を重視した科目だ。先生はおばさんで、美人というわけではないけど気さくでいい人だ。
今日は新年度に入って最初の授業なので雑談多めのかなり緩い授業。もう授業も終盤で、すぐ昼休みになるところだ。
「ふへへ」
おっと。にやにやするのみならず、とうとう口からもだらしない笑いが出てしまった。
そんな俺の視線の先にあるのは携帯電話。そしてその画面に表示されているのは英数字の羅列。そう、水野さんの連絡先だ。昨日の昼休みの別れ際に三人で交換しあった。
「辺見くん、どうかしましたか?」
「はい、どうかしてます」
「それは知ってますけど……」
つい生返事をしてしまったら先生になんかひどいことを言われた気がする。まあ完全無欠に事実だから別にいいんだけど。事実ですらなくても気にしないような気もする。
「じゃあ辺見くんに聞いてみましょうか。去年の復習問題です。次の表現の意味を答えてください。”I'm sorry I'm late.”」
「えーと、『ごめんなさい、私はもう手遅れです』?」
「確かに辺見くんは手遅れかもしれません……」
先生が渋い顔で額に手をやった。あれ? 違うの?
「本当、よく進級できましたね……」
「あはは、大事なところは柑奈が教えてくれますから」
「――大事なところ!?」
窓際の方で身内がなんか言ったような気がするけど多分空耳だ。
俺が留年しないで済んでいるのは、テスト前に柑奈が要点をまとめて教えてくれるからである。おかげで科目ごとにばらつきはあるけど平均して五、六十点はとれている。
「辺見くんは真面目にやったら結構できるんじゃないかと先生は思うんですけどね。もっと頑張ってレベルの高い大学狙ってみたらどうですか?」
俺をやる気にさせる方便だとわかっていても、褒められると嬉しくなっちゃうよな。
「いいんですよ、俺は。進学を希望してるのは働きたくないからです。勉強もしたいわけでもないし、いい会社に入りたいわけでもない。いい大学なんて行かなくていいんです」
「そうですか。それは残念です」
先生が眉尻を下げたところでチャイムが鳴る。
「それでは今日はここまでにします」
先生が教室を出ていき、待ちに待った昼休みが到来。
これでやっと水野さんに会える。昨日は結局、最初から最後まで水野さんのターンだった。アピールするどころか眼中に入るのすら至難の業。
今日こそはなんとかしてやる、と意気込んではいるけどなかなか妙案は思いつかない。
とにかく積極的に話題を振っていくしかないな。ない知恵を絞って策を弄したってうまくいくわけがない。当たって砕けよう。
弁当を持った柑奈がこっちにやってくる。水野さんと合流しようと連れ立って教室を出ようとしたそのとき、ポケットで携帯電話が震えた。
「メールか」
「あ、私も」
まったくの同時ってことはなんかのメルマガかな?
画面に目を落とした俺は、差出人の欄に「水野璃里花」とあるのを見て眉をひそめた。
普通にしてればすぐ会えるこのタイミングでメールが送られてくるということは……。
嫌な予感が頭をよぎる中、メールの本文を表示する。
『すみません。授業中に体調を崩してしまい、お昼ご飯をご一緒できなくなってしまいました。それと柑奈さんか仁太郎くんにどうしてもお願いしたいことがあります。お時間があったら保健室まで来てくださいますか?』
――なんだと!? 水野さんが体調を崩した!?
俺は柑奈と顔を見合わせる。どうやら柑奈に届いていたのも同じメールのようだ。事態を理解した瞬間、俺は弁当を置いて一も二もなく教室を飛び出した。
「うわあ、待ってよ!」
しかし俺は柑奈に言われるまでもなく、廊下で立ち止まっていた。
「……あれ、どうしたの?」
「保健室の場所がわかりません」
「ああ、私達にはあんまり縁ないもんね……」
巷でもよく、俺みたいなのは風邪を引かないっていうからな。あと俺みたいなのにつける薬もないらしいし行っても仕方ないのさ。
「ほら、こっちだよ」
柑奈に先導してもらって、足早に保健室へと向かった。心配だ。でもメールをうったりはできるみたいだから、そこまではひどくないとみていいのかな。
「言われてみれば今朝漫画渡したときもちょっとボーっとしてたかも」
保健室の前までやってきたところで、柑奈が思い出したように言う。静かに引き戸を開けて中に入ると、薬品なんかの入り混じった独特の匂いが鼻を刺した。
「水野さーん?」
柑奈が小声で呼びかけると、保健室を入って左手にある二つのベッドのうち手前の方のベッドを覆っていたカーテンがゆっくりと開けられた。
体半分を布団の中に収め、上半身だけベッドから起こした水野さんがそこにいた。
「お呼び立てしてすみません」
そう言った水野さんはかなりしんどそうだった。声はかすれ、汗ばんだ額につややかな前髪が張り付いている。熱があるみたいだな。
「具合は?」
「はい、大丈夫です。ちょっと体がだるくてふらふらしてしまうだけですので」
体がふらつくって結構高熱な気がするんだけど。しゃべってるのもかなりつらいんじゃ。
「そっか。それで、お願いっていうのは?」
柑奈も同じことを思ったのか、すぐさま本題に入った。
「昨日お話しましたが、今日私の働いている喫茶店で常連の女の子、亜美ちゃんのお誕生日会があるんです。実はこのお誕生日会、お別れ会でもあって」
「お別れ会?」
「はい。亜美ちゃんが引っ越してしまうんです。しかも出発はもう明日の朝で、今日餞別を兼ねたお誕生日プレゼントを渡そうと思っていたんですが……」
そうだったのか。個人的にプレゼントを用意してたってことはかなり仲良しだったんだな。
水野さんはそこまで話してから、ベッドの脇においてあった鞄から小さな包を取り出した。手のひら大で、ライトグリーンの包装紙に包まれている。
「そこでお二人にお願いしたいんです。もし放課後お暇でしたら、喫茶店に寄って代わりにプレゼントを渡してきてもらえないでしょうか。多分この調子だと明日の朝も動けそうにないので」
それを聞いた柑奈が思案するように首をひねる。
「何時からお誕生日会始まるの?」
「五時半からの予定です」
「あー、ごめん。私その時間バイト入っちゃってる……」
確かに柑奈のシフトにばっちりかぶってるな。ということは俺の出番ってわけだ。
「俺なら大丈夫だけど。行こうか?」
「すみません、お願いします。あ、それと、実は亜美ちゃんも男の人を怖がるんです。一応女の子のふりをしてあげてくれますか?」
「オーケー。気をつけるよ」
頷いて、水野さんからプレセントの入った包みを受け取る。そんなに重くない。なんだろう。固いからハンカチとかではないな。
「同じ悩みを抱えていることもあって、亜美ちゃんのことは他人事だと思えないんです。まるで昔の自分を見ているようで……」
昔の自分、か。二人がこれまでにどんな時間を過ごしてきたのかはわからない。だけど水野さんがそういう風に考えてるってことは、二人が強い絆で結ばれてるってことなんだろう。
「だからせめて最後にプレゼントくらいはどうしてもあげたいんです。他にお願いできる人もいません。どうかお願いします、辺見くん」
重そうな体に鞭打って深々と頭を下げる。しゃべり続けたせいか少し息も荒い。
「気にしなくていいよ。やりたくないことはやらない主義だし」
それに水野さんの好感度を上げる千載一遇のチャンスでもある。これを逃す手はない。
「ありがとうございます。その、重ね重ねで厚かましいようですが、もしよかったら私の代わりにお店の手伝いもしていただけると助かります。私が行けないと店長さん一人になってしまうんですが、店長さんは最近腰を悪くしてしまっているんです。お金は出してもらえるかわかりませんけど、もし出なかったら私からきちんと払いますので」
「わかった。できたら手伝っとくよ。それじゃ、俺達は教室戻るから。お大事にね」
「はい。ありがとうございます」
力なく頭を下げる水野さんをおいて、俺と柑奈は早々に保健室を出た。
熱のせいで虚勢を張る気力がないっていうのもあると思うけど、今まであれだけぞんざいに扱っていた俺に対してここまで低姿勢になるんだもんな。このプレゼントが水野さんにとってどれだけ重要なのかが身にしみてわかるというものだ。
難しい仕事ではないけど、きちんと遂行しなくちゃな。
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